歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「大政奉還150年記念・御手洗大会(1)=10月14日(土)

「大政奉還150年記念・御手洗大会」が10月14日(土)に開催されます。慶応3(1867)年10月14日に、徳川15代慶喜将軍が朝廷に大政を奉還しました。

【場所】   広島県・大崎下島「御手洗」(現・呉市豊町御手洗)

【主催者】 「御手洗 重伝建を考える会」代表・尾藤良

【後援】 日本ペンクラブ、幕末芸州広島藩研究会、フジサンケイ ビジネスアイ、(社)御手洗デザイン工房、他

【開催内容・イベント】

①  講演:穂高健一『芸州広島藩はなぜ大政奉還の運動へ進んだか』(乙女座)

②  郷土史家(複数)と歩く、「御手洗と幕末歴史」の史跡を訪ねる。
 七卿の都落ちの庄屋・竹原屋、薩摩藩の密貿易港の遺跡
豪商・鴻池と住吉神社の玉垣(経済的な結びつき)、広島藩の砲台跡

③  金子邸・茶室の特別拝観(広島藩と長州藩の出兵条約を締結した場所)

④  江戸みなと展示館 特別企画『幕末の嵐と御手洗』の展示会

⑤  若胡子屋(元遊郭)の拝観 (中岡慎太郎、高杉晋作、河井継之助、木戸孝允、坂本龍馬、吉田松陰、河田佐久間の諸々の上陸記録がある)

【世に知られていない、幕末史実と事実の宝庫】

① 御手洗港は西国諸藩の経済の中心地。指定船宿として薩摩、肥後、長州、中津、延岡、飫肥、小倉、福岡、宇和島、大洲など16〜17藩があった。

② 船宿には各藩士が常駐し、勤王、佐幕、草莽志士などが日々に上陸し、遊郭(広島藩公認4カ所)で、秘かな情報収集の場としていた。

③ 薩摩藩の密貿易港で、極秘に西欧船を入港させ、世界綿不足に目をつけて輸出でぼろ儲けした。巨額の贋金づくりの銅・鉄を御手洗港経由で鹿児島に運ぶ。それら「メッキ2分金」でイギリスから軍艦・武器を大量に購入する。

【問合せ先】 潮待ち館 0823-66-3533    ※交通と地図は裏面

【交通】

・東京~新幹線・三原駅~呉線・竹原駅 →(バス)竹原港フェリー乗り場
・羽田 ~ 広島空港 → 竹原港(リムジンタクシー1000円・要予約)→ 大長(おおちょう)行き (高速連絡船・45分) 大長桟橋から・散策しながら御手洗港へ徒歩で約15分

・バス 広島市内(呉経由)→ 御手洗港バス停 高速バスで2時間20分
    中国労災病院(新広駅付近)→ 御手洗港バス停 1時間30分
 
・車では、
 広島呉道路呉ICから安芸灘大橋有料道路(ここだけ有料橋)を経由し、車で約1時間10分

・車とフェリーでは、 
・竹原港→(フェリー)白水・垂水(大崎上島)→明石港(大崎上島)より(フェリー)→小長港フェリー(大崎下島)

「大政奉還150年・御手洗大会」の歴史的な背景(2)=三藩進発

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれました。翌10月には大政奉還が成立します。この段階で、武門政治の終焉で、朝廷政治に変わります。

 芸州広島藩は2度も大政奉還を建白しています。(広島・浅野家の史料『芸藩誌』による)た。しかし、まだ幕府の存在が継続し、新政府の樹立まで及んでいませんでした。

 同年11月3日から7日まで、薩長芸土の4藩が御手洗で『4藩軍事同盟』を結びます。新政府を正式に発足するには軍隊が必要だと言い、薩摩、長州、芸州広島の3藩は、6500人の西洋式軍隊の挙兵へ動きます。3藩進発(土佐藩は山内容堂の不許可で挙兵できず)。

 
 問題は、当時、禁門の変から朝敵だった長州藩をいかに上洛させるか。それはとても重要な作戦です。

 11月末に、長州の家老以下1500人が、まず御手洗にやってきます。金子邸(役人の私邸)で、芸州広島藩と長州藩が具体的な取り決めをおこないます。長州の軍艦の旗はひとつが芸州、もう一隻が薩摩藩の旗をつかう。3藩進発が実現します。

 長州艦は淡路沖で待機する。一部は西宮・六湛寺に上陸する。さらには長州藩は尾道にも1000人の兵が待機する。(尾道では木戸孝允が出向いて再配を振っています)

 長州藩は、まだ京都に入れずです。孝明天皇から、明治天皇に代わっていますが、朝敵は解けていません。

 翌月に、歴史が大きく動きはじめます。

 12月8日に、この3藩進発の薩摩と芸州広島の兵、さらに従来から京都にいた薩芸の兵が、一気に、京都御所の総ての門を閉鎖します。

 その勢いで、かつて京都守護職だった会津兵、桑名兵、新撰組などは御所まわりから排除されてしまいます。
 翌9日には、小御所会議が開かれて、「王政の大復古」により、明治新政府ができます。と同時に、長州藩は朝敵を解除されます。

【御手洗から明治新政府がスタートした】とも言えます。

 この3藩進発の薩摩兵と長州兵は、西郷隆盛による鳥羽伏見の戦いへと駒を進めていきます。

 芸州広島藩は、「これは薩摩と会津の私恨だ」と云い、伏見にいた藩兵には一発も銃を撃たせません。
 さらには、天皇の親政国家において、「徳川家の首根っこまで、絞め殺すことはない」と平和主義をとります。薩長芸軍事同盟で、倒幕を推し進めてきた広島藩が抜け落ちます。

 薩長の下級藩士は徳川慶喜を討つ、そしてみずから政権の座につくためにも、権力欲と名誉欲とで、戊辰戦争へと突っ走っていきます。

 こうした明治新政府づくりの原点となった、御手洗において「戊辰戦争150年御手洗大会」を10月14日(土)に開催します。

          写真 = 郡山利行 : 御手洗


横須賀港で、『戦争と平和』の定義にこだわってみた(2)

「平和とはなにか」の定義になると、むずかしい。 私は横須賀港を一望しながら、あれこれ拘泥(こうでい)して考えてみた。とくに、戦わない平和を思慮した。

 ベトナム戦争で、米国の20歳前後の青年たちが数万人も戦死した。ベトナム人の家族たちも大勢が戦禍で亡くなった。
 半世紀も経てば、短パン姿の米国女性がハノイ観光を楽しんでいる。あのベトナム戦争の犠牲者たちからすれば、あの戦争とは一体なんだったの? と墓地のなかで苦しんでいるとおもう。

 日本人もまったく同じだ。「数百万人も死んだ太平洋戦争って、いったい何だったのか」。横須賀で献花する老婆との一瞬の出会いから、「祖国のため」ということばも怖いな、と思った。

 ほとんどの戦争が終結すれば、なぜ、あんな戦争をしたのか、と決まって疑問におよぶ。戦わなかった方が、まだ犠牲者が少なかったとなってしまう。それが戦争の結末だ。


 人間には動物的な欲望の対立がある。国家間、父子、夫婦、兄弟すらも、人間どうしの対立におよぶ。感情の憤りに任せれば、それは本能であり、戦争の定義の原点になる。
 

 人間には野心(本能)による欲、利益、差別がある。時間の経過で、心理が変わる。結婚した時に、「家庭平和」を誓って祈っていても、その後の対立から離婚、破綻、子どもの家庭内暴力に及んだりもする。祈りや誓いには脆(もろ)さがある。

 

 
平和とは対立を非暴力で解決し、それを維持することである

 私はそう定義してみた。非暴力は口でいうほど簡単ではない。


【ケース・スタディー】

 某国から一発のミサイルの列島に着弾があった場合。
 きのうまで『平和を叫ぶ』ひとが、メディアや周囲の誘導で、祖国防衛のために即時交戦するべきだ、という政治家・軍人たちを支持する。つまり、戦争の加担者になってしまうおそれがある。


 外国から攻撃されても、戦わず、『非暴力の抵抗』をつらぬけば、多くの犠牲をともなう。こうした戦争を未然に防せげる交渉力は、教育によって養えるものだ。

① 高度の語学力とディベート力(論術力)のある、有能なひとを養成する。

② 倫理・道徳による話合いの解決能力を身につける。

③ 国際経済の秩序、社会協力という相互精神の能力を高める。

『教育は国家をつくる』。つきつめれば、『人間どうし話せば、わかる』という粘り強い交渉力、説得力をもった外交官、経済人、文化人が豊富な国家にすることである。


 私が所属する日本ペンクラブも一つであるが、国内には大小を問わず、数々の平和活動団体がある。「戦争抑止」、あるいは「戦争拡大に歯止めをかける」という役目を負った展開をしているはずである。

 訪日する外国人が多い現在、国際交流の視点が必要である。

① 外国人たちの参加型の平和活動にする。(飲食業で働くアジア人も多い)。

② 欧米、アジア人らを幹部の一人とした活動をする。日本人だけの独りよがりにならない。

③ 英語のみならず、少数民族の語学も身につけていく。(自動翻訳機器が発達しているし、片言でも通じる)。

④ 将来の海外連絡網の充実につなげていく。


 この連絡網がとても重要になる。日本がいざ攻撃されたとする。

『私たちは攻撃されています。血で悲惨です。某国の攻撃を止めさせてください』
 国民がみんなしてSNSで世界じゅうに発信していく。

 戦争を仕掛けてきたあいてに、「非武装の抵抗」とはこんな手段ではなかろうか。つまり、武器をもった本能の防禦でなく、理性と知性の抵抗である。


 庶民がかならずしも、最善の選択をするとは限らない。

 国内の戦争推進者たちは勇ましく勢いをつけてくる。「祖国のために戦う。非戦論のお前たちはきれいごとだ」という批判と罵声をむけてくる。
 きのうまで「平和を祈る」人が、戦争をあおる、おおきな声に動かされる。むしろ、それが正しいと判断する。

 私たちが非戦闘、非暴力の抵抗を貫けば、ナショナリストが敵となるだろう。それらと命がけで向かい遭わなければ、戦争抑止はできないときが生じる。

 人間には戦争(本能)と平和(理性)の血が流れている。環境によって、どっちの荷重が大きくなるかである。学びと、平和活動とで、理性という抑止の芽が伸びていく。
 
                       【了】

横須賀港で、『戦争と平和』の定義にこだわってみた(1)

 8月の真夏の盛り、横須賀(神奈川県)にでむいた。同港は、現在は米軍・第七艦隊の海軍基地、自衛隊の海軍基地である。さかのぼれば、江戸幕府の小栗上野介(おぐりこうのすけ)勘定奉行が、フランスの資金と技術で横須賀製鉄所を建設をはじめたところである。
 その当時のドッグが、今なお米軍横須賀基地のなかで使われているし、製鉄機械の圧延機は、平成時代まで使用されていた。


 日本の資本主義・近代化は徳川時代の小栗上野介からはじまった。しかし、明治時代から、教科書で、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と陳腐な川柳を教科書にのせて、「近代化は明治からはじまった」と嘘をおしえてきた。現在もつづく。

 徳川政権が平和裏に大政奉還をした。それにもかかわらず、薩摩藩が偽金で国内経済を混乱させたうえ、西郷隆盛が江戸のテロ活動、さらに薩長土の兵士が鳥羽伏見の戦いを起こした。さらには戊辰戦争という暴力で明治新政府を作った。
 それら明治の為政者たちは、自分たちをより大きくみせるために、数多くの嘘を歴史教科書のなかに織り込んだ。
 意図して軍国少年・少女をつくりあげたうえ、祖国のために、という挙兵で死に導いた。

 古今東西、暴力でつくった国家は軍事政権であり、戦争国家になるのが常である。明治政府は、富国強兵策をとった。それは日本が巨大国家になる正しい施策だと、教科書をとおして嘘を教えてきた。
 国民の租税の使われ方として『富国冨民』で民主、福祉などで還元されるべきものだが、それにはほど遠く、軍需産業と政財界・財閥が癒着(ゆちゃく)する、とてつもない最悪の国策であった。

 かれらは戦争を美化した。教育から初めて国民を血の戦場に送り込んだ。そして、太平洋戦争で終結した。


 私たちは今、『平和』をかんたんに口にする。考えてみれば、「平和とはなにか」。明瞭に定義できているのだろうか。はなはだ、心許ない。翌週は、広島にいくので、なおさら深く考えてみた。

 八十代後半の老婆から、横須賀港の岸壁で、ふいに呼び止められた。
「シャッターを押してくれますか。借りてきたカメラで、使い方がまったくわからないのです」
  こころよく応じて、私は数枚、撮影してあげた。自衛艦の背景がいいという。さらに、数枚撮った。

「わたしの実父が日本海軍兵で、乗船した軍艦が横須賀から出発し、瀬戸内海の海域で沈んだのです」
 老婆は毎年、終戦に近い8月には、この横須賀の海に献花にきているという。周防大島沖で沈んだ「戦艦・陸奥」(1943年の6月8日に突然謎の沈没。死者1000人以上)かな、判断し、私はその話題にふれてみた。
 終戦から一年後に、紙ぺらが遺骨としてとどき、戦艦名はわからない?、と応えていた。話しは転じて、老婆の実兄は中国大陸から引揚ですと言い、悲惨な状況を語っていた。

「戦争って、いやですね」
 私がそういった。
「父は祖国のために戦ったのです」
 老婆がちょっと嫌な顔をされた。
 内心は、腹を立てているのかなと、私はその表情を察した。

『父は祖国のために戦った。だから、いまの日本がある』
 そうかたくなに信じているだろう老婆にすれば、平和を享受(きょうじゅ)できる次世代から、「戦争って、嫌ですね」と片づけられては、父親の死がムダ扱いで、不愉快におもったのかもしれない。
               【つづく】

湊川神社(神戸)巫女(みこ)との縁はここにもあり

 神戸駅前の湊川(みなとがわ)神社に行って、えっ、こんなに大きな神社なんだ、とおどろいた。前まえから、同神社は気になっていた。
 その実、楠正成(くすのきまさしげ)なる武将は、名まえは知っていても、複雑な南北朝時代のことで、内容はよくわからなかった。

 いま執筆中の長編歴史小説の作品には、頼山陽が描いた『湊川の戦い』を登場させている。鎌倉時代から南北朝にかけた一連の歴史を知り、それなりに精読して同神社にでむいた。
 

 湊川の戦いは、建武3(1336)年5月25日に、摂津国湊川(現・神戸市)で、九州から北上した足利尊氏(あしかがたかうじ)と、少人数で迎え撃つ新田義貞(にったよしさだ)・楠正成(くすのきまさしげ)の間で行われた合戦である。

 私が、この湊川の戦に関心を寄せはじめたのは、約10年ほどまえ、新谷道太郎「維新志士・新谷翁の話」と出会ったときからである。

【1節】

『四藩軍事同盟』(薩長土芸)が、御手洗で結ばれた。4藩連合が成立しても、はたしてこれが都合よくいくかどうか、みな心配である。
 坂本龍馬がこういった。
「薩長芸土が力を合わせても、味方はわずかに200万石、その兵力は1万人にも足りない。しかるに徳川家は800万石を持っている。旗本八万旗がひかえている。まだ、その上に150か国の大小名がつくと、数の上では勝ち目がない」
 そう一人、がっかりすると、外の3藩のものもみな弱る。
「坂本君、君は日本政紀(せいき※頼山陽著)を読んだか」
 私(新谷)はひとり不思議に元気がでた。
「そのようなものは読んだことはない。それがこの場合何になるのじゃ」
「まあ、聞け。それでは話そう。むかし建武の中興に、楠正成はどうじゃった。とうとう足利尊氏に負けて、湊川で討ち死にをしたが、今になってみると、はたして尊氏が勝ったのか、正成が敗けたのか、わからぬではないか。
 水戸中納言光圀は、湊川に石碑を建てて、『嗚呼忠臣楠氏之墓』と書かれたが、尊氏のために石碑を建てたものがどこにあるか。
 考えてみると、正成は戦いに敗れたが、誠の道で勝ったのである。我々はぜひとも勝たねばならぬのであるが、よしや戦いには敗れても、この誠の道に立つならば、精神において勝つ、結局は必ず大勝利であるぞ」
 というと、坂本龍馬は気を取り戻し、
「君は変わったことを考えているの」
 と元気づいて、外の3藩のものもみな元気になる。

 このなかで、坂本龍馬は書物を読まない男、剣道は5段だと紹介されている。

 長州藩の木戸孝允(桂小五郎)のなかでも、「湊川の戦い」関連がでてくる。
 禁門の変の直後から、京都留守居役だった桂小五郎は、德川幕府に追われる立場になった。ひそかに身を隠し、出石(いずし)に250日間潜伏していた。
 やがて、下関に帰る途中、大坂から船に乗り、神戸で上陸し、湊川で楠正成の墓所に参った。と同行した広戸直蔵(ひろとなおぞう)が書き残している。

 桂小五郎は少年時代に、医者だった父親に頼んで、頼山陽の「日本外史(がいし)」「日本政記」を買ってもらったという。これを熱心に読んで、皇国思想を身につけた。この湊川の戦いの楠正成の「死の戦いの決意」をつかい、長州藩の結束にむすびつけた人物である。

『足利尊氏は水軍の大将なり、足利直義(ただよし)は陸軍の大将になっていた。陸軍は総勢50万と称していた。正成は手勢700人を率いて、湊川に陣していた。~』
 頼山陽は日本外史で、そう表現している。

 この皇国史観は尊王攘夷運動の柱となった。明治からは政治思想の中心に座った。さらに大正、昭和20年の太平洋戦争の終結まで国民に深く入り込んでいる。
 幕末史を書く以上は、尊皇派の考え方は避けて通れない。いちどは訪ねておこうと、神戸駅で下車し、湊川神社に出むいた

 東広島を朝に出発し、姫路城で4時間以上も過ごしたので、湊川神社には午後5時半だった。資料館にも、水戸中納言光圀が湊川に建てた石碑『嗚呼忠臣楠氏之墓』も囲いがしてあって、内(なか)に入れなかった。
 社務所の巫女がいたので、資料を2冊買って後にした。
 
 境内に掲げられていた、大看板の『大楠公御一代記』があった。購入本を読めば詳しくわかることだが、せっかく同神社に来たらからと思い、隅々まで読んでいた。
 可愛い顔の巫女が小走りでやってきた。気配をさして、ふりむくと、「忘れ物ですよ」と、デジカメを届けてくれた。本を購入した時、ふいに脇に置いたままで、パラパラめくりながら立ち去っていたのだ。
 お礼をいいながら、「よかった、ここ数か月撮ったデータがバックアップなしで、そのままだった」と安堵した。
 
 現在、執筆中の歴史小説では、プロローグ、エピローグにおいて「広島護国神社」の巫女を登場させている。
「高間省三よりも、巫女がきわだって立ち上がり過ぎていない?」と編集者にからかわれた。
 これも、神社の縁かな、と謝意の気持ちを深めた。
 

姫路城(白鷺城)あのいじめられっ子は健在かな、どうしていのかな? 

 小学生のころから、姫路城はいちどは行ってみたかった。

 それは広島の離島に転校してきた少年(小学4、5年?)が「白鷺城は真っ白できれいだ。毎日、見ていた」という語りが、私にはずっと記憶に残っていたからだ。
 
「城をみてみたい」と思った最初が、姫路城でもあった。しかし、わたしは歴史小説を書く作家になっても、白鷺城は足がむかなかった。

 広島と東京間を往復する、かんたんに立ち寄れるルート上にあるけれど、姫路下車はいちどもなかった。

 その少年は、転校後に、すぐに登校拒否児になった。

 広島の島っ子たちは、いじめは上手だ。乱暴だ。

 近年、メディアなどで、いじめ問題がでてくると、「最近はひどい。むかしはそんなことはなかった」という。

 それを聞くたびに、「嘘つけ、むかしのほうが、もっと酷(ひど)かった」とおもう。コメンテーターのいつものいい加減な発言にうんざりしながらも。

 と同時に、白鷺城を思い浮かべる。

 少年の名前は忘れてしまった。もう半世紀もまえのことだから。

 学校の先生に命じられて、朝は交代で、登校拒否児のかれを迎えに行く。

 女郎屋の裏手の小さな借家だった。

 しかし、少年は家から出て来ない。


 なぜ、登校拒否児になったか。

 クラスメートは、すべてわかっていた。

 「おまえの母さん、女郎だ。女郎ょっ子だ」

 「迎えにきたぞ、女郎ょっ子」

 これでは、学校に来るはずがない。

 「早くでて来い、女郎ょっ子」
 

 島の遊郭は、内航船の船員をあいてに繁盛していた。

 母親はそこで身を売る。生きていくため、子育てのために。姫路から流れてきたのだろう。

 子どもは残酷だ。そんな家庭の事情など、みじんも理解していない。

 戦後の男の子は、乱暴だ。喧嘩が遊び道具の一つだ。

 理由は簡単だ。周囲の大人の男性はかつての軍人経験者ばかりだ。

 教職員だって、数年前まで、銃剣で人間を殺していたのだから。
 
 教師に殴られなかった生徒は、いるのかな? 男子生徒ではきっといないだろうな。


 「全体責任だ。全員ならべ」と言われて、殴られた。1度や2度ではない。

 当然のこととして、耐えた。親など話すわけがない。

 不愉快だったら、殴る、という軍人の残影が、子ども社会にまで伝染していた。

 だから、子どもたちは平気で喧嘩を売る。

 「女郎ょっ子」は、転校当初は、白鷺城をなつかしげに語って聞かせていた。

 しかし、田舎の島っ子には、都会っ子として、鼻持ちならなかったのだ。

 なにかと都会からの転校生には、ささいなことで喧嘩を売る。

 喧嘩して、泣いて、しょげる奴は弱虫だ。笑いの種だった。

 負ける奴が悪い。

「くやしかったら、かかってこい」

 男だったら、喧嘩を売るのが当然だった。

 
 日本は敗戦だったけれど、軍人精神、任侠の世界がまだ持てはやされていた。清水次郎長、国定忠治、鞍馬天狗が英雄だった。

 日本はアメリカに負けた。しかし、中国や朝鮮が戦勝国だと認めていない。かれら軍人を蔑視する風潮があった。
 日本人はアジアで最も強いんだ。そういわれて、子どもたちは信じて育ってきた。

 そんな大人の空気が、子ども社会にも影響を与えていた。

 「弱い子をより叩きのめす」
 
 日本軍人はつよい、アジアは弱い。その誤認識と妙に共通していた。

 私は全国津々浦々、かなり城をまわっている。歴史作家としても、城は研究対象だ。

 このたび、『家康と播磨の藩主』(播磨学研究所)の共著の伊藤康晴さん(鳥取)から謹呈された。「西国の将軍、姫路城主・池田輝政」というタイトルで執筆されていた。

 伊藤さんとは1-2年にして、鳥取市に出むいて飲んで語る近代史家だ。

 これを機会に、姫路城主に行ってみよう、と決めた。8月12日に出むいた。
              
 わたしは少年の面影をどこか探していた。姫路駅から白鷺城の往復で、少女の裸身がやたら目立った。このくらいの年齢のときかな。

「日浦山」(広島県)から芸州口の戦いを一望=長州藩は最初が卑怯、のちに敗走

 日浦山(ひうらやま・広島県海田町)に登るほど、遠景が高くなる。

 瀬戸内海がはっきり輪郭をあらわし、宮島(みやじま)が浮上してきた。瀬戸内海の海岸線が、鮮明な線をひいて伸びる。秋晴れの絵画のような自然の造形美だった。


  慶応2(1866)年6月の開戦まえ、この海域は、幕府軍の軍艦がびっしり埋まり、当時は蒸気軍艦ですからね、煙突の黒煙がもうもうもとなびいていたでしょう。

「芸州口の戦いの先鋒は、広島藩だった。それが抜けたわけです。おどろいたのが鎧(よろい)兜(かぶと)で武装した彦根藩と越後高田藩です。かれらは広島に長期間にわたって逗留しています。厭戦(えんせん)感がただよい、戦意などなかった。最前線に押し出されてしまった」

 6月7日、幕府軍艦は周防大島(すおうおおじま)や馬関海峡(ばかんかいきょう)へとむかった。そして戦端を開きました。

  山頂が近くなり、最期の急こう配の道になった。たどり着くと、小さな白地のタオルで首すじの汗をぬぐった。

             *

 慶応2年6月14日の朝、幕府の攻撃命令で、先鋒の井伊家の軍勢が小瀬川を渡って岩国に入ろうとしたとき、戦端が開かれた。

「歴史書は、このように長州がわに都合よく書かれています。実際は前夜、長州軍が広島藩領に無断で侵入し、大竹の北側にある鍋倉山(なべくらやま)に陣取っていたのです」

 武器をもった侵略行為ですから、褒められたものではありません。

 鍋倉山から、臼砲(きゅうほう・曲射砲)の砲弾が、井伊家の軍勢へ撃ちこまれました。つまり、真横、後ろから砲撃をしたのです。これが戦争の発端です。

 長州藩兵が山を駆け下りながら、最新銃で一斉射撃です。井伊家の軍勢は予想外の方向の奇襲(きしゅう)におどろいてしまう。

 側面攻撃、後方攻撃をうけると、指示命令の系統がズダズダに切られてしまう。井伊家の軍勢は隊伍(たいご)を崩しました。銃声や砲弾の音に、馬たちがおどろき、乗る武将たちは転落する。もう大混乱をきたし、小方(おがた・大竹市)へ敗走をはじめます。

 井伊家は有名な赤備(あかぞな)えの旧式の軍装で、鎧(よろい)兜(かぶと)や旗(はた)指物(さしもの)が赤や朱です。井伊家の逃げる鎧兜の兵士は争って小舟に乗ろうとする。大勢が乗りすぎて浸水したり、転覆したりする。

 長州兵が最新銃で狙い撃ちです。井伊家の陸兵はもともと雑兵が多い補給部隊だった。それが先兵になったから、ひとたまりもない。

 重い甲冑、鎧を脱ぎ捨てて、ことごとく西国街道の陸路や海路を逃げていく。冠山からの子尾根が海辺までせり出し、街道の道幅が狭かったのです。
 逃げ込む兵士は押し合い圧し合いです。


 彦根藩・高田藩が敗走してきたので、幕府は幕府歩兵隊と、紀州支藩の新宮(しんぐう)藩の水野歩兵隊を芸州口に投入させた。

 第一線に出てきた水野忠幹(ただもと)は、フランスから購入したミニエー銃600丁で決死の戦いに臨んだ。死者が次つぎ出ても、水野家は紀州藩の付家老であり、主君の征長総督の面目にかけて、頑強に反撃する。

 こんどは長州軍を四十八坂まで退却させていく。そこに幕府海軍がはげしい艦砲射撃を加える。長州軍はひたすら退却で、小方の先まで退いていく。


『上記は、来年4月1日に出版予定の歴史小説「芸州広島藩」の一節です。第一章は現代から入ってきます。この作品の狙いは、大藩・広島藩からみれば、幕末史が変わるです。これまでの通説は随所で覆しています。

「芸州口の戦い」で、長州藩兵は卑怯にも前夜に広島藩領に忍び込んでいた。紀州藩が出てくると敗走していた。
 歴史家、歴史小説家は、「防長回転史」の受け売りで、長州藩が芸州口の戦いまで「勝った、勝った」とされています。
 しかし、広島側の資料をみれば、長州藩は最初が卑怯、のちに敗走です。

 多くの歴史家は薩長史観から、まだまだ脱却できていないようです。でも、ねつ造やメッキはいつしか剥げていくものです』

 
 越後高田藩は芸州口の先陣でした。井伊家の敗走に巻き込まれて戦いながらも、後退していきます。と同時に、大勢の犠牲者を出しています。

 この海田町・日浦山の山麓にある「明顕寺」で、高田藩の戦死者は150年間にわたり眠っています。

  

【近代史革命】 薩長同盟・薩長倒幕をう呑みにしている、幕末史オンチ

 第二次長州征討のまえ、慶応2年1月、京都の小松帯刀(薩摩)藩邸で、桂小五郎と薩摩側が密談した。小説的にいえば『薩長同盟』が結ばれた。薩摩側にはそんな密約の資料はない。

 慶応2年6月から、朝敵・長州軍は幕府軍と戦う。一般には長州が勝ったという。それはほんとうだろうか。
 大藩・芸州広島藩の執政・辻将曹らの仲立ちで、宮島・大願寺で、勝海舟と長州藩と休戦協定が行われた。

 大願寺の縁側に立った勝海舟が、「そんなところで、ひれ伏さないで。座敷に上がりたまえ」といっても、長州藩の広沢真臣(ひろさわ さねおみ)たちは、恐れおおくも徳川将軍の名代だから、座敷で向かい合う態度などできなかった。
 勝利者の意識ならば、そんな地べたにひれ伏す態度はとらない。長州藩はどこまでも、天皇に逆らった朝敵である。
 幕府軍とはいえ、あいては孝明天皇軍である。かれらはどこまでも「天皇から許しを得られていない賊軍・長州藩」の意識なのだ。
 
 勝海舟は「ならば、拙者が降りてゆこうと」、縁側から彼らの傍に歩み寄った。そして、慶応2年9月には、休戦協定が結ばれた。


「薩長同盟は、大願寺のあと、どうなったのか?」
 ここらは作家も学者もふれていない。「薩長同盟」を声高にいう作家は、この休戦後は「見ざる、言わざる、聞かざる」で頬かぶりである。
 1年が10年のごとく動く時代に、それはないだろう。


 この慶応2年は、徳川家茂将軍の死去、孝明天皇の死去に伴う、相続の大問題が連続して起きたのである。将軍家と天皇家の継承にともなう、新体制づくりが最大重要問題だった。本州の端っこの長州問題など、目もくれていない。

 長州藩は徳川時代が終わる(明治新政府ができる)まで、賊兵・長州の汚名を被っていたのだ。そんな天皇を敵にまわす長州藩は、260諸藩はだれも相手にしない。だとすると、残るは薩摩藩か。
 翌3年、京都で、四侯会議が行われた。長州問題は議題から外されて無視された。薩摩の島津久光などは面子丸つぶれだ。
 薩長同盟など、紙風船よりも軽いものだった。なんの役目も果たしていない。


 慶応3年9月の薩長芸軍事同盟(薩摩、長州、芸州広島)の下で、6500人の最新鋭の武装部隊が上洛する。討幕の歴史はここから動くのである。
 この3藩軍事同盟は、慶応2年1月の桂小五郎と薩摩側が密談『薩長同盟』とは、まったく無関係である。
 幕末オンチは、薩長同盟が芸州広島藩を巻き込んだとしている。それはあまりにも、広島藩を知ら無すぎる。

 当時は家柄がいかに重要か。広島藩主は、大御所・家斉将軍の孫・濃い血を継ぐ。その認識がないと歴史音痴になる。
 浅野家は格式が高い。秀吉の妻・ネネ(北政所、高台院)は浅野家から出てている。徳川家康も一目置く存在だった。
 浅野家は紀州和歌山から広島に転封したが、その紀州には徳川家が入るくらいだ。
 広島藩は42万石とはいえ、秀吉時代から、別格なのだ。江戸城桜田門の目のまえ、一等地、いまの警視庁から霞が関の一帯が「広島藩江戸藩邸」だ。
 ※井伊大老が暗殺されたのは、桜田門外、つまり広島藩江戸藩邸の目のまえだった。

 広島藩主が倒幕の決意した。そこから倒幕の歴史が動きはじめる。そして、薩摩と長州をのみこんでいった。
 なぜ、そう言いきれるのか。芸州広島藩の浅野家『芸藩誌(げいはんし)』には、それが克明に書かれている。
 芸藩誌は明治42年に完成し、明治政府があわてて即座に封印した。(昭和53年に300部が発行された)

 なぜ封印したのか。薩長の下級藩士が御一新の天下を取り、「薩長倒幕」だと教科書まで教え込んでいるのに、広島藩主導だと実態が知れて、歴史が大逆転するからだ。

 ことしは大政奉還150年、らいねんは明治維新150年である。これを機会に、歴史は洗い直されるだろう。

「本州と九州の端っこの2藩が、巨大な徳川幕府を討幕した、これは長く疑問でした」
 この素直な疑問に応えてくれるのが、芸州広島藩の浅野家『芸藩誌』である。芸藩誌の研究者が、少しずつ出はじめた。また、その問い合わせも漸増している。

 芸藩誌が世に広まれば、「薩長倒幕」という言葉が、ごく自然に歴史書から消えていくだろう。そして、司馬遼太郎史観がまかり通り、小説を歴史と信じた、滑稽な世代だったと嘲笑われる日がくるだろう。

 くり返すが、薩摩と長州の2藩が倒幕など、どう逆立ちしても討幕はムリだ。ヒーロー・英雄づくりとはいえ、作り過ぎも良いところだ。

 鎌倉幕府の成立年月日が違っていたように。いまや、歴史の修正は急激な変化となっている。
 

【近代史革命】 長州戦争は、孝明天皇・官軍と毛利家・賊軍の戦い=だれが歴史をわい曲したか

 備中松山城に行ってみた。(現存する山城では一番標高が高い)。幕末の藩主は、板倉勝静(いたくらかつきよ)である。穏健派の老中首座だった。
 孝明天皇が攘夷(じょうい)思想で、高飛車に、次々と幕府に難題を吹きかけてきた。幕府と立場が逆転し、朝廷が優位に立ち、「長州を征伐(せいばつ)せよ」といわれる。

 争いが嫌いで理知的な板倉は、内心は戦争など嫌だったはずだ。強引な天皇に逆らえないほど、幕府には権威と権力はなかったし、苦悶していたことだろう、と推察できた。


 備中松山藩は、山田方谷(やまだ ほうこく)という幕末でも超一級の素晴らしい人材をもっていた。方谷は民と藩士の両面の生活を想いながら、藩の赤字を立てなおす。双方から感謝され、いまだに備中聖人とされている。

 板倉は、方谷の理財改革の理論、熱意、努力、バランス感覚の良さを知っていた。藩の内政に専念させた。

 方谷を片腕においた板倉は、ひとを見る目は確かだ。幕末の慶応に入ると飢饉などで、諸藩が赤字財政に苦しんでいる。板倉は、長州と戦っても、諸藩は疲弊するだけで、得るものがない。どの藩も財政がくるしい。
 武士は経済的な理由(お金がない)が言いにくい。第二次長州征討に大儀がない、と出兵を辞退しても、けっして処罰の対象にしなかった。それが板倉の人間性だろう。
 歴史家は、幕府に非戦をいう大久保利通をヒーロー扱いしているが、板倉勝静の姿勢が立派だったのだ。認識ちがいもいいところだ。

 ちなみに、板倉勝静は松平定信の実孫(母方)である。白河藩主だった定信は天明・天保の大飢饉のとき、ひとりも餓死者を出さなかった名君である。


 長州戦争とは何か。『長州・毛利家と孝明天皇軍の戦い』である。

 禁門の変が起きて、長州・毛利家が朝敵になった。いつの世も、朝廷は軍隊を持っていない。孝明天皇が、江戸から家茂将軍を京都に呼び寄せ、征夷大将軍として長州を討て、征伐せよ、と勅命したものだ。
 

 それを受けた家茂将軍は、天皇の軍隊として出動した。
 第一次長州征伐は、15万人を動員し、長州を取り囲んだ。「血は流したくない」と和睦の道を選んだ。

 もう一つの理由は、戦争は金がかかるし、徳川家は金山・銀山も掘りつくし、財政が悪化していた。過激派攘夷が外国人を殺すたびに、膨大な損害賠償が要求された。それらを支払ってきた。

 たとえば、薩英戦争でも、イギリスに膨大な賠償金を払った。長州が起こした下関戦争でも、膨大な要求がなされた。
 徳川家の金庫はもはや底をついていた。戦争は金がかかる。だから、戦わずして解決した。


 第二次長州征伐を視野に入れる孝明天皇は、ふたたび家茂将軍を京都に呼びだした。家茂は京都に来て、江戸にも帰させてもらえず、皇軍の大本営になる大阪城にくぎ付けにされてしまったのだ。江戸の幕閣などは、将軍が天皇の人質になったと怒っていた。

 このころ兵庫問題とか、横浜閉港問題とかで、天皇から家茂将軍は強烈なバッシングをうけていた。天皇は幕閣の人事まで首を突っ込んだ。
 兵庫開港問題では、天皇や公卿は複数の老中をクビにしたうえ、それら譜代大名にたいして切腹までも命じてくる。(謹慎処分に済ませた)。権限をはるかに越えている。


 徳川家茂将軍は思うにまかせず、天皇の強引さから、(大名に切腹など言えない)と泣きだす。果たして、こんな朝廷など相手にするのが嫌になり、尾張徳川家の殿様を呼び寄せ、将軍の辞表を天皇に出してくれ、と言い、大坂から江戸に帰りはじめた。

 京都にいた一ツ橋慶喜が驚いて、あわてて馬で駆けつけ、そして帰路の家茂将軍の駕籠(かご)を引きとめたのだ。
 家茂にすれば、和宮には会えず、永久の別れをさせられてしまった。


 徳川家茂将軍に辞表を出されて困ったのは、孝明天皇も同じだった。
 当時はもはや幕府よりも、朝廷の立場が有利になっていた。といえども、長州征伐を命じた征夷大将軍から辞表まで出されると、立つ瀬がない。孝明天皇は、安政の通商条約(日米通商条約など5か国)の勅許は認める、とみずから折れたのだ。


 幕府は慶応2(1866)年、幕府は、戦争を回避し、毛利家を10万石に減俸して東北に転封する案で収拾を図った。
 そして、広島藩などを通じて長州にそれを言いわたす。
 しかし、長州藩のトップは病気を理由に、大坂城に出てこない。片や、孝明天皇は長州征伐について再度、勅許を出した。どこまでも、長州はゼッタイに許さない態度だった。


 老中首座・板倉勝静(いたくらかつきよ)は、大儀がないと出兵を渋る薩摩や芸州や宇和島など次ぎつぎと非戦願いが提出されても、無理を押し通さなかった。なにしろ徳川家の戦争ではない。天皇の名代という皇軍の長州征伐だ、という認識だった。まして、家茂将軍自体がやりたくない戦争だから。
 決して、幕府と長州の戦争ではなかったのだ。


 この長州征伐で、最大の被害者は庶民である。大坂と京都に軍隊の人口が急増し、物不足から、物価が暴騰した。打ちこわしとか、ええじゃないか運動が広範囲に広がった。庶民はどん底まで塗炭(疲弊)の苦しみを味わったのだ。


 この段階で、毛利の世子か、支藩の藩主か、岩国の吉川などが病気(仮病)を理由にせず、だれか一人でも大坂城にきて、幕府を介し、最終処分を京都の孝明天皇にあおげば、戦争回避はできたのだ。


 長州第2奇兵隊が同年4月に倉敷代官所を襲った。先制攻撃を受けたことから、江戸の幕閣が怒り、長州を包囲する皇軍が戦争に突入した。
 大坂城の家茂将軍が心労で急死した。一か月は発表を伏せていた。

 慶喜が勝海舟に、征夷大将軍が不在だ、これ以上は天皇軍として戦えない、「長州と休戦協定を結んで来い」と指図した。
 勝は宮島(広島県)の大願寺で、長州の幹部と休戦を取り決めてきた。


 慶喜は、徳川本家の相続だけを受けた。
 しかし、征夷大将軍は受けなかった。そして、孝明天皇に、「征夷大将軍がいないし、長州征伐はできません」と申請したのだ。
 
 この段階でも、孝明天皇が、「長州征伐の休戦はまかりならぬ」と勅許の履行を迫った。これは歴史的事実である。
 それほどまでに天皇は、長州・毛利家への征伐に執念を燃やしていたのだ。しかし、慶喜は拒否を貫いた。


 当事者の毛利家は、天皇の恨みが解(と)けていないと認知していた。だから、宮島の休戦協定の後から、皇軍(官軍)を敵にまわした反撃などできない。現状の凍結で軍事活動はやらなかった。

 同年12月に、孝明天皇がご崩御され、明治天皇が引き継いだ。このときも、長州は天皇の敵のままだった。いつか第三次征伐をやらねばならぬ。この長州問題は最後の最後まで、尾をひいてしまったのだ。
 慶応3年の小御所会議の王政復古で、明治新政府ができて、朝敵が解除された。

 
 明治時代になり、薩長閥が幕末史の編纂(へんさん)に取り組んできた。明治天皇のもとで、『長州が皇軍(官軍)に打ち勝った』では不都合だから、長州戦争はあえて幕府軍だとすり替えている。
 2年後の戊辰戦争では、天皇軍(官軍)の表記をとっている。ここが学者や歴史作家たちの問題点だ。

 井上馨や山縣有朋などは、はやく幕末史を作れ、とはっぱをかけまくっていた。 
 かれらは生きているうちに、自分の目で確認したかったのである。『防長回天史』などは編纂(へんさん)委員長を取り換えても、都合よく、早く、世に出させたかったのだ。同時に、文部省『幕末史』(完成は昭和初期)もできあがってきた。

 その後は、教科書のみならず、各町村史、県史などの幕末編に、それらが織り込まれた。

 最近の歴史関係書は、長州征伐から、長州征討、四境戦争、とよりあいまいに表現を変えてきている。その実、学者は本質を解っているのだ。第一次も、第二次も、とりもなおさず孝明天皇の討伐勅許が出されたもの、幕府はその名代だった、と。

 歴史には公平感がとても重要である。

 戊辰戦争では、錦の御旗(官軍)と賊軍の会津との戦いとする。ならば、当然ながら、長州戦争では『賊軍長州と官軍幕府』として取り扱わなれければ、辻褄(つじつま)が合わない。
 同時代だけに、歴史的な公平感が欠けている。

 戊辰戦争のスタートで偽の勅許・偽の錦の旗の下、新政府軍を官軍とし、慶喜・会津を賊軍として位置づけた。その後において、明治新政府は正式に勅許を取ったと、ありのままに明記するべきだろう。

 150年も経てば、井上馨や山縣有朋、大久保利通や西郷隆盛たちに、もはや薩長に遠慮することはなかろう。虚偽の歴史表現から真実の姿にもどそう。

 

 第二次長州戦争で、勝ち負けを言うならば、『賊軍の長州が、皇軍の幕府軍に打ち勝った』とするのが公平である。
 実際は、決着など何一つついていないけれども。薩長閥の政治家の顔色を見て、明治の御用学者たちが、薩長を英雄的に扱い、歴史的事実を折り曲げただけである。それがいまだに踏襲されているのだ。


 備中松山城に行き、元藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)、山田 方谷(やまだ ほうこく)の資料に接し、信条・信念を想像するほどに、かれらは長州戦争を望んでいなかったと、より明確に思えた。

 方谷は戊辰戦争で新政府軍が攻めてきたとき、老中首座の備中松山城を無血開城させた。それは江戸城よりも早い開城だった。

 ちなみに、山田方谷は理財論、経済論および実行力が優れている。.上場会社の社長たちの人気度第1位である。
 

広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌

 教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。

 ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
 それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
 広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
 と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。

「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。

【経緯として】

 明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
 薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
 
 しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
 そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
 無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。

 結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
 翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。

 三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
 維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。

 宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。

 孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
 4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
 孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
 となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)

 編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。

 編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。

 ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
 薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。

 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。

 それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。

『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)

 三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。

 芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。

 慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
 
 徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。

 大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。

 西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
 ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。

 明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
 明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。

 かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。

 芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
 それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。