歴史の旅・真実とロマンをもとめて

幕末彼氏伝 = 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会のお礼の挨拶

 メインテーマ「幕末彼氏伝 ~集え!広島藩の志士たち、伝説はここから始まる!」が2019年3月21日(祝)、JMSアステールプラザ(広島市中区加古町)1階の市民ギャラリーで開催されました。
 これは穂高健一著「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった)を原作としたものです。主催者から、関係者や来客者、支援してくださった方々感謝のメッセージが寄せられています。

【メッセージ】

 おかげさまで、総来場者数は368名と多くの来場者があり、たいへんな盛会となりました。ありがたい事に、こんかいの関係者の皆さまからは、こちらが驚くような、ご提案を沢山、たくさん頂くことができました。
 そのたびに、担当としては勇気と元気をもらうことが出来ました。

 おかげさまで、当初の予定した何倍も良いものを実現することができました。すべて関係者のみなさまのご協力によるものです。本当にありがとうございました。

 会場の熱気もすさまじく……。わたし自身はサウナにいるような状態で、頭から湯気が出ておりました。

 同イベントでは、老若男女の来場者がありました。広島藩への関心の高さを感じることができました。
 とくに、中央ステージでのイベント時間ちゅうは、これ以上来場者が集まったらどうしよう、会場内がオーバーフローし、危険かもしれない……と、主催者のわたしは内心ヒヤヒヤしておりました。



 こんかいの「幕末彼氏伝 」にはイラスト、マンガ、演劇、アテレコ、さらにコスプレなどサブカルなコンテンツを活用いたしました。
 広島藩の歴史への興味関心を高める、その機会を創出する。その試みの第一歩を踏みだし、今後に大きな可能性を感じることができました。

 関係者・来客者のみなさまの温かいご支援、ご理解、ご協力があってこそ、ここまでの強いうねりとなりました。

「幕末彼氏伝 の打ち上げ懇親会においても、出演者の方、スタッフの方、みなさまの方から、今後もいろいろな創作をしていきたい、というお話もありました。
 今後も多彩なコンテンツが産み出されるのでは……と、胸がワクワクと高まっています。


 会場内でアナウンスしたとおり、こちらの写真はすべてネット、SNS等でのUP、拡散は自由です。

 こちらよりダウンロードしてお使いください。(期限は3月28日までです)。今後とも何卒、どうぞよろしくお願い致します。


 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会 事務局

  粟河瑞穂(敬称略)

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます

【幕末彼氏伝】第一話~第三話『大政奉還』の制作者たち=メッセージ(下)

 

「幕末彼氏伝」(広島)が、平成31年3月21日(祭)場所 JMSアステールプラザ1階・市民ギャラリーで実施された。
 古今東西、歴史を変えるのは若者だ。「歴史は真実でなければならない」と、広島の若者が、明治政府が歪めた歴史を正す。そのために燃えあがってくれた。
 それは歴史に関わる大きなしごとだといえる。

              ☆
  
 イベントの開催の直後、彼らからコメントをもらいましたので、紹介します。


 総合学園ヒューマンアカデミー広島校 金井さん。

 この度は、貴重な機会を頂きまして、誠にありがとうございました。

 当校の学生・卒業生たちも貴重な体験が出来大変喜んでおり、また多くの方に学生たちの活躍を見て頂く機会を設けられたこと大変ありがたく思っております。

 せっかく頂きましたご縁を大切に、マンガ化計画も追って、ご相談などさせていただきたいと思います。今後共よろしくお願いいたします。

 中久保涼さんは「幕末彼氏伝」で高間省三等のキャラクターデザインを担当された。

「幕末彼氏伝」のイベントお疲れ様でした。高間省三などのキャラクター制作についても、企画当初から色々とアドバイスや助言を頂き誠にありがとうございました。

 とても良いキャラクターが出来たと思います!

 なかなか、ここまで大きなイベントの制作物に携わることがないので、とても良い経験にまりました。自分の制作物がこうやって日の目を見る事は、とても嬉しくもあり、自慢になります。

 イベント中も、貴重なお話などを聞かせて頂きありがとうございました。
 今回のイベントを通して穂高様や多くの方々とお会い出来る良い機会となり、とても貴重な1日となりました。

 またご一緒できる機会があればと思います。

 漫画を担当の藤井(フジィFG)さん

 幕末彼氏伝にて漫画を担当させていただきました。大会当日は、たいへん貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。

 私自身、教科書で教えてもらった内容でしか歴史を知らず、広島にこのようなすごい人物がいたのかと改めて勉強になりました。
 穂高先生の著書も改めて読み直し、さらに見識を深めていきたいと考えております。そして、このような活動に私自身携われたことを大変嬉しく感じております。

 これをご縁にお話を頂いております、漫画化を進めていけたらと思っております。またご相談させて頂くことも多いかと思いますが、その時はご指導のほど是非ともよろしくお願い致します。

 キャラクターやイラストを担当の中久保渉さん

「幕末彼氏伝」で綾・浅野のキャラクターやイラストを担当させていただきました。開催日はとても充実した一日でした。

 穂高先生ともお話でき嬉しかったです。こんかい幕末彼氏伝に関われて、本当に良かったと思っております。
 また、今後企画などでお会いする機会がございましたら、よろしくお願い致します。


 上口雅彦さん

 大会当日は遅くまでありがとうございました。上口ジョウグチです。初めての聞く話ばかりで、勉強不足ですが、とても興味深い貴重なお話ありがとうございました。

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます
 

【幕末彼氏伝】第一話~第三話『大政奉還』の制作者たちへのメッセージ(上)

 浅野家は名家である。豊臣秀吉の正室のネネは、浅野家から出でいる。初代の浅野長政は5奉行の筆頭(現代の内閣総理大臣)として、秀吉の指示の下で太閤検地と刀狩を起こった。

 戦国時代の群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の乱れた時代において、日本統一をおこなった実質的な最大の貢献者である。現在の土地台帳の基礎をつくった人物である。

 浅野家が紀州から広島に入封(1619年)してから、ことしで400年である。広島浅野宗家・初代の浅野長晟(あさの ながあきら)の正室は、德川家康の3女・振姫である。

 広島藩は外様大名だが、秀吉時代から德川家=浅野家はたがいに深い結びつきがあった。このことが浅野家と徳川家がともに幕末において、皇国(こうこく)思想から、世界史にもめずらしい無血革命といえる幕府の解体、『大政奉還』(たいせいほうかん)という徳川家が天皇家に政権返上をおこなったのである。

            ☆

 大政奉還とはなにか
 それは封建制度の士農工商の封建制を枠(わく)をはらい、身分にかかわらず、優秀な人材を政治の執政者(しせいしゃ)として選ぶ。こうした民主的な国家をつくることだった。つまり、立憲民主主義をめざしたのである。

 しかし、政権欲にかたまった薩長の下級藩士が、巧妙に鳥羽伏見の戦いを起こした。そして、「大政奉還」で目指した民主政権を転覆させてしまったのだ。ここに日本の不幸が起きた。

血で奪った政権は、かならずや対外戦争か内戦をおこす
 この格言通り、薩長の権力者による政権が太平洋戦争の終結までつづいた。日本・アジア人々たちがとてつもなく血に塗られた歴史となった。この歴史的な真実は否定できない。

           ☆  
 
 大政奉還の民主政権のまま150年推移できていたらならば、と悔(く)やまれてならない。2度と戦争を起こさせないためにも、幕末史の真実を知らねばならない。温故知新(おんこちしん)。そこから学ぶべきである。

 明治からの薩長政権にとって、幕末の広島藩・浅野家の平和思想にもとづく倒幕運動は目ざわりだった。
 なぜならば、広島藩が倒幕の主体だったとなれば、新政権にとって自分たちを都合よく、大きく見せるためには不都合だったからだ。そこで、浅野家の家史「芸藩志(げいはんし)」の封印からはじまった。
歴史は為政者の都合よくつくられる
 この典型的な事例である。

            ☆

 芸藩志が昭和53年に300部限定で出版されたのである。平成26年に穂高健一著「二十歳の炎」、その改訂版「広島藩の志士」、さらに「神機隊物語」として、幕末広島藩の活躍がよみがえった。

 広島藩・浅野家臣の若者が神機隊を起ち上げた。平和と戦争の狭間で、民のためにいのちを賭けた。大砲隊長の高間省三(浅野家の家臣)は、20歳にして浪江の戦いで死す。
 広島護国神社の筆頭祭神である。この若さにして、大神社の筆頭祭神。すごい人物が広島藩にいた。この事実を知り感動したのが現代の若者たちだ。

 平成のこの時代に、広島の若者が高間省三たちの生き方に感動し、「世に広めよう」と立ち上がった。燃えた。「幕末彼氏伝」の開催へとこぎ着けた。広島市が主催となった、文化庁の認定も取った。
「幕末彼氏伝」(広島)が、平成31年3月21日(祭)に実施された。

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます

【つづく】

【幕末彼氏伝】 第一話~第三話 『大政奉還』 =マンガで観られます

幕末彼氏伝 ~集え!広島藩の志士たち、伝説はここから始まる!~
 
 開催日 : 2019年3月21日(祝)

 場所 JMSアステールプラザ 1階 市民ギャラリー

   広島県広島市中区加古町4番17号

  ☆ 『幕末彼氏伝』開催委員会が、

 穂高健一著「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった・推薦/日本ペンクラブ 吉岡忍会長)を原作とし、

 『大政奉還』としてマンガにしています。

  マンガ制作 総合学園ヒューマンアカデミー広島校 マンガカレッジ


    声の出演 高間省三、綾、浅野長訓、辻将曹、武士など、

        同校パフォーミングアーツカレッジの皆さん
 
    キャラクター・デザイン : 中久保渉

    音楽 : あそうちゃんねる

    監督: 粟河瑞穂

【マンガがすでに動画で観られます】

【幕末彼氏伝】第一話『大政奉還』

【幕末彼氏伝】第二話『大政奉還』

【幕末彼氏伝】第三話 『大政奉還』


写真 : HP「総合学園ヒューマンアカデミー広島校」より

災害は忘れたころにやってくる=安芸大洪水:165年前

 およそ年表で書かかれた歴史作品には斬新さがないし、面白みがない。早いはなしが、官制幕末史の領域を出ていない。
「これが真実だ」と謳(うた)っていても、作者の頭のなかで、こねくり回しているにすぎない。作者が現地に出むいて新発見したとか、埋もれていたものを発掘したとか。なにかしら根拠となるものがないと、本を売るキャッチフレーズの真実だ。


 幕末歴史小説を書くには政治、経済、文化(庶民)、思想の4本柱という複合の目線が必要だと考えている。
 庶民がどんな目で、事象をみていたか。瓦版(かわらばん)もたいせつな資料である。

             ☆ 
  
 純文学が売れず、ジャーナリストで走り回っていた十数年まえ、私には格言となったことばがある。警視庁本庁4課の元課長と、警備元課長に取材したときである。

 捜査1課の課長よりも、警備課長のほうがエリートだと知って、おどろいたものだ。なぜなの? 1課はもはや死んでしまった人間をあつかう。
 警備課は政治家、外国のトップ、数年に一回のサミット警備をうけおうから、防弾チョッキだよ、と聴いて、なるほど、と思ったものだ。

 もう一つ、警察署長時代の話をしてくれた。
「白の捜査をしろ、と刑事課の課長以下に指図していましたよ」。どういう意味? これも首をかしげた。
「この容疑者は白かもしれない。その捜査をするのですよ。容疑者は黒だと信じて捜査すれば、冤罪(えんざい)になる可能性がある。人間はいちど思い込んだら、突っ走ってしまうからね。白の捜査が必要です」
 
 このときなぜか、歴史教科書も白の捜査が必要かな、とふと思った。まだ純文学に拘泥していたころで、私が歴史作家になると思わなかったころのはなしだ。

 幕末歴史小説と向かい合う今、「白の捜査」を座右のことばにしている。官制幕末史のこれはねつ造ではないか、と白紙にしてみる。
 そのうえで取材とか、文献とか、証拠を積み重ねていく。ひとつ作品には時間がかかるから、「儲かる作品は書けない作家だな」と仲間から冷やかされるけれど、笑ってごまかしている。

 ここ6-7年ほど老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)を追っている。つい最近、国立国会図書館のアーカイブを引っ張っていると、「阿部正弘の日記」が明治時代に焼失していると知った。がく然とした。こんな重要な人物までも焚書なのか、と腹立たしかった。

 と同時に、官制幕末史がすべて白紙にもどせた。すると、ペリー提督がきた時から幕末史をスタートさせた巧妙な作為がみえてきた。

 嘉永、安政のころは巨大な自然災害が多発した。東海大地震、安政大地震、江戸大地震、青山大火災、丸山大火災、弘化3年の江戸大洪水などである。
 ペリー提督、ロシア・プチャーチン提督の来航だ。家慶将軍の死去、仁孝(にんこう)天皇が崩御した。
 この時代の瓦版はデェフオルメされているし、為政者の取締りの目を潜り抜けるために、巧妙な仕掛けまでしている。おもしろい瓦版がずいぶんある。

 
 わたしは広島県出身だから、「安芸国大水」(嘉永3年、1850年)が目にとまった。最近は広島といえば、山津波の災害だし、それと重なり合った。
 洪水を防ぐ土嚢(どのう)が間に合わず、米俵を使った。庶民が安堵して喜んだと記す。絵のなかの文面を紹介してみたい。

『二日より五日まで 海水引くことなく 毎日大汐の如し御家老  ■野孫右衛門゜上田水主様 古御両人御さしづニて 郡奉行 石井主計様。間宮四平様。小田刈大学様
 
 松原の土手をふせがるる土俵まに合ざる故 米俵にてふさぎ候は誠ニそく妙の御はからいを

 国■■■ よろこびあんどいたしける 』

 瓦版の文字は上記内容である。こうした庶民の瓦版から、165年経っても、人間はおなじ災害を受けているのだな、と思う。

『芸藩志 復刻活字版』(大政奉還に至る経緯・第12巻)発刊のお知らせ

 倒幕の主役は広島藩だった。それが漸次、世のなかに認知されてきました。

 メディアに登場する歴史学者や作家が、従来の薩長倒幕の史観に疑問を持ちはじめており、最近はとくに広島藩・浅野家が徳川政権の倒幕に、大きく関わっていた、とクローズアップされてきました。
 その根拠が浅野家の家史「芸藩志」によるものです。と同時に、浅野家学問所(現・修道学園)が原爆投下まえに、学校疎開しており、ぼう大な全資料が無事だった。神機隊史料が広島護国神社に数百点も奉納されていた。この3点です。

 浅野家の「芸藩志」は、ペリー提督の来航から廃藩置県まで、約300人の元家臣たちが編纂に携わりました。かたや、完成と同時に、明治政府から自分(薩長閥の政治家)たちに不都合だと言い、そのまま長く封印されてきたのです。

 それが昭和52年に書籍で発行されて世のなかに出てきました。(印影版・原本をマイクロ撮影して、そのままを伝える)。

 ただ、当時は300部のみの発行でしたから、現在は希少で、簡単に読む機会に恵まれていません。再出版が期待されていました。

 それに応えて、「芸藩志・芸藩志拾遺研究会」の宮本さん(東広島市在住)が、そこに着目されました。原文を尊重したうえで、くずし文字、旧仮名づかい、難解な旧文字は現代表記にし、活字の書籍として読みやすくする。そして全国の学者、一般の方々にも、広く読める方向で取り組まれています。

 ネットなどで簡単に入手できる、品切れしない、安価である、と三つを重点に置いています。

 芸藩志は全26巻という膨大な量です。このたびは、幕末史のなかで、広島藩が先頭に立って推し進めた「大政奉還」に至る経緯が記載された「第十二巻」を優先して、活字版として出版されました。
    
                ☆  
「発行者から」
 
『芸藩志 第十二 復刻活字版』は、昭和の復刻版全二十六巻のなかから、「大政奉還」に至る経緯が書かれた「第十二巻」をまず優先して活字版として出版いたしました。
 
    ※26巻あるなかで、第12巻を発行いたしました。

【書籍の定価】
 ソフトカバーB6版上下2段224ページ
 定価 2000円(税、送料別) 但し、期間限定の特別価格で1600円(税、送料別)

【お問合せ先】

 問合せ、購入するばあいは、幕末芸州広島藩研究会の広報室:山澤さん

 ネットで、問合せ、購入するばあい:xp_41@yahoo.co.jpのアドレスです


 追紀
 次の出版は5月頃、『芸藩志 第11 復刻活字版』を予定しています。このタイミングで全巻2000円(税、送料別)に統一する予定です。 
 
            ☆

【宮本さんの出版までの思い』は下記のとおりです。

 そのむかし、AMラジオ局のニュースで、『芸藩志』の発刊を報じました。私(宮本)の記憶によると、『広島藩が大政奉還を主導していた』という内容でした。
 当時は大卒初任給が約10万円でした。なんと『芸藩志』が23万4千円という金額におどろいたものです。かたや、歴史の定説をくつがえす内容だと報じる、そのニュースには興味は湧くも、お小遣いが500円の子供には途方もない金額でした。

            *
 時は流れ、最近(平成27~31年)において、一部の歴史研究者から、薩長史観に疑問を呈し、新たな幕末歴史観が生まれています。かたや、『芸藩志』が希少すぎる、読めない、その難点から従来の通説(官制幕末歴史観)をくつがえす状況にはありません。

 穂高健一さんの出版物や講演・研究会などから、若干は幕末史観の状況が変わりつつあります。しかし、いまだに薩長史観の偏った解釈が大手を振っています。
 その原因は芸藩広島発の幕末史料が、世間の目にほとんど触れる機会がないからです。「知らないものが広まるはずもない」
 この状況を変えるには、『芸藩志』そのものを復活し、広島藩の存在が一般に認知されるまで広める。そして公平に論議してもらう必要がある、と考えていました。

 歴史研究者への史料提供はもちろんのこと、一般の歴史好きの方々にも読んで知ってもらいたい。私(宮本)としては、正しい歴史観を得たうえで、歴史を総括し、未来への教訓としてこそ歴史を知る意義があります。

           *

 芸藩志(筆文字を活字体にして)読みやすくし、世に送り出す。ネット上に無料公開も考えましたが、国立国会図書館に書籍として恒久的に残すという観点から書籍に致しました。カテゴリーとしては、『専門書全集』です。

 現在、歴史研究者は研究費のねん出すら厳しい環境にあります。そこで、研究者のみならず、歴史科の先生方々、歴史を学ぶ学生、かつ一般の読者も手の届きやすい価格帯を考慮いたしました。
 誰もが安価に買えるためにも、出版経費の抑制、在庫切れをなくす、他の諸事情をふまえて、専門書の常識に捉われない装丁、価格にしました。

 オンデマンド印刷といたしました。一冊の注文から書籍が発行できる最新技術の印刷システムです。
 注文印刷なので、売り切れはありません。

 今後は全26巻の発刊をめざして、漸次、出版していきます。

 明治時代以降の為政者が作った官制幕末史は、ずいぶん歪められた面があります。「芸藩志」も含めた、さらなる歴史議論を推し進めてください。

【製本を購入する方法】

 問合せ、購入するばあいは、幕末芸州広島藩研究会広報室:山澤さん、下記のアドレスです

xp_41@yahoo.co.jp


【近代史革命】日露戦争の秋山真之の英雄伝=司馬遼太郎の虚構だった

 小説のなかで、下瀬うた「文久3年~大正15年」という人物を登場させる必要があった。彼女は広島市・鉄砲町で生まれ育っている。その鉄砲町には、長い歴史がある。

             *

 ポルトガル人が天文12年に、種子島に鉄砲を伝えた。紀州の「雑賀衆(さいかしゅう)」によって、数千挺(ちょう)もの国産化に成功した。江戸時代初期、浅野家が紀州から広島藩に入封してきた。その折、紀州の鉄砲職人「雑賀衆」を広島まで連れてきて、城下に鉄砲町という一角を与えた。

 ここに端を発して鉄砲町には兵器工場、大砲工場、火薬工場が多かった。武具奉行など特別な武士階級と鉄砲職人しか、当時は出入りができない特殊な町だった。幕末には、広島藩は独自に最新銃を国産でライフル銃が製造できる唯一の藩だった。

 他藩は、グラバーなどから海外の銃を買うしかなかった。
 広島藩・鉄砲町の場合は、手先の器用な鉄砲職人らが、武具奉行の高間多須衞(たすえ)が長崎から手に入れてきた西洋のライフル銃・一挺を見本として、改良に、改良を重ねて進化させていく。品質の高い銃の量産に成功する。

 広島藩の神機隊1200人が鍛錬・演習用としても使う。さらには自費で戊辰戦争に参戦したおり、その高性能なライフル銃をもって、上野戦争、相馬・仙台藩と戦っている。(写真は高間省三の銃・広島護国神社蔵)。むろん、大砲も広島藩の製造だ。
 火薬工場としては志和(現・東広島市)に複数もっていた。
 
               *

 彼女(うた)が、下瀬雅允(まさちか)の実妹だとわかった。この兄と妹は、広島・鉄砲町という兵器関連の機密の街なかで生まれ育っている。
 雅允は幼いころから、子どもが花火に興味を持つように、火薬の化学反応に関心を示していたようだ。かれは広島英学校(旧広島一中、現・国泰寺高校)、工科大学応用化学科(現・東京大学)を卒業している。やがて、化学者の道に進み、フランスにも留学し、独自開発で明治26年には、「下瀬火薬」の開発に成功した。
  
「日露戦争(1904年)は、下瀬火薬で勝利した」
 そのことばが私の脳裏に過去から根づいていた。そこで、このたび江田島の旧海軍兵学校を訪ねてみた。
 現在は海上自衛隊第一術科学校で、旧帝国海軍関係の資料が収まった「教育参考館」がある。そこの2階には、旧帝国海軍の貴重な資料が残されている。

 太平洋戦争の末期、呉軍港はたびたび米軍の空襲をうけた。戦艦・大和を造った海軍工廠(こうしょう)や海軍基地は壊滅した。
 ただ、呉の真向いにある江田島の海軍兵学校は、米軍の攻撃対象から外されていた。なぜか。世界の三大海軍士官養成学校のひとつであり、ヨーロッパ・ルネッサンス建築の価値ある建物を遺すためであった。一発の機銃掃射すらなかった。

 昭和20年8月15日に、日本が無条件降伏を受け入れた。海軍兵学校の関係者は進駐軍がやってくるまえに、諸々の軍艦関係の機器や資料の大半を焼いた。
 多少は宮島・厳島神社、大三島(愛媛県・今治市)の大三島 大山祇(ずみ)神社に奉納品(カムフラージュ)として残したという。
 それらが貴重なものが一部、「教育参考館」展示されている。

                      *

 同館の学芸員に下瀬火薬について、「日露戦争は下瀬火薬で勝利したのは事実ですか」と私はいきなり質問した。
「事実ですよ。下瀬雅允の資料ならば、この教育参考館の2階に展示しています」
 と言われて2階にあがり、あれこれ見ていた。
 そのうち、学芸員の方が来て、わかりましたか、と聞いて、場所はよくわかりません、他のものを見ていましたし、というと、下瀬雅允の展示まで案内してくれた。

「かれは化学者ですか、軍人ですか」
「そうですね、中間ですね。軍の依頼で火薬の研究をしていた。あえて言えば、化学者かな」
 学芸員はそんなふうに説明していた。
「参謀の秋山真之が、日露戦争に勝利した最大の貢献者だと一般にいわれていますけれど? バルチック艦隊相手にT字型戦法で」
「その認識は違いますよ。はっきり言えば、勝因はなんといっても、『下瀬火薬』と伊集院大将が発明した『伊集院信管』です。それがバルチック艦隊を撃破したのです」
 と明瞭な歯切れの良さで、さらにこういった。
「もし、下瀬火薬と伊集院信管がなければ、どんな戦法を取ろうが、ロシア艦隊にはかなわなかったです。海戦はT字型だろうが、L字型だろうが、あまり関係ないです。双方が艦砲射撃で撃ちあう。戦艦に当たった大砲の威力が問題なのです」
 弾が炸裂して爆発力がどのていどあるか。それが重要です、となおも強調していた。

 秋山参謀は勝利にさして関係ないとなると、歴史小説家・司馬遼太郎は、売れる小説の創作から、秋山参謀を英雄としてもちあげたのか、と思った。登場人物を英雄にすれば、ワクワク、ドキドキ感から、読み手を魅了する。
 小説はフィクションだから、決して悪いことではない。ただ、世のなかの人は司馬遼太郎の小説は歴史的事実に基づくものだ、歴史そのものだと思い込んでいる。ネット時代と違って、司馬が書くとなると、その人物の関連図書が神田古本屋街から消えた、という伝説になっている。だから、すべて事実だろう、と思い込んでしまうのだ。

                     *

「下瀬火薬は石炭酸を硝化してつくるピクリン酸です。砲弾は当たれば、先端が折れて、信管で発火して炸裂するのです。下瀬火薬は3000度の高温になる」
 それは鉄鋼の軍艦に塗られた塗料を溶かし、なおかつ火の海にしてしまう。つまり、戦艦が丸焼けになってしまい、沈没していく。

 船体は二重、あるいは何層にも仕切られているので、砲弾の爆発力が弱い、火薬に威力がないと、砲弾が当たっても多少の破壊があっても、船内に浸水が生じても、沈没までいかない。


 下瀬火薬は爆発すれば、軍艦を丸焼けにしてしまう。
 バルチック艦隊の戦艦が、下瀬火薬で、次々に炎上し、沈没し、海の藻屑となる。一方で日本の小艇がわずかに犠牲になった程度である。まさに、火薬の威力の差だった。

 秋山参謀はバルチック艦隊が陸奥湾からウラジオストックにむかう、と具申した。上官で参謀長の加藤友三郎が、「バルチック艦隊の随伴の石炭運搬船が、切り離されて、上海に入港したからには、主力部隊は航行距離の長くなる太平洋ルートを通らない証しである。敵はかならずや、日本海にやって来る」と主張した。
 司令官の東郷平八郎は、加藤友三郎参謀長への信頼・評価が高かった。それで日本海で待ち受けた。もしも参謀・秋山真之の意見を取り入れていたならば、バルチック艦隊はすり抜けてウラジオストックに入港していたはずだ。
 となると、長期戦となり、戦争資金の薄い日本国はしだいに劣勢に立たされたことは間違いない。その面で、東郷元帥が秋山真之の具申を退けた、その見識は高く評価されるものだ。

 かたや、歴史作家・司馬遼太郎は、秋山真之をもちあげた、誇大英雄づくりで本を売る、という商売気の強い作家だったのか、と思わざるを得ない。

                     *

「竜馬が行く」で、坂本龍馬を英雄として、世のなかに司馬史観を生みだした。近年は龍馬のメッキがボロボロ剥がれてきている。
「船中八策による大政奉還を成した」船中八策などは、大正時代の作り話であって、それが司馬史観で大きくなったものだ。
「いろは丸事件」でも潜水調査がすすんだ現在、海底の船内からは金塊や最新銃など一丁も積んでいなかったと判明した。長崎奉行所で、龍馬は嘘八百をなべて、8万3000両を紀州徳川家から詐取した人物である。
 結局、龍馬って、なにした人なの、と疑問が出てくる。

 欧州ではクリミア戦争(1853年)が起きている。このときから戦争が鉄砲から大砲の時代になっていた。ちょうど、ペリー提督が浦賀に来て、大砲を撃って威嚇した年である。

 第二次長州戦争(1866年)で、坂本龍馬が最新銃を薩長の間で橋渡しをした。小説上では多大な貢献度としているが、冷静に、客観的にみれば、幕府軍が朝敵である防長2州(現・山口県)に攻めてきたので、毛利家は降りかかった火の粉を払っただけである。

 その先も長州・毛利家は朝敵のままである。外交的にはなにも勝っていない。となりの広島藩内にも、京都にも、江戸すらも行けていない。
 かたや、負けたとレッテルを押された徳川政権は、なおも北は松前藩から南は薩摩藩まで、日本列島支配下に置いているのだ。
 徳川家はなにひとつ奪われていない。長州は天皇に弓を引いた藩として、だれも相手にしない。幕末の四候会議(慶応3年・1867年)においても、長州問題は放っておけ、と無視されつづけたのだ。

 つまり、司馬史観がいうほど、德川は敗けていないのだ。大砲の時代に、龍馬が斡旋した小銃など、さして威力とならない。「西洋の最新銃」ということばは、とても耳ざわりが良いが、せいぜい自藩を守る程度だったのだ。

 その論証として、第二次長州戦争からちょうど2年後、上野戦争が起きた。彰義隊をあいてに、大村益次郎がクリミア戦争と同様に、アームストロング砲を撃ちこみ、半日で決着をつけている。もはや、大砲の時代なのだ。

 つづく戊辰戦争でも、大砲の撃ちあい、砲台への襲撃戦争だった。新政府(西側)軍の大砲の威力が奥州32藩よりも勝っていたのだ。函館戦争でも艦砲射撃が威力を発揮したのだ。
 
 こうして見てくると、司馬遼太郎作家は「大砲・火薬の認識が薄い」作家だったのか、と江田島であらためて思った。
 広島藩が大政奉還をおしすすめた。幕の口火を切ったのが広島藩だったと明かす「芸藩志」が、明治政府に封印されたままで、近年まで世に知られていなかった。昭和時代に活躍した司馬遼太郎は当時、広島藩・鉄砲町を知る、見る機会がなかった。研究資料もなかった。その面を差し引いてあげないと、気の毒かもしれない。

 いずれにせよ、幕末の広島藩、および維新後の広島がクローズアップされはじめてきた今、近現代史がおおきくくつがえるだろう。商業主義に乗った司馬史観は、娯楽歴史小説だ、という狭い範囲内に押し込められていくだろう。

 

 下瀬うたは、タイトル『俺にも、こんな青春があったのだ』のなかで、主人公の母親として登場してくる。背景は日英同盟である。
 この軍事同盟が、その後の日本にどんな影響を与えていったか。その一端にからむ内容である。日英同盟はワシントン軍縮条約(1922年、加藤友三郎・全権大使)で解消する。ことばは厳しいが、欧米からみれば、日本がこの日英同盟を悪用したから、破棄させられたのである。
 
                                        了

東京大学の銀杏は黄葉の盛り=彰義隊のシンポジウムに参加してみて

 ことし(2018)12月1に安田講堂シンポジウム「彰義隊の上野戦争-明治150年に考える」が開催された。主催は市川総合研究所、入場料2000円。広島の歴史関係者が上京されて聴講されるという。
 私は主催者の代表理事の大蔵八郎さんと先日、名刺を交わし、同シンポジウムの参加を勧められていたので足を運んだ。

 東京大学は縁がなかったし、同校内にはじめて訪れた。

 東大構内に入ると、広々とした環境で、銀杏並木の黄葉が盛りだった。目には鮮やかに染まり、とても心地よかった。絵を描く人、写真を撮る人、外国人の観光客が多かった。

 構内が観光化している光景にも驚かされた。

 私はふだんとちがい、ただ聴講だけのシンポジウムなので、気楽な気持ちで聞くことができた。
 ことし発刊した拙書「神機隊物語」では、神機隊が上野戦争に参加し、彰義隊と戦った情景も深く掘り下げている。当然ながら、私の上野戦争関連の取材は細部に及んだ。

 それだけに、パネリストたちの上野戦争の彰義隊を語る発言に納得したり、懐疑的になったりもした。

 歴史はひとそれぞれ解釈の仕方があってもよい。しかし、いくらなんでも、これはひどいや、と思ったのが、冒頭の長唄「楠公」の岡安社中の解説だった。

 安田講堂の壇上で、約10数人が和装で並んで唄、三味線、囃子などを披露した。

 楠公(楠正成)の解説・歌詞をみると、彰義隊が楠正成の軍で、新政府軍が足利尊氏になぞらえている。「まさか。嘘だろう」となんども疑った。

                *

 広島藩・学問所の頼山陽が『日本外史』で、「湊川の戦い」を全国に知らしめた。

「湊川の戦い」とは、
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、天皇制の親政を布いた。それが建武の中興(けんむのちゅうこう)である。
 ところが、武家政治をめざした足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがし、離反した。そこで、後醍醐天皇に忠誠を尽くす楠正成が、わずかな兵で、足利尊氏を迎え撃つ。それが湊川の戦い(現・神戸駅前)である。

 むろん、楠公たちは全員が討死である。

 頼山陽はその悲劇を名文調で、謳いあげたのだ。それが幕末における尊王の志士たちのバイブルになった。
 楠正成は、明治、大正、昭和の太平洋戦争まで、天皇に忠君だと崇め奉られてきた。


「長唄・岡安社中」の説明は、これがまるで逆で、旧徳川幕府・彰義隊が楠正成になっている。新政府(天皇軍)が足利尊氏になっているのだ。

「建武の中興」は知っているのかな。いい加減だな、と思った。

 シンポジウムは、パネリストとして、戊辰戦争の彰義隊のひいき筋の作家・かたや新政府軍側の歴史作家たちが8人が次つぎに語った。

 新政府軍はなんでも薩長である。会津戦争の中心となった板垣退助(土佐藩)など、だれひとり語らなかった。

 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸城開城、そして上野戦争ではアームストロング砲でわずか半日で戦いが終わった。その話題に終始する。

 彰義隊にたいする新鮮な切り口がないうえ、遺体処理などの新発見もないし、研究不足である。パネリストたちの説明は、敵と味方という中・高校生なみの史観だと思った。

 

 

 戦争とはそうそう突発的に起こるのでなく、段々と規模が大きくなっていくものだ。

 鳥羽・伏見の戦い →  阿波沖海戦 → 甲州勝沼の戦い → 梁田 戦い そして江戸開城 → 宇都宮城の戦い(指揮官:大鳥圭介、土方歳三) →  市川・船橋の戦い、→ 五井の戦い → 今市 →  鯨波(柏崎近傍の鯨波にて新政府軍と旧幕府勢力が交戦し、新政府軍が勝利した。) → 彰義隊が解散に応じなくて上野戦争、・飯能戦争に及んだ。

 こんなふうに正確に理解しているのかな、パネリストたちは。

                    *

 聴くかぎりにおいて、壇上のパネリストたちは鳥羽伏見の戦いから、一気に江戸城開城、そして彰義隊の戦いへと話しが飛ぶ。まるで、ゲームのごとく語る。

 戦争は人間どうしが殺しあうもの。双方の力バランスが崩れるなかで拡大していく。それがわかってない。最も肝心な戦争・和平がせめぎ合う中間がぬけ落ちているのだ。

 かれらは歴史作家と標榜(ひょうぼう)しているが、「戦争を知らない世代」の弱点かなと思った。


「西郷どん」時代考証・原口泉さんが広島県・御手洗で講演=12月16日

 NHK大河ドラマ「西郷どん」がいよいよ佳境に入ってきた。同ドラマの時代考証を担当する原口泉さんを招いた維新150周年記念『御手洗歴史シンポジウム』が、ことし(2018年)12月16日(日曜)13時から、広島県の大崎下島・御手洗の乙女座で開催される。主催は「重伝建を考える会」で、後援は呉市で、入場料は無料である。

 第1部は、基調講演は原口泉さんで、演題は「瀬戸内の幕末維新」である。

 第2部はパネルディスカッション 演題「幕末維新の真実迫る ~薩摩、芸州の果たした役割~ 」
 パネリストは原口泉さん、穂高健一(作家)、岩崎誠さん(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター長)、今崎仙也さん(重伝建を考える会初代会長)で、14時10~15時である。 

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「薩長倒幕」あるいは「薩長土肥」と言われてから久しい。維新から150年間は意図的に、芸州・広島藩が外されてきた。

 広島藩の浅野家が倒幕の先がけだった。それが表に出てくると、不都合なのが明治から太平洋戦争終結までの薩長閥の軍人政治だった。

 歴史の真実は、いずれ解き明かされるものだ。明治維新100年のときは龍馬ブームから誰も薩長主導とは信じて疑わなかった。司馬史観から薩長同盟が一人歩きしていた。

 しかし、広島・浅野家の家史「芸藩志」が世に知られはじめてから、「まてよ。朝敵だった長州藩はどこまでも、天皇・国民の敵だった。なぜ倒幕のひのき舞台にいるはずがない」と疑問を呈してきた。

 御手洗交易で、薩摩と芸州は大政奉還、小御所会議の明治新政府の樹立まで、二人三脚だった。その途中で、朝敵の長州軍を秘かに巻き込み、御手洗と尾道に呼びこんで3藩進発(挙兵)を成した。長州・毛利家はどこまでも表舞台に立てなかった。
 薩芸が先導し、長州が従うもの。それが薩芸長軍事同盟の実態だった。

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 鹿児島県側からも、薩長一辺倒の幕末史観を見なおしてほしい。それには薩摩藩の歴史権威者である原口泉さんを御手洗に招き、現地を見てもらい、語ってもらいたいと、「重伝建を考える会」が企画したものだ。それが12月16日に実現する。


【関連情報】

 幕末・維新の最高権威の学者・原口さんは、「鹿児島で講演となると、300-500人の会場はどこも超満員です。ことし2月の東京の読売新聞主催・500人もそうでした」。

 西郷どんは12月でいよいよ総括編。この時期に原口さんが御手洗にくる。広島市・県内の歴史ファンから主催者に問い合わせが多く、講演人気が急上昇です。
 乙女座には収容人数のかぎりがあります。早めに会場にこられたほうが良いと思います。

「推薦・幕末企画展」 浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」=広島城 

 ことし(2018年)が明治維新150年である。来年が浅野家が紀州から広島に入城してから400年になる。それを記念した企画展が、広島市・広島城で開催されています。
 幕末史において、これまで広島藩の存在は恣意的に消されてきました。しかし、歴史の真実は掘り起こされるものです。広島藩・浅野家が徳川政権の打倒に立ち上がった。幕末史が塗り替えられ始めています。

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 広島城・天守閣において浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」が開催されています。平成30年11月3日(祝・土)~12月16日(日)※休館日 12/11(火)・12(水)です。
 開館時間:11月→9:00~18:00 12月→9:00~17:00(いずれも入館は閉館の30分前まで)
 観覧料:大人370円(280円)、シニア・高校生180円(100円)、中学生以下無料です。


展示ガイド:学芸員が展示の見どころをご案内します。
◆日時:会期中の日・祝日  ※11/4・23・12/16を除く
   ①11:00~ ②14:00~(所要時間各約15分)
◆参加費:無料(観覧料が必要です)
◆事前申込;不要
◆会場:天守閣第四層

スペシャル展示ガイド:12月16日(日)
①11:00~ ②14:00~ (所要時間各30分)
「幕末維新と広島藩」「戊辰戦争と広島藩兵」を執筆した、郷土史研究家・尾川健氏が詳しく解説します。

 この企画展は、広島藩の活躍がビジュアルに展示されています。