A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【残滓(ショート・ストーリー)④】 蚕(かいこ)から横須賀造船所が誕生した

栗本鋤雲と道子 見山楼  明るさ.png 駿河台の小栗邸の奥座敷で、小栗道子が先刻(さっき)から、針と絹糸を通し、夫の羽織のほつれを縫い合わせていた。裾の縫い目が表から見えないように縫う。「くけ縫い」である。
 羽織は公の場にでるための正装だから、夫がほつれたままの羽織で登城することは、妻の落ち度と見なされる。
 このしごとは大身の旗本の妻のしごとである。女中任せにしない。夫が人前で恥をかかないよう、極めて細かく、美しく仕上げる。

 晩秋のやや傾いた陽が、奥座敷の白い障子をかすかに茜色に染める。秋のつるべ落とし。もうすぐ薄暗くなり針が見づらくなるから、行燈に火を灯すまえに節約で、この羽織の袖と裾のくけ縫いを終えておきたい。
 絹糸は木綿とちがい、なめらかで縫いやすい。針先に引かれた一本の絹糸は、とても軽く、陽に当たるとみずから発光しているかのように、やわらかな光を湛(たたえ)ている。 
 小栗家の知行地である上州・権田村からきた家臣らが、この屋敷に幾人かいるが、だれもが上州のお蚕さまを自慢する。
「元気がいい。寒さに強いお蚕さまですから」
 江戸育ちの道子とすれば、蚕を育てことも、見たこともない。蚕自慢はのみ込めないけれど、話に聞けば、蚕のサナギが、外敵から守るために体内から吐きだす分泌物(絹糸腺液)で繭(まゆ)をつくるらしい。
 この繭を釜の湯で煮て、繊維の重なりをほぐし、蚕糸(生糸)を取り出すという。

 権田村に里帰りした女中が、「とても美しく、最高です」と自慢の生糸を手土産に持ってくるのがつねだ。たしかに、権田村の絹糸はしなやかで、やわらかさがとても心地よい。
「お蚕さまは宝石のような糸をおつくりになる」
 道子が羽織の布の折り代の裏から針を入れ、玉結びを折り目の中に隠す。

 奥の回廊廊下で足袋の音が止まった。女中が襖を細く開け、控えめに頭を下げた。
「奥方さま。表門(おもて)に、瀬兵衛(せへえ)という方がいらしております。門番の話しでは、その方が葛飾堀切の妙源寺さまでお墓参りのあと、見山楼が懐かしくて、立ち寄られたそうです。お殿さまがご不在なら、別段、取り次ぐ必要はないと言われているそうです。いかがいたしますか」
「あっ、わかった。栗本鋤雲(くりもと じょううん)さんね。幼名を と瀬兵衛だった時いたわ。夫から」
 瀬兵衛とは、見山楼に通っていた。いまは昌平坂学問所頭取(現・東大総長に類似する)の栗本鋤雲である。
「昌平坂学問所の一番偉い方が、お立ち寄りになったね。粗相のないように表座敷の客間にお通しして。お茶のご用意をして。甘い茶菓子もね」
 道子は、針と絹糸を裁縫箱にもどし、部屋の片隅に押しやった。

 これまでに、栗本鋤雲に関係したうわさはいろいろ聞く。......この小栗家の見山楼で学び、幕府の昌平坂学問所に入学した。二十歳前後の鋤雲はあまりに頭が良く、大柄で顔がもみあげと髭が繋がった張飛(ちょうひ)のような豪胆(ごうたん)な風貌(ふうぼう)だから、周りのものから「お化けの喜多村(旧姓)」と恐れられていた。
「そんなふうな話を聞いたことがあるわ」


 栗本家の家督を継いた鋤雲は、将軍さまを診る奥詰医師となり、かたや医学館で講書を務めていた。幕府の奥医師(将軍の侍医)は、1849年の「蘭方医学禁止令」の名残りがあり『漢方医学を正統とし、蘭学(西洋医学)を勝手に学ぶことを禁じる』という禁令があるらしい。ところが、鋤雲は優秀な頭脳で好奇心が強く、行動力があるから、蘭学(オランダ語)をまなび、幕府の蒸気船の軍艦・観光丸に乗船した。そのことが禁令違反だと咎(とが)められ、いっときは謹慎(きんしん)となっていた。

(こんなうわさ話を思い出している暇はないわ。どんなご挨拶をするべきかしら)
 道子は手鏡で顔を映しだし、頭髪をかるく撫で、身だしなみを整えた。
 道子はふだんなくソワソワと気持ちが高ぶっている自分を意識した。この緊張はなにかしら。悪い胸騒ぎとも言えないし。夫の将来にかかわる重大な予兆を察しているのかしら。
「わたしから、何か話題をつくる必要がるかしら。小栗上野介の妻として、塾頭の話をぼやっと聞いていたといわれると、夫の恥になるし」
 道子の気持ちがせいてくるが、これから迎える栗本鋤雲を考えてしまう。

 ......安政五(1858)年には、医師でありながら蝦夷地在住を命じられ、箱館奉行所勤務となった。......鋤雲は山の上町遊郭の梅毒を駆除するための箱館医学所(のちの市立病院)を建設した。その薬草を栽培するために、七重村薬園を経営する。

 久根別川の川底を浚(さら)い函館までの船運を開通させた。通商条約を締結した国の艦船、商船が入港してくるので、日本人がまだ食べない食用牛の需要が多く飼育事業をはじめさせた。

「表の応接間には上等の座布団を敷かなければ、お松に、それを言いつけなければ」
 最近の噂だと、栗本鋤雲は箱館での行政手腕(病院設立や新規事業や養蚕)などは、だれも真似できないほど意欲的で蝦夷の発展に尽くしていた。優秀な官吏だから、幕府は医師の身分のまま、「昌平坂学問所の頭取」という人材育成の要職に据えたという。役人社会では驚天動地の人事だから、すぐに江戸の噂になった。
「お見えになりましたから、表座敷にご案内しました」
「上等の座布団にしましたか」
「いいえ。ふだん座敷に置いている座布団です。着流し姿ですから、格式ばったお客様ではないと思いましたから」
「そうなの。いまさら言っても間に合わないわね」

 道子は背筋を伸ばし、着物の裾を払ってから、表座敷に向かった。部屋の襖をあけ、両手をついてから、ていねい挨拶をした。

「今日十一月二十一日は安積良斎先生の月命日ですから、先生の墓参りに葛飾堀切の妙源寺で出かけました」
「安積良斎先生を忍んでいらしてくださる。ありがたいことです」
「はや四年が経ちます。歳月は生きているものには光陰のごとくです。お寺さんからの帰り道、拙者の生家がすぐこの近くの猿楽町ですから、駿河台の見山楼が懐かしくて、立ち寄り、表通りから二階建ての楼を眺めておりましたら、門番に声を掛けられましてね。攘夷派の怪しい奴だとでも思ったのでしょう。こんな髭もじゃの顔ですから」
 鋤雲が右手で顎を撫で、蝦夷のヒグマといい勝負の顔でしょう、と気さくな口調で言う。道子は思わず、熊そっくり、と笑ってしまった。
 女中がお茶と御菓子を運んできて静かに立ち去った。
「これは蝦夷の干物と乾物です。それに、これは蝦夷で牛を放牧させて牛乳でつくった『バター・チーズ作り』の試作品です。アメリカに行かれた豊後守どのならば、現地で一、二度は食べられたかと思い、持参しました」
 栗本鋤雲が紙包みを差しだす。

 道子は丁寧にお礼をいった。
「放牧は日本の近代化の一つです。100年先には北海道のバター・チーズが日本中で食べられるようになるでしょう。きょうにでも、奥方が口にされると、思わず顔をしかめて吐き出すかもしれません。腐った味がするとか言い......」
 クマに似た顔の鋤雲が、胸をたたきおう吐の真似をした。
その愉快なしぐさをみて、道子は思わず苦笑した。

「お噂では、蝦夷で種痘(しゅとう)をおこない、大勢のアイヌの方々の生命をお救いになられたとか。うちの殿も、子供のころ天然痘に罹患(りかん)して顔にあざが残っています。江戸はまだ種痘を恐れる空気があります。蝦夷のほうが先行されているのですね」
 道子は、そのように話題を変えた。
「経緯をお話しいたしますと、拙者が箱館に赴任したとき、天然痘が猛威を振っており、免疫を持たないアイヌの集落が、次つぎに全滅しかけていました。現地では『死病』として怖れられていました。このままだと、アイヌ民族が死滅する、思いましてね、幕府の正式許可を待たず、なかば独断にちかいかたちで種痘を開始しました」
「すごい勇気ですね」

 それというのも、鋤雲は蘭方医(西洋医学)の知識から、西洋人がアメリカ大陸に持ち込んだ病原体(天然痘や麻疹)が、免疫を持たない先住民のアメリカ・インデアンを数千万単位で死に至らしめた。最近は天然痘で死滅寸前に追い込まれていたインディアンが牛の種痘で救われたと知りえていた。
「医に国境なし」
 幕臣という立場以上に医師としての本能がはたらき、牛痘種痘法を導入した。

 当初は和人が持ち込んだ「得体の知れない医療」に対して強い警戒心を抱いていた。天然痘でアイヌの人々が絶滅すれば、そこは「無人の地」となり、ロシアに占領される口実を与えてしまう。鋤雲はみずからも、あるいは奉行所の部下らに種痘を施してみせることで、アイヌ人に安全性を証明し、粘り強く説得を続けた、と話す。

 種痘によって劇的に死亡率が下がると、アイヌの人々は深く信頼し、列をなして接種を受けに来た。感謝の印として家宝の品々を贈ろうとするものもいたという。
「いいお仕事をなさったのですね」

 栗本鋤雲は、箱館に医学所(医学校)や病院を設立するよう尽力した。これは単に病気を治す場所ではなく、地域の公衆衛生を底上げし、近代的な医療体制を築くための拠点づくりであった。高価な輸入薬に頼らずとも治療ができるよう、蝦夷地の気候に合った薬草を育てる「薬草園」を作ったという。

夕日が応接の部屋に差し込んできた。
「日没前に、見山楼から一望したい」
「とゔぞ」
――駿河台の街は一帯が高台にある。小栗家の二階からは見事な富士山や丹沢、奥多摩の山々が一望できるので、「見山楼」と名付けられた。
 旗本屋敷の洗練された風雅な離れで、その書斎は安積良斎を慕う文人たちがつどい、海外の知識や政治を論じる優雅な談話室の役割があった。

 訪問客は母屋(主屋)の玄関で取次ぎを受けたあと、庭園を通るか、渡り廊下を経て敷地の北側の神田川を望む崖側にあった見山楼へと案内された。
 私塾の生徒らは、家族が生活する奥御殿を通らず、庭の木々を通り抜けて見山楼に通っていた。見山楼とは、山が見えるという意味合いだけでなく、集う者たちの「志の高さ」を高台にそびえる楼閣になぞらえたからだという。

 小栗邸から多くの旗本屋敷が立ち並ぶ、静謐(せいひつ)な街が一望できるし、神田川のせせらぎが聞こえる崖際の見山楼である。
「お話がとても、興味深くで、時間を忘れるほどです
 鬼才といわれる栗本鋤雲が箱館奉行所に入ったとき、単なる官僚仕事に留まらず、北の大地を「日本の近代化拠点」にしようと決意したという。そのなかのひとつ八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)を移住させて養蚕(ようさん)を興そうとしたと話す。
「なぜ、八王子千人同心ですか」
 道子が興味の目を向けた。

「かれらは武田信玄の遺臣の末裔であり、半分武士・半分農民でいわゆる「半農半士」の集団です。ふだん農業に従事しているため、未開の蝦夷地を切り拓(ひら)く力がありました」

 一方で、武士としての規律もあり、辺境の警備(ロシアへの備え)も兼任できる理想的な人材です。八王子は古くから『桑の都』と呼ばれ、養蚕・織物業が極めて盛んな地域です。だから、幕領地の八王子のかれらに白羽の矢を立てたという。

「蝦夷地で高品質な生糸を量産できれば、日本でいま開港した三つのうちの一つ箱館から、絹を商船に乗せて海外に運べる。地の利もあります。横浜まで持ってくる必要もない。幕府の箱館財政を立て直す、大きな武器になると確信して取り組んでいたのです」

 八王子千人同心は蝦夷の「開拓・警備・産業(養蚕)」の三位一体を実現できる。外貨獲得の切り札になる。

 鋤雲は箱館在住のフランス外交官・カションと親交があり、日本語をカションに教え、かれからはフランス語を習った。その中で、ヨーロッパでは「蚕の病気」が流行しており、養蚕業が壊滅的打撃をうけていると知っていた。
 医者でもある鋤雲は、蚕についても研究にも取組んだと話す。
「蚕は家畜化されて数千年の歴史があます。地域ごとに自然淘汰されたり、人為選抜が進んだため、性質が大きく異なる系統が多数存在しました」
「いろいろあるんですね。存じませんでした」

「蚕の種は古来、病気に強い、寒さに強い、早熟、多収など、性質の異なる多くの系統が存在します。 この系統差が、非常に重視され、地域ごとに独自の品種が育てられております。 微粒子病にかかった蚕は、次のような特徴を示します」

 成長が遅れる、食欲が落ちる、体色が白っぽく濁る、皮膚が薄く、弱々しい、繭をつくれず死ぬことが多い、生き残っても繭が小さい、糸が弱い。
「蚕は外見だけでは、強い種か、弱い種か、初期にはほとんど分からない。育ててみて、これりゃあ、だめだ、とわかるのです。ですから、ひとたび微粒子病(微粒子体=ノゼマ病)、白殻病、黒殻病などが発生すると、地域の蚕は全滅する恐れがあります。一村全滅・一郡全滅は珍しくなかった」
「怖いですね」
「微粒子病(ノゼマ病)は卵に潜むため、翌年も感染が続く。フランスがこの蚕の病魔に、織物業界が苦しんでいるそうです」
「海の向こうでも、そうですか」
「日本でも、殻病・黒殻病は飼育環境で一気に広がるし、実際に『蚕皆死す』『村中の繭が取れず』といった報告が多数ある。ただ、わが日本には、微粒子病、白殻病、黒殻病に耐性(負けない)がある、強い蚕の種がある。山間部の粗放飼育で生き残った系統に多い。とくに信州系、上州系の一部です」
「だから、群馬ではいい種があるから蚕業が盛んなのですね」
「そうです。上州・信州は酷寒の地ですから、寒さにも、病気にも強い種が、数千年の蚕理の歴史という伝統から育てられたのです。世界で一等と称してもいいでしょう」

「とても、懐かしく、夕映え近くの富士山には魅入りました。離れたくない気持ちでした。これ以上は、行灯が必要ですからと
「うちの殿に伝えておきます。きょうは、お構いもなく、申し訳ございません」。お菓子はお持ち帰りください」
 道子は表玄関まで見送った。

 鋤雲が小栗上野介とフランス公司・ロッシェとの対談の席で、フランスの養蚕業が壊滅的打撃をうけており、蚕について議題に乗せた。上州・信州のつよい蚕を家茂将軍の名のもとでフランス皇帝ナポレオン3世へ大量の蚕卵紙(蚕の卵を産み付けた紙)が寄贈することになった。
 ナポレオン3世はその返礼として軍事顧問団の派遣や、横須賀造船所建設のための莫大な担保(生糸)や技術援助を提供しました。まさに「蚕から造船所が生まれた」のです。

「残滓(ショート・ストーリー)③」 勝海舟が九州沿岸を巡航した

勝海舟 長崎製鉄所 明るさ訂正.png 勝海舟が四十歳にして、神戸海軍操練所の正式許可が文久3年4月23日に下りた。その神戸海軍操練所の開設準備や長崎への航海を兼ね、幕府軍艦「観光丸」あるいは咸臨丸で、かれは九州沿岸を巡航した。
 文久三年5月下旬〜6月上旬(1863年7月頃)である。 随行人数はおよそ三十〜五十名規模(士官・操練生・水夫を含む)と推定される。長崎奉行所記録にも「海軍奉行並・勝来崎」の記録がこの時期にある。したがって、この航海は操練所創設の準備行動として位置づけられる。

 とくにこの巡航は、勝海舟の生涯においても非常に重要な時期にあたる。巡航は大坂を出航し、豊後(大分)の佐賀関に上陸し、そこから陸路で阿蘇を越え、熊本へ、ふたたび海を渡り島原を経由して長崎へ向かう。

勝海舟が長崎奉行所を訪ねると、長崎海軍伝習所の第一期の同期である永持亨次郎(ながもち こうじろう)の執務室に招き入れられた。

 老中首座・阿部正弘が、安政二(1855)年に立ち上げた「長崎海軍伝習所」の第一期生として、永持亨次郎は勝海舟ともに艦長候補の入所であった。
 永井は操船、語学、会計、何をやらせても一、二位である。最もずば抜けていた<。そうそうに長崎奉行所の支配吟味役という上級官吏に抜擢された。
かたほうの勝海舟は語学が中位、航海・操船技術は下位、財務・会計は苦手、行政実務は苦手、外交交渉は得意ではない。
 したがってオランダ教官から留年を申し渡された。
 二人の間には、こんな経緯があった。

「長崎は、海の海藻が混じった香りがする。何年も鍛錬した海だ。思いれは強い」
「勝が神戸で海軍の操練所を作るという話は、早々と長崎に伝わってきた。いつ、この長崎に来るのか、と待ち遠しかったぞ」
 永持亨次郎は勝を迎えた。

 同期の永持亨次郎の案内で、勝海舟が長崎の各施設を見学する。そのなかのひとつ、御用船で長崎鎔鉄所に向かった。
 同建物の入り口に入ると、油と石炭の入り混じった臭いが鼻孔を突いた。

「この工場は長崎訓練時代になんどか来たことがある。久しぶりだ。懐かしさよりも、幻滅だ。俺の率直な感想だ」
 勝海舟の辛辣な批判がはじまった。
「完成から一年間は、技術指導のオランダ人が工場にいたから、華々しく活気があった。しかし雇用契約が切れると母国に帰国してしまった。その後はこのとおりだ。オランダ語の仕様書だと、職人はまったくチンプンカンプンだ。オランダ語の通詞も、機械の専門用語は日本語に出来ない。まだ、該当する日本語がない。だから機械が動かせない。勘でうごかし。腕や指を切断する事故が多発してしまった」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。
 
 巨大な旋盤が鉄の表面には赤錆が浮き、油の匂いも薄い。オランダ技師が引き上げると、錆びた機械、動かぬ工場である。
 隅のほうで、職人が木工の作業をしている。鉄の音はほとんど聞こえない。機械類は動かさないと錆が出る。
「永持。工場の稼働率は何割だ。大型機械など寺の鐘のように年に一度しか、鳴らんのではないか。オランダに頼る時代は終わったな」
 と揶揄した。
「もう、科学は英米仏の時代だな」
「永持。神戸に期待せよ。必ず、世界に肩を並べる海軍操練所をつくり、このさき上様にお願いし、鉄工所と造船所を建設する。世界に羽ばたくぞ」
「勝は、家茂将軍と直に話ができるそのうえ、要望も出せる。それが、だれにもできない最大の強みだ。悔しいけれど、勝には負けるよ」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。
「俺はアメリカも見てきたしな」
「あいかわらず、針小棒大だな。そもそも万延遣米使節の七十七人を遣米使節団を送ったのは、俺だと、勝海舟だと言いふらしておる。アメリカ本国へ運んだのはポーハタン号だ」
「それはそれだ
「だいいち咸臨丸は、太平洋横断の習熟を目的とした訓練航海じゃないか。サンフランシスコまでを往復してきただけだ。咸臨丸は使節の『使節団輸送』には一切関与していない」
「永持亨次郎は、知りすぎておる」
「勝海舟の船酔いは、長崎海軍伝習所で学んだ者ならみんな知っておる。船長なのに、船酔いで寝込んでおったではないか」
「そういうのは福沢諭吉だろう」
「太平洋横断の操船はブルックら米海軍士官が取り仕切った。証人はいっぱいいるんだ。勝の法螺は病癖だな」
「生真面目な生きかたしかできない永持亨次郎には、人を愉しませる話術は理解できないだろうな。永持、おまえは事実を語る。俺は時代を語る。聞く者は、どちらを面白がると思う。歴史というものはな、事実だけでは人は覚えちゃくれねえ。少しくらい色をつけた方が後世のためだ」
 そのように勝海舟は巧妙にかわす。
「相変わらずだな。色をつけるのは構わん。しかし、おのれの名ばかり金箔を貼るのは、史実ではない。自分の手柄にする癖は直したほうがよい」
「永持、お前は伝習所の頃より、ずっと『仕事ができる男』になったな」
 これがいつもの勝海舟だった。
「永持。神戸に期待せよ。必ず、世界に肩を並べる海軍操練所をつくり、このさき上様にお願いし、鉄工所と造船所を建設する。世界に羽ばたくぞ」
「勝は、将軍さまと直に話ができるそのうえ、要望も出せる。それが、だれにもできない最大の強みだ。悔しいけれど、勝には負けるよ」
 永持亨次郎はまじめな顔で語っていた。

「神戸操練所に必要な設備、人材、資材。外国に発注する前にコこの長崎鎔鉄所所の機械を転用するとよい。このままだと、宝の持ち腐れになる」
「それはありがたい。勘定奉行の小栗豊後守が横須賀に造船所をつくると計画をしているようだが、幕府財政はケチケチだからな。超小型の横須賀造船所しかできないだろう」
 勝海舟はあざ笑っていた。

【残滓(ショート・ストーリー②】 坂下門外の変で、桂小五郎・伊藤俊介が調べられる

坂下門外の変で、桂・伊藤が調べられる 訂正.png

 文久2(1862)年1月15日とは、江戸城で執り行われる「嘉例の式日」で、諸大名が江戸城に総登場する。そして、将軍に拝謁する。
 この日、老中首座の安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸の過激派浪士に襲われた。まさに、正月早々に幕府の上層部が襲撃された「坂下門外の変」から激動の文久二年がはじまる。

 この暗殺団の首謀者は尊攘派で、幕府が三日前からその一部を捕縛していた。だが、その網から逃れた一味が襲撃を実行したのだ。
 手口は二年前の桜田門外の変で井伊大老が暗殺とほぼ同じであった。むろん、警備は厳重だったので、斬りこんだ6人は皆その場で斬り殺された。安藤は背中のかすり傷であった。警備陣の死者もいなかった。

            *

 ここ1年半前、水戸藩の西丸(さいまる)帯刀(たてわき)の尊王攘夷派たちが、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵(ごうぞう)と「丙(へい)辰(しん)丸(まる)の盟約」を結び、要人の暗殺や外国人の殺害、外国公使館の放火などが計画されているようだ。町奉行はその情報をつかんでいたから、江戸城坂下門外の決行前に、多くを捕縛していた。

 世の中には、何ごとも遅刻魔がいるものだ。この坂下門の襲撃に遅刻したのが水戸浪士の川辺左治右衛門である。かれがトボトボと長州藩に桂小五郎を訪ねて行ったのだ。桂五郎は不在だった。長州藩の奥平数馬が対応した。長州藩・有備館の講堂で待たせていた。

「切腹の場をお借りしたい」と自刃したのだ。外出先から伊藤俊(しゅん)輔(すけ)伊藤が帰ってきた。

 大声がするので駆け付けると、川辺が脇差で腹を切り、喉を横につらぬいていた。1月16日に、伊藤俊輔が南町奉行所に、川辺自刃を届け出た。18日、奉行所の黒川備中守盛(もり)泰(やす)は桂小五郎と伊藤俊輔を呼びだし尋問した。

 川辺が、『斬奸(ざんかん)趣意書(しゅいしょ)』を持っていた。公儀役人が調べると、坂下門外で斬り殺された浪士の袂から回収した趣意書と同文だった。

 その『斬奸趣意書』は、井伊大老暗殺の趣旨から始まる。そして、安藤老中が自己の権威を守るために、天朝を侮り、和宮降嫁を強請したという。天皇の廃位を企てている、神州の罪人だ。さらには品川御殿山に、夷狄に貸して、公使の建設をはじめている。シーボルトを日本の政務に向かい入れた、奸人(かんじん)だと決めつけている。


 井伊大老の暗殺事件につづく安藤老中の暗殺未遂事件を幕府転覆に類する重大事件として、北町奉行所は、老中暗殺の一味だと明確なので、町奉行所は長州藩の関係者の取り調べに入った。
『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」から、長州藩の有備館は水戸過激派と、長州藩不穏分子が連動する集合・密会場所だ、と認定した。
 藩の治外法権を超えた取調べをおこなった。

 長州藩といえば家老・長井雅楽が公武合体と組み合わせた開国論を『航海遠略策』という構想にまとめ上げて、藩主・毛利敬親に提案した。朝廷と幕府が反目するのではなく、たがいに融和し、合体し、国論を統一していくものである。
 そのうえで協力して外交を進め、開港によって国の産業や通商を盛んにし、軍備を高めていくという内容だった。

 朝廷や幕府の公武合体派にこれをした歓迎した。とくに幕府からみると、公武合体、開国容認、国力増強で理想案であった。毛利敬親はこれを長州藩の藩論としたのだ。幕府も、これは卓見だと言い、朝廷に対して、皇妹の和宮と家茂将軍の縁談を勧めたのだ。


 長州藩内で、松下村塾のかつての門下生である久坂玄瑞、来原良蔵などの勤王志士を名乗る者たちが、長井雅樂に反旗が翻ったのだ。
「公武合体とは名ばかりで、幕府が主で、朝廷が従となっている」
「朝廷の権威を弱体化させるものだ」
 水戸藩と長州藩の過激派たちが、安藤信正の殺害を計画したのである。

 しかし反面で、長州藩のちょう高島秋帆内 攘夷断行および朝廷中心国家の思想を拡大する久坂玄瑞、来原良蔵ら松下村塾系は、疚しく承服できないものだった。
 ここから薩長が歴史の中軸として回りはじめるのだ。

小栗上野介忠順のもとに、町奉行所から、『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」の写しが回ってきた。
 それを目にしたときに、「表では幕府に従順な顔をし、裏ではテロリストを匿う」という状況に対し、長州藩の統治能力そのものを疑い、あるいはその二面性を「幕府に対する組織的な反逆の準備」と見なした

 藩主の毛利敬親が、藩内の不穏分子(久坂玄瑞ら)を制御できていないという現状をみぬいた。長州藩という組織自体を「信頼に値しない不安定な勢力だ」と断じただろう。

 井伊大老の暗殺が倒幕への第一弾とすれば、文久二年の坂下外の変がる第二弾である。対馬に向かうときに、下関にイギリス艦が長々と停泊していた。その時の疑問が、この坂下門外の変から、警戒心で長州をみるようになった。

 奉行所は、拷問申請も辞さない態度だった。藩士としても、江戸町奉行所に呼び出されて白州で取り調べられること自体が屈辱であろう。
 桂小五郎はいちども面識がない人物が訪ねてきた。長井雅樂に相談に行った。帰ってくると死んでいたという1点張りだ。

 
「有備館の全員を呼び出すことも考えおる。周布政之助も安藤老中の襲撃をしたであろう」
 町奉行への出頭命令は毛利家先祖代々からみても恥辱である、放免を要求する。

 そんな内容の嘆願書が、有備館一同の名の下に、幕閣に提出された。文面は暗に、幕府は長州藩を敵に回して決戦する気か、とにおわせる。
 それを境に、小五郎と伊藤俊輔は、病気を理由に裁判所の出頭を拒みはじめた。武士の治外法権の壁で守られていた。

 身分の低いものが代理で出てくる。片や、長井雅樂が裏から久世大和守など4人の老中に手をまわす。安藤信正自身も、公武合体が進んでいるさなかだし、さして傷は深くないと言い、長州藩の奉行所の襲撃という厄介な事情は回避に回ったのだ。
小栗上野介は3月9日に、小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんかしら)(将軍の身辺警備)となった。
「安藤老中は甘かった。黒川奉行ももっと強気で、桂小五郎を処分すべきだ。後々に遺恨となるだろう」
 小栗上野介はそう呟いた。
 安藤信正は老中から追われた。

【残滓(ショート・ストーリー①】 ボロボロ咸臨丸で、小栗上野介が対馬にむかう  

咸臨丸で対馬へ 小栗忠順 訂正.png白い波頭の玄界灘を、咸臨丸が対馬にむかって突きすすむ。五月の潮風がマスト・トップの日章旗をはためかす。総トン数が625トンの船体が、前後に揺れつづける。
 その船首ちかくで、外国奉行で三十一歳の小栗忠(ただ)順(まさ)が被った陣笠(じんがさ)のひもを締めなおす。その目がかなたの洋上にうかぶ緑の対馬をとらえている。まだ、細長い島の輪郭が荒波の向こうで見えかくれしている。
あの対馬は南北約八十キロ、東西約十八キロの細長い島である。上島(かみのしま)と下島(しものしま)は、ひょうたんの形状のように、中央が絞りこまれている。大小・九十八の属島をもっている。
 小栗が船長から借りた双眼鏡を眼にあてた。二百から五百メート級の緑の山々が連なり、海岸にそって集落の民家が点在する。平たんな耕作地がほとんど見あたらず、島全体が山岳におもえる。

 この対馬は九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置する。それゆえに日本海を航行する軍艦にも、貿易の商船にも、寄港するには好都合の位置にある。西洋列国は喉から手が出るほど欲しい島であろう。
「安政の五か国通商条約」で、幕府が開港したのは横浜、長崎、箱田(函館)の三か所のみである。ゆくゆくは新潟と兵庫を開港すると約束している。だが、この対馬は対象外である。

 昨年には、イギリスの軍艦が幕府に対馬に無断で寄港し、測量をしている。イギリスも、フランスも、日本海のど真ん中に立地するだけに、航路の上の最重要拠点として対馬につよい関心を寄せている。

 ロシア帝国の場合は、冬場のシベリアの港が凍結するので、不凍港である対馬をアジア進出の中継地点と鷹の眼のように狙っている。幕府は永年にわたりそのロシアをとくに警戒してきていた。

 とうとう事件が起きた。この文久元年(1861年)二月三日、申の刻(夕刻四時ころ)に、ロシア艦・ポサドニック号が不法にも対馬・浅茅(あそう)湾に尾崎浦に入って きた。二月の真冬の日本海は大荒れにもなる、ロシア艦は難破したと虚偽の緊急避難してきた。そして島の一部を占領したのである。

 ポサドニック号の海兵らが芋崎(いもざき)に無断で上陸し、あろうことか兵舎の建設、井戸の掘削、菜園などをつくりはじめた、と対馬藩から江戸の幕府に報告があった。
 次なる報告では、対馬藩の問情使(外交実務の藩士)が、ポサドニック号の船将ビリリヨフと対談し、立ち退きを要求するも、ロシア側はまったき退却の意思を示さない、という。
 対馬藩から次々と情報が入り、江戸城内の幕閣が協議し、ここまま現地・対馬藩任せにはできないと判断し、幕府がロシア艦占領事件の解決に関わることになった。

 こうして老中・安藤信正が、城内に外国奉行・小栗豊後守忠順と目付の溝口八十五郎を呼びだし、この事件を解決するために、対馬に向かうようと命じたのである。
 日本海の対馬は本州・九州とつながっていないので、海路で行く、と決まった。品川の沖から出帆する。
 このとき幕府の蟠竜丸(ばんりゅうまる)と朝陽丸とが修理中なので、咸臨丸は無人島調査への対応中だが、急きょ対馬行きに回されたのである。

           *

 小栗・溝口一行の十数人が品川に集合したとき、対馬藩の江戸家老が見送りにきて、「よしなに」と頭を下げていた。下関では対馬藩士が咸臨丸に乗り込み、最も新しい現地情報をご説明いたします、という。

 文久元年四月十九日(1861年六月二日)に、品川沖から咸臨丸は出港し、浦賀に立ち寄り、下関では対馬藩士が乗り込み、長崎で石炭の補給を行ってきている。

 ところが、この航海のさなかに咸臨丸がたびたび汽缶(ボイラー)の故障を起こしている。というのも、万延元(1860)年のサンフランシスコへの太平洋横断で深刻なダメージを受けており、それに老朽化と腐食も加わり、この日本で満足に機関・船体を修理できる機械工場がないので、ダマしダマし使っている状態であった。

 対馬でロシア艦を一刻も早く立ち退きさせないと、ロシアの占拠が日増しに拡大してしまう、と小栗・溝口一行は焦るも、こんなことから咸臨丸の蒸気汽缶がうごかず、帆走が多く、予定より大幅に遅れ、五月朔日を越えても、きょう現在もまだ対馬に着いていない状態であった。

「小栗豊後守殿、甲板ですこし腰を据えて休まれたらどうだ。貴殿が、今から気負っても、気が急いたところで、この蒸気船の船速は変わらぬ。この咸臨丸が対馬に接岸するには、あと一日はかかる」
「余の気持ちは、もはや対馬を占拠したロシア艦の艦長と向い合っている」
 そういう小栗忠順がふりむくと、目付・溝口八十五郎(みぞぐち やそごろう)は甲板に搭載した小舟の陰で、荷箱に腰かけ、キセルで煙草を吸う。幕政にも、軍事にも明かるい幕臣である。みるからに落ち着いた態度だ。

「汽缶(ボイラー)の故障で、またまだイライラさせられますぞ。この船の揺れ方は、まるで心臓の不整脈みたいだ」
「余の心配は咸臨丸の機関にあらず。不法にもここ三か月間余り、対馬に居座っておるロシア艦でござる。ロシア海軍の奴らは、日本領地の対馬に上陸し、斧で次つぎと神木を伐り倒し、薪で燃やしておる。海兵の宿舎までも立てている。あきらかに対馬を奪い取る魂胆だ。そんな艦長の胸倉をつかんで張り倒し、対馬から追い出してやりたい」
 かれが憤る。それら対馬のロシア艦の横暴は、下関から乗船した対馬藩士から聞き取っている。

 小栗忠順は対馬のロシア艦の艦長らにたいして殺気立つ自分を意識した。ロシア艦船を退去させる交渉では、小栗はけっして妥協しない強い態度で臨むつもりであった。
「小栗豊後守。貴公がロシア軍艦の艦長の胸倉を掴むのは結構だが、あくまでも演技の範囲にとどめていただかないと、なりませぬぞ」
 溝口がさりげなくいう。
「演技とはなにゆえに、そう申す。旅芸人でもあるまいし」
 小栗忠順の声が、玄界灘に白波を立たせる潮風に吹き飛ばされていた。

「こちらが始からけんか腰だと、交渉に余裕がなくなる。まずは対馬の主権は日本にある、ロシア艦の船長らの行為は国際法違反だと、理路整然にていねいに説明されたほうがよかろう。最初は正論を述べておく。受け入れる、入れないは向こうの判断で」
 幕府目付の溝口が、キセルの煙草のきざみを取り換えている。

 外国との交渉には、幕府の目付が同行し、観察する制度があった。その交渉内容が老中に報告書として上がる。その制度は、幕府がこちらに不利な約束をさせない仕組みでもあった。
「溝口殿。ロシアの本音は聞かずとも、南下政策で日本の対馬を奪うつもりだ」
われらが優柔な態度で会談に臨めば、ロシアは難癖をつけ、ずるずると解決を先延ばし、二年も、三年も解決を長引かせ、あげくの果てに対馬占拠を既成事実にさせてしまう。
 それが予想できるだけに小栗 忠順は、心底から憤然としている。
「小栗豊後守、ロシアとの軍事衝突は避けよ、相手の挑発に乗るな、という幕府の命令に沿うよう。拙者は目付として豊後守の手綱を握りしめておく役でしてな」
溝口が両手で、暴れ馬の手綱をとる素振りをした。

「貴公は目付だから、余がロシアと交渉する過程をみて、幕府の意向通りに対応しているかそれを、とそれを見張る立場だ。監察だ。......だから、余の性格で、暴走しないか、と見張っているのだ」
「まさに。その通り。ロシア人がどんな言い訳をするか。まず相手の言い分を聞いてから、胸倉をつかんでも、遅くはない」
「懐柔策は望まぬ。最初から高飛車に出て、即刻この島から出て行け、と迫ったほうが解決ははやい。アジアで不凍港が欲しいロシアだ。生半可な交渉では事態が解決しない。対馬は日本に主権があるんだ、とロシア人の胸倉をつかんでも、喧嘩腰の気迫で臨まないと、この度の事態は動かないだろう」
 といっても、溝口八十五郎がのんびりキセルのきざみ煙草を取り換えている。
「対馬の島人を、ロシア海兵が二人も殺害しておる。許せぬ。凶暴な相手には、強い態度で対処するのが一番である」
 小栗のやり場のない悪感情を吐きだしていた。

「小栗豊後守。ここは落ち着いて考える。幕府から与えられた我々の役目は、『ロシア艦を退去させよ』でなく、『退去に追い込め』でござる。その違いを認識なさって外国奉行として対応されたほうがよろしい」
 小憎たらしいほど、溝口は冷静である。
「はたして正面からの正攻法の抗議だけで、ロシア艦を追い出せるだろうか。西洋の歴史的をみても、ロシアの南下にはいずこの国もてこずり、戦争に及んでいる。生半可な国じゃない」
「だからこそ、冷静に、国際法で対応されたほうが良い。拙者は幕府の目付だから、助言のみに徹する。交渉の主役は小栗豊後守だ」
「貴公・溝口殿は目付だから、老中にも将軍にも直じきに意見を具申できる、強い立場だ。老中の考え通りにせよといい、余の行動範囲を狭めてしまう。そうなると、対馬をロシアに奪われて、将来の日本に禍根を残だろう」
小栗忠順が攻撃的になると、溝口は無言でかるく視線かわす。

(貴殿も、昨年は遣米使節団の目付だったし、なにを言うか)
溝口はときに、目でそう反論している。
 玄界灘の荒波が、咸臨丸の船側をなんどもたたきつける。咸臨丸の汽缶がどこか不 整脈のような不規則に振動に思える。
「溝口殿。日露和親条約、日露修好通商条約を結んで、両国はたがいに批准しておる。この条約をロシアに順守させる。対馬は開港しておらぬ、と主張する。胸くそが悪い不法者のロシアを恐れ、日本が低姿勢になる必要はない。ロシアの野心は対馬の割譲だ。一坪たりとも渡せぬ。即刻、退去せよ、と強く言い寄る」
 小栗忠順は、熱(いき)り立った口調である。

「あいては海も凍るロシアからきた連中だ。正論だけで首を縦に振るほど、ロシアは甘くない。だいいち日本には軍事力がない、と見透かされている」
この咸臨丸には、小栗家臣ら十数人が乗り込んでいる。船酔いでデッキから身を乗 
りだし、嘔吐している者もいる。
 潮風が強いので、操舵室の船長が緊張した表情で、大きな舵を回している。船員らは帆柱マストを結ぶ太いロープをきつく締めなおしている。

          *

――老中・安藤信正公(陸奥(みちのく)国(こく)磐(いわ)城(き)平藩(たいらはん)の藩主)は、根が弱腰だ。外交では大国へさして強い抗議ができず、自分の代で茶をにごし、後任に解決を託す。そんな態度で、ロシア艦の対馬占拠が未解決のままだと、日本列島は島々が多い、類似の占領事件が多発するだろう。

 昨年11月6日に、非常に優秀な外国奉行の堀利煕(ほりとしひろ)が、プロシアとの通商条約の締結目前にし、老中安藤信正と激論した夜に自刃したのである。なにが、原因か。多くの説があるけれど、安藤の外交政策を批判する堀利煕が死をもって諫言した、という見方がもっとも事実に近いだろう。
 自刃に追いやった安藤信正が、堀利煕の後任に命じたのが、この小栗忠順(のち上野介)である。
 小栗にすれば、外国奉行として、ロシア・ポサドニック号対馬占領事件が初のおおきな外国奉行の仕事であった。
「豊後守殿。貴殿が強い態度で臨んでも、日本はロシア帝国と戦争するほどの海軍力などない。太平洋をたったいちど横断して来たくらいで、この咸臨丸はもう船体がボロボロ、機関はガタガタ、不整脈の汽缶で、品川からこの玄界灘に入るまでも、四度もボイラの小爆発だ。それで帆走に切り替えれば、メイン・マストは折れる。船底の牡蠣(かきがら)を落してないから速力は出ない。十日で対馬に着く予定が、もう一ヶ月を越えた。これがいまの幕府最新鋭の軍艦だ。推して知るべしだ」
 溝口は辛辣に冷静にみている。そのうえで、こう言った。
「帆船と蒸気船の戦いの海戦ではロシア海軍に勝てない。ならば、陸上戦に誘い込んでも、海上から艦砲射撃で住民の犠牲は甚大だろう。どれだけ人命を失おうとも、日本がロシア帝国には勝てない。小栗殿が口で言うほど、ロシア帝国との戦いは生易しくない」
 文久元年(1861)年二月三日に、申の刻(午後3時頃から午後5時)頃に突然、大型のロシア軍艦・ポサドニック号が対馬の尾崎浦に入ってきた。対馬藩の問情使(もんじょうし、朝鮮通信使らとの外交役)が船上で、理由を問えば、二月の荒海で船体を破損したので修理したい、という。

――ロシアの蒸気軍艦・ポサドニック号は約1000~1200トンクラスのコルベットで、三本の帆柱で長さは約70メートルのスクリュー船である。帆走と蒸気汽缶の動力で推進する。定員は約360人であった。

  ここからロシア帝国海軍の対馬占拠事件が起きます。

穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ③ 窮地に立つ女子・音大生の逆転の発想

 ③の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。
 

『まえがき』
 主人公の白根愛紗美(あさみ)は、21歳の東京の音大生です。彼女は望まずして大学恩師の教授の紹介で、瀬戸内の島の中学校に教育実習にやってきました。
 赴任してみると、正式な音楽科教師(女性)は、素行の悪い生徒たちと折り合いが悪く、妊娠を理由に退職してしまった。後任がいない。
 校長に口説かれた愛紗美は、大学実習生なのに、なんと音楽の代用教員扱いとなり、そのうえ、同校が目指す音楽コンクールの検体か県大会の指導(顧問)を引き受けさせられます。
 音楽合唱部たちの初顔合わせの日に、いきなり合唱部員がゼロになります。やり場のない気持ち彼女の心象を描いたばめんです。


『作品・本文より抜粋』

 白根愛紗美(あさみ)が、豊町中学(広島県)の男女混声合唱団の顧問(外部指導者)として、教育委員会から認可された。いまのところ部員は六人だと聞かされていた。
 めざす合唱コンクール大会の募集要項によると、中学生の部は最低参加人数が六人であった。
「大会の当時に欠員が一人でも出たら、出場できない」
 それを考えると、彼女はミラノの国際コンクールを犠牲にし、八月まで顧問を引き受けたのは迂闊だった。赤石校長に断る策はないかしら。妙案はなかった。
 最初の合唱部員との顔合わせは、金曜日の放課後で音楽教室だった。集まってきたのはわずか三人である。ほかの三人はすでに菊池先生に退部を届けて認められている、という。
「えっ。そうなの」「もうずっと前よね」
(三人だけでは県大会の出場ができない...)
「きょうは三人でレッスンして、次は飛雄(とびお)君も入ってもらいましょうか。先生から話して」 飛雄は中二の悪ガキの男子生徒である。
「だったら、わたし部活をやめます」「わたしも」「ひとりなんて、いやです。合唱にならないし」
 三人は背中をみせて立ち去っていく。呼び止めて話し合う余裕もなかった。怒るよりも、呆れてしまった。むずかしい年頃だけに、三人を呼び戻すのはむずかしいし、ムダな労力になるとおもった。
 愛紗美はグランドピアノの椅子に腰かけた。顧問になった早々に全員を失くした今、気持ちの置き場がなかった。県予選への意欲とやる気の魂を奪われてしまい、一体なにからはじめたらよいのか、まったくわからなかった。
――校長先生。部員がゼロになりました。当初通り、六月十日をもって豊町中学の教育実習を終了させていただきます。
 それは情けない話し。彼女は放心というか、思慮が停止した心境だった。このまま独りいても虚しいし、と教室を出た。彼女は一階への階段を下りはじめた。踊り場で、すれ違う浅間輝(ひかる)に呼び止められた。
「この間の、僕の授業の感想を聞かせてほしいんだ。忌憚(きたん)のない意見を」
「ここで?」
「いや。どこか別の場所で。どうだろう、あしたは土曜休みだから、ぼくが御手洗(みたらい)の史跡を案内しながら、白根先生の感想とか意見とかをきかせてもらう、ということで」
「いいんですか。わたしの評価は厳しいですよ。遠慮しない性格ですから」
 彼女は、胸にある部員ゼロの鬱屈を吐きだす気持ちだった。
「厳しい方がありがたい。僕にとって勉強になるし、今後の参考にしたいから」
「年下の大学四年生が、歴史も知らないで、なにを生意気な、とおもうはずですよ。聞かない方がいいです」
「そんなことはおもわないよ。教育実習の同期だと、ふだんそうおもっている」
(こんな日に、素直にうけるのも癪(しゃく)だわ)
「七卿館で、朝の十時に落ち合うことで」
「午前中は困ります。いろいろ用が立て込んでいますから、午後一時なら都合をつけられます」
 時間ずらしも、単なる気晴らしであった。彼女は踊り場から階段を降りはじめたとき、ちらっとふり向いて、上っていく彼の姿をみた。
(なによ。バツイチの三十男が、デートのひとつも声がけしないくせに。自分の頼みのときだけじゃない。憂さ晴らしをしてあげるから)
 彼女のモヤモヤ感は尽きなかった。

            ☆
 
 この先、白根愛紗美(あさみ)が「逆転の発想」で、中二の悪ガキの男子生徒・飛雄の力を借ります。明るい方向にすすみます。
 先日、元中学校校長の方とお会いし、私は「九十二年の空白」の意見をもらいました。
「この小説に描かれた、逆転の発想は取材ですか。実にリアルです」
 元校長は違和感を感じなかったようだ。
「いいえ。私の想像です。これしか解決はないかな、と考えました」
 と前置きし、推理小説の執筆の手法で、難問にたいして解決の方法は何かないか、とかんがえつづけて、ここにたどり着いたのです、と応えさせてもらった。
「現実に、こういう子(生徒)はどの中学校でもいます。小説の創作とはいえ、現実に近いところで書かれるのですね」
 中学校内の教職員や生徒ばかりが出てくるドラマだけに、私は安堵した。

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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ② ペリー提督の来航で大騒ぎ、それはウソでしょ

 ②の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。


『まえがき』
 ペリー来航は、大騒ぎだった。この通説ははたして本当だろうか。まず40キロの距離はどのくらい離れているか。皆さんの住まいから気にとめてください。次に、ペリー提督よりも7年前の1846年に来航したアメリカインド艦隊のジェームス・ビッドル提督はご存じですか。この時はとてつもなく大騒ぎです。
 ペリー提督の初来航は実に静かです。明治に入ると、歴史学者が7年前のビッドル来航の大騒ぎとすり替えたのです。『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』これは明治十年につくられた狂歌(ペリーよりも25年後の創作だった)と判明されて、現代の教科書から削除されています。
 明治時代から為政者は教科書に載せて、なんと150間後の現在までも、事実無根の狂歌をまるで真実のように教え込んできたのです。

 登場人物の院大生(浅間輝・ひかる)は元建築技師で、大きな設計ミスから転職し、緻密な理数系でなく、大学院の史学科に入った。妻と離婚し、歴史のねつ造は戦争につながる、という信念をもつに至った。それを生徒たちに教えたいと教職課程をとり、教育実習で教壇に立っている情景です。
 この場面では、東京からきた音大四年生の実習生・白根愛紗美(あさみ)が、教室の後ろで、その指導ぶりを眺めているばめんです。


『作品・本文より抜粋』

「アメリカはペリーが浦賀に来航するわずか七十年まえまで、イギリスやフランスの植民地だった。独立戦争に勝って合衆国となった。そんな新興国だ。さて、いよいよペリー来航の話しになるが、黒板に書いた和親とはどういう意味かな。女子にも答えてもらおう。佐藤さん」
――和は、和をもって尊し、とおもいます。親とは、親しく仲良くするです。
「正解だ。つまり、日米平和条約という意味だ」
 かれは黒板を指し、ちらっと白根先生の顔をみた。しっかり聞いている態度だ。
「石川君。なんで黒船というんだろう。みんなに教えてあげて」
――それは、えっと、ペリーが乗ってきた船が真っ黒だったから、だと思います。
「それは正解といえるのかな。半分だな」
 室町時代から、南蛮船は真っ黒だった。木造船は海水で腐るし、カキがつくから、防ぐために真っ黒なコールタールを塗っていた。だから、徳川家光が鎖国するまで、南蛮渡来の船はみな黒船とよばれていた。
 ペリー提督来航は1853年であるが、それより7年前の1846年に米国のジェームス・ビッドル提督が軍艦二隻で浦賀に来航している。ビッドル提督はアメリカ大統領の国書を持参してきた。当時の老中首座の阿部正弘は国書を受理をしなかった。
 ビッドル提督は初めて江戸湾に外国軍艦がきたといい、江戸湾警備の川越藩などの藩船や、駆りだされた漁船が数百隻も軍艦をとりかこんだ。約十日間は観光客があつまり大騒ぎだった。
「ペリーの黒船がきて日本中が大騒ぎした、という。これはウソだ。
 ペリー来航のとき庶民は騒いでいない。数年前にコロナ騒ぎがあったよね。パンデミックということばをおぼえているかな。天然痘が大流行の年で、パンデミックで街に人は出ていなかった。将軍も病死だ。ただ、病名は不明だがな。大奥のお女中は何人も死んでいる。
 ペリーの黒船は四隻のうち二隻は帆船で、めずらしくもなんともない。二隻は蒸気船で後ろにすすめる。わずか地元民が珍しがっただけだ。江戸日本橋から浦賀沖まで、直線でははるか遠き四十キロもある。黒船の煙は肉眼で見えない。御手洗と広島・宇品はおなじ四十キロの距離だ。見えるかい」
――見えるわけがないよ。山に登ってみても、米粒かな。
「コロナで外出禁止のときに、君たちは御手洗から伝馬船で広島・宇品港まで見物に行くかい」
――そんなことしないよ。一度見ているんだよね。ビットル来航で。
「ペリーの初来航はわずか九日間で消えてしまった。ビットル来航の大騒ぎと、歴史はすり替えられているんだよ」
――なぜ、太平洋から来なかったんですか。
「当時は蒸気船で、石炭を焚いて船を走らせていた。太平洋に石炭基地がない。だから、アフリカ、アジアの港で石炭を補充しながらきた。ペリー提督は学術調査が主目的だから、アフリカ・アジアの港に半月、一か月と立ち寄りながら、動植物の採取とか、農耕とか、家屋とか、いろいろ記録をとっていた。吉澤君、質問がありそうだな」
――白人は珍しかった、とおもいます。だから、大騒ぎになったとおもいます。
「そうかな。幕府は、長崎出島のオランダ商館の商館長(カピタン)に、毎年、海外情報をもって江戸に来ることを義務づけていた。松平定信のときから、四年に一度になった。三年は長崎奉行所での聞き取りになった。江戸には合計百六十六回やってきた」
 江戸庶民も宿泊所に行けば、窓から顔を出す。白人とは言わず、紅毛人(こうもうじん)だよ。だから、さして珍しくなかった。
「みんなは豊町中学の生徒だから、『カピタン江戸参府』はよく覚えておいたほうがいいな。なぜかな。白根先生に答えてもらうか」
――有名な医師のシーボルトが御手洗に来て、病人を診察しています。その記録が残っています。むかし下関から大坂までを御手洗航路とよんでいました。大坂にも御手洗にもおなじ住吉神社がありますから、それを裏付けています。カピタン江戸参府の百六十六回のうち、たぶん百回は御手洗に入港していたようです。
「音楽の先生をやめて、社会科の先生になってもらうか」
 大笑いになった。拳で机をたたいて笑うものもいる。
「どこまで話したのかな。忘れてしまった」
 またしても、大笑いになった。


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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ① これは恋愛小説なの、歴史小説なの

穂高健一著「歴史は眠らない」の『立ち読み』シリーズを書くにあたって。そのきっかけとなったのが、読者の声からである。

「男女の恋がはらはらして、引き込まれて、四作品とも一気に読めました。こんなにも男女の機微(きび)を上手に書ける作者とは思いませんでした」
 そんな声が多く寄せられた。
「ぼくはかつて純文学作家だよ、数十年は苦節で売れない小説家だった。8つの文学賞(本名での受賞)はすべて純文学作品だったし。本業だよ。男女の機微を書くのを得意としていたし、文学賞も多くいただいた」と電話とか、SNSとかでそれをおしえた。

「なぜ、歴史作家になったのか」。このシリーズ「立ち読み」に入るまえに、予備知識として、私の作品歴をかたっておこう。その方が作風もわかるし、だから穂高健一はこんな執念で、歴史の通説をくつがえすことに燃えて執筆しているのか、と読者に理解していただけるとおもうから。

             ☆  

《純文学の小説家で、歴史作家から縁遠かった》              
 五十歳代のときに、著名な作家から酒の場で、「穂高よ。お前はストーリーテラの素養が充分あるんだ。貧乏もいいけれど、奥さんのために、いい加減に、売れる作品を書いたらどうだ」という叱咤(しった)に近い助言があった。妻のためか......と胸が痛むことばだ。
 シェパード3匹も飼う邸に、お嬢様育ちの女性が、私と結婚し、数十年も貧乏生活をつづけている。内職しながら、女性特有の、あなたは家事をいっさい手伝わないし、とボヤキがはじまる。「苦節10年だ、待ってくれといわれ、20年も待ったわ。もうすぐ苦節30年ね」と妻から嫌味を聞かされる。

《風向きが変わった》
 知人から雑誌社を紹介されて、ミステリーの連載小説を書くことになった。毎回、読者のコーナーに作品への期待が載るほど好評だった。

 毎月の連載は、頭脳(あたま)のなかで、ストーリーを先読みし、計算し、状況を組み立てて、犯行と遺留品と目撃者などをリンクさせておく必要がある。
「書き下ろしミステリー作品」ならば、犯人の手がかりや証拠などは、一冊分が一通り書き上げたあとから、出版社にだす前、さかのぼって伏線を忍ばせられる。
 ところが、月々の連載となると、そうはいかない。発売後に手を入れられないからだ。

 私の技巧は、自分でも解決できないような犯行の手口、解決のむずかしい高高度の設定をだしておく。さて、どう解決するか、と考える。たとえば、

ーー北アルプスに単独登山の20代の若者が遭難した。不可解な死から司法解剖すれば、胃袋から海に浮遊するクラゲが採取された。透明性が高いクラゲは心臓も血管もなく、栄養分もなく、人間は食べない。なに一つ犯行として結びつかない。

 作者の私には、解決の道筋がまったく判っていない犯行の設定である。だから、ひも解いていく読者にも犯人像などわかるはずがない。この予想外の設定が、読者の興味を引きつけていたようだ。

ーー解決のヒントは、南極のペンギンは頻繁にクラゲを捕食していることだ。
 雑誌連載だから、後もどりして〈犯行現場は北アルプスでなく、水族館に修正する〉ということがきない。
「失敗したな、こんな乱暴な設定で」と苦しむ。そこで、「逆転の発想」「どんでん返し法」をつかい、私の頭がフル回転させて殺人犯にたどり着く。ストーリーテラといわれる所以(ゆえん)だった。
 それなりに私自身も謎解きに参加できるし、解決できた安堵感は心地よかった。

《それでも、ミステリー作家は嫌いだった》
 あらたな作品は毎度、血なまぐさい殺意を入れる。人殺しは人間の尊厳(そんげん)を失うものだ。その考えから、私はいつも自己嫌悪に陥った。ミステリーは自分の体質に向いていないな、と常づね思いつづけていた。
《サスペンスは人を殺さないで書ける》
 危機一髪をいかに乗り越えるか。これならば、私は自分に合っていた。主役はスーパーマン的な頭脳と、ごく自然に生まれる偶然をどう展開させるか。危機から脱出させていく。臨場感がある。書き手としてゲーム感覚でたのしい。
 ただ、サスペンスも文学作品から縁が遠く、「人間の本質を追求する」という小説家の本来のしごとでなく、たんに売り物の作家だな、という未消化な気持だった。

《とびこんできた歴史小説》
 連載していた雑誌社の女性編集長から、「坂本龍馬を連載で書いてくれませんか」という依頼があった。「えっ。龍馬とか、家康とか、秀吉とかは大物作家の領域でしょう」
 おどろく私の脳裏には、吉川英治、司馬遼太郎、池波正太郎、大佛次郎など次々に大物の名まえが横切った。
「穂高さんなら、良い歴史ものは書けるわよ。取材力と推理力があるから。文章力は高いし」
 女性編集長の煽(おだ)てかもしれないが、私はすぐさま自分を納得させられた。
 さかのぼれば、中学生の時には鎌倉将軍3代、足利将軍15代、徳川将軍15代はすべて漢字で書けるほど歴史ものは好きだった。引き受けた。

『人間は数千年経っても、おなじことをくり返す。歴史から学べば、過去を知り、将来の指針となる』
 私は読者に役立つ歴史作品を書こう、と決意した。

 為政者(政治家・軍人)はとかく歴史を作為する。国民を都合よく誘導するためのプロパガンダである。さかのぼれば明治、大正、昭和(~太平洋戦争)、戦後においてさえも、政治家はじぶんたちに都合よくプロパガンダで国民を誘導してきた。
「疑いのない通説ほど、巧妙なねつ造がある」
 これを破壊するぞ。私の執筆する態度は売れるとか、損得とか、儲け意識とかは土俵外においた。ともかく、歴史の通説の欺瞞(ぎまん)をぶち破る精神であった。

「より史実(経歴、出来事、諸々)に近いところで書く」
 刑事に似た気持ちで取り組む。「これはきっと後世の作り物だ」という人間洞察から疑問がわいてくる。まずは「刑事は現場100回」というミステリータッチの捜査から「取材」を心がける。足しげく現地を訪ねる。子孫や郷土史家から思わぬ話しを拾い上げる。そして検事・裁判官のような立場で、裏付けの史料をあさり、物証を重ね合せていく。ゆるがぬ歴史の真実の新発見がある。

 私にはもう一つの特技がある。純文学は「人間の本質」を追求するもの。「人間って、こんな行為などしない。こんな超人的な活動などできない」という疑問がつねに脳裏で回転している。
 通説と向かいあえば、おおむね「ねつ造」がどこかにある。それが解(と)ければ、裁判所の「逆転判決」という局面におよぶ。私は確証をえたならば、それを通説をくつがえす歴史小説として世にだしてきた。

「明治政府のおこなった歴史のわい曲は、日本国民のためにならない」
 それが私のライフスタイルになった。

 歴史小説は私の体質に合っているし、歴史ものを何年も書きつづけてきた。このたびの「歴史は眠らない」は「歴史教育のわい曲こそが戦争を招いた」がメインテーマである。ぜひとも、大勢の人びとに、日本はこんなひどい歴史の隠ぺいやわい曲やねつ造をおこなってきた、と知ってもらいたい。
「読んでもらい、口コミなどで大勢に広めてもらいたい。政治家がウソで広めたプロパガンダを知ってもらいたい。それには中高校生以上ならば、よみやすく、男女の愛や情や温かさに興味をおぼえるストーリーで展開する。歴史の真実がごく自然に理解できるように」
 むろん私は純文学作家だから、男女の恋心や情感など大の得意とする。まさに「水を得た魚のごとく」イキイキと登場人物を立ちあげている。

 四つの収録作品は、いずれも魅力的な人物を克明に描いた。それを列記しておこう。

・「九十二年の空白」はサンフランシスコ生まれの東京の音大四年生の女子が、望まない瀬戸内の島に教育実習にいくはめになった。魅力的な彼女は、おなじ中学に教育実習にやってきた実に風采の上がらない三十初めの離婚歴のある院生と出会う。問題児をふくめた男女生徒や教職員らが島の中学校で生き活きと活動し、読者が映像で観るように展開させている。

・「幕末のプロパガンダ」は、開港した横浜の富貴楼・女将のお倉はとても艶っぽく、彼女が幕末動乱の歴史をより興味ぶかく誘い込んでくれる。

・「俺にも、こんな青春があったのだ」は、主人公の若き海軍中尉・高間完が、日英同盟にもとづいて地中海のマルタ島に任務ででむく。マルタ島で革命家の女性と禁じられた恋をする。

・「歴史は眠らない」は、太平洋戦争のあと、琉球人女性が学生用パスポートで東京の大学に留学していた。そこで恋に落ちた。妊娠するも日本には法律でとどまれず、男子大学生と涙の別れで琉球(沖縄)に帰国した。沖縄復帰から数十年が経つ。沖縄歴史ツアーの講師の歴史作家と、参加者の女性薬剤師と恋が芽生えはじめた。その実、ふたりの間には三親等の血がつながりがあり、結婚できない。歴史がつくった国境の愛と人間の葛藤ドラマである。
 

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ケネディ元アメリカ大統領&トランプ次期大統領 戦争回避の秘策とは

 アメリカが新大統領にトランプ氏を選びだした。かれは選挙戦のさなかに「24時間以内に、戦争を終わらせるみせる」と自信たっぷりに豪語している。戦争当事国のウクライナとロシア、イスラエルとガザに対して、どんな秘策があるのだろうか。

 歴史から学ぶ。そこでケネディ元アメリカ大統領を思いおこした。1962年秋の「キューバ危機」である。米国の裏庭と呼ばれたキューバに、ソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設をはじめたのだ。アメリカ政府や国民は騒然となった。


 ケネディは「ソ連の脅しには断固として屈しない」とソ連船がキューバに近づけないように海上封鎖した。一触即発で、第三次世界大戦か。世界中のほとんどの人が固唾(かたず)をのんだ。ソ連のフルシチョフが基地建設を断念し、屈辱の撤退となった。

 ケネディが優れているのは、軍部やタカ派を抑えきった指導力である。かたや、勝利に酔うことなく、「忍耐つよく平和の道をさぐろう」とひろく内外に呼びかけた点である。

ケネディ大統領.jpgジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy) 大統領公式肖像(1963年7月11日)            
       
 ケネディ大統領の暗殺事件(1963年11月22日)の半年前となる、同年6月10日にアメリカン大学で講演「平和のための戦略」(THE STRATEGY OF PEACE)がおこなわれた。それをひも解いてみた。

「大国どうしのアメリカとソ連は、いちども戦争をしたことがありません」と言われてみると、そうだな、とおもう。ちょっと意外であるけれど。

「第二次世界大戦中に、最も大きな苦難を味わったのはソ連です。2000万人が命を落としました。国土の三分の一、工業地帯の三分の二が荒廃し、多くの住民や農園が焼失し、略奪の被害をうけました」
 大学生のまえで、ケネディはそう語っている。相手の悼みを述べているのだ。

 といわれてみると、列島が焼野原になった日本の犠牲者(軍人・民間人含む)は320万人である。日本軍の侵略によるアジア人の死者数1500万人といわれている。ソ連はひとつの国でそれ以上の死者を出しているのだ。ケネディの口からあらためてソ連の犠牲の大きさを知る。
 
 ケネディの平和論は、ソ連の悲惨な歴史を前提に語られた。
「戦争は人間が作り出したものですから、人間の手で解決できるはずです。人間は、その理性と精神によって、解決不可能に思われた問題をも解決してきました」
 国どうしの対立は永遠に続かないものです。
 
「一方の疑念が、他方の疑念を生み、新しい兵器がそれに対抗する兵器を生み、危険な悪循環に陥ります。
 両国の違いについて盲目であってはならないのです。同時に、両国には共通する利益があり、両国の違いを解消する可能性のある方策があるのです」

 トランプ氏は選挙中にロシアによるウクライナ侵攻について、「私が大統領なら、24時間以内に終わらせる」と述べている。文字通りに解釈すべきではないかもしれないが、すぐに戦争を終わらせたい気持ちは強いのだろう。

 ケネディーの講演のから、ひとつ該当しそうなものを拾ってみた。
「核保有国(ロシア)は、相手国(ウクライナ)に屈辱的な退却か、核戦争かの二者択一を強いるような対決が起きることを避けなければなりません。核の時代に、そのような対決への道筋を採れば、政策の破綻を招き、全世界の死を望むことにほかならないからです」
 ここらはキーポイントになるだろう。

             *

 戦争ははじめるよりも、終わるのがむずかしい。それはかつて日本が経験している。太平洋戦争で1945(昭和20年)春には、南洋諸島からのシーレーンは断ち切られ、生活物資は入らず、日本列島の主要都市は連日の空爆で次つぎと焼野原だ。一億総玉砕が現実か。そう思えるほど国民の命が瀬戸際まで陥ってしまったのだ。

 1945年7月26日に連合国からポツダム宣言(13箇条)がだされた。受託すれば、即時降伏・終戦である。ところが昭和天皇の御前会議で、終戦への覚悟が定まらなかった。
 鈴木貫太郎首相が記者会見で「黙殺」と発言した。
「日本が拒否」とうけとられてしまい翌月には広島・長崎の原爆、ソ連の千島列島の侵攻となった。ちなみに、ドイツはヒットラーの自殺である。そして、第二次世界大戦は終結した。

               * 

 アメリカは民主党が戦争を起こし、共和党が戦争を終わせる。

 ここで注目されるのが、ウクライナのゼレンスキー大統領が、「トランプ氏が重視する『力による平和』はウクライナに真の平和をもたらす。共に(和平を)実行に移すことを期待する」と述べている点である。これはなにを意味するのだろうか。

 トランプ次期大統領がロシア・プーチン大統領から「今後とも核は使わない」と言質をとれれば、ウクライナ国民の恐怖心の一端をはらうことになる。それで状況がうごく。つまり、ロシアがアメリカに核兵器を使用しないと約束すれば、核のパワーバランスがはたらく。ロシヤはもはや約束を破れない。もし破れば、米露の核戦争となってしまう。
「ロシアの核の脅しには断固として屈しない」と貫いてきたゼレンスキー大統領としては、ウクライナ国民の生命・財産を守る一翼がこれで明確に確保できたことになる。だから、いくつか提示される和平案には段階的に歩み寄りができるだろう。
 
 ケネディ元大統領の講演「平和のための戦略」のなかの一節として、こういう。
「たがいに寛容な心をもち、実現可能な平和に目をむける。関係者全員の利益にかなう、具体的な行動と、有効な合意の段階的な積み重ねによる平和です」
 争いを公平に解決する手段が平和である、とケネディはいう。

           *  

 イスラエル・ガザの戦争は紀元前の旧約聖書が起因だから、自然崇拝(神・仏・太陽・富士山・キリスト行事)型の日本人には予測がつかない。
                          (了)

 

トランプ氏の次期大統領で、琉球王国(沖縄問題)の再熱か。まさに「歴史は眠らない」

 穂高健一著「歴史は眠らない」の出版と時同じくして、トランプ氏が次期アメリカ大統領に決まった。
 返り咲いたトランプ政権の再来で、この先はなにが起きるかわからない。世界じゅうが戦々恐々とし、トランプ氏の言動が最大の関心事になっている。

 アメリカ大統領の歴代の特徴として「正義」が大好きだ。戦争にしろ、平和にしろ、この正義という大義が大統領の言動の前面にでてくる。
 トランプ氏から、「琉球国の復古問題は未解決だ」と150年来の問題をゆり起こす、発言が飛びだすかもしれない、と私はおもった。そうなれば、まさに「歴史は眠らない」となる。

琉球王国.jpg 
  写真(ネットより)=琉球王国のシンボル「守礼門」

・ 18代米大統領グラントは明治初期に琉球国問題で調停の労をとった。

・ フランクリン・ルーズベルトは太平洋戦争の参入から沖縄戦へ導いた。

・ マッカーサー元帥は戦中・戦後の日本に大きくかかわった。

・ 第37代ニクソンは沖縄返還協定で、有事の核兵器持ち込みの密約をしていた。

・ 次期大統領トランプは、なにが予測できるだろうか。
 
              *  

 ある日、突如として、トランプ政権から、国際条約の「ウィーン条約五十一条」による琉球国の独立をいいだす。明治政府による「琉球処分」は国際法違反である。この条約は150年経とうとも、時効がないのだ。
「琉球人による琉球国の復興、そして琉球政府をつくる」
 そんな歴史問題を持ちだされると、日本政府や国民は予測しておらず、慌てふためく。これでは「危険」な状態である。

 危機と危険は違う。
「危険」とはなにも考えず、たとえば日本政府は自分の都合よく考えて、日米の防衛協力関係からして「沖縄から米軍が手をひく。絶対にありえない」と盲目的に信じて、まったく備えがない。それが「危険」な楽観論である。

 トランプ大統領が、アメリカ国力最優先で、海外駐留コストの大幅削減から、沖縄米軍基地を撤兵する。「政治の世界に絶対はない」という予測はないのだ。
 近いところでは1992年にフィリピンが米軍との地域協定を破棄し、米軍が全面撤退した。その事例すらもある。

               *   

「琉球国は独立させて、琉球の将来は琉球人みずから決めるべきだ」
 三期目のない剛腕なトランプ大統領が「正義で名をのこす」と日本に強烈に迫ってくることも予測もできる。

 おおむね歴代アメリカ大統領のブレーンは、世界じゅうの各国の盲点や強さを研究する。今回は、トランプ氏の側近が、日本研究者から、明治維新政府がまだ未熟なころ独立国・琉球を軍事圧力で日本が強奪し、沖縄県に組み入れている。この「琉球処分」は国際慣習法の違反であり、時効がないから、現代でも明治までさかのぼり、解消できる。その問題をとりあげて大統領に進言する。
 そしてトランプ大統領の「正義の発言」になることも予測できる。

 かたや、日本の政治家や官僚は、学生時代に「琉球処分」という用語しか習っていないし、琉球問題の本質がわかっていない。ただ慌てふためくだけである。
   
 危険に対して「危機」とはなにか。それは過去のできごとから歴史を学び、今後(未来)において想定されるいかなる変化にも対応も能力を備えることである。ここでいう危機とは、琉球問題の真の歴史をしっかり学ぶことである。
 
ペリー琉球.jpg この琉球問題の原点は、1854年にペリー提督が琉球王朝の首里城(イラスト)で、「琉米修好条約」を締結し、アメリカの議会でそれを批准した。琉球国を国家承認したのである。他に、フランスも、オランダも、琉球国を独立国として承認したのだ。

 三カ国が琉球を「国家承認」しているのに、明治維新後の未熟な政府が、米仏蘭との話し合いもせず、「琉球処分」という軍事威圧で、国際慣習法に違反して奪いとったことである。
 この琉球処分が日米中(清)関係で国際問題になり、日清戦争、日中戦争、太平洋戦争、ポツダム宣言まで、直接・間接にずっと尾を引いてきた。
 
 18代米大統領グラントが、清国を訪問したおり、李鴻章(りこうしょう)に要請されて日清間の調停に乗りだした。まずグラント元大統領は日本側の明治天皇・伊藤博文・井上馨と面談したうえで、1880年には琉球諸島の二分割案を提案した。

ーー沖縄本島周辺は日本として、宮古列島、八重山列島は清に渡す。その代償として中国内で欧米なみの通商権を得る。(分島・増約案)。
 
 日本と清国の間で、この分割案が合意に達した。翌1881年には、日清の代表者が石垣島で調印するまでに至った。
 ところが清国の国内からは、グラントの分割ではなく、「日本からの琉球国の完全復興」という世論が盛りあがった。
 調停寸前で、日清間であらためて琉球国の独立問題が協議された。決裂する。歴史がすすみ日清戦争の火種のひとつになってしまった。

 日清戦争で勝利した日本は、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章による下関条約が結ばれた。日本は台湾を植民地にし、遼東半島を割拠し、さらに厖大な戦争賠償金を得だ。
 しかしながら、清国の李鴻章は琉球国問題にたいして妥協せず、下関条約にこの問題は組み込まれず、未解決のままの状態となった。
 
 ここらの歴史は、現代の日本国民は知らないのだから、
「明治天皇がいちどは宮古列島、八重山列島を清国に渡すと承諾した」
 えっ、それは教わっていないぞ。おどろきだというだろう。現政府や関係者が隠しても、歴史的事実は消えないのだ。

              * 

 ところで、アメリカ合衆国と中国は歴史的にはとても仲が良いのだ。ほとんどの日本人にはその認識が欠如している。

 日清戦争のあと「三国干渉」が起こった。それを契機にして欧州列強および日本が広大な中国領を割拠する競争に狂乱した。アメリカはそれをしなかった。

 日露戦争のあとから日米の仲が悪くなり、やがて日中戦争が勃発した。中国軍が貧弱で日本軍の拡大が目覚ましかった。中国は南京が陥落したあと首都を重慶に移した。日本軍は夜間の空爆のみで、陸上軍がさし向けられなかった。
 アメリカのルーズベルトは軍事力のない中国政府に加担し、武器、航空機、弾薬を次づきと支援しつづけた。さらに有能な軍事指導者を送り込み、近代的な軍隊組織づくりが為された。
 こうなると、短期決戦のつもりだった日本は五年におよんでも、日中戦争の決着がつけられず見通しも及ばず、中国と米軍と両面で戦う太平洋戦争に突入した。

カイロ会談.jpeg 太平洋戦争で日本劣勢となると、ルーズベルト大統領の提唱でカイロ会談が開催された。(写真の左から 蒋介石、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相)。三国において、「琉球王朝」の日本の国家強奪は国際法違反である、と共通認識を確認した。

 アメリカ・ルーズベルトは「歴史の不正を糺(ただ)す」という正義感から、日本から武力をもって琉球を切り離す、と中国(蒋介石)に約束した。そのうえで、沖縄戦へと動いた。太平洋・陸海空軍の殆んど55万人の米将兵という、ぼう大な戦力を沖縄へむけたのだ。

 連合国はポツダム宣言(13箇条(その一つがカイロ宣言を含む=沖縄は日本領でない)を降伏条件として日本に突きつけた。
 日本は沖縄を手放すという条件を承知で、ポツダム宣言を受諾した。1945年9月2日に軍艦ミズリー号で、降伏に調印した。ここにおいて琉球(沖縄県)が完全に日本国領土ではなくなった。
 沖縄・首里に琉球政府ができた。日本の施政権は及ばないし、日本憲法の影響を受けにない。「琉球政府が独り立ちできるまで、アメリカが沖縄を統治する」と琉球(沖縄)に星条旗が掲げられたのだ。

 アメリカは、敗戦国の日本はいっとき国際連盟の常任理事国であったが国際連合には加盟させず、中国を戦勝国として国連の常任理事国に推薦したのだ。
 
             *
 
 共産主義を嫌う米国は冷戦下にあっても、ニクソン大統領が、日本の頭越しに米中国交回復を成した。
 こうして長い歴史をみても、米中は相性が良く、仲が良いのだ。

 トランプ次期政権が米中の経済問題の障壁を取りのぞけば、政治的には米中の蜜月時代に突入するかもしれない。「昨日の敵が今日の友」となる。そして、トランプ氏が日中の障害となってきた「琉球処分」を解消することがアジアの安定につながる、と主張する。
 
「アメリカ政府が佐藤栄作元首相との間で、琉球政府の立ち合いもなく、1972(昭和47年)に沖縄を日本に渡したのは合法性がない。当時のアメリカ政府の判断はまちがっていた。琉球国にもどすのが国際法に沿うものだ」
 トランプ大統領ならば、大胆に、自国の過去の歴史修正も厭(いと)わないかもしれない。21世紀の琉球新政府は、基地経済から脱却し、欧米およびアジア各地から優良企業を各諸島に誘致し、みずから国家運営するべきだ。その方が豊かになれる。
 600年も戦争なく自由貿易港だった歴史ある琉球国ならば、こんごの自国防衛においても、琉球人の判断によればよい。それがむしろアジアの平和になる、とトランプ氏ならば主張してくるだろう。

 私たちは学校教育で、正しい琉球処分の知識を教わっていない。ここはいちど危機管理から「歴史は眠らない」を読まれた方がよいとおもう。

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 題名「歴史は眠らない」(左クリックでアマゾンに飛びます)

著者:穂高健一

出版社: 未知谷(みちたに)

定価 : 2500円 + 税

社会不安・闇バイトの強盗は、西郷隆盛の御用盗に類似する。拙著「歴史は眠らない」の「幕末のプロパガンダ」より

 首都圏には「闇バイト」による暴力的な住居侵入による金品の強奪事件が多発している。ここ連日の報道が社会不安を高めている。
 2年前に逮捕された広域強盗「ルフィ」という犯人たちとはちがうようだ。新たな犯人グループだろう。こんな凶悪な事件が、この先も底なしに起こるのだろうか。

 日本はアメリカのように銃社会ではない。深夜にバールやハンマーで侵入する凶悪な犯人に対し、わが身は無抵抗である。もとより治安で拳銃をもてる職業といえば、警察(および自衛隊)のみだ。
 だから事件が起きないと、警官やパトカーは駆けつけてくれない。(とはいっても、私たちは拳銃社会をのぞんでいないけれど)

                *

 11月10日発売の穂高健一著「歴史は眠らない」(出版社:未知谷)のなかに、中編歴史小説「幕末のプロパガンダ」が組み込まれています。薩摩御用盗(さつまごようとう)が物語の中心に座っています。
 この薩摩御用盗とは、かわら版屋がつけた呼称である。

 幕末の江戸に、闇バイトよりも凶悪な強盗事件が起きたのである。300人から500人のグループがそれぞれに徒党を組み、江戸および近郊の民間の家に押し込み、鋭い日本刀を家人に突きつけて金品を脅し盗る。抵抗すれば、容赦なく殺す。帰りまぎわには婦女子を強姦する。

 かれらはあざ笑って堀川にうかべた小船で、櫓をこぎ、三田(現在・港区)の薩摩屋敷に逃げこんでいる。奪った金品で武器を買うか、かれらの遊興費であった。
西郷隆盛.jpg 

             *  

 現代の歴史家の多くは薩長史観である。西郷隆盛といえば英雄扱いで、社会の混乱をおこした江戸騒擾(そうじょう)は倒幕のための必然だという。これはおかしい。古今東西、古来から現代まで、無辜(むこ)の一般市民をねらわないのが、あるべき道徳・倫理だ。
 
 イギリス市民革命、フランス革命、アメリカ市民(南北)戦争、いずれも市民のための国家(国民主権)をつくる革命であり、その過程では暴動もおきている。
 それに比べると、西郷隆盛は徳川政権を島津政権に変えようとした私欲だった。かれら犯罪集団は、武器をもった武士階級は危ういので狙わず、日本橋かいわいなどの無抵抗な一般市民の商人たちを襲っているのだ。 

 西郷を英雄視する学者は、「慶喜が大政奉還を成したから、西郷はすぐさま騒擾の中止命令を手紙で送った、と擁護(ようご)する。これは詭弁(きべん)である。
 数百人の暴徒が、一度や二度の手紙でとまるはずがない。そんな騒擾を仕掛けること自体が、非人間性・非道徳性が問われるのだ。

              *

「幕末のプロパガンダ」では、江戸騒擾の詳細を展開しているが、ここで「薩摩御用盗」の史実をすこしさかのぼってみよう。
 
 慶応三年十月十四日に、十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還した。時おなじくして、京都にいた西郷隆盛が江戸騒擾(そうじょう)を企てて、藩士の益満(ますみつ)休之助、伊牟田(いむた)尚平を江戸・三田の薩摩屋敷に送り込んだ。

 伊牟田は、万延元年(1860年)12月に、アメリカ公使館員の有能な青年通訳ヘンリー・ヒュースケンを暗殺した。西郷は殺人犯と知りながら江戸騒擾の主謀者として送り込んだのである。
 
 凶暴な伊牟田と益満があつめたのは、水戸天狗党の流れ者、攘夷思想の脱藩人、無法者、入れ墨男、凶状持ち、ならず者たちである。かれらはまるで暴徒のように二か月半にわたり、連日、首都圏で押込み強盗をくりかえした。

 現代の闇バイトグループが3-4人だとすれば、10倍の強盗団グループがあらゆるところに出没し、凶悪な強盗をくりかえす。その社会不安は想像を絶する。

 当時の徳川幕府は世界一の治安の良さであった。それゆえに、江戸の治安を守る南北奉行所の与力、同心はほんのわずか少人数で、ふだん「岡っ引き」らに市中を見回りを任せているていどだ。取締りが後手、後手にまわった。薩摩御用盗は、番屋(現代の交番)にまで銃弾を撃ち込んだ。

 あげくの果てには、伊牟田尚平が裏で手をまわし篤姫(薩摩出身の将軍のもと正室)のお抱え女中に、江戸城二の丸を放火させたのだ。二の丸は全焼となった。

 薩摩御用盗のこれみよがしのやりたい放題に、小栗上野介忠順(ただまさ)など重臣たちは激怒した。フランス式の幕府陸軍が三田の薩摩屋敷を焼き討ちした。
9dk2.jpg「責任者の慶喜が、こんな大騒動の江戸にいなくてどうする。政権は返上したのだ。大坂城などもはや必要ない。城を爆破して慶喜をつれもどせ」
 小栗忠順が、陸軍の知恵者の浅野氏祐(うじすけ)を大阪にむけた。かれが大坂城に入った日の夜に、慶喜は東帰する。そして数日後、大目付の妻木頼矩(つまきよりのり)が薩長の兵士を大坂城に招き入れておいて、火薬庫を大爆破させたのだ。

 徳川宗家の慶喜が、江戸の危機管理の必要性から江戸に呼び戻されて帰ってきた。

 薩長のプロパガンダで「慶喜は逃げた」といい、西軍の大名を薩長がわに引き込む情報操作であった。それを仕掛けたのが大久保利通である。

 現代ではいずれの歴史書も、「幕末のプロパガンダ」から解放されず、うのみにして信じているのだ。

 【最後に、あなたに質問です】
 あなたが元将軍・慶喜の立場ならば、鳥羽伏見の小規模な戦場の決着がつくまで、勝ち負けに拘泥し、現地に踏みとどまりますか。
 私たちは災害列島の日本に住んでいます。だからこそ、瞬時に起きた危機の管理はとても重要です。慶喜のシュミレーション(疑似体験)しなから、私ならば、どうすると考えてみる。それ自体が『過去から学び、将来を考える』歴史思考です。


単行本「歴史は眠らない」(出版社:未知谷)は四編の中編歴史小説が組み込まれています。こちらを左クリックしてください。

                        「了」

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