歴史の旅・真実とロマンをもとめて

幕末の御手洗「薩芸交易」の舞台に脚光 

「大政奉還150年御手洗大会」が、 ことし(2017年)10月14日に、広島県・大崎下島の御手洗港で行われた。
 同港の乙女座で、同講演のなかで「薩芸交易」から長州を巻き込んで、「薩長芸の軍事同盟に進み、それが大政奉還へと進んだ」と私が御手洗からの倒幕を語った。
 経済は政治を動かし、歴史を作る。経済の視点から、多くを語った。

 一般に幕末の歴史を語るとき、年表、あるいは政治史から語られてしまう。となると、歴史を後ろから見た辻褄(つじつま)合わせに陥りやすい。徳川倒幕が必然だと結果ありきになってしまう。
「薩長討幕」ということばすら、疑問のひとつも持たない。

 慶応3(1867)年12月9日に、明治新政府ができた。このとき、長州藩士で京都にいたのは、わずか品川弥二郎ひとり。これをもって薩長討幕はおかしくないだろうか。

 明治時代はいつからか。大政奉還、小御所会議の王政復古による明治新政府樹立がなされた慶応3(1867)年であり、、教科書で教えている一八六八年はおかしくないだろうか。

 もし戊辰戦争が終了した時点となると、箱館戦争(はこだてせんそう) 1869年になる。だれがいつ一八六八年と教えはじめたのか。


 それは明白である。
 明治新政府ができたとき、長州藩士で京都にいたのはわずか品川弥二郎ひとりとなると、ここから長州藩が倒幕に関わったとはいえない。
 まして、慶応3年の11月末には、長州藩の軍隊は薩長芸軍事同盟のもとで、御手洗港から進発し、淡路島沖、西宮、尾道で待機していたのだ。待機では、倒幕の主力とは言えない。
 長州藩の家老や藩士は、明治新政府の樹立を聞いたのみだった。ここらは歴史的事実だし、多くが小御所会議にかかわっているから、長州なんて、ひとりもいなかったじゃ、恰好つかない。

 長州閥の政治家としては、明治天皇が「五箇条のご誓文」を誓った一八六八年とするか。こんなところだろう。

 このように歴史は疑ってみることだ。鎌倉幕府だって、今頃になって年号が変わるご時世だ。そろそろ明治維新は、明治天皇が戴冠した、大政奉還、明治新政府の樹立という歴然たる事実がある慶応3年くらいに修正しないと、恰好がつかない。

 広島県の御手洗に話が戻れば、御手洗港は、薩摩の海外密貿易の湊だった。

 薩摩藩は長崎でなく、この島に外国船を入港し、綿やお茶を輸出し、武器弾薬を輸入していた。そのうえ、贋金づくりの地金は広島藩産出の銅・鉄を使う。この御手洗会所から入手していた。

 密貿易、贋金、となると、徳川幕府の下では御禁制である。一つ間違えば、島津家が改易(とりつぶし)に遭う。危険な証拠書類や証拠品はできるかぎり処分している。
 
 中国新聞は11月9日の文化欄で、表題『「薩芸交易」の舞台に脚光』と大きく報じてくれた。林淳一郎記者の署名記事である。

『大政奉還150年、広島藩の役割、解明の鍵』として、私(穂高健一)の後援と、広島県立文書館の広島藩史に詳しい西村晃総括研究員の紹介を載せている。

「薩芸交易について、知る人ぞ知る出来事。おこなわれたのは確かだが、史料は限られ、全容はぼんやりしている」と西村さんの談話を紹介している。
 
 歴史は勝者がつくる。案外、史料は焼却されていないものだ。これから幕末史研究者やファンは御手洗が面白いだろう。
「御手洗から明治維新がはじまった」
 この視点から探れば、掘り出し物が出てくるだろう。

 お金に余裕があれば、オランダ、イギリス、フランスの公文書の史料から『MITARAI』を徹底して調べられると、御手洗の密貿易の実態が浮かび上がってくるだろう。メッキ二分金をつかまされて軍艦、鉄砲を売ったイギリス商人あたりは怒り心頭で、証拠の資料は豊富にあるかもしれない。
 明治2年には、高輪談判(イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐日公使による会談)で、大問題にもなったくらいだから。その調査資料は5か国にはあるだろう。

 幕末の御手洗港の薩芸貿易という経済問題から歴史をみていくと、闇の世界、裏の世界、汚い手口から政治が動くとよくわかる。『MITARAI』から幕末史が変わる可能性は高い。

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (下)=御手洗大会の講演より


 御手洗の豪邸の白壁には、デザインとして鹿児島・桜島の岩石が使われている。

 まさに、薩摩文化の土地柄である。

 薩芸は経済的につよい結びつきがあった。経済が政治を変えるのだ。小御所会議まで、薩芸討幕で進むのだ。

 明治政府の長州閥が、「薩芸倒幕」を「薩長討幕」にすり替えたのだ。そして、義務教育となった小学校の教科書に載せた。


 御手洗の裏山から若胡子屋(お茶屋・遊郭が約100人)をみると、「遊女が逃げられない建物と樹木の構図かもしれませんね」と歴史ツアーの参加者が語っていた。


 午前中は地元ガイドの方とふたりして、御手洗の歴史散策ツアーを行った。

「ここは中世まで、越智水軍の支配地でした。城壁とおなじ石垣の造りです」と地元ガイドが語る。参加者は熱心に聴いていた。


 「明治維新は御手洗から始まった」

 この視点からみれば、芸藩誌と木戸孝允日記の倒幕の展開がぴったり符合している。

① 薩摩藩の藩主・世子が、三田尻(現・山口県)についたとき広島藩に知らせる。

② 御手洗から進発まえに、広島藩船が長州家老を長州に迎えにいく。

③ 上洛の挙兵後は、備後(福山)・備中(岡山)・雲州(松江)も巻き込む。かれらが応じないときは兵力をつかう。

 これらを含めた6か条が、木戸日記と、河合三十郎編さん「芸藩誌」に、はっきり記載されたいるのだ。
 ちなみに、広島藩士の河合三十郎は御手洗の金子邸で、この進発をとりしきり、乗船し、京都まで同行したひとりである。

 木戸は3藩進発が実行に移されると、尾道(広島県)で、陸路をいく1000人の長州軍隊の世話をしていた。
 木戸と川合、これ以上の信ぴょう性の高い人物はいないだろう。


 来年4月1日には、穂高健一著『芸州広島藩 神機隊物語』が出版される。現在は版組の編集や校正がおこわれている。
 その歴史小説では、木戸日記・芸藩誌による、3藩進発をよりくわしく展開している。


 現代の歴史教科書では、江戸時代は鎖国でなかったとか、鎌倉時代の年号が違うとか、聖徳太子の像はちがうとか、大幅な修正がおこなわれている。
 明治時代からの歴史教科書が、ずいしょで否定されてきている。


「同様に、いずれ『薩長討幕』は教科書から消えていきます。倒幕は京都の小松帯刀邸からでなく、広島藩の御手洗から始まった、となりますよ」
 大政奉還150年御手洗大家の講演において、それを強調した。


                                     【了】

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (中)=御手洗大会の講演より


 御手洗・金子邸で、150年前の薩長芸軍事同盟を語る。

 慶応3年11月26日、薩長芸の軍事密約により、長州藩の家老ら7隊の1200人が御手洗に到着した。広島藩においても豊安号で422人の兵を送りだしてきた。
(大政奉還の直後に、辻執政が広島藩兵を上洛させている。こんかいは補充追加)

 広島藩と長州藩の軍隊が、御手洗港で合流した。町役人の金子邸(写真)の茶室で、二藩の幹部が、挙兵・出航の協議をおこなっている。
 これが『御手洗条約』と呼ばれるものである。


 朝敵だった長州藩は、天皇の敵であり、偽装を必要とした。長州藩の軍艦二隻の船旗(フラッグ)は、ひとつが芸州、もう一隻は薩摩藩にした。つまり、長州兵らは身なりからしても広島藩士、薩摩藩士を装って、上洛するのだ。


 芸州広島藩と長州藩は併せて7隻の軍艦をつかう。


 同月26日夜8時に、広島藩の震天丸を先頭に、7隻の艦隊が御手洗港を進発した。そして、淡路沖、西宮へと誘導していくのだ。

 この3藩進発は浅野長勲、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が中心となった空前の6500人の大規模な挙兵だった。


 その事前の密議が、最近まで、密議がどこで行われたのか、幕末史の最大の謎だった。

 それは慶応3年11月初めに、広島藩領の御手洗で行われていたのだ。広島藩士をはじめとして、木戸孝允、大村益次郎、大久保利通ら11人が4日間にわたる密議を行っていた。

 まさに、ここから歴史が動いた瞬間だった。


 「大政奉還150年御手洗大会の講演会場となった乙女座」


 倒幕をどの時点とみなすか。諸説があるが、

 慶応3(1867)年10月15日、徳川家の大政奉還が朝廷から認められた。ここか。同年12月9日には、京都御所・小御所会議で明治新政府が成立した。ここでは徳川幕府が完全に崩壊した。一般的には、この段階で明治政府が樹立している。

 薩長閥の為政者たちは、慶応4(1868)年、天皇が東京に移ったときから明治時代だとおしえた。古来の定義の「遷都」ではないし、当時から「行幸」という小細工で民の目をごまかしたものだ。

 明治新政府はまちがいなく「御一新」の小御所会議である。いずれ、教科書で、明治維新は1867年と書き換えられるときがくるだろう。鎌倉幕府の成立が変わったように。
 むろん、長州・山口県の関係者の方々は、ずいしょで不都合になってくる。


 新政府「御一新」の小御所会議まで、長州藩兵は朝敵であり、京都に入れなかった。長州藩士はわずか品川弥二郎ひとりが潜伏するのみであった。

「わずか一人で、薩長倒幕なんて、歴史の欺瞞(ぎまん)だと思いませんか」

 えっ、ひとりですか。

「これは隠しようもない歴史的事実です。長州は倒幕に役立っていなかったのです」

 なるほど長州藩士が一人じゃ、薩長倒幕とは言えんのう。
 

 日本人は、お上のいうこと、教科書に書かれたこと、それは信実だと鵜呑みにする。だから、明治政府が都合よくつくった『薩長討幕』という表現に、後世の学者や歴史作家たちはふりまわされてきたのだ。

 明治政府が作った『幕末史』だから真実だろう、と考えたのだ。


 いまだに多くの歴史学者は、幕末の芸州広島藩の役割も、御手洗における倒幕密議すらも、まったく知らない。
 否、長州大好き学者すら、木戸日記に書かれている御手洗からの六か条にわたる出兵協約に目を叛けてきたのだ。
 片や、慶応2(1866)年の京都・小松帯刀邸で「薩長同盟」が、龍馬の龍馬の仲介で成した、とことさらこじつけてきた。

 木戸準一郎(当時)は、小松帯刀邸の談論を箇条書きにし、手紙をもって龍馬に裏書きをさせている。
 ただ、そこには薩摩とか長州とか、ひとことも書いていない。この段階で、2藩の軍事同盟などあり得ないのだ。あくまで、談論だ。

 木戸はこの段階で、徳川家が武力をもって毛利家を排除する、と思っていない。その証拠に、大村益次郎に戦術訓練をさせているが、高杉晋作に戦闘配置などつかせていない。
 幕府のいつもの威圧と嚇しだろう、「毛利家の家老を大坂・京都にさしだけといわれても、いまは病気で出むけない、と偽っておけば、それですむ」とかれは思っていた。

 現代でいえば、北朝鮮が、アメリカの軍事威圧はたんなる脅しだと高を食っているのと同じだった。


 木戸とすれば、小松帯刀邸の談論は皇軍挙兵の打診である。木戸の視線はつねに皇国国家の設立にあった。王政の復古で、長州藩はつぶれてもいい、と当時から木戸は発言している。

 木戸には、長州藩を守りぬく意識すらないのだ。町人出(医者)の木戸は、武士社会を壊す一念だった。めざすものは親政で、身分撤廃の四民平等の社会だった。

(いきなり版籍奉還、廃藩置県、四民平等、日本初の萩城・取壊しなど、木戸がやり遂げた。かたや、すぐさま武士社会温存派の長州・騎兵隊を徹底的に弾圧するくらい、武士が威張る社会が嫌いだったのだ)。

 徳川幕府から「島津幕府」に代替えした西郷隆盛の発想と、木戸孝允とは根本が違っていた。
           

                         【つづく】

                             

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか(上)=御手洗大会の講演より

「大政奉還150年御手洗大会」が、2017年10月14日が広島県呉市にある御手洗(大崎下島)で、開催された。主催者は「御手洗 重伝建を考える会」、後援は日本ペンクラブである。

 中国新聞が同日の朝刊の一面コラムで、同大会をとりあげてくれた。(9月にも前打ち記事があった)。それらを目にした同紙の読者が、広島、志和、呉、忠海、大崎上島、竹原などから駆けつけてくれた。
 むろん、私と面識のある歴史研究者や歴史愛好家たちが多くいた。



 

 芸州広島藩は、慶応3年に2度も「大政奉還の建白書」を徳川幕府に建白している。土佐藩よりも先に建白した事実がある。

 隠されていた広島藩の幕末史が、最近はしだいに世に知られはじめてきた。中国新聞社から、文化部、論説委員がそれぞれの立場から、同大会を取材にきた。
 

 中国新聞社の文化部・林記者 穂高健一、同新聞社・山城論説委員、主催者・事務局の井上さん。(写真・左から)

 芸予諸島の御手洗は、風待ち潮待ちで、江戸中期より繁栄した港町である。大阪と御手洗は米相場が連動し、西日本の経済の中心地になっていた。
 また、近海は御手洗航路とも呼ばれていたのだ。

 薩摩藩が18世紀から、密貿易港としてもつかっていた。一般には長崎グラバーと薩摩長崎藩邸でとらえられているが、長崎奉行という徳川幕府の強い監視の目が光っている。捕まれば、命がない。薩摩藩士でも、徳川家は怖い存在だ。

 この御手港は、薩摩藩にとって芸州広島藩からの借用地の面があった。同地には1717年の薩摩藩・二階堂の墓もある。幕末にはオランダ商人を長期に逗留させたうえ、薩摩藩は闇の国際貿易をおこなっていた。

 同港の海岸沿いには、他にも17藩の船宿があった。西国の大名が船で参勤交代するときには、大半が御手洗に立ち寄っている。

 繁栄する御手洗には、公娼・お茶屋が4軒あった。遊郭は幕末・維新志士たちのたまり場で、情報交換の場であった。
 倒幕、佐幕、公武合体あらゆる人物たちが、この御手洗に情報を取りにやってきたのだ。

 草莽(そうもう)の志士(脱藩浪士)たちにとって、京都となると会津・桑名藩士や新撰組・見回り組の厳しい目があるし、御手洗のほうがより安全な港町だった。つまり、過激派から佐幕派まで、世上の情報があつまる宝庫だった。
 
 この御手洗から幕末の歴史が動くのだ。
 


 慶応3(1867)年11月に、薩長芸軍事同盟に基づいた3藩が、6500人の最新兵器をもった軍隊を京都へと挙兵する。

 その密儀が事前に御手洗でおこわれた。
 この6500人の軍隊は皇軍(官軍)として、京都御所の警備、天皇の護衛(近衛兵)が目的だった。

 同年12月には、小御所会議で正式に新政府ができた。翌月、西郷隆盛の権力欲から、3藩進発の軍隊が当初目的とはちがい、「鳥羽伏見の戦い」につかわれたのだ。

 このとき、広島藩の執政・辻将曹は、大政奉還で徳川家は政権を奉還しているし、徳川宗家とは無関係だ、これは薩摩・島津家と会津・松平家の私恨だといい、一発の銃弾も撃たせなかった。

 毒舌家の勝海舟は「幕末にろくな家老はいなかったが、満足なのは、広島藩の辻将曹と彦根藩の岡本半介(井伊大老の暗殺を上手に処理して、改易を逃れた)のふたりだけである」と言わしめた。
 辻将曹は大政奉還を最も推し進めた人物であり、徹底した平和主義者だった。辻将曹は卓越した政治感性で、西郷隆盛の腹の内、裏の裏をを見抜いていたのだ。鳥羽伏見の戦いでも、非戦論をつらぬきとおした。

 ここで、広島藩が明治政府の主体から外れていく。

 辻将曹が明治政府の中核にいれば、かれは富国強兵という徴兵制の軍事国家をつくらなかっただろう。まちがいなく。勝海舟は江戸城を無血開城をし、共通するものがあったのかもしれない。

「大政奉還150年記念・御手洗大会(1)=10月14日(土)

「大政奉還150年記念・御手洗大会」が10月14日(土)に開催されます。慶応3(1867)年10月14日に、徳川15代慶喜将軍が朝廷に大政を奉還しました。

【場所】   広島県・大崎下島「御手洗」(現・呉市豊町御手洗)

【主催者】 「御手洗 重伝建を考える会」代表・尾藤良

【後援】 日本ペンクラブ、幕末芸州広島藩研究会、フジサンケイ ビジネスアイ、(社)御手洗デザイン工房、他

【開催内容・イベント】

①  講演:穂高健一『芸州広島藩はなぜ大政奉還の運動へ進んだか』(乙女座)

②  郷土史家(複数)と歩く、「御手洗と幕末歴史」の史跡を訪ねる。
 七卿の都落ちの庄屋・竹原屋、薩摩藩の密貿易港の遺跡
豪商・鴻池と住吉神社の玉垣(経済的な結びつき)、広島藩の砲台跡

③  金子邸・茶室の特別拝観(広島藩と長州藩の出兵条約を締結した場所)

④  江戸みなと展示館 特別企画『幕末の嵐と御手洗』の展示会

⑤  若胡子屋(元遊郭)の拝観 (中岡慎太郎、高杉晋作、河井継之助、木戸孝允、坂本龍馬、吉田松陰、河田佐久間の諸々の上陸記録がある)

【世に知られていない、幕末史実と事実の宝庫】

① 御手洗港は西国諸藩の経済の中心地。指定船宿として薩摩、肥後、長州、中津、延岡、飫肥、小倉、福岡、宇和島、大洲など16〜17藩があった。

② 船宿には各藩士が常駐し、勤王、佐幕、草莽志士などが日々に上陸し、遊郭(広島藩公認4カ所)で、秘かな情報収集の場としていた。

③ 薩摩藩の密貿易港で、極秘に西欧船を入港させ、世界綿不足に目をつけて輸出でぼろ儲けした。巨額の贋金づくりの銅・鉄を御手洗港経由で鹿児島に運ぶ。それら「メッキ2分金」でイギリスから軍艦・武器を大量に購入する。

【問合せ先】 潮待ち館 0823-66-3533    ※交通と地図は裏面

【交通】

・東京~新幹線・三原駅~呉線・竹原駅 →(バス)竹原港フェリー乗り場
・羽田 ~ 広島空港 → 竹原港(リムジンタクシー1000円・要予約)→ 大長(おおちょう)行き (高速連絡船・45分) 大長桟橋から・散策しながら御手洗港へ徒歩で約15分

・バス 広島市内(呉経由)→ 御手洗港バス停 高速バスで2時間20分
    中国労災病院(新広駅付近)→ 御手洗港バス停 1時間30分
 
・車では、
 広島呉道路呉ICから安芸灘大橋有料道路(ここだけ有料橋)を経由し、車で約1時間10分

・車とフェリーでは、 
・竹原港→(フェリー)白水・垂水(大崎上島)→明石港(大崎上島)より(フェリー)→小長港フェリー(大崎下島)

「大政奉還150年・御手洗大会」の歴史的な背景(2)=三藩進発

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれました。翌10月には大政奉還が成立します。この段階で、武門政治の終焉で、朝廷政治に変わります。

 芸州広島藩は2度も大政奉還を建白しています。(広島・浅野家の史料『芸藩誌』による)た。しかし、まだ幕府の存在が継続し、新政府の樹立まで及んでいませんでした。

 同年11月3日から7日まで、薩長芸土の4藩が御手洗で『4藩軍事同盟』を結びます。新政府を正式に発足するには軍隊が必要だと言い、薩摩、長州、芸州広島の3藩は、6500人の西洋式軍隊の挙兵へ動きます。3藩進発(土佐藩は山内容堂の不許可で挙兵できず)。

 
 問題は、当時、禁門の変から朝敵だった長州藩をいかに上洛させるか。それはとても重要な作戦です。

 11月末に、長州の家老以下1500人が、まず御手洗にやってきます。金子邸(役人の私邸)で、芸州広島藩と長州藩が具体的な取り決めをおこないます。長州の軍艦の旗はひとつが芸州、もう一隻が薩摩藩の旗をつかう。3藩進発が実現します。

 長州艦は淡路沖で待機する。一部は西宮・六湛寺に上陸する。さらには長州藩は尾道にも1000人の兵が待機する。(尾道では木戸孝允が出向いて再配を振っています)

 長州藩は、まだ京都に入れずです。孝明天皇から、明治天皇に代わっていますが、朝敵は解けていません。

 翌月に、歴史が大きく動きはじめます。

 12月8日に、この3藩進発の薩摩と芸州広島の兵、さらに従来から京都にいた薩芸の兵が、一気に、京都御所の総ての門を閉鎖します。

 その勢いで、かつて京都守護職だった会津兵、桑名兵、新撰組などは御所まわりから排除されてしまいます。
 翌9日には、小御所会議が開かれて、「王政の大復古」により、明治新政府ができます。と同時に、長州藩は朝敵を解除されます。

【御手洗から明治新政府がスタートした】とも言えます。

 この3藩進発の薩摩兵と長州兵は、西郷隆盛による鳥羽伏見の戦いへと駒を進めていきます。

 芸州広島藩は、「これは薩摩と会津の私恨だ」と云い、伏見にいた藩兵には一発も銃を撃たせません。
 さらには、天皇の親政国家において、「徳川家の首根っこまで、絞め殺すことはない」と平和主義をとります。薩長芸軍事同盟で、倒幕を推し進めてきた広島藩が抜け落ちます。

 薩長の下級藩士は徳川慶喜を討つ、そしてみずから政権の座につくためにも、権力欲と名誉欲とで、戊辰戦争へと突っ走っていきます。

 こうした明治新政府づくりの原点となった、御手洗において「戊辰戦争150年御手洗大会」を10月14日(土)に開催します。

          写真 = 郡山利行 : 御手洗


横須賀港で、『戦争と平和』の定義にこだわってみた(2)

「平和とはなにか」の定義になると、むずかしい。 私は横須賀港を一望しながら、あれこれ拘泥(こうでい)して考えてみた。とくに、戦わない平和を思慮した。

 ベトナム戦争で、米国の20歳前後の青年たちが数万人も戦死した。ベトナム人の家族たちも大勢が戦禍で亡くなった。
 半世紀も経てば、短パン姿の米国女性がハノイ観光を楽しんでいる。あのベトナム戦争の犠牲者たちからすれば、あの戦争とは一体なんだったの? と墓地のなかで苦しんでいるとおもう。

 日本人もまったく同じだ。「数百万人も死んだ太平洋戦争って、いったい何だったのか」。横須賀で献花する老婆との一瞬の出会いから、「祖国のため」ということばも怖いな、と思った。

 ほとんどの戦争が終結すれば、なぜ、あんな戦争をしたのか、と決まって疑問におよぶ。戦わなかった方が、まだ犠牲者が少なかったとなってしまう。それが戦争の結末だ。


 人間には動物的な欲望の対立がある。国家間、父子、夫婦、兄弟すらも、人間どうしの対立におよぶ。感情の憤りに任せれば、それは本能であり、戦争の定義の原点になる。
 

 人間には野心(本能)による欲、利益、差別がある。時間の経過で、心理が変わる。結婚した時に、「家庭平和」を誓って祈っていても、その後の対立から離婚、破綻、子どもの家庭内暴力に及んだりもする。祈りや誓いには脆(もろ)さがある。

 

 
平和とは対立を非暴力で解決し、それを維持することである

 私はそう定義してみた。非暴力は口でいうほど簡単ではない。


【ケース・スタディー】

 某国から一発のミサイルの列島に着弾があった場合。
 きのうまで『平和を叫ぶ』ひとが、メディアや周囲の誘導で、祖国防衛のために即時交戦するべきだ、という政治家・軍人たちを支持する。つまり、戦争の加担者になってしまうおそれがある。


 外国から攻撃されても、戦わず、『非暴力の抵抗』をつらぬけば、多くの犠牲をともなう。こうした戦争を未然に防せげる交渉力は、教育によって養えるものだ。

① 高度の語学力とディベート力(論術力)のある、有能なひとを養成する。

② 倫理・道徳による話合いの解決能力を身につける。

③ 国際経済の秩序、社会協力という相互精神の能力を高める。

『教育は国家をつくる』。つきつめれば、『人間どうし話せば、わかる』という粘り強い交渉力、説得力をもった外交官、経済人、文化人が豊富な国家にすることである。


 私が所属する日本ペンクラブも一つであるが、国内には大小を問わず、数々の平和活動団体がある。「戦争抑止」、あるいは「戦争拡大に歯止めをかける」という役目を負った展開をしているはずである。

 訪日する外国人が多い現在、国際交流の視点が必要である。

① 外国人たちの参加型の平和活動にする。(飲食業で働くアジア人も多い)。

② 欧米、アジア人らを幹部の一人とした活動をする。日本人だけの独りよがりにならない。

③ 英語のみならず、少数民族の語学も身につけていく。(自動翻訳機器が発達しているし、片言でも通じる)。

④ 将来の海外連絡網の充実につなげていく。


 この連絡網がとても重要になる。日本がいざ攻撃されたとする。

『私たちは攻撃されています。血で悲惨です。某国の攻撃を止めさせてください』
 国民がみんなしてSNSで世界じゅうに発信していく。

 戦争を仕掛けてきたあいてに、「非武装の抵抗」とはこんな手段ではなかろうか。つまり、武器をもった本能の防禦でなく、理性と知性の抵抗である。


 庶民がかならずしも、最善の選択をするとは限らない。

 国内の戦争推進者たちは勇ましく勢いをつけてくる。「祖国のために戦う。非戦論のお前たちはきれいごとだ」という批判と罵声をむけてくる。
 きのうまで「平和を祈る」人が、戦争をあおる、おおきな声に動かされる。むしろ、それが正しいと判断する。

 私たちが非戦闘、非暴力の抵抗を貫けば、ナショナリストが敵となるだろう。それらと命がけで向かい遭わなければ、戦争抑止はできないときが生じる。

 人間には戦争(本能)と平和(理性)の血が流れている。環境によって、どっちの荷重が大きくなるかである。学びと、平和活動とで、理性という抑止の芽が伸びていく。
 
                       【了】

横須賀港で、『戦争と平和』の定義にこだわってみた(1)

 8月の真夏の盛り、横須賀(神奈川県)にでむいた。同港は、現在は米軍・第七艦隊の海軍基地、自衛隊の海軍基地である。さかのぼれば、江戸幕府の小栗上野介(おぐりこうのすけ)勘定奉行が、フランスの資金と技術で横須賀製鉄所を建設をはじめたところである。
 その当時のドッグが、今なお米軍横須賀基地のなかで使われているし、製鉄機械の圧延機は、平成時代まで使用されていた。


 日本の資本主義・近代化は徳川時代の小栗上野介からはじまった。しかし、明治時代から、教科書で、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と陳腐な川柳を教科書にのせて、「近代化は明治からはじまった」と嘘をおしえてきた。現在もつづく。

 徳川政権が平和裏に大政奉還をした。それにもかかわらず、薩摩藩が偽金で国内経済を混乱させたうえ、西郷隆盛が江戸のテロ活動、さらに薩長土の兵士が鳥羽伏見の戦いを起こした。さらには戊辰戦争という暴力で明治新政府を作った。
 それら明治の為政者たちは、自分たちをより大きくみせるために、数多くの嘘を歴史教科書のなかに織り込んだ。
 意図して軍国少年・少女をつくりあげたうえ、祖国のために、という挙兵で死に導いた。

 古今東西、暴力でつくった国家は軍事政権であり、戦争国家になるのが常である。明治政府は、富国強兵策をとった。それは日本が巨大国家になる正しい施策だと、教科書をとおして嘘を教えてきた。
 国民の租税の使われ方として『富国冨民』で民主、福祉などで還元されるべきものだが、それにはほど遠く、軍需産業と政財界・財閥が癒着(ゆちゃく)する、とてつもない最悪の国策であった。

 かれらは戦争を美化した。教育から初めて国民を血の戦場に送り込んだ。そして、太平洋戦争で終結した。


 私たちは今、『平和』をかんたんに口にする。考えてみれば、「平和とはなにか」。明瞭に定義できているのだろうか。はなはだ、心許ない。翌週は、広島にいくので、なおさら深く考えてみた。

 八十代後半の老婆から、横須賀港の岸壁で、ふいに呼び止められた。
「シャッターを押してくれますか。借りてきたカメラで、使い方がまったくわからないのです」
  こころよく応じて、私は数枚、撮影してあげた。自衛艦の背景がいいという。さらに、数枚撮った。

「わたしの実父が日本海軍兵で、乗船した軍艦が横須賀から出発し、瀬戸内海の海域で沈んだのです」
 老婆は毎年、終戦に近い8月には、この横須賀の海に献花にきているという。周防大島沖で沈んだ「戦艦・陸奥」(1943年の6月8日に突然謎の沈没。死者1000人以上)かな、判断し、私はその話題にふれてみた。
 終戦から一年後に、紙ぺらが遺骨としてとどき、戦艦名はわからない?、と応えていた。話しは転じて、老婆の実兄は中国大陸から引揚ですと言い、悲惨な状況を語っていた。

「戦争って、いやですね」
 私がそういった。
「父は祖国のために戦ったのです」
 老婆がちょっと嫌な顔をされた。
 内心は、腹を立てているのかなと、私はその表情を察した。

『父は祖国のために戦った。だから、いまの日本がある』
 そうかたくなに信じているだろう老婆にすれば、平和を享受(きょうじゅ)できる次世代から、「戦争って、嫌ですね」と片づけられては、父親の死がムダ扱いで、不愉快におもったのかもしれない。
               【つづく】

湊川神社(神戸)巫女(みこ)との縁はここにもあり

 神戸駅前の湊川(みなとがわ)神社に行って、えっ、こんなに大きな神社なんだ、とおどろいた。前まえから、同神社は気になっていた。
 その実、楠正成(くすのきまさしげ)なる武将は、名まえは知っていても、複雑な南北朝時代のことで、内容はよくわからなかった。

 いま執筆中の長編歴史小説の作品には、頼山陽が描いた『湊川の戦い』を登場させている。鎌倉時代から南北朝にかけた一連の歴史を知り、それなりに精読して同神社にでむいた。
 

 湊川の戦いは、建武3(1336)年5月25日に、摂津国湊川(現・神戸市)で、九州から北上した足利尊氏(あしかがたかうじ)と、少人数で迎え撃つ新田義貞(にったよしさだ)・楠正成(くすのきまさしげ)の間で行われた合戦である。

 私が、この湊川の戦に関心を寄せはじめたのは、約10年ほどまえ、新谷道太郎「維新志士・新谷翁の話」と出会ったときからである。

【1節】

『四藩軍事同盟』(薩長土芸)が、御手洗で結ばれた。4藩連合が成立しても、はたしてこれが都合よくいくかどうか、みな心配である。
 坂本龍馬がこういった。
「薩長芸土が力を合わせても、味方はわずかに200万石、その兵力は1万人にも足りない。しかるに徳川家は800万石を持っている。旗本八万旗がひかえている。まだ、その上に150か国の大小名がつくと、数の上では勝ち目がない」
 そう一人、がっかりすると、外の3藩のものもみな弱る。
「坂本君、君は日本政紀(せいき※頼山陽著)を読んだか」
 私(新谷)はひとり不思議に元気がでた。
「そのようなものは読んだことはない。それがこの場合何になるのじゃ」
「まあ、聞け。それでは話そう。むかし建武の中興に、楠正成はどうじゃった。とうとう足利尊氏に負けて、湊川で討ち死にをしたが、今になってみると、はたして尊氏が勝ったのか、正成が敗けたのか、わからぬではないか。
 水戸中納言光圀は、湊川に石碑を建てて、『嗚呼忠臣楠氏之墓』と書かれたが、尊氏のために石碑を建てたものがどこにあるか。
 考えてみると、正成は戦いに敗れたが、誠の道で勝ったのである。我々はぜひとも勝たねばならぬのであるが、よしや戦いには敗れても、この誠の道に立つならば、精神において勝つ、結局は必ず大勝利であるぞ」
 というと、坂本龍馬は気を取り戻し、
「君は変わったことを考えているの」
 と元気づいて、外の3藩のものもみな元気になる。

 このなかで、坂本龍馬は書物を読まない男、剣道は5段だと紹介されている。

 長州藩の木戸孝允(桂小五郎)のなかでも、「湊川の戦い」関連がでてくる。
 禁門の変の直後から、京都留守居役だった桂小五郎は、德川幕府に追われる立場になった。ひそかに身を隠し、出石(いずし)に250日間潜伏していた。
 やがて、下関に帰る途中、大坂から船に乗り、神戸で上陸し、湊川で楠正成の墓所に参った。と同行した広戸直蔵(ひろとなおぞう)が書き残している。

 桂小五郎は少年時代に、医者だった父親に頼んで、頼山陽の「日本外史(がいし)」「日本政記」を買ってもらったという。これを熱心に読んで、皇国思想を身につけた。この湊川の戦いの楠正成の「死の戦いの決意」をつかい、長州藩の結束にむすびつけた人物である。

『足利尊氏は水軍の大将なり、足利直義(ただよし)は陸軍の大将になっていた。陸軍は総勢50万と称していた。正成は手勢700人を率いて、湊川に陣していた。~』
 頼山陽は日本外史で、そう表現している。

 この皇国史観は尊王攘夷運動の柱となった。明治からは政治思想の中心に座った。さらに大正、昭和20年の太平洋戦争の終結まで国民に深く入り込んでいる。
 幕末史を書く以上は、尊皇派の考え方は避けて通れない。いちどは訪ねておこうと、神戸駅で下車し、湊川神社に出むいた

 東広島を朝に出発し、姫路城で4時間以上も過ごしたので、湊川神社には午後5時半だった。資料館にも、水戸中納言光圀が湊川に建てた石碑『嗚呼忠臣楠氏之墓』も囲いがしてあって、内(なか)に入れなかった。
 社務所の巫女がいたので、資料を2冊買って後にした。
 
 境内に掲げられていた、大看板の『大楠公御一代記』があった。購入本を読めば詳しくわかることだが、せっかく同神社に来たらからと思い、隅々まで読んでいた。
 可愛い顔の巫女が小走りでやってきた。気配をさして、ふりむくと、「忘れ物ですよ」と、デジカメを届けてくれた。本を購入した時、ふいに脇に置いたままで、パラパラめくりながら立ち去っていたのだ。
 お礼をいいながら、「よかった、ここ数か月撮ったデータがバックアップなしで、そのままだった」と安堵した。
 
 現在、執筆中の歴史小説では、プロローグ、エピローグにおいて「広島護国神社」の巫女を登場させている。
「高間省三よりも、巫女がきわだって立ち上がり過ぎていない?」と編集者にからかわれた。
 これも、神社の縁かな、と謝意の気持ちを深めた。
 

姫路城(白鷺城)あのいじめられっ子は健在かな、どうしていのかな? 

 小学生のころから、姫路城はいちどは行ってみたかった。

 それは広島の離島に転校してきた少年(小学4、5年?)が「白鷺城は真っ白できれいだ。毎日、見ていた」という語りが、私にはずっと記憶に残っていたからだ。
 
「城をみてみたい」と思った最初が、姫路城でもあった。しかし、わたしは歴史小説を書く作家になっても、白鷺城は足がむかなかった。

 広島と東京間を往復する、かんたんに立ち寄れるルート上にあるけれど、姫路下車はいちどもなかった。

 その少年は、転校後に、すぐに登校拒否児になった。

 広島の島っ子たちは、いじめは上手だ。乱暴だ。

 近年、メディアなどで、いじめ問題がでてくると、「最近はひどい。むかしはそんなことはなかった」という。

 それを聞くたびに、「嘘つけ、むかしのほうが、もっと酷(ひど)かった」とおもう。コメンテーターのいつものいい加減な発言にうんざりしながらも。

 と同時に、白鷺城を思い浮かべる。

 少年の名前は忘れてしまった。もう半世紀もまえのことだから。

 学校の先生に命じられて、朝は交代で、登校拒否児のかれを迎えに行く。

 女郎屋の裏手の小さな借家だった。

 しかし、少年は家から出て来ない。


 なぜ、登校拒否児になったか。

 クラスメートは、すべてわかっていた。

 「おまえの母さん、女郎だ。女郎ょっ子だ」

 「迎えにきたぞ、女郎ょっ子」

 これでは、学校に来るはずがない。

 「早くでて来い、女郎ょっ子」
 

 島の遊郭は、内航船の船員をあいてに繁盛していた。

 母親はそこで身を売る。生きていくため、子育てのために。姫路から流れてきたのだろう。

 子どもは残酷だ。そんな家庭の事情など、みじんも理解していない。

 戦後の男の子は、乱暴だ。喧嘩が遊び道具の一つだ。

 理由は簡単だ。周囲の大人の男性はかつての軍人経験者ばかりだ。

 教職員だって、数年前まで、銃剣で人間を殺していたのだから。
 
 教師に殴られなかった生徒は、いるのかな? 男子生徒ではきっといないだろうな。


 「全体責任だ。全員ならべ」と言われて、殴られた。1度や2度ではない。

 当然のこととして、耐えた。親など話すわけがない。

 不愉快だったら、殴る、という軍人の残影が、子ども社会にまで伝染していた。

 だから、子どもたちは平気で喧嘩を売る。

 「女郎ょっ子」は、転校当初は、白鷺城をなつかしげに語って聞かせていた。

 しかし、田舎の島っ子には、都会っ子として、鼻持ちならなかったのだ。

 なにかと都会からの転校生には、ささいなことで喧嘩を売る。

 喧嘩して、泣いて、しょげる奴は弱虫だ。笑いの種だった。

 負ける奴が悪い。

「くやしかったら、かかってこい」

 男だったら、喧嘩を売るのが当然だった。

 
 日本は敗戦だったけれど、軍人精神、任侠の世界がまだ持てはやされていた。清水次郎長、国定忠治、鞍馬天狗が英雄だった。

 日本はアメリカに負けた。しかし、中国や朝鮮が戦勝国だと認めていない。かれら軍人を蔑視する風潮があった。
 日本人はアジアで最も強いんだ。そういわれて、子どもたちは信じて育ってきた。

 そんな大人の空気が、子ども社会にも影響を与えていた。

 「弱い子をより叩きのめす」
 
 日本軍人はつよい、アジアは弱い。その誤認識と妙に共通していた。

 私は全国津々浦々、かなり城をまわっている。歴史作家としても、城は研究対象だ。

 このたび、『家康と播磨の藩主』(播磨学研究所)の共著の伊藤康晴さん(鳥取)から謹呈された。「西国の将軍、姫路城主・池田輝政」というタイトルで執筆されていた。

 伊藤さんとは1-2年にして、鳥取市に出むいて飲んで語る近代史家だ。

 これを機会に、姫路城主に行ってみよう、と決めた。8月12日に出むいた。
              
 わたしは少年の面影をどこか探していた。姫路駅から白鷺城の往復で、少女の裸身がやたら目立った。このくらいの年齢のときかな。