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卒業生の熱意で、かつしかPPクラブが発足

 かつしか区民大学が10年度から正式に開校した(主催:葛飾区教育委員会)。数多くの講座、講演のカリキュラムが組まれている。すべて単位制である。

「私が伝えるかつしか」はその一つ。文章と写真の技術を磨き、小冊子の作り方を学び、それを媒体にして「葛飾を発信する」、「葛飾をより知ってもらう」という勉学の講座である。春から秋にかけて延べ8回の講座をもって終了した。

受講生の全員がみずから小冊子を制作できるようになった。記事と写真の基本的なことを身につけたことから、PCの知識さえあれば、ネットでもビジュアルな情報が流せる。今後は葛飾ミニ記者として、大いなる活動が期待される。

 第1回卒業生の有志が今後とも「写真と文章の技量を磨きたい」という熱意から、自主グループの立ち上げに尽力してきた。同教育委員会・生涯学習課の支援もあり、12月16日に、「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)を立ち上げた。登録メンバーは12人。総会が行われて、会則も定まった。

 P=ペン(記事) P=フォト(写真)

 講師として、私が迎え入れられた。そのうえで、第1回研究会の日程が2月中旬と決められた。

 同日は事前連絡で、自主研究の作品が持ち寄られていた。卒業作品に比べると、実力は一段と増し、一つひとつに目を見張った。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由

 広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。
(西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう

 他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。
 司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。
果たしてそうだろうか。
 司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。

 司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過大評価だと言い切れる。
 第二次長州征伐を決めた幕府に対して、薩摩は早ばやと不参戦を通告した。となると、幕府とすれば軍事立案の段階から、薩摩抜きは折込済みだ。ダメージはほとんどなかったはずだ。
 
「薩摩が抜けても、長州に勝てる」と幕府は確信を持ったから、1866(慶応2年)6月7日に長州攻撃を通告し、蒸気船の軍艦を宮島沖に集合させ、陸の幕府軍を広島に進めてきたのだ。

 幕府軍は戦略において思わぬことが起きたのだ。「さあ、出陣だ」というときに、長州と隣り合う、最前線基地の広島藩の家老・辻将曹(しょうそう)が、老中に不参戦を通告したのだ。
「そんなバカな」と老中は激怒した。

 武器弾薬、食料、水など供給基地の広島が「戦わない」となったのだから、これが徳川全軍の士気を削ぎ、決定的な大打撃となった。
 つまり、火ぶたを切る直前で戦いを止めた、芸州藩の戦線離脱が強烈なダメージになったのだ。結果として、長州が陥落せず、そのうち家茂将軍の死去という、長州側にラッキーな面が生じたのだ。

 司馬さんがいう、「薩長同盟で薩摩の不参戦を決めた、だから長州が勝利した」という見方は、あまりにも薩摩の過大評価。薩摩が途中からでも長州に軍隊を送っていれば別だけれど、それすらなかった。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(1)=原爆の資料焼失ではなかった

 幕末史において、「芸州は日和見主義だ」と批判されている。はたして本当だろうか。大政奉還まで、徳川倒幕の主導的な役割を担ってきたはずなのに、なぜ幕末史から消されたのか。それ自体がミステリーに思える。

 11月には、幕末志士・池田徳太郎の地元である竹原市(広島県)に出むいた。竹原書院図書館で、芸州の幕末史料がほとんどない実態を聞かされた。
「この資料探しは厳しいな」
 そんな思いにとらわれた。
 なぜ、資料がないのか。考えられることは、昭和20年8月6日の原爆の炸裂で、広島城、家臣が住む城下、さらには資料館、図書館もすべて焼けてしまったからだろう、という認識があった。


ここはあきらめずに歩かなければ、史料・資料にはめぐり合えない。

 12月第3週には、幕末・芸州藩の資料を探しもとめて広島、呉を歩いてみた。
 広島県立文書館(古文書収集の公的資料館)では、「芸州藩の幕末資料は希薄ですから、山口、土佐、鹿児島、岡山の周辺から見つけ出してくるしかない手はないでしょう」という、途轍もない遠来なアドバイスを受けた。
 と同時に、広島には幕末・芸州藩の専門的な研究者がいない口ぶりだった。

 次に竹原書院図書館で知りた、呉市(同県)の開業医の郷土史家を訪ねてみた。
「原爆で資料が焼失したけれども、他にも要因があります。広島には帝国大学がなかった。明治から戦前まで広島高等師範だったからですよ」と話された。

 高等師範とは何か。明治時代にできた、文部省管轄の中等教員養成学校で、東京、広島、金沢、岡崎の4ヵ所にあった。とくに東京と広島は大学並みの扱い(学士号)を受けていた(校長になるエリート・コース)。つまり、文部省のお抱え指導者だった。
 
 明治新政府の初代・文部卿は、肥前藩の大木喬任(おおき たかとう)である。肥前藩は尊皇攘夷の藩論すらまとまらず、倒幕の成果などないに等しい。それなのに「薩長土肥」を作り上げた。ある意味で、ねつ造だった。

 その後の文部大臣は長州、薩摩、肥前(佐賀)の出身者がぎゅうじっていた。それが起因して、薩長土肥が長く文部省の指導要綱となった。戦後教育においてすら、歴史教育の場から、薩長土肥が消えなかった。
 

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ノーベル文学賞作家・高行健=国際ペン・東京大会の基調講演

 国際ペン・東京大会の開会式で、ノーベル文学賞作家の高行健さんが基調講演を行いました。講演の概略はすでにメディアで報道されてきました。
 日本ペンクラブの保存資料として「講演録」を書き上げました。全文を掲載いたします。亡命作家や国際ペンの活動など、皆さんのご理解が深まれば幸いと考えます。
                 (穂高健一は日本ペンクラブ広報委員会・委員)


 高行健さんは1940年に、中国・江西省に生まれました。62年に北京外国語学院フランス語学科を卒業し、書店、雑誌社に勤務しました。他方で、執筆活動をはじめました。
 ドイツ、フランスに渡り、90年に天安門事件を背景とした、劇作『逃亡』を発表しました。
 現在はフランスに亡命ちゅうです。中国語で創作した作家として、初めて2000年にノーベル文学賞を受賞しました。


              【基調講演・本文】


 高行健は冒頭にひとつの問題を提議した。
「文学は人類が直面している苦境を救うことができるのでしょうか。自然環境の悪化、環境汚染は加速し、深刻さを増しています。これに対して、作家は何ができるのでしょうか」
 作家は特別な地位も、権力もなく、特権もない。かくも弱い作家が神話やSFの力を借りずに、何ができるのか。
「地球のどこを探しても、汚染を受けていない土壌はないのです。人間は生存にかかわる問題に対して、文学は解決できないのです」

 作家は聖人君子でも、超人でもない。神でも、救世主でもない。文学は人間の苦境を描き、現代人の状況をありのままに描く。この状況をどのように認識するか。それが作家の仕事である。
「作家が政治にかかわれば、政治の飾り物になるか、政治闘争の犠牲になるか、どちらかです」
 作家はいかに利益を超越した、創作活動を堅持する。非常にむずかしい問題であるが、圧力や誘惑に抵抗し、精神の独立を維持するものである。
 20世紀はイデオロギーが氾濫する時代だった。

 共産主義から民族主義まで、さまざまな形のイデオロギーが次々に革命神話を作りだした。文学を利用して革命戦争を盛んに宣伝し、革命指導者を賛美し、革命政党のために賛歌をささげた。
「こうした作品は、いまや紙くずとなり、誰も読もうとしません」
 各地の共産主義国家はいま、西洋の資本主義国家よりも、熱狂的に金銭を追求している。空洞化したロジックの骨組みを残すだけとなった。

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村上水軍を訪ねて。能島の潮流に生きる、漁師が語る(2)

 南北朝時代から戦国時代に活躍した、村上水軍は3家(来島、能島、因島)に別れている。この島を取り巻く海域は、帆船時代は瀬戸内海航路のなかでも最も重要なところだった。村上水軍は制海権を握り、陸上の毛利や小早川など大名と結びついていた。

 前期村上水軍の村上義弘(海賊総大将)は、鎌倉時代の後期に、能島(のしま)に居城を構えていた。後醍醐天皇の皇子で、九州大宰府に落ちた、護良親王(もりよししんのう)と結びついて、九州・四国、さらには関西まで戦いの手を伸ばし、百戦錬磨の勢いだった。彼には子供がいなかった。
 養子縁組などから、その後は3家に分かれている。(後期村上水軍)


 愛媛県・今治市からしまなみ海道を通って、「大島」の宮窪港に行ってみた。小春日和だった。
2キロほど沖合いに能島が浮かぶ。想像よりもはるかに小さな島だった。宮窪瀬戸は干潮と満潮は、とてつもなく激しい潮流を生む。大潮のときは約1mの段差ができる。時速が20キロの激流となる。島全体が天然の要害である。

 漁港の宮窪では、漁師の藤森さんが刺し網の漁網(長さ約800m)に『浮き』をつける作業をしていた。藤森さんから、興味深い話を聞くことができた。
 この付近の海域は厳しいが、それが却って豊富な魚場になっているという。.

 刺し網は、回遊する魚が網に入ると、三角巾に閉じ込められたように逃げられなくんなる。もがくほどに抜け出せなくなる仕掛けだ、と具体的に教えてくれた。
「イカ、タコ、サザエやアワビも、この網に掛かるよ」と、私を驚かせた。貝は夜行性であり、磯から磯に渡るとき、仕掛けた漁網に引っかかるという。

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学友会は、政治評論家の集団か? 「国民の僕って、何ができるの?」

 5人の学友が、11月21日17時に、京成立石に半年ぶりに集まった。ここは「学友会」のホームグランドである。
 元教授の話によると、「立石は昭和レトルト・ブームで有名になったよ」、TVの紹介番組などが反映(影響?)し、最近は20代30代のグループやカップルが首都圏からわざわざ飲みにきているという。と同時に、個人で飲み屋をはじめる新規店舗も増えていると話す。
 
 立石では最も有名なモツ煮『うちだ』がなぜか3日期間の臨時休業だった。ならば、京成電鉄の線路をはさんだ、鳥の唐揚げ(半羽の骨付き)が食べられる『鳥房』に向かった。ここも超有名店である。
 だれもが考えることは同じで、店先には長い列だった。次なるは京成の線路に沿った、中華料理店「海華」だ。

 同店は厨房の料理人、接客女もすべて中国北部の牡丹江(ぼたんこう)出身者である。「安くて、味がよくて、親切なおもてなし」、それは抜群。横浜中華街に決して負けない味で、値段は半額以下である。
 学友会とすれば、公開したくない穴場だ。

        
 元教授は近況報告として、最近の会津旅行を披露する。飯盛山に行けば、イタリアのモニュメントがあり、長州への憎しみの歴史が薄らいでしまう、と語る。

 話題が幕末史に移った。ヤマ屋が、龍馬の「船中八策」は偽もので、明治半ばになって、土佐人が龍馬と後藤象二郎を大きく見せるために作ったものだという。
 司馬遼太郎著「竜馬は行く」は、原本もない船中八策を盲信している、と語る。他方で、下関長府博物館と国立国会図書館に現存する「新政府要綱八策」こそが、正しい史実だ。それは四藩(薩長土芸)の有力者によって作れたものだ、と持論を語る。

         

 元焼き芋屋が話題の突端として、いきなり次回の学友会は「築地魚市場・内市場にしよう」と提案する。つまり、次回の予定を決めておかなければ、気持ちが安定しないらしい。
「魚の仲買人は最近は一般人にも販売しているよ」
 魚市場は朝が早い。朝8時ごろに行けば、もう残り物の投売り。それでも、アジ一匹という売り方はしていないし、アサリなどはキロ単位だ。このメンバー5人で分配すればよい、という提案をする。
 朝からアサリを持ち帰るのは面倒だ。「一杯飲み屋もある」と元焼き芋屋が誘う。「朝から酒を飲む?」あまり乗り気ではない。却下になった。

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竜馬の「新政府綱領」成立の謎=東京新聞

 東京新聞10月31日(こちら特報部)に、龍馬が書き残した「新政府要綱八策」が見開き2ページで取り上げられた。これまで通説とされてきた『船中八策』には原本もなく、存在にも疑問とする、と見出しで報道されている。


 同社「特別報道部」の記者から、私は10月初旬に取材を受けた。
 
「船中八策」は長岡謙吉(土佐海援隊)が書き留めたというが、原書とか、写しすらも存在しない。明治半ばに、最初の龍馬ブームが起きたとき、だれか物書きが、土佐の龍馬と後藤象二郎の業績を大きく見せるために創作したものだろう。
 船中八策は龍馬が書いたように見せかけた、まずは偽物だろう、という見解を示した。

 一方で、慶応3年11月に作成された「新政府要綱八策」は、龍馬の肉筆であり、実名でもあり、国会国立図書館、下関市立長府博物館に原書が残っている。こちらはまさに本物。内容からしても明治憲法の草案である。
 トップ(総理)には誰を据えるか。合議したが決まらず、龍馬はOOOと未定としたのだろう、と推察できる。

 同月15日に龍馬は暗殺された。半月間しか生きていない。この事実から絞り込めば、「新政府要綱八策」の合議の場所が特定される、と話した。

 新谷道太郎著『新谷翁の話』によると、同年11月3日から6日、龍馬が薩長土芸の影響力ある藩士(木戸考允、大村益次郎、大久保利通、後藤象二郎、船越洋之助など十数名)が広島県・大崎下島(御手洗)を集めて密議している。これとぴたり一致する。

 大政奉還の後だし、四藩の軍事行動だけでなく、新政府の憲法をどのようにつくるか、トップを誰にするか、と龍馬主導で話し合った可能性がかなり高い、と説明した。

 その条文を見ると、上院・下院の二院制とか、海外との為替通貨の制定とか、天皇の近衛兵を設けるとか、欧米の憲法を下地にしている。
「船中八策」は龍馬が儒学者の横井小南、大久保利翁(幕閣)の影響を受けて作成したといわれてきた。しかし、その内容を見るかぎり、海外に出向いたことのない儒学者や幕閣の着想ではない。その現物はないし、存在そのものもあやしいかぎり、という否定の根拠の一つとした。

 同記事の一部を紹介すると、

『船中八策は原文書が存在しないことに加え成立過程を詳しく記した資料も乏しい。研究者の一部には竜馬の関与はもとより、存在を疑問視する見方もある。
 幕末研究を続ける作家の穂高健一氏も「竜馬一人で船中八策を発案したとの説には無理がある。新政府のあり方を決めるには、有力諸藩の武士が集まって話し合う機会が必ずあったはずだ」と主張している。』

「新政府要綱八策」の現物をもつ下関市立長府博物館の学芸員の見解なども示し、2ページの記事として、大きく展開されている。

かつしか区民大学「私が伝えるかつしか」講座が8回終了

 かつしか区民大学が今年度から開講した。目標は区民の学びと交流による、「ひとづくり、まちづくり」で、主催は葛飾教育委員会。そのなかの一つ「私が伝えるかつしか」に、私は講師として迎えられた。受講者17人で、5月からスタートし、10月22日に8回シリーズを完了した。

 同講座は、市民の目で葛飾区内の情報を発信していく、ミニ記者の養成である。主として上手な写真の撮り方、上手な文章の書き方、取材の仕方が3本柱となった。


 6回は夜7時からの2時間の講義だった。他の2回は課外活動で、6月は花しょうぶが盛りの水元公園、9月は介護老人保健施設「青戸こはるびの里」、青砥神社の例大祭に出むいた。当日は朝10時に集合し、夕方5時まで、写真撮影の実習と取材の実践を行った。

「綺麗だから写真を撮る、といった撮影から卒業してほしい。伝えたいものがきれい、汚いは関係ない」
 主役と脇役を意識して撮影する。
「人間は人間に感動するものだから、写真には人間を取り込む」
 ポイント1ヶ所では7つの角度からシャッターを押す。そして一つを選びだす。こうした約束事を通して、技量を高めていった。

 受講者には毎回かならず宿題を与えてきた。各人はまずテーマを決める。そのうえで、区内を歩く。講座から学んだ写真撮影、取材の技法を駆使していく。そのうえで、記事にしたり、写真エッセイにしたりして、提出してもらった。提出率は驚くほどで、ほぼパーフェクトだった。
 それを細かく執拗に添削し、返却し、次の作品へと役立ててもらった。数回にして、撮影技術、トリミング技術が向上し、人物がど真ん中に座る、日の丸写真などは皆無になった。

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中国政府は、ノーベル賞の受賞者が大嫌いか?

 今秋は、中国人のノーベル賞に関心をむけていた。日本ペンクラブの広報委員活動の一環で、それを身近に感じる機会が連続していたからだ。

国際ペン東京大会の開会式が9月26日、東京・早稲田大学の大隈講堂で開催された。基調講演のひとりが中国人作家の高行健さんだった(写真・右)。高さんは天安門事件の後、中国にもどれずにフランスで作家活動をしている。2000年にはノーベル文学賞を受賞している。

「文学は政治・イデオロギーを越えたものである。作家には権力や特権はない。創作によってのみ、苦境の社会状況下を描き、(政治)圧力に抵抗することできる」
 高さんは冒頭から、中国には思想の自由がない、という痛烈な批判を感じさせる内容だった。

 同東京大会の最終日に、国際ペンのジョン・ラルストン・ソウル会長および日本側の阿刀田高会長ら代表が、外国人記者クラブと国内記者会見に臨んだ。
 世界中に、獄中につながれた作家・詩人は多い。国際ペンはそれら解放を要求し、家族の支援も行なっている。


         
   (ジョン・ラルストン・ソウル会長、9月30日、外国人記者クラブ)

 ソウル会長から、「一時間ほど前、日本にある中国大使館に、作家・詩人の劉暁波(リウ・シアオポー)氏の身柄拘束を解くように。同時に、中国の言論・表現の自由と民主主義の拡充を図るように、と声明文を渡してきました」と語った。
 劉さんは懲役11年の実刑で服役している。中国の言論・思想の自由と、基本的人権を求める、非暴力の闘いを行なっている、という説明がなされた。

 劉さんは2010年ノーベル平和賞のノミネートされていた。10日後にはその結果がわかる。中国政府の神経は逆立ち、同賞委員会に内政干渉だと批判を繰り返していた。
 ノールウェーでは、最終選考の段階だった。この時期に、国際ペンのソウル会長みずから中国への抗議を示し、世界中にそれが発信されたならば、ノーベル賞の選考にも影響するのではないかな、と記者会見の場で取材しながら、私なりに考えていた。


 10月8日、劉さんの平和賞が決定された。獄中の彼に、どのようにノーベル賞が伝えられるのか。いまの中国のノーベル賞批判を見るかぎり、釈放どころか、授賞式にも参列させないだろう。

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国際ペン・東京大会2010開会式(2)=奄美高校民族演劇部

国際ペンは各国にPENセンターをもつ。その85カ国、200人の文学者・作家が集まった。民族、文化を越えた人たちが一堂に会した。「言論・表現の自由」「戦争に反対」を求める世界的な団体である。


オリンピック、万博、国際ペンの開催は、世界の主要都市のシンボリックなものとして捉えられている。

東京大会の開催式が9月26日に開催された。イベントで、ノミネートされたのが、唯一、鹿児島県立奄美高校の演劇部だった。早稲田大学・大隈講堂に約1000人の前で、民族演芸を披露した。


迫力満点で、一気に観客を魅了した。



女子高校生の魅力的な踊りと歌は、南国・奄美を身近に感じさせた。


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