東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景(100 下町の桜)

 中川は桜土手で有名だった。花見といえば、中川の桜。隅田川の桜には比べても、見劣りがしないものだった。年一度の、花見の宴はどこまでもつづいていた。下町のひとは総出で酒を飲み、歌い、踊り、料理をつまみ、子どもらは嬉々として走り回っていた。

 100年を一区切りとみなせば、数十年に一度は中川の水は暴れていた。曲がりくねった堤防はどこかで破られた。被害は出るが、総出で復旧させていた。
自然災害は人間の力や能力を超えている。水害に慄くよりも、春爛漫の桜を楽しむ。葉桜並木は夏も涼しい。それが先人の英知だった。

 世のなかには利巧ぶるひとがいる。「中川は氾濫の歴史だ。水害から人命を守る、治水対策は不可欠だ」とかれらは正義の声として叫んだ。
 人命が最優先。このことばは桜よりも美しくひびく。下町の住民は反対できなかった。

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「東京下町の情緒100景」は、あと1景? 次なる企画は進行中

「東京下町の情緒100景」は、残すところ1景となった。『有終の美を飾る』という意識を持つと、妙に緊張するものだ。野球でいえば、9回裏の最後の1人。そんなところだろう。
 初めて「穂高健一ワールド」を見るひとは、ラストの1景から入るわけだから、いい加減なものはできない。妙に迷ってしまう。

 99景も、その実迷っていた。下町の正月風景を狙って待っていた。狙い通りにはまった。100景目となると、下町=昭和の名残り、このあたりだろう。それに狙いを定め、カメラをもって出かけてみたい。

 かえりみると、100景のスタートは、下町には残しておきたい風景がある、と軽い気持ちではじめた。写真を先行させて、それに短い文章を添えた。柴又、浅草など、華やかな下町は避けてきた。むしろ、住まいに近い葛飾・立石から青砥、新小岩の周辺にほぼ絞ってきた。となると、素朴な風景ばかり。

 「物書き」だから、極力文体を変えた。子どもの視点で書いたり、エッセイ風にしてみたり、ロジック調にしてみたり、文章に変化をもたせた。つまり、『味のある写真、文章』を目指し、単調なブログ記事として埋没しないように努めてきた。

 次は、小説家として、「TOKYO美人と、東京100ストーリー」(仮題)で、短編小説を展開していく。駅、川、建物、坂道、社寺、公園、レストランなど諸々100ヶ所を背景とする。こんどは有名、あるいは割りに知られた東京だ。

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東京下町の情緒100景(099 正月)

 正月風景は変わった。街なかから、伝統芸能の獅子舞などは消えてしまった。和服姿の新年挨拶回りもほとんど見かけない。土手や原っぱや空き地では、子どもたちの凧揚げ、独楽、羽根突きの光景もない。
 小家族、核家族から、家庭内での餅つきがなくなった。


 正月の光景がすっかり消えたわけではない。除夜の鐘はいまなお深夜の空に響き渡る。年が明けると、下町の神社の境内から、にぎやかな声が聞こえる。初詣の境内で、正月恒例の餅つき大会が行われているのだ。

 終戦直後から、約60年間つづいてきた。途切れたことはない。町内の長老すらも幼いころ、境内の餅つきが楽しみだった、大人から杵の持ち方を教わった、と語る。歳月の流れても、境内の餅つき大会はつづく。

 薪のストーブからの煙がたなびく。二段の蒸篭(せいろ)からは湯気が立ちのぼる。もち米の匂いが食欲を刺激する。

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東京下町の情緒100景(098 陽射しの散歩道)

 S字型の護岸には、治水対策で幅広の散策路ができた。下町の情景に似合わず近代的な雰囲気だ。広角の視界がある。ただ総延長は一キロにも満たない。

 十数年の歳月がたつと、違和感も消え、慣れ親しんだ情景になってきた。

 両岸に架かる橋は、下町の裏路地に通じる。人々は町工場や店舗から出かけてきて、日差しを浴びる。幅広い散策道だから、開放感が楽しめる。

 秋になると、水際に一列で並ぶ銀木犀から甘い香りが漂う。『牛乳のような、いい香りね』という会話が聞こえてくる。小粒の花が咲く一枝を、鼻先に引き寄せてみた。香りが全身に心地よく回った。

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東京下町の情緒100景(097 生存競争)

 数年前まで、鳩が橋の欄干に群れていた。街路灯は白いペンキを斑(まだら)に塗ったかのように糞で汚れていた。朝夕にはきまってパン屑とか、ポップコーンとか、鳩に餌をやる人がいた。大半は老人だった。一人身の孤独な生活。その淋しさを紛らわしていたのだろう。

 鳩害で困っている住民が、『ハトに餌を与えないでください』と橋の袂に、たて看板を掲げた。鳩にえさをやる老人が消え、鳩が減少した。

 カラスが急に多くなった。カラスに餌をやるひとはいない。それでも、カラスは街なかの生ごみを漁っているのか、凄まじい繁殖だった。やがて、都知事の号令で、カラスの駆除が始まった。黒い集団はかなり減ってきた。

 川面をのぞくと、大形の鯉がゆうぜんと泳ぐ。30~40匹くらいだろう。朝方、餌をやる人が現れた。欄干を覗き込むだけで、人の気配を察し、鯉が集まるようになった。

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東京下町の情緒100景(096 墓地)

 物事には終焉があるし、寿命がある。草木は枯れていく。空飛ぶ鳥すら地に降りて死す。人間も例外ではなく、死がやってくる。

 人の住むところには墓地が必要になる。住みなれた場所に墓を求める傾向がある。

 日本人の場合は、信仰心の強い人、無信仰の人、それら宗教に関係なく、死後の居場所は墓地になる。

 外国には、遺体や遺骨にこだわらない民族もいる。日本人は遺骨を大切にするし、拘泥する。

 下町には空地がほとんどない。墓地はどのようにして作るのか。

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東京下町の情緒100景(095 道しるべ)

 下町の一角には、苔むした古い「道しるべ」がある。史跡の碑によれば、1755(宝暦5)年に建てられたもの。いまから250年前だ。出羽三山の信者(講中)が無事に参拝できた記念に、『旅人に役立てよう』と作ったものだという。


 交通機関のない時代に、徒歩ではるか遠く、山形県の出羽三山(山月山、湯殿山、羽黒山)まで出向いていたのは驚異的だ。

 昔の人は健脚だったにしろ、旅先で病気とか、不慮の事故とか、追剥(おいはぎ:強奪、略奪)とかに遭う確率が高い。無事に帰りついた喜びは納得できるものがある。

 現在ならば、葛飾の一角に出羽三山の方角を示されても、まったく役立たない。京成電車で上野駅に出て、新幹線で山形駅に向かうだけだ。

 江戸時代は、この「道しるべ」が信者に、千葉方面の成田山と、東北方面の出羽三山と、岐路だと教えてくれたのだ。役立つほど、旅人の往来があったと推量できる。

 松尾芭蕉の『奥の細道』を学んだ学生時代、芭蕉が俳人として特別な人間だから、奥州の旅ができたのだと、勝手に信じ込んでいた。

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東京下町の情緒100景(094 あわもちや)

 地蔵尊は江戸時代の1686(貞享2)年に、中川沿いに建造されたものだ。川辺の「あわもちや」の横にあったという。
「あわもちや」とはどんな店だったのか? おおかた粟で餅を作って売る店だったと思われる。その店はいつの時代まであったのか。どんな味だったのか。明瞭な資料は見当たらない。

 地蔵尊のみが遠い昔を知っている。

 中川には川舟が係留する船着場があった。上流・下流からの荷舟が接岸すると、荷揚げの場はたちまち活気づく。上半身裸の褌(ふんどし)姿の人足たちが集まる。
「ドンと行こうぜ、どんと。ほいさ、ほいさ、ほいさ」
 力自慢の人足たちが威勢よく米俵を担ぎあげる。
 半纏をきた馬子(まご)が汗を流しながら、荷馬車のうえで受けとる。
「えっさこら、えっさこら」
 別の人足が塩の袋を荷揚げする。
 こんどは雑貨だ。袋は大きく、思いのほか重いようだ。

 ひと段落が着いたようだ。馬が嘶(いなな)く。

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東京下町の情緒100景(093 風見鶏)

 屋根の上に立つ「ぼく」は風向計の風見鶏なんだ。ある人は「ぼく」のことを魔除けだという。別の人は、いつも前向きで雄雄しい姿だと誉めてくれる。

 なかには口の悪いのがいる。「ぼく」のことを優柔不断だ、下町の日和見主義だと陰口を叩くんだ。決して、そんな弱い鶏じゃないぞ。

 春の嵐が砂塵を巻き上げても、「ぼく」は強い風に立ち向かっている。真夏は暑い南風だ。直射日光で、屋根が焼けても、汗だくでじっと耐えている。それは半端な我慢じゃない。優柔不断な鶏じゃないぞ。
 秋の台風はもう死に物狂いで、暴風雨との闘いだ。台風が過ぎた後の夜とか、秋の十五夜などはとてもいい情緒の月景色になるなんだ。
 冬は冷たい木枯らしだ。それでも、「ぼく」はぜったい北風から顔をそらさない。日和見主義じゃないと、胸を張った姿をみせているんだ。

 晴れた穏やかな日は、東京下町の遠景が楽しめるから、紹介しておくね。

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東京下町の情緒100景(092 繁華街)

 下町といえば、路地裏が似合う。住民は古い生活スタイルを持っている。

 住民が時おりJR駅前にむかう。ある人は表通りからバスに乗ったり、ある者は狭い生活路の奥から自転車のペダルを漕いだり、近くの住民は徒歩で総武線のガード下をくぐったりして、駅前に出る。そこには下町の住民好みの、ふだん着でいける繁華街があった。

 戦後の闇市から発展した区画のない、雑然とした場所だ。街全体に泥臭い面影が残る。酔客が目立つ横丁。ひょろひょろ高い雑居ビル群と多段に並ぶ看板。昔ながらのアーケード商店街。そのなかに中小のオフィスが点在する。

 路地裏に回れば、呼び込みの声。いかがわしいネオンの遊興の店が並ぶ。不統一の混然とした繁華街だ。

 昭和半ばまでは映画館、パチンコ店、飲食、遊興の歓楽地として、ずいぶん栄えたものだ。東京都民の憩いの場ともいわれた。国電を乗り継いで、遠くから遊びにくる人出もあった。

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