歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【幕末・維新フォ-ラム】芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕=9月8日・広島県五日市

『幕末・維新フォ-ラム 』として、『芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕』が9月8日(土)に、広島市佐伯区の五日市で開催されます。

 禁門の変から長州戦争へ。戦いの舞台となった大竹、五日市、廿日市の戦火、そして御手洗へと、倒幕への流れができていく。
 広島藩の若き志士たち、桂小五郎、大久保利通、坂本龍馬たちが大崎下島・御手洗に集まり、四藩軍事同盟の密議をおこなった。そして、いよいよ倒幕へと火の手が上がった。

 そこから150年間にわたり、なぜ突如として慶應3年11月末に、芸薩長の6500人の西洋式軍隊が京都に挙兵できたのか、とまさに歴史の空白だった。

(同年・同月15日には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されている。かれらは1週間前の御手洗密議に参列していた)
 大河ドラマでは決して語られない歴史の空白だった。その真実が現地の郷土史家の方々によって今明らかにされます。


日時:平成30年9月8日(土)13:00~16:00


場所:光禅寺(🏣731-5127 広島市佐伯区五日市2丁目1-1) TEL:(082) 921-0011


 入場 : 無料

13:00~13:10(10分)  あいさつ・講師紹介ほか


13:10~14:10(60分) 《第一部 基調講演》~穂高健一

            ☆

14:20~16:00(100分)《第二部 パネル・ディスカッション》

 司会:(コ-ディネ-タ-)穂高健一

 パネリスト(各20分)

「西国街道と長州戦争」~佐々木卓也さん(五日市西国街道散策倶楽部・指導員)

「芸州大竹口と戦跡」~畠中畃朧さん(大竹市歴史研究会・会長)

「日本遺産 御手洗の果たした役割」~

 尾藤 良さん(御手洗 重伝建を考える会・会長)

 井上 明さん(御手洗 重伝建を考える会・理事)

《質疑応答》

  ☆

主催:一般財団法人 中国地方郵便局長協会(🏣730-0016 広島市中区幟町3-57)

後援:広島県教育委員会・広島市教育委員会・中国新聞社

協賛:光禅寺・五日市西国街道散策倶楽部・大竹市歴史研究会・御手洗 重伝建を考える会・てくてく中郡古道(狩留家・三田・井原・落合郷土史会)ほか


【光禅寺へのアクセス】

●JR山陽本線・五日市駅(北口)より徒歩10分

●広電宮島線 佐伯区役所より徒歩6分


《お問い合わせ先》

 (一財)中国地方郵便局長協会:事務局

  竹内 TEL 090(7120)0998

星野 TEL 090(2804)9968

鹿児島・廃仏毀釈はまやかしで贋金づくり=南日本新聞、神機隊物語

 平成30年(2018)4月に発刊された拙著「芸州広島藩 神機隊物語」のなかで、薩摩藩の贋金(にせがね)問題を掘り下げている。

「薩摩はここまでやったのか。汚い手口だ。薩摩の倒幕はさして威張れたものではない」
 わたしにはそんな怒りがあった。

              ☆

 【鹿児島市にはお墓があっても、お寺がまったくない】。仏教国のわが国としては、あまりにも異常である。明治時代の廃仏毀釈でとりつぶされたというのが、これまでの通説だった。しかし、一般庶民が、きのうまで信仰していた対象物を徹底して建物ごと破壊できるものだろうか。それも、すべての寺だ。人間として、それができるのだろうか。
 これがわたしの最初の疑問だった。


 第2の疑問は、薩摩藩は慢性的に大赤字である。桜島、霧島の火山灰が降り積もった痩せた田地である。
 過去には豪商から「500万両、無利息250年分割払い』している。武士は人口の4割(不労)。江戸時代末期に、なぜ急激に最新鋭の武器、軍艦をもち得たのだろうか。

  これまで沖縄・奄美諸島のサトウキビの収穫、琉球の密貿易だと説明されてきた。しかし、慶長14年(1609年)侵攻から250年余経っている。
 幕末に急激に、琉球密貿易が増えたわけではない。


 第3の疑問は、文久2(1862)年、島津久光が1000人の兵をつれて江戸にあがっている。軍事圧力を幕府にかけて、一ツ橋慶喜を将軍後見人、松平春嶽を総裁職に推挙した。これを「文久の改革」と称している。

 しかし、不可解なのは、同藩は前年(文久1年)に、参勤交代の費用が捻出できず、芝の薩摩屋敷をみずから放火し、それを理由に参勤交代の免除をねがいでている。
 それなのに翌年は、1000人の兵をもって江戸にくるのは不自然すぎる。裏には何かある。

 久光が、慶喜・春嶽の推挙で、2カ月半も江戸に滞在することも長すぎる。
 これらは現代感覚におきかえてみると、わかりやすい。『1日3食1万円』。久光が引き連れた1000人が江戸に滞在すれば、1日一千万円である。2か月半で7億円強だ。
「久光とて人間である。貧乏の藩が九州の南端から、他人のために、こんな出費をやるはずがない。どこかでつよい利害があるはずだ」
 
 文久の改革は表むき、裏にはきっと何があるはずだ。私がつねに大切にしている、人間の行動からみた『歴史の勘』である。

 当時の老中や勘定奉行の幕閣から調べてみた。勘定奉行の小栗上野介に、久光が「琉球通報」の貨幣鋳造を申し出ている。
 しかし、小栗上野介は「鋳造権は徳川家が160年間安泰できた、最大の武器だ」と徹底して反対している。すると、久光は1000人の兵で水野 忠精(みずの ただきよ)を脅し、小栗上野介を町奉行に配転させたうえで、水野老中から、3年間限定の「琉球通宝」鋳造許可を得ている。
 
 それが久光の最大目標である。同行していた小松帯刀家老、大久保利通らが贋金づくりに絡んでおり、この3年間の「琉球通宝」で終わらず、なんと偽・薩摩天保通宝、メッキ二分金となり、明治初年まで拡大していったのだ。それらが倒幕資金になったのだ。

                 ☆ 

 歴史の真実はとかく隠される。真相追及は、刑事とか検事の手法によく似ている。まず疑問としっかり向かい合う。

①『刑事の勘、つまり歴史の勘」という嗅覚だ。怪しい。この裏には何かあると疑う。人間はこんな行動をするだろうか、と自問してみる。

② 刑事の現場100回とおなで、『足で書く』に撤する。取材は惜しまず、全国各地にフットワークを利かせる。

③裁判所の証拠採用とおなじで、「証拠を積み重ねていく」手法をとる。

 この三つを中心に根気よく追求すると、真相が浮上してくる。事実が向こうから近づいてくるのだ。


              ☆

 歴史年表をもとにヒーロー小説を書けば、それは通俗歴史小説になる。

 歴史とは政治・経済・文化・思想の4つの要素で動くものだ。私は、それぞれの角度で史料・資料をあつめてきて複眼的な視点から、疑問に向かいあう。そして、小説化する。

 「芸藩志」、「広島県史」など精査していると、島津家は鋳造総裁の市来四郎を御手洗、広島藩に出張させて、広島藩から正金10万両の貸し付けと見返りに、中国産地の鉄と銅を購入した、という歴史的事実がでてきた。

 大崎下島・御手洗は薩芸交易で栄えた港である。足で歩けば、近年、住吉神社の改築工事がなされた。「薩摩天保通宝」がたくさん出てきたという。(重伝建を考える会・理事)。実証だ。


 島津家は鹿児島のすべての寺をつぶし、広島藩から買いつけた銅鉄で、290万両という膨大な贋金を使った。倒幕の基軸が薩摩の贋金づくりにあったのだ。つまり、贋金が亡国をなす。

 メッキ二分金が三井組から近畿地方に流れて、ハイパー・インフレ(超インフレーション)を引き起こした。民は物価高騰で困窮し、打ち壊し運動になった。

 これは徳川家の経済政策に大打撃となった。「ええじゃないか運動」を引き起こした。慶喜が、とうとう経済政策に行き詰まり、政権を朝廷に返上する大政奉還となった。
 経済が政治を動かす。典型的な事例だ。

 薩摩藩はニセ2分金で、長崎のグラバーなど貿易商から、大量の武器と軍艦を購入している。同時に、国内の諸藩にも売り渡していた。
 そのうえ、薩摩の倒幕派が贋金で密輸入した武器を、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で使っていたのだ。


 問題は島津家の贋金が世界中にまわっていたことだ。明治新政府の重大な外交問題になった。どのように回収するか。

 徳川幕府にも、明治新政府にも、薩摩の贋金は政治の根幹を揺るがした歴史的重大事件となった。

 負の側面にしろ、「日本史の教科書」にも記載すべき重要な出来事である。それでなければ、なぜ徳川政権が、安政通商条約で貿易量を急激に伸ばしながら、経済政策に行き詰まったのか。
 民の生活を根幹から弱体化(塗炭の苦しみ)させたのか、という真実が国民に示されないことになる。
  

                ☆  

 わたしが『神機隊物語』を発刊しても、鹿児島がわは、「贋金づくりは、おらが県の恥部だから」ときっと頬被りだろう。まして、NHK大河ドラマ「西郷ドン」の放映ちゅうだから、島津家の贋金による倒幕は発信されないだろう。そう思い込んでいた
 
 鹿児島の知人が、「南日本新聞」(6月21日)を送ってくださった。

 同紙は、『維新鳴動─かごしま再論─』という一面をつかっていた。【廃仏毀釈】と称し、『薩摩から寺が消えた』と野村貞子さんの記名記事である。

 書き出しからは、明治時代の平田国学、祭政一致、神仏分離令、廃仏毀釈という月並みな展開が延々と続く。それだけでは、江戸時代の島津家による「1066寺の取り壊し」、すべての寺が消えた理由は説明できない。

 囲い込み記事『俯瞰図 大砲や銅銭になった梵鐘』において、德川斉昭(なりあきら)が攘夷を主張し、水戸藩内の梵鐘や仏像、仏具といった銅製品を求めて、反射炉でつぶして大砲を作った。
 薩摩藩はこれに見習ったという。


 水戸の寺つぶしと、薩摩とは本質がまったくちがう

 
 水戸藩はペリー来航以前から、鹿島灘の沿岸に、英仏の捕鯨船の船員が上陸し、住民らと生鮮食品などと物々交換していた。水戸藩はそれに苦慮していた。
 徳川斉昭が、御三家の立場から、これら外国船を追い払う必要に迫られた。寺をつぶし、大砲を作って、外国船を威嚇したのである。
 水戸藩の場合は大砲づくりの寺つぶしで、貨幣の鋳造を行っていない。
 
 
 記事は詭弁的、言い訳の記事におもえるほど、孝明天皇(こうめいてんのう)の意志表示、岡山藩なども持ちだす。島津家の贋金づくりの目的と、廃仏毀釈による寺つぶしとは本質がちがう。時代も違う。

 「1066寺の取り壊した贋金づくり」をオブラートに包む。鹿児島の新聞社として、やむを得ないところか。

 記事のラストになって、本来のテーマであるべき内容が出てくる。

『島津斉彬の急死のあと、文久3年(1863)年から、薩摩領内において、寺から鐘や花瓶、香炉などの仏具をあつめられた。錢つぶされて銅銭「琉球通宝」として活用されたことが知られている』と記す。

 これが1066の寺が破壊された主要な歴史的事実だから、新聞記事のメインであって、リード文で大々的に書き出すべきである。末尾で、ごまかしの感がある。


 記者は、従来型の薩長倒幕論や、坂本龍馬英雄史観は、いまや歴史のまやかしだと批判される時代に来たと認識しているのだろう。

 「琉球通宝」だけにとどまっているが、贋金問題へと第一歩を踏み出したもの、と評価はできる。

 このさき薩摩が徳川家のご禁制の「天保通宝」を大量に作った。さらに世界中に薩摩の「メッキ二分金」がばらまかれたと、南日本新聞から発信されるまで、もうすこし時間がかかるのだろう。

 いまの段階では、鹿児島の女性新聞記者には勇気がないだろう。 否、編集トップの顔色や地元民の反応を考えれば、彼女なりに精一杯頑張ったのだろう。

              ☆  

『広島藩の志士』において、長州は徳川倒幕に表立って役立っていないと論陣を張った。『神機隊物語」では、薩摩の贋金が徳川家の経済政策に大打撃を与えたと暴露した。

 広島藩から見ればみるほど、国が編さんした官制幕末史が崩壊してくる音がきこえる。

【近代史革命】軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(下)

 戦後から70余年が経ったいま、私たちは江戸時代、明治時代、大正、昭和、平成という時代を、公平、客観的にみられる立場になった。
 明治時代から太平洋戦争の終結までの77年間に活躍した方々も、大半が鬼籍に入り、現存者は数すくない。明治~戦前まで、もはや史料や資料、写真や文献で検証する、近代史の領域に入ってきた。

 江戸時代は武家社会である。封建社会であり、古い体質であったことは事実だ。しかし、庶民は貧しいなりにも、戦争のない国で助け合って生きていた。


 明治時代から太平洋戦争の終戦まで、総理大臣、大臣、統帥部、参謀本部など、日本の政治を動かすひとは軍人である。それゆえに、歴史的事実として、侵略国家となった。

 歴史とは、現代をふまえたうえで、過去への問いかけである。つまり、現在の基準から、歴史の裁断が必要である。


 現代の歴史教育から、通俗「幕末小説」まで、とかく『明治時代は素晴らしい』と薩長閥政治家の作った国体・歴史教育の延長線上におかれている。

 つまり、いまだに明治政府が意図的・恣意的に作った軍国主義をすりこむ歴史教科書の影響をつよく受けつづけている。
 そこから脱皮するのが、「近代史革命」である。

           ☆

『軍国主義77年間』は、富国強兵政策で、国家の財政収入が国民の生活に直結しないところ、巨額の軍事費にまわった。
 台湾出兵、日清戦争、日露戦争からはじまり、太平洋戦争まで、朝鮮、中国、東南アジアなど領土の拡大が政治の最大目標であった。
 戦争はぼう大なお金がかかる。国家収入の数倍も戦費につかい、国民が飢える、最悪の経済環境に陥ったのである。

           ☆

 明治後半には、義務教育制度が男女とも確立し、就学率は90%を超えた。教科書は検定制度となり、修身、国語、地理、歴史が最優先して行われた。

 教育勅語で代表されるように、軍国少年の育成だった。国の規格の押し付けや規制のなかで子どもらは育った。
『お国のために、天皇のために死す』。多くが若き兵隊となり、命を散らした。

 昭和16(1941)年の真珠湾の開戦当初は、『祖国を守る』ことは、外国から奪った侵略地の利権を守ることだった。
「祖国ということばは、まやかしであり、すり替えがあったのだ」

 少なくとも、本土防衛が叫ばれた戦争の後半まで、軍人政治家が描いた祖国とは侵略地の死守だったのだ。

           ☆

「軍国主義77年間ほど、ひどい国家づくりはなかった」
 日本史1千年の歴史から見ても、この海外侵略思想は最悪だった。豊臣秀吉の朝鮮征伐も、ひどかった。なにが征伐か、私たちには理解不能だ。この侵略イズムは、徳川家康は朝鮮通信使を招くなど、戦争のながれを絶った。数年で侵略は終わった。


 終戦後のドイツは、なぜ第二次世界大戦に及んだのか、ナチスドイツがなぜ国民に熱狂して迎えられたのか。政治家から民までが深く検証した。
 日本人は過ぎたことに、あまり振りむかない体質がある。「軍国主義77年間」の総括がなされていないまま今日に及んでいる。
 だから、「明治時代は近代化に進んだ素晴らしい」という価値基準に照らして、いまだ幕末・維新が語られているのだ。


 NHK大河ドラマ「西郷ドン」は、通俗歴史小説の娯楽で楽しむもの、とすれば、そのまま英雄史観で楽しめばよい。
 ただ、主人公・西郷隆盛にはなにかというと、「新しい国を作る」と叫ばしている。

「おいおい、明治に入ると、薩長政権が暴走し10年に一度外国に侵略戦争国家になるのだ。これが新しい国家か」
 と思わざるを得ない。
 林真理子著「西郷隆盛」を読んでいないので、なんとも言えないが、この女性作家は、明治政府のつくった歴史教科書「明治時代は素晴らしい」という呪縛から、解放されていないのだろう。

                ☆

 いまだもって尊王攘夷運動が美化されている。日本を開国にすすめた井伊大老の暗殺を必要悪としている。最悪の歴史観だ。

 勘定奉行だった小栗上野介ら徳川家のエリートたちが、遣米使節団(77人)として米国大統領、国務大臣にも面談している。そしてイギリス・フランスをみて世界一周してきた。

 副使だった村垣範正「遣米使日記」には、大統領が市民の選挙で選ばれる、護衛もなく、一人でホテルに訪ねてくる、女性を大切にしているなど、米国の政治・社会システムが克明に記されている。
 小栗や村垣たちは、こうした国家を目指して帰国したのだ。

 ところが最初に聞いたのが、開国派の井伊大老の暗殺だった。さらには、開国した横浜港で外国人人殺しが横行していた。

 外国奉行となった小栗は、なぜ外国人の命を狙う必要があるのだ、日本の近代化・工業化のために招聘(しょうへい)した技師まで、なぜ殺すのだ、と怒った。

「攘夷、攘夷と孝明天皇が開国を嫌うならば、承久の乱のように、天皇を隠岐の島に流してしまえ、日本は選挙で選ぶ大統領制にしたほうがいい」
 とまで公言している。
 
 私たちは、いまだ幕末の尊王攘夷(尊攘)理論が正しいと思い込んでいる。どの時代においても、他国の非武装のひとを殺して、正義などあるはずがない。

 小御所会議で明治新政府ができた。このあと西郷隆盛が仕掛けた鳥羽・伏見の戦いがあった。歴史の流れを変えた。

 近代化の祖である小栗上野介が、真っ先に殺されてしまった。

              ☆

 薩長の下級武士らは、武力で威厳をみせる、名誉と権力をとる。そして軍国主義の政権を作っていったのだ。
 それらを確固たるものにすべき、明治後半には義務教育を通して、軍国主義に洗脳された軍国少年たちをつくっていった。
「お国ために、武器をもって戦うのが正義だ」と教育されたのだ。たしかに、突撃に突撃、死の怖さを越える日本軍は強かった。玉砕もお国のためだと死す。
 その拒絶や反発は出なかった。それだけ軍事教育が、子どもの人格権を無視して徹底されていたのだ。

                ☆

 日本が中国大陸に満州国をつくったから、国際連盟の加盟国、つまり世界じゅうからバッシングをうけた。経済封鎖をうけた。外国債券などは発行できない。
 このとき取る道は、戦争か、外交努力による平和解決か。2つに一つ。

 日本の国策や戦争のグランド・デザイン(全体構想)を推し進める政治家トップは、すべて軍人である。軍人は悲しいかな、奪った土地は死守しようとする。
 民間人がいなかった。ここに日本の不幸があった。

 戦争回避をするならば、満州国から段階的な撤兵を条件にした、外交交渉術があった。
「勇気ある撤兵が戦争回避になる」
 しかし、軍人政治家は、撤退を恥だとしていた。

 外交解決の道は閉ざされた。そのうえ、日独伊三国同盟を結んだ。あげくの果てには、神風を信じた海軍元帥(天皇陛下の次に偉かった)が1、2年の攻撃のあと、外交で有利な解決できると思い込み、連合艦隊でハワイ島を攻撃したのだ。

 これは最悪の選択で、物資の豊富な米国と大規模戦争になった。長期化の様相をみせるが、どの国からも、どの国際機関からも、和平・休戦の仲介など現われなかった。アテが外れたのだ。ここらは開戦に突っ走った海軍元帥の読みちがえである。


 ちなみに大日本帝国憲法には内閣の規定はない。内閣総理大臣はお飾りで、大臣の任命権はない。開戦の判断は作戦を練る「統帥部」であり、総理は口出しはできなかった。
 総理の権限は現行憲法とまったくちがう。歴史認識として知っておかないと、真の戦争責任者は歴史家にごまかされてしまう。


 赤紙1枚で兵隊はあつめられる。いのちの使い捨てだ。子どもたちには鬼畜(きちく)英米だと叫ばせる。人間を鬼畜よぶようでは、もはや異常な軍人政治家たちだった。

 日本は神の国じゃない。思い上がりだという批判をすれば、官憲が思想弾圧する。
 
               ☆

 神風は吹かなかった。東京大空襲、本土各地が空爆をうける。理性ある政治家がわが国には不在だった。沖縄は奪われているのに、まだ戦争を終結しようとしない。

 明治時代からの軍国主義の延長77年間の代償は大きかった。昭和20年は東京大空襲、全土の空爆、広島・長崎の原爆。日本は神の国じゃなかった。思い上がりだった。

 国土の廃墟から昭和20年8月15日、日本は米国に無条件降伏を受け入れた。同年9月にはミズリー号で降伏文書に署名する。

 翌・昭和26年には昭和天皇が人間宣言する。極東軍事裁判が始まり、明治時代から続いた軍人政治家、軍国主義者が舞台から退いていった。日本軍はすべて解体となった。そして、日本国憲法が成立する。

 27年、憲法に基づいた参議院、衆議院の総選挙がおこなわれた。

                ☆

「戦争に負けてよかった。軍隊・軍人が解散した」
 戦後の日本人は、この解放感からスタートした。
 サンフランシスコ講和条約で独立を成して、昭和30年代の所得倍増計画から輸出に勢いがついた。軽産業、重工業製品、ハイテック産業の輸出へと躍進し、つねに貿易収支の大幅黒字から、円為替が強くなり、国民が豊かになった。


 私たち戦後組は、それをもって父、祖父たちが各国に迷惑をかけた賠償金を支払いながらも、なおも高度に成長した国家へと進んできた。
 結果として、戦争せず、経済発展をすれば、国民が豊かになれると証明できた。自信を回復し、確固たる地位を確立したのだ。


           ☆

 太平洋戦争の肯定型のひともいる。日本軍の東南アジアの侵略戦争によって、イギリス、フランスを植民地から追いだした、と功績を主張する。はたして、各国は感謝したのだろうか。

 日本がインドシナ半島に侵略しなくても、世界の流れをみれば植民地主義は19世紀後半から後退しており、太平洋戦争が終結したあと、アジア諸国はごく自然に次つぎ独立国家になっていただろう。
 アフリカ諸国のように10年~20年のタイムラグはあったにせよ、植民地支配からの解放がなされていたはずた。
 遅いか、早いかの違いだ。

               ☆

 日本がやがて高くて強い経済力を買われてサミット国に選ばれた。

 アジア諸国は羨望のまなざしで、一斉に日本の戦後復興に見習い、経済成長を主眼にし、欧米と競う時代になった。平和的復興が良い手本になったのだ。

 いま、この時代から、『軍国主義77年間』の諸悪はだれかと問い詰めれば、維新後に政権の中枢に座った薩・長・土・肥の要人である。
 明治半ばからは、海軍=薩摩、陸軍=長州と独壇場になり、政権を牛耳(ぎゅうじ)った。これが太平洋戦争の終結までつづいた構図だ。

 薩長は戦争国家を選択した、途中でストップすらさせなかった。軍人政治家として自らの権力の維持に努めたのだ。
 あげくの果てに日本を焼土にした。終戦後、みずからの懺悔(ざんげ)もなく、外国人による極東の裁判をうけて政治の舞台から立ち去って行った。

 私たちがいま、この歴史認識の下で、「明治時代は素晴らしい」という薩長美化の呪縛(じゅばく)から解放される、批判するときがきたのだ。つまり、真逆の歴史評価が主流になり、後世に正しい歴史評価を伝えていく役割をもっているのだ。
 それが近代史革命である。

【近代史革命】 軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(中)

 日本人はとかく、お上(政府)がいうから従う、教科書に載ったから正しい、メディア(当時は新聞)が伝えるから、信ぴょう性があると信じる傾向にある。

 この無警戒な国民性が、明治維新から太平洋戦争終結まで77年間にわたり、薩長閥を中心にした軍人政治家たちに、逆手に取られた。国民は軍事支配下に置かれてしまったのだ。

 薩長閥の明治の政治家たちは、かつて下級武士だった。かれらは徳川家の為政者よりも自分たちを大きく見せようと、御用学者を使って徳川政権をひどくこき下ろした。


 鎖国日本は、黒船来航のアメリカに蹂躙(じゅうりん)されたものだ。日米通商条約は不平等だ。こんな弱腰の政権で腐敗していたから、自分たち薩長は徳川政権を倒した。これは正しい道だった、という幕末史観で統一した。

 これらは果たして歴史的真実だろうか。

 ペリー提督が来て、日本中の大名・水戸斉昭、島津斉彬(なりあきら)など99%のひとが武勇で打ち払えという主張だった。
 阿部正弘は老中首座にいた。将軍は家定である。阿部老中は、わずか1%の意見、開国論者の高島秋帆(しゅうはん)の意見を選択した。それも高島は長崎町人で、鳥居耀蔵(とりい ようぞう)に陥れられて謹慎(きんしん)の身であった。

 高島秋帆は約10年前まで、長崎出島の海外交易のトップにいた人物であり、オランダを通して諸外国の事情を最も熟知している。それを知る阿部老中は、高島秋帆の謹慎の罪を解き、江川太郎左衛門に預けの身にした。そして、高島の上書を採用したのだ。


『高島の嘉永上書(かえい じょうしょ)』を紹介しておこう。

 わが国が仮にペリー黒船艦隊を一度は打ち払えたにしろ、アメリカはゴールドラッシュの国ですから、軍艦を大量に建造し、第二波、第三波の攻撃を仕掛けてくるでしょう。同盟国のイギリス、フランスにも呼びかけて連合艦隊で日本に襲いかかってきます。となると、国破れて山河在り。

 アメリカは、太平洋航路の蒸気船でつかう石炭と飲料水を求めているだけです。ここで日本側が開国しても、天保時代の薪水令の延長にあるうえ、さして不利益はないはず。むしろ、貿易で、日本が外国と取引したほうが利益は出ます。
 天明・天保の大飢饉にみるように日本は、周期をもって飢餓に襲われます。貿易をすれば、外国から食料が買えます。国民の飢えが救えます。

 このような趣旨の高島上書から、阿部老中首座はまわりの反対を押し切り開国してみせたのだ。
 99%の戦争論者よりも、1%の平和主義者の選択は、途轍もない強い勇気が必要だ。現代人が企業内で、それを置き換えてみれば、1%のジャッジメントがどれほど勇気がいるかわかるだろう。阿部正弘は老中首座の権限で、それをやってみせたのだ。


『日本は植民地になる可能性があった。だから、軍事強化する』
 これは明治政府の詭弁(きべん)である。いまだに信じている日本人は多い。世界史と日本史を結び付ければ、一目瞭然で偽りだとわかるものだ。


 19世紀から20世紀にかけて、欧米の植民地支配は後退していた。資本主義の理念は貿易で儲けるである。あいての国土は奪う必要はない。

 植民地となると、施政する有能な人物の派遣、駐留する軍事費のエンドレスな負担、貧困の社会保障費など、膨大な費用がかかる。デメリットが大きい。さらに、反政府活動に対する騒動・騒擾から、常に軍隊と警察がふりまわされる。

 植民地政策よりも、自由貿易で利益を得る。そのほうがリスクがなくて、国益になる。欧米はしだいにアジア・アフリカからの撤退の検討に入った。もはや、新たな植民地は必要ない。欲しいのは貿易港である。 
 

 日本で国内を二分する戊辰戦争がおきた。欧米6か国・イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、オランダ、プロイセン(ドイツ)はみな局外中立を貫いた。

 当時の万国公法(国際法)では、戦争国の国内のどちらにも味方せず、公平な態度をとる、内政干渉をしない法規があった。日本占領はありえなかった。
 そもそも欧米6か国はどこも厄介な植民地・領土支配など背負いたくないのだ。
 それは明治政府の為政者はみな知っていたのに、義務教育化した教科書において、日本は植民地化される恐れがあるから、軍備を強化すると教え込んだ。

 
「国民は弱いし、ごまかせる」というのが、世界の歴史で軍国主義者に共通するものだ。明治政府は富国強兵策を謳(うた)った。
 それは国税収入を軍備優先でつかう最悪の選択肢だった。そして、これ見よがしに10年に一度は戦争する国家になった。朝鮮を植民地にし、やがては満州国を作る。

 災害列島にすむ日本人は、税は治めるが自分たちにさして還元されない。政府は戦費優先で、被災復興の手立てすら、ほとんど受けられなかった。『食べられないものは満州に行け』。これら困窮者の新天地開発が侵略・植民地主義へと加速させた。そして、太平洋戦争の要因となった。


『歴史から学ぶ』。太平洋戦争の直前に軍人政治家が、阿部正弘に学べば、「アメリカはゴールドラッシュの国だから、軍艦を大量に建造する能力がある」。それにたいする戦争回避の行動が取り得たはずである。

 国際連盟の加盟国が一致団結して要求する満州国からの撤退。少なくとも、アメリカとの最終交渉において、真珠湾攻撃よりも、段階的な満州撤退を提示したならば、第二次世界大戦突入は回避できた可能性は十二分にある。


 ところが、当時の内閣や海軍統帥部は勇ましい武勇伝を採用したのである。

 この諸悪の根源は、明治政府の薩長閥の政治家にある。平和開国を選択した勇気ある阿部正弘を弱腰だと言い、歴史を折り曲げたところに原因があるからだ。

 学ぶべき歴史が虚偽だと、重大な破壊におよぶ。太平洋戦争に突入した為政者たちは、阿部正弘老中首座が、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて開国したと信じて疑わなかったのだ。

 いちどは真珠湾を攻撃したが、開戦2年後から、豊かな国の米国の軍艦・空母の建造率は途轍もなく急上昇した。日米の海軍保有比率が75%から25%まで急降下した。
 むろん、航空機の保有機数も同様である。
 これは高島秋帆の嘉永上書どおりである。


 歴史を折り曲げれば、後世に多大な災難を及ぼす。歴史は真実でなければならない。最も顕著な事例である。

                       【つづく】

 写真:上段 戦艦・三笠(横須賀市)

    中断 大和ミュージアム(呉市)

    下段 広島平和公園(広島市)

     いずれも、2017年に撮影

【近代史革命】 軍人政治の史観で、徳川政権を批判する時代は終わった(上)

「横浜開国の祖」は井伊大老である。横浜港を見下ろす丘に立像が立っている。

 神戸港のほうは一ツ橋慶喜が、攘夷に凝り固まった孝明天皇から勅許をとって開国させたものだ。


 政治家は100年の計で、政治の施策を選択をする必要がある。「戦争をしない。国民を飢えさせない。国を滅ぼさせない」。この3つは必要最小限でかつ最大限の努力である。

 太平洋戦争の終結した1945年の戦後から、70余年が経つ。敗戦後は亡国寸前のゼロスタートからだった。やがて池田勇人の所得倍増計画からはじまった高度経済成長で、目覚ましく発展した。
 経済発展が国民の間の最大のコンセプトとなった。国民は多くの分野で競って高度な成長をこなした。


 時どきの金融・財政面の苦境も、戦争で逃げるのでなく、全国民がひたすら努力し、あらゆる産業を発展させた。貿易収支の黒字で、輸入を拡大し、国内のインフラを整備し、工業化をすすめた。問題になった環境汚染対策も成し、世界市場に羽ばたいた。

「日本は資源のない国だ。戦争をしなくても、経済発展すれば、国民は豊かになれる」
 GNPで世界2、3位の地位に及んだ。
 そのなかでも、貿易収支の黒字が最も寄与した。その最前線が横浜港、神戸港という国際貿易港だった。


 徳川家の政治家たちは、「攘夷思想」という古い概念(日本書紀、古事記に基づく)の暗殺団が渦巻く危険のなかで、身を挺(て)して、横浜港と神戸港を開港させた。

 この立地条件は実に素晴らしい。

 大正関東大震災の震源地は横浜沖だった。横浜港は大きく破壊された。しかし、すぐさま立ち直った。神戸港も阪神大震災で壊滅的な被害をうけた。これも復旧し、いまや健全な交易港として機能している。

 戦後の私たちは、徳川政権が作ったこの横浜、神戸の国際貿易港の恩恵を十二分に受けている。この2港がなければ、日本がGNPで世界2、3位、アジア唯一のサミット国に選ばれたという経済発展には到底及ばなかっただろう。

 徳川政権の為政者は100年先、150年先の将来を見つめていたといえる。それらを妨害していたのが尊王攘夷派だ。
 尊攘派は日米通商条約を悪く言って、井伊大老の暗殺を正当化した。外交交渉は多少なりとも妥協が必要だ。日本側に100%好都合とはいかない。自明の理だ。


 戦後派の私たちまで、薩長閥が中心の軍人政治家たち77年が作った歴史観に乗り、井伊大老の桜田門外の暗殺を正当化してはならない。戦後の日本が、どれほど徳川家の開港で恩恵を受けたか、という視点で歴史を評価するべきである。

 明治維新が素晴らしかった。そんな時代はもはや終わった。戦後の日本の方がより高度で平和的な国家をつくったという視点から、幕末・維新の史観を見直すべきときにきたのだ。

                   【つづく】

 撮影:横浜港 2018年4月4日 

「薩長倒幕」は史実でない、歴史のわい曲は国民のためにならない(下)=東京・講演より

 2018年1月の葛飾区立立石図書館では、明治時代の『焚書(ふんしょ)』も話している。

 歴史変動は、政治、経済、文化、思想の複合で動く。

 明治元年には、五箇条の御誓文を政治の信条とした。(実行できたのは太平洋戦争の敗戦後の民主主義になってからだ)。


 天皇親政で、まず国学の関係者が動く。「王政復古の大号令」となった。
 祭政一致を唱えて、日本書紀、古事記の記載された皇紀1年にさかのぼり当時の政治の中央集権体制を取った。推し進めたのが、4万3000石の津和野藩主・亀井玆監(かめい・これみ)そのひとである。

「鉄砲持って戦わず、津和野は頭脳で政権を取った」

 大国隆正、岡熊臣、福羽美静らが政策の中心となった。津和野政権となる。約3年間の継続。津和野政権は親政国家の魁(さきがけ)となり、廃仏毀釈まで実質の権力者だった。

 ここに、天皇は神だ、という神教が政治の中心に座った。太平洋戦争までの思想の下地ができたのだ。

 德川政権、幕末の動乱、明治に入り、そして津和野政権、そして薩長政権という順序を踏まえないと、正しい歴史認識はできない。

 おおくは教科書で、祭政一致とは習う。

 幕末・維新史ば大好きというひとでも、後世に大きく影響した津和野政権の存在をほとんど理解していない。
 政治思想、イデオロギーに弱く、龍馬が倒幕しだの、薩長の西郷隆盛・大久保利通眼・木戸孝允が明治政府を動かしたとする、英雄史観に陶酔している。

 歴史は陶酔でなく、事実認識で、流れを知ることである。あえてもう一度言えば、『歴史変動は、政治、経済、文化、思想の複合』の四つの面で、とらえて理解しなければ、年表主義が、英雄史観の陶酔に終わってしまう。

 政治はかならずやイデオロギー、思想が底流にあるのだ。明治政府以降は、国体としての神教が底流にある。天皇と神。切っても、切れない存在になった。あらゆる面、戦争、学校教育、民の日常生活で、国体信教が根強く影響している。

 
 長州の政治家が、明治18年に第一次内閣総理大臣になった。薩長倒幕だ、腐敗政治を德川政権を倒したんだと胸を張っていた。

 かえりみれば、長州藩兵の約2500人は、広島藩の軍服を着せられてカムフラージュで挙兵した。倒幕など無縁だ。戊辰戦争の頃、下級藩士で、1、2等兵だった。中央の政権内部の内実など、まったく解っていなかった。

 西南戦争で、薩摩が落ちた。やがて、長州の政治家の独壇場になった。幕末は朝敵だったはずなのに、歴史を折り曲げて、自分たちが徳川倒幕をやったと、大ウソをついた。内情を知っている不都合な広島藩・浅野家の内部資料は厳重に封印させた。

 ここから、思い上がったかれらは歴史のねつ造が日常化した。と同時に、思想弾圧にもなった。10年に一度海外と戦争国家になった。


 ねつ造癖がつくと、加速度を増す。
 明治政府の軍人政治家は、日清戦争以来、海外と戦争をするために、教科書を変え、天皇を神化し、教育勅語を幼児に丸暗記させた。さらに国民皆兵制で、農民まで武器を持たせて海外派兵した。

 明治政府からはからくりで、民を祖国のためという巧妙な方法で戦争に導いていったのだ。

 歴史のねつ造は、戦争国家への諸悪の原因となる。日本人はその事実を知り、もっと怒り、2度と歴史のわい曲を許さないシステムづくりが必要である。
 内部文書の公開が定期的に行われる。政治の浄化装置が必然になってきている。

写真提供;かつしかPPクラブより
                     
                    【おわり】


 
 

「薩長倒幕」は史実でない、歴史のわい曲は国民のためにならない(上)=東京・講演より

 歴史は現在、および将来の指針の役割を果たす。1000年の太古から、社会環境の違いがあっても、人間の考え方、心理はほとんど変わらない。突然変異ような政治体制にならない。

 歴史から学ぶためには、歴史は真実でなければならない。ただ、権力者、為政者、歴史作家、学者などよって、とかく捻じ曲げられる。それが教育に乗せられると、真実だと国民は疑わないで、真に受けてしまう。
 討幕直後から、薩長政権ができたと信じ込んでいる人が、いかに多いかだ。

 2018年6月1日のシニア大樂「公開講座」の壇上で、「幕末の広島藩がどんな活躍をしたか、ご存知ですか」と私がそう質問しても、誰ひとり知らない顔だった。

「そうでしょうね。数年前は広島市、広島県民などは100人中100人が知りませんでしたからね。無理からぬことです。明治政府、とくに長州政権になってから、広島藩の浅野家史が封印されて、まったく知り得る機会がなかったのです。みなさんが知らない。当然ですよ」

 数年前、私がこの講演の場で「坂本龍馬」を演題にしたときは、会場から溢れる100人以上だった。今回の講演で、私はあえて演題「倒幕の主役は広島藩だった」(広島藩の志士・帯)を謡ってみた。予想通り80人ていどだった。
 
「ひとり浪人スーパーマンが幕末史を動かすなんて、あり得ない。坂本龍馬が教科書から消える。あと5年、10年先には『薩長倒幕』ということばも教科書から消えますよ」
 会場は、まさかという顔をしていた。

 幕末史には人間業とは思えないスーパーマンが出現する。日本一の数万人の大企業を社長一人が興したような表現になる。非現実な展開を史実と信じてしまう。


「慶応3年10月15日、同年12月9日で、大政奉還、小御所会議で、明治新政府ができました。このとき、京都に潜伏していた毛利家家中は、品川弥二郎たった一人ですよ。ひとりが倒幕できますか。朝敵の長州藩は倒幕に役立つ藩ではなかった」

 龍馬にしろ、品川弥二郎にしろ、国家の転覆など、1人で出来るはずがない。学者も作家も、そこは目をつぶり、長州が倒幕に大きな力を持ったとする。「薩長ごっこ」を楽しんでいるのですよ。
 長州と薩摩とは、8月18日の変、禁門の変で、心底から憎しみ合っていた。仲がメチャメチャ悪い。それなのに薩長は仲良くなったと、ムリくりこじつけている。

「慶応3年11月末、広島藩が主導した薩長芸軍事同盟により、3藩が倒幕のために京都に挙兵したのです。広島藩と薩摩藩は、朝敵の長州藩兵をいかに上洛させるか、と知恵を絞ったのです」
 御手洗(広島県・大崎下島)と尾道とに、長州藩1000人強ずつを呼び込んだ。そして、その長州藩兵にはみな軍服、襟章も広島藩の格好にさせたのです。軍旗も広島藩の旗をもたせた。これは軍人として屈辱ですよね。
 軍団の船で畿内にむかっても、長州藩はいきなり京都に上がれず、西宮と淡路沖で待機しておれ、と命じられた。
「慶応3年12月半ばに、やっと京都に上洛できたのです。広島藩の軍服を着せられた長州藩が、翌年の明治元年に政治のトップに立てますか。無理でしょう。突然変異で、新政権は生まれないのです」

 徳川倒幕は人民革命ではなく、260藩の大名は誰ひとり殺されていない。倒幕からいきなり薩長政権ではない。ここに祭政一致という津和野藩の政権が存在する。

 明治新政府の発足は皇室、公卿、津和野藩、五大名家(尾張・徳川、福井松平家、広島・浅野家、土佐・山内家、薩摩島津家)の大名と家老クラスによるもの。これら五家はいずれも松平家か徳川家ですから、まだまだ德川政権が9割以上だったのです。

 かんたんにいえば、徳川家・松平家の譜代による老中支配政権が解体しただけです。倒幕というよりも、厳密にいえば、徳川どうしの争い、徳川支配体制の内部崩壊、もしくは分裂である。

 薩摩や長州の下級藩士は、おそれおおくもトップには程遠かった。かれらが実質的な薩長政権についたのは、廃藩置県の4年後からである。

             写真提供:シニア大樂

                     【つづく】  

神機隊~志和で生まれた炎~≪8≫福島県に眠る高間省三=プスネット連載より 

 いわき平城が自焼し、陥落した。新政府軍は白河・会津方面と、相馬・仙台方面の二手に分かれた。
 慶応4年7月22日、広島藩から自費で参戦した神機隊と、鳥取藩の2隊とが兵卒600人弱でいわき平から太平洋沿岸に沿って北上していく。

 かれらの大砲は4斤山砲(よんきん・さんぽう)だった。4斤とは砲弾の重量が4キログラムである。山砲は分解して、馬の背にのせて山路や悪路でも運搬できた。最大射程は2・6キロメートルである。

 砲手(ほうしゅ)には、弾道(だんどう)計算や火薬の幾何学の専門知識が必要である。砲隊長の指揮能力は、軍隊の勝敗にも影響する。

 翌23日、浅見川(あさみがわ)の戦い、24日から広野(ひろの)宿で大激戦となった。相馬・仙台連合と旧幕府軍は推定4000人強の兵力である。敵は高台の有利な立地から、連日、昼夜問わず、狙い撃ちしてくる。

 7月26日、鳥取藩の砲隊長の近藤類蔵(るいぞう)が重傷を負った。久ノ浜の旅籠(はたご)・亀田屋に搬送されたが、当日に息絶えた。享年37歳だった。
 広野の戦いは神機隊の砲隊長・高間省三の奇策で、大逆転して切り抜けられた。

 7月晦日、高間は武具奉行の多須衞あてに手紙を書いている。『皇道の興廃(こうはい)は今日(こんにち)の役にあり。私は王事のために死せん。願わくは、両親は喜びて哀しむなかれ』と死を覚悟した内容だ。
 これは日露戦争の有名な「皇国の興廃この一戦にあり」は、神機隊・第一小隊長の加藤種之介から、実弟の友三郎が高間の決意をおそわり、連合艦隊参謀長(後に総理大臣)として、「三笠」の艦上に伝わったものと思わる。

 翌・8月1日の朝、神機隊は先手として高瀬川の木橋を渡り、浪江の砦に迫った。その勢いで高間が敵陣に一番乗りした。刹那(せつな)、敵弾が額から後頭部に抜けた。壮絶な死だった。

 高間省三の遺体は双葉町の自性院に葬られた。享年21歳である。現在は、広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。

 奇(く)しくも神機隊と鳥取藩の双方の砲隊長(ほうたいちょう)が命を落としているのだ。


 久ノ浜の木村芳秀(よしひで)さん(亀田屋の遠戚)宅には、近藤類蔵の霊璽(れいじ)という位牌と、「神霊・砲手19人の名入り」幟(のぼり)が5流残されている。命日の7月26日にはその幟を庭先に立てて供養している。150年間の今日もつづく。
 現地のひとの慰霊の精神には頭が下がる。

 かたや、高間省三は東日本大震災による放射能の被災地に眠るので、一般人の墓参はむずかしい。


 写真:広島護国神社・藤本武則宮司が特別立入許可で、自性院(福島・双葉町)に眠る高間省三の墓に詣でる。


【関連情報】
「神機隊」ウィキペディア


                   【つづく】
                     
                    

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(下)

 坂本龍馬は幕末・維新史にどの程度の関わりの人物だったのだろうか。

 歴史を後ろからみる人は、「薩長同盟」を重要視する。龍馬が薩長同盟の成立に尽力したから、第二次長州征討が勝利に導いたとする。
 これは事実誤認に等しい。これを検証してみたい。


 まずは長州征伐という用語が、最近は消されつつある。
 孝明天皇が禁門の変から、朝敵の毛利家を討て、という命令したものだ。毛利家と天皇家の戦い。この構図からいえば、天皇軍は古来から征伐なのだ。「幕長戦争」という表現は、歴史のねつ造用語である。
 
 德川政権が望んだ戦争ではない。京都の一会桑が、孝明天皇に逆らえず、西側の諸藩に出陣を呼びかけたもの。大藩の広島藩と薩摩藩は、ともに出兵拒否に出た。他にも諸々の藩が非戦の態度を取ったが、幕府はペナルティーを課したわけでもない。


 島津家は経済の損得勘定で動く大藩だ。浪人・龍馬に云々されて、77万石の大藩・島津家の政治が、儲かりもしない戦争に動くはずがない。


 島津家は経済的な視点で考えないと、歴史を見誤る。
 同藩は商人にたいして250年の無利息・分割払いを強要する。薩英戦争ではイギリスに支払う賠償金を徳川家から借りた。いつまで経ってもその金は返さず、結果として頬被りする。
 鹿児島の鋳造工場で大量の贋金をつくり、イギリスから軍艦・兵器を購入し、メッキ2分金で払う。明治2年にはたいへんな外交問題になる。(木戸孝允から、薩摩は贋金で日本を全身不随にする気か、と叱責されているくらいだ)。


 木戸孝允が鉄砲密売人の龍馬に、最新武器の斡旋を依頼した。ところが、龍馬からなんら返事がない。龍馬に苛立った木戸の判断で、伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に送り込み、薩摩から武器を購入させた。

 慶応2年の薩摩は贋金でイギリスから武器を買っていたから、儲かりさえすれば、幕府に隠れて、どの藩にでも密売していた。長州も例外ではなかったのだ。薩摩がわの資料によると、別段、龍馬から斡旋がなかった。
 
 つまり、龍馬は薩長の仲介におおきな影響は与えていない。 

 長州藩が最新兵器で幕府軍に勝ったというが、これまた怪しい。
 大村益次郎が浜田、さらに石見まで進軍できたのは、津和野藩が「うちで戦わないでくれ」と道案内し、通り抜けさせたから、スルーできたのだ。

 芸州口の戦いでも、最初は彦根・越後高田に襲いかかったが、広島城下まで行くと、こんどは紀州軍や幕府軍の最新部隊に追い返されていく。幕府海軍から艦砲射撃を打ちこまれてしまい、長州藩兵は岩国まで逃げ帰った。

 ここらは芸藩志にくわしく乗っている。幕府海軍の軍艦の船名までも、明確に記している。

 城を自焼した小倉軍だったが、9月の宮島の和平協定のあとも、長州藩兵と戦いつづけている。

 龍馬の橋渡しで、長州が薩摩から最新兵器を購入できた。だから、幕府に大勝ちしたように記すのは、歴史の真実からかなり外れている。


 これらをまとめて単純化すれば、島津家は闇で毛利家に武器を売って儲けたけれど、出兵したところで、天皇家からも徳川家からも、恩賞や戦費は出るわけではないし、「当藩は出兵しません」と老中・板倉勝静に捻じ込んだにすぎない。

 慶応2年の薩摩は、長州あいてに儲かったけれど、無駄な金を使わなかった。それ以上でも、それ以下でもない。


 龍馬は、慶応3年10月の大政奉還にはまったく関わってない。
 芸藩志を精読すれば、広島藩の大政奉還が後藤象二郎が横奪したと、推移を克明に記している。そこには龍馬の入る余地などみじんもない。

 ちなみに、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛も、土佐藩を信用していない。薩土盟約が崩れて、後藤が抜け駆けで、板倉勝静に大政奉還の建白書を出したものだと見なしている。


 ただ、慶応3年11月に龍馬が実名で「新政府綱領八策」に署名している。当時の仕来りからすれば、重要な会談には書役(秘書役)がいる。それが龍馬だったのだろう。


 明治新政府の方針づくりの場に龍馬がいた。この事実は侮れないし、明治維新にむかって存在感のある人物だった、それには間違いないだろう。
 

 写真は、穂高健一「坂本龍馬と瀬戸内海」の連載・第3回の1ページより

         
           【了】

坂本龍馬関係者よ、「龍馬の真贋ならば」、「芸藩志・第81巻」を読みたまえ(中)

 芸州広島領の浅野家が、なぜ徳川家の倒幕運動の先がけとなったのか。その理由はとても、明快だ。浅野家は、豊臣秀吉に正室(北の政所・高台院こうだいいん)を嫁入れさせている。家の格として、豊臣方の筆頭格の存在なのだ。

 かつて徳川家康すら、浅野家には一目も、二目もおく存在だった。
 浅野家の上屋敷には、江戸城登場に最も近い桜田門の目の前(現・警視庁と霞が関)に、広大な敷地を与えるほどの気の使いようだ。
  
 
 秀吉には頭が上がらなかった家康だった。その家康が戦国時代の戦いを休戦させた。そのうえで、以降の260余年間にわたり、江戸城に政治の中心をおいた。それは国家統一でなく、戦国戦乱の一時停戦だったのだ。


 日本列島に260諸国があった。戦国大名は、江戸時代になっても、いずこも世襲で「お家」主義であった。
『日本国』『わが国』という概念が薄く、分断された独立国家だった。(国民の末端まで、日本国、という意識が及んだのは日清戦争から)

 德川家の15代にわたる将軍は、戦国時代の群雄割拠のまま、政治・社会体制システムの根本を変えなかった。結果論からみると、それが徳川政権の最大の弱点となった。

 諸国は参勤交代や普請命令など、徳川政権の命令に従う。だが、豊臣対徳川の対立精神が底流で脈々と生きており、分断した独立国家体制のままだった。ペリー提督の黒船来航のあと、西側雄藩(豊臣色)と東軍(徳川色)という対立構造が、急激に浮上してきたのだ。

             *

 徳川時代には「藩」の呼称はなかった。「藩」という呼称は明治2年に、廃藩置県に移行させる暫定処置である。明治4年にはもう鹿児島県、山口県、広島県、和歌山県になり、郡県制度に変わった。
 わずか2年間の『藩』だった。それにもかかわらず、150年後の私たちが、「藩の意識」で幕末史を理解しようとするから、倒幕の本質が見えにくいのだ。

             *

 禁門の変で、毛利家は御所に発砲し、乱入した、「天皇家の敵なり、征伐せよ」と孝明天皇が征夷大将軍の家茂(いえもち)将軍家に命じた。

 第一次長州戦争へと進軍してくる幕府軍と、朝敵・長州の間はどの大名家が仲介するか。毛利家の親戚筋の福岡藩や、宇和島藩すらも、徳川家の怒りを怖れて断った。

 広島藩・浅野家がみずから仲介を買ってでた。それは関ヶ原の戦いで、毛利家が豊臣方の総大将だった。浅野家の藩主のこころに、いまや豊臣方の元総大将・毛利家の窮地だという、強い意識があったと容易に想像できる。
 つまり、徳川家と豊臣家という対立構造が、戦国時代から底流に脈々と生きていたのだ。少なくとも、その片鱗をみることができる。

         *
 
 第一次長州征討は、毛利家の家老や参謀の切腹や斬首で決着をつけ、広島城下の国泰寺で、幕府側の首実検をして、決着をみた。

 ところが第二次長州戦争へと、徳川家茂将軍の采配の下で、大勢の幕府軍が広島表にやってきた。浅野家は徹底した抵抗運動をおこなう。
 執政(家老)・辻将曹、野村帯刀のふたりが幕府から謹慎処分をくらう。藩校出身者の若者55人が小笠原老中の暗殺計画を街角にはりだす。


 浅野家の藩主から末端の家中まで、これほどまでに巨大な徳川家に盾つける抵抗運動はどこから来ているのか。その精神とはなにか。北の政所・ネネを嫁がせた浅野家は、豊臣家の本流だという自負心である。
 毛利家は豊臣方の総大将で、敗れて萩に落ちた。ここは見捨てられない、という意識がなければ、500万石の徳川家にたいして、42万石の浅野家がつよく楯突(たてつ)けない。

 それでも、第二次長州征討が起きてしまった。宮島の大願寺で、幕府の勝海舟と毛利家臣との間で、休戦協定がむすばれた。

            *

 徳川家がやがて、威厳を保つために第3次長州征討を言いだした。

「こんな徳川政権ではわが国を亡ぼす。亡国となれば、民が外国人の農奴・奴隷となろう。徳川家には政権を奉還し、天皇の王政社会にしよう。浅野家は正論で行こう。正論を堂々と言えるのは、秀吉公にネネを嫁がせた浅野家だけだ」
「徳川はまだまだ強い勢力を持っております。毛利家は朝敵で、倒幕に役立ちません。島津家は密貿易と贋金づくりで、徳川の公儀隠密や密偵にびくびくしております。後からはついてくるでしょう。いま、わが浅野家が徳川幕府の倒幕に動かずして、どこの藩がうごきましょう」
「浅野家が倒幕の先がけになろう」

 浅野家は藩校・頼山陽を生んだ。日本外史の皇国思想の下で、反論を一致し、真っ先に徳川家に反旗を挙げたのだ。

 やがて島津家、毛利家をも巻き込んだ。
 藝薩長の軍事同盟の成立を見たが、いっとき土佐の後藤象二郎に振りまわされて失敗した。しかし、それも立て直しができた。


 徳川慶喜将軍が、世の意表をついて、短期間で大政奉還を成した。はたして、天皇・公卿ら朝廷は国家統一の政権運営ができるのか。

             *

 大政奉還後の、天皇制には2つの問題があった。

① 天皇は軍隊を持っていない。幼い明治天皇がいつ徳川方に浚(さら)われるかわからない。天皇が指揮命令できる皇軍が必要である。

② 天皇制を敷いても、収入が全くなかった。税収がないと、国家統一の行政はできない。

 この2つの問題を解決しないと、後醍醐天皇の建武の中興 (けんむのちゅうこう)の二の舞になる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反で、ふたたび武家政治に戻ったように。


「これは防ぎたい。二つの課題を達成する」


 広島藩主の浅野長訓(ながこと)、世子・長勲、執政・辻将曹らが、有能な家臣を使って、小御所会議(慶応3年12月9日)の開催の根回しに走った。そこで、王政復古の大号令による明治新政府の誕生をめざす。
  
             *

 寺尾生十郎は慶應3年10月23日の広島を発ち、薩摩藩主、土佐藩主へ、某は宇和島藩主へ、とむかった。
 寺川文之進は松平春嶽に会う使者として、おなじく同月23に広島を発ち、同28日に福井に着いた。そして、春嶽に会う。
「新たな王政の国事に尽力してほしい」
 と膝を交えて協議する。


 大政奉還から約10日後である。
 徳川家は政権を放棄したというが、どの大名家も、内実はどうなのか、とわかっていない。混沌とした政治状況下で、だれもが疑心暗鬼だった。このさき徳川慶喜将軍とはどう向かいあうべきなのか。

 人間は誰もが明日を完全予測できない。
 
『京都に上京し、国事に尽力していただきたい』
「王政復古は賛成だが、徳川家には260余年の御恩がある」
「御意に」
「わが家は松平家だ。尾張家も同様だろう、あちらは徳川家だ。新政府の政治に協力したいところだが、徳川宗家・将軍家には不義理になってしまう。国家のためならば、たしかに広島藩の言うとおりだ、もう慶喜公には政治の場から下りてもらうしかない。余(春嶽)はその板挟みで迷っておる」
 どの大名も、浅野家の使者の熱意から、広島藩の本気度をさぐっているのだ。

 遠くて近いのが歴史だ。天下人の秀吉の妻として北政所は、朝廷との交渉を一手に引き受け、家康すらも助けられている。この『浅野家』には、豊臣政権時代の影を感じさせるのだ。だから、浅野家は堂々と論陣を張れるのだ。

             *

 広島の使者は、主君(長勲)の命令だから、結果をだす必要がある。上洛・小御所会議の参列に乗らなければ、かえって情報が他に漏れてしまう。
「長勲公からの親書は受け入れ難し、お受け取りできません」
 と突き返される。

 宇和島藩・伊達宗城公への使者は、おおかた失敗したのだろう。
「芸藩誌」には使者の名前が「某」とのみ表記されている。伊達宗城は12月9日の小御所会議に参加していない。
 使者・某は説得に失敗し、切腹している可能性がある。

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 福井で春嶽に直接会った寺川文之進は、松平春嶽が小御所会議に上洛する、と承諾を取り付けた。翌29日付長文で『~ 越前福井より 春嶽 拝復』が手渡されている。
 寺川はそれをもって急ぎ広島に帰藩している。
  
 この一連の動きのなかで、広島藩の浅野家臣・寺川文之進が、浪人の坂本龍馬を福井に連れて行った可能性が大である。

 応接掛(外交官)の寺川が、大物の松平春嶽と小御所会議招集を語る重大な場に、浪人風情の龍馬を同席させるはずがない。


「拙者は春嶽公に会う、そなた龍馬は、謹慎の身である由利に会ってくれ。いずれ、謹慎を解いてもらい、明治新政府の財源づくりの役に付いてもらう人材だ。ここら具体策を双方で話しておいてくれ」
 寺川が龍馬に、そう指図したと理解する方が自然である。
 

 明治新政府が誕生すると、浅野長勲公が大蔵卿になり、由利 公正(ゆり きみまさ)が財政を担っている。その根回し役が、浅野家臣・寺川文之進だった。

 坂本龍馬の福井行きは、広島藩・寺川文之進の行動と、浅野長勲の施策と並列してとらえないと、たんなる想像の世界となってしまう。
 浅野家の家史「芸藩志・第81巻」を読みたまえ。


                               【つづく】


 写真: 穂高健一『坂本龍馬と瀬戸内海』ま雑誌連作の2回目「いろは丸事件」です。2010年5月号。
 ちなみに、いろは丸事件が起きた慶応3年4月です。
半年後の秋口から、藝薩長同盟の成立、慶喜の大政奉還、龍馬の福井行き、龍馬暗殺、御手洗条約、3藩進発(挙兵)、小御所会議による明治新政府誕生と、目まぐるしく幕末動乱に及びます。