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炎天下でも、意欲がいっぱいの課外活動=かつしか区民大学

 9月18日(日)は陽射しが強く、気温が30度を超す、真夏日に戻った。帽子を被って歩いているだけでも、汗が噴きだす。
 かつしか区民大学・主催は葛飾教育委員会の「写真と文章で伝えるかつしか」第6回の課外活動が朝10時から夕方5時まで実施された。炎天下で四つ木と亀有に出向き、意欲的な取材活動が行われた。

同講座は区民がみずから地元情報の提供ができる、ミニ記者の養成講座である。講師は穂高健一、受講生は20人。年間8回にわたる講座を通して、
  ①取材の仕方、
  ②報道写真の撮り方
  ③記事の書き方
 この3点を学ぶ実践講座である。

 昨年の卒業生は「かつしかPPクラブ」を立ち上げ、区内で活発な活動を展開している。

 通常は夜7時から9時まで2時間。提出作品の講評を通した指導を行っている。うち2回は1日を通した課外活動で、写真取材・インタビューを実践している。前回は6月に、堀切菖蒲園・しょうぶ祭りで行われた。


 今回の参加者は17人。午前中はアポイントのある取材活動である。
 シャッター街となった葛飾・四つ木で、町の再生・活性化を目指す、ユニークな取り組みを行う「ミルクショップワタナベ」の社長・渡辺浩二さん(42)への取材である。

 葛飾・四つ木の往年は荒川の海運の荷揚げ場で、千葉方面に物資を運ぶ基地として栄えていた。奥戸街道の両側には、多種多様な商店が延々と並んでいた。複数の映画館も、病院も、娯楽施設も、飲食店も多くあり、同区内では最も活気ある商店街だった。

 昭和40年代からトラックで物資が運ばれる陸路の時代になると、四つ木は急に衰退した。現在はその7割が店舗営業を停止している。まさにシャツター街の町だともいえる。
 同ショップの渡辺社長から、森永牛乳の配達屋さんから脱皮した、その経緯の説明がなされた。「老人の孤独死に気づかず、牛乳を配達し続けていた。死を知ったときはショックでした。何で、気づいてあげられなかったのか、と」、コミュニティーに取り組んだ動機を話す。

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作家の素顔、日本ペンクラブ・9月例会で出会った人たち=東京會舘

 日本ペンクラブ9月例会のミニ・講演会で、会員を前に、タイトル『被災地を歩いて』を語る、吉岡忍さん(専務理事)。このHPでも近日中に、講演録を紹介したい。

 杉山晃造さん(左)は企画事業委員。東日本大震災が発生した後、被災地に入った。取材写真がパネルで同会場に展示された。
 吉岡忍さんがインタビューアーになって、一枚ずつ、写真の説明を求めた。

 下重暁子副会長の質問に答えて、杉山さんは撮影時の現地状況などを語る。


         

 高橋千劒破さん(常務理事、元人物往来社・編集局長)は、つねに総合司会役で、PENの顔の一人である。
 穂高は10月度にある講演会で、「会津の悲劇」について話す予定。高橋さんから今、戊辰戦争の会津関係の知識を授かっている。先週も故早乙女貢邸で約2時間半も単独レクチャを受けた。

 パーティー会場でも、「会津の資料を、明日、FAXで送ってあげるよ」とさらなる親切を頂いた。


 関東大震災の被災地の惨事、原発に対する、PEN・文学者はどう向かい合うべきか。
 会員はみんな真剣に語り、聞き入る。

             

 山名美和子さんは会報委員で、すっかりPENの名カメラマンになられた。歴史作家の彼女には、早大後の教師歴を質問してみた。
 小、中学、高校、と3つの教師を経験したと話す。「そんなことができるの」というと、その仕組みについて語くれた。


 東京會舘はカレーライスが名物である。
 相澤与剛さん(広報委員長・時事通信出版社の元常務)は、いつも両手がユニークな表情を作ってくれる。被写体としては、とても価値ある人だ。
「お願い、頂戴、カレーライスを」こんなキャプションを考えてみました。


       

 清原康正さん(会報委員長・文藝評論家)は、同志社大出身である。
「再来年のNHK大河ドラマは新島八重(新島襄の妻)で、同志社も脚光を浴びますね」
 私が話しを向けると、満更でもない顔だった。そして、・会津落城の折、八重が銃で戦った話になっていた。
 口の悪い作家が、脇から、「ドラマはきっとヒットしないよ。新島襄じゃ」と水を差していた。

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歴史ファンは必見、故早乙女貢さんの邸宅見学と文化サロン=鎌倉

 読書の秋である。木々が色づく紅葉が近づいてきた。初秋から晩秋にむかう鎌倉は魅力がいっぱいである。

 故・早乙女貢さんは歴史・時代小説の大作家だった。(2008年12月23日に没)。その邸宅では、ほぼ毎月1回、「鎌倉文化サロン講演会」が開催されている。2010年7月からスタートし、約1年間で17回開催されてきた。主催は「士魂の会」(佐藤会長・8人のメンバー)で、定員は30人(事前申し込み制)。なんと無料である。

 早乙女貢さんは直木賞作家で、文士の町鎌倉を愛し、執筆に励んだ。歴史小説の大作『会津士魂』(全21巻)で、吉川英治文学賞を受賞している。

                            生前の早乙女貢さん
                             (撮影:鈴木康之さん、2008年2月15日)                                           

 早乙女文学とは何か。薩長が作った歴史観に異議を唱え、見直しを説き、それらを様々な作品群に描き込んでいる。

 講演会のメイン講師は、生前の早乙女さんと親交の深かった、高橋千劒破さん(『歴史読本』編集長、編集局長を経て、日本ペンクラブ常務理事)と清原康正さん(文藝評論家・同理事)である。

 

 敗れた会津から歴史を見ると、江戸時代の平和国家(一度も国内外で戦争をしない)が、明治以降は軍事国家に変えられてしまった。(西南戦争の後は、10年毎に外国と戦争を引き起こす、戦場はすべて海外だった)。

 260年間も戦いのなかった徳川幕府を倒した、薩長の権力者たちは、京都御所の明治天皇を遷都もせず、江戸城に移して閉じ込め、神化した。その上で、何ごとも「天皇のお言葉だ」と捏造し、それを利用して強欲、私欲に走った。その一つが、政治家と軍部がともに利権と利益を得られる戦争だった。


 明治天皇はみずから考え、言葉にし、それを発したものなどほとんどない。「教育勅語」すらも、天皇自身の思慮でなく、薩長の人物が都合よく天皇利用で創作したものである。それを国民に押しつけ、天皇の名の下に、戦いで尊い命を捨てさせた。


 会津側の敗者から見れば、これら薩長の欺瞞の本質が見えてくる。敗者の史観から、日本近代史を見ることも大切である。(講師の説明より)

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ④=シニア大樂

 シニア・ブームの最先端をいく。あるいは口火を切った、それがシニア大樂だろう。
 団塊の世代が60代を迎える。その数年前の、2003年4月に同大樂が発足している。当時から、4大新聞などメディアに、団塊世代の先駆け、指針になると、数多く取り上げられてきた。むろん、いまなおである。

 田中嘉文理事長から発足時の話を聞いた。「シニア・ライフ・アドバイザー」資格を持ったメンバーが、ハワイ大学の加齢学セミナーに出席した。(米国では進んだ学問)。帰国後、呼吸の合った男女6人が、われわれは何ができるか、と半年ほど語り合ったという。
「60歳で赤いチャンチャンコ」という日本人の感覚を打ち破り、欧米並みに豊かな心になれる人生を創りだそう。そういうアドバイザーになりたい。

 リタイアした人は残る人生を有意義に過ごしたい、企業のなかで培われた能力や才能がこのまま廃ってはもったいない、という気持ちがある。それを引き出し、生かす、その手立てのアドバイスをする。
 シニア大樂が立ち上がった。すぐさま、「出前講師をやろう」という藤井敬三副理事長の発案で、同大樂に講師紹介センターが生まれた。

 一般的に、民間の講師斡旋業者に派遣講師を依頼すれば、2時間で数十万円が相場である。なかには100万円台の超著名人もいる。多くはイベントで招かれる。聞き手は「○○」の話しを聞いたよ、見たよ、という自己陶酔に終わってしまう。

 シニア大樂の幹事は、次世代の人たちが安く学べる講師陣を揃えよう、幅広く知識を提供しようと考えた。そこで2時間・数万円で出向ける人材を募った。それがヒットした。
 9年目にして登録講師は500人を超えている。国際空路のパイロット、大使、大手企業の管理職、真打の落語家、建築士、高級官僚、アナウンサーなど枚挙に暇がない。


 同大樂では、【シニア大樂ニュース】を発行している。夏の寝苦しさのなかで、開いてみた。
 講師陣の大道芸人、落語家、手品師などがシニア演芸団 「演多亭」を立ち上げ、毎年、定期公演を行っている。今年の7月7日は6回目を迎えた。文京シビックホール370人の定員が満席で、当日券も売切れだった。
 2011.8.1の第32号には、メインタイトルが『七夕の笹揺れ、演多亭シビック公演大盛況』である。
 第1部は、ヘブンアーティストのオンパレード
 第2部は、落語と漫談とマジック
 公演の成功ぶりを熱く報じている。

 穂高健一ワールドでも、【寄稿・写真】これぞ、熱演・芸人たちの顔=滝 アヤで写真紹介している。

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あなたは「安全な山歩き」していますか。10のQ&Aでチェックしましょう

「海の日」はありますが、「山の日」はありません。日本山岳会を含めた、5つの山岳団体が、国民の祝日として「山の日」の制定を提案しています。美しく豊かな自然を守り、次世代に引き継ぐことを目的としています。

「山の日」制定協議会では、山々がからだの健康や心の健康に欠くことのできないフィールドだと再確認し、登山の楽しみを広く伝えたい、と念願しています。

同協議会が運動の一環として、安全な登山を推奨の一環として『山を知る10のQ&A・安全編』の冊子を発行しています。ハイキング、本格的な登山にかかわらず、山に入るひとには大切な知識です。一度、セルフチェックしてみてください。

① 朝、テレビの天気予報で降水確率が0%でも、雨具どうされますか。

   【答え】 山の天気は変わりやすいものです。どんなときでも、雨具は忘れてはいけません。

② 山や自然のなかで、現在地を知る方法はなんですか。

   【答え】 道標や掲示板よりも、地図とコンパスです。地図を読みこなすためには、いろいろな機会を見つけて学びましょう。

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P.E.N.メンバーが『昭和の町』葛飾・立石の探求

 「昭和の町」葛飾・立石は、下町の風情がたっぷり残る。8月9日、日本ペンクラブのメンバー7人が集まった。同日は30度を越す、猛暑。気温が高い午後3時に京成立石駅の改札に集合した。

 古い町なみの探索、歴史研究、さらに人気急上昇の居酒屋での飲み会。それらが楽しみで、遠方から集まってきた。
メンバーは吉澤一成さん(事務局長)、井出勉さん(事務局次長)、清原康正さん(会報委員長)、相澤与剛さん(広報委員長)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、それに私である。

 女性作家2人はすでに町中を散策してきたといい、汗をたっぷりかいていた。
「暑い、まず軽くビールといこう」
 清原さんが即座に口火を切った。
 繁盛店『うちだ』では、暖簾の外に数人が待つ。こんな時間でも、客が並んで待っていると、驚嘆していた。開店前は20人ほどが両サイドの出入り口に並んで待っていますよ、と教えた。

 店内接客は最上だ。5分ていど待つうちに、7人一同が一つテーブルに着けるように、上手に席を作ってくれた。「モツ煮」は柔らかくておいしい。野菜類がまったく入っていない、とそれぞれが評している。  一皿180円X皿の数=支払い代金。男性が壁面の早見表に関心を寄せていた。
「初めて、モツ煮を食べたわ」という山名さんは、みんなからお嬢さん育ちだな、と冷かされていた。


 仲見世商店街から散策が始まった。手作りの惣菜屋がならぶ。一軒ずつ覗き見る。衣料品店が多いね、と感心していた。人形焼屋、煎餅屋などは手作り自慢だが、時間帯が遅く、どこも火を止めていた。

 薬局屋の壁面には、昭和史の写真が掲げられている。昭和史のビジュアルな研究になる。みんな強い関心を寄せて見入っていた。「このあたりは新潟に疎開していたんだな」「小学校の古い校舎は懐かしいな」「戦後の台風で、こんな被害状況だったんだな」という声があがる。

 一級河川「中川」に向かう。堤防よりも、民家が低い。「ゼロメートル地帯だけに、洪水になると大変ですね」と井出さんが案じていた。東日本大震災で、大津波が記憶に新しい。東京湾に津波が来難いけれど、水門はどうなっているのですか、という質問もあった。平井水門は5メートルくらいですかね。
 三浦半島断層も指摘されている折だけに、下町住民の安全度をも測っていた。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ③=日本写真協会

 文章が上手ですね、と褒められても、私は別段、嬉しいとも思わない。しかし、写真を褒められると、本当ですか、と身を乗り出すのが常だ。
「穂高さんの写真は何を伝えたいか、いつも、はっきりしていますね」
 PJニュース仲間の新聞社勤務の人から、そう評されたことがある。私の写真はテーマがはっきりしているんだな、と理解した。もう4ほど前である。

 小説やエッセイなど文章作品と、写真とは実によく似ているな、と思う。良い文章は無駄なところが削ぎ落され、圧縮・省略の技術が冴えているものだ。写真も同様。ムダな物体や空間を削ぐほどに、密度の濃いすばらしい作品になる。

私はかつて水晶岳の山小屋新築工事現場に出向いた。そこで撮影した写真は、北アルプスの峰々の遠望と相俟って、誰彼に撮れない、珍しい写真だという思いがあった。「峻岳の新築」というタイトルをつけて、ある大きな写真展に応募してみた。入選作品になった。

 後にも先に写真の応募をしていないから、私の写真の実力はわからない。それでも、プロのジャズ歌手のコンサートや、元宝塚歌劇団メンバー「炎樹」から、舞台撮影を頼まれるので、喜んでカメラを持って出かけている。

 私の写真は独学である。ブックオフなどで写真雑誌100円を数冊まとめ買いをしておいて、文筆の一間に読んで学んでいる。
 それだけでは限界がある。写真の専門家に出会うと、つねに「写真の上達法」を聞くようにしている。つまり、耳学問である。

 PJニュース・小田編集長とは一時、高所の山によく登った。小田さんはジャーナリストの観点から、三角形、S字型など構図を中心に教えてくれた。
 同メンバーの池野さんは大きな写真展の審査委員でもある。「良い写真をたくさん見ることですよ」とアドバイスしてくれた。それはどの写真家も異口同音に語る。

「観る機会と、学ぶ機会を増やす」
 その目的から、東京都写真美術館に記者登録をさせてもらった。企画展の案内がくるので、時間が許す限りでかけている。同館の学芸員や著名な写真家みずから、撮影技術、苦労話、テーマに対する説明などが聞ける。これは勉強になる。

 素人とプロとの違い何か。あるとき不意に、学芸員の説明から、著名な写真家や有名な作品には『人物には動きのある』とわかった。それ以降、その視点で観ているが、大半が当たっている。ひとつの法則の発見かもしれない、とかつてに解釈している。

 あるパーティー会場で、田沼武能さん(日本写真家協会・会長)から話を聞くことができた。かつて写真技術は大学の写真学科で学んだものだ。現在はカメラがやってくれる。だけど、写真には上手、下手の差が出る。
 上達するステップとして、「良い写真を真似しなさい。それを売ってはダメですが、真似から上達します」、「主役と脇役を明確にしなさい」と話された。

 写真を学べる環境に身を置く。それには専門家がいる団体に所属し、身近に写真家を感じることだと思い、公益法人日本写真協会に入会した。2年前である。


 2011夏(445号)の表紙は奇抜である。写真は森村泰昌さんの作品で、平成23年「日本写真協会・作家賞受賞」されている。

 同賞・功労賞を受賞された、福原義春さん(東京都写真美術館・館長)に聞く、というインタビュー記事「存在感のある美術館をめざして」が読み応えがあった。一部、同館の村尾知子さんの口添え。

『皆さん苦労されて、よくぞ、ここまで盛り上げたな』と、つよく胸にひびく内容である。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ②=日本ペンクラブ

 2011年の夏に、松山市に行ってみた。一度は道後温泉に張ってみたい。単純な気持ちだった。夏目漱石の「坊ちゃん」で有名である。

 浴槽には「泳ぐべからず」と表示されていた。まさに、明治時代に、漱石が体験した、その通りである。
地場の60代のやや酩酊したオヤジさんが、話好きで、誰かまわず2、30代の青年に話しかけていた。「どこから来たね」と問われて答える旅人は、大半が東京だった。そして、職業を訊いた上で、オヤジさんは人生訓というか、啓蒙的な話する。

 私にもお鉢が回ってきた。面倒なので、「今治の亡父の墓参り」だと応えていた。
 松山市内はいたるところで「坂の上の雲」が観光一色となっていた。駅にも、松山城にも、繁華街にも、お土産屋にも、四方見渡しても、司馬遼太郎「坂の上の雲」を大々的に、売れ出している。
 浴槽のオヤジさんが、それを話題にしておいた。

「ボクは司馬さんの軍人・英雄視の思想は嫌いだよ。西郷隆盛からはじまり、日清戦争・日露戦争の大将たち・軍人たちをとてつもなく巨大化している。韓国侵略を考えた西郷、それ以降の思い上がった軍人たちの思想が第二次世界大戦を導いた」
「あなたの職業は?」
「想像に任せますよ。司馬さんの執筆の底流にはその批判がない。うがった読み方をすれば、戦争賛美であり、戦争抑止の思想に欠けている。司馬さんは二等兵から戦争を見ることができない、作家だよ。悪いね。松山にきて、司馬さんの悪口を言って」
 ふだん思っていることがストレートに出てしまった。


 道後温泉の浴槽のやり取りを思い浮かべながら、日本ペンクラブ「会報」を読みはじめた。

 国際ペン専務理事に就任した堀武昭さんに聞く。「サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです」というタイトルが目に飛び込んだ。
 私は「国境なき子どもたち」からも、何度か取材したことがある。その取材情景をも重ね合わせて一気に読んだ。

 堀さんの言葉を引用すると、『サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです。国境なき医師団、国境なき記者団……、国境なき文筆家というのもあると思う。男だからとか女だからとか、どういう教育を受けたかとか、お金があるなしとか、そんなことに関係なく、人間の尊厳を全員で分かち合える、国境なき組織、上下のない組織、アナーキーなことだけれど、国際ペンでそれができたら、画期的なことですよね』と理想を語っている。

「国際ペン専務理事になると、ノーベル平和賞の授賞式に招待されているそうですね」
 インタビュアー(広報委員・鈴木さん)の質問に答えて、航空運賃は自分持ちですけどね(笑い)。
 誰にでも気さくに語る、堀さんらしいな、と思った。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ①=日本山岳会

 8月の夜は、夕顔が一晩の白い花を咲かせている。夕涼みの情緒として、この上ないものがある。ひとたび、床に入り、クーラーも扇風機も使わないとなると、寝苦しい。
 寝つけないときは、強いアルコールを少量だけ口にし、ふたたび寝床に入る。成功すればよいが、身体がかえって火照って寝られず、失敗したな、と思ってしまうこともある。

 この夏の真夜中だった。1時間も、2時間も、脳細胞が寝ってくれない。聖書でも読めば、数分で寝られるだろう。信仰心がないので、『般若心経』(はんにゃしんぎょう)も含めて、その類のものは何もない。何を読むかな、と思いを巡らせた。

 春から夏場にかけて、所属団体の年会費の支払いがつづく。各総会には極力出席を心がけているが、送られてくる会報はほとんど読まない。あるいは読む時間がないので、積読になっている。会報編集者の努力はわかるだけに、申し訳ないと思う。
 会報支払いの、この期間に限っていえば、「万単位の会費を払っているのに、勿体ないな」とも思う。そんな気持ちもあり、
「一度、所属団体の会報を読んでみるかな。一ヶ所、ひとつの会報を」
 と寝床から立ち上がり、電気を点け、書斎から目にした会報を持ち込んだ。床に腹ばって、どれから読むかな、と思案した。

 日本山岳会は100年の歴史をもった団体である。2011年の通常総会は、東日本大震災の翌3月12日で参加できなかった。6月18日も参加できなかった。
 会報『山』7月号には、総会は5時間半の審議を経て、定款変更を承認とあった。会員の質問が多い総会が、例年は2時間ていどだから、5時間半となると、議論はかなり紛糾したな、もめたなと推量できた。

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盛夏の阿波踊り・本場の徳島に近づけ=東京・神楽坂

第40回 神楽坂まつりが開催された。

阿波踊り:2011年7月22日(金)・23日(土)/19:00~21:00、盛大に行われた。


    

    日没とともに、踊り手の一段がやってきた。

   

   阿波踊りのグループは、都内の団体を中心として、各地から集まっている。
     ネーミングも、それぞれ地域の特徴が出ている。

  

    神楽坂まつりのサブタイトルは、「浴衣おいでよ」
    沿道の観客には、浴衣姿の若者が目立った。



 東日本大震災の被災者激励の阿波踊り大会でもあった。

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