3.11(小説)取材ノート

小説3.11『海は憎まず』その後は?=防潮堤は身命を助けるか、凶器になるか②

 大堤防、それとも防潮堤なの。巨大なコンクリート壁だ。これが有名な復興の一つなのか。海が人間を見たくないと拒絶したのか。まるで、人間が隔離されているみたいだ。

「この先、大津波がきても、これじゃあ、海の様子はまったくわかりません。押し寄せる津波の恐怖と緊張が実感できず、逃げ遅れるひとも多いでしょうね」

 3.11の体験者によると、防災無線が低い波高を報じたから、それなら大丈夫だ、と油断して津波にのまれて亡くなったひとが多いと話していた。
 家屋が二重ガラス窓で、防災無線は聞こえなかったという人も取材してきた。

『災害無線は大災害に瞬時にして、的確な情報を流せない』
 これは共通認識ではなかったのか。


『大津波は自分の目と肌で恐怖を感じ、避難するものだ』『てんでんこに逃げる』(親でも、子ども、無視して、わが身はわが身で守る、という教え)

 なぜ海が見えない、高さ12メートルもの巨大コンクリート壁を作ったのだろうか。私にはまったく理解できなかった。
『自然災害は、人間が物理的な抵抗をするほど、被害を大きくする』
 そんな教示をした学者もいた。ヒアリングもなかったのか。意見が通らなかったのか。

「漁師さんが沖合から、一せいに海辺に逃げもどってきた先、この高い壁はどう乗り越えるんでしょうかね」

 探せば、巨大な壁のどこかに石段がきっとあるはずだ。現在は工事中で立ち入れず、特定できない。むろん、ゼロとは思っていない。



              写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


 大防潮堤の外に海水浴場ができるらしい。想定では、真夏には大地震がこないのだろうか。

  賑わう海水浴客が、一気に避難する際、巨大な防潮堤はとんでもない障害物になるだろう。私にはかんたんに阿鼻叫喚(あび-きょうかん)地獄絵の大混乱が想定できた。これは作家の単なる架空の空間だろうか。


                      *


 人間は災害パニックに陥ると、ふだん使ってないルートが判らずして逃げ惑う。この人間心理は真実である。それをどう理解し、この構築物に織り込んでいるのだろうか。

 過去からくりかえされてきたホテル・旅館火災の死傷事故は、心理学的にも、大防潮堤にも当てはまるはず。漁師も海水浴も、われ先に狭い石段に押しかけていくだろう。
 大津波は容赦なく、タイムラグさえもなく、背後から大勢の人間を瞬時に飲み込んでいくだろう。


 
「コンクリートは50年でひび割れしてくる。内部の鉄筋が、沿岸部ならば、なおさらも塩分で酸化してきて腐り、もろくなりますよね」
 これは事実だ。
『固い頭の人間ほど、硬いものは強いと信じやすい』と揶揄(やゆ)したくなる。

  鉄は塩分に最も弱いのだ。強烈な圧力の大津波がきたら、ひび割れたコンクリート堤など持ちこたえられるはずがない。それは杞憂ではない。

 思うところをずばり、歯に衣を着せず、言い切ろう。50年に一度、その都度、巨大な防潮堤が作り変えられるはずがないだろう。

 いまから約50年まえに、「建設国債」というひびきのよい債務が発生した。いまや、それが1000兆円の赤字国債だ。あの建設という枕ことばはどこに行ったのか。


 これからの50年後は、日本人は不安に思っている。倍々ゲームでいけば、おおかた3000兆円くらいになるかもしれない。となると、世界屈指の債務大国だ。ある日突然、世界銀行から融資打ち切り、と同時に、超緊縮の政策指図がもとめられる。世界各国からは、債権の取り立ての渦が巻く。

 泣いても、叫んでも、容赦なく、防潮堤がひび割れていても、日本人の生死にかかわると言っても、外国人は冷淡にいっさい見むきもせず、IMFはびた一文も追加融資などしてくれない。

 債務超過国家となれば、「ない袖は振れない」、その施策しかないのだ。第二次世界大戦後、『予算がない』が役人の唯一の仕事だった。


「高田松原の松林遊歩道」が、大津波で消えてから、5年余りで巨大な防潮堤に変身した

写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


「政治は100年の計」どころか、50年先の約3000兆円の国家赤字財政すら、為政者らは視野に入れていなかったのだろうか。
 目先の復興予算を使う。このていどの認識だったら、為政者の資質を問われる。選んだ選挙民が悪いのか。賛成したのは住民だ。論旨はここに落ち着くのだろう。

 なにかにつけて「多数決」「大多数」という便利な道具で、片づけられてしまう。民主主義と人命主義の優劣など……、この場ではやめておこう。
 

 これだけの大規模な予算を使うならば、四車路の避難路をつくったほうが、より安全じゃないのかな。モータリゼーションだから、津波発見となれば、かならずや車で逃げる。緊急車両も視野に入れると、四車線は必要だ。

 為政者は、まさか施工費の高い方を選んだのではないだろうな、と私は疑ってしまった。

小説3.11『海は憎まず』その後は? 大船渡で半年後に供養花火をあげた凄い人③

 東日本大震災3.11は、日本じゅうを恐怖の渦に巻き込んだともいえる。被災地の失意、落胆絶望、虚脱感、あらゆる負の条件が、一人ひとりの脳裏に渦巻いた。

 大地震、大災害の恐怖の瞬間は、TVを中心としたメディアがくり返し報道された。映像をみた遠方の方においても、心理的におかしくなり、恐怖心からうつ症状に陥ったひとも少なくない。

 東京都を中心とした首都圏でも、計画停電という、太平洋戦争の終戦直後くらいらしか経験していない出来事が起きた。
 片や、犠牲者、被災者の心情を想い、日本じゅうが自粛ムード一色になった。その一つが東京・両国の花火大会の中止である。


 数百万円の花火はどうするの、と大船渡市の片山秀樹さんは疑問をもった。花火師は翌年まで火薬を補完できないので、解体するらしい。つまり、破棄するんだ、と聞かされた。
 それを知ったのが2011.3.11から、まだ2ヵ月くらい経ったころだった。被災地の復興はまったく進んでおらず、高速道路、一般道なども破壊されて、日本海側からう回路で三陸に入ってくる状況だった。
 支援物資すらも被災者に満足な届かない日々がつづいていた。

『どうせ両国の花火玉は棄てるのなら、それをもらってきて大船渡の海岸で打ち上げよう。あの有名な伝統ある両国の花火だ。喜ぶぞ』
 いつがよいかな? 
『被災からちょうど半年がいい、ちょうどお盆だ。供養の花火大会だ』
 悲惨な状況下で、暗くなった人を明るくしよう。片山さんは素朴な想いだった。その着想が実行へと動きだしたという。

 約6年経った今、(有)片山製作所に訪ねて、片山秀樹さんから、実行日までのプロセスを聞くことができた。

「どこに足を運んでも、大反対ですよ」……全国のイベントが一斉に自粛しているさなかですよ。片山さん、何を考えているの。周りを見てみなさいよ、がれきが山積みじゃないの、その下に行方不明者がいっぱいいるのよ。花火を挙げて、喜んでいる場合じゃないでしょう」
 思いもかけない大反対ばかりだ。

「行政はまあ、たらいまわしです」と回顧する。
 警察にいけば、遺体の身元の確認、行方不明者の発見に全力を挙げているさなかだし、交通課も含めて全員が総出です。いま、花火大会が許可できるか、できないか、交通整理できるか、そんな検討する間がないですよ。

 消防署にいけば、人命救助が最優先です。2カ月たっても、私たちは生存者を信じて、捜索しています。火気禁止解除の申請受理など、優先順位が違いますよ。

 教育委員会。生徒の安否不明者がまだいるんです。それどころじゃありませんよ。

 片山さんは四面楚歌だった。なにから、どうやればよいのか。行政、さらには賛同者を求めて、うるさく、しつこいほどに日参した。当然ながら、また来たのか、と嫌がられる。

「どこか行政の1か所でも、許可してくれたら、他の役所は右ならえしてくれそうだ」
 そんな手ごたえを感じはじめていた。

 海上保安庁はどうだろうか。海の上で打ち上げるから、きっと認可が必要な役所だった。ここが一番、承諾が得やすいかな。大船渡漁港、魚市場は破壊されているから、遠洋漁船は大船渡に入港してこないし。
 ここらの読みは当たった。
『8.11の夜ならば、船舶の航行の障害にはならないでしょう』

「次は費用ですよ。花火の玉は無料でも、大船渡に運んでくる輸送費はかかる。ガソリンも、手に入るかどうか。花火師も労賃が必要だ。会場警備の警備員がいる。なんだかんだ試算すれば、400万円強はかかる」と話す。

 家屋が破壊されて修繕費も出ない。日常生活費をこと欠く状態である。花火大会の寄付金を集める。至難の業である。
「誰が寄付を集めるの?」

 大手企業やNPOや行政でポンと出してもらうお金でなく、被災者がほんのわずかでも持ち寄ろう。
供養のためだから。そこに拘泥した。嫌味、罵声を浴びても、片山さんは同志を募りながら、
『犠牲者に、天国で観てもらおうよ』
 その言葉で理解してもらい、説得にまわりつづける。

「うちの製材所は大地震で壊れたままでした。営業不能。修繕したり、丸太を手配したりしなければ、明日の作業は生まれない。私の性格ですかね。製材所のことは放り投げて、毎日、毎日、役所や住民をまわりました」
 当日の花火の安全な保管場所が決まった。
 そして、片山さんは、8.11の実施にこぎつけた。

「おばあちゃんも、お父ちゃんも、お子さんも、みんなが海辺で大勢して花火を見上げて、泣いていましたよ。大粒の涙を流して、手を合わせている人もいっぱいいました」
 観客の半分以上は泣いていましたね。来年もやってよね、と言われると、やるよ、と片山さんは答えざるを得なかった。

 現在は供養花火大会が、大船渡から発信し、宮島、熊本など全国各地に「8月11日に花火を上げよう」という大きな花火イベントのネットワークが生まれてきた。TV中継までも、行われている。

「ことしから「山の日」8.11が祭日になったから、ラッキーです。平日よりも、花火大会はやりやすいからです。来年の会場はまた2-3件ほど広がります』
 
 片山さんからあえて訊かなかったことがある。花火大会は入場料などない。一円も儲かるわけではない。しかし、いちずに打ち込んだ信念とは何か。

 日本史をふり返ると、歴史を動かす大変革のときに、大飢饉、大災害のとき、民のため、世をよくするために、いちずに突っ走っていく人物がかならずや生まれてくるものだ。自然災害列島の日本には、過去から顕彰(けんしょう)されるひとが数多く輩出されている。

 かれらは『無』から、あるいは『大逆境』からスタートしていく。私利私欲でなく、信念に基づいて東奔西走する。
 絶望のなかから一条の光を見出し、それを手掛かりにして艱難辛苦を乗り越えていく。政権争いの場合は暗くて難しいひとが多い。片や、民のために時代を動かしたひとは、思いのほか明るくて快活な性格のひとが多いのが特徴だ。つまり、まわりを取り込む、ひとが集まってくる求心力が性格としてそなわってい

 私は歴史小説作家として、しばしばそれら人物を描く。しかし、現実社会のなかでは、そうそう出会えるものではない。供養花火大会の成功まで聞き終えた私は、片山さんの信念には敬服させられた。まさに明るくて笑顔が多い魅力的なひとだった。

小説3.11『海は憎まず』その後は?=陸前高田、大船渡、気仙沼 ①

 2011年3月11に発生した東日本大震災は、マグニチュード9.0で、1000年に一度のとてつもない大規模な地震だった。立ってはいられない大地震、さらに襲いかかった大津波が広域に、無残にも大勢の命を奪った。
 
 私は当時、現地取材に出むいて、小説3.11『海は憎まず』を書いた。その動機は小説家としての責務を感じていたからだ。

 メディアのジャーナリストたちは瞬間の恐怖をリアルに伝える。観る側の擬似(ぎじ)体験をもって全国から大勢のボランティアを動かした。「なんとか手助けしてあげたい」と口々に現地にやってきた。片や、瓦礫(がれき)との格闘の日々のなかで、ボランティアさんには助けられました、という被災者の声が多かった。


 小説は歳月が経っても、朽ちず、読まれる。後世のひとにも、大被害を知らしめられる。被災者の体験が生なましく昨日のごとく臨場感で伝えられる。

 小説3.11『海は憎まず』は、登場人物など実名を外してフィクションの形式をとった。だが、大災害という実態の真実を伝えるために、内容はかぎりなく現実に近いところで書いた。 


                      *


 あれらから5年9か月が経つ。2016年12月4日~6日の2泊3日で、陸前高田、大船渡、気仙沼に出かけた。

 当時、取材協力してくださった、陸前高田の大和田幸男さんを訪ねた。かれは明日が見えない、生きていくのがやっとという困窮(こんきゅう)の下で、赤裸々に本音を語ってくれた一人だった。

 そのうえ、5年余の間に折々、現地情報をいただいた。それ故に、廃墟(はいきょ)からの復興の様子は多少なりとも認識があった。

 しかし、現地にきてみると、『聴くとみるとは違う』とあらためて思った。

 大災害前の陸前高田市の人口は、2万3300人(2010年10月1日)だった。この一望する光景のなかで、大半の市民が日々の生活を送っていたのだ。


              写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん

 
 みんな、どこに行ったのだろうか。

 死者は1554人、行方不明者は298人である。どこかに生きていると信じて、探されている方もいる。奇跡はあると、自分に言いきかせながら。

 約2万人の方々は、未だに失業者だったり、仮設から高台の共同住宅に入ったり、新築の支払いで難儀(なんぎ)な生活を強いられたりしているのだろう。
 大震災まえの生活水準に戻れた人は、きっとわずか。はるか遠くの空の下、望郷感で泣いている人もいるだろう、きっと。

 目のまえの光景が、それらを私に語りかけてきた。


                    *


 報道のタブーを裏返すようだが、生活苦や精神障害で自殺した、二次災害者たちも多い、と聞いている。メディアにも乗らず、死に絶えていく。
 それらがほとんど報じられていない。全国の人々は、大震災以降の真の悲劇を知りえていない。生活苦には義捐金、精神障害には心理カウンセラー、傾聴ボランティアが必要だ。

 被災者の苦境は語らず、「もう復興した」かのような明るい報道だけでは、救う手などは伸びてこない。

「だれに遠慮して、あからさまな真実を報じないのか」
 ジャーナリズムの存在とはなにか。大災害でも、戦争でもそうだが、ジャーナリストは権力者たちに蹂躙(じゅうりん)された、いのちを軽視された最も弱いひとの視点も報じることだ。少なくとも、私がすむ東京にはとどいていない。

 報道魂がいまから弛緩(ちかん)していると、もし戦争が勃発したならば、国家・行政の不法行為、非戦闘員への殺戮、人間性を失った兵士たち、そんな真実はまず伝えられないだろう。


「報道は真実を伝えていない」と、『生きている兵隊』の石川達三(日本ペンクラブ元会長)が生前に語っていた。
 先月、私たちPEN会員のまえで、作家・五木寛之さんが石川元会長さんの思い出の話しとして類似したことを語っていた。

 私は同広報委員で、こんかいそれを会報に書く役割りに当たっていた。脱稿した直後に、陸前高田にきて、現地で苦節の緒事情を知るほどに、「報じないことは隠していることと同じ」という認識がジャーナリストにはないのか。メディアの内部規制は善か悪か。
 私自身にたいしても、そう問うていた。


 防潮堤のそとににカキ船が係留されている。船籍数も増えてきたようだ。明るい話題かな。


 案内してくれた大和田幸男さん(左)は、この近くの製材所の社長だった。「鉛筆一本持ちだせなかった」と当時語っていた。

 現在は、製材所の再建を断念し、大学時代からの林業学知識を生かして、いま材木販売業を営んでいる。

 親戚筋のカキ業者を案内してくれた。

「堤防が壊れて砂地になった時が、良いカキが獲れていたけれどね」

 自然は正直なんだな。
 大堤防は、潮流を変え、砂地の酸素すらも奪うようだ。


写真提供 : 大和田晴男さん、撮影日2011年5月16日 (竹はカキ養殖のいかだ)


                              【つづく】

3.11からの手紙(3)=気仙沼大島・明海荘

 子どもは早くに環境に順応しやすい適応力を持っている。東日本大震災では、「怖い思いをした」という戦慄があるにもかかわらず、一年も経てば、子どもらは思いのほか仲よく遊ぶ、明るくふるまう姿があった。反面、被災者の大人は長期におびえが鎮まらず、先行きの不安と失望から暗い表情で語っていた。

 明海荘の取材ちゅうに大島小学校・菊田榮四郎校長(当時)から、話を聞くことができた。「財産と人命を失った大人たちは、避難所で苦しくて、つらい生活でした。子どもが笑顔でがんばっているから、大人は頑張れた」と話されていた。
 作家として、子どもの役割として、うまく理解ができなかった。校長はふだん子どもの目線で見て、考える習慣になっているから、子どもの存在が高いのかな、とさえ思った。
 むしろ、勤務する先の小学校が遺体安置所になり、「女子きょうだのご遺体が毛布に包まれてきました。前任の小学校に在籍していた生徒です。悲しくて涙がとまりませんでした」という強烈な体験が強くかぶさってきた。
 
 村上敬士・かよ著『明海荘の3.11』の冊子は、あえて「子どもたちが開く復興への道」とうたっている。読み終えたときに、菊田元校長の「子どもたちが笑顔だから、大人は頑張れた」という話が理解できた。取材から4年経っていた。
 従来の概念とは逆で、大災害時には、子どもらが精神的に大人を支えてくれる。頑張りと生きがいすらも与えてくれる。

『明海荘の3.11』の「まえがき」で、村上敬士さんは、「笑顔を絶やさず、周囲の人に元気と勇気を与えつづけ、復旧・復興に進む力を与えてくれた姿がいまだに脳裏を横切ります」と記す。まさに、ここらをもっと認識する必要がある。
「不安と緊張の真っただ中で、子どものことを考えると、だれもが前を向くことができました」
 敬士さんの言葉は決して誇張でなく、子どもの存在がいかに復興へのスタートになってくれるか、と言い表したものだ。

 大地震が発生した3.11に、明海荘の女将・村上かよさんは、本州側にいた。車に老母を乗せて気仙沼市内の病院から帰り道で、フェリー桟橋に向かうさなかだった。大震災で、海側でなく、とっさに高台の中学校に逃げた。
 そこは避難してきた車で、中学校の周辺は大混乱に陥っていた。運転席の彼女は、中学生たちが車の誘導する光景をみたのだ。
「(降る雪を)頭や体につけた中学生が、校庭の出入りする車を案内していたのです。おもわず、『すごい、すごい』、『ありがとう』、『冷えないように』と声をかけまたした」。彼女はポケットにあった飴を残らず差し上げた。

 5日目の朝、女将・かよさんはかろうじて気仙沼大島に帰れた。向かった先は避難所だ。わが子に、「家に帰ろう」といった。「親が大島に帰っていない子がいるから、体育館で、輪になって寝る。友達といっしょに体育館にいる」と拒んだ。

 多くの生徒の親たちは、交通路と通信が途絶えた気仙沼の市街地にいるのだ。大火災のなかで、親が生きているか、死んでしまったか、情報はゼロである。
 こうした状況下の生徒は恐怖の極地にいる。親がもし死ねば、高校に行けるのか、大学に行けるのか、子どもだけで食べて生きていけるのか。「怖い」とすなおに涙して泣けるのは、抱き合ってくれる同級生たちなのだ。
 だから、母親・かよさんが、自宅に帰ろう、といっても、娘さんは拒絶したのだ。

 不安と恐怖の中学生にとって、まわりの大人や教員以上に、友だちが最も頼りになる存在だとわかっている。二女は災害時のじぶんの役割をつよく意識していた。だから、親の言葉を跳ねかえし、「私が今できること」を考えたに違いない。


 人間で最も大切なものは水だ。本土の気仙沼からの海底水道パイプラインが大地震で切断されてしまった。島は火災なのに、放水の水もない。生きるための飲料水もない。
 炊き出しの水として、中学校のプールの水をろ過してつかう方法を選んだ。見た目にも、緑色のプランクトン色に染まっている。

「アグ(灰汁)は、気にすんな。子どもたちのエキスだ」
 誰かがそういうと、みんなで笑った。子どもたちを素材にした笑いは元気をつくってくれる。温かい心のふれあいが活気となった。子どもがいる、その存在だけでも、心の希望と支えなのだ。
「どんな場合でも、乗りきるぞ」と同誌を通して、かよさんは誓っている。

 旅館が津波の瓦礫、ガラス、漁具で破壊されている。親がぼう然としていると、「(危ないガラスを取り除こう)、ここからやっていこうよ」と二女の指図で、ふと我をとりもどし、一つひとつやっていく気持ちになれた。

 流れ着いていた一本のネギを拾った子どもが、「ネギの味噌だ」と高々と掲げた。冷蔵庫は電気が来ていないし、アイスクリームが水になっていた。ストローで飲んだ。「うまいな」と明るい顔の子どもらが、復旧への気持ちを導いてくれる。

 かぎられた井戸から、いのちの水を貰ってくるのは、子どもらの役目だ。「水溜」「水汲み」「水運び」は、子どもらが中心になった。
「サバイバル生活のなかで、子どもたちの活躍が復旧・復興につながっていく」と同誌はうたっている。

 多くの報道は、大人の目線だ。災害地の困窮する大人が中心で報じる。子どもらが果たした役割と存在の大きさは正確に伝えられていない。
 と同時に、私の著書・小説3.11『海は憎まず』のなかでも、子どもの役割が欠落している、と感じた。『明海荘の3.11』 子どもたちが開く復興への道、のように子どもたちに視点をすえた取材をしておくべきだったと反省した。

 その意味からも、冊子 『明海荘の3.11』は、村上敬士・かよさんの実体験から描かれた、子どもの存在を高く評価した良書である。


【関連情報】

 村上敬士・かよ著『明海荘の3.11』 子どもたちが開く復興への道 頒価500円

 〒988-0621
 宮城県気仙沼市大島長崎176 明海荘

 ☎ 0226-28-3500
 mail : akemiso@chive.ocn.ne.jp

3.11からの手紙(2) = 気仙沼大島・明海荘

 大震災や戦場で、人間は交通路と通信を断たれると、どうなるのだろうか。そのときの不安は横ばいでなく、刻々と加速的に高まり、やがては恐怖に変わってくる。

 古代ならば、「あの人は大丈夫かな?」と思いつつも、ここで気づかっても仕方ない、待つしかない、と心細くとも、「当人が現れるか否か、それは結果しだい」と自分に言い聞かせられる。

 現代社会は自宅電話から携帯へと普及した。普段どおりケータイ・メールで交信できないと、古代のように「気づかっても仕方ない」と安穏として構えてはいられなくなる。不安にあおられ、焦燥感がつのる。

 未通信=早い段階での死の連想への図式になる。

 連絡がつかない。とてつもなく心が動揺し、精神や情緒までも、一時的におかしくなることがある。

 通信と交通路が絶たれた災害ケースから、私たちが学ぶとすれば、最も顕著なのが、3.11東日本大震災の気仙沼大島の事例である。
 村上敬士・かよ著の冊子『明海荘の3.11』から検証できる。
 

 気仙沼大島は、特殊な地形を知る必要がある。
 気仙沼湾の地形はお椀に似ている。それに蓋(ふた)したような位置にあるのが気仙沼大島だ。

 3.11大地震発生の後、気仙沼大島は2カ所から大津波の襲来をうけている。最初は太平洋側の大津波。次は、気仙沼湾から押し戻す(反射した)返り津波だ。

 ふたつの大津波(太平洋側と気仙沼湾側)が、東と西の左右から、大島の中央部(丘陵)を乗り越えてきた。ぶつかり、水柱が立った。
 そこが津波の通り道になり、島が分断されてしまったのだ。

 大地震の余震は数日間もつづく。その都度、大津波が大島の中央部を襲ってくる。島の北部と南部とが分断された状態が解消されず、島民は大津波の巨大な破壊力に慄いた。

 大島と本土をむすぶ連絡船が、大島の陸上に打ち上げられた。他方で、気仙沼湾ではフェリーが炎上したことから、島への交通路が絶たれてしまったのだ。
 ふだん島から通勤などで本土に渡ったていた人、逆に本土から島に官公庁勤務できていた人。ともに交通手段がなくなった。と同時に、通信が途絶えたので、身内どうし、親子とも連絡がまったく取れなくなった。


 妻・かよとの連絡が取れず、『これはおわったかな』と村上敬士さんは記す。ふだんはあたりまえケータイで確認し、正確な情報に慣れていた。それがぷっり寸断されると、人間はとたんに弱く、不安に慄いたり、おびえたりしてしまう。

 さらなる難問があった。漁港の気仙沼は軽油などの供給基地だった。陸上の大型石油タンクが大津波ですべて浮きあがり、湾内に流出した。鉄製だからぶつかり合えばショート(火花・発火)し、それが漁船や貨物船などに引火した。
 海上火災だ。海面が炎だと、船舶の航行はできない。

 燃える船舶が灯籠ながしのように、潮かげんであっちこっち漂流する。一部の火焔物体が気仙沼大島に漂着し、島の北部で森林火災を発生させたのだ。
 北部にすむ島人は、島の中央部が津波の通り道で逃げを失ってしまった。もはや山火事を消すしかない。

 海域がくわしく潮の流れをよく知る人物がいた。民間連絡船「ひまわり号」の船長である。大地震の後、とっさに、「ひまわり」を沖出ししていたのだ。船体は無傷だった。

 津波が落ち着いた頃合いを見て、島にもどってきた。そして、大島と気仙沼とむすぶ1日1回の交通の便となった。ただ、海上にはまだ燃える瓦礫が黒煙をあげて漂流している。海中に沈んでいる物も多く、ひまわりのスクリューに漁網などが絡むと最悪だ。
 用心深くスビードは出せない。通常ならば、片道15分間のところ、1時間以上もかかったという。燃料を考えると、1日1往復が限界だった。

 4日目の朝、村上かよさんは気仙沼(本土)の避難所の中学校から、「大島に帰りたい」と浜にむかった。海岸はまだ津波のリスクがある。
「実母・娘との3人で、重油、ガソリン、ヘドロでいっぱいのヌルヌルした津波の後の町を歩いて、港にいきました。靴は、海の泥ですべり重い。街なかの臭いにおいが鼻についた」と状況を書きとめている。

 定期船ひまわりは、「年寄りと子どもが優先」で、乗れなかった。

 震災5日目、大島建設の社長の船(プレジャー・ボート)が湾内に見えたので、村上かよさんは手招きをした。当初はダメダメのジェスチャーがもどってきた。
 しかし、タイミングを見て、社長船が気仙沼の桟橋につけてくれた。彼女はそれに便乗し、大島に返ることができた。
 目にした浦の浜は、周囲の家屋がすべて倒壊されており、船着き場の海面となると、浮流する瓦礫で、陸との境目がわからなかったという。

 妻が帰ってきた。夫の村上さんは「5日目に妻が現れた。おどろきを隠せない。あきらめていただけに、喜びがわいてきた」と安堵する。そこで妻を介して聴く情況は、電柱にぶら下がった遺体を甥が見てきたなど、悲惨な話もあった。


 携帯電話がauが5日後に開通した。ドコモが7日後、ソフトバンクはさらに時間がかかった。それぞれが無事を知らせる。「大丈夫だったか」。そのことばで涙が吹きだす。『明海荘の3.11』は克明に伝える。

 日本は災害列島である。「いつか、わが身である」。情報遮断からくる極度の不安は、しっかり認識しておく必要がある。心構えがないと、恐怖の戦慄で、冷静な判断を失ってしまうだろう。

【関連情報】

 村上敬士・かよ著『明海荘の3.11』 子どもたちが開く復興への道 頒価500円

 〒988-0621
 宮城県気仙沼市大島長崎176 明海荘

 ☎ 0226-28-3500
 mail : akemiso@chive.ocn.ne.jp

3.11からの手紙(1)=気仙沼大島・明海荘

 きょう(2016年)で3.11東日本大震災から、ちょうど5年の月日が流れた。
小説3.11「海は憎まず」の発刊からも、3年が経っている。私のみならず、日本人ならば、さまざまなことが去来するだろう。


 5日前、私の手もとに気仙沼大島の「明海荘(あけみそう)」から、『冊子在中』の封書がとどいた。17回に及ぶ岩手・宮城の被災地取材のなかでも、明海荘は、つよく印象に残っている一つである。

 大震災からちょうど一年が経っていた。2度目に同島に渡る。冬の寒さも雪も残っていた。その前に電話で、旅館女将の「村上かよ」さんに、「子どもたちから話しが聴きたいので、ご協力していただけませんか」とお願いしておいた。
 快く小中学校の生徒さんたち、同島の小学校校長にも声がけしてくれていた。同島に渡った当日の夕食の席には、親御さんも、近所の被災者も、薬剤師もいた。

 小説取材だから、美談や極端な体験さがしではない。本音で語ってもらうことだった。10歳前後の子らは口数が少なかった。大震災のショックがつよく影響しているのか、あるいは取材になれていないのか。むりして質問しない、聴きださない、というスタンスで臨んだ。
 専門カウンセラーが入っていると、私の質問で、被災地特有のトラウマから立ち直りかけた心に、ふたたび傷をつくりかねないからだ。ここらは慎重だった。

 うちとけて話しはじめる子もいれば、寡黙なままの子もいた。「島は大打撃を受けた。子どもはじぶんの将来をどう考えているのだろうか」。それは最も知りたい点だったが、将来志向まで質問をむけるには時期尚早だった。島全体がまだ生活支援を仰ぐ状態で、満足な復旧がなされていなかったからだ。

 小中学生から時間をかけて取材できたのは、後にも先にも、この明海荘だけだった。この夜には大人の方からも、数々の被災体験や当時の心境から現況までも取材させてもらった。それが縁で、翌日には訪問させていただいた被災者家庭もあった。
 
 こうした背景をうかべながら、女将の「村上かよ」さんからの封書を開けた。手紙のほかに、『明海荘の3.11』の冊子が入っていた。副題は「子どもたちが開く復興への道」だった。さらに新聞記事、愛知県豊橋市にある桜丘高等学校のカレンダーだった。「笑顔をとどけて・夢をつないで・これからも」で、ボランティア活動の写真がつかわれていた。

 ほかにも、旅館パンフレットとか、名刺とか、私にすれば、取材当日を思い起こさせる写真や情報がたっぷり詰まっていた。
 
 村上敬士・かよ著『明海荘の3.11』は、58ページに及ぶ、労作である。抜粋し、紹介させてもらう。

 2011年3月11日午後2時46分に、巨大地震が発生した。地震による破壊と大津波が沿岸部を襲った。船を転覆させて、家屋を破壊し、沖に流していく。大津波はなんども襲いかかった。
 
 
 同冊子の「はじめに」で、村上敬士さんは「大きい揺れがきて、ふと目をやった足もとの道路のつなぎ目が、大きく口を開けたり閉じたりしていた」と記す。地割れの真上に立っていたのだ。

 村上かよさんは、対岸の気仙沼に、実母を連れて病院に出むいていた。診察を終えたかよさんは、大島に渡る連絡船が午後3時15分(地震発生の30分後)だから、車で船着き場にむかっていた。

「突然、前方の橋がゆれ、道路の両側の街路灯が車のワイパーのように、左右に振りきってゆれていました」。卒業式シーズンで、道路は混んで港の方角へと数珠つなぎだったという。

 かよさんはとっさに反対車線に出た。そのうえで、「海は危ない。山側の逃げ道」と頭に浮かんで、山側に逃げました。


 この日の気仙沼港は津波でながれた石油タンクが大爆発をして、漁船と船舶が燃えた。
「空は赤く染まり、火災の煙が大きく広がって、サイレンは鳴りつづき、まるで宇宙戦争のなかに投げ込まれたような心持になりました」と語っている。

 無事に大島の家に帰れるのか。電話、電気、水、光熱は全部遮断し、夫と子どもには連絡がつかない。3日目には「大島が三つに裂けた」という情報が入ってきた。さらには肉眼でも、島が火災で燃えているのだ。不安の極限にいた。

 『明海荘の3.11』は体験者の目で、みずからが筆を執っているのが特徴だ。大地震発生から、物不足と水不足に陥っていく、生活環境の破壊が書かれている。体験者の苦境がリアルで、生々しい。災害記録として価値がある資料である。

                                      【つづく】 

【関連情報】

 村上敬士・かよ著『明海荘の3.11』 子どもたちが開く復興への道 頒価500円

 〒988-0621
 宮城県気仙沼市大島長崎176 明海荘

 ☎ 0226-28-3500
 mail : akemiso@chive.ocn.ne.jp

小説取材ノート(38)陸前高田=身元不明者が眠る寺でNHK除夜の鐘

 2012年大みそか、NHK『ゆく年くる年』の除夜の鐘は、陸前高田市・米崎町の普門寺(熊谷住職)で行われます、と同市内の被災者から連絡を頂いた。23時50分頃から、生放送である。
普門寺は曹洞宗で、開山500年(仁治2・1241年)の由緒ある寺である。同県内最大の巨木の百日紅や、優美な三重塔などが境内にある。

 ことしの3月28日に、私は普門寺の住職夫妻から取材している。
 3.11の大震災後から、火葬された遺骨が本堂の祭壇に祀られてきた。
 遺骨となった被災者は仏教のみならず、あらゆる宗教が絡む。原則として、同寺は直接関与せず、陸前高田市役所に本堂の一角を提供し、市の管理のもとに遺骨が安置されてきたと説明を受けた。

「それはそれとして、毎朝読経をあげてきました」と住職は語っていた。さらなる話で、震災直後は同市内の火葬場が不足し、千葉市や佐倉市などに遺体が運ばれて荼毘(だび)に付されていた。
「火葬場には同市長や議員らが立ち会ってくださった。それには厚く感謝しています」と住職は話されていた。

 同寺に安置された遺骨はDNA鑑定で殆どが特定されてきた。

 しかし、一年余りたっても、身元不明の遺骨が眠っている。どういう人たちなのだろうか。やがて無縁仏になるのだろうか。そんな憐みもあって、仏像とか、千人像とか、お供え物とか、ローソクとか、全国各地から届いて祭壇のまわりに供えられていた。

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小説取材ノート(36)陸前高田市=将来の世界遺産を取り壊すな

 広島市は、一発の原爆で、26万人が犠牲となった。悲惨な原爆ドームを残すことで、悲しくてつらい思いをする人びとがいっぱいいた。放射能被害で、白血病とか癌とかで苦しんでいる人から、憎悪の目で原爆ドームが見られていた時代もあった。

 原爆投下の当事者の米軍が進駐してきても、広島市は原爆ドームを残した。二度と、市民の頭上に核をさく裂させてはいけない。悲惨な記憶を風化させない。そのためにも、ドームを残す手段を取った。
 それが後世の世界中の核抑止に役立ってきた。

 3.11は1000年に一度の大津波で、東日本の沿岸は大被害を出した。陸前高田市の市役所、市民会館、体育館がそれを象徴している。それらはいまや取り壊されそうになっている。何で壊すのだろう。
「なんで急いで壊すのかな」という疑問が生じる。

 東日本大震災はフクシマ原発を含め、有史において最大の大惨事だし、人びとの記憶から風化させてはならない。そのためには、東電福島第一原子力発電所(使用不可能として)残るだろうし、陸前高田市の悲惨なビル群はぜひとも残すべきである。


 さかのぼれば、三陸沿岸は明治大津波、昭和大津波、チリ地震津波と、過去から悲惨な体験にもかかわらず、半世紀ごとに、大勢の死傷者を出してきた。なぜなのか。それは記憶の風化が最大の要因である。
 かつて津波は口承ばかりで、被害を象徴するものがなく、人びとの記憶から津波の恐怖が薄らいでいたからだ。

 警戒心を失くした住民は、3.11の大地震の後でも、大津波警報が出ても、ろくに逃げなかった。陸前高田市の市民は、チリ地震津波の体験から4m以上の津波は来ないと信じていた。JR大船渡線を越えて津波がこないと思い込んでいた。


 ところが20mの潮位の大津波が市街地を襲った。一度の大津波で、公共の建物、民家、あらゆる構造物がことごとく被害に遭っている。被災した建物はどんな言葉よりも、被害をリアルに伝える。人びとが雄弁に説明しても、かなわない。

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小説取材ノート(35)=大人たちよ、小中学生は泣いているぞ(下)

 学校関係者からも取材するほどに、被災地で長期にわたって犠牲になっているのが、小中学校の生徒たちだとわかってきた。

 若者たちこそ、将来の日本を支える人材である。中学生からスポーツの部活を奪う。小学生から運動の場を奪えば、健全な精神育成に影響を与える。 子どもの将来にかかわる、重大な問題だ。

 東日本大震災はとてつもない被害だった。そんな直後だけに、行政は原野や林野を切り拓いて仮設住宅を建てる、それには地主たちと交渉する時間が殆どなかった。
 それらは理解できたとしても、「そこに学校のグランドがある。空き地と同然だ。家を建てろ」という、安易な発想が底流にあったはずだ。
 いまとなれば、行政のみならず、反対しなかった日本人全員が、生徒や児童に対する思慮不足であった。スポーツや運動を通した、教育の重要性を疎んじていた。

 太平洋沿岸の小中学校には、何万人、何十万人もの生徒が学んでいる。これら生徒たちには発言力はない。文部科学省に訴える手段もない。だからと言って、生徒たちの心を傷つけても良いはずがない。この先を考えてみたい。
 
 日本は災害列島だ。大都市の東京、大阪、名古屋でも、いつなんどき災害が来てもおかしくない。被災地から学ぶとすれば、いずれ仮設住宅が必要だ、そう見たほうが適切な予測だろう。

 災害用の仮設住宅の用地は、これらを見越して事前に確保しておくべきだ。百年の計かもしれないし、明日かもわからない。

 提携できる民間施設と官とが用地を3-5年間使用する中期契約を取り交わしておく。被災者を受け入れる民間には家賃補助などの法整備をする。受け皿はとりもなおさず災害前に確保することである。

 文部官僚や政治家は、「教育が国家を造る」という認識から、『小中学校の土地は利用させない。一時避難場所は認めても、仮設住宅までは認めない』。そんな災害関連法案の修正への動きが必要だろう。
 その法律が制定されると、小中学校は全国にあるだけに、事前の受け皿はより広域で重要になってくる。日本人全般の災害への取組みになる。


 私たち大人が小中学生の時代を思い出しても、だれもが校舎と仮設住宅の狭い隙間で、体育の授業をした経験がない。法律を作るのは大人である。20歳未満の学生には選挙権がない。だからこそ大人は、部活ができない生徒の涙を真剣に考えるべきだろう。

小説取材ノート(34)=大人たちよ、小中学生は泣いているぞ(上)

 東日本大震災の直後、沿岸部の大勢の住民が津波にのみ込まれた。家族を失い、住まいを失い、命からがら助かった人たちは学校、公民館、神社仏閣、親戚の家に避難した。各避難所の窮屈な生活が報じられると、
「何とかしてあげたい」
 と日本中から同情が集まった。ボランティアで現地に出向いた人、支援金を出した人、手紙で励ましを与えた人たち。多くの人がなんらかの行動に出た。

 大手メディアはそれを賛美し、一方で攻撃の的を行政に向けた。ジャーナリストは権力の監視人だから、ある時は正しく働く。しかし、時としてミスリードもする。(最悪のケースが日露戦争以降の戦争誘導だが)。
 
 最近、各被災地を回るほど、仮設住宅の建設はメディアのミス・リードだったのではないかな、と疑うようになった。顧みると、避難者たちの声を代弁する態度で、「仮設住宅の建設が遅い。用地の確保もできていない」と批判をくり返してきた。
 メディアに叩かれると、行政はなんとか早く動こうとする傾向がある。世間の目も、「早く何とかしてあげろ」と厳しい目を向けていく。

 国家が強制力の働く場所のひとつとして公立小中学校がある。校舎、体育館、そしてグランドは国(市町村)の財産である。何の疑いもなく、「グランドに仮設住宅を建てよ」と指示命令が出せる。 こうした法律があることは確かだ。(法が正しいとは限らないけれど)

 被災地の公立学校は、いまや仮設住宅群で埋まっている。宮城県の被災地のある校長に取材すると、
「中学生活で、子ども(生徒)たちにとって最も大切なのが部活です。私たち大人だって、ふり返れば、最も思い出多い一つが部活ですよね」と語りかけてきた。
 現にそうだった。
 校長はさらにこういった。
「野球部、テニス部などは、秋の大会、春の大会を目前にしても、練習ができないから県大会に出られません。生徒は家に帰ると、口惜しい、と泣いているんです。親やお年寄りがそれを私たち教職員に話すんです。むろん、泣く子は一人二人じゃありません。でも、私たち学校関係者はどうすることもできません。まして、大きな声で仮設住宅排除など言えませんから」
 
 生徒たちも被災者である。親、兄弟、親戚の誰かが亡くなり、家も流されている子もいる。少なくとも、同級生や仲間にそういう人がいる。住まいの大切さはわかっている。だから、生徒らは面と言えないのだという。

「中学校時代は一生に一度なんです。ここらをどう考えるかです」と話す。

 私は中学生たちから直接取材したいと思い、各地で何度か試みた。実際に接触した中学生の男女生徒たちはいちように口が重い。
 12-15歳はとくに初対面の人に話したがらない年代層だ。それを差し引いても、「別に」とか、「わからない」とか、「……」無言とか、まず本音が聞けない。ここ一年間にわたる取材で、一度も聞き出せなかった、といった方が正確だろう。

 岩手県のある中学の取材では、「校長にも一言も連絡がなくて、5月の連休に、野球部員が練習するグランドに来て、いまから仮設住宅の杭を打つから、どいてくれと建設業者がいった。いくらなんでも、横暴すぎる」と反発したが、かなわぬものだった。「口惜しかったですよ」とつけ加えた。

「小学生は学校に仮設住宅ができて遊ぶところがない。狭いな、広いところが欲しい。内心は秘めています。でも、言わないんです」と同県の小学校の校長が語ってくれた。

 グランドを残してほしい。教育現場から教育委員会に訴えても、さらには文部官僚に届くように訴えても、ひびくのは空しさだけだったという。
 
 仮設住宅のグランド建設に反対する、学校現場の声や生徒たちの心情を伝えるメディア報道はあっただろうか。逆に、国民はメディアに乗せられて仮設住宅=学校の敷地を使う、という構図に賛成してきた。
 日本中の大人が疑問を持たず、学校に仮設住宅を作らせてきたのだ。