歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】日露戦争の秋山真之の英雄伝=司馬遼太郎の虚構だった

 小説のなかで、下瀬うた「文久3年~大正15年」という人物を登場させる必要があった。彼女は広島市・鉄砲町で生まれ育っている。その鉄砲町には、長い歴史がある。

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 ポルトガル人が天文12年に、種子島に鉄砲を伝えた。紀州の「雑賀衆(さいかしゅう)」によって、数千挺(ちょう)もの国産化に成功した。江戸時代初期、浅野家が紀州から広島藩に入封してきた。その折、紀州の鉄砲職人「雑賀衆」を広島まで連れてきて、城下に鉄砲町という一角を与えた。

 ここに端を発して鉄砲町には兵器工場、大砲工場、火薬工場が多かった。武具奉行など特別な武士階級と鉄砲職人しか、当時は出入りができない特殊な町だった。幕末には、広島藩は独自に最新銃を国産でライフル銃が製造できる唯一の藩だった。

 他藩は、グラバーなどから海外の銃を買うしかなかった。
 広島藩・鉄砲町の場合は、手先の器用な鉄砲職人らが、武具奉行の高間多須衞(たすえ)が長崎から手に入れてきた西洋のライフル銃・一挺を見本として、改良に、改良を重ねて進化させていく。品質の高い銃の量産に成功する。

 広島藩の神機隊1200人が鍛錬・演習用としても使う。さらには自費で戊辰戦争に参戦したおり、その高性能なライフル銃をもって、上野戦争、相馬・仙台藩と戦っている。(写真は高間省三の銃・広島護国神社蔵)。むろん、大砲も広島藩の製造だ。
 火薬工場としては志和(現・東広島市)に複数もっていた。
 
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 彼女(うた)が、下瀬雅允(まさちか)の実妹だとわかった。この兄と妹は、広島・鉄砲町という兵器関連の機密の街なかで生まれ育っている。
 雅允は幼いころから、子どもが花火に興味を持つように、火薬の化学反応に関心を示していたようだ。かれは広島英学校(旧広島一中、現・国泰寺高校)、工科大学応用化学科(現・東京大学)を卒業している。やがて、化学者の道に進み、フランスにも留学し、独自開発で明治26年には、「下瀬火薬」の開発に成功した。
  
「日露戦争(1904年)は、下瀬火薬で勝利した」
 そのことばが私の脳裏に過去から根づいていた。そこで、このたび江田島の旧海軍兵学校を訪ねてみた。
 現在は海上自衛隊第一術科学校で、旧帝国海軍関係の資料が収まった「教育参考館」がある。そこの2階には、旧帝国海軍の貴重な資料が残されている。

 太平洋戦争の末期、呉軍港はたびたび米軍の空襲をうけた。戦艦・大和を造った海軍工廠(こうしょう)や海軍基地は壊滅した。
 ただ、呉の真向いにある江田島の海軍兵学校は、米軍の攻撃対象から外されていた。なぜか。世界の三大海軍士官養成学校のひとつであり、ヨーロッパ・ルネッサンス建築の価値ある建物を遺すためであった。一発の機銃掃射すらなかった。

 昭和20年8月15日に、日本が無条件降伏を受け入れた。海軍兵学校の関係者は進駐軍がやってくるまえに、諸々の軍艦関係の機器や資料の大半を焼いた。
 多少は宮島・厳島神社、大三島(愛媛県・今治市)の大三島 大山祇(ずみ)神社に奉納品(カムフラージュ)として残したという。
 それらが貴重なものが一部、「教育参考館」展示されている。

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 同館の学芸員に下瀬火薬について、「日露戦争は下瀬火薬で勝利したのは事実ですか」と私はいきなり質問した。
「事実ですよ。下瀬雅允の資料ならば、この教育参考館の2階に展示しています」
 と言われて2階にあがり、あれこれ見ていた。
 そのうち、学芸員の方が来て、わかりましたか、と聞いて、場所はよくわかりません、他のものを見ていましたし、というと、下瀬雅允の展示まで案内してくれた。

「かれは化学者ですか、軍人ですか」
「そうですね、中間ですね。軍の依頼で火薬の研究をしていた。あえて言えば、化学者かな」
 学芸員はそんなふうに説明していた。
「参謀の秋山真之が、日露戦争に勝利した最大の貢献者だと一般にいわれていますけれど? バルチック艦隊相手にT字型戦法で」
「その認識は違いますよ。はっきり言えば、勝因はなんといっても、『下瀬火薬』と伊集院大将が発明した『伊集院信管』です。それがバルチック艦隊を撃破したのです」
 と明瞭な歯切れの良さで、さらにこういった。
「もし、下瀬火薬と伊集院信管がなければ、どんな戦法を取ろうが、ロシア艦隊にはかなわなかったです。海戦はT字型だろうが、L字型だろうが、あまり関係ないです。双方が艦砲射撃で撃ちあう。戦艦に当たった大砲の威力が問題なのです」
 弾が炸裂して爆発力がどのていどあるか。それが重要です、となおも強調していた。

 秋山参謀は勝利にさして関係ないとなると、歴史小説家・司馬遼太郎は、売れる小説の創作から、秋山参謀を英雄としてもちあげたのか、と思った。登場人物を英雄にすれば、ワクワク、ドキドキ感から、読み手を魅了する。
 小説はフィクションだから、決して悪いことではない。ただ、世のなかの人は司馬遼太郎の小説は歴史的事実に基づくものだ、歴史そのものだと思い込んでいる。ネット時代と違って、司馬が書くとなると、その人物の関連図書が神田古本屋街から消えた、という伝説になっている。だから、すべて事実だろう、と思い込んでしまうのだ。

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「下瀬火薬は石炭酸を硝化してつくるピクリン酸です。砲弾は当たれば、先端が折れて、信管で発火して炸裂するのです。下瀬火薬は3000度の高温になる」
 それは鉄鋼の軍艦に塗られた塗料を溶かし、なおかつ火の海にしてしまう。つまり、戦艦が丸焼けになってしまい、沈没していく。

 船体は二重、あるいは何層にも仕切られているので、砲弾の爆発力が弱い、火薬に威力がないと、砲弾が当たっても多少の破壊があっても、船内に浸水が生じても、沈没までいかない。


 下瀬火薬は爆発すれば、軍艦を丸焼けにしてしまう。
 バルチック艦隊の戦艦が、下瀬火薬で、次々に炎上し、沈没し、海の藻屑となる。一方で日本の小艇がわずかに犠牲になった程度である。まさに、火薬の威力の差だった。

 秋山参謀はバルチック艦隊が陸奥湾からウラジオストックにむかう、と具申した。上官で参謀長の加藤友三郎が、「バルチック艦隊の随伴の石炭運搬船が、切り離されて、上海に入港したからには、主力部隊は航行距離の長くなる太平洋ルートを通らない証しである。敵はかならずや、日本海にやって来る」と主張した。
 司令官の東郷平八郎は、加藤友三郎参謀長への信頼・評価が高かった。それで日本海で待ち受けた。もしも参謀・秋山真之の意見を取り入れていたならば、バルチック艦隊はすり抜けてウラジオストックに入港していたはずだ。
 となると、長期戦となり、戦争資金の薄い日本国はしだいに劣勢に立たされたことは間違いない。その面で、東郷元帥が秋山真之の具申を退けた、その見識は高く評価されるものだ。

 かたや、歴史作家・司馬遼太郎は、秋山真之をもちあげた、誇大英雄づくりで本を売る、という商売気の強い作家だったのか、と思わざるを得ない。

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「竜馬が行く」で、坂本龍馬を英雄として、世のなかに司馬史観を生みだした。近年は龍馬のメッキがボロボロ剥がれてきている。
「船中八策による大政奉還を成した」船中八策などは、大正時代の作り話であって、それが司馬史観で大きくなったものだ。
「いろは丸事件」でも潜水調査がすすんだ現在、海底の船内からは金塊や最新銃など一丁も積んでいなかったと判明した。長崎奉行所で、龍馬は嘘八百をなべて、8万3000両を紀州徳川家から詐取した人物である。
 結局、龍馬って、なにした人なの、と疑問が出てくる。

 欧州ではクリミア戦争(1853年)が起きている。このときから戦争が鉄砲から大砲の時代になっていた。ちょうど、ペリー提督が浦賀に来て、大砲を撃って威嚇した年である。

 第二次長州戦争(1866年)で、坂本龍馬が最新銃を薩長の間で橋渡しをした。小説上では多大な貢献度としているが、冷静に、客観的にみれば、幕府軍が朝敵である防長2州(現・山口県)に攻めてきたので、毛利家は降りかかった火の粉を払っただけである。

 その先も長州・毛利家は朝敵のままである。外交的にはなにも勝っていない。となりの広島藩内にも、京都にも、江戸すらも行けていない。
 かたや、負けたとレッテルを押された徳川政権は、なおも北は松前藩から南は薩摩藩まで、日本列島支配下に置いているのだ。
 徳川家はなにひとつ奪われていない。長州は天皇に弓を引いた藩として、だれも相手にしない。幕末の四候会議(慶応3年・1867年)においても、長州問題は放っておけ、と無視されつづけたのだ。

 つまり、司馬史観がいうほど、德川は敗けていないのだ。大砲の時代に、龍馬が斡旋した小銃など、さして威力とならない。「西洋の最新銃」ということばは、とても耳ざわりが良いが、せいぜい自藩を守る程度だったのだ。

 その論証として、第二次長州戦争からちょうど2年後、上野戦争が起きた。彰義隊をあいてに、大村益次郎がクリミア戦争と同様に、アームストロング砲を撃ちこみ、半日で決着をつけている。もはや、大砲の時代なのだ。

 つづく戊辰戦争でも、大砲の撃ちあい、砲台への襲撃戦争だった。新政府(西側)軍の大砲の威力が奥州32藩よりも勝っていたのだ。函館戦争でも艦砲射撃が威力を発揮したのだ。
 
 こうして見てくると、司馬遼太郎作家は「大砲・火薬の認識が薄い」作家だったのか、と江田島であらためて思った。
 広島藩が大政奉還をおしすすめた。幕の口火を切ったのが広島藩だったと明かす「芸藩志」が、明治政府に封印されたままで、近年まで世に知られていなかった。昭和時代に活躍した司馬遼太郎は当時、広島藩・鉄砲町を知る、見る機会がなかった。研究資料もなかった。その面を差し引いてあげないと、気の毒かもしれない。

 いずれにせよ、幕末の広島藩、および維新後の広島がクローズアップされはじめてきた今、近現代史がおおきくくつがえるだろう。商業主義に乗った司馬史観は、娯楽歴史小説だ、という狭い範囲内に押し込められていくだろう。

 

 下瀬うたは、タイトル『俺にも、こんな青春があったのだ』のなかで、主人公の母親として登場してくる。背景は日英同盟である。
 この軍事同盟が、その後の日本にどんな影響を与えていったか。その一端にからむ内容である。日英同盟はワシントン軍縮条約(1922年、加藤友三郎・全権大使)で解消する。ことばは厳しいが、欧米からみれば、日本がこの日英同盟を悪用したから、破棄させられたのである。
 
                                        了

東京大学の銀杏は黄葉の盛り=彰義隊のシンポジウムに参加してみて

 ことし(2018)12月1に安田講堂シンポジウム「彰義隊の上野戦争-明治150年に考える」が開催された。主催は市川総合研究所、入場料2000円。広島の歴史関係者が上京されて聴講されるという。
 私は主催者の代表理事の大蔵八郎さんと先日、名刺を交わし、同シンポジウムの参加を勧められていたので足を運んだ。

 東京大学は縁がなかったし、同校内にはじめて訪れた。

 東大構内に入ると、広々とした環境で、銀杏並木の黄葉が盛りだった。目には鮮やかに染まり、とても心地よかった。絵を描く人、写真を撮る人、外国人の観光客が多かった。

 構内が観光化している光景にも驚かされた。

 私はふだんとちがい、ただ聴講だけのシンポジウムなので、気楽な気持ちで聞くことができた。
 ことし発刊した拙書「神機隊物語」では、神機隊が上野戦争に参加し、彰義隊と戦った情景も深く掘り下げている。当然ながら、私の上野戦争関連の取材は細部に及んだ。

 それだけに、パネリストたちの上野戦争の彰義隊を語る発言に納得したり、懐疑的になったりもした。

 歴史はひとそれぞれ解釈の仕方があってもよい。しかし、いくらなんでも、これはひどいや、と思ったのが、冒頭の長唄「楠公」の岡安社中の解説だった。

 安田講堂の壇上で、約10数人が和装で並んで唄、三味線、囃子などを披露した。

 楠公(楠正成)の解説・歌詞をみると、彰義隊が楠正成の軍で、新政府軍が足利尊氏になぞらえている。「まさか。嘘だろう」となんども疑った。

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 広島藩・学問所の頼山陽が『日本外史』で、「湊川の戦い」を全国に知らしめた。

「湊川の戦い」とは、
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、天皇制の親政を布いた。それが建武の中興(けんむのちゅうこう)である。
 ところが、武家政治をめざした足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがし、離反した。そこで、後醍醐天皇に忠誠を尽くす楠正成が、わずかな兵で、足利尊氏を迎え撃つ。それが湊川の戦い(現・神戸駅前)である。

 むろん、楠公たちは全員が討死である。

 頼山陽はその悲劇を名文調で、謳いあげたのだ。それが幕末における尊王の志士たちのバイブルになった。
 楠正成は、明治、大正、昭和の太平洋戦争まで、天皇に忠君だと崇め奉られてきた。


「長唄・岡安社中」の説明は、これがまるで逆で、旧徳川幕府・彰義隊が楠正成になっている。新政府(天皇軍)が足利尊氏になっているのだ。

「建武の中興」は知っているのかな。いい加減だな、と思った。

 シンポジウムは、パネリストとして、戊辰戦争の彰義隊のひいき筋の作家・かたや新政府軍側の歴史作家たちが8人が次つぎに語った。

 新政府軍はなんでも薩長である。会津戦争の中心となった板垣退助(土佐藩)など、だれひとり語らなかった。

 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸城開城、そして上野戦争ではアームストロング砲でわずか半日で戦いが終わった。その話題に終始する。

 彰義隊にたいする新鮮な切り口がないうえ、遺体処理などの新発見もないし、研究不足である。パネリストたちの説明は、敵と味方という中・高校生なみの史観だと思った。

 

 

 戦争とはそうそう突発的に起こるのでなく、段々と規模が大きくなっていくものだ。

 鳥羽・伏見の戦い →  阿波沖海戦 → 甲州勝沼の戦い → 梁田 戦い そして江戸開城 → 宇都宮城の戦い(指揮官:大鳥圭介、土方歳三) →  市川・船橋の戦い、→ 五井の戦い → 今市 →  鯨波(柏崎近傍の鯨波にて新政府軍と旧幕府勢力が交戦し、新政府軍が勝利した。) → 彰義隊が解散に応じなくて上野戦争、・飯能戦争に及んだ。

 こんなふうに正確に理解しているのかな、パネリストたちは。

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 聴くかぎりにおいて、壇上のパネリストたちは鳥羽伏見の戦いから、一気に江戸城開城、そして彰義隊の戦いへと話しが飛ぶ。まるで、ゲームのごとく語る。

 戦争は人間どうしが殺しあうもの。双方の力バランスが崩れるなかで拡大していく。それがわかってない。最も肝心な戦争・和平がせめぎ合う中間がぬけ落ちているのだ。

 かれらは歴史作家と標榜(ひょうぼう)しているが、「戦争を知らない世代」の弱点かなと思った。


「西郷どん」時代考証・原口泉さんが広島県・御手洗で講演=12月16日

 NHK大河ドラマ「西郷どん」がいよいよ佳境に入ってきた。同ドラマの時代考証を担当する原口泉さんを招いた維新150周年記念『御手洗歴史シンポジウム』が、ことし(2018年)12月16日(日曜)13時から、広島県の大崎下島・御手洗の乙女座で開催される。主催は「重伝建を考える会」で、後援は呉市で、入場料は無料である。

 第1部は、基調講演は原口泉さんで、演題は「瀬戸内の幕末維新」である。

 第2部はパネルディスカッション 演題「幕末維新の真実迫る ~薩摩、芸州の果たした役割~ 」
 パネリストは原口泉さん、穂高健一(作家)、岩崎誠さん(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター長)、今崎仙也さん(重伝建を考える会初代会長)で、14時10~15時である。 

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「薩長倒幕」あるいは「薩長土肥」と言われてから久しい。維新から150年間は意図的に、芸州・広島藩が外されてきた。

 広島藩の浅野家が倒幕の先がけだった。それが表に出てくると、不都合なのが明治から太平洋戦争終結までの薩長閥の軍人政治だった。

 歴史の真実は、いずれ解き明かされるものだ。明治維新100年のときは龍馬ブームから誰も薩長主導とは信じて疑わなかった。司馬史観から薩長同盟が一人歩きしていた。

 しかし、広島・浅野家の家史「芸藩志」が世に知られはじめてから、「まてよ。朝敵だった長州藩はどこまでも、天皇・国民の敵だった。なぜ倒幕のひのき舞台にいるはずがない」と疑問を呈してきた。

 御手洗交易で、薩摩と芸州は大政奉還、小御所会議の明治新政府の樹立まで、二人三脚だった。その途中で、朝敵の長州軍を秘かに巻き込み、御手洗と尾道に呼びこんで3藩進発(挙兵)を成した。長州・毛利家はどこまでも表舞台に立てなかった。
 薩芸が先導し、長州が従うもの。それが薩芸長軍事同盟の実態だった。

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 鹿児島県側からも、薩長一辺倒の幕末史観を見なおしてほしい。それには薩摩藩の歴史権威者である原口泉さんを御手洗に招き、現地を見てもらい、語ってもらいたいと、「重伝建を考える会」が企画したものだ。それが12月16日に実現する。


【関連情報】

 幕末・維新の最高権威の学者・原口さんは、「鹿児島で講演となると、300-500人の会場はどこも超満員です。ことし2月の東京の読売新聞主催・500人もそうでした」。

 西郷どんは12月でいよいよ総括編。この時期に原口さんが御手洗にくる。広島市・県内の歴史ファンから主催者に問い合わせが多く、講演人気が急上昇です。
 乙女座には収容人数のかぎりがあります。早めに会場にこられたほうが良いと思います。

「推薦・幕末企画展」 浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」=広島城 

 ことし(2018年)が明治維新150年である。来年が浅野家が紀州から広島に入城してから400年になる。それを記念した企画展が、広島市・広島城で開催されています。
 幕末史において、これまで広島藩の存在は恣意的に消されてきました。しかし、歴史の真実は掘り起こされるものです。広島藩・浅野家が徳川政権の打倒に立ち上がった。幕末史が塗り替えられ始めています。

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 広島城・天守閣において浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」が開催されています。平成30年11月3日(祝・土)~12月16日(日)※休館日 12/11(火)・12(水)です。
 開館時間:11月→9:00~18:00 12月→9:00~17:00(いずれも入館は閉館の30分前まで)
 観覧料:大人370円(280円)、シニア・高校生180円(100円)、中学生以下無料です。


展示ガイド:学芸員が展示の見どころをご案内します。
◆日時:会期中の日・祝日  ※11/4・23・12/16を除く
   ①11:00~ ②14:00~(所要時間各約15分)
◆参加費:無料(観覧料が必要です)
◆事前申込;不要
◆会場:天守閣第四層

スペシャル展示ガイド:12月16日(日)
①11:00~ ②14:00~ (所要時間各30分)
「幕末維新と広島藩」「戊辰戦争と広島藩兵」を執筆した、郷土史研究家・尾川健氏が詳しく解説します。

 この企画展は、広島藩の活躍がビジュアルに展示されています。

「推薦・図書」 神機隊ものがたり = 東広島郷土史研究会 

 紙芝居の絵をベースにした「神機隊ものがたり」が、東広島郷土史研究会の吉本正就(まさなり)さんが、冊子として編集・発行された。
 
 副題は「志和の地に誕生し、日本の歴史の舞台に躍り出た英雄たちの話しです」と称し、総ルビで、小学生からも読みやすくなっています。

 神機隊の発足から奥州戦争まで、かれらの活躍が紙芝居、写真、地図を中心に簡素にして明瞭に紹介されています。
 

 広島県内の学校教育の副読本としても、有益な歴史本です。また、神機隊の足跡を訪ねるには、とても便利な冊子です。
 
 冊子には定価がついていませんが、吉本さんに依頼すれば、300円(送料別)で、分けていただけます。

東広島郷土史研究会 東広島市志和町志和西2300ー1 吉本正就さん

「知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍」広島県・大竹市=講演案内

 わたしの講演会・明治維新150年記念『知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍』が、11月24日、広島県・大竹市総合市民会館2階ホールで開催されます。時間は13時30分から16時まで。

 共催は大竹市教育委員会、大竹市歴史研究会。入場料は無料です。

 「薩長倒幕」が最近、疑問が呈されています。かたや、昭和53年にわずか300部、世に出てきた広島藩・浅野家史「芸藩志」から、倒幕の主導は広島藩だった、とクローズアップされてきました。

 河合三十郎、橋本素助編「芸藩志」は、ペリー来航から明治4年の廃藩置県まで、克明に記載されており、全国の史実と照合しても信ぴょう性が高い。

 明治政府がこの芸藩志を厳格に封印したのは、薩長閥の政治家が「俺たちが徳川政権を倒幕したのだ」と胸を張るのには、とても不都合だったからです。

 一方で「防長回天史」は、井上馨の圧力による、長州を美化した私的な要素が強い。不都合なことは記載されていない。事実のわい曲だ、あやしげだ、これまでの薩長史観は鵜呑(うのみ)みにできない、と厳しい批判の目にさらされはじめました。

 講演では広島藩側から、第二次長州征討(長州戦争)の大竹、大野、五日市、廿日市の甚大な被害から、徳川政権の倒幕への展開を克明にお話していきます。
 

 【講演の主だったところ】

 慶応2年、第二次長州征討(長州戦争)まえに、広島藩主の浅野長訓(ながみち)、世子の長勲(ながこと)らが先頭に立ち、幕府の再征には大義がないと非戦を唱えました。

 幕府軍の指揮を執るために、老中の小笠原長行が広島表にきた。執政(家老職)・野村帯刀(たてわき)が折衝する席で幕府をつよく批判したことから、謹慎(きんしん)処分をうけました。
 同年5月、おなじく執政・辻将曹(つじ しょうそう)が幕府に対して非戦をつよく訴えた。すると、辻将曹も武士としては致命的な謹慎処分をうけた。

 老中・小笠原の横暴に対し、広島藩の学問所(現・修道学園)の有志たちは憤り、夜を徹して議論し、「執政の謹慎は藩主をないがしろにした、頭ごなしの処分である。わが藩にたいする脅迫にも等しい、老中の首を打ち取るべし」と決意する。それは切腹を覚悟する行動でした。

 拙著『広島藩の志士』(倒幕の主役は広島藩だった)は、ここからストーリーがはじまります。

 浅野家の世子・長勲が、不穏(ふおん)な空気から、すべての藩士を広島城内にあつめました。「いましばらく自重せよ、身分を問わず腹蔵するところ藩に建白せよ」と申しわたしました。

 文武師範(しはん)の55人が連署で建白した。『藩主の直命があれば、水火も辞せず(命も惜しまず)、暴挙に対して行動を起こします、今後とも長州藩ヘの出兵は固く拒否してください』という趣旨だった。この抵抗運動が德川倒幕への精神となりました。

 広島藩は若者の意見を取り入れて不参戦を表明した。小笠原老中は藩内の過激な動きに怖れをなして、夜に紛れて広島を脱し、小倉に移っていった。

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 しかしながら、慶応2年6月には第二次長州征討が勃発(ぼっぱつ)した。大竹から廿日市まで、戦場になってしまった。
 ……町並の家々は焼かれ、農民は田畑を踏み荒らされ、無差別な暴行をくり返えされた。流浪の難民となった数はかぞえきれない。庶民の生活が甚大な影響をこうむり、荒廃してしまった。

 広島藩は戦争反対、開戦反対の建白を20回に及び、出兵を辞退していながらも、わが領地が戦禍にさらされてしまった。
 藩主の長訓以下、無念の極みだった。ここで徳川政権に見切りをつけます。
「こんな徳川家には政権を任せられない。このままだと、いずれ西欧列強の餌食になってしまう。徳川家には天皇家に政権を返上させよう」
 藩主・長訓、世子・長勲、執政・辻将曹たち、そして若い家臣たちが、倒幕へと藩論を統一し、大政奉還運動を加速させていきます。

 当時、政治の中心となっていた京都で、広島藩士たち上下を問わず、烈しく倒幕活動を展開していきます。岡山、鳥取、徳島、津などへ働きかけます。
 さらに公武合体派の薩摩藩を巻き込みます。
 御手洗交易で親密な薩摩は、広島藩の提案する大政奉還という倒幕運動に同調します。ここで、土佐藩の後藤象二郎も巻き込みますが、山内容堂の出兵拒否にあってしまった。
 そこで、禁門の変から朝敵だった長州藩を、薩芸は秘密裏に仲間に加えます。ここに薩長芸軍事同盟が結ばれます。

 慶応3年秋、波乱に満ちた歴史がははげしく動きます。大政奉還、3藩進発(挙兵)、小御所会議における明治新政府の誕生、鳥羽伏見の戦いへと展開します。

 第二次長州征討の最大の被害地だった大竹市で、この歴史展開を語ります。

【近代史革命】 大政奉還は市民革命の前ぶれだった。だが、薩長が軍事革命を起こした

 現代とは過去からの歴史の延長線上にある。将来は若者たちのものである。

 現代の政治家は、1100兆円もの赤字国債を累積させながらも、その債務の解決ができず、先送りし、将来の若者たちにそれを払わせる算段だ。
 そんな為政者たちが、50年、100年後を背負う若者たちの行動を規範とする憲法までも変えようとしている。これにはいろいろな意見や見解はあるだろう。
 正しいか、間違っているか。為政者のだれもが1世紀後まで生きていないので、実証、確証は取れない。~声が大きく、数が多い、もっともらしい。これが正義だ、正道だと勘違させてしまう。
 わたしたちの歴史はそれを物語っている。


 民主主義の語源は、「優れた人」を意味する。

 この民主主義を勝ち取るために、イギリスも、フランスも、アメリカも、民衆が血を流してまでも、勝ち取った。それが市民革命である。

 産業革命、さらに資本主義に進むなかで、優れた民衆が、「わたしたちに政治をやらせよ」、と立ち上がった。貴族も民衆も、ともに血を流した。そして、議会制民主主義へと到達した。つまり、民衆が司法、立法、行政の三権分立の政治体制をつくったのだ。

 
 日本には、市民革命の歴史がない。日本の民衆がみずから血を流す民主革命を経験せず、武士階級が明治維新を経て議院内閣制度をつくった。民衆には「お上の言いなり」という封建制・武家支配のままのDNAが流れている。 

 市民らが政治・施政にたいして多少の反対運動をしても、最後は仕方ない、あきらめで、引っ込むか、忘れてしまうふりをする。ほとんどが、為政者の都合で、将来の絵をかいた展開におちついていく。


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  慶応3年10月、徳川家は無血で政権を天皇家に返還した。つまり、大政奉還である。この段階で、民主国家ができる可能性があった。
 イギリスの政治には『国王は君臨すれども統治せず」というかたちがある。単一国家の日本において「天皇は君臨すれども、統治せず」という政治形態がつくれたのである。

 それを描いた人物がいる。広島藩・浅野家の辻将曹(つじ しょうそう)である。執政(家老の職務)として、第二次長州征討(長州戦争)では徹底して非戦論を唱え、謹慎処分を受けた。それでも屈せず、非戦を貫いた。そして、出兵拒否で、藩論を統一した。
 その後においても、
「民衆を塗炭(とたん)の苦しみにおく、こんな徳川家には、もう政権を任せられない」
 と大政奉還をおしすすめた中心人物だ。

 慶応3年、いよいよ大政奉還が実現する寸前で、ある公卿が、辻将曹に対して、『明治天皇は幼い(14歳)。天子を助けて政務に当たれる公家がいるとはおもえない。大政奉還によって、かえって政治が乱れ、人民はその方向性を失う、この点をいかに思うか』、と問いただした。


『賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏(かんり)にさせます。そして、公議をつくし、勅裁をあおぎ、万機をただす。天皇を頂点に据えても、この国は運営していけます』
 天皇を頂点とした立憲君主制を以って、万民の力で、国家運営を図れる。つまり、身分を問わず、政治の場に登用し、国家を運営する。そのための大政奉還だった。それが辻将曹の理念でもあった。

              * 

 しかし、西郷隆盛、大久保利通は、上司だった小松帯刀を霧島(鹿児島)の温泉地に追いやって、京都で、武力革命を起こした。それが鳥羽・伏見の戦いで、長州も、鳥取藩も、諸藩も乗ってきた。さらに戊辰戦争へと拡大した。それは武士=軍人が支配と権力を奪う戦争であり、市民革命ではなかった。

 維新後の薩長の軍人政治家にとって、広島藩・浅野家の平和主義はかぎりなく不都合だった。歴史から広島藩、浅野家を徹底して消していった。

                *

 明治時代から、軍事政治家による支配がつづく。大日本帝国憲法で、天皇が現人神となり、日本男子は兵役の義務を課せられ、日清、日露、第一次、満州、日中、太平洋戦争へと戦争国家として突き進む。
 民衆が政治を批判すれば、国賊だった。民主主義の根幹は思想・信条の自由であり、少数派の尊重であるが、そういう芽も育たなかった。

 
 維新が「近代国家への道」というが、これは事実誤認だ。「近代産業の導入」であって、国家は軍事力なり。富国強兵の政策は、どこまでも鳥羽伏見から得た軍人支配の延長にあった。民のための政治ではない。いわゆる、政治の後進国だった。

              *

 戦後の日本は、米軍の統治下におかれた。非戦を高々にうたう理想の憲法ができた。これは民衆が勝ち取ったものではない。だから、朝鮮戦争が起きると、日米安保条約という、超法規、つまり憲法よりも強い拘束力の条約が私たちの頭上にかぶさっても、民はそれに従うのみだ。

 現在の議員制度は、投票で選ぶ代議士が政治を決めていく。一見して、民主国家に思えるが、わたしたち市民の力で勝ち取った政治体制ではない。どこまでも、お上のやる政治なのだ。
 投票すれば、それが民主主義の世のなかだと思い込まないことだ。

              *

 歴史教科では教えないけれど、幕末に大統領制、中央集権制の導入を唱えたのが、徳川家だった。
 広島藩の辻将曹が、大政奉還について、慶喜将軍に面とむかって、
「賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏にさせます。武家の職にあるものでも、実務に成熟しているものも官途につけるべきです。万民の力で国家運営を図るのが望ましい政治です」
 辻将曹が説いたのが、天皇を頂点とした立憲君主制だったから、徳川慶喜は大政奉還を受けて立ったのだ。

 小御所会議で、明治新政府が樹立したあと、慶喜は新国家のために現金・8万両を出している。欧米に近い民主国家をめざす慶喜も辻将曹も、まさか1か月後に、鳥羽・伏見で下級武士による軍事クーデターが起きる、とは予測もしていなかったのだ。


 辻将曹は、鳥羽伏見で広島藩の正規軍に一発の銃弾も撃たせなかった。慶喜は国内の混乱を避けるために、京都から、大坂、そして江戸にもどった。そして、江戸城の明け渡しを指示し、みずから上野・寛永寺に謹慎したのだ。

 
 毒舌の勝海舟が、晩年の口述・氷川清話で、「幕末にはろくな家老がいなかったが、藩を導けるまともな家老は辻将曹と、岡本半助(彦根藩)だけだ」と述べている。
 
 勝は晩年まで頭のなかに、辻将曹が掲げた民主主義の理念がつよく残っていたのだろう。

           *
 
 政治は50年、100年単位でみる必要もある。軍事革命の鳥羽伏見の戦いはわずか150年前だ。当時も、いまも、庶民がみずから内閣総理大臣は変えられない仕組みである。市民がみずから優秀なトップを選べない。
 見方を変えれば、民主主義からほど遠く思える。

 民主主義とは、「優れた人」を意味する。数百人の代議士のみが選ぶ、内閣制度も疑問を呈してはどうだろう。
 憲法論議が起きた今、いっそうのこと民衆が直接に国内のトップを選べる、大統領制にする方法もある。血を流さず、無血革命として、大統領制度へと憲法を切り替える好機、市民革命のチャンスかもしれない。
 どうせ投票するならば、わたしたちはずばり国家の頂点を選んでみたいものだ。たとえ、その人物が傲慢で、民のためにならなくても、あきらめがつくし、トップの選びなおしも可能だ。お上・至上主義の日本人の政治感覚と価値観が変わっていくだろう。

 長い1世紀、2世紀の歴史からみれば、これも市民革命の流れから必然かもしれない。そういう議論が起きてもふしぎではない。

 歴史を変えてきたのは、常に燃える若者たちだった。将来は若者たちのものである。かれらは今のいまの政治体制だけでなく、西洋、東洋、日本の歴史を2世紀ほどさかのぼり、歴史から学び、そこからジャッジしてほしい。
 

                       【了】
   
 

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(3)

 マルタの近衛兵はソフトな感じだ。長く植民地支配に甘んじていたらしく、刺々しさはない。マルタの治安はすこぶる良好である。
 バックなど路面において撮影していても、不安感はない。日本とおなじ治安の良さを感じる。


 イタリア・ローマを悪くいうわけではないが、観光地には小銃を持った軍人が要所、要所に立って警戒している。ホームレスの物貰いの老婆を怒鳴りつけていた。あの嫌悪感はマルタにはなかった。

「騎士団長の宮殿」の学芸員を訪ねてみる。ふたりの学芸員が応対してくれたが、第一次世界大戦の資料はないという。バレッタの市街地には、探し求める高間完が通っていたmr.Dimeche一家に該当する本屋もないと話す。

 実際に、それらしき本屋は街中になかった。事前のマルタ観光局の説明通りだった。

 

 高間完の目線で、マルタ人の気質とか、町を知りたいと、バレッタの街なかを歩きまわった。最先端の海岸にいくと、観光馬車の客引きがいた。30ユーロだという。ひとことで言えば、浅草の観光人力車の類だった。

「戦争博物館(Malta at War Museum )にいきたい」というと、知らないという。本当かな。地図でスリーマを示すと、ここらは大きな湾曲の対岸だから、バスで行っても30分は費やすという。たしかに、地図上では極端な深いリアス式海岸だ。

 橋が架かっていなかった江戸時代に、左岸から右岸に行ってくれ、といわれても、簡単にはいけない。わたしなりに、地形からそう理解した。むろん、イギリス大英帝国の海軍の軍港として、地中海における最高の地形だったのだろう。

「フェリーに乗れば、簡単に対岸に渡れるよ」

 海上から100年前の軍港をみてみたかったわたしにすれば、念願の船に乗れる機会がおとずれたのだ。それならば、と馬車に乗った。

 馬の蹄(ひずめ)が、カタコト・カタコトと鳴る。高間完たちは海軍の軍人と言えども、乗馬の訓練は受けているだろう。スリーマの軍港から、バレッタの本屋に向かうときはボートだろうが、ときには乗馬で移動することもあったのかな、と思う。
 マルタ人に訊いても、ここらの詳細はまったくわからない。当時は軍人の移動すら軍機密だろう。


 
 ここがフェリー乗り場だという。閑散としていた。少女が次のフェリーを待っていた。発着時間表もあったので、馬車の案内は間違っていなかった。

 次第に客が集まってきた。ほとんどが観光客だが、船賃は生活の足として1,5ユーロ(日本円で約220円)と安かった。

 日本海軍の駆逐艦が、100年前に、このスリーマ港のイギリス基地に入港していたのか、とおもうと、特別な感慨が持てた。
 
 上陸すると、坂道を徒歩で10分ほどでマルタ戦争博物館に着いた。受付で、訊ねると、
『第一次世界大戦のころは、マルタは植民地でした。戦争関連資料は現地にはありません。イギリス・ロンドンで調べないと出てきません』
 まさしく、そうだろう。第二次世界大戦のとき、日本は朝鮮を植民地にしていた。朝鮮人に、日本帝国海軍の動きや資料などわたっているはずがない。そう思えば、すべて納得だった。

 受付嬢が「日本の作家が100年前のマルタ人を探しに来た」といい、奥から女性学芸員を呼び出してくれた。とても喜んでくれた。

 彼女は難解な用語は避けてくれたり、言い回しを変えてくれる。結果は皆無だが、高間完のスペルを教えてほしいとか、わたしのメールアドレスとかを訊き、日本海軍の高間完がわかれば、連絡をしてくれるという。

 地中海派遣では犠牲になった日本軍人がいる。かれらが眠る墓地へと向かう。戦争博物館前のバス停で、路線バスN03だと教わった。近くまで行ったけれど、閑散として案内板もなく、目標物もないし、通行人も皆無だし、とうとう断念した。

 高間完の新しい発見はなにもなかった。
 明治・大正・昭和の戦争の政治・経済などからみた起因はそれなりに知識はある。だが、戦場となると、戦争賛美になるようで、書く気すらもないし、軍艦名すら関心がなかった。わたしとすれば、高間完という将校と民間人との心の交流が知りたいのだ。相手は本屋さんなのだ。

 恩師の伊藤桂一氏は戦記物で直木賞を取っているけれど、わたしにすれば、戦争に対する考え方と体質がちがう。
 
 日本に帰化した外国人作家C.W. ニコル著「特務艦隊 」は、日英同盟をもとに日本海軍が、地中海に艦隊を派遣した、戦場そのものを扱っている。成田からローマへの往路の飛行機で斜め読みしていたが、とおく足元にも及ばなかった。


 墓地は見つからないし、タクシーはないし、復路でやってきたバスに乗りこみ、バレッタに帰ってきた。
  

 夕方、フェリー乗り場では、2隻の大型客船の同時出航の風景が見られた。

 目の前で、入航時とは真逆の180度旋回し、豪快に出航していく。ふと思いついて、動画に収めた。

マルタ島・バレッタ港から出航する大型客船が狭い航路だけに、ど迫力である。

              【つづく】

 


地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(2)

 マルタ島は、イギリス支配下が長かった。それだけに、英語が母国語なみに通じる。こちらの質問があやふやでも、文法通りでなくても、相手は充分くみ取ってくれる。

 日本に来た外国人から、「知っている、銀座」と問いかけられても、この人は銀座に行きたいんだな、忖度(そんたく)して、交通機関を教えてあげられる。
 それとおなじ。こちらがネーティブな英語の答えを聞き取れるヒアリング力さえあれば、5W1H的な質問で、十二分に通用する。

 マルタ島のホテルは、リゾート地で、アメリカ資本の豪華なホテルだった。およそ、Dバッグの旅行者には似合わない。これならば、ツアーの約2倍だ、と妙に納得させられた。

 フロントの女性から、いきなり「お水を飲みますか」と問われた。戸惑う。どういう意味ですか、と聞き返しても、同様のことばしか返ってこない。
 わたしは久しく使っていない英語が理解できないのかな、と思った。
 すると、グラス・コップを見せられた。『駆けつけ一杯の日本酒』ならば、即座に理解できたはずだか、フロントで水を勧められる習慣にはおどろかされた。

 わたしはかつて米国を旅したとき英語で質問できても、答えが聞き取れなかった。その反省からしゃべれなくてもよいと思った。東京はFEN(横田基地の米軍放送)が聞ける。ニュースをカセットに録音し、毎日2時間、3年半にわたって英語のシャワーを浴びている。

 thなど、日本人の発音のないものはとうとう聞き取れなかったが、ニュースの速さでも、かなりところついていける。ただ、耳で受け止められても、頭のなかで翻訳しようとすると、止まってしまうけれど……。

 駆けつけ一杯の水から、わたしの英語の日々がスタートした。

 地理を知るためにも、欧米人の雰囲気になれるためにも、翌朝、宿泊ホテルで「1日乗り放題の観光バス」の乗り場とチケットの購入方法を訊いた。


 首都・バレッタに近づいた。そろそろ観光バスから降る算段をした。乗り継ぎ自由だから、気が楽だ。

 メイン通りはにぎわっていた。マルタ島には日本人・中国人らしき東洋人が皆無だ。ナイジェリアなど近いはずだが、アフリカ系のひともいない。まわりは欧米系とマルタ人だけだ。

 ローマの東洋人の多さのうんざり感から、1日で解放された。と同時に、ケータイ通信がないし、現代の日本など、どうでもよくなった。スムーズに100年前の世界への連想に入り込めた。
 
「100年前の高間完中尉は、目のまえにある風景や人物に接し、どんな気持ちになれたのか」
 わたしはつねに自分の思慮をそこにおくことができた。


 バレッタのメイン通りの左右はすべて傾斜道だった。事前にマルタ観光局から仕入れた知識によると、古代の騎士団の防御のために作られた地形らしい。数千年の歴史がある都市だから、100年前の日本軍人がみた地形と同じ、と教わっていた。その目で凝視できた。

 高間完はこのバレッタの街を左右を見ながら、歩いたのだろう、と感慨を持てた。

  
 かたや、石造りのアパートで、ほとんどが低層だった。「木の文化」の日本人ならば、スクラップ・アンド・ビルドで、まずは全部取り壊してしまうだろう。湿気が多い、日本で数百年の石の家にしろ、かび臭くて、耐えられないだろう、と現代人の目にもなってしまう。
 

 わたしには寺院の興味がない。高間完は晩年にはキリスト教徒になったと聞いている。となると、聖堂を訪ねている可能性は高い。バレッタでも名高い一つに足を向けた。
 ローマのように数百人の列だったら、時間の無駄で止める気でいた。ちょうど12時の昼食どきだったので、20人ほどの列だった。

 聖堂の内部は撮影が自由で、フラッシュだけは禁止だった。
 一眼レフならば、うまく撮れるのにな、と思ったが、Dバッグ一つでは古いデジカメだけだ。そのうえ、画素数の高いスマホカメラは失くしている。「写りが悪いな。ぶれるな」とカメラの静止に工夫を凝らしながら、シャッターを押していた。
 それでも、日本のように、なんでも撮影禁止とちがい、心地よい。

 高間完はどんな想いで聖堂のなかを鑑賞していたのだろう。

西洋人は、首を高く曲げて、感心して魅入っている。だが、わたしのほうは宗教画を観ながら、日本の浮世絵とか、春画とかと比べていた。

 日本が安政時代に開国すると、大量の浮世絵がヨーロッパに流れた。宗教に拘束されたヨーロッパの画家たちは、日本の天真爛漫な絵師の体質に驚いた。
 江戸時代は13-14歳で女子は嫁に行く。春画は嫁入り道具と一緒に持たされる類のものだ。日常生活のなかに溶け込んでいた。

 宗教画の画家などが、浮世絵に飛びついた。つまり、日本が浮世絵を通して自由主義を輸出したのだ。ヨーロッパでは絵から、科学技術、思想、政治へと発展した。

 明治時代の日本人は、ヨーロッパの自由主義の絵だと言われても、およそなにが自由なのか、よくわからなかったのだ。

 現在でも、多くの日本人は、「自由主義は欧米から来た」と勘違いしている。宗教画を凝視するほどに、浮世絵の果たした役割が実感できた。 

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨 (1)

 地中海に浮かぶマルタ島はかつてイスラム帝国、スペイン、フランス・ナポレオン、そしてイギリスの植民地だった。第二次世界大戦後も久しくイギリス支配がつづいた。1964(昭和49)年にマルタ共和国として独立している。
「地中海の美しすぎる島」と呼ばれているけれど、海外通の日本人ですらも、名まえは知らっているが、同国を訪ねたひとはほとんどいない。

 わたしはことし(2018年)10月2日から、空路・ローマ経由でマルタ島に入った。目的はちょうど100年前に、地中海にやってきた旧日本海軍の若き将校・高間完(たもつ)の足跡を訪ねる取材だった。
 予備知識で、この春先には東京・新橋にあるマルタ共和国観光局を訪ねた。そこで、高間完中尉が1919年に撮影した写真と、その裏書を示した。
『寄港地のマルタの首都・バレッタで大きな書店を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈った同一(焼増し)のものだ』と記する。
 さらに付箋紙で、こう書かれていた。
『かつては、俺にも、こんな青春(26才)があったのだ。然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼ (八十五歳誕生日 偶感)』

 担当局員が懇切丁寧に、ネット、関連資料などで調べてくれた。「現在は、該当するmr.Dimecheなる本屋さんはありませんね」という気の毒な表情の顔だった。

 
 ふつうならば、ここで取材はあきらめる。100年前の高間完がマルタ島で、現地人とどんな空気感をもって接していたのか。軍人と民間人。それがやみくもに知りたくなった。日々に、マルタ共和国に行きたい気持ちが募るばかりだった。

           ☆

 私は取材型で小説を書く。架空や空想で書くのは3、40代の習作までだった。プロ作家となってから、より事実に近いところで書く、それを読者に示す姿勢が漸次強まってきた。いまでは、取材無くして、小説を書けないところにまで来ている。

「現地を歩けば、なにか得られるだろう」
 それが思わぬ真実の発見であったりする。歴史小説にはとくに有効だった。

 ただ、取材コストに見合った印税など、おやそ縁がない貧乏作家だ。子どもの頃から「おまえは欲がなさすぎる。ゼッタイに商売人にはなるな」と実母からくり返し言われたものだ。
 講座や講演でも、求められたら舞い上がり、コストの観念などはどうでもよくなる。国内ならば、いざ知らず、海外取材となると、金銭のねん出がむずかしい。
 まずはパスポートを作り、わたしは自分を鼓舞した。そして、金策を考えた。妻にむかって、「死んだときにしか入らない生命保険を解約してもいいかな。取材費に使いたい。どうせ死後、子供にわたっても、2~3日でバーッと使われておしまいだろう」と持ちかけた。

「好きなようにどうぞ」と一つ返事だった。それは本音か否かの詮索など不要だ。その言質を取ると、すぐさま旅行会社に申し込んだ。

 数少ない企画・マルタ島ツアーを勧められた。わたしには企画通りの旅など毛頭、思慮になかった。

 8日間の日程に合わせた航空券とホテルを手配してもらった。その金額はツアー・バックの2倍くらい。ずいぶんと高いものだなと一瞬思ってもみたが、生命保険の解約金額からみれば、割安感たっぷり。

 あきれ顔の妻の質問は、からめ手だった。「息子が、もし父親がマルタかどこかで死んだら、僕が引き取りにことになるの? と聞かれたけれど」と問う。
「取材先で死んだら、ボディを探したり、引き取りも拒否すればいいさ。墓など作らなくてもいいよ」

 わたしはかつて「山で死んでも、遺体は探すな、捜索費用が高いから」とつねに家族に言いおいてきた。だから50代まで、家族に登る山岳は教えなかった。
 最近は登山カードがうるさいご時世だし、社会批判も強い。だから、それはやめて、登山計画書は残していく。

「ボディも、墓も不要」
 わたしの考えが息子にうまく伝わったかどうか知らない。息子は早大時代にきな臭いアフガンとか、パキスタンとかに放浪し、数か月、連絡がとれずにいた。母親(妻)がいたずらに心配していた。血筋だろうか。父親の生死など案じるはずがない。
「この10月に転職するから、いきなり、マルタ島なんて行けないって」と妻経由で、予想通りの回答がきた。
 子どもはわが道を行けばいいのさ、と思う。

          ☆

 ヨーロッパは初めての経験だ。軽登山用30LのDバッグ一つ。パソコンと資料を入れたら、あとは下着は上下一組。乗り継ぎ先のローマで1日過ごそう。そして、下着を買い揃える。航空券はその手配だった。あとはクレジットカードがあれば、なんとでもなる。

 観光地のローマでは寺院旧跡に出むいてみたが、入場の長い列とダフ屋が群がっている。日本人と中国人の観光客ばかりで、うんざりした。

 わたしは遺跡に興味ないし、噴水とか、広場とか、ぶらぶらしてから、好奇心で、観光地に群がる客引きの乱暴なタクシーに、ものは経験で試乗してみた。むろん、値段を決めてから乗り込んだ。
 運ちゃんは想像通り、道交法などあって無いような運転で、人間やバイクはドケドケ、道を空けろ、という荒っぽい運転だ。怒鳴りまくっている。若くて美しい娘がいると、スピードを緩め、車窓から冷やかしと口笛を吹く。
 わたしは面白がっていた。カード支払いは危ないので、現金のユーロにした。下車の際にケータイを落してしまった。
「悪名高きローマだ。東京とちがって、遺失物が出てくるはずがない」
 すぐにあきらめた。

 予備のタブレットを持っていた。だが、3年前に無駄な通信費だと回線は切っている。つまり、電話はできない。メールだけである。欧州で使えるWH-FIを起動させたが、「LINE」のパスワードを忘れており、立ちあがらず、ライン電話はできない。

 高所登山、冬山では、生死を分けるアクシデントが起きても、落ち着いた判断と行動する能力がつねに求められる。それは瞬時に、気持ちを切り替えることである。
「こんなアクシデントは旅の良い想い出になる。ありがたい」
 そのままマルタ島に入った。

             ☆

 高間完とは、拙著「二十歳の炎」「広島藩の志士」「神機隊物語」で主役で登場する、高間省三の弟の子である。つまり、高間省三の甥っこである。

 完は、広島高等師範付属中学から、江田島の海軍兵学校に進み、海軍士官、太平洋戦争の勃発時には戦艦「榛名」の艦長だった。昭和20年には中将で、のちに勲一等を受賞している。

 軍歴を見れば、海軍の超エリートだった。
 
 20世紀に入ると、第一次世界大戦が勃発した。大戦後半に入ると、ドイツ潜水艦のUボート300隻が地中海で暴れ回った。英仏の軍用艦を華々しく優勢に攻めたのだ。連合軍の商船が、魚雷で延べ5300隻も沈没させられている。

 日英同盟の下で、日露戦争の海戦で勝った日本海軍が、危険なヨーロッパ戦線に派兵をもとめられた。日本国内は賛否両論。加藤友三郎海軍大臣(神機隊の加藤種之助の実弟)が第1~第3の特務艦隊をつくり、その最も危険な海域のマルタ島に、日本海軍を援軍として派遣したのである。 
 高間完中尉は第二特務艦隊の司令官のひとりだった。そして、駆逐艦の橄欖(かんらん)に乗船し、独Uボートの攻撃から、英仏の輸送船や艦船を守る任務についた。
 かれにすれば、約一年半におよぶ遠征だった。

 日本海軍の護衛活動は、英仏の連合軍諸国から、後々まで高く評価されている。

 

 高間完が80歳の晩年にしての、思い出は軍人の手柄話でなかった。太平洋戦争の軍艦「榛名」の艦長の語りでもなかった。

「これが俺の青春だった」と書き残したのは、第一次世界大戦のさなかヨーロッパに派遣された27歳の中尉の想い出である。

 地中海の孤島・マルタ島のバレッタにすむ民間人の書店主と『親友』という交流が、かれの生涯の財産だったのだ。つまり、植民地民族の人と心を通わせていた。その精神が、わたしには魅力ある人物に思えるのだ。

 1919年のマルタ島の書店主。当然ながら、当人は生存していない。それでも、Dバッグひとつで地中海に出むいたのだ。

         【つづく】