歴史の旅・真実とロマンをもとめて

RRC放送=土曜午前中【明治新政府に封印された芸藩志】連続講座スタート・第一回(全5回予定)

 RCCラジオ放送(中国放送)が、5月4日に放送されました。
 このシリーズは、RCCが一般公開いたしました。フェース・ブック、ブログ、SNSでリンクを張ることが公式に可能です。


 この第一回は、なぜ広島藩の浅野家編『芸藩志』が消されたか。明治43年になぜ時の政権に、この芸藩志が不都合だったのか。それを明快に示しています。

 放送のなかで、広島は「幕末史」が盛り上がっている、穂高健一著『広島藩の志士』が、漫画化の作業、それに対するクランドファンディングされている。さらに、燃えるだろう、と放送のテンションが上がっています。

放送内容はこちらです、17分間

【RCC放送局が発表したコメント】

 今日の深掘りシャベルは、『広島藩の志士』の著者、穂高健一さんに教わる、

「明治維新を再検証するシリーズ第一弾!「明治新政府に封印された芸藩志」というテーマで、お話を伺いました。

ペリー来航から明治4年までの広島藩の歴史が記された芸藩志。

明治政府から指示を受けた浅野長勲が、300人もの人手で、10数年もかけて書いたそうです。

しかし、明治政府にとって都合の悪い内容だったため、芸藩志は封印されてしまいます。

芸藩志とはどういうものなのか、なぜ封印されてしまったのか、その封印に対して、広島藩はなぜ抗議しなかったのか…。

今日の放送では、芸藩志封印の謎について、紐解いていきました。

シリーズ第二弾では、いったいどんな謎が語られるのか…今後の展開もご期待ください!
また、ラジオ番組のブログでも紹介されました。

【関連情報】

放送内容はこちらです

クラウドファンディング公開ページ


写真*RCC(中国放送)HP・番組案内より引用

25歳で老中首座になった阿部正弘(備後福山)の執筆中と狙い

 私はここ6-7年つづいた「阿部正弘」の取材をここで終止符を打ち、単行本「阿部正弘」の執筆をはじめた。
 当初、新聞連載の話しが持ち上がっていた。年一本ずつ、ふたりの連載待ちの作家がいるし、私の掲載は3年先だといわれた。そこで考えた。

 いま芸州広島藩は「広島藩の志士」の人気がたかまっている。この波に乗るべきではないか。

【広島藩は高間省三、備後福山藩は阿部正弘】。広島県内には歴的上の途轍もない大人物がふたりいる。より多くの方々に知ってもらいたい。そこで単行本「阿部正弘」を今年の秋口に発刊を決めて、執筆をおしすすめている。


 阿部正弘とはどんな人物か。

 文政2年10月16日(1819年12月3日)、備後福山藩に生まれた。江戸生まれれ

 天保11年(1840年) 11月8日に 寺社奉行になった。 21歳11か月

 天保14年(1843年) 閏9月11日  本丸 老中に異動。23歳10か月

 天保15年(1844年)7月22日   勝手掛老中(実質・老中首座) 24歳8か月

 弘化2年(1845年)2月22日   勝手掛兼帯のまま、老中首座と就る。25歳7か月
 
 満25歳7か月の内閣総理大臣が、德川250年間の長い保守政治の下で、「鎖国は租法」という強固な観念を破壊し、開国し、近代化へと歩みだす。現代からみれば、貿易立国の祖である。

 現代教科書の歴史すら、ペリー来航は「砲丸外交」で、阿部正弘正は蹂躙されて開国を余儀なくされた。こんな嘘がまだ修正されず、まかり通っている。
 明治政府には都合よく歪曲した歴史である。その延長戦で、日本史の歴史を教えつづけるのはおかしすぎる。
                 ☆   
「阿部正弘のあらまし」

 嘉永5(1852)年オランダの商館長から「別段風説書」が長崎奉行所に届いた。1年後に、アメリカ連合艦隊が日本に来航する。そこにはペリー提督、軍艦名が記載されていた。

 老中首座の正弘は、すぐさま長崎奉行を介して、アメリカ艦隊の軍艦の性能を確認した。西欧はスクリュー船時代なのに、アメリカ艦は時代遅れの蒸気外輪船である。米国海軍力は新しくて実戦経験がほとんどない。ただ、メキシコ戦争で、大砲や小銃は進化している。

 ペリー来航前に、阿部正弘は高性能なプロペラ・スクリュー船の仮見積もりを取る。機をみて発注を出す(後の咸臨丸)。オランダは軍艦を購入しても、操船する海軍将校・海兵を養成する必要があるので「長崎海軍伝習所」の仮建設を提案した。必要ならば、オランダ海軍は協力し、士官の招聘(しょうへい)に応じるとした。

             ☆

 アメリカのベリー艦隊が来航し、江戸湾の湾口(浦賀沖)をいつまでも塞げば、オランダ海軍がジャカルタにいるから、最新鋭の艦隊で、ペリー艦隊を江戸湾から追い出してもよい、と内約をもらう。

 ペリー提督は来航すれば、オランダを意識してか、わずか1週間程度の滞在で、1年後に再来すると早々と出帆していった。
 当時は米中間にもはや郵便定期船が行き来していた。
 ペリー提督に海軍長官の書簡が届いていた。アメリカ大統領が共和党から民衆党に変わった。政権が代われば、海外政策がガラリ変わる。それがアメリカだ。
 新海軍長官から、『植民地的な攻撃や威嚇はしてはならぬ。そういう条約を持ち帰っても、議会の承認は得られない』と厳しい楔(くさび)が撃たれたのだ。

 ペリー提督は当初の計画した砲弾外交が腰抜けになった。沖縄においても、薩摩藩から姿勢蓮を奪って植民地にするつもりでいたが、石炭庫の建設だけに留めた。

 阿部正弘は海外の英文ニュースペーパーから情報を得る国際通だった。と同時に、思い切った人材抜擢主義だった。海軍、陸軍を創設し、洋学所(東大)、医学所、そして極めつけは『富国強兵』を国家の柱においた。

 これは阿部正弘が海外から購入したアダムスミス著「国富論」を、有能な岩瀬忠震に解読させて、国策の柱にしたものだ。

 明治政府は政策の柱に「富国強兵」をおいて、阿部正弘からばくった政策だと、教科書に1行も述べていない。日本国民にまったく教えていないのだ。

 阿部正弘は日露和親条約で、エトロフ・国後島を日本主権の領土であると認めさせ、ロシアのニコライ一世の批准書もとった。現代までも生きている。
 戦後。1945年以降はソ連の侵攻で、施政権は奪われた。しかし、領土そのものは領土主権がある、と阿部正弘によって批准書まで取っている。

 戦後の宰相は数十人いるが、25歳で老中首座になった阿部正弘の実績と比べると、足元にも及ぼないのだ。

 きわめつきは、阿部正弘が大抜擢した外国奉行5人が、絶妙な外交手段で『安政5カ国条約』の決めたことだ。これをもってして日本が決して欧米の植民地にならない、という強烈な条約になったのだ。

 明治以降の教科書は、明治政権を高く見せるために、「阿部正弘」を低く、低く、おさえている。寛永・安政文化は江戸時代で最高級の文化があった。それすら1行も書かれていない。

 官制教科書は、事実は教えない、嘘でごまかす。ここらにメスを入れる。歴史教育を正常化にさせる。5月の10連休は机に向かって意気込んで執筆している。

写真*Googleより

【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクト☆倒幕の主役は広島藩だった!

 「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった)が漫画化になります。

キャラクターデザインは、「幕末彼氏伝」にて、キャラクター・デザインを担当された中久保涼、中久保渉さんです

作画は、フジィFG(藤井勇太)さん  講談社などで受賞歴がある漫画家です

コンセプトとして、穂高健一著「広島藩の志士」を漫画化することで、より読みやすく、いままで歴史にさほど興味を持たなかった方々に、幕末の広島藩の活躍を理解してもらうことです。

総合プロデュースは、「ヒューマンアカデミー広島校」です。


☆ 小説版は全章が16章ありますので、1話~2話 (1話あたり約20ページ)

 1話あたり約2週間~1か月ごと、原則無料で webにて、公開されます。


 【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクトは、大勢の方の支援・クラウドファンディングで推進していきます。

【クラウドファンディングによる支援協力者へのリターン】

  3,000円 メールにて作品(PDF)をでき次第、順次、お届けします。

  5,000円 書籍にて郵送でお届けします

 10,000円 書籍+動画DVDをお届けします

 30,000円 キャラクター化しし登場人物させる(お写真や特徴などからキャラクターを作成)

  ※ 登場 場面については、漫画家にお任せいたします。人数制限20名ていど


クラウドファンディング公開ページ

 みなさまのご協力で、マンガ「幕末彼氏伝〜高間省三物語〜」を世に送りだ、明治政府や御用学者が捻じ曲げた、幕末史を真実のあるべき姿にしていきましょう。

 歴史を知ることは、将来を見通す力をもつことです。それには歴史が真実でなければなりません。みなさんの力で、「ねつ造された歴史を正しましょう」。

幕末彼氏伝 = 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会のお礼の挨拶

 メインテーマ「幕末彼氏伝 ~集え!広島藩の志士たち、伝説はここから始まる!」が2019年3月21日(祝)、JMSアステールプラザ(広島市中区加古町)1階の市民ギャラリーで開催されました。
 これは穂高健一著「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった)を原作としたものです。主催者から、関係者や来客者、支援してくださった方々感謝のメッセージが寄せられています。

【メッセージ】

 おかげさまで、総来場者数は368名と多くの来場者があり、たいへんな盛会となりました。ありがたい事に、こんかいの関係者の皆さまからは、こちらが驚くような、ご提案を沢山、たくさん頂くことができました。
 そのたびに、担当としては勇気と元気をもらうことが出来ました。

 おかげさまで、当初の予定した何倍も良いものを実現することができました。すべて関係者のみなさまのご協力によるものです。本当にありがとうございました。

 会場の熱気もすさまじく……。わたし自身はサウナにいるような状態で、頭から湯気が出ておりました。

 同イベントでは、老若男女の来場者がありました。広島藩への関心の高さを感じることができました。
 とくに、中央ステージでのイベント時間ちゅうは、これ以上来場者が集まったらどうしよう、会場内がオーバーフローし、危険かもしれない……と、主催者のわたしは内心ヒヤヒヤしておりました。



 こんかいの「幕末彼氏伝 」にはイラスト、マンガ、演劇、アテレコ、さらにコスプレなどサブカルなコンテンツを活用いたしました。
 広島藩の歴史への興味関心を高める、その機会を創出する。その試みの第一歩を踏みだし、今後に大きな可能性を感じることができました。

 関係者・来客者のみなさまの温かいご支援、ご理解、ご協力があってこそ、ここまでの強いうねりとなりました。

「幕末彼氏伝 の打ち上げ懇親会においても、出演者の方、スタッフの方、みなさまの方から、今後もいろいろな創作をしていきたい、というお話もありました。
 今後も多彩なコンテンツが産み出されるのでは……と、胸がワクワクと高まっています。


 会場内でアナウンスしたとおり、こちらの写真はすべてネット、SNS等でのUP、拡散は自由です。

 こちらよりダウンロードしてお使いください。(期限は3月28日までです)。今後とも何卒、どうぞよろしくお願い致します。


 広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会 事務局

  粟河瑞穂(敬称略)

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます

【幕末彼氏伝】第一話~第三話『大政奉還』の制作者たち=メッセージ(下)

 

「幕末彼氏伝」(広島)が、平成31年3月21日(祭)場所 JMSアステールプラザ1階・市民ギャラリーで実施された。
 古今東西、歴史を変えるのは若者だ。「歴史は真実でなければならない」と、広島の若者が、明治政府が歪めた歴史を正す。そのために燃えあがってくれた。
 それは歴史に関わる大きなしごとだといえる。

              ☆
  
 イベントの開催の直後、彼らからコメントをもらいましたので、紹介します。


 総合学園ヒューマンアカデミー広島校 金井さん。

 この度は、貴重な機会を頂きまして、誠にありがとうございました。

 当校の学生・卒業生たちも貴重な体験が出来大変喜んでおり、また多くの方に学生たちの活躍を見て頂く機会を設けられたこと大変ありがたく思っております。

 せっかく頂きましたご縁を大切に、マンガ化計画も追って、ご相談などさせていただきたいと思います。今後共よろしくお願いいたします。

 中久保涼さんは「幕末彼氏伝」で高間省三等のキャラクターデザインを担当された。

「幕末彼氏伝」のイベントお疲れ様でした。高間省三などのキャラクター制作についても、企画当初から色々とアドバイスや助言を頂き誠にありがとうございました。

 とても良いキャラクターが出来たと思います!

 なかなか、ここまで大きなイベントの制作物に携わることがないので、とても良い経験にまりました。自分の制作物がこうやって日の目を見る事は、とても嬉しくもあり、自慢になります。

 イベント中も、貴重なお話などを聞かせて頂きありがとうございました。
 今回のイベントを通して穂高様や多くの方々とお会い出来る良い機会となり、とても貴重な1日となりました。

 またご一緒できる機会があればと思います。

 漫画を担当の藤井(フジィFG)さん

 幕末彼氏伝にて漫画を担当させていただきました。大会当日は、たいへん貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。

 私自身、教科書で教えてもらった内容でしか歴史を知らず、広島にこのようなすごい人物がいたのかと改めて勉強になりました。
 穂高先生の著書も改めて読み直し、さらに見識を深めていきたいと考えております。そして、このような活動に私自身携われたことを大変嬉しく感じております。

 これをご縁にお話を頂いております、漫画化を進めていけたらと思っております。またご相談させて頂くことも多いかと思いますが、その時はご指導のほど是非ともよろしくお願い致します。

 キャラクターやイラストを担当の中久保渉さん

「幕末彼氏伝」で綾・浅野のキャラクターやイラストを担当させていただきました。開催日はとても充実した一日でした。

 穂高先生ともお話でき嬉しかったです。こんかい幕末彼氏伝に関われて、本当に良かったと思っております。
 また、今後企画などでお会いする機会がございましたら、よろしくお願い致します。


 上口雅彦さん

 大会当日は遅くまでありがとうございました。上口ジョウグチです。初めての聞く話ばかりで、勉強不足ですが、とても興味深い貴重なお話ありがとうございました。

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます
 

【幕末彼氏伝】第一話~第三話『大政奉還』の制作者たちへのメッセージ(上)

 浅野家は名家である。豊臣秀吉の正室のネネは、浅野家から出でいる。初代の浅野長政は5奉行の筆頭(現代の内閣総理大臣)として、秀吉の指示の下で太閤検地と刀狩を起こった。

 戦国時代の群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の乱れた時代において、日本統一をおこなった実質的な最大の貢献者である。現在の土地台帳の基礎をつくった人物である。

 浅野家が紀州から広島に入封(1619年)してから、ことしで400年である。広島浅野宗家・初代の浅野長晟(あさの ながあきら)の正室は、德川家康の3女・振姫である。

 広島藩は外様大名だが、秀吉時代から德川家=浅野家はたがいに深い結びつきがあった。このことが浅野家と徳川家がともに幕末において、皇国(こうこく)思想から、世界史にもめずらしい無血革命といえる幕府の解体、『大政奉還』(たいせいほうかん)という徳川家が天皇家に政権返上をおこなったのである。

            ☆

 大政奉還とはなにか
 それは封建制度の士農工商の封建制を枠(わく)をはらい、身分にかかわらず、優秀な人材を政治の執政者(しせいしゃ)として選ぶ。こうした民主的な国家をつくることだった。つまり、立憲民主主義をめざしたのである。

 しかし、政権欲にかたまった薩長の下級藩士が、巧妙に鳥羽伏見の戦いを起こした。そして、「大政奉還」で目指した民主政権を転覆させてしまったのだ。ここに日本の不幸が起きた。

血で奪った政権は、かならずや対外戦争か内戦をおこす
 この格言通り、薩長の権力者による政権が太平洋戦争の終結までつづいた。日本・アジア人々たちがとてつもなく血に塗られた歴史となった。この歴史的な真実は否定できない。

           ☆  
 
 大政奉還の民主政権のまま150年推移できていたらならば、と悔(く)やまれてならない。2度と戦争を起こさせないためにも、幕末史の真実を知らねばならない。温故知新(おんこちしん)。そこから学ぶべきである。

 明治からの薩長政権にとって、幕末の広島藩・浅野家の平和思想にもとづく倒幕運動は目ざわりだった。
 なぜならば、広島藩が倒幕の主体だったとなれば、新政権にとって自分たちを都合よく、大きく見せるためには不都合だったからだ。そこで、浅野家の家史「芸藩志(げいはんし)」の封印からはじまった。
歴史は為政者の都合よくつくられる
 この典型的な事例である。

            ☆

 芸藩志が昭和53年に300部限定で出版されたのである。平成26年に穂高健一著「二十歳の炎」、その改訂版「広島藩の志士」、さらに「神機隊物語」として、幕末広島藩の活躍がよみがえった。

 広島藩・浅野家臣の若者が神機隊を起ち上げた。平和と戦争の狭間で、民のためにいのちを賭けた。大砲隊長の高間省三(浅野家の家臣)は、20歳にして浪江の戦いで死す。
 広島護国神社の筆頭祭神である。この若さにして、大神社の筆頭祭神。すごい人物が広島藩にいた。この事実を知り感動したのが現代の若者たちだ。

 平成のこの時代に、広島の若者が高間省三たちの生き方に感動し、「世に広めよう」と立ち上がった。燃えた。「幕末彼氏伝」の開催へとこぎ着けた。広島市が主催となった、文化庁の認定も取った。
「幕末彼氏伝」(広島)が、平成31年3月21日(祭)に実施された。

【穂高健一の公演】

幕末彼氏伝・穂高健一氏講演ここから入れます

【つづく】

【幕末彼氏伝】 第一話~第三話 『大政奉還』 =マンガで観られます

幕末彼氏伝 ~集え!広島藩の志士たち、伝説はここから始まる!~
 
 開催日 : 2019年3月21日(祝)

 場所 JMSアステールプラザ 1階 市民ギャラリー

   広島県広島市中区加古町4番17号

  ☆ 『幕末彼氏伝』開催委員会が、

 穂高健一著「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった・推薦/日本ペンクラブ 吉岡忍会長)を原作とし、

 『大政奉還』としてマンガにしています。

  マンガ制作 総合学園ヒューマンアカデミー広島校 マンガカレッジ


    声の出演 高間省三、綾、浅野長訓、辻将曹、武士など、

        同校パフォーミングアーツカレッジの皆さん
 
    キャラクター・デザイン : 中久保渉

    音楽 : あそうちゃんねる

    監督: 粟河瑞穂

【マンガがすでに動画で観られます】

【幕末彼氏伝】第一話『大政奉還』

【幕末彼氏伝】第二話『大政奉還』

【幕末彼氏伝】第三話 『大政奉還』


写真 : HP「総合学園ヒューマンアカデミー広島校」より

災害は忘れたころにやってくる=安芸大洪水:165年前

 およそ年表で書かかれた歴史作品には斬新さがないし、面白みがない。早いはなしが、官制幕末史の領域を出ていない。
「これが真実だ」と謳(うた)っていても、作者の頭のなかで、こねくり回しているにすぎない。作者が現地に出むいて新発見したとか、埋もれていたものを発掘したとか。なにかしら根拠となるものがないと、本を売るキャッチフレーズの真実だ。


 幕末歴史小説を書くには政治、経済、文化(庶民)、思想の4本柱という複合の目線が必要だと考えている。
 庶民がどんな目で、事象をみていたか。瓦版(かわらばん)もたいせつな資料である。

             ☆ 
  
 純文学が売れず、ジャーナリストで走り回っていた十数年まえ、私には格言となったことばがある。警視庁本庁4課の元課長と、警備元課長に取材したときである。

 捜査1課の課長よりも、警備課長のほうがエリートだと知って、おどろいたものだ。なぜなの? 1課はもはや死んでしまった人間をあつかう。
 警備課は政治家、外国のトップ、数年に一回のサミット警備をうけおうから、防弾チョッキだよ、と聴いて、なるほど、と思ったものだ。

 もう一つ、警察署長時代の話をしてくれた。
「白の捜査をしろ、と刑事課の課長以下に指図していましたよ」。どういう意味? これも首をかしげた。
「この容疑者は白かもしれない。その捜査をするのですよ。容疑者は黒だと信じて捜査すれば、冤罪(えんざい)になる可能性がある。人間はいちど思い込んだら、突っ走ってしまうからね。白の捜査が必要です」
 
 このときなぜか、歴史教科書も白の捜査が必要かな、とふと思った。まだ純文学に拘泥していたころで、私が歴史作家になると思わなかったころのはなしだ。

 幕末歴史小説と向かい合う今、「白の捜査」を座右のことばにしている。官制幕末史のこれはねつ造ではないか、と白紙にしてみる。
 そのうえで取材とか、文献とか、証拠を積み重ねていく。ひとつ作品には時間がかかるから、「儲かる作品は書けない作家だな」と仲間から冷やかされるけれど、笑ってごまかしている。

 ここ6-7年ほど老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)を追っている。つい最近、国立国会図書館のアーカイブを引っ張っていると、「阿部正弘の日記」が明治時代に焼失していると知った。がく然とした。こんな重要な人物までも焚書なのか、と腹立たしかった。

 と同時に、官制幕末史がすべて白紙にもどせた。すると、ペリー提督がきた時から幕末史をスタートさせた巧妙な作為がみえてきた。

 嘉永、安政のころは巨大な自然災害が多発した。東海大地震、安政大地震、江戸大地震、青山大火災、丸山大火災、弘化3年の江戸大洪水などである。
 ペリー提督、ロシア・プチャーチン提督の来航だ。家慶将軍の死去、仁孝(にんこう)天皇が崩御した。
 この時代の瓦版はデェフオルメされているし、為政者の取締りの目を潜り抜けるために、巧妙な仕掛けまでしている。おもしろい瓦版がずいぶんある。

 
 わたしは広島県出身だから、「安芸国大水」(嘉永3年、1850年)が目にとまった。最近は広島といえば、山津波の災害だし、それと重なり合った。
 洪水を防ぐ土嚢(どのう)が間に合わず、米俵を使った。庶民が安堵して喜んだと記す。絵のなかの文面を紹介してみたい。

『二日より五日まで 海水引くことなく 毎日大汐の如し御家老  ■野孫右衛門゜上田水主様 古御両人御さしづニて 郡奉行 石井主計様。間宮四平様。小田刈大学様
 
 松原の土手をふせがるる土俵まに合ざる故 米俵にてふさぎ候は誠ニそく妙の御はからいを

 国■■■ よろこびあんどいたしける 』

 瓦版の文字は上記内容である。こうした庶民の瓦版から、165年経っても、人間はおなじ災害を受けているのだな、と思う。

『芸藩志 復刻活字版』(大政奉還に至る経緯・第12巻)発刊のお知らせ

 倒幕の主役は広島藩だった。それが漸次、世のなかに認知されてきました。

 メディアに登場する歴史学者や作家が、従来の薩長倒幕の史観に疑問を持ちはじめており、最近はとくに広島藩・浅野家が徳川政権の倒幕に、大きく関わっていた、とクローズアップされてきました。
 その根拠が浅野家の家史「芸藩志」によるものです。と同時に、浅野家学問所(現・修道学園)が原爆投下まえに、学校疎開しており、ぼう大な全資料が無事だった。神機隊史料が広島護国神社に数百点も奉納されていた。この3点です。

 浅野家の「芸藩志」は、ペリー提督の来航から廃藩置県まで、約300人の元家臣たちが編纂に携わりました。かたや、完成と同時に、明治政府から自分(薩長閥の政治家)たちに不都合だと言い、そのまま長く封印されてきたのです。

 それが昭和52年に書籍で発行されて世のなかに出てきました。(印影版・原本をマイクロ撮影して、そのままを伝える)。

 ただ、当時は300部のみの発行でしたから、現在は希少で、簡単に読む機会に恵まれていません。再出版が期待されていました。

 それに応えて、「芸藩志・芸藩志拾遺研究会」の宮本さん(東広島市在住)が、そこに着目されました。原文を尊重したうえで、くずし文字、旧仮名づかい、難解な旧文字は現代表記にし、活字の書籍として読みやすくする。そして全国の学者、一般の方々にも、広く読める方向で取り組まれています。

 ネットなどで簡単に入手できる、品切れしない、安価である、と三つを重点に置いています。

 芸藩志は全26巻という膨大な量です。このたびは、幕末史のなかで、広島藩が先頭に立って推し進めた「大政奉還」に至る経緯が記載された「第十二巻」を優先して、活字版として出版されました。
    
                ☆  
「発行者から」
 
『芸藩志 第十二 復刻活字版』は、昭和の復刻版全二十六巻のなかから、「大政奉還」に至る経緯が書かれた「第十二巻」をまず優先して活字版として出版いたしました。
 
    ※26巻あるなかで、第12巻を発行いたしました。

【書籍の定価】
 ソフトカバーB6版上下2段224ページ
 定価 2000円(税、送料別) 但し、期間限定の特別価格で1600円(税、送料別)

【お問合せ先】

 問合せ、購入するばあいは、幕末芸州広島藩研究会の広報室:山澤さん

 ネットで、問合せ、購入するばあい:xp_41@yahoo.co.jpのアドレスです


 追紀
 次の出版は5月頃、『芸藩志 第11 復刻活字版』を予定しています。このタイミングで全巻2000円(税、送料別)に統一する予定です。 
 
            ☆

【宮本さんの出版までの思い』は下記のとおりです。

 そのむかし、AMラジオ局のニュースで、『芸藩志』の発刊を報じました。私(宮本)の記憶によると、『広島藩が大政奉還を主導していた』という内容でした。
 当時は大卒初任給が約10万円でした。なんと『芸藩志』が23万4千円という金額におどろいたものです。かたや、歴史の定説をくつがえす内容だと報じる、そのニュースには興味は湧くも、お小遣いが500円の子供には途方もない金額でした。

            *
 時は流れ、最近(平成27~31年)において、一部の歴史研究者から、薩長史観に疑問を呈し、新たな幕末歴史観が生まれています。かたや、『芸藩志』が希少すぎる、読めない、その難点から従来の通説(官制幕末歴史観)をくつがえす状況にはありません。

 穂高健一さんの出版物や講演・研究会などから、若干は幕末史観の状況が変わりつつあります。しかし、いまだに薩長史観の偏った解釈が大手を振っています。
 その原因は芸藩広島発の幕末史料が、世間の目にほとんど触れる機会がないからです。「知らないものが広まるはずもない」
 この状況を変えるには、『芸藩志』そのものを復活し、広島藩の存在が一般に認知されるまで広める。そして公平に論議してもらう必要がある、と考えていました。

 歴史研究者への史料提供はもちろんのこと、一般の歴史好きの方々にも読んで知ってもらいたい。私(宮本)としては、正しい歴史観を得たうえで、歴史を総括し、未来への教訓としてこそ歴史を知る意義があります。

           *

 芸藩志(筆文字を活字体にして)読みやすくし、世に送り出す。ネット上に無料公開も考えましたが、国立国会図書館に書籍として恒久的に残すという観点から書籍に致しました。カテゴリーとしては、『専門書全集』です。

 現在、歴史研究者は研究費のねん出すら厳しい環境にあります。そこで、研究者のみならず、歴史科の先生方々、歴史を学ぶ学生、かつ一般の読者も手の届きやすい価格帯を考慮いたしました。
 誰もが安価に買えるためにも、出版経費の抑制、在庫切れをなくす、他の諸事情をふまえて、専門書の常識に捉われない装丁、価格にしました。

 オンデマンド印刷といたしました。一冊の注文から書籍が発行できる最新技術の印刷システムです。
 注文印刷なので、売り切れはありません。

 今後は全26巻の発刊をめざして、漸次、出版していきます。

 明治時代以降の為政者が作った官制幕末史は、ずいぶん歪められた面があります。「芸藩志」も含めた、さらなる歴史議論を推し進めてください。

【製本を購入する方法】

 問合せ、購入するばあいは、幕末芸州広島藩研究会広報室:山澤さん、下記のアドレスです

xp_41@yahoo.co.jp


【近代史革命】日露戦争の秋山真之の英雄伝=司馬遼太郎の虚構だった

 小説のなかで、下瀬うた「文久3年~大正15年」という人物を登場させる必要があった。彼女は広島市・鉄砲町で生まれ育っている。その鉄砲町には、長い歴史がある。

             *

 ポルトガル人が天文12年に、種子島に鉄砲を伝えた。紀州の「雑賀衆(さいかしゅう)」によって、数千挺(ちょう)もの国産化に成功した。江戸時代初期、浅野家が紀州から広島藩に入封してきた。その折、紀州の鉄砲職人「雑賀衆」を広島まで連れてきて、城下に鉄砲町という一角を与えた。

 ここに端を発して鉄砲町には兵器工場、大砲工場、火薬工場が多かった。武具奉行など特別な武士階級と鉄砲職人しか、当時は出入りができない特殊な町だった。幕末には、広島藩は独自に最新銃を国産でライフル銃が製造できる唯一の藩だった。

 他藩は、グラバーなどから海外の銃を買うしかなかった。
 広島藩・鉄砲町の場合は、手先の器用な鉄砲職人らが、武具奉行の高間多須衞(たすえ)が長崎から手に入れてきた西洋のライフル銃・一挺を見本として、改良に、改良を重ねて進化させていく。品質の高い銃の量産に成功する。

 広島藩の神機隊1200人が鍛錬・演習用としても使う。さらには自費で戊辰戦争に参戦したおり、その高性能なライフル銃をもって、上野戦争、相馬・仙台藩と戦っている。(写真は高間省三の銃・広島護国神社蔵)。むろん、大砲も広島藩の製造だ。
 火薬工場としては志和(現・東広島市)に複数もっていた。
 
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 彼女(うた)が、下瀬雅允(まさちか)の実妹だとわかった。この兄と妹は、広島・鉄砲町という兵器関連の機密の街なかで生まれ育っている。
 雅允は幼いころから、子どもが花火に興味を持つように、火薬の化学反応に関心を示していたようだ。かれは広島英学校(旧広島一中、現・国泰寺高校)、工科大学応用化学科(現・東京大学)を卒業している。やがて、化学者の道に進み、フランスにも留学し、独自開発で明治26年には、「下瀬火薬」の開発に成功した。
  
「日露戦争(1904年)は、下瀬火薬で勝利した」
 そのことばが私の脳裏に過去から根づいていた。そこで、このたび江田島の旧海軍兵学校を訪ねてみた。
 現在は海上自衛隊第一術科学校で、旧帝国海軍関係の資料が収まった「教育参考館」がある。そこの2階には、旧帝国海軍の貴重な資料が残されている。

 太平洋戦争の末期、呉軍港はたびたび米軍の空襲をうけた。戦艦・大和を造った海軍工廠(こうしょう)や海軍基地は壊滅した。
 ただ、呉の真向いにある江田島の海軍兵学校は、米軍の攻撃対象から外されていた。なぜか。世界の三大海軍士官養成学校のひとつであり、ヨーロッパ・ルネッサンス建築の価値ある建物を遺すためであった。一発の機銃掃射すらなかった。

 昭和20年8月15日に、日本が無条件降伏を受け入れた。海軍兵学校の関係者は進駐軍がやってくるまえに、諸々の軍艦関係の機器や資料の大半を焼いた。
 多少は宮島・厳島神社、大三島(愛媛県・今治市)の大三島 大山祇(ずみ)神社に奉納品(カムフラージュ)として残したという。
 それらが貴重なものが一部、「教育参考館」展示されている。

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 同館の学芸員に下瀬火薬について、「日露戦争は下瀬火薬で勝利したのは事実ですか」と私はいきなり質問した。
「事実ですよ。下瀬雅允の資料ならば、この教育参考館の2階に展示しています」
 と言われて2階にあがり、あれこれ見ていた。
 そのうち、学芸員の方が来て、わかりましたか、と聞いて、場所はよくわかりません、他のものを見ていましたし、というと、下瀬雅允の展示まで案内してくれた。

「かれは化学者ですか、軍人ですか」
「そうですね、中間ですね。軍の依頼で火薬の研究をしていた。あえて言えば、化学者かな」
 学芸員はそんなふうに説明していた。
「参謀の秋山真之が、日露戦争に勝利した最大の貢献者だと一般にいわれていますけれど? バルチック艦隊相手にT字型戦法で」
「その認識は違いますよ。はっきり言えば、勝因はなんといっても、『下瀬火薬』と伊集院大将が発明した『伊集院信管』です。それがバルチック艦隊を撃破したのです」
 と明瞭な歯切れの良さで、さらにこういった。
「もし、下瀬火薬と伊集院信管がなければ、どんな戦法を取ろうが、ロシア艦隊にはかなわなかったです。海戦はT字型だろうが、L字型だろうが、あまり関係ないです。双方が艦砲射撃で撃ちあう。戦艦に当たった大砲の威力が問題なのです」
 弾が炸裂して爆発力がどのていどあるか。それが重要です、となおも強調していた。

 秋山参謀は勝利にさして関係ないとなると、歴史小説家・司馬遼太郎は、売れる小説の創作から、秋山参謀を英雄としてもちあげたのか、と思った。登場人物を英雄にすれば、ワクワク、ドキドキ感から、読み手を魅了する。
 小説はフィクションだから、決して悪いことではない。ただ、世のなかの人は司馬遼太郎の小説は歴史的事実に基づくものだ、歴史そのものだと思い込んでいる。ネット時代と違って、司馬が書くとなると、その人物の関連図書が神田古本屋街から消えた、という伝説になっている。だから、すべて事実だろう、と思い込んでしまうのだ。

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「下瀬火薬は石炭酸を硝化してつくるピクリン酸です。砲弾は当たれば、先端が折れて、信管で発火して炸裂するのです。下瀬火薬は3000度の高温になる」
 それは鉄鋼の軍艦に塗られた塗料を溶かし、なおかつ火の海にしてしまう。つまり、戦艦が丸焼けになってしまい、沈没していく。

 船体は二重、あるいは何層にも仕切られているので、砲弾の爆発力が弱い、火薬に威力がないと、砲弾が当たっても多少の破壊があっても、船内に浸水が生じても、沈没までいかない。


 下瀬火薬は爆発すれば、軍艦を丸焼けにしてしまう。
 バルチック艦隊の戦艦が、下瀬火薬で、次々に炎上し、沈没し、海の藻屑となる。一方で日本の小艇がわずかに犠牲になった程度である。まさに、火薬の威力の差だった。

 秋山参謀はバルチック艦隊が陸奥湾からウラジオストックにむかう、と具申した。上官で参謀長の加藤友三郎が、「バルチック艦隊の随伴の石炭運搬船が、切り離されて、上海に入港したからには、主力部隊は航行距離の長くなる太平洋ルートを通らない証しである。敵はかならずや、日本海にやって来る」と主張した。
 司令官の東郷平八郎は、加藤友三郎参謀長への信頼・評価が高かった。それで日本海で待ち受けた。もしも参謀・秋山真之の意見を取り入れていたならば、バルチック艦隊はすり抜けてウラジオストックに入港していたはずだ。
 となると、長期戦となり、戦争資金の薄い日本国はしだいに劣勢に立たされたことは間違いない。その面で、東郷元帥が秋山真之の具申を退けた、その見識は高く評価されるものだ。

 かたや、歴史作家・司馬遼太郎は、秋山真之をもちあげた、誇大英雄づくりで本を売る、という商売気の強い作家だったのか、と思わざるを得ない。

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「竜馬が行く」で、坂本龍馬を英雄として、世のなかに司馬史観を生みだした。近年は龍馬のメッキがボロボロ剥がれてきている。
「船中八策による大政奉還を成した」船中八策などは、大正時代の作り話であって、それが司馬史観で大きくなったものだ。
「いろは丸事件」でも潜水調査がすすんだ現在、海底の船内からは金塊や最新銃など一丁も積んでいなかったと判明した。長崎奉行所で、龍馬は嘘八百をなべて、8万3000両を紀州徳川家から詐取した人物である。
 結局、龍馬って、なにした人なの、と疑問が出てくる。

 欧州ではクリミア戦争(1853年)が起きている。このときから戦争が鉄砲から大砲の時代になっていた。ちょうど、ペリー提督が浦賀に来て、大砲を撃って威嚇した年である。

 第二次長州戦争(1866年)で、坂本龍馬が最新銃を薩長の間で橋渡しをした。小説上では多大な貢献度としているが、冷静に、客観的にみれば、幕府軍が朝敵である防長2州(現・山口県)に攻めてきたので、毛利家は降りかかった火の粉を払っただけである。

 その先も長州・毛利家は朝敵のままである。外交的にはなにも勝っていない。となりの広島藩内にも、京都にも、江戸すらも行けていない。
 かたや、負けたとレッテルを押された徳川政権は、なおも北は松前藩から南は薩摩藩まで、日本列島支配下に置いているのだ。
 徳川家はなにひとつ奪われていない。長州は天皇に弓を引いた藩として、だれも相手にしない。幕末の四候会議(慶応3年・1867年)においても、長州問題は放っておけ、と無視されつづけたのだ。

 つまり、司馬史観がいうほど、德川は敗けていないのだ。大砲の時代に、龍馬が斡旋した小銃など、さして威力とならない。「西洋の最新銃」ということばは、とても耳ざわりが良いが、せいぜい自藩を守る程度だったのだ。

 その論証として、第二次長州戦争からちょうど2年後、上野戦争が起きた。彰義隊をあいてに、大村益次郎がクリミア戦争と同様に、アームストロング砲を撃ちこみ、半日で決着をつけている。もはや、大砲の時代なのだ。

 つづく戊辰戦争でも、大砲の撃ちあい、砲台への襲撃戦争だった。新政府(西側)軍の大砲の威力が奥州32藩よりも勝っていたのだ。函館戦争でも艦砲射撃が威力を発揮したのだ。
 
 こうして見てくると、司馬遼太郎作家は「大砲・火薬の認識が薄い」作家だったのか、と江田島であらためて思った。
 広島藩が大政奉還をおしすすめた。幕の口火を切ったのが広島藩だったと明かす「芸藩志」が、明治政府に封印されたままで、近年まで世に知られていなかった。昭和時代に活躍した司馬遼太郎は当時、広島藩・鉄砲町を知る、見る機会がなかった。研究資料もなかった。その面を差し引いてあげないと、気の毒かもしれない。

 いずれにせよ、幕末の広島藩、および維新後の広島がクローズアップされはじめてきた今、近現代史がおおきくくつがえるだろう。商業主義に乗った司馬史観は、娯楽歴史小説だ、という狭い範囲内に押し込められていくだろう。

 

 下瀬うたは、タイトル『俺にも、こんな青春があったのだ』のなかで、主人公の母親として登場してくる。背景は日英同盟である。
 この軍事同盟が、その後の日本にどんな影響を与えていったか。その一端にからむ内容である。日英同盟はワシントン軍縮条約(1922年、加藤友三郎・全権大使)で解消する。ことばは厳しいが、欧米からみれば、日本がこの日英同盟を悪用したから、破棄させられたのである。
 
                                        了