歴史の旅・真実とロマンをもとめて

戦争は平和都市をつくる

 ふるさとに帰る都度、「平和」という表現をよく聞く。「広島は平和都市」だと行政も、市民も語る。

 いまや、ウクライナ戦争は緊張の度合いを高めている。アメリカ次期大統領選挙で、トランプ氏が勝てば、ウクライナ支援から撤退するという。バイレン大統領も、来年以降の追加支援予算が取れないだろう。

 アメリカ支援がなくなれば、ウクライナは孤立する。フランスは陸上軍を送りだす構えだ。イギリスも与するだろう。
 これは1853年のクリミア戦争とまったくおなじ。ナイチンゲールで有名になった欧州大戦争である。ロシア(ニコライ一世)がオスマン帝国に侵攻した。英仏がクリミア半島一帯に兵を送り込み、オスマン帝国との連盟軍としてロシア軍と戦う大規模な戦争になった。
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「歴史はくりかえす」
 170年経った今、英仏軍がウクライナ領に入り、その先ロシア領まで踏み込めば、プーチン大統領は公約通り、核弾頭ミサイルを撃ち込む。首都・キーウならば大惨事で、核被爆地「キーウは平和都市」となる。
 戦争は人間を凶器にする。「目には目を、歯には歯を」となると、英仏がモスクワに核報復する。モスクワは平和都市を宣言する。
 両国は首都を変えてでも、戦争をつづける。
 さらに被爆したパリ、ロンドンの平和都市が誕生する。NATO軍の28カ国のなかで核兵器をもたない国すら核攻撃のターゲットにさらされる。


 2023年1月現在、核兵器は一万2512発ある。核はおなじ都市に落とさないので、その数だけ平和都市が生まれる。
 思うに、一世紀前の漫画をみれば、高速道路、新幹線、旅客機による旅行など夢の世界だった。いまや違和感なく実現している。漫画とは未来像の先取りだ。SFやアニメなどには「人類滅亡」の素材があふれている。あと一世紀も待たずして人間は過去40万年の歴史を消し、他の生物に地球を譲るのか。

 ところで、毎年八月六日の広島式典では平和をうたう。「原爆投下がアメリカだったと、広島は言わない」と、プーチン大統領が批判したことがある。

 第二次世界大戦から80年が経ち、世界の若者たちはドイツ・ホロコーストも、日本がどこの国と戦ったのかも殆んど知らない。式典主催者がアメリカによる原爆投下だと言わないのは、子々孫々、後世に歴史の本質を隠す行為だ。

 曲げられた歴史はとかく利用されやすい。独裁者となったプーチン大統領が核兵器のボタンを押しても、NATO諸国に予告と警告をくり返してきたロシアだから、広島式典のように投下国の悪名が残らない、と考える。勝てば免罪符だと言い、核兵器の引き金に利用される。

                    「広島ペン2024下 寄稿」

幕末・維新史から、「名もなき雑草のごとく偉人」の発見へ     

 小学生の文集をみると、「雑草のように生きる」という表現がよく出てくる。この雑草とはなにか。逆境にも負けず、くじけないで、力強く生きることだろう。受持ちの先生は何かと、偉人伝を読みなさい、とすすめる。読んであこがれても、そうたやすく偉人にはなれない。雑草のようなたくましい人生ならば、自分にも期待できる。そんなことから雑草をモットーにするのだろう。

 19世紀半ばに開港・開国した幕府や、明治新政府の文明開化政策から、招へいされた有能な外国人が数多くいる。やる気は充分あるにもかかわらず、ほとんどの外国人は無情にも短期の使い捨てにされた。

 それでも日本を愛し、死ぬまで逆境のなかで頑張ったひともいる。業績を挙げても、その誉れはいつしか日本人にすり替わっている。「名もなき雑草の偉人」。そんな勝手な思いで、小説に描ける外国人を可能なかぎりさがしてみた。


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【写真】 ドイツ人のカール・レーマン(1831年11月28日 - 1874年4月21日)

 カール・レーマンはドイツ人で優秀な造船技師であった。徳川幕府が長崎に軍艦造船所を建設する目的で、乞われてきた初期の「お雇い造船技師」である。ところが、幕府はフランス政府の借款で、横須賀に造船所を建設する、当初計画の長崎は破棄した。その理由からカールは、三年間という雇用契約のみで延長が認められず打ち切られた。

 人間は男女の恋で生きている側面がある。かれは長崎の丸山遊郭の芸妓と結婚し、生まれたばかりの女児がいる。解雇で無収入になってしまった。この先、どう生きたのか、と私は興味をもった。
 母国・プロシアは、宰相ビスマルクが統一ドイツの誕生をめざし、近隣のデンマーク、オーストリアなどと戦争つづきである。後詰めで高性能な射程のライフル銃が開発されて、強国をあいてに連戦勝利しているさなかだ。妻子を連れて帰国すれば、徴兵制で兵士にとられる、その怖れがある。

 かれは日本に残り、ハンブルグ出身者(外交官)と協同で、ドイツ貿易商になった。このころの日本国内をみれば、薩英戦争、下関戦争、禁門の変、長州戦争と矢つぎばやに戦争が起きている。幕府も、全国諸藩も、火縄銃ではもはや戦えないと、西洋銃に切りかえている。あす戦争となれば、だれもが勝ちたい。ドイツ製の優れた銃がほしい。もとめられてカールはあつかい品目の比重を機械から武器へとシフトした。武器商人、もしくは死の商人。これでは小中学生の教科書には載らないだろう。

 かれは、グラバー流の密貿易などしない。会津、桑名、紀州藩など長崎税関を通過する正規の銃のみをとりあつかう。幕府筋から大量注文を請け負うと、カールは最新銃を仕入にドイツに帰国する。調達して再来日すれば、会津城は落城し、幕府は瓦解していた。大量の銃は宙に浮いてしまう。まさに、絵にかいたような逆境だ。知的なカールは、ビスマルク戦術を知る剛毅なプロシア下士官を日本に連れてきていた。和歌山藩にはドイツ式徴兵制の導入と、プロシア同様の軍事訓練による戦力づくりをすすめた。

 和歌山県では身分を問わず二十歳以上の青年が、ドイツ銃で訓練をうけた。この軍隊システムは日本中におおきな反響をあたえた。和歌山県(徳川家)が全国最強の軍事力をもった。薩長閥の新政府は、徳川家の再集結をおそれて廃藩置県を早めた。中央集権制で和歌山軍を無くし、まねて日本陸軍のドイツ徴兵制の導入に踏み切った。
 ここに鎌倉時代からつづいた武士階級が消えた。カール・レーマンが日本の歴史を最も大きく変えたといえる。

                  ☆      

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    【写真】弟のルドルフ・レーマン1842年 - 1914年)
 帰国したおり、弟ルドルフ・レーマンを日本に連れてきていた。この弟はドイツでも名門のカールスルーエ工科大学(2018年現在6人のノーベル賞受賞者を輩出)で土木・機械工学を学んでいる。兄弟して大阪に民間の鋼船づくりの造船所を興す。

明治二年には明治天皇、公家、新政府の政治家が、京都からこぞって東京に移ってしまった。天皇の遷都なき奠都である。
 御所や公家邸には雑草が茂り、商人らは逃げていき、経済は衰退した。荒ぶる人々によって伝統文化や寺社が破壊されるなど廃れた。京都府参事で失明の山本覚馬(妹は八重で、大河ドラマになった)が、レーマン兄弟に「京都の復興」を託し、京都初の「お雇い外国人」として招へいしたのだ。

 千年の古い都に、西洋の近代化を導入し、日本初の京都博覧会を開いた。京都に立入禁止の外国人らにも見学を許可した。京都御所まで一般に開放し、国際観光・京都へと踏みだす。さらにドイツ語・外国語の普及、赤十字病院、日本初の幼稚園、製紙会社、和独辞典など諸々の展開をした。

 今日の京都は国際観光都市として空前の客をあつめる。「名もなき雑草のごとく偉人」のレーマン兄弟を発見した

新聞寄稿 「ペリー来航の真相」

 最近の私は、歴史作家といわれている。もともと純文学の作品を書いてきた。かれこれ十年前になるだろうか、雑誌の編集者から「坂本龍馬を書いてください」と依頼をうけた。
「えっ。歴史上の大物の信長、秀吉、家康、龍馬などは、権威ある歴史作家......、司馬遼太郎、吉川英治、池波正太郎とかが書くジャンルではないですか」
「あなたの筆力だと書けますよ。取材力はあるし」
「無名でも、読んでくれますかね」
 そんな経緯で引きうけた。
 坂本龍馬の通説にはやたら嘘が多いな。
「人間って、こんなことしないよな」
 私が純文学の目でみると、英雄史観には人間離れしたことが多すぎる。現代のように新聞・テレビもないし、情報が瞬時に飛び交っていないし。そもそも、この世にはスーパーマンなどいない。

                  ☆

 私にはジャーナリズム精神と技術がある。自分が納得できるまで裏どりをする。あるときはミステリータッチ(刑事の勘)で臨んだ。ともかく、龍馬の足取りを追う。
 やがて船中八策(せんちゅうはっさく)は本物も、まして偽物もない、とわかった。さらに調べると、大正時代に土佐の政治家兼文筆家のつくり話だとすっぱ抜いた。つまり、龍馬は大政奉還の建白には関わっていなかったのだ。
 それを整理して雑誌で掲載した。これまで返品率が70%だったのが逆転し、返品が限りなくなくなったと喜ばれた。中日新聞(東京新聞)が日曜版で、見開きで大々的に取り上げてくれた。

                 ☆

いろは丸.jpg いろは丸事件でも、「衝突した紀州が悪い、龍馬が正しい」と、それが通説だった。長崎奉行は、龍馬の金塊と最新銃を積んでいたという主張を認めた。そして紀州藩には損害支払いを命じた。

 私は鞆の浦で、潜水調査した京都大学の助教授の存在を知った。取材申し込みをうけてくれた。「ガラクタばかりですよ」とマイクロフィルムを見せてくれた。さらに引き揚げた蒸気窯レンガの実物も触らせてくれた。
「なぜ。京大は鉄砲も金塊もなかったと、それを発表しないのです」
「ヘドロが船体に被さっており、引揚しないと船名が確認できないからです。あとは作家の世界ですよ」
 それも加えて雑誌に掲載した。
 坂本龍馬の批判記事は、おおきな反響を呼んだ。
 
 私が連載で次々と龍馬通説を暴いた。当然ながら、ファンから反論が寄せられる。「そこまで言われるならば、高知の坂本龍馬記念館に行って、船中八策を見せてもらうとよいですよ」とさらりと応えていた。むろん、現物があるわけがない。フィクションなのだから。

 6回の連載がすべてそんな感じだった。最近は教科書から坂本龍馬が消えるという。これまで虚像の世界の人物だから当然だろう。それは龍馬自身が悪いのではない。
「彼はそもそも鉄砲密売人なのだ。歴史学者と歴史作家が明治政府のプロパガンダに乗せられて、いまだに『倒幕の英雄』という偶像を史実のごとく扱っているにすぎないのだ」

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 最近の歴史関係書は、歴史を後からの視点で書いている。
 英雄たちが早くに文久時代から「倒幕」を叫んだように展開している。これも大嘘だ。当時の幕府といえば、最大の絶対権力があった。全国津々浦々に、公儀隠密がはりめぐされている。
 幕府の役人に、「倒幕」が一言でも発覚すれば、あるいは嫌疑がかかれば、当人のみならず連座制で一家全員が処刑される。武士は「家」制度の下で、親兄弟に迷惑をかけられない。たとえ脱藩しても、口が裂けても倒幕など言えなかった。脱藩そのものが「斬首」の刑が認められていた。
 学者にしても、歴史作家にしても、十五代将軍徳川慶喜の大政奉還まで「倒幕」を叫んだり、書簡(密書)に綴ったりした人物はいない(隠密に奪われる危険性があるし)とするべきだ。(処刑された吉田松陰すら倒幕は口にしていない)。

  ☆

 それにしても、明治政府の御用学者たちのプロパガンダはひどすぎる。
 学校教科書の歴史も、かなり嘘で染められている。薩長土肥の政権は自分たちを高く見せるために、事実に反して前政権の「徳川時代」を卑下している(プロパガンダ)。
「教科書は正しい。だから真実だ」。日本人はそう信じている。平成・令和の時代になっても、社会科教科書に「鬼面のペリー提督」を載せている。狩野派の絵師などは実写的に正確に書いている絵があるのに、と怒りすら覚えてしまう。
 明治政府が都合よく作った幕末史は嘘が多い。
「歴史は国民の財産だ。そこに嘘があれば、国民を欺(あざむ)きつづけることになる。幕末史の出来事の欺瞞を糺(ただ)さないと、このまま受け継がれていく。私たちの子孫のためにならない」
 このプロパガンダをばらしてやろう、と私は考えた。

ペリー 中川.jpg 幕末史で最も重要な出来事が、「ペリー提督の黒船来航」である。ここから日本史が大きく変わる。
『ペリー艦隊日本遠征記』の著者・Samuel Wells Williams は1812年生まれで宣教師である。この著作がどこまで事実なのか。Williams本人は、ペリーから依頼された、新興国アメリカの高揚感を高めることにも意を用いた物語だと明記している。これはまさに司馬遼太郎氏「竜馬は行く」という同じ創作タッチだ。
 それなのに明治以降の学者がなぜ『ペリー艦隊日本遠征記』(小説タッチ)を史実として扱うのだ、と強い疑問をもった。

 私はアメリカ側の史料(ペリーの書き残した書類、研究書、新聞)を漁った。Williamsの『ペリー艦隊日本遠征記』と照合した。かたや幕府側の交渉録なども精査した。
 ニューヨークからの出発に先立って、ベリーは海軍長官から「武力行使で条約を結ぶと、議会の多数派の民主党から批准されない。決して武力は使うな」と釘を刺されている。アメリカの日本遠征の目的は別にあると、私には類推ができた。
 ペリー提督が二回目の江戸湾来航(1954年)を半年も早めたのは、日本遠征を命じたミラード・フィルモア大統領が失脚して、ジェームズ・ブキャ ナン大統領(民主党)になったからだ。政権交代である。威圧的な砲艦外交の根拠がなくなっているのだ。
 
 私たちが学校で習ってきた社会科教科書に影響されない真実に近い『ペリー来航』を書こうときめた。

 純文学とは小説を通して「人間とは何か、真理の探究」の精神を描くものだ。私はいまなお純文学志向なのだ。

 2019年にまず「安政維新 阿部正弘の生涯」を世に送りだした。つづいて江戸城大奥の上臈・姉小路に注目し、一年間の新聞連載(公明新聞社)「妻女たちの幕末」(298回)を執筆した。それを一冊にして、昨年末(2023年)に南々社から単行本で出版した。

 とくに新聞連載中から気になっていたのが、「学校で習った砲艦外交に間違いない。小説とはいえ創作が過ぎる......」という批判だ。私はひと区切りつくと、ペリー来航の真実をもとめてオランダ・ライデン市のシーボルト記念館を訪ねた。
 それを寄稿文とした。
 2024年2月8日に掲載された。(写真のうえでクリックすると、拡大されます)

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『抱腹絶倒』 歴史資料を読む楽しさ=文久二年の幕府のヨーロッパ使節団

 歴史小説を書くためには、関連資料を読み込む必要がある。小難しく、難易度のたかい内容ばかりではない。ときには、おもわず吹き出してしまう。そんな内容に遭遇する。
 文久2年(1862年)に、幕府の竹内使節団がヨーロッパに出向く。かれらの持ち物を吟味すると、まさに抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)である。このまま利用しないのは、もったいないと思う。ならば、このHPで紹介し、読者におもいきり笑ってもらおう。

 皆さんが今、江戸時代の正装・武士の格好の袴羽(はかま・はおり)姿で二刀をさして、二十一世紀のバリ、ベルリン、ロンドンの市内を闊歩(かっぽ)しなさいといわれたならば、どういたしますか。それも、一年間の長期にわたってである。
「やってみよう」
 珍妙な風袋(ふうたい)で闊歩なんてできない。よほどの奇人・変人でも躊躇(ちゅうちょ)するだろう、きっと。

             ☆

 この年は生麦(なまむぎ)事件が起きた。神奈川の生麦村で、薩摩(さつま)藩の大名行列のまえをイギリス商人たち男女四人が、馬上で立ちどまった。薩摩藩士らが闖入(ちんにゅう)者あつかいから、日本刀(刺身包丁よりも長い刃物)で、かれらを惨殺(ざんさつ)した。
 
 当時の欧米先進国は民主革命が成功し、自由・平等・人権が尊ばれている。ヨーロッパの国内には長距離の蒸気機関車が走り、街なかにはガス灯が明々と灯り、高級ホテルが建ち並んでいる。河川には遊覧船が行き交う。
 港に近い紡績工場群には高い煙突から煙がでる光景がある。さらに巨大な機械工場、製鉄所が豊かな近代化にまい進している。
 街なかのフランス料理、ドイツ料理などレストランでは、盛装した親子連れがフォークとナイフを持ってマナーよろしく食事をしている。

               ☆

 このころ、竹内使節団の35人のヨーロッパ渡航準備がはじまった。

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 滞在費は三十万ドルである。横浜からスエズまで往路の蒸気船の船賃はイギリスが負担する。帰路はフランスと決められた。
 出発前から、英仏の公使は、「携帯品はなるべく少なく」と注意していた。
「ヨーロッパ人の言うことは、うかつに信じてはならぬ。日本国の御恥になる」といい、夏物、冬物の紋付き袴をそろえる。

「西洋の靴を履(は)いては、神州(神の国・日本)の大恥になる」
 軍用ワラジを持参することになり、1000足そろえた。
「現地で、靴を履いたものは、国風を乱した罪で、その段階で日本に帰す」とお達しを出しながらも、無駄なワラジだとわかり、海洋に捨ててしまう。
                    
 使節団の正使・副使の三人は、手槍、(馬につける)鞍、鐙(あぶみ)をそれぞれに用意する。戦争でもする気なのか。認識が違いすぎる。

 江戸城内や武家屋敷の廊下をともす金行灯(鉄網を巻いたもの)、提灯(ちょうちん)、手燭、雪洞(ぼんぼり)、蝋燭などを箱詰めにした。ヨーロッパのホテルはガス灯だ。まったく無用だった。

 冬場用の火鉢も50個ほど持参する。往復の蒸気船は、艦長の指示で、「火気厳禁」であり、火鉢はいちども使われなかった。、

 白米は世界一の味という認識から、(蔵前から)数百俵を積み込んだ。むろん、ご飯を炊く、調理する鍋や釜やおひつ、シャモジ、膨大な数の皿などもそろえる。
 ヨーロッパのホテルでは自炊はなく、随行員の口は洋食に慣れてしまい、結果として炊飯道具や皿はホテルの下人に、無料で、珍しいものだといい、あげてしまう。

 調味料の味噌・醤油も用意した。赤道直下でも腐りにくい万年味噌だといい、「甲州・武田信玄以来の軍用の味噌」をあつらえた。ところが、途中の香港を出たあと、イギリス兵から「臭い、臭い」と苦情が出て、すべて海に投げ捨てた。

 1862年とは、いまから150年まえである。幕府が開港・開国し、世界の「近代化」の潮流に乗ろうとた矢先だった。攘夷騒ぎで、薩摩藩士が馬上のイギリス人を一刀で斬り、落馬すると、「介錯だ」といい、とどめを刺した。二人重傷で、ひとり女性は逃げ切った。

 ちなみに、現代社会においても、「尊王攘夷」が日本のあるべき姿だったと美化するひとがいる。この手の竹内使節団の捧腹絶倒のはなしから、それがいかに時代錯誤(さくご)の歴史認識かとわかる。
 明治政府がねつ造した「文久の鎖国をもめる思想は正しい」というプロパガンダに染められたまま、現代におよぶからである。

             ☆

 あえてつけ加えるならば、竹内使節団が出発まえに、幕府はもしもヨーロッパで金詰りになった場合を想定し、横浜に駐在するフランス公使から(パリの)銀行信用状(日本政府が全額支払うと明記する)を発行してもらっている。
 こうした国際為替の連絡網がすでに開国の日本・横浜まで伸びてできあがっていたのだ。

 島津久光や小松帯刀らは「文久の改革」だと美化されているけれど、幕府には横浜からヨーロッパ諸国に送金できるシステムができているなど近代化への歩みの認識などなかった。
 鹿児島は遠方だから無知蒙昧(もうまい)であったにしろ、白昼、罪もない民間のイギリス人を斬り殺す。古今東西、太古から、人殺しは罪深い行為である。歴史の上でも、決して許される事件ではない。
 江戸っ子たちはかれらを薩摩の田舎侍、いも侍だと嘲笑した。こうした民間の声は歴史から消されてしまうものだ。
 
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 イギリスのフリゲート艦・オーデイン号には、使節団員たちの大量の荷物だけでなく、訪問国六か国の国王や首相らへの贈り物の漆器・甲冑などが持ち込まれた。膨大な厄介な荷物である。
 とうとうイギリスは別途に、喜望峰(ケープタウン)周りの運搬専用船を一艘あつらえることになった。(使節団はスエズから蒸気機関車で地中海に出る)

そればかりか、日本人はすべからく畳敷きの部屋を望むし、部屋と部屋の仕切りは襖(ふすま)をもとめた。応じるイギリスは軍艦の内部の改装に日数を要した。

             ☆

 1862年1月22日、フリゲート艦は芝三田(東京・港区)から出航した。艦長の指示で、消灯は夜の九時、艦内では許可なく飲酒は禁止である。当時の日本人はタバコが大好きである。強雨でも、決められた甲板の一か所しかない。
 かれら武士は軍艦の厳しい規則など無視する。艦長が注意すれば、「些細なことで、やかましい」と不平を鳴らす。
 
 貯水槽は鉄製だから、しぜんに錆が発生する。赤茶色の水で白米を炊く。茶色のごはんで、喉(のど)を通らない。日に三食、無理に食べる。そればかりか、荒天でおおきな波浪が甲板を洗う。激しい横揺れで、船酔いが続出する。
 
 長崎に寄港したあと、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領(en:Aden Protectorate)を経て航行するも、赤道直下では荒れた海、それに猛烈な暑さには耐え難い。

 同年2月22日、紅海のスエズに着くまで、かれらには難儀な船旅である。幕命とはいえ、気の毒ともいえる面もある。「船中は将来忘れがたい苦しみを味わった」という記録もある。
 

 エジプト・スエズに上陸したかれらは、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出る。船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った。
 やがて到達した近代化された西洋の都市・パリが光り輝いていた。「これが日本のめざす近い将来の姿だ」とかれらは目を見張った。

 この先進国フランスでナポレオン三世に拝謁し、次なるイギリスにおいてかれらは「第2回ロンドン万国博覧会」になんども会場を訪ねて熱心に見物し、とくに機械類に興味をしめしたようだ。
 さらにはオランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの合計6か国を訪問した。武士装束の一行はいずこでも奇異な目でみられた。その一方で、礼儀正しい態度とふるまいには感心されたという。


 【引用文献】  宮永隆著「文久二年のヨーロッパ報告」(新潮選書)
 

中国新聞・論説主幹が「妻女たちの幕末」について書評を記す = 時代を動かした「奥の政事」と題して

 中国新聞、日曜版(2023年12月17日)に、岩崎論説主幹がみずから「妻女たちの幕末」を取り上げている。


 書評では、大奥が従来の愛憎のうずまく定番ものでない、と明確に前置きしている。そのうえで、実在の女性である上臈お年寄り・姉小路という実在の女性視点から、開国か、攘夷か、と揺れ動く政局を描いた歴史小説である、と紹介している。


 その姉小路は12代将軍の家慶付きとなり、「奥の政事」を取り仕切り、老中首座で福山藩主の阿部正弘と手をたずさえ、動乱を乗り越えていく。
 260年間つづいた徳川幕府には、男女の役割が、機能的かつ合理的に役割分担があった。大奥の政治的な役割をおおきく見立てているのが目を引くと、同書の特徴を評価してくれている。


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 多彩な資料を引用し、天保の改革、米艦艇の来航、安政の大獄と歴史の筋立てを追う。姉小路をはじめ大奥の力が老中を上回る場面もあったと紹介している。


 作中では、植物好きのペリー提督が、日本の学術開国に関心が強く、脅しによる通商でなく、公平な国交だったという作者の幕末史の新たな見解を紹介する。そのうえで、近年、たしかに研究者はペリーの友好的な側面を指摘している、とことばを添えてくれている。

 同書では「砲艦外交」は明治政府のプロパガンダだと言い切っているが、岩崎論説主幹は「著者の見方には議論もあろうが、一読に値する」という。


 先の作品「安政維新・阿部正弘」の続編ともいえる、と「妻女たちの幕末」の立ち位置を明記されている。

ドイツ語は一文字もわからずして、独り150年前のドイツ取材の旅へ 

 羽田から深夜飛び立ってロンドン空港を経由で、ドイツのベルリンに入る予定だ。ロンドン・ヒースロー空港に着陸前、私は隣席の日本人男性(イギリス在住)とちょっとした縁から10分ほど語り合っていた。理知的な学者風で、国際的な視野を持っていた。
「着陸しましたが、当局の指示でしばらくお待ちください」とアナウンスがあった。
 それから10分間ほど、私たちはそれも耳に入らない感じで親しく国際問題や歴史を語り合っていた。突如として、武装した複数のロンドン警察が目の前のカーテンを開いて突入してきて、隣席のかれを連行して立ち去った。

 思想犯の手配書が回っていたのかな。話の内容からして、そんな感じの方だった。
 いきなりの出来事だ。独り旅の先々でこのさき何が起きるのかな、と構えた。
 
 ドイツ・ベルリンの空港に降り立ったのが、ことし(2023)11月1日である。
 それは新聞連載「妻女たちの幕末」が一年間で完結し、単行本になった発刊の日である。著者の私が、発刊日に日本を離れるなど、出版社にも読者にも、申し訳ない気持ちがあった。
DSC_0067.JPG 写真=ベルリン中央駅の朝の風景

 ドイツ取材旅行の目的は、明治10年に日本で初めて発刊された「和独対訳辞林」の小説化である。ドイツ語は一文字も理解できないし、話せない。
 旅立つ前には「通訳は雇うの?}と多くの人に聞かれたが、通訳はいらない。どうせドイツの150年前の歴史など正確に理解できておらず、あいまいな通訳でごまかすだろうし、それではかえって困るからである。
        
DSC_0004.JPG ブランデンブルク門(ベルリン)
 
 戊辰戦争のあと明治新政府が樹立された。
 明治4年に廃藩置県が終ると、明治政府はすぐさま岩倉使節団として総勢107人を欧米十二か国に派遣した。このころ、プロイセンが普墺戦争(ふおうせんそう)・普仏戦争で勝利し、1871年にはドイツ統一を実現し、ビスマルク政権が樹立された。

 岩倉使節団の一行は、日本・戊辰戦争と独逸・普墺戦争という似た歴史をもった宰相・ビスマルクに面談した。

 ビスマルクの考え方や思想に感銘した明治政府の高官らは、やがてドイツ帝国に傾倒していく。と同時に、多くの留学生がドイツ各地の大学などに派遣された。かれらは帰国後に医学の発展につくすのだが、初期の段階では語学をいかにクリアーするか、という課題があった。

 徳川幕府の時代から、ドイツ語を日本語に翻訳する独和辞典は存在していた。しかし、日本語をドイツ語にする辞典がなかった。
 ドイツに傾倒していく日本において、明治10年には民間人の手で「和独対訳辞林」が出版された。それは東京足立の豪農・日比谷健次郎・加藤翠渓が全額出資し、完成させたものだ。明治初期の「文明開化」のスローガンを掲げた政府指導の官製でなく、和独事典が民間人の手によるものだけに、私はそこに歴史的な興味をおぼえた。

 ビスマルク 彫刻.JPG 普墺戦争の大勝利の模様を描いた銅版レリーフ


 歴史小説は史料が命だ。より事実に近いところで書く。先輩の文豪たちも、その精神で臨んでいる。

「和独対訳辞林」の執筆を手がけた。出版社も内諾を得ていた。ところが、あまりにも資料がなさすぎた。編集者は三人の日本人であるが、いつドイツ語を学んだ人物なのか、そもそも、いったい誰なのか、その素性はまったくわからない。調べても、やみくもに月日が経っていく。
 日比谷印刷所は東京・神田に存在していた。だが、関東大震災、東京大空襲で史料はすべて焼失していた。手掛かりとなる史料は稀有だった。
r.lehmann レーマン.jpg 同辞典の校閲はお雇い外国人でドイツ人のルドルフ・レーマンである。京都薬科大学の創設者の一人である。
 やがて、私は「妻女たちの幕末」の連載準備に入り、「和独対訳辞林」の執筆を棚上げにした。新聞連載中に棚上げしていた間、私は日本側からだけで「和独対訳辞林」を描くのは限界がある、と考えはじめていた。明治初期の文明開化にはお雇い外国人もおおきく寄与したはずである。
 外国から日本を見る。日独の全体像を捉えてみようか、と私は胸のうちで思っていた。

 それというのも、「妻女たちの幕末」の連載中に、私は黒船騒動の通説は日本側の視点で書かれている。日本側は殖民地の恐怖を強調し、ペリー提督の黒船を砲艦外交で幕府はおびえて開国したという。それが明治時代の学者が書いた幕末史である。

 アメリカのペリー提督の立場から、日本開国を捉える必要あるのではないか。ある種の直観である。
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現在はAI時代だから、海外資料も瞬時に自動翻訳ができる。
ペリー提督の日本遠征がらみの数多くの資料を読み込むと、十九世紀の捉え方・認識が日本側と米側はおおきく違っていた。
 新興国アメリカ側は、「十九世紀は科学進歩による学術競争時代」だととらえていた。世界的な新発見ブームのなかで、アメリカが国威高揚のために、科学進歩に寄与できることは何か、とペリーは考えた。
 鎖国日本で、オランダが唯一、博物学、動植物学の日本独占をつづけている。アメリカはフロンティア精神で、日本に出向いてオランダの貿易・学術独占を打破し、世界じゅうに学術開放することだった。


ベルリン 戦勝記念塔.JPG 戦勝記念塔(せんしょうきねんとう)285段の螺旋階段を登った展望台の夜景
              
 歴史小説は、外国側からの視点も入れなければ、真実に近いものは書けないと悟った。「和独対訳辞林」においても、「妻女たちの幕末」のように、海外のお雇いドイツ人の視点も取り入れて執筆しようと心のなかで決めた。

 私たちは学校教育で幕末~明治のお雇い外国人についてさして学んでいない。
 かれらがいったい誰に依頼されて日本にきたのか。当時の日本は攘夷という人斬りが横行する。命を失いかねないリスクがあった。どんな業績を残したのか、という貢献度を知る必要があったからである。
  
DSC_0036.JPG ベルリン自由大学の構内

 
 ドイツ行きの決意を固めた私は、まず在日ドイツの関連機関や日本の大学などから、ドイツで日本語ができるドイツ人のアポイントを取り始めた。思いのほか難航した。

 イスラエル・ガザの紛争が勃発した。この問題は第二次世界大戦のナチスドイツのホロコーストに端緒がある。ヒットラー政権は負の財産として、このところクローズアップされている。ここに問題があった。

 明治初期の日独の関係はビスマルクは避けて通れない。ビスマルクの思想はやがてヒットラーに結びつく。すくなからず日独の歴史において明治から1945年の敗戦経験まで、類似的な道を歩んでいる。そこから逃れられない。

 私がメールや電話で直接、取材目的を説明しても、明治初期に限定しても、出発直前でアポイントキャンセルが多かった。当初から杞憂していたことだが、イスラエル・ガザの紛争がおもいのほかドイツの方々の心の暗さになっている、と思った。
 
 それでも、応じてくれる学者がいた。救いだった。
 
DSC_0016.JPG

 ベルリン自由大学の日本学科の教授、旧東ベルリンにある伝統あるフルポンヌ大学にある森鴎外記念館の学者、デュッセルドルフ大学の日本研究所の博士、ベルリン日独センターの文化部長などに面談した。

 明治初期に関係するドイツ側情報について取材した。作品を執筆するうえで、ずいぶん貴重な取材になった。

           ☆

 次なるは、ベルリンから長距離列車で、ルドルフ・レーマンの出生地・オルデンブルクに向かった。東京・京都くらいだ。私は車中で、取材ノートを整理していると、最初の乗換駅を見過ごしてしまった。

 東京からたとえれば、熱海で乗り換える距離なのに名古屋まで行ってしまった感じだ。そのまま引き返してもよいが、検札が来たら、ドイツ語は話せないし、厄介だ。そう思うと高速鉄道の次の駅・名古屋で下車し、そこで熱海までチケットを買いなおし、引き返してきた。熱海では京都までの指定券が無効だから、自由席として有効にしてもらう。

 唯一、頼りになるのは私自身の度胸である。若い時から登山で鍛えた、危機には沈着になれ、という信条だ。エッセイのネタになると思えば、失敗も楽しからずや。

DSC_0076~2.JPG

 目的地のオルデンブルクに着いたのが、予定よりも遅くて夕方3時半ころになった。そのうえ、土曜日が公営図書館は休館だった。「えっ、日本に図書館が土日が休館なんて、考えられない」。まさに予想外のことだった。私はドイツ語がまったくわからない。一文字も読ない。どうするべきか。臨機応変で自分を試す機会だ、と自分に語りかける。

DSC_0108.JPG      建物はレーマンの生家・オルデンブルクのピーター通り

 私はタクシー運転手の溜り場に足を運んだ。大半がタバコを喫っている。かれらと交渉をはじめた。
 150年前のルドルフ・レーマンは、とりまく7~8人の運転手たちは誰も知らなかった。そこで私はドイツ語の資料ファイルを出し、スマホの翻訳機能をつかい、レーマンの誕生した生家、学校、教会を訪ねて写真撮りに協力してくれる運転手をもとめた。

 すると、駅前タクシーの序列で五番目くらいに位置する四十代の運転手がファイルをのぞき込んで興味を示してくれた。「お前、引き受けろよ」と仲間が譲り合っていた。交渉が成立し、私を案内してくれることになった。車中では町の特徴も聞いた。

 レーマンは若いころオランダ・アムステルダムの造船所で働いている。そのご、カールスルーエ工科大学の土木工学科に遊学する。川海工業と土木工学を専攻していた。卒業後はオランダの機械工場で勤務している。
 
DSC_0084.JPG オランダの快速列車 

  私はドイツからオランダに入った。江戸時代は蘭語といわれていたオランダ語など、私にはまったくわからない。つたない英語と度胸があれば、世界中どこに行っても、人間と人間は通じ合える。とはいっても難儀は避けられない。ドイツでも、オランダでも、おおきな駅すら制服の駅員がいない。何番線に乗るのだ。行先の文字は読めない。

 そのうえ、ほとんどの駅にはトイレがない。日本では信じがたいが、皆無に近いのが現実だ。どうするのだ。水やビールは飲まない。主要駅には有料トイレがあるから、そこまで我慢するのみ。
 
 ところで、アポイントを取っていた著名な学者から、レーマンの勤務地が「咸臨丸(かんりんまる)」の造船所のすぐ近くだと知った。それは驚きである。
 咸臨丸とはなにか。ペリー提督が来航した年に、老中首座の阿部正弘が、長崎出島のオランダ商館長を通じて発注した蒸気船である。太平洋横断という業績を成した。日本史のなかでも、輝かしい歴史を飾るものだ。

 レーマンは機械・土木技術者であり、造船工学にもくわしい。咸臨丸の船体、蒸気機関の構造など知り尽くしたうえで、日本行きを決断したのだろう。このようにストーリが類推できた。
 歴史作家はたとえ海外でも、現地取材を豊富に脚しげくすることだ。古き出来事を訪ねるだけでなく、新たな歴史発見が生まれるのだと、再認識した。



【関連情報】
「妻女たちの幕末」(南々社) 2300円+税 
 

 

ペリー来航は世界にむけた日本の学術開国であった。米国とオランダから重要な裏付けがとれた

 私はドイツをまわり5日目、オランダ・アムステルダムから列車で約30分のライデンに降り立った。雨の日で寒い。この都市はオランダ最古の大学都市であり、国立民族学博物館、日本博物館シーボルトハウスがあることで有名である。
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 歴史小説「妻女たちの幕末」が出版される日(11月1日)に、作者が日本を離れる。ふつうはあり得ない。だが、私はどうしても作品の核の一つペリー来航による日本開国に関する記載に対し、オランダ側の裏付けを取りたかったからである。

 1853年、ペリー提督がニューヨークから地球を3分の2をまわり、延々と7か月も経て江戸湾に来ながらも、初来航ではわずか9日間にとどまっただけである。それも上陸したのが、米国大統領の国書を渡す、久里浜の2~3時間だけであり、浦賀にも上陸していない。なぜか、かれは江戸湾の水深調査だけで終えて日本を立ち去っていった。
 別段、砲艦で脅したわけでもない。ペリーの来航の真の目的は何だったのか。私はそこに着目した。

            ☆

 わが国の教科書や学術書や小説など、あらゆる幕末書は、ベリー来航で日本国中は大騒ぎ、と表記している。
 徳川幕府側の資料はどうなのか。調べてみると、意外にも、ペリー提督の初来航の9日間は冷静に対応している。

 9年前に浦賀にきたビッドルは平穏に浦賀から立ち去っている。さらに、その後のペリー来航より5年前(1848)、米国東インド艦隊のジェームス・グリン中佐が、長崎に米国捕鯨船の海難民(13人)と冒険家のマクドナルドを引き取りにやってきた。(オランダからの米人収容者の情報で)。
 グリン中佐と長崎奉行(井戸覚弘・さとひろ)は、初の日米交渉に成功し、無事に長崎から米国人の引き渡しがなされている。
 こうしたアメリカとの折衝の経験もあり、幕閣はペリー初来航にたいして沈着冷静に対応している。後世の書物でみるような、浮足だった大騒ぎなど微塵もしていないのだ。

          ☆

 翌(1854)年、ペリー再来航による日米交渉が横浜でおこなわれた。日本側は林大学頭が筆頭に、かつてグリン中佐に対応した元長崎奉行・井戸覚弘(江戸北町に昇格)らも加わっている。
 林らの交渉記録「墨夷応接録」が現存している。日本側とペリー側は公平・対等の交渉であった。砲艦外交など、後世のねつ造である。林の細部の内容をもって、それが証明できる。
 この「墨夷応接録」は、明治から太平洋戦争後まで世に出ていない。なぜか。御用学者がねつ造した「蹂躙されて開国」というストーリーに合わなかったからである。終戦後に一度は出版されたが、話題にもならなかったようだ。近年(5年前)にそれが世に出てきている。

               ☆

 日本側の学術書など幕末資料は鵜呑(うの)みにできないと考えた。私は新聞連載小説「妻女たちの幕末」の執筆にあたり、1850年ころの英米蘭の海外文献や、ペリー提督が書き残した資料、来航時の海軍士官たちの学術レポート、ニューヨークタイムスなど米国新聞から、日米の展開を解析した。
 
 現代はAIで英文が自動翻訳できる。これは明治からここ数年前まで150年間における、どんな著名な歴史作家や大家でもできなかった情報収集の技である。
 私はそこに強い自信を持った。より真実に近いところで作品が展開できた。明治時代に勝者になった薩長閥の都合の良い、一方的な作り話・幕末史をくつがえす、内容となった。

「妻女たちの幕末」の執筆で、オランダ側の資料はシーボルトが追放されるまで、それなりに日本に資料はあった。
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 16世紀から、オランダは航海技術がたけており、海軍力も英国・スペインよりも勝っていた。ハーレムの黄金時代が誕生した。
 17世紀前半 オランダの全盛期だった。
 ジャワに東インド会社を設立し、さらにアメリカの南北大陸・アフリカとの交易を行う特権会社として西インド会社を設立し、北米のニューヨーク州もオランダの植民地だった。

 オランダ東インド会社は世界最初の株式会社といわれ、資本主義社会の企業の原型となった。広範囲な交易から、首都アムステルダムは世界金融の中心地として栄えていた。

 日本は欧州では唯一、ジャワに東インド会社の交易を許していた。そして、長崎のオランダ商館長の江戸参府(166回)で海外情報を入手していた。ここらの資料は幕府側にあった。

DSC_0088.JPG       

 アメリカ合衆国の日本遠征は当初、東インド司令長官にジョン・オーリックが特使だった。ところが不祥事から解任された。そこで退役軍人でメキシコ戦争に活躍したベリーに、代将(提督)のはなしが持ち込まれた。

 日本遠征はアメリカ大統領の親書をとどけて平和条約を結ぶ役目である。海軍長官から「武力行使による条約締結は、民主党が多数派の議会の承認が得られない、戦争はするな」という足カセがついた。
 メキシコ戦争の英雄・ペリーにすれば、戦いで勝って条約を結ぶならば自信はある。だが、自分は軍人であり、外交官でないし、デベート力(交渉術)はないと苦慮した。かれは日本遠征を引き受けるか否かと二か月間ほど悩んだ。

 十九世紀は蒸気船の発達から地球が狭くなった。科学進歩の目覚ましいものがあった。欧米は貿易の富を背景にして科学進歩の競争時代に入った。十九世紀は新発見競争が過熱した。
 西洋人が足を踏み入れていないアマゾン探検、アフリカの奥地の探検とか、南極・北極はだれが一番乗りするかとか。ダーウィンの進化論によって科学が変わった。遺伝学の分野とつながる動植物の新種の発見競争が国家規模となった。

         *

 悩むペリーはニューヨーク州のハーバード大学の植物学の教授を訪ねた。
 日本は鎖国状態で、動植物が二百数十年間にわたり、品種交配がなされていない。日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も特殊だ。北半球におけるも世界に知ら入れていない品種の宝庫である。
「西洋のオランダが単独で日本の博物学、動植物学、民俗学、天文学など学術独占している。これを世界に開放すれば、19世紀の科学の進歩につながる」
 ペリーに日本遠征を引き受けて学術開国するように勧めた。アメリカは独立からわずか七十年にして、世界に科学の分野のフロンティアを示せる、と。
 ペリーは、シーボルト著「日本」など読みあさった。かれはイギリス商人のような交易目的でなく、学術開国に燃えた。

 ペリーが東インド艦隊司令長官に任命されたと、新聞報道が世界に伝わった。西洋の科学者たちは、乗船を希望し、数多くの申し込みがきた。最もライバルとするシーボルも乗船を希望した。「日本幕府から追放された人物は乗せられない」
 軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、ペリーは海軍士官らに一人ずつ研究科目を与えた。74余の科目を割り振った。論文は国務省のものにする、とした。

 アメリカの海軍士官は優秀だった。アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを出発し、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるとこで半月、ひと月、学術研究で滞在し、日本にやってきた。それは嘉永6(1853)年6月3日夕方4時ころ、浦賀沖に初来航した。
 蒸気船2隻、帆船二隻の計4隻である。

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 私はオランダのシーボルト記念館に「妻女たちの幕末」を持参して訪ねた。取材申し込みをしていた副館長(学者)は、あえて休館日に対応してくれた。
「歴史小説ですが、歴史教科書を塗りかえる使命を持つ本です。それだけに作者の責任として、出版日に日本を出てきました」と来意を語った。
 上記のあらましを語った。
「ペリー来航は学術開国に間違いありません。オランダが落ち目でしたから、狙いすましたのです。オランダ叩きです」
 副館長は明瞭にそう言い切った。

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 18世紀に入るとイギリスは産業革命から、科学技術の発達と産業の仕組みの変革により、「世界の工場」と呼ばれるようになった。貿易の拡大で富を築いて大発展し、植民地帝国になった。 
 オランダは海外市場の覇権を失い、衰退期になった。
 フランス革命・ナポレオン時代になると、オランダ全土が制圧された。フランスの支配を受けると、1799年にオランダ東インド会社を解散した。オランダは世界から一時、消滅する。亡国となったが、長崎出島だけがオランダ国旗を掲げていた。
 傭船のアメリカ船がオランダ国旗を掲げてやってきた(米船11隻は船名も確認できる)。ただ、オランダ船と船体の形状が違う。長崎奉行はそれを知りながら将軍には報告していない。大槻玄白(仙台藩)などは気づいていたようです。

 オランダ東インド商会のあと、植民地政庁となった。激しい反植民地闘争の戦争が起こった。
 19世紀の半ば、オランダは国力はなくなっていた。
 反面、米国はカリフォルニアのゴールドラッシュから、世界に羽ばたくフロンティアの輝かしい時代となった。
「世界に強さを示す。衰退したオランダ叩きです。オランダの貿易と学術独占をこわす。世界の学者に向けて日本を開放する。まさにアメリカのフロンティアを示すことができる、最高の演出がペリー日本遠征です」
 ペリーにとって発展途上のアメリカの力を見せる格好の国が日本でした、と副館長はつけ加えた。
 日本を蹂躙して植民地にするなど毛頭考えていないし。公平で平等な条約です。ペリーはアメリカ大統領が海軍力のない日本を守るとまで約束して帰っているのです。
 それが日米修好通商条約第2条で謳われている。

「オランダの学術独占が壊れたあと、ヨーロッパの学者は日本に目をむけました。たとえば、プロシアは7番目の通商条約を結ぶとき、大勢の学者を軍艦に乗せて日本に向かっています。それはペリーが学術開国したからです」

 私は、こうしてペリー来航の主目的が、世界の学者に向けた学術開国だった、と裏付けが取れた。
 私たちが学校で習った、狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」も、明治10年ころの創作で、事実に反する、と最近の教科書から消えた。 
 この先「妻女たちの幕末」がより広範囲に知れ渡ると、我が国の歴史教科書がすっかり変わる、と確信をもつ。
「ペリーの砲艦外交」は死語になる。「癸丑(きちゅう)以来の未曾有(みぞう)の国難」とか、「ペリー提督の鬼の顔」が歴史教科書から消えるだろう。

                「完}
【関連情報】

「妻女たちの幕末」(南々社) 2300円+税 
 
 

 

「妻女たちの幕末」(単行本)は発売から一か月。歴史教科書が間違いなく変わる意見が多し

 新聞連載小説の「妻女たちの幕末」は一年間にわたる。2022年8月1日から翌23年7月31日まで、日曜日をのぞく毎日で延べ298回に及んだ。
 ことし(2023年)11月1日には単行本として出版された。

 装丁はみた瞬間、分厚い本だな、とおどろいた方も多かったはずだ。上と下に分ける意見もあったが、一冊にした。その理由は、私自身もそうだが、下巻など買わず読まずだから、自己体験からしても、厚くて割高な本を承知で出版した。
 
 ページ数が多いし、読むには時間がかかる。約1か月経ってから、すこしずつ読後の感想が出はじめた。

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 揚州周延作 上越市立歴史博物館蔵

 私の古い友人から、ショートメールで、
「全部読みました。すごく調査もされて、当時の裏歴史が手に取るようにわかり、すごーい! と感心することしきり。本当にすごい」
 とメッセージが届いた。

 アマゾンのカスタープレビューにおいても、
「ペリー提督の話も、今まで教えられてきた内容とまったく違い、砲艦外交ではなく学術研究が目的だと違和感なく書かれていています。これまでの幕末物語(通説)は何を根拠に描かれていたのか?」
 と定説・通説に疑問を感じたと記す。

「目からうろこ、まさに、この『妻女たちの幕末』で歴史教科書が間違いなく変わると思います」
 
{天保から徳川幕府の終焉まで、大奥の最高権力者達の視線でとらえた、かつてない歴史小説。水野忠邦の天保の改革のドラマで、一気に心を奪われました。ペリー提督の日本遠征の目的は『学術開国』だったとは、私たちが学校で教わった幕末歴史とは、まるで違っていました」
 異口同音に、歴史教育が変わるという好評だ。

揚州周延.jpg 

 
 私には本音を語る知人に聞けば、
「この本を読むまで、姉小路は知らなかった。将軍家慶のブレーンとして活躍する姿には引き込まれた。ただ、「大奥」が背景だから、愛とか、恋とか、もっとロマンが欲しかったな」
 という意見もあった。

 当時は、江戸の巷に「将軍家慶と深い関係があった」という噂もあったらしい。明確な根拠もなく、私は小説だからと言い、興味本位で膨らませなかった。

 老中首座の阿部正弘と姉小路の浮ついた噂の資料などなかった。ふたりの間は毅然とした距離があったからこそ、徳川幕府のなかで、強い政治権力者の老中と大奥上臈が、国難に立ち向かえたのだろう。
 
 もし姉小路に浮ついたスキがあれば、奥女中ら千人が妬み、嫌がらせから、失脚しただろう。

 阿部正弘は25歳で老中首座になり、享年39歳で現職老中で死去するまで長く政権を維持できた。
 それは賄賂をいっさい貰わないという毅然とした態度があったからだ。
 女性問題でも、もし正弘に姉小路といかがわしい関係があれば、足元をすくわれて長期政権の維持はおぼつかなかっただろう。
 それ故に、小説とはいえ、二人の間には恋心を入れなかった。

 一般に「大奥」ものといえば、色恋が入る。書店で表紙カバーの和服姿の女性像から手にした読者は、この面では想像が外れたかもしれない。
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 家茂と和宮の恋などは、私が書かなくても、大勢の作家が好き勝手に想像で書いている。だから、そこらはさして筆を入れなかった。

「大奥は決して卑猥なハーレムではない」と真っ向から通説を否定し、政治的な重要な役目(機能)をもった場である、として知らしめている。

 家慶の側室であったお琴はたんねんに描いてみたけれども、4人の子供を出産するが、いずれも一歳前後で夭折するし、母子の愛情なども描ける環境ではなかった。
 そのうえ、彼女は実兄の忠央に、不倫を理由に斬首されてしまう。悲劇で終わった。

 女性のロマンが薄かったのは、娯楽的な大奥の時代小説と、より真実に近いところで書く歴史小説との違いである。

           ☆

 14代将軍家茂といえば、4歳にして紀州藩55.5 万石の藩主となり、13歳にして徳川将軍である。
 若さゆえに、家光以来の229年ぶりの京への上洛など、松平春嶽(福井藩主)にはいいように利用された。総裁職とは大老と同格である。かれは京都において15歳の将軍・家茂を見捨てて福井に帰ってしまった。(怒る幕府は春嶽を処罰した)。

「家茂公は人柄が良くて、幼少のころから政治の中心にいて、お気の毒なお方でした」
 勝海舟は終生、家茂を語るとつねに涙の弁であった。それに近いところで家茂を描いた。

 反して、松平春嶽が近いうち(2026年)にNHK大河ドラマに主人公になるらしい。こんな人物が、と私はおどろいた。
「妻女たちの幕末」では、数々の資料をもとに、春嶽の醜(みにく)い政治姿勢を問い糺(ただ)しているからだ。

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 有能な13代将軍家定には、数々の業績がある。「世界の潮流に乗る通商は100年後の国家の繁栄になる」という信念があった。いい大老の独断の通商条約と、歴史は語るが、その実、家定公の強い熱意だった。
 150年後の現在において、通商の必要性は実証されている。

 春嶽は妬みからか、家定公は最低の将軍だと言い遺(のこ)している。
 それが明治以降の歴史書となると、徳川幕府の大老・井伊直弼を悪者、将軍・家定を無能として見下す。まさに明治政府のプロパガンダである。

 若き慶喜はことのほか、春嶽が掲げた一橋派の行動すら嫌っていた。その春嶽は、徳川幕府が瓦解(がかい)寸前の最も苦しい時に、明治新政府側に寝返ってしまった。つまり、家茂につづいて慶喜すらも見捨てた人物だ。

 福井藩の家臣は概して有能だが、春嶽は人間としてあまりにも見苦しい人生だった。

 ところが明治以降の御用学者の作った幕末史は、薩長閥の支配に迎合し、一橋派および寝返った松平春嶽を善としている。それが幕末史の定説・通説になってきた。
 
 古今東西、時の政権が都合よく歴史をねつ造しても、いずれ糺(ただ)される。
 わい曲された幕末史を是正する端緒(たんしょ)は『妻女たちの幕末』だと私は信じている。
 
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ホロコースト(ドイツ)および一億総玉砕(日本)

 ことし(2023年)11月1日、私は羽田からロンドン・ロンドン・ヒースロー空港経由でドイツに向かう航空機のなかにいた。この間、機内で折々にニュースを見ていた。いずれもトップニュースがイスラエルと・ガザの問題である。

 ドイツ取材の時期が悪いな、と私はつぶやいた。
 この問題は複雑である。端緒は紀元前からつづくユダヤ問題である。近年では、1933年から始まった1945年の第二次世界大戦のホロコーストがつよく影響している。

 ナチス・ドイツ政権と同盟国や協力者が、ヨーロッパ全土のユダヤ人を約600万人に組織的な迫害および虐殺した痛ましい悲劇である。
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  凱旋門、かつて東西ベルリンに分断されたところ 

 私はベルリン自由大学と、フンボルト大学ベルリンの二校の教授らに「明治初期のお抱え外国人のドイツ人」関連の取材を申し込んでいる。

 明治4年の岩倉具視使節団がベルリンに着いた時、ドイツ統一のビスマルクに対談する。
 当時のドイツはフランス、オーストリアに勝利し、輝かしい国家にみえていた。明治政府はビスマルクの戦歴を称賛し、英仏から次第にドイツに傾倒していく。医学、科学、さらには大日本帝国憲法へとあゆむ。

 このたびのドイツ取材において、明治政府が模範としたビスマルク宰相は外せない。ただ、ビスマルク精神はやがて第二次世界大戦のヒットラーへとつづくものだ。

 ヒットラーはホロコーストでユダヤ人の民族壊滅を図った。

  私は当時の日本に目を向けた。
 日本の武士は古来、大和魂を重んじた。切腹文化があった。己の名誉と贖罪のため、死をもって償う。恥を嫌って自刃(じじん)する

 外国では日本文化・風習として「腹切り」として知られている。太平洋戦争に突入すると、これは単なる精神論で終わらなかった。

 この武士道が戦陣訓(せんじんくん)として、昭和十六年には、陸軍大臣・東条英機が陸訓一号として、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と通達した。

 法律で、死ぬまで戦え、捕虜になるな、と法規範になった。国民は法の下で生きているから、この規範から逃げられず、玉砕や自決を選んだ。
〈一億総玉砕(そうぎょくさい)〉という、日本民族がこの地球上から消える、という選択肢にまで及んだ。

 このたびのドイツ取材は日独の歴史である。明治初期から第二次世界大戦で、同じような歩みをした。ドイツは空爆で、ヒットラーの自決で終わる。日本は広島・長崎で終焉した。
 両国は1945年をもって壊滅な亡国に近い状態となった。ドイツは東西に分断される、日本はGHQの統治下におかれた。双方とも、進駐した軍隊によって政治支配された。

 ここまで顧みると、日本人はホロコーストを批判できる立場にない。なにしろ、一億総玉砕と叫んだのだから。
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  ベルリン自由大学の構内の食堂で
 
 ある教授はこう言った。
「日本の方はドイツ人とよく似ている、というそうですが、まったく違います。日本には個人の自由がない。ドイツ人は自由を大切にします。真逆です」
 
 ホロコーストをおしすすめるヒットラー政権に反対した大学生たちを含め、約2万人がドイツから逃亡したと聞かされた。

「日本人は逃げましたか」
「いいえ。私が知るかぎりでは、一人として聞いていません」
 当時の日本は朝鮮、台湾、満州国など統治し、パスポートなしで大陸に行ける。逃げる気になれば、中国経由で逃亡もできた。
 私はこう説明した。
「戦時下の大学生たちは、文系ですと、一億総玉砕の政策に反対せず、学徒動員で徴収されて特攻隊などで命を失くしています」
「日本人とドイツ人とは根本がちがいます。日本人は個人(自分)の考えで行動しない。現代でも同じです。日本人は会社の命令で転勤します。ドイつの会社は転勤がありません。勤めれば、おなじ場所です。奥さんが病気になれば、会社に電話して休みます。当然の権利ですから」
 ここら個人の権利とか、自由の考え方とかが、ドイツ人と日本人はまるで似ていないな、と思った。
 
 ベルリンの取材で、私は日本人はぜったいに戦争してはならない民族だとつよく思った。
 なにしろ上官がぼけていても、戦術を間違っていても、国際法に違反した命令でも、(意見をいう自由がなく)従ってしまう。
 歴史的にみて、日本人はおなじ道を歩むだろうから。

 国民が軍事政権(ヒットラー、東条)を熱狂的に支持し、かたやホロコースト、こちらは一億総玉砕という、民族壊滅まで進んでしまったのだから。理由は問わず戦争に巻き込まれないことだ。

 現代の岸田政権は支持率が30%とかありません。これは日本にとって、とても良いことです。この支持では、「戦争をやるぞ」といえば、政権崩壊ですから。一方的に戦争に進めません。
 プーチンのように80~90%の支持があれば、己の判断で、戦争への道はたやすいのです。高支持率は独裁者になれますから。

 私がそういうと、ドイツの学者は苦笑していた。

 ドイツ国民の高支持率がヒットラーの独裁を許し、歴史の悲劇を生んだのだ。それはわかっているだろう。

「妻女たちの幕末」は、通説の裏舞台をよみとく内容が豊富である。①

 新刊「妻女たちの幕末」は、どんな小説だろう、読者は本を手にしてまず目次をみる。ここに工夫を凝らした。

 プロローグ~11章~エピローグまで、縦書きでならぶ。と同時に、新聞小説の挿絵(イラストレーター中川有子・298回)から抜粋して挿入している。

 ビジュアルに、幕末のどんな内容が描かれているのか、読者には多少なりとも連想ができる工夫をしている。大奥一辺倒の小説ではないとわかる。

 幕末史に関心がある読者は、きっとあの場面だなと想像も沸き立つ。

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 本文を読んでみないと判らないのが、女性が武士に手打ちになる挿絵だろう。「将軍家慶の側室・お琴が大工と不倫して処刑される」。ここらは知りたいところだな、と思うだろう。

                   *
 
  徳川将軍に謁見の場は、絵が小さいけれど、これは13代徳川将軍・家定である。かれはとても有能で、数々の業績を残している。
 ところが、明治政府には徳川幕府を卑下するするために、故意に家定を病身で無能扱いでこき下ろし、この背景には何があるのだろうか。
  
  この家定は「5か国の通商条約」を3か月で一気に締結させる道筋をつくった将軍である。というのも、日米修好通商条約の締結を前に、老中・堀田正睦(まさよし)がみずから京都に出向いて、天皇から通商条約の勅許をもらう行動に出た。しかし、結果は膨大なお金を公家にバラまいただけで終わった。

  将軍・家定は、京都から帰ってきた老堀田を外し、井伊直弼を大老にすえた。むろん、家定の思し召しであった。(彦根藩の井伊家の資料)

 井伊は国学に陶酔する尊王主義者であった。
「天皇の勅許を待ってから、日米の通商条約を締結したい」
 と家定に申した。

 家定は外国通である。世界の流れをよく知っている。
「堀田が京都にいって朝廷や孝明天皇に説明したが、勅許が得られなかったではないか。何年先まで天皇の勅許を待つつもりだ。中国をみよ、インドをみよ、ベトナム、ラオス、インドネシア、近年ことごとく植民地になっているではないか。植民地になってから勅許をもらっても手遅れになるのだ」とかたくなに突っぱねた。
 
 すると、井伊直弼が大老職の辞表を提出した(井伊家資料六)。

 家定は辞表を受理せず、「これは日本の将来のために必要だ」といい、この日のうちに岩瀬や井上に日米通商条約の締結を命じた。こうして勅許なし通商条約の締結を押し切った将軍・家定である。外国奉行たちは将軍の意向だといい、5か国の言語が違う国と外交交渉をもってわずか3か月という超人的な技で「安政の5か国通商条約」を締結させたのだ。

 そのさなかに、家定は急死した。(当時は毒殺されたとみなされた)。

 安政の大獄の後、水戸藩の浪士が井伊大老を暗殺した。

 ところで、家定・井伊が亡きあとも、開港・開国の流れは加速した。血で洗う尊王攘夷派さえも、海外との交流を止めきれなかった。幕府は、世界の流れから亡き老中阿部正弘が掲げた「富国強兵」をめざし、西洋の近代的な政治、軍事、商業、産業などを模範とすることにきめていた。万延、文久、万治、慶応と幕臣たちの英語、フランス語を習わせる。
 かたや、旗本から抜擢した有能な人材を遣米使節にくりだす。留学生もくり出す。その数は数百人にも及ぶ。

 長州ファイブというがわずか5人、薩摩もその数は19人、幕府の海外視察や留学生の足元にも及ばない。

 幕府は留学生だけでなく、お雇い外国人を招聘し、横須賀に大規模な近代的な造船所をつくる。長崎に製鉄所を作る。築地には豪華なホテルを作る。アメリカには蒸気機関車と鉄道網の敷設を依頼する。近代化に突っ張りはじめた。
 フランスには軍事教練の指導者を招き、歩兵、騎馬、砲兵の編成をする。
 
 小栗上野之助などは、西洋流の群県制を樹立し、政治の近代化を目指した。
 
 財政難の徳川幕府が困難な政治・経済上の条件の下で、西洋文明を取り入れることに鋭意努力し、新しい日本の建設の先駆者になったのである。

 明治時代になると、下級藩士たちによる新政府が樹立したが、かれらには確固たる政治理念がなかった。そこで、幕府の近代化路線を引そのままき継いだ。
「明治から文明開化」と提唱するには、将軍・家定が先見の目がある外交通りの有能では困るのだ。「将軍は無能で、井伊が強引だった」という筋書きが必要であった。

                   * 

 ここで利用されたのが、春嶽の随筆「逸事史補(いつじしほ)」である。明治3年から12年に書かれたものだ。そのなかで、将軍・家定に冷遇された腹いせから、「平凡の中でも最も下等」 と嘲っている。

 家定の継嗣問題が起きた時、春嶽は一橋派擁立しようと画策した。将軍・家定から罰せられ、謹慎・勅許となった。となると、憎き家定なのだ。

 南紀派の勝利で13歳の将軍家茂が誕生した。若き将軍上洛を企画したのが春嶽である。それは長州藩・毛利敬親の建言によるもの。春嶽が京都に一足先に着くと、「天誅の血の世界」の光景があった。つまり、「将軍上洛は攘夷決行日を決めさせる」長州藩の陰謀のである。それがわかった総裁職の春嶽は、自身が計画した将軍上洛なのに、家茂をほっぼり、真っ先に京都から逃げて福井に帰った。これを知った大名たちも雪崩現象を起こし、京都から次々に立ち去った。

 将軍・家茂は孤立し、窮地に陥った。

 この前代未聞の春嶽の醜態にたいし、幕閣は怒り、春嶽の辞表は受理せず、処罰したのである。窮地に立つと醜く逃げまわり、さらに徳川家が瓦解寸前という重要な局面で、新政府側に寝返ってしまう。これが春嶽の実像だ。
 
 随筆「逸事史補」を読めば、数多くの言い訳が羅列されている。幕閣を貶(けな)し、自分を高ぶって見せる、挙句の果てには明治政府の要人には美辞麗句のゴマをすっている。

  故意に酷評した家定と、明治の三傑との評価の落差には、とても正常の知能とは思えない。春嶽はさすがに死に際において、良心が痛んだのか、「逸事史補はぜったい世に出さないで燃やしてくれ」と遺言した。

 ところが明治の学者が、春嶽の遺言を無視したのだ。これは前政権の幕府を攻撃する格好の材料だといい、「幕末期の知られざる逸話」として、随筆・逸事史補を史実として悪用したのである。

 そして、「家定無能だから、一橋派の擁立が正当だった」という筋書きをつくったのだ。それというのも、一橋派の面々が新政府の要人になったからである。
 歴史小説「妻女たちの幕末」において、このように通説の裏舞台を克明に描いている。