What's New

男体山で、幹部研修の登山(下)=同行レポート

 男体山はもともと「空海」に関係した僧侶(仏教徒)が登攀し、開山している。二荒山神社の社務所で、ルールとして500円/一人払うと、「お札」とともに概略登山図が手渡された。

『男体山は二荒山神社の御神体山であり、古来より、山岳信仰の御山として多くの崇拝を集める、関東第一の霊峯であります。山頂には当神社の奥宮がありますので、諸願をこめて御参拝ください』
と明記している。

 仏教徒の開山を伏せたうえ、さも神教の神官が開いた男体山のように見せかけている。歴史をごまかしたうえ、登山者から金をとっていると思えた。むろん、神社側の釈明など聞かず、登山道に入ったから、相手側の言い分などわからない。

 他のメンバーは安全登山のために、胸元にお札をぶら下げていた。「白紙も信心しだい」「鰯の頭も信心から」という諺もあるし、信仰は自由だ。私は神社に対する腹立たしさなど口にせず、自分だけのものとした。

 降りつづく雨で、紅葉を楽しめる男体山ではなかった。雨具のヤッケを身に着けると、一合目、二合目としだいに足が上がらず、体が重い。登攀には時間がかかる。ヤッケはやめた。

 登山は思いもかけない予想外のことが起きる。転倒、骨折、強風でテントが飛ばされる、凍傷など……。それをどう対処できるか。それが登山者の経験と力量でもある。

 わが5人パーティーは4合目あたりで、小さなアクシデントがあった。

 若山さんが高校時代に使ったきりの登山靴の裏底が剥がれてしまったのだ。かれは靴紐の劣化を想定し、紐2本だけは買ってきていた。
 それで結び、創意工夫しながら登る。都度、剥がれてしまう。理系の4人が、強度とか、補強とか、それぞれ知恵を出し合う。それでも、体重が靴底に集まる強度には対応できなかった。
『メンバーにアクシデントが生じれば、無理に山頂は狙わない』。それは山の鉄則である。8合目で「おでん昼食」を楽もう。全員が気持ちを切り替えた。

続きを読む...

男体山で、幹部研修の登山(上)=同行レポート

 10月24日(月)は快晴ならば、中禅寺湖の紅葉が見事な季節だ。

 東武電車が朝かすみの利根川を渡り、栃木県に入ると、車窓は斜雨で濡れはじめた。男体山(2484.2m)登山にむかう。山の天候がしだいに気になってきた。同山は急斜面が連続する、直登だけに、降雨だと、古(いにしえ)の修験者のように難行苦行となる。晴れの山と雨とでは、登山の軽重が雲泥の差となる。

 日光駅に近づいても、沿線の山々には雨雲が深く被さっている。

 肥田野さんはITコンサルタントで、私とは6年来の登山仲間だ。かれがIT企業「インフォ・ラウンジ」(横浜)を興してから5年経つ。この秋には増資をして、役員も整え、次なる飛躍への地固めをしていた。
「役員研修に、登山を入れました」と結束かためが目的の一つだと話す。他方で、肥田野さんは同社に「インフォ・ラウンジ山岳部」を設立していた。

 私は、同山岳部の顧問という大義の同行だった。葛飾住まいの私は浅草に近いし、早朝の出発は楽だった。他の4人のメンバーは横浜に住む。それぞれ自宅の最寄り駅から、浅草まで遠い。

 浅草駅から乗ったのは肥田野さんと、横浜・戸塚の小林さんだ。小林さんはITデザイナーで、9月から同社の役員に加わっている。自宅から戸塚駅までバイク、横須賀線、新橋駅から浅草まで銀座線と乗り継いできたという。


 車中では、肥田野さんと小林さんがiphoneで、日光の天気予報を調べる。午前中は雨、午後は曇り。このところ天気予報の精度は高くなり、よく当たる。それだけに、雨の登山の覚悟を決めた。
 同社の伊藤さんは高校時代に山岳部員だった。東工大に進んでから山は登っていないが、9月の奥穂高では健脚ぶりをみせている。彼はおなじく横浜住まい。最寄の路線の始発電車を利用しても、浅草駅6時20分発の快速には間に合わないので、東京駅から新幹線「やまびこ」を利用し、宇都宮から日光線に入ってくる。
 同列車には若山さんも加わっている。私立・桐朋高校の1年生の時に、学校行事で登山をした。山はそれ以来だという。

 かれらは理系のITコンサルタント。会社は平均年齢が31歳だという。日ごろフィットネス・クラブで汗を流しているから、体力はある。そこに60代作家の私が一人加わった、5人パーティーである。

 晩秋の日没は早くて4時40分だが、5人の体力からしても男体山の山頂に登っても、陽があるうちに降りられるだろう。

 日光駅に着いても細い雨が降る。登山中にカメラを濡らさないためにも、私は駅構内の売店で、透明の折り畳み傘(500円)を購入した。ひとり傘を持つ身となった。
湯元行きのバスが、いろは坂を登る。中禅寺湖でも、車窓の側に雲が流れる。紅葉の情景など楽しめなかった。

 二荒山神社前のバス停で、5人が集合した。

続きを読む...

かつしかPPクラブが本格な活動開始、区長に直撃インタビュー

 11年10月10日(祝)に、第56回葛飾区民文化祭の「葛飾川柳大会」が、同区・金町区民センター5階で開催された。主催は葛飾川柳連盟で、川柳の愛好者たち120人が参加した。
 「かつしかPPクラブ」の浦沢誠会長、郡山利行副会長が同日11時に会場に入り、取材活動を行った。

 
 同クラブは、2010年度かつしか区民大学「私が伝える葛飾」(市民記者養成の講座)の卒業生(一期生)たちが自主的に立ち上げたものである。区民記者たちはそれぞれ区民の目、住民の立場で、区内の情報を伝えていくことを目的としている。

 葛飾川柳大会では、浦沢さんがインタビューアー、郡山さんがカメラマンの役を担った。まずは来賓の青木克徳( あおき かつのり )区長にインタビューを申し込んだ。
「この川柳大会を含め、18の葛飾文化区民祭があります。私はそれらに基本的にすべて参加しています」と行政として、同祭にたいする意欲的な取り組みを語ってくれた。

                                 青木葛飾区長(撮影:郡山利行さん)

「区民大学は活動が盛んですね。OB会(PPクラブ)の活動にも、今後は期待していますよ。正面で、一緒に写真を撮りましょう」と、青木区長みずから記念写真を提案してくれたという。

 同大会の田中八洲志会長(葛飾・堀切在住)は、インタビューに応じて、「川柳は20歳から始めて、いま82歳まで続けています。今回の川柳の宿題(課題)の一つは『祭礼』ですが、葛飾区民文化祭からヒントを得ました」と話してくれた。

続きを読む...

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

続きを読む...

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

続きを読む...

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(上)

 日本ペンクラブの月例会では毎回、ミニ講演会が行われている。11年9月例会では、吉岡忍・専務理事よる題目『被災地を歩いて』の講演と、企画委員会である杉山晃造さんの「三陸被災地の写真」が展示された。
 吉岡さんは、3.11の東日本大震災が発生した直後から現地に入り、岩手、宮城、福島など数十ヶ所の市町村を歩いてきた。と同時に、多くのメディアを通してさまざまなレポートをしてきた。


「発生から半年経った今、20分でしゃべるのは難しい」と前置きした吉岡さんは、被災地と文学との関連について話をされた。

 今回の震災では、約1万5千人が亡くなり、五千人余りが行方不明となった。その内訳がなかなか表に出ず、詳しい調査が進んでいない。
「漁師さんとか、漁業関係者とかで亡くなった方は意外と少ないのです。たぶん1割いるか否ないか。犠牲者はどういう人だろうか。港の後ろ側で、飲み屋、ホテル、住宅がある、町場(市街地)の人たちが犠牲になっています」
 大地震の発生が昼間だったことから、働いている人は一斉に逃げている。あるいはあまり犠牲者が出ていない。他方で、組織的でないところに居る人、高齢者に多くの犠牲者が出ている。

続きを読む...

戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(4)

 木戸孝允は、吉田松陰の皇国の思想を受け継ぐ、長州藩の外務大臣役だった。
 日米通商条約など海外の各国との条約は、形だけでも天皇の勅許を必要とした。尊王思想の志士たちはそれを逆手にとり、天皇の勅許を阻止させる行動に出た。

 幕府は天皇の勅許が欲しい。徳川幕府の目がごく自然に、京都・御所の天皇に向かってきた。つまり、江戸中心だった政治が京都に移ってきた。長州・木戸孝允は功労者の一人である。

 ところが、会津と薩摩が仕掛けた8.18クーデターから、長州は7人の公家たちとともに朝廷から追い出だされてしまった。
 京都に残って政治工作をする木戸は池田屋事件で、新撰組に命を狙われた。禁門の変でも、かろうじて逃げ延びた。それでも京都に残った木戸は、ホームレスに身を扮して情報してきた。
 艱難辛苦の髄にいた木戸は、諸悪の根源は会津だと最も憎んでいた。これは事実だ。

『長州藩は過去からの憎しみで、会津藩士の死骸の片付けを翌年まで認めなかった』と福島在住ジャーナリストが堂々と書いている。
 白虎隊の武将姿ガイドなども、観光客相手に「少年たちの死骸を片付けさせてくれなかった」と説明する。
 会津城が落城したあと、新政府軍は本当に埋葬を許しなかったのか。

 修羅場をくぐってきた木戸は、知的判断力に富んだ人物だ。彼が会津を強く憎んで、仕返しを考えていたにしろ、「死体を片付けさせるな」という指図(法令)を出すとは思えない。

 その疑問を持ちながら会津を歩くほどに、埋葬禁止令の物証などない(2011年までに発見されていない)し、死体が野犬やカラスに食べられている史料も絵画も見当たらなかった。

 長州の主力の奇兵隊は、河井継之助の長岡藩に手こずり、会津城の攻撃に間に合っていない。そんな長州藩から「死体を片付けさせるな」という命令が下せる状況にはない。会津との降伏交渉は、土佐の板垣退助だった。板垣も、埋蔵禁止令など出していない。

 実際はどうだったのか。
「死骸が市街地とか、峠とか、範囲が広く、会津藩だけでも数千人の規模と膨大過ぎた。勝者の新政府軍から片付けはじめたのです。現在もその墓地があります」と研究者は語る。

続きを読む...

戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(3)

 第二次長州征伐の長州は一藩で、全国の諸藩を集めた幕府軍と戦った。そして勝利している。戊辰戦争の会津軍は、米沢、仙台、庄内、桑名藩など奥羽列藩同盟軍だったが、破れた。この違いは何だろうか。

 会津藩の身分制度はことのほか強く、戦いは武士で行うものだと決めていた。農兵は殆どいなかった。
 長州の場合は高杉晋作たちが農民など区別なく募集し、奇兵隊を作った。そして、藩の主導権を握った。かれらは西洋的な散兵戦術(狙撃隊)で訓練された部隊である。少人数で、大勢の徳川軍に襲いかかれたのだ。

 会津藩の家老たちは、保科正之の時代から二百年余に渡る世襲制度だった。それら家老たちがトップとなり、会津盆地の出入り口となる4ヶ所の峠をそれぞれに固めた。火縄銃と、槍と刀による、戦国時代からの戦法の踏襲だった。
 武士道、会津魂だけで戦う、時代遅れの戦法だった。

 戦略面でも、会津軍政局は4ヶ所の峠を固め過ぎていた。城下や城周りの防御があまりにも手薄で、老人と少年たちだけで、無防備に近い状態だった。

 薩摩、土佐、長州など、西の各藩を結集した新政府軍はライフル銃を使い、西洋式の訓練を受けている。会津の峠を打ち破り、一気に会津城下に流れ込む。会津藩はまったく防御の手立てがなく、逃げ惑う婦女子や少年たちが大勢犠牲になった。ここに会津の悲劇が生まれたのだ。

続きを読む...

第52回・元気100エッセイ教室=語尾には敏感になろう

 エッセイ作品は小説と違って、限られた文字数のなかで、人生を上手に描き出す必要があります。その枠組みのなかでも、書き手によって短い作品、長い作品、と得意分野が違ってきます。短距離ランナーと長距離ランナーと似た体質の違いです。


 読み手も同様です。短くてシャープな作品が好きとか、多少長くても、じっくり味わえるほうが良いとか、それぞれです。
 いずれにしても、エッセイはストーリーよりも、文章の深みと味わいがより重要になります。

 人間の行動や心の動きは、ほとんどが動詞で表現されます。日本語の場合は、動詞が語尾にきます。
 作者はすぐれた作品を書くためにも、ワンセンテンスごとに、語尾に敏感になる必要があります。ふだんの何気ない言動や感情でも、語尾の動詞を上手に変化させていけば、魅力的な文章になります。


【今講座のレクチャーは、語尾の工夫と留意点です】


 ①体言止めは味付けの無い文章になり、素材・情報だけの提供です。

    ・危険だ、と彼は背を丸めた姿勢。
      ⇒ 危険だ、と彼は背を丸めて身構えた。

   ・私は姉と妹の三人兄弟。
      ⇒ 私は姉と妹の三人兄弟で仲がよかった。

   ・話の途中で、彼は相づちばかり。
      ⇒ 話の途中で、彼はうなづきばかりで、心の中がわからない。

続きを読む...

戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(2)

 長州と会津の敵対関係は、関が原の戦いにさかのぼる。毛利(当時・広島)が徳川に敗れた。毛利には徳川家を嫌い、260年余り倒幕思想が脈々と流れていた。そこから考える人もいる。

 一般的には、会津の悲劇は松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたときからはじまったといわれている。
 当時の京都は尊皇攘夷の旋風が吹き荒れ、テロリストたちが横行していた。治安と御所の警備をつかさどる京都守護職(きょうとしゅごしょく)には、リスクが大きク、どの藩も敬遠していた。しかし、その権限は大阪にまで及び、強烈なものだった。


 会津藩の家老たちは反対した。しかし、藩主の容保は保科正之の家訓(かきん)を忠実に守り、引き受けた。(第一条・徳川家の危機には忠誠を尽くせ、という趣旨)。

 その実、松平容保は松平春嶽たちに口説かれて引き受けている。容保は小藩から会津藩に養子にきた人物だ。京都守護職は魅力的で、強い権限で自分を大きく見せたかったのかもしれない。保科正之の家訓は後付という見方もできる。

 長州と会津の憎しみの発端は、会津が薩摩とともに謀った「7卿の都落ち」で有名な8.18クーデターである。さらには新撰組による池田屋事件で、長州藩士たちは殺戮された。それが一つの発端となり、長州藩は武力をもって京での勢力奪回を図り、上京してきた。

 御所で会津軍と衝突した。五分五分の戦いだった。夕方、薩摩軍と芸州軍が駆けつけてきた。長州軍は発砲しながら敗走した。(蛤御門の変)
 長州藩は有能な人材を大勢亡くしたうえ、屈辱的な朝敵にさせられたのだ。

続きを読む...