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被災地の中学生が、カキ養殖体験=温湯駆除法(中)

 陸前高田市の米崎中学校のカキ養殖体験は、約10年前から、大和田晴男さんと学校関係者の手作りではじめられた。当初は大和田夫妻のみであった。

3.11大津波で被災した後は、地元カキ業者10軒が協同組合方式で、復興支援を仰ぎ、再起を図っている。こうした背景などが、共同で中学生体験学習に手を貸している。
 毎年、1年生は陸上のカキ作業場で、種ガキ(原板・松島から仕入れる)を間引き作業をしてから、沖合のイカダに吊るす。

 2年生は8月に温湯駆除を行う。同月24日朝9時から、中学2年生の男女生徒たち約20人が、4トン前後の漁船に乗船し、広田湾の沖合い2キロのカキ養殖イカダにまで出向いた。
 漁船の設備のホイスト(簡易クレーン)を使い、カキのロープ(1本の長さ約4.5メートル)を引き揚げる。そして、70-72度の湯に、10秒間ていどつける作業を行った。

 カキの漁師にとっては、これは夏だけに大変な作業だという。真夏の太陽の下、湯を沸かすボイラー熱とで長時間すると、脱水症状に陥る。
 しかし、カキの棲みやすい環境を作るための大切な作業で、この駆除をやらなければ、水揚げが3分の1から、4分の1になるという。

 温湯駆除とはどんな作業なのか。、言葉からは想像が難しい。大和田さんが船上で生徒たちに説明する。1年半経ったカキの生育環境から説明する。

「イカダからロープで吊した、カキの回りには、数々の(寄生する)虫が付きます。シュウリ貝(ムール貝)や、昆布はカキと同じ植物性プランクトンを餌としています。カキにすれば、思うようにプランクトンを食べられません。栄養分が奪われてしまう、天敵なのです」

 牡蠣ロープを引き揚げ、シュウリ貝と海藻や虫を死滅、取りのぞくために、引き揚げたロープごと70度の湯につける。これが温湯駆除(おんとうくじょ)法である。

 カキは死なないのだろうか。

 カキは強靭な生命力を持っている。真夏の太陽が照りつける磯でも、カキは牡蠣殻に守られて数日間生きていられる。だから、70度くらいの湯にも十二分に耐えられるという。その特性を利用した駆除法である。

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被災地の中学生が、カキ養殖体験=温湯駆除法(上)

 大津波から1年半経った。私は被災地のカキ養殖業の再起への道を取材して、ほぼ毎月のように三陸地方へ足を運んでいる。

 とくに陸前高田市、気仙沼大島の漁師からは、貴重な取材協力を得ている。取材の折りには、カキ養殖の漁船にも何度か乗せてもらっている。中学生が夏休みに入る直前だった。
「8月24日に、米崎中学の2年生が温湯駆除法(おんとうくじょほう)」のカキ養殖体験を行います。如何ですか」
大和田晴男さんから連絡を頂いた。

 第4週は毎月、読売カルチャーとか、目黒学園カルチャーの「小説講座」、「フォトエッセイ」の講座がある。そのうえ、こんかいは「かつしか区民大学」の講師もあった。
 変更するとなると、教室の確保とか、受講生の打診とか、かなり手間がかかる。余ほどのことでないとこれまでは変更しなかった。

 温湯駆除法は現地では何度も聞いてきた。カキ養殖の品質を決める重要な技法である。これまではただ聞くだけで、小説の上でうまく表現できるのかな、と思ってきた。
 この機会を逃すと、来年の夏になってしまう。小説といえども、温湯駆除は想像で描きにくい。やはり、行くべきだととっさに判断した。

「良い機会です、小説を書くうえで、温湯駆除は理解不足でしたから、実際に自分の目で見てみたかったんです。当日はお伺いできるようにします」
 そう約束した。あとのスケジュール調整は大変だった。講座の主催者や講生に頭を下げ、翌週にするなど後ろ倒しにしてもらった。
 結果として、とても良い取材ができた。

 同月24日朝9時、陸前高田市・米崎海岸に出向いた。

 校長、教師の引率で男女生徒たち20人余りがやってきた。海岸に整列した生徒を前にし、大和田さんが温湯駆除の概略説明と、乗船の注意事項を述べる。
 岩手朝日テレビなど地元TV局や、新聞記者たちも大勢いるので、生徒たちは乗船前からすでにマイクを向けられて緊張顔だった。

 生徒たちは漁師の手を借りて、3隻のカキ漁船に乗り込んだ。約2キロ沖のイカダに向かう。

 大和田さんの話によると、大津波は陸前高田市の市街地を壊滅し、漁師からは漁具も、漁船も、イカダも全部奪った。全部がぜんぶ悪いことではない、と前置きしてから、
「防波堤が崩れたから、波打際が多くなった。波が押し寄せれば、海中に酸素が混ざります。海底のヘドロが陸に上がったから、深さも出てきた。海水(海流)がよく回るし、植物性プランクトンが多く、海の状態はカキにとってはむしろ良くなったんです」
 と出航したばかりの波止場とか、堤防の壊れた海岸とかをさす。

 大津波に襲われても、海洋に対して客観視できる。カキの立場で語れる。さすがに、海の男・漁師だな、と感心させられた。心にカキを愛しているのだ。

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第42回地上文学賞『千年杉』が日本ペンクラブ・電子文藝館に転載

 私がはじめて文学賞を受賞したのが、1995(平成7)年1月の第42回地上文学賞
『千年杉』です。受賞作が月刊誌『地上』に掲載されました。その作品を日本ペンクラブの電子文藝館に転載しました。

 同誌に掲載された、4人の選者の選評(千年杉のみ)をここに掲載します。

井出孫六さん

 留学経験を持つエリート商社マンが、混血の孤児たちを連れて過疎の村に行き、風倒木を使って孤児たちの空間を建設しようと苦節する物語。
 村人たちの陰湿な妨害に悩まされつつも、千年杉が倒壊し、山津波が呑まれていく日、風倒木の家だけが難を逃れたのを知って村人たちは主人公を前に土下座して謝る。前半の展開の不十分さにもかかわらず、後段で畳みこんでいく神話的手法の寓意性が他の作品にぬきんでて、受賞をもぎとったといってよい。 


伊藤桂一さん

 受賞作「千年杉」は、一般に農民文学のテーマとなる、過疎、嫁不足、後継者問題、出稼ぎ、減反、風水害等と全く違って、東南アジア難民の孤児数名を連れて、田園生活の中でこれら孤児を育成しようとする、主人公夫婦の健闘ぶりを描いている。
 後味のすがすがしさは、主人公の、いかなる苦難にも耐えてがんばってゆく生き方の姿勢と、その志の故だろう。こうした、自分たちの欲得を離れて、社会のために尽くそうとする、主人公の心意気を描いた作品は、この賞ではめずらしい。細部においては、気になる点もないではないが、精一杯力をこめて、ドラマチックに仕上げてあって、読んでいておもしろかった。


長部日出雄さん

 千年杉は、すでにテレビドラマ化できそうな現代性があって、
1.若者に支持されること
2.とりわけ若い女性を惹きつけられる魅力があること
3.世界に通用すること
 以上の三条件を、かなり満たしていると思う。
 日本とってこれから避けられない国際化の問題を、山村に持ちこみ、しかも歴史と環境の象徴である千年杉と結び付けて、未来への方向性をさぐろうとした着想がよく、冒頭からの伏線を生かした劇の組み立てもうまい。
 こういう作品に目をつける野心的なプロデューサーはいないものだろうか。


平岩弓枝さん

 受賞作『千年杉』は、なによりも登場人物の性格や行動を説明でなく、事件の進行に従って、無理なく読者に理解させようとしていることで、全体がすんなりとまとまっているのが読みやすかった。
 ただ、この作品の最大の欠点は、この主人公が何故、これほどの犠牲を払っても、外国人孤児を育てることに熱中したのか、その動機について書かれていない点である。
 主人公は高校時代から留学経験があり、堪能な語学力を生かして貿易会社に勤務していたというので、それだけの人生を捨てて、孤児の施設づくりに取り組もうと決心したきっかけはなんだだったかをしっかり書いてあると、この作品に説得性が出て来るし、魅力が生まれたと思う。
 出来れば、この作品が活字になるとき、その部分を書き足されては如何なものか。おそらく、作者は動機について考えられて居られたに違いなく、それを書きそこなったのではないかと思う故である。

  【作者・注】平岩さんのご指摘が、編集部の加筆許可となりました。施設づくりのボランティア精神が生まれた背景を加えたうえで、作品が世に出ました。


※「受賞の言葉」が同誌に掲載されていましたので、一部抜粋をしてみました。
 
 2年余りの闘病生活。その病床で小説を書きはじめてから苦節10年を目標にやってきました。が、さしたる成果はなし。さらに鳴かず飛ばずだった苦節に20年の区切りがきた今年、地上文学賞の受賞でした。じつに嬉しく思っています。
 千年杉を書くにあたって、わが国の国際化が進めば進むほど、孤児の問題が拡大すると予測し、その一方で農林業家がかかえる村おこしの問題とからませてみました。

掲載作品はこちら、日本ペンクラブ・電子文藝館・『千年杉』をクリックしてください。

シニア演芸団『演多亭』で、大いに笑い、観せる=東京・文京

 NPO法人シニア大樂(田中嘉文理事長)が創立10年目に入った。現在、講師登録が513人に及ぶ。その中から、演技、落語などエンターテイメントに長けた、プロ、セミプロたちがシニア演芸団を結成し、『演多亭』として毎年公演を行っている。

 2012年公演は7月17日(火)に、東京・文京シビックホール(小ホール)で、開催された。主催・同大樂、協賛・音体操すこや会、後援・文京区である。
 客席371席がほぼ満員になり、中高年層の観客を大いに楽しませた。
 

 公演のトップバッターは、「KAKO&KAZOO」(麻里村れい、澤本博幸、松田健、中嶋卓也)のフォークソングである。

(1) パフ(ピーター・ポール&マリー代表曲)

(2) 今日も夢見る(麻里村れいヒット曲

(3) 人生の扉

(4) パワー

(5) 風に吹かれて

 
 中高年層の観客にはなじみ深い曲から入った。それだけに観客の心を一気に舞台に引き付けていた。


 奥村アッシ―(篤史)のお得意芸「どじょうすくい」である。

 舞台に出てきただけで、笑いを誘う。立ち振る舞い、一挙手一投足には神経を張り巡らしているのだろうが、観る側はただ爆笑のみである。

 元大手企業の社員だった、と紹介があった。現役時代はきっと接待の余興も得意だったのだろう。

 川上千里の「バルーンアート」で、ハーモニカを吹きながら、両手でゴム風船の芸を披露する。ミッキーなど多種多様なものかぎできてくる。

 ちなみに、現役の薬剤師だという。

 舞台が本業か、調剤が本業か、観ている範囲内ではどちらにも軍配が上がる。

 完成したバルーンは芸術性が高い。その都度、観客にさしむけていた。

 吉川幹夫の「面踊り」も、これまたユーモラスである。

 かつて農繁期には、こんな農夫が朝から晩まで畑に出て、懸命に働いていたのだろう。それが伝統芸能となり、現在に伝わっているのだ。

 厳しい労働すらも、愉快な踊りにしてみせる。日本人の血はもともと明るいのかもしれない。

 

 奥村アッシ―(篤史)、川上千里、吉川幹夫の三人トリオによる、「南京玉すだれ」である。

 3人は別々の流派である。打ち合わせも、予行も、ほとんどなく、ぶっつけ本番だから、なんとも呼吸が合っていない。失敗続きだから、これまた観客が喜んでしまう。

 スダレが開かないとなると、「待っててやるから、取り換えな」と観客から声がかかる。
 「お言葉に甘えまして」と玉すだれを変える。

 東京スカイツリーはなぜか見事に決まっていた。2012年の開業したツリーだから、芸人たちはより真剣になったのだろう。

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第5回・文学仲間たちと『谷根千(やねせん)』を歴史散策、そして居酒屋 

 日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志がごく自然に、3カ月に一度は集まり、歴史散策している。第1回目は昭和の町・葛飾・立石だった。そこで意気投合し、次なるは小江戸の川越、浅草・隅田川、深川・門仲と歴史的な町を散策してきた。

 こんかいが何回目か忘れていると、新津きよみさん(推理小説作家)がメールで5回目です、と教えてくれた。7人のメンバーが同一日に集まれる日取りとなると、ピンポイントの1日のみで7月11日(水)だった。集合場所は、日暮里駅と決めた。井出さん(PEN事務次長)は急に担当委員会が入り、不参加となった。総勢6人である。

 谷根千(やねせん)とは谷中、根岸、千駄木の地名の総称である。明治時代から文豪たちが好んで住み、それら情景を作品に取り入れてきた。文学散策のコースとして人気がある。
 清原さん(会報委員長、文芸評論家、歴史家)がコースを選定する。


 日暮里駅前から、整備された石畳の御前坂を登っていく。セミが鳴く。女性陣の山名美和子さん(歴史小説家)と新津さんは日傘を手放せない、つよい夏日差しだった。と同時に、水分・アイスクリーム補給である。

 通りの右手の経王寺(きょうおうじ)は、1868(慶応4)年の上野戦争の時、彰義隊を匿ったために、政府軍の攻撃を受けている。
 現在も、砲弾を受けた珠の傷が寺門に残っていた。

 谷中の商店街は、古い建物のデザインを残しながら、観光的にも整備されている。物珍しいものが多い。「錻力屋」(ブリキや?)という店構え、鉄製の灯籠、薬膳カレー、とか目を凝らせば、ひと昔前の日常生活の店が並んでいる。

 赤穂浪士ゆかりの寺、谷中七福神の寺なども、足を運んでいく。


 平成4年に『まちがど賞・台東区』を受賞した、観音寺の築地塀.は見応えがあった。屋根瓦を葺いており、黒色を基調とした、横縞模様が重みを感じさせてくれる。塀の長さは約50メートルくらいだった。

 この辺りには土壁でなく、木製の格子造りで屋根を葺いている、真新しい塀があった。新旧の町の変化が感じられた。

 路地で横たわる猫が多い町である。猫を素材とした、置物販売店もある。

 全生庵墓地には、剣豪で、なおかつ江戸開城の功労者だった「山岡鉄舟」の墓がある。もう一人、落語中興の祖として有名でな、初代三遊亭円朝の墓もある。
 円朝の囃子が新聞で、言文一致体(口語体)で載ったことから、それ以降の文学に大きな影響を与えた人物である。

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東電の社長室に放射能(死の灰)汚染土を送ろう=小出裕章さん

 私の友人から7月7日(土)「商社9条の会」の講演に誘われた。場所は東京・一ツ橋の日本教育会館で、講師は小出裕章さん(京都大学・原子炉実験所助教)、タイトルは「隠された原発の真実」である。雨の日だったが、フクシマ原発の本当のことを知りたい、という参加者たちで、約700人の会場が満席だった。

「原子力には平和利用もない。すべてが軍事にからむ」
 そう主張する小出さんは大学を選ぶとき、原子力がきっと人類に役立つ、という気持ちで原子力工学科に進んだという。
「ですから、ある時期まで、私は加担者のひとりでした」
 小出さんは原子力の平和利用に懐疑的になった。いまでは国家にたてつく、数少ない原子力研究者である。

 100万キロの原子力発電所は一日ごとに、広島・長崎3-4発分に相当する、核分裂反応を行わせる機械である。
「あらゆる機械には絶対安全はない。東電はウソ、だまし、脅しで、国民を欺いてきた。これらはフクシマ原発事故で露呈した」
 1966年からわが国は原発を作り続けてきた。法律では、大都会に原発を作れない。(非居住区、低人口地帯)、過疎化の地方が、金と政治で原子力を掴まされてきた。この46年間で、わが国は広島原爆の120万発分の死の灰(200種類の放射能物質)を作ってきた。

 人間には放射能(死の灰)を無毒化する力はない。高レベル放射能を100万年にわたり隔離することができるのだろうか。高レベルの廃棄物は隔離処分しかない。あるときは南極の厚い氷下に沈める、深海に埋める、という案もあったけれど、国際条約で禁止された。いまは深い岩盤の下に埋める、という検討がなされている。

 日本は地震大国である。地震の震源地はさらなる数十キロ下であり、地震が発生すれば地層をバリバリ割ってしまう。100万年の間には、きっと地震で放射能が流れ出す。
「原発はトイレのないマンションと同じで、作ってはいけないものだった」
 国家は原発を推進し、マスコミはそれを宣伝する構造ができあがった。

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カメラマンたちと、ゆりの花と、一瞬の情景=ところざわの「ゆり園」

 埼玉・所沢市の西武球場前駅から徒歩3分のところに、ところざわの「ゆり園」がある。50種45万本のゆりが丘陵に咲く。

 「ゆり」の花を狙う、大勢のカメラマンが押しかけている。



 ゆりの花だけを撮影しても、私には使い勝手がない。そこで、「カメラマン」にテーマを絞って園内を歩いてみた。


 カメラを構えて被写体に向かうと、気持ちが集中する。人間は真剣なまなざしの時が最も輝くものだ。


 カメラマンも一眼レフを持つと、スタイルや恰好にこだわりだす。ある意味で、フィッシング(魚釣り)と似ている。

 写真は構図が最も重要だ。デジカメでも十二分に威力を発揮する。

 私は量販店で「雨の日セール」で購入した9800円のデジカメで、ある大きな写真展に入賞した。そして、作品が東京駅に数日間、展示された。

 それを話すと驚かれるが、現在のデジカメの機能は素晴らしいものがある。

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【図書紹介】 地図「富士山・村山古道を歩く」改訂版=海抜0mから富士山

 最近は若者の間で、登山人気が高まっている。山ガールという言葉も生まれ、登山スタイルもファッショナブルになり、カップル登山も多い。最大の人気は富士山と高尾山だろう。

 首都圏から手軽に登れる高尾山は、いつの時代も多くの人に愛されている。富士山はむろん有史以来、日本人に最も親しまれてきた。江戸時代には「富士講」ブームも起きている。ところが、戦後の登山ブームを境に、
「富士山は見る山で、登る山ではない」
 と登山愛好者たちから嫌われた。

 その理由は登山道沿いの山小屋から排出される、ゴミや糞尿の未処理など劣悪な環境が影響していた。
 世界文化遺産を目指す富士山は、ここにきて急激に環境改善が進んだ。と同時に回帰現象ともいうべきか、いまや富士山の登山ブームになっている。
 富士五合目までバスで行き、そこから山頂を目指す。多くはご来光目的である。

 こうした一般登山には満足せず、東海道の田子の浦(海抜0メートル)から富士山頂(3775m)を目指す、富士古道ルートをもとめる登山者も増えてきている。

 村山古道は富士修験者たちが通った、主要な登山道だった。つまり、仏教徒によって切り拓かれた道である。明治政府の廃仏毀釈による仏教の弾圧、その後の富士山の新道開発から、村山ルートは廃れてしまった。

 最近になって、村山集落の有志により、古道の掘り起こしが行われた。ただ、道の整備まで手が及んだわけではない。地図・磁石が使いこなせないと登れないルートだ。

 田子の浦から古道の登山口まで約1日かかる。市街地を通り抜けるには、ガイドブックがなければ、道に迷うし、難儀する。村山古道のガイド付きとなると、割高になる。
 それを解決したのが、2009年7月に初版された畠堀操八著の地図『富士山・村山古道を歩く』である。
 2012年4月に同改訂版(頒価1000円)が発行された。

 同地図は海岸から山頂まで、国土地理院の2万五千分の1を複製し、細長い一枚にしている。持ち運びが手軽だ。迷いやすい都市部は写真とイラストが入っている。
「ここを左に曲がる」「斜め向こうに渡る」「道しるべ」と写真キャプション(説明)付きだから、わかりやすい。

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かつしか80周年・菖蒲まつり=掘切菖蒲園


 2012年は葛飾区の区政80周年である。
 
 区の花は花菖蒲だけに、毎年「菖蒲まつり」が開催されている。

 期間は6月1日から6月20日(水)まで。

 場所は水元公園と掘切菖蒲園である。
 
 6月12日、掘切菖蒲園に出向いてみた。


 京成電車の掘切菖蒲園駅は、上野から各駅停車で約15分である。

 青砥駅からは2つ目の駅である。

 人出が多い土、日曜日でも、急行などは停車しない。

 最近にしては珍しい、昔ながらの赤い車両が走っていた。

 掘切菖蒲園駅の構内では、写真展が開催されている。

 写真の腕前に自信があれば、応募して入選すれば、来年は張り出されるだろう。


  水元公園の花菖蒲は、約100種で、1万4000株である。
  都内最高の広い敷地の都立公園だけに、のびのびした開放に満ちた観賞が楽しめる。

  堀切菖蒲園は、約200種で、約6000株である。
  狭い敷地でありながら、品種は多く、手入れがよいので、芸術的な美観が楽しめる。

 花菖蒲の魅力は、花魁(おいらん)の髪飾りに似た、花弁の美しさだろう。


 梅雨の季節には、華やかな花菖蒲が満開だ。
 一方で、地味な黒松が日本庭園の渋さを作り出している。

 いまはだれも黒松に興味の目を向けていない。

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東京の夏祭り・鳥越神社=巨大な千貫神輿を男女して笑顔で担ぐ

鳥越神社(とりごえじんじゃ)の大祭の千貫神輿は、都内最大級を誇っている。
2012年は6月9日、10日(日)に開催された。

撮影日は6月10日


 千貫神輿の台輪は幅4尺3寸で、同神社が元祖である。

 伝統ある神社の例大祭で、粋な女性も巨大な神輿を担ぐ。

 鳥越神社の最寄りの駅は浅草橋(JRと都営地下鉄)である。

 神社の周辺には蔵前通りなど幹線道路が走っている。

 この日ばかりは神輿が優先である。



 日曜日の朝神社を出た神輿は、各町内を回り、担ぎ手たちに次々と橋渡しされます。

 思いのほか、女性の担ぎ手が多い。

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