歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史エッセイ】③ オランダ風説書を知らずして、幕末歴史小説を書くべからず

 朝日カルチャーセンター千葉で、月に一度は「幕末・維新史」の講座をもっている。いまは、私の著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)を教材にしている。むこう3か月にわたる連続講座の予定である。


 主として、歴史小説の作品を作るうえで、基礎になった資料とか、創意とか、創作(各章)の組み立て方とかを語り、同作品の認識をより深めてもらう趣旨である。

 一般に、私たちは書籍を読んでも、記憶の底に残るのが5-10%ていどくらいであり、全体が長々と残ることは、特殊な場合以外ほとんどない。
 その5%のなかみが、人物への感動、強いドラマ(出来事)、思想、ある印象深い場面、教示的なことばなどが、読後感の良さとともに残るのである。


 私の経験からいえば、著者から生の声で聞いた裏舞台は何年経っても、わりに残っているケースが多い。若いころでは、「小説はそんなふうにして創るのか」というものが断片的にしろ、長く記憶に残り、プロ作家になっても役立っている。

             *

 著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)について、8年前から着想があり、取材をつづけていた。
 日本の歴史学者は信用ならず、ウソが多いと、直感的に思った。となると、海外の情報を駆使して書こうと考えた。

「一つずつ、歴史的なできごとは海外側から裏を取ろう、それは刑事が裏を取る捜査とおなじ手法」
 それはすべて事実かな、本当かな、と疑問を持つことだった。この意識で、とくに5-6年まえから海外資料の取り込みをはじめた。

 当初は語学の面とか、資料収集とかには難があった。手探りで、根気もいる。ただ、IT時代の進化があり、古い英字新聞でも、多言語(英・仏・オランダ・ロシア)の書籍でも、グーグルをつかえば、日本語への翻訳が瞬時にできる。これは便利だった。

 このコツをつかむと面白いほどすすむ。それがやりがいにもつながった。

「日本の歴史学者は、ここまで、よく平気で、ウソを教えられるな」
 そんなおどろきが年々高まってきた。日本側と欧米側と、認識が真反対だったりもした。
「ごまかされたり、隠されたりすると、人間は腹も立つ」
 そんな気持ちがしだいに強まった。


 明治政府以降は、薩長閥の御用学者の歴史ねつ造の塊で、不都合なことは国民に知らせていない。ときには事実の方が少ないのではないか、とすら思った。

             *

 今回は、德川幕府の首脳陣が、どれだけオランダ風説書から国際情勢を持っていたか。その実例を示した。主として「1852年・1853年の別段風説書」である。

「えっ、そこまで知っていたんですか。ぼくは知らないことだらけだ」
 朝日カルチャーの受講生は、一つひとつにおどろきの声をあげていた。

「当時の日本の国際情報の収集力はすごいよ」

 実際はぼう大な情報ですが、その一部をここに記してみます。 


浦賀港の渡船 (神奈川県)


『 別段風説書の抜粋 』


・ 最近の情報(1852年)では、アメリカ合衆国より軍艦を派遣し、交易をおこなうために、日本に渡来するということである。米国大統領親書を提出し、また漂流民を連れてくるようだ。
 この使節は、民間貿易のため日本の1-2の港の利用許可をもとめる。適当な石炭貯蔵の港を用意して、カルフォニアと中国の間を往来する蒸気船に役立つために、日本に願い出る。

・合衆国の軍監で、現在、中国附近に展開しているのは、次の通り。
 シュスケハンナ号(軍用蒸気船)、サラトガ号(コルベット)、フリモス号(コルベット)、プリモス号(コルベット)、バンダリア号(コルベット)を江戸に送れと命じられている。

・艦隊司令長官はオーリックであったが、ペリーという者に交代した由である。


・アメリカ東海岸より出港するのは次の通り。
 ミシシッピー号(蒸気外輪船・旗艦艦長・艦隊司令ペリーが乗船)プリストン号(蒸気船・指揮官はシドネイ・スミット中尉)、ペルリ号(輜重船・艦長ハイルハスキ)、サプライ号(輸送船・アルチュル中尉)である。

・ある情報では、陸軍、攻城武器も積んでいる。(現代の海兵隊か)。ただし、出帆は1852年4月、(嘉永5年3月)よりも、遅れるだろう。


「アメリカ艦隊が喜望峰を回ってアジアにやって来る。途中で、船舶機関故障が多々あり、浦賀にたどり着いたペリー艦隊は4隻です」
 私は補足説明をした。


・ オランダとイギリスは海底電設設備の計画が始まった。これはフランス・イギリスと開通したものとおなじ(英仏間の海底ケーブルはすでに別段風説書で日本に連絡済みである)


・ フランスはナポレオン三世が国政を掌握した。昨年定めた、国政改革は廃止した。これは国民大衆に助けられたものである。(民主革命)


・ トルコ国境で、オーストリア軍が介入してきた。全般的に治まっていたヨーロッパ諸国の平穏が破られようとしている。(クリミア戦争の予兆)


・ オーストリアに敵対してミラノ(イタリア)で市街戦があった。すぐに鎮圧された。


・ アメリカのエリクソンが蒸気機関に関した重要な発明をした。蒸気機関では、水を用いるが、水の代わりに空気を用いて、これを熱して運動力をえる工夫をした。通常の薪炭が五分の一になった。


「黒船が来て、蒸気船を初めて知ったと教える。こんな嘘が現代の日本の歴史教科書です。阿部正弘たち江戸の幕閣は、もはや蒸気機関の構造までも知っていたのです。なぜ、日本の学者は、日本人に真実を教えないのでしょう」
 私はこんな注釈も加えていた。

 ・アメリカで今年3月25日に、万博が開かれた。
「別段風説書には、万博の詳細が書かれています」


・ ドイツには多くの国郡があり、共和国にしたいという願望があるが、なかなか実行できない。ドイツ制をプロシアで新たに決定し、ドイツ国内で実施したところ、1-2カ国は異議なく認めた。この方式で、プロシアの国王がドイツ国王の任に当たる。

「プロイセンとの日普修好通商条約はやや遅れて結ばれます。(3年後の1861年)。この交渉過程で、外国奉行・堀利熙(としひろ)が、老中の安藤信正と言い争い、割腹自殺しています。堀利熙は阿部正弘に見いだされた有能な人材でした」


・ エジプトはアッバツ・パシャの支配するところであるが、まるでトルコの属地になったかのように見える。
「日本と関係ないようなエジプト、オーストラリアの巨大な金鉱発見、デンマーク海軍のこと、ハンガリーが戦争の危機など、別段風説書は他にも国別に細かく報じられています」


・ 南北アメリカをつないでいるパナマ地峡を切り崩す件で、関係国がロンドンで会議を開いた。この切通し(運河)は、大型船が通れるように、幅が広く、底深いものになる。


「徳川幕府は、こうしたパナマ運河をつかえば、西洋と日本が近くなる。もはや、世界自由貿易が、スエズ運河、パナマ運河で、地球規模になっていく、と認識していたのです。清国のようにアヘン戦争で負けてからでは、不利益な条約が結ばれてしまう。だから、開国と通商は、日本側から先手を取って、条約締結の交渉を持ちだしたのです」


「たとえば、フランスはワインの輸出国です。通商条約の交渉のテーブルに乗ると、日本側が酒類に輸入関税を35%かけてきた。清国は5%だ。日本の外国奉行はもし嫌だったら、日仏通商条約は結ばなくてもいい、という強気の態度です。フランスは約1か月間ほど粘ったけれど、とうとう妥協させられた。他の4カ国も、ことごとく輸入関税は20%にさせられた」

 外国の当時の資料を読み解くと、日本人はしたたかだ、欧米はことごとく不平等条約にさせられた、と怒りまくっています。
 それなのに、日本の歴史教科書では、日本側の不平等だと教えている。ここらの細部は「安政維新」(阿部正弘の生涯)に、くわしく描かれています、と補足した。

               *

「国力は人口構成がとても大切です。オランダ風説書は、それも伝えています」

・ アメリカ合衆国の人口(1850年現在)、白人1963万人、有色自由人42万8000人、奴隷320万4000人、総人数2326万2000人。

「広大なアメリカの人口は2326万です。日本の嘉永時代は3000万人を越えていました。日本がいかに過剰人口で、食糧難だったか。この数字からわかるでしょう」


 餓死ほど、人間につらいものはない。母親がわが子を亡くす、家族が餓死で全滅。路上には死骸の山。食糧不足から伝染病が流行する。これが当時の現実だった。

            *

【 ここから、穂高健一の説明です 】

 政治家・阿部正弘は、民の飢えに最も心痛めていた。それには食糧輸入で、飢餓列島から解放される、という施策を取った。
 水戸の徳川斉昭が過激な攘夷をふりまわしても、阿部正弘は日本人のいのちを救う、と一途に開国にすすんだ政治家だった。

 阿部正弘の信念は明確です。かれには私欲、自分の立場の損得などなく、備後福山藩のためでもなく、賄賂は一切もらわず、ともかく日本国民のために尽くす姿勢を貫いた。その面では稀有な天才的な政治家だった。
 だから、22歳で老中になり、享年39歳まで日本のいのちを任せることができた人物です。


「リンカーンにも、勝るとも、劣らない、政治家だった、と私は考えています」

 安政の5か国通商条約が結ばれたあと、幕末、明治時代、大正時代にはなんども天候不順の凶作が起きています。しかし、餓死者はいちども無かった。貿易で稼いだお金で、食品が購入できたからです。

「開国・通商から160年経った今も、横浜、神戸の国際貿易港が最大限に活用されて、日本を豊かにしています。植民地にならず、100年、200年先をみつめられる政治家がうまれたわが国は幸せです。私たち日本人の誇りです」


「鎖国にもどせ、という『尊王攘夷』が最高の素晴らしいイデオロギーだったと、ごまかされないでください。德川幕府を倒すには有効な戦略だったかもしれません。しかし、家族が飢えて死ぬ、死臭の世界にもどれ、という鎖国主義は、人間の命の尊厳さを欠いています」

 
 水戸藩がつくった尊王攘夷論が、長州藩によって過激攘夷論へと拡大しました。これは粗野な思想です。国民・庶民の安心できる平和な暮らしよりも、真反対の戦争の道へと進む道になったのです。
 いまの日本には戦争など必要はないのです。英雄なども必要としない。英雄史観で尊攘論を正論とすれば、危険思想に結びつきます。

 いまや、戦争を否定する、正しい歴史認識で教えてくれる学者が求められる時代になってきました。

 ペリー提督来航の前をさして知らずして、オランダ別段風説書の内容も知らず、尊王攘夷論で幕末歴史小説を書くような薄っぺらな作家は必要としない時代に入ってきたのです。
「それを自戒としています」
 私はそのように受講生に語った。

【歴史エッセイ】② 江戸城(徳川家)・皇居(天皇家)、いったいだれの財産なの?

 歴史作家の目で、とき折り、江戸城(皇居)の周辺に出むくことがある。

 安政時代の「江戸大地図」には、江戸城が『御城 西御丸』である。徳川幕府が倒れたあと、明治時代の「実測東京全図」では『皇城』である。そして、太平洋戦争が終結したあと、昭和の地図は、『皇居』と表示されている。

 わずか150年余年で、御城、皇城、皇居、と呼称がちがってきている。

            *  

 江戸城はもともと大田道灌(どうかん)が築城したが、上杉氏に暗殺された。上杉、北条氏の支配になった。さらに、豊臣秀吉の小田原城攻めのあと、德川家が駿府から江戸城に入ってきたものだ。そして、お城は段階的に拡大されて、周囲4キロの日本最大の面積の城郭となった。

 約265年間は徳川家の財産だった。

 戊辰戦争のさなか、徳川幕府が無血開城し、新政府軍に接収された。天皇が東京に移り住んだ。それを奠都(てんと)と言い、宮城(きゅうじょう)となった。
 この段階で、江戸城の所有権が徳川家から天皇家に移ったのだろうか。そこらは、どうなっているのか、とわたしは単純な疑問をもちつづけていた。

 こんな素朴な疑問が、歴史の楽しみ方のひとつでもある。


 わたしは50代、60代のころ、年2回はフルマラソン大会に出場していた。おおくは3時間40分台のタイムだった。登山で足腰が鍛えられた脚力があったのだろう。

 雨以外の毎日は、平均して20キロくらい走っていた。ときには自宅の葛飾から皇居まで走り、そのまま皇居一周約5キロをまわり、葛飾にもどってくる。約40キロで、フルマラソンの距離くらいである。
 道々、信号で止められるのは面倒だが、都心部の変化はけっこう楽しめたものだ。
 

 ただ、第2回東京マラソンに出場したあとは、抽選に当たらず、しだいにマラソンから遠ざかってしまった。いまは止めて、日々のウォーキングていどだ。
 それでも、ある種の親しみから、銀座、日比谷にでむく用があると、ぶらり江戸城周辺を散策することがある。

           *    

 お濠には四季折々の変化がある。かたや、そうした光景がかつての江戸城の大奥とか、江戸城の無血開城とか、なにかと私を歴史のなかに導いてくれるのだ。
 それが歴史作品の執筆上の関心事や着想にもつながったりする。

 江戸城の無血開城といえば、戊辰戦争のさなか、三田の薩摩屋敷における勝海舟と西郷隆盛の話合いでおこなわれた。その直前には、山岡鉄舟が駿河の国へ出むき、西郷との会談で、江戸城の開城の下地が作られていた。
 よって、江戸城は戦禍がなく、徳川家から新政府軍に引き渡された。これが通説である。

              *

 通説はとかく嘘やつくりものが多い。あるいは、ねつ造がまかり通っている。そういう目で、歴史を読み解(とく)くと、あらたな発見がうまれることがある。

 江戸城の無血開城は、その実、大奥の篤姫(あつひめ)や和宮(かずのみや)、このふたりを中心とした上臈たちの努力で、戦禍がまぬがれた、とわたしはおもっている。
 もし、大奥が戦場になれば、彼女たちの大切な豪華なきもの、家財、日常品がことごとく焼失してしまう。
 女性としてはゼッタイに許せない、というつよい心理がはたらく。

 徳川幕府のなかで、代々、大奥の正室はつよい権限をもっていた。正室の顔は、平伏する老中すら直視できなかったという。
 大奥の女性権力者は、たやくすく男・勝海舟や西郷たちの下級の者どもに従わなかっただろう。

           *    

 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸にもどってきた慶喜が、家茂の正室だった和宮に、京都の朝廷への取り成しを頼んでいる。孝明天皇の妹だった和宮しか、江戸城を守れないと判断したのだろう。
 当然、島津家出身の篤姫は、家臣の西郷につよい圧力をかける。

 この段階において、徳川幕府はまだ無力でなかった。小栗上野介や榎本武揚などは戦意は高い。勝や西郷は、篤姫と和宮の了解が得られなければ、勝手に江戸城の開城など、男どうしで決められなかったはずだ。
 
 現代でもそうだが、居住や転居にたいする妻・女性のこだわりは、男性の非ではない。女性の意見で大半が決定される。つまり、お家主義の最大の権限は女性にあるのだ。
 女が影で男を動かす。時代が変わっても、歴史が転換しても、規模の大小も問わず、女の真底の強さは変わらないだろう。
 
           *
 
 江戸城(皇居)は、はたしてだれのものか、とわたしの思慮はもどってきた。大田道灌の子孫か。徳川家か。天皇家か。この素朴な疑問がなおもつづいている。ちょっと調べてみた。
  
 江戸城が無血開城した年、会津が陥落すると、明治天皇が京都から東京に行幸した。2度目の東幸(明治2年3月)で、住いを京都御所から東京城に移した。
 それは遷都(せんと)でなく、東京奠都(とうきょうてんと)だという。つまり、岩倉具視や大久保利通たちが、首都を東京としてしまった。
 政治家たちは、どの時代も、「天皇を利用した」とは一言もいわない。なし崩しに既成事実を作ってきたのだ。

 明治2年には「版籍奉還」(はんせき ほうかん)によって、全藩(日本中)の土地が天皇に返された。それは国有か、あるいは天皇の私有か、と意見が分かれるところだ。

 岩倉具視らは、国家の行政が干渉できない「皇室財産」をきめた。国家予算の決議が及ばないものが皇室財産となった。それによって、世界の王室のなかでも、最大級の資産となった。

 明治天皇は、ボロボロになった辞書ひとつ、国の財産だからと大切にし、買い替えるにも、自分の意志ではいかなかったという。
 皇室財産とは、天皇が直接管理でるものではなかったのだ。

 現在も、そうではなかろうか。
 
 時代はいっきに飛んで現在をみると、東京の皇居は115万0437㎡で皇室財産となっている。同様に、京都御所は20万1000㎡である。

 戦後の日本国憲法では、皇室の財産は国に属する、となっている。つまり、皇室財産は大規模に国の財産に転換されたのである。

 多少は納得できた。国有財産とは国民の財産だから。

                        (了)
  

【歴史エッセイ】① 黒船来航は、明治政府の宣伝に使われた。碑文は伊藤博文である。 

 年末年始は、出版社、講座の主催者、諸々のひとたちが正月休みに入るので、作家への電話やメールがぴたり止まる。講座・講演もない。家族関係をのぞけば、わたしには年に一度ともいえる自由な時間が確保できる。
 むろん、頭のなかは2年後から始まる新聞連載(一年間・日刊)があるし、その資料の収集や読破なども、如何に為すか、と渦巻いている。
 それはそれだ。わたしには貴重な自由な時間だから、読書ざんまい、と行きたいところ。それも一つの方法だが、普段できないことがやりたい。そんな思いで考えた。
 
 わたしは毎月、エッセイ、およびフォト・エッセイ講座で、受講生の作品をみている。ときには、わたし自身もエッセイを書いてみたい気持ちにとらわれることがある。しかし、ふだんの生活は締め切りが多い日常であり、そんなこころの余裕がない。

 そこで考えたのが、テーマなど関係なく思うままに書く、「歴史エッセイ」である。どんな内容になるか。さして構想はない。作家だから、きっと読者を意識したエッセイになるだろう。

           *

  わたしは最近のFB(フェースブック)で、簡略に紹介したが、三浦半島の久里浜に歴史散策で出むいた。湾曲の海岸には、ベリー提督上陸記念碑がある。それは実に巨大で、ばかでかい、という印象であった。

 おそらく人間の背丈の2倍半ていどか。その碑文の揮毫(きごう)は伊藤博文である。だれもが知る、初代内閣総理大臣で、薩長を代表するひとりだ。

「黒船の来航で、徳川幕府の要人はオロオロして、ベリー提督に蹂躙(じゅうりん)されて、開国した」
 ペリー提督は日本の侵略者扱いだ。
 どの教科書においても、ペリー提督は鬼の面を被ったように、とてつもなく人相が悪い。そんな悪しき人物ならば、ひっそり歴史の片隅に隠しおくものだ。
 歴史的に知らしめる必要があるならば、三浦半島の片隅に、小さな史跡の碑にするだろう。ところが、ペリー提督の上陸記念碑はまるで逆だ。靖国神社の大村益次郎(長州藩)の像のように、巨大な石碑だ。これはなにを意味するのだろうか。

 明治政府は、なぜペリー提督の上陸を賞賛をする必要があったのか。

 明治政府の政権の柱となったのが、薩長の下級藩士たちだ。かれらは幕末に外国人を聖地の日本を踏ませるな、と過激な攘夷運動を展開している。
 本来ならば、異人・ペリー提督の上陸など、とんでもない破廉恥なできごとだったはずだ。
 
 しかし、薩長は、弱腰外交の徳川幕府を倒幕する必要があった、とストーリーを作った。それにはペリー提督に脅える幕閣を演出させなければならない。鬼は大きいほど威力がある。
 薩長の下級藩士が、徳川政権を倒した。そして、西洋と肩を並べる軍国主義の強力な国家をつくった、と展開する。

 明治34(1901)年7月14日に、ペリー提督の記念碑が除幕された。


            *

 足軽以下の貧農の子に生まれた伊藤博文は、明治新政府の直前に武士になった。本人の努力と、時流に乗った運と、そしてお手盛りで伯爵になった。
 明治18年(1885年)12月に、太政大臣に代わる初代内閣総理大臣になる。低い出自を卑下されたくない心理から、トップの自分を人並み以上に、より大きく見せたい、という心理が働いていたと考えられる。
 
           *

 貧農の藤吉郎がやがて木下の苗字をもらい、明智光秀の反乱から、天下人になった。それにとどまらなかった。豊臣秀吉となり、太閤という官位にもあき足らず、さらに自分を大きく見せる行為に出た。それが朝鮮征伐だった。
  
 秀吉軍は朝鮮半島の侵略戦争で敗けた。

 
 明治38年(1905年)伊藤博文は韓国統監府を設置し、初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した。そして、明治42年(1909年) 伊藤博文は朝鮮・ハルビン駅で、若者に射殺された。

 豊臣秀吉と伊藤博文は、育ちと精神はよく似ている。朝鮮を背景とした点も同じだ。歴史が変わっても、人間の考えることはさほど変わらないものだ。
 歴史は人間がつくる。それを教えてくれる。

【補足】
 太平洋戦争で日米開戦になると、アメリカ憎しで、「ペリー上陸記念碑」が破壊された。戦後に、元通りに再建されたものである。

続きを読む...

「赤穂事件」&「忠臣蔵」の盛衰、史実か娯楽か、美談か暴挙か

 2019年12月14日(土)は、三浦半島の歴史散策(日帰り)に出かけた。
 京急久里浜駅・朝11時の待ち合わせ前、私は10時5分〜にRCC(中国放送)ラジオ番組で『今週の深掘りしゃべる!』で、電話インタビューをうけた。
 約20分ばかり。それが終了したあと、朝日カルチャー千葉「幕末・維新講座」の受講生たちが、久里浜に集まってきた。ペリー提督の上陸地へとむかった。

 道々、忠臣蔵の話題におよんだ。
「30歳のひとでも、忠臣蔵を知らない。びっくりしましたよ」
 受講生のひとりが語った。
「えっ、そうなの。小・中学生は忠臣蔵をほとんど知らない、とは聞いていたけれど、30歳までが知らないとは、おどろきだな。価値観が急激に変わってきたものだ」
 私もびっくりした。

 いまは、戦争を知らない世代層が社会の中心にいる。『理由がいかなれども、暴力をふるってはならない』。これが現代の価値観である。鉄則かもしれない。

 古い価値観の先生が、手にあまる生徒を一発頬(ほほ)を殴れば、メディアに取り上げられて、休職か退職に追い込まれる。最悪はその一発で、数百万円の退職金すら失う。

 この価値観で、忠臣蔵を見れば……、どうなるか。


「義士祭」でも、超閑散とした。泉岳寺(東京・品川区)。ここまで、人気が落ちてしまったか。                     撮影:2019月12月10日


 世相からみて、「忠臣蔵」は四段階に分けられる。


① 江戸時代 ・ 演劇娯楽の庶民文化

  庶民が勧善懲悪(かんぜんちょうあく)をたのしむ芝居や浄瑠璃(じょうるり)が栄えた。元禄時代に起きた赤穂事件と、鎌倉時代の「太平記」を重ねあわせた「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」が一世を風靡(ふうび)した。

 吉良上野助を悪者にすればするほど、興行は大入り満員だった。戯作者や役者たちのよい収入になった。


② 明治時代~太平洋戦争 ・ 軍国政策への利用

 明治元年9月、戊辰戦争で会津が陥落した。翌10月には明治天皇が江戸城に入った。ここで、策士の岩倉具視、三条実美(さねとみ)がすぐさま天皇を利用した。それが忠臣蔵だった。

 明治元年11月5日に、天皇の勅使が、泉岳寺境内の大石内蔵助らの墓前に出むいた。主君のために美しく命をささげたと、大石の忠臣を讃える「宣」を. 読み上げた。


 明治天皇の「宣」から、赤穂浪士という表現から、赤穂義士になった。やがて、国家のために命を捧げる「忠君愛国」として、小学生の教科書にまで赤穂義士として載った。
 太平洋戦争まで、軍国少年を育てる格好の材料となったのだ。


③ 戦後の「忠臣蔵」ブーム ・ マスメディアの全盛期

 GHQが禁止した「忠臣蔵」が、やがて解禁となり、「忠臣蔵」ブームの再来となった。年末恒例の行事になった。このころは、日本の武士道を賞賛する、時代劇ファンの世代層が社会の中心だった。
「忠臣蔵」は美談と見なす。映画も、テレビも年末には興業・視聴率を稼げる、最大のドラマだった。


 線香の紫煙も、こころなしか少ない。大石内蔵助はもはやヒーローでなくなったのか
                     撮影:2019月12月10日

④ 現代の拒絶「忠臣蔵」 ・ 非暴力主義 
 
 赤穂浪士四十七人が真夜中に、吉良邸に押し入り、吉良上野介という隠居老人を寄ってたかって襲いかかり、首を刎(は)ねる。
 吉良邸の怨みもない家臣15人が殺され、23人が負傷した。死傷者は合計して38人である。この38人の被害者の家族たちの立場からみれば、吉良邸にやってきた狼藉者であり、テロリストだ。
 赤穂浪士四十七人は無法な行為であり、とても褒め称えられたものでない。

 こんな残虐性のストーリーで、忠臣蔵が捉えられているようだ。

               *
  
 
 忠臣蔵は、松の廊下から討ち入り、そして46人の切腹で終わる。「忠臣蔵」ファンのほとんどは、赤穂浅野家はお家断絶のままだと、思い込んでいる。「お家再興」が認められた事実まで、知らない。

 四十七人が吉良邸に討ち入りの直後、寺坂吉右衛門が大石内蔵助の指図で、広島藩に「永預け」の浅野大学長広(ながひろ)を訪れる。ここから劇的に浅野家の歴史がうごく。

 浅野大学とは、赤穂事件で切腹となった赤穂藩主・浅長矩(あさの ながのり)の実弟である。そして、養子になっていた。つまり、浅野長政の直系であり、豊臣がわを代表する血筋だった。

 広島藩浅野宗家が、家祖・長政の名誉回復のために、必死になるのだ。だから、討ち入りにも反対してきた。

 徳川5代将軍が綱吉から、6代家宣将軍に変わった。このときに、大きなドラマが起きたのである。
 広島藩の努力によって、浅野大学は晴れて6代家宣将軍にお目通りがかなった。「お家再興」が認められたのだ。やがて、幕末には、とてもすぐれた人物の輩出へとつながった。

 わたしはRCCラジオで、こうした史実に近い「赤穂事件」を語った。


 広島藩浅野宗家が、真の解決「お家復興」を望み、短絡的な大石内蔵助たちの討ち入りにつよく反対してきた。それは、暴力で解決するな、という現代に通じるものがある。
 
【関連情報】
 RCCラジオ『今週の深掘りしゃべる!』

『安政維新』(阿部正弘の生涯) 素晴らしかった、感動しました。目からウロコです 内山廣人

 寄稿者の内山廣人(横浜市)の紹介します。私(穂高健一)が小説の習作時代に、講談社フェーマス・スクール「伊藤桂一小説講座」で、ともに学んだ方です。
 その後は「年賀はがきの友」ていどの音信でした。このたび、「安政維新」に感動しました、素晴らしかったです、というお手紙を頂戴しました。

【本文】

 本が到着して、読み始めたら面白しくて、一晩で読んでしまいました。
 導入部の女犯の寺へ踏み込むまでの展開と、その後の捌き、上臈の姉小路とのやり取りなどどきどき ワクワクしながら読みました。
 
 私の「阿部正弘」観は、優柔不断で外患に対して何も出来ずに、ついに心労が重なり、若くして亡くなったというものでしたので、目から鱗(うろこ)です。

 清々しい人物で、しかも優秀・理知的で、決断力と勇気があって、欧米列強の植民地政策から、独善的な水戸藩から、日本を守った英雄だったとは、勝った側が歴史を作るとは良くいったものです。
 
 考えてみれば、日本の存亡の時に14年間も老中首座を勤めたということは、他の人材では対応できないからであり、どれ程すごいことなのか、洗脳された身(内山氏)としては考えが及びませんでした。
 
 幕末の植民地化の危機の中で、為政者として、日本を守る為に、ずば抜けて優秀で骨のある官僚を抜擢し、絶妙なポジションに配置し、的を外さぬ適切な采配を振るい、日本を救いました。

 正弘が抜擢した官僚の活躍、特に外国代表たちとの駆け引きなど、胸のすく思いで読ませていただきました。
 本当に面白い本をありがとうございました。
 今2回目を読んでいますが、面白ろく、何度でも読めそうです。

「追伸」
 今回の物語のなかで、主人公となり得る魅力的な人物がたくさん登場していました。次作がとても楽しみです。
 

「安政維新」(阿部正弘の生涯) イアヤ〜、面白かった 杉 哲男

 私の長年の友人・杉哲男(すぎ てつお)さんから、読書の好評をいただきました。紹介します。そのまえに、かれの人物紹介をいたします。


 杉さんは鹿児島市出身です。かれは中学時代に、原口虎雄さん(戦後・日本史の第一人者・鹿児島大学教授)が中学校に招聘されて講演をされることもあり、日本史が大好きになったと話されています。

 虎雄さんの長男と小中高校まで同級生だった。次男は原口泉さん(NHK大河ドラマ・篤姫、西郷ドンなどの時代考証)で、原口一家と杉家は親しかったと言います。

 杉さんは九州大学、大手電気メーカー、いまはシニア大樂の理事です。かたや、九大OBコンサート会で活躍しています。

 杉さんと私は飲めば、幕末論が酒の肴です。祖父母が語る戦争は、太平洋戦争でなく、きまって薩英戦争だったといいます。「文久3年(1863年)、薩摩藩とイギリスの間で鹿児島でおこなわれた戦争)。

 杉さんから得た薩摩藩関連の知識は、私のエキスの一つになっています。と同時に、杉さんの歴史の目は肥えています。


写真・鹿児島市内の遠望  (ここで薩英戦争がおこなわれました)
             

【杉哲男氏のコメント】

 案内をいただき、早速、Netで手にいれました。ところが、相変わらず、いろいろと忙しく、先週まで「コンサート」の練習に明け暮れていました。ようやく、本日、しっかりと読ませていただきました。

 いきなり、大奥女御の姦淫な事件の描写から始まり、驚きました。歴史物を柔らかくスタートさせましたネ。
 読み進むにつれ、良く知っているつもりの、幕末の江戸幕府の内実が新しい発見の連続でした。

 日露&日英和親条約が想像を超えて経過での締結であり、その後の通商条約の締結にも、当時の阿部宰相を中心に優れた幕閣たちの交渉力が寄与したことなど『目からうろこ』です。

 幕末の「攘夷論」への歴史的な位置づけ&評価の見直しの必要性を真に感じると共に、不平等条約があの長州・下関戦争に起因していたこと、初めて知りました。

 イアヤ〜、面白かった。

 これまでも、幕末の為政者としての阿部正弘への評価は私なりに持っていましたが、この書を通じて改めて理解しました。ありがとうございました。
 また、一度、ゆっくり飲みましょう。

『安政維新』(阿部正弘の生涯)④「江戸三大改革」は悪政だった。庶民の「嘉永文化」を伝えよう

 弘化2(1845)年2月22日、阿部正弘は満25歳で、老中首座になります。江戸時代を通じて最年少です。
 吉宗の実孫である松平定信(さだのぶ)すら、28歳でした。


 定信は本来ならば、徳川将軍だったのです。だが、徳川宗家(将軍家)に入るまえに、白河藩(福島)に養子に入っていたので、将軍にはなれなかった。しかし、血筋から早ばやと老中首座になった人物です。


 阿部正弘は、備後福山藩は10万石の譜代大名ですが、定信よりも、3年も若くして、12代家慶(いえよし)将軍から、老中首座に大抜擢されたのです。いかに有能だったか。かれは正室の子どもでなく、側室の子です。
 決して、縁故、血筋による抜擢とは言えません。


 当時、アジアではアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、その後において西欧諸国は日本を狙っている(外患・がいかん)。国内は天明・天保の大飢饉で、わが国は過剰人口で米穀(べいこく)不足から、餓死者の死臭がただよう列島でした(内憂・ないゆう)。

 外患内憂の国難の時代に対応できる人材はだれなのか。250年間にわたる德川政権の世襲とか、伝統とか、家柄とかに拘泥(こうでい)した人物を政治のトップをおけば、わが国は悲惨な状況に堕(お)ちいってしまう。
 まして、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗した後釜です。家慶将軍は阿部正弘を抜擢したのです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯)では、なぜ、阿部正弘が抜擢されたのか。その経緯から克明(こくめい)に描いています。

 それが第1章「女犯の怪しい寺」です。22歳の寺社奉行の正弘が、大奥女性と僧侶との姦淫(いんらん)な行為の現場を押さえて捕縛(ほばく)する。そして、大胆な決断力を展開しています。将軍も、大奥も、水野忠邦すらも、その後の正弘の裁決には驚いたのです。

「こんな意表をつく、大胆な判断はだれができようぞ」
 ここで、正弘のとてつもない政治力が示されます。
 正弘は終生、多くの意見にたいする聞く耳をもちますが、最後は己の判断を示す。その多くが、『ひとの意表をつく』ものだったのです。

              *   

 前政権の水野忠邦は、賄賂(わいろ)を積んで、佐賀藩から浜松藩に国替えし、さらに大阪商人から大金を借り入れて、それを踏み倒し、老中へと登りつめてきます。老中首座にたどり着いたのが45歳です。

 阿部正弘は25歳です。いくら賄賂を積んでも、現在の内閣総理大臣にはなれるものではない。庶民らには、それがわかったのです。
 正弘が清廉潔白で英知の人材だったから、家慶将軍に大抜擢された。阿部正弘が政治のトップに立ったとき、庶民は大喜びで、迎えたのです。
 

「阿部家には付け届けはするな。決まって、突き返されるから」と水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の記録が現存しています。
 当時は盆暮れなどのつけ届けなど、役職を得る当然の風習として定着していました。しかし、福山藩の家臣は、それら金品はすべて突き返しに行ったそうです。
 お金には身ぎれいな政治家だった。正弘が享年39歳で死ぬまで、国難の政治のトップにいた最大の理由のひとつでしょう。

 つまり、私利私欲のための政治ではない。「無私」で、国難の日本を救うために、わが国が植民地にならないために、全知全能で走りつづけた、とだれもがわかっていた。だから、他には老中首座になり手がなかったのです。

 政治家として生命をかける。現代でもよく使われることばですが、それを現実に行ったのは阿部正弘であり、まさに稀有(けう)な存在でしょう。

                  *

 正弘は思想弾圧もせず、庶民のための政治を心がけていました。奢侈禁止令(しゃしきんしれい・派手な生活を禁じる)などの法令は出さず、諸民に自由を謳歌(おうか)させています。
 私は作品のなかで、それを「嘉永文化(かえい・ぶんか)」と表現しました。

    「日舞・さつき会」

 江戸時代のなかで、元禄(げんろく)文化よりも、もっと華やかな庶民文化が生まれており、その伝統が現在にも生きています。


 ところが、明治政権は阿部正弘政権の亜流であり、ことさら阿部正弘の政治評価を貶(けな)すことで、自分たちを高くみせています。だから、明治政府は歴史書、教科書に「嘉永文化」をのせていません。

 明治からの軍国主義は、『勝つまで欲しがりません』という政策です。江戸時代の享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革は、三大改革として賛美しています。
 この改革の実態は「庶民いじめ」なのです。庶民に生活苦、がまんを強いた苛政(かせい・悪策)です。それをなぜ美化するのか、わかりますか。

 明治軍事政権は、『ぜいたくは敵』として、国民にがまんに我慢を強いています。がまんで消費を冷やせば、景気が後退します。国民を黙らせる必要がある。いちばん効果的なのは、歴史を利用することです。
 明治・大正・昭和の終戦まで、軍事政権はことさら教科書のなかで、「江戸時代の三大改革」と美化し、国民の目を欺いて、軍国主義に利用したのです。
 つまり、なにごとも、お上の政策のために我慢せよ、という趣旨です。

『不景気になれば、日本は海外戦争をしかけて、軍事景気で活気を取りもどす」
 これも戦争へのおおきな施策でした。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争と、これを10年に一度やりつづけたのです。

 くりかえしますが、歴史は政治に利用されやすいのです。


 昭和、平成、令和となり、戦争を否定した今、庶民の視線から歴史を見直す必要が出てきました。それには、教科書の「江戸三大改革」は苛政(かせい)だった、庶民が困窮(こんきゅう)の極(きわ)みに陥ったと、真実をおしえる時期がきています。

 少なくとも、庶民の目線からみれば、改革でなく、改悪です。
  

              *

 私は歴史小説を政治家たちの歴史年表で書くのではなく、庶民の目線もふまえる必要がある、と考えています。
「安政維新」(阿部正弘の生涯)のなかで、第7章「嘉永文化」という章立てをしています。

 
 阿部は人材抜擢の天才です。それら有能な人材が外国文献から、西欧の資本主義の研究を行っています。
 イギリスなどは産業革命のあと、自由主義が国家の繁栄(はんえい)をきづいている。自由が国家繁栄の基である、という施策が、阿部正弘政権にはわかっていました。

 正弘は江戸町奉行の遠山景元(遠山の金さん)に、「庶民が生きがいを感じる施政をせよ」と指図します。新たな法律で、庶民生活を縛(しばら)ない、自由主義で行く、という方針でのぞんでいます。
 庶民からすれば、過酷(かこく)な取り調べの根幹となっていた「奢侈禁止令」の運用を緩和させたのです。

 水野政権時代「天保の改革」は、座敷の芸者など全面禁止でした。水商売の類の女性は女狩りで、集められて、競売で浅草・吉原に売られて売春婦の身になっていました。


「江戸三大改革」と称したものは、いずれも雨後の竹の子のごとく厳しい法令をだし、庶民をいじめています。
 阿部正弘は、「水野忠邦が作った法律で充分だ」と言い、はあえて新規な法令をほとんど出していません。

 庶民は敏感です。阿部人気、「遠山の金さん」人気から、元禄時代を上回る、民衆文化が一気にはじけたのです。

 金銀製の女の飾り物はご禁制(きんせい)でなくなります。水野時代にはわずか数件だった芸人小屋が、嘉永時代には700軒も開業する。
 草紙、春画、浮世絵、かわら版も巷(ちまた)にあふれる。江戸庶民が好む、すし屋、そば屋、てんぷら屋なども大繁盛です。
 三味線や太鼓は繁華街からながれる。人々が生気を取りもどしたのです。

 それが現代の「遠山金さん」人気に通じています。


 阿部政権になってあまりにも、取り締まりを緩めすぎたので、目に余ったのでしょう。幕閣から苦情が出ます。正弘はきっと渋々でしょう。

 嘉永元年に、お触書をひとつ出しました。『親族のため、あるいは生活に困窮する、よんどころな場合以外は、売女にまぎらわしき、猥(みだ)らな所業は決してしてはならぬ』というお達しです。
 まさに、故意にザル法をつくったとしか思えません。「わたし、家族のために働いているのよ」といえば、街中の座敷、料理屋に出入りできる芸者稼業になれるのですから。
 
 消費があらたな消費を生む。景気が良くなる。嘉永は庶民文化としての園芸が花開いた時代です。浮世絵に梅や松の盆栽が多く描かれています。
 さらに、朝顔が大流行になりました。まさに、嘉永文化は庶民の心に、花を愛でる余裕が生まれたのです。長屋住まいの庶民らは、物価は高いがそれなりに生活を享受(きょうじゅ)できて楽しんでいたのです。
 
 阿部正弘は、福山藩主の側室(妾)の子どもです。母親の高野具美子(くみこ)は、剃髪(ていはつ)して江戸下町の石原町(現・江東区)の、福山藩下屋敷の庵に、ひとり住んでいました。

 正弘は老中屋敷(現・大手町)から、月に1、2度は母のもとに通いつづけています。途中で浅草の「桜もち」(現在も有名)を買いもとめ、実母にとどけていました。正弘は江戸下町に出むき、庶民の生活を見聞する機会が多かったのです。つまり、庶民から政治を見つめる環境が正弘にあったのです。

 そこが明治以降の下級武士・足軽から成り上がった、偉そうぶった軍人政治家たちとはちがう点です。

 私たちはそろそろ薩長史観から脱皮し、徳川長期政権の良さをも取り入れる時代になってきました。阿部正弘は嘉永文化を育てた。庶民よりの政治をすれば、庶民は人生が楽しめるし、文化が熟してくるのです。
「遠山の金さん」はいまなお、庶民の味方だったと、明治以降の軍国時代にすら消えずに語り継がれてきました。
 それは嘉永文化の象徴でした。

 この6章は岡っ引き、下っ引きを主人公に、楽しく読めるようにしています。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~⑤まで続きます。引用は開放いたします。⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは著作権に関係なく、ご自由にお使いください。全文の引用もOKです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯) ③ 弱冠・満25歳にして老中首座(宰相)、そして死ぬまでの長期政権

 阿部正弘は、弱冠・満25歳にして老中首座(現・内閣総理大臣)になりました。なぜ、そんなに若くして徳川幕府のトップになれたのか。賄賂をつかっても、なれる地位ではありません。第12代将軍の徳川家慶が、なぜ、若き正弘を大抜擢したのか。 

 
 阿部正弘が22歳の寺社奉行時代に、中山法華寺(市川市)の末寺・感応寺(豊島区)の僧侶と、大奥との癒着(ゆちゃく)という女犯(にょぼん)の罪を裁きました。
 そらに、家斉いえなり)大御所の偽遺書による「将軍家乗っ取り事件」までも、見事に解決させたのです。

 ここが歴史小説「安政維新」の書きだしになります。

 目次紹介

 第1章 女犯の怪しい寺

 第2章 天保の改革

 第3章 水野忠邦の失脚

 当時は、外観内憂の時代です。外患とはアヘン戦争・植民地化の波が日本に押し寄せました。元寇以来の国難の時代です。

 内憂とは天明・天保の大飢饉という、飢餓列島で過剰人口による食糧不足の時代です。それに対処した水野忠邦の「天保の改革」が、大失敗します。

 それを引き継いだのが、満25歳の阿部正弘です。

 
 第4章 十歳児のいのちを救え

 第5章 前政権の断罪

 第6章 ビットルの浦賀来航

 ペリー来航よりも、7年も前に、アメリカ東インド艦隊が浦賀に来ているのです。ビッドル提督は、アメリカ大統領の親書を届けに来航したのです。
 みなさんはこの事実を知っていますか。

 第7章 嘉永文化

 江戸時代に、もっとも華やかな庶民文化が花開きます。化政文化よりも、上回っています。ここらはこっけいな岡っ引きの目線で描いています。
 思想弾圧をしなかった阿部正弘の人柄がよく出ています。

 第8章 北の漂流者たち

 冒険家マクドナルドが利尻島に上陸します。長崎に送ります。世界の潮流に乗るには、英語教育が必要だ。阿部正弘は、長崎通詞14人に、英語を学ばせます。
 英会話ができる。優秀な人材が育つ。日本の近代化へのおおきな礎のひとつになります。

 第9章 外国軍艦の出没

 第10章 オランダ別段風説書

 第11章 ペリー来航

 ここまでが、作品の前半になります。

              *

 ペリー提督来航から、外圧を利用して、世界の潮流の資本主義に仲間入りを計ります。久里浜(神奈川県)で、アメリカ大統領の親書を受理させます。

 阿部正弘は日本語に翻訳し、幕臣、諸大名、庶民にまでも意見をもとめます。 回答数は、700余通です。大名から・浅草の遊郭主までいます。

 封建制度のなかで、「言論の自由」が行われたのです。なぜか。阿部は「挙国一致」で国難を対処する、「日本国」という考えを確立させたのです。
 「あなたのお国は?」と問われると、武蔵野国、安芸の国、陸奥の国、長門の国です。日本列島を一つにした国家という考え方は殆どありませんでした。
 阿部正弘は、日本列島を一つの国家とした最初の政治家です。

 アメリカ大統領親書に対して、99%がペリー艦隊を撃ち払え、という攘夷主義でした。阿部は、700余通の上申書から、ふたりの意見を採用しています。ひとりは朝廷の実力者の鷹司正通(たかつかさ まさみち)(関白)です。
 ご紹介しましょう。

『アメリカの書簡は慇懃(いんぎん)にして誠意がある。拒絶するべきではない。寛永(かんえい)以前は各国と通商し、わが国に利するところが少なくなかった。交通を許すも、国体(こくたい)を損じることはない』

 孝明天皇・朝廷は外国嫌いだ、とみなさんは教わっていませんか。それからしても、明治時代の為政者や学者たちが歴史をねつ造しているのです。

 もうひとりの意見は、まだ罪人(微罪の冤罪(えんざい)で町人の高島秋帆(しゅうはん)の「嘉永上書」です。
 阿部正弘はこのふたつをもって開国・通商の道を決断します。

 勝海舟の意見は開明的でしたけれど、具体策がない。ただ、人物としては使えると、阿部はかれを取り立てています。

 徳川幕府は封建制度の世襲制で、胡坐をかく旧習に安住する幕閣・大名たちばかりです。斬新な事案をやれる勇気は並大抵のことではありません。

 現在でも、社歴の長い大会社で700人以上が、新規事案に反対するなかで、たった、ふたりだけの意見を採用できますか。


 歴史上、阿部のような大胆な判断を下す人物は百年に一度、二百年に一度でるか、出ないかです。人間として、途轍もなく、優れた人物です。
 
  阿部正弘に関しては、難しい政策判断の評価はあれこれあれども、人物・人柄を悪く書いた史料・文献はほとんどありません。
 備中福山藩は、賄賂を持って行っても、魚が腐っても、家臣がつき戻しに来る。もう、持っていくな。他藩の文献に、こんなエピソードが残っているくらいです。

 阿部正弘は、金銭欲、強欲の面がなく、身綺麗でしたから、25歳から享年39歳(満37歳)まで、長期にトップの座にいたのです。
 と同時に、阿部正弘に取って代れなかったほど、日本は国難でした。まさに、正弘の命は日本の命だったのです(松平春嶽の弁)。

 『安政維新』は、勇気をもらえる歴史小説です。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。

穂高健一著『安政維新』(阿部正弘の生涯)② 明治政府は阿部政権の施策のパクリだった

 西欧5か国と和親条約を結んで開国したあと、阿部正弘は安政3年、「富国強兵」を国家の柱に掲げます。

 そして、日の丸制定、外国との条約国名は大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、安政5か国通商条約、海軍・陸軍の創設、蕃所調所(ばんしょしらべしょ)(東大の前身)など数々の国内改革を断行していきます。
 まさに、阿部正弘は近代化、資本主義化の祖です。

 この政策には見覚えがありませんか。明治時代の薩長下級藩士が政権を取り、阿部正弘政権の施策のほとんどパクリだったのです。蒸気機関車の発注も徳川家です。開通したのが、明治時代です。
 かれらの政権の自己顕示欲でしょう。自分たちをより高くみせるために、故意に歴史を折り曲げ、明治から文明開化、近代化と嘘を教え続けて、現代の学校教育に至っています。かたや、徳川幕府を無能扱いでこき下ろしてきたのです。
 「明治維新」とは名ばかりです。10年に一度は戦争する国家になったのです。明治時代を正確に表現すれば、『明治軍事政権』です。徴兵制で、日本の農民らに殺戮(さつりく)の武器をもたせたのです。

              * 

 豊臣秀吉が刀狩で、「兵農分離」させました。それをうけついだ徳川幕府は、260余年間は、兵農分離を維持しました。二度と戦国時代にもどらない。封建領主の凍結で、戦争をさせない。外国の侵略による戦争を回避するために鎖国政策をとります。
 海外交流は欠かせないので、唐とオランダとの交易に限定しました。


 武士、農民、町民の三段階の身分制度のもとで、農民は鍬と隙をもって田畑を耕す、新田開発をする、農事に専念できました。戦国時代のように、大名の命令で雑兵として、農民が戦場に駆り出される不安がなくなったのです。

 秀吉の朝鮮出陣は歴史上の汚名ですが、一方で、刀狩は日本人に戦争のない時代を与えてくれたのです。江戸時代の平均年齢からすれば、先祖代々、約10世代にわたり戦争を知らない人生がまっとうできたのです。

          *

 外患内憂の時代となると、徳川幕府の鎖国主義にも限界が出てきました。
 阿部正弘政権は、強い外圧のなかで、戦争をせずに開国し、植民地にならず、安政の5カ国条約を結びます。そして、近代化、資本主義の導入を計りはじめたのです。

 安政3年には「富国強兵」を柱に据えます。それは帆掛け船と大型蒸気船との戦いでは、日本国民が悲惨な状況になる。防衛力がないと、西洋に侵略される、という現実がありました。
 抑止防衛で軍艦を買う。農民から搾取すれば苛政になる。海外との通商を拡大し、収益を得て、軍備をそろえるという政策です。外国との戦争を抑止し、国民を守る政策でした。


  阿部正弘政権の有能な人材が、イギリスの経済学者・アダムスミスの「富国論」と、防衛の「強兵」と接合した有機的な「富国強兵」策でした。
  拙著『安政維新』は、この富国強兵が生まれる過程を、わかりやすく、克明に描いています。つまり、むずかしい経済理論を、小説として、ひらたく誰にでも理解しやすく書いています。

          *

 どんな立派な政治理論も、政治家の運用しだいです。わい曲されると、とてつもない不幸をまねきます。これらは歴史から学ぶ点です。

 下級藩士が政権をとった明治政府は、阿部正弘の「富国強兵」をまねて政策の柱にします。用語は同一ですが、実態はまるで正反対です。為政者が自分たちをより大きく見せるためのもので、戦争推進への国策に利用します。
 
 戊辰戦争(箱館戦争)が終結して、すぐさま明治5 (1872) 年には、秀吉の刀狩の恩恵を無視し、山縣有朋らの建議により「全国徴兵の詔」が公布されたのです。まさに、いきなり軍国主義に突っ走ったのです。
 これは維新とは言えるものではないのです。維新とは、故事によると、「国家の変革で、民をより良くする」という内容です。

 明治政府は「富国強兵」をもって、海外侵略の主要な国策にすえたのです。台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争。銃をもって戦場で死んだ農民・町民(二等兵、一等兵、上等兵)などは幾百万人でしょうか。

 富国強兵が、国民の犠牲の政策に利用されたのです。

【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。


穂高健一著『安政維新』(阿部正弘の生涯)① = 2019年10月15日~全国書店で販売開始

穂高健一著『安政維新』(阿部正弘の生涯)が、出版社:南々社 、 定価:1600+税です。ことし(2019)年10月15日から発売されます。

アマゾンで販売がはじまりました

 

―― 発刊・作品の趣旨 ――

「歴史から学ぶ」。それには歴史が真実でなければなりません。

 従来は、阿部正弘といえば、嘉永6(1853)年に、ペリー提督が浦賀に来航し、砲艦(ほうかん)外交に屈し、蹂躙(じゅうりん)された、優柔不断な政治だと、教育ですり込まれてきました。

 ペリー黒船の浦賀入航(1853年)は、アメリカ軍艦の初来航ではありません。アメリカ大統領親書をもってきた最初は、ビッドル提督の浦賀入航(1846年)です。さらに、長崎にもアメリカ軍艦は来ています。
 わが国の歴史教育は、国民にことごとく嘘の幕末史を教えています。嘘が通説になっています。従来の幕末史を根底からくつがえす長編歴史小説です。
 
 
              *

 ペリー提督の1年前にオランダ国から、アメリカ艦隊のペリー提督がやっ来る、と船名・軍人名など克明な情報を提供してきます。
 なぜならば、当時のオランダ国はジャワ島に巨大な海軍基地を持っており、アメリカ海軍よりも優れていました。英仏米ほか世界海軍の情報が集まる仕組みを持っていたからです。
 

 幕府はオランダからの情報提供で、当然ながら即時、手を打ちます。

 わが国は鎖国で外洋に乗りだせる大型船がない。帆掛け船と西洋の大型蒸気軍艦の戦争になってしまう。それでは、大勢の日本の民が悲惨な戦争犠牲者となる。

 阿部正弘は優秀な人材を抜擢する天才でした。「わが日本は有能な人材をもって、強国西欧の軍事圧力に対抗する」という方針をだします。歴史上、卓越した人材が最も多く輩出した時代です。

 阿部正弘は、オランダからの情報の下で、わずか1年間で、西洋の蒸気軍艦なみの戦力をもった『日本海軍の創設』という極秘作戦に出ます。
 極秘とは、表むきは平静を保ち、裏では積極果敢な行動です。これは知恵ある人物が得意とするものです。

『戦争をしないで開国し、強い海軍をつくり、日本の軍事防御を強化する』という作戦です。阿部はわずか1年間で、極秘にやったのです。

           *

 オランダ海軍情報から、ペリー艦隊は旧式の車輪型蒸気船で、石炭量も限られている。大西洋、喜望峰、インド洋、そして遠路アジアにやってくる。この間、アメリカは補給基地がない。石炭補給もできないし、日本と戦争などできない。
 ついては、安易な妥協ははない方が良い、とオランダから正確な情報を得ています。

 アメリカ艦隊に勝る良き性能の軍艦を建造する。阿部正弘は、車輪型蒸気船でなく、オランダに最新型(スクリュープロペラ船)の軍艦(のちの咸臨丸など)を建造させる。

 軍艦を購入すれば、当然ながら、操船する海軍士官が必要である。それには上級士官の養成として、長崎に海軍兵学校を作り、オランダ軍人の数十人(のちにオランダ外務大臣、海軍大臣になるような有能な教官)の招聘(しょうへい)し、指導をうける。

 わずか一年間で、極秘で日本海軍の創設の段取りをつけたのです。ペリー艦隊が来航すると、肝心な家慶将軍が死去し、次期将軍となると、家定で脳性の障害者です。日本の将来の運命が、すべて阿部正弘の英知にかかってきます。

 この重圧にも負けず、阿部正弘は極秘の日本海軍の創設へと果敢な行動に出ます。すぐさま軍艦6,7隻の発注し、「長崎海軍伝習所」へのオランダ教官の招聘を一気にやります。新造船ができるまで、一隻のオランダ軍艦(日本名・観光丸)を譲りうけ、訓練に入ります。


 歴史に疎い人は、「オランダから1年前にペリー来航の通知を受けても、阿部正弘はなにもしなかった」と貶(けな)しています。
 そんな批判をする大勢の学者や作者は、主要な国策は極秘を以って臨む、という認識が欠如しているのです。
 現代でも、戦闘機・軍艦の購入、防衛政策、戦略研究など防衛関係は超極秘でやります。そんな事実認識ができずして、ただ阿部正弘を批判してきたのです。

           ☆

 日本海軍の発足が確定すると、頭脳明晰な永井尚志(なおゆき)を所長として、海軍士官候補生は、勝海舟など德川幕臣だけでなく、五代才助(薩摩)など外様もふくめた優秀な人材をもって臨んでいます。
 かれらは後々の日本史上の重要な役割を果たす人物たちです。
 
 長編歴史小説「安政維新」は、わずか一年間で日本海軍制度をつくった阿部正弘のすごい能力を解き明かしています。

 そればかりではありません。「安政維新」は、私は約8年間の国内外の取材で、阿部正弘の史料を克明に掘り起こし、より事実に近いところで描いています。
 多くの読者は、なんで私たちはこんな嘘の歴史を教わってきたのか、と強い衝撃をうけるでしょう。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。