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ムバラク大統領を倒した、「フェイスブック」って、なあに?(下)

 フェイスブックは日本にはまだ馴染みが薄い。庶民の媒体とまで成熟していない。一体どういうものか。それを体験しなければ、エジプト政権の崩壊まで、理解できない、と思った。
 そんな認識を持ったとき、ITコンサルタントの肥田野さんから、TWITTER(ツイッター)と「フェイスブック」を勧められた。この際とばかりに、二つを同時にチャレンジしてみた。
 手続きはいかなるものか。平たくいえば、クレジットカードの申請と同じで個人情報とメールアドレスを書き込めば、登録ができた。思いのほか簡単で、なおかつ即日に活用できた。

 TWITTER(ツイッター)と相互交流のために、登録後において、『友達』選びがある。手近なNSn「かちねっと」やPJメンバーなどをセレクトした。

 フェイスブックの友達選びは、卒業高校、大学の卒業年度から同級生などを検索できる。勤め人ならば企業名(大手)からも検索していける。さらには政治、文化、日常の関心事、興味ある事がらまで拡げれば、まさに「友達の友達」へと、その数は増えていく。
 登録は実名で顔写真入り。だから、発言には責任を負う度合いが高くなる。この信頼度が特徴である。

 日本に馴染みがないフェイスブックだけに、友だち検索で、経歴をみると、海外の大学院卒とか、それに準じる20代~30代の若者が多いようだ。

 エジプトの若者がフェイスブックで、デモを呼びかけた。その情報が連鎖で転送された。さらにはムバラク大統領打倒へと進化してきた。
 従来型のメディアならば、民衆が動くまで、数ヶ月、半年、1年という歳月が掛かっていた。途中で挫折したり、メディアに歪曲されたり、政府の弾圧で終わることも多かった。
 フェイスブックはストレートに、民衆から民衆に拡大していく。そのエネルギーがある。

 国際ペン・堀武昭事務総長と15日の談話のなかで、「フェイスブック」の話題がでた。
「フェイスブックは日本の年賀状と同じですよ。元旦に、数十枚、数百枚、一気に届くでしょ。フェイスブックは一瞬にして、年賀状のごとく一日にして、大勢の元に届けられる」
 遅れて1月3日、4日に着いた年賀状は色あせて見える。だから、誰もが元旦に届くように気を配る。フェイスブックはそれと同じ。情報が色あせずに、瞬時に大勢に届く、と掘りさんは例える。そのうえで、
「私(堀さん)がフェイスブックに一つ書き込めば、世界中から一日にして、どんーと書き込みがありますよ。だから、発信していません」とネットの威力を語っていた。

 フェイスブックの運用を知り、エジプトの政権転覆の経緯をみると、革命の構造が違ってくる、と思える。革命や変革には、勢いとエネルギーが重要だ。導火線は短くして、一瞬にして火薬が爆発すれば、その効果は高くなる。
 為政者が慌てて、ケータイとかネットを切断するなど手を打つが、すでに遅し。崖っぷちに立たされ、政権が転覆してしまう。

 今後は、民意は大手メディアでなく、ブログ、フェイスブックから生まれてくる。どの国家でも、日本でも、ネットで政権が転覆する構図が生まれる。
 わが国は極度の財政赤字だ。緊縮財政に転換し、失業問題や貧困に有効な手を打てず、無策でいると、ネットの民意が単に抗議行動にとどまらず、暴動、政治体制の崩壊へと進む可能性もあるだろう。
 これからの政治革命は流血でなく、そんな姿で展開するだろう。

ムバラク大統領を倒した、「フェイスブック」って、なあに?(上)

 世の中には、「食べず嫌い」「食わず嫌い」という言葉がある。取材先で、「私はインターネットが嫌いだ」という人に何度か出会ったことがある。
(ネットを使った結果、そう思うのかな?)
 そんな懐疑的な気持よりも、パソコン音痴だろう、と聞き流している。時折り、パソコンを買ったが使っていない、という人もいる。一度はパソコン教室に通っているが、習熟できず挫折しているようだ。
(講師の教え方に問題があるんだな)
 そのように理解している。

 現在では、小学校の授業で必須科目としてパソコンを教えている。それら世代が確実に育ち、もはや二十歳の成人にまで達してきた。他方で、高年齢層までの各世代層への拡大は目覚しい。
 ネットを使った交通機関のチケット手配、料理のレシピー、百科事典代わり、ニュースなど、膨大な情報のなかから必要なものが引き出し、利用している。ネットがなければ、生きていけないという意識だ。

 情報化時代とはなにか。個人が新聞・TV・雑誌の情報の受け手側から、逆に、発信側にまわった時代をいう。いまや日本国内だけでも、ブロガーは数百万にもなった。みずからのブログで積極的に身辺の情報を出す。ものの考え方を示す。しだいに政治・経済・文化を変えはじめた。

 かつて大手メディアが各種情報をコントロールし、為政者からのリークで、世論を操っていた面がある。ときには肝心なことは隠して報じない。そんなことから、メディア報道も、ときに嘘をつく、隠す、という疑いと認識が人々の間に潜在してきていた。

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瀬戸内海・『祝島』の原発反対運動=ドキュメント映画は何を語る? 

 日本ペンクラブ・環境委員会の2月研究会は、2月7日午後4時から、同大会議室で、原発建設反対のドキュメント映画『祝島』(ほうりのしま)の上映会を行った。参加者は同会員の約30人である。


 1時45分の上映後は、纐纈(はなぶさ)あや監督(36、東京都出身、写真・左)と、中村敦夫さん(俳優、作家・同クラブ環境委員長、写真・右)との対談が行われた。

 中国電力は山口県上関町の長島・田ノ浦に原発建設予定地を決めた。ドキュメンタリーの舞台となったのは、対岸4キロの祝島(いわいしま)で人口約500人の離島である。
 撮影は08年夏から09年末までの1年10ヶ月で、その準備段階として、彼女は1年間にわたり、一人で祝島に通い、の家々で取材している。

 原発建設の賛成派と反対派の激突があり、賛成派が多数で可決する。それは導入の一場面である。
 原発建設反対だけのドキュメントではない。カメラは離島の風景、海や自然を大切にしたい、という島民の生活とことばを丁寧に集めている。「海は金で売れない」という島民の姿勢が随所で展開される。


「大切な環境問題に取り組まれた、よいドキュメントです。退屈な時間を守る島民に対して、カメラをまわし続ける。度胸のいる撮影ですね」
映画俳優でもある、中村さんはそう評価する。

「漁師にとって、海は大切な生活資源です。原発を受け入れると、漁業補償金が出ますが、祝島の人たちはそれを拒絶しています。島の経済は海があるから、自然のなかで平等に回っているんです」と女性監督は話す。

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「死の瞬間」・3つの体験談=4分10秒

 NPO法人・シニア大樂の「講師のための話し方講習会」が、2月1日に開催された。基調講演など盛り沢山だが、そのなかの一つに「3分間スピーチ」がある。
 私は「死の瞬間・三つの体験」を語った。

 参加者たち(約30人)に、「皆さんで、最も身近に死を感じた、そのスパンはどのくらいですか。大きな手術で死ぬのではないか、と2日前、1日前くらいでしょうか」と問いかけた。

 私は「もうこれで死ぬという、数秒前、少なくとも、1分以内に死を感じたのは3度あります。その瞬間の思いは、それぞれ違っていました」と話しはじめた。


 最初は大学3年生の真夏でした。前穂高のピークを目指して、急斜面の雪渓を登っていました。突如として、岩場からガラガラ石が落ちてくる、その落石の真っ只中に入ってしまったのです。
 頭部くらいの石がこちらの顔面に向けて飛んできた。これで死ぬのか、と観念しました。
「2度とこの世に出られないのか、寂しいな」
 そんな気持に襲われました。

 高校時代までバレーボールをやっていたことから、反射的にラインアウトのボールを避けるように、全身で真横に飛んだのです。耳もとで、落石が空気を切るキーんという金属音で通り過ぎました。
 と同時に、私の身体は急勾配の雪渓を滑りはじめました。長い距離でしたが、これは雪上訓練をしているので、ピッケルで止めることができました。

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アジアゾウのカップルが愛の発情・上野動物園=貴重な写真か

 1月12日、冬の上野動物園を訪ねてみた。冬眠に入った熊もいれば、発情期の動物たちもいる。


 アジアゾウの愛の瞬間を観察する機会があった。
 動物の発情は、子どもを産むためのもの。多くは1回で妊娠してしまうので、交尾の光景は数年に1回かもしれない。
 おおかた貴重な写真だと思う。類似的だが、生態として、紹介したい。

        

 園内で、象の檻から奇異な鳴き声があがっていた。これまで聞いたこともない響きだった。足を運んでみた。2頭が体を寄せ合ったり、地面に横たわったり、互いに長い鼻で性器をなめあったりしていた。


 牙を持つ雄が、メスの糞を少しずつ食べていた。求愛のしるしなのか。今度は放尿する。消防ホースから出てくるような勢いだ。

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龍馬の「船中八策」は作り話し。司馬遼太郎もダマされていたのか

 明治・大正時代の土佐の文筆人による、坂本龍馬の関連書物には架空の話が多い。随所に作り話を挿入している。それが後世の歴史的な事実として一人歩きし、司馬遼太郎著「竜馬がいく」においても数多くの下地になっている。

 明治16年、土佐新聞に坂本龍馬の伝記が連載された。タイトル「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)は、維新のために東奔西走した龍馬を、千里を走る馬にたとえている。

 龍馬が暗殺されてから16年後、維新から数えてもわずか16年なのに、龍馬の最大の功績とされる大政奉還の船中八策(慶応3年6月)が一行も出でいないのだ。
 つまり、土佐藩の夕顔丸で、龍馬が後藤象二郎に、大政奉還を示した内容はみじんも記されていない。すると、龍馬は無関係だったのか。

 いったい、どこから「船中八策」が出てきたのか。船中八策と誰が名づけたのか。
 これは推量だが、どうも千頭清臣著「坂本龍馬」1914(大正4年)らしい。疑う理由として、千頭清臣氏にはゴーストライターがいたことだ。

 田岡正枝氏(土佐出身)が『坂本龍馬は、実は千頭さんから依頼されて僕が書いたものだよ。謝礼として80円もらったが、あれはいい酒代だった』と述べている。ここに注目したい。

 現代のゴーストライターは、著名人(政治家、社長、芸能人)の人物をより大きく見せるために、故意に大きく書いたり、他人の業績を横取りしたり、そんな書き方をする者も多い。

 ゴーストライターの田岡正枝氏が無責任に本が売れれば、酒代が弾んでもらえる、同郷の土佐人として、龍馬を大きく見せてやろうと「船中八策」を作り上げた可能性がある、と私は疑っている。


 司馬遼太郎著「竜馬が行く」で、このところは

『第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく、朝廷より出づべき事』
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。

 と記す。
 司馬氏はまさに土佐人の作り話に騙され、龍馬に最大の賛辞を与えてしまった、最大のミステークだといえる。少なくとも、同氏は明治16年「汗血千里の駒」から疑うべきだったのだ。

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目黒学園・講師の新年会は、プロの手作りで豪華

 目黒学園カルチャースクール(西澤明夫社長)では、1月10日(祝日)12時から東京・カトリック目黒教会の教室で、新年会が開催された。出席者は講師陣が89人、学園スタッフが8人が一堂に会した。司会、料理、演出、演奏、実演など、すべてプロ講師だから、豪華な新年会である。

 オープニングは角(すみ)照美さん「和太鼓演奏」で、威勢のよい、軽快なリズムが講師たちを迎えてくれた。
 挨拶に立った西澤さんは、「ふだんは顔を知らない講師の皆さんが、この新年会を通して、仲良くなり、生徒どうしがさらに仲良くなってほしい」と述べた。いつかは生徒を交えた、納涼大会をしたい、それが夢です、と語った。
         

 瀬沼克彰さん(桜美林大学名誉教授)によると、全国にカルチャースクールが数多くあるけれど、講師を集めた新年会はこの学園のみである、と話す。各カルチャーは受講生のダウンから、経営が苦しい。そのなかにおいても、講師の新年会を行なう、講師を大切にする、という同学園の経営姿勢は稀有な存在だろう。
 献立は「懐石料理」講師の入江亮子さんで、美食の日本料理が各テーブルに並べられていた。テーブルに飾られた花は岡田外美枝さんで、「英国式フラワーアレンジメント」講師である。


 手打ちソバの実演は「手打ちソバ教室講師」の関根二三夫さんで、二八ソバ(北海道産の蕎麦粉)が使われた。「ソバを打つとき、1秒の違いが味の違いになります」と説明しながら、全員にいきわたるソバを作ってくれた。

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わがランニング人生は10年、われにゲキを=風景写真と文

 マラソンを始めてから、今年でちょうど10年になる。
 若い頃から登山に熱中し、世の中の登山ブームが冷めても、山が無人化しても、私は単独行で山に登り続けていた。月に3、4回は登っていたが、40代、50代になると、体型が肥満型になってしまった。
毎日の運動をしないと、健康に悪い。その気持ちがつねにあった。自宅からは中川(一級河川)は近いし、ジョギングロードがある。

「1日10キロ走る。降雨は休足の日」
 そう決めてから、中川と荒川の周辺でジョギングをはじめた。川辺は美景の連続で、単調さからの飽きは来ない。
      

 中川の護岸路面には200メートルの距離表示がある。荒川のほうは東京湾からのキロ表示がなされている。ともに、スピードが計れる。そのうえ、双方には信号が1か所もなく、車両の進入もない。走る環境としては、実にめぐまれている。大都会の東京において、ここが最高の練習場だろうと思っている。

次女が国立競技場のマラソン教室に通っていた。父親の私に、マラソン大会に出場しないと、持続できないよ、とアドバイスしてくれた。そこで次女とともに米軍横田基地のハーフ・マラソン(約21キロ)の大会にエントリーした。

 戦闘機がならぶ滑走路の脇を走った。これまで見たことも、体験したこともない光景に深く感動した。走ることがやみつきになった。(登山は急減した)


「フルマラソンのほうが面白いよ」
 これも次女のことばで、勝田フルマラソンにエントリーした。となると、必然的に練習には熱が入ってくる。1日20キロ、ロング走は30~50キロと練習量が一気に増えた。それも、長期に継続できた。

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第45回・元気に100エッセイ教室=読者の脳裏に映像を

 エッセイ教室は丸5年の歳月とともに、45回を通過した。


「45」という数字は、私の脳裏のなかで、1945(昭和20)年に結びつく。この年は東京大空襲、アメリカ軍沖縄上陸、各都市で戦禍の焼け野原、広島・長崎原爆投下、そして終戦、さらには飢餓寸前の食糧難である。
 日本人が有史以来、最も苦しみを味わった年ではないだろうか。

 現代の経営者たちが「いまや未曾有の苦難の年である」という手垢のついた、年頭の挨拶などを述べている。それ聞くと、私は1945年を思い浮かべ、歴史認識の甘さから滑稽になる。        (戦禍の体験は、曾祖父母の時代になってきた)


 今回の講義は、書き手の極意・作法に迫ってみた


 叙述の文章(エッセイ、小説)とは、「読者の脳裏に映像を作りだしていく芸術である」という定義をもっている。これは私の独自の考えで、あらゆる講義で指導要綱の根幹としている。

 文章は映画や写真のように、直裁的に脳裏を刺激できない。だけど、叙述文の技法を高めることで、映像化に近づけられる。文章には強い味方がいる。それはTVや映画とは違い、心理描写という技法があることだ。

 作者が情景(風景、人間など)を描写文で描けば、読者は脳裏で、かつての体験から映像化を行なう。心理描写は、読者の心を直裁的に刺激し、感情移入させる。

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えっ、東京にはここしかない、初詣なの=原稲荷神社

 年末のNHK紅白歌合戦が終わると、途端に、わが家の前の通りには初詣に向かう人の足音が聞こえてくる。12時をかなり回っても、途切れることはない。とくに子どもたちの嬉々とした、正月を祝うというか、興奮した声が1時過ぎまで室内に響いてくる。

 わが家から約20m先の原稲荷神社では毎年、元旦O時から、搗きたての餅が1人3個入りのトレーで配られる。甘酒ももらえる。町内の子どもたちは毎年、それを楽しみにしているのだ。

 わが子が幼かった頃、同伴者として、原稲荷神社の深夜の初詣・餅つき大会に連れて出向いていた。下町の子ども特有の天真爛漫な行動で、大勢が焚き火の周りを走り回っていた。
 当時は詣でる人も少なく、餅も余りぎみだったのか、食べ放題であった。

 同境内はふだん町内の人たちが駅への通り道として利用している。かつて社殿は廃れたような形状で、正月の深夜の餅つき大会だけが子どもの関心を買う、というていどだった。町内の多くのひとは、成田山や浅草寺など人気の寺に初詣に出かけていた。

 わが子はもはや30代半ばである。子育てが終わった私は、原稲荷神社の深夜の持ちつき大会にはここ20年ほど無関心だった。ひたすら、除夜の鐘と足音を聞くだけであった。

 社殿はこのところ手が加えられて小ぎれいになってきた。それでも、私が認識する元旦の風景は、小さな境内は閑散としており、通りすがりの人が社殿に手を合わせるていどである。あえて同神社に足を運んできたとは思えなかった。

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