登山家

【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

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 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

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 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

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 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

【歴史から学ぶ】ロシアのウクライナ侵攻と、昭和12年の日本帝国の日中戦争はそっくり

 21世紀に入り、まさか西洋諸国どうしの大戦争が勃発するとは、予想外のおどろきである。
 ロシアがウクライナに侵攻した。ロシアがなぜこうもクルミア半島やウクライナにこだわるのか。帝国主義の発想なのか。

 双方の事情を知るほどに、昭和12年から、日本帝国が遼東半島にこだわり、中国に侵略する暴走と実によく似ていると思う。

 昭和初期の日本帝国は、国際連盟の常任理事国という大国の地位にいた。軍事力も優れていた。ロシアは安保常任理事国である。まさに、国力はよくにている。


 このたび侵攻したロシアは、隣国のウクライナを弱小国家として上から目線でみていた。おおかた数日で陥落すると目論(もくろ)んでいたと思う。

 昭和12年の日本帝国は、中国の兵器や軍事力は劣っているし、中国人の士気は弱いと侮っていた。いとも簡単に落とせると豪語し、中国の首都(南京)や主要な都市に攻撃をかけたのである。

 当時の中国といえば、国内の政権が分裂し、蒋介石(しょうかいせき)の国民軍と八路軍(はちろぐん・共産軍)が内戦同様にいがみ合っていた。

 日本側とすれば、八路軍は農兵で粗末な武器でしか戦えないと、あまく見ていたのだ。

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 ところが、日本帝国が侵略したとなると、中国側の蒋介石の国民軍と毛沢東(もうたくとう)の八路軍がともに手をたずさえて死力をつくし、日本に挑んできたのだ。

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 現在のウクライナ情勢に目を移すと、戦況はどうだろう。ロシアの侵攻にたいして、ウクライナのゼレンスキー大統領が、私は逃げないし、死を賭(と)して祖国を守ると、全国民に徹底抗戦を呼びかけた。すると、民は祖国愛から士気を鼓舞し、強力なロシア軍と戦っている。

 これはとりもなおさず中国の蒋介石が南京が陥落しても、首都を奥の都市へ移してでも、日本軍に降伏しないと宣言した。それゆえに軍、官、民の固い結束で日本帝国に挑んできたのだ、その構図はいまのウクライナ国民の戦闘とよく似ている。

 ウクライナにしろ、中国にしろ、侵略してきた軍隊を駆逐(くちく)することにある。こうして、またたく間に、本格的なウクライナ戦争、日中戦争に突入し、ともに全土の戦いになったのだ。

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 クライナ軍は士気が高く、当初の予測よりも、よく持ち堪え、侵略者・ロシアを国外に追いだすまで徹底抗戦の気構えだ。
「あらゆる困難に耐え、抗戦の意思を持続させる」
 ゼレンスキー大統領は首都に留まり、全土の戦いへと一歩も引いていない。

 約100年前と見比べると、ウルグアイの政府軍と、中国の国民軍と八路軍(日本が農兵と侮っていた)の武器は希薄でも、強い意思をもって臨む戦い方がよく似ている。
 
 現在のロシア側は圧倒的な軍事力で、プーチン大統領が核兵器をもちらかせる。昭和12年の日本帝国は圧倒的な火器をもち優位にある、と奢(おご)っていた。

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 いまや、侵略国ロシアは世界の各国から強い批判を浴びせられている。結局のところ、世界各国から厳しい経済封鎖されはじめた。
 
 日中戦争に突入したあと、欧米諸国は日本帝国がこの戦争をやめないと、石油輸出禁止にするといくども警告を発していた。
 日本は都市部の攻撃で連戦連勝であり、勝ち戦なのに、相手が完全降伏しないかぎり和平に応じられないとした。

 これはいまのプーチン大統領の考えとまったく同じである。

 外国から「礼儀正しく秩序を重んじる日本国民だったが、別の国民になってしまった」といわれた。「ロシア人は他国の市民を殺す無情な国民になった」といわれる。
ここらも、良く似ている。

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 西欧諸国は、日本が樹立した満州国を認めず、ホロコーストのドイツ・ナチスと手を組んだ(日独伊三国同盟)日本は中国大陸からの撤兵の意思なしと見なした。やがて、欧米は手を取り日本列島の周辺にABCDラインという経済封鎖を布いた。そのうえで、日中戦争の即時停止と中国からの撤兵をもとめてきたのだ。

 日本国内はしだいに備蓄の石油が無くなりはじめ、軍艦、戦車、飛行機の戦略にも影響が出はじめた。
「石油があるうちに、仮想敵国のアメリカを攻撃した方がよい」という意見も飛びだす。
                 
              *

 現在のロシアは2014年3月11日にクルミア半島を独立国家にさせた。日本がかつて満州国を樹立し傀儡(かいらい)政権をつくったように。実に、よく似ている。

 ここまで似るのか、と思うほどだ。

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 古今東西。戦争突入は簡単だが、和平は難しいといわれてきた。『戦いは安く。和は難しい』という格言になっている。

 ロシアはいま勝利している側だ。ここが重要だ。
 プーチン大統領としては叩きのめすまで戦う。勝っている以上は自分の要求は通すまで講和しない、という気持も解らぬではないが、経済封鎖が利いてきてロシアの国力が弱ると、それはかつて日本帝国が失敗した道なのだ。

① ロシアはいま、ウクライナ側のゼレンスキー大統領から和平をもとめられているのだから、すみやかに「和平と講和」のテーブルにつくチャンスだ。交渉は有利に展開できる。いまが休戦、停戦、講和へと進む最上の道だ。
 なにはともあれ、最高の「講和の機会」のチャンスというとらえ方だ。ここを見間違うと、たいへんな戦争犯罪者になっていく。
 日本でいえば、東条英機元首相のように。

② さらに第三国から和平の斡旋があるいまは「躊躇なく」それに応じることだ。フランス、トルコ、イスラエルなどから和平斡旋の手があがりはじめた。最大の和平の好機と見なす。
 これをむげに蹴(け)っていると、昭和16(1941)年に太平洋戦争に突入した日本帝国のように、世界を見渡しても仲介国が一カ国もない状態になってしまう。外交努力すらもできない。

 プーチン大統領は、帝国主義の古い発想だ。ゼレンスキー政府を倒し、ロシアの意図とする臨時政権をつくっても、それはまちがいなくウクライナ内戦を呼び起こす。泥沼の惨事になるだろう。
 その先は、かつてのアフガンのような最悪の状況になり、五年、10年後にはロシアの経済力がいつそう衰えて撤退する結果になる。
「あの時、止めておけばよかった」
 あらゆる戦争の最後の言葉を吐くことになる。


 最悪のシナリオがある。1853年のクルミア戦争のように、小さな戦争があれよあれよ、という間に英仏とロシアというヨーロッパの大戦争になった。この過去の教訓を生かすべきだ。
 もし、おなじ道になると、NATOとロシアの対立構造というヨーロッパ大戦争になる。戦争がはじまると、双方で冷静さが失われる。
 こんかいも原子力発電所が狙われた。
 となると、戦争犯罪者としてプーチン大統領の命狙いでモスクワ・クレムリン宮殿に戦術核が落とされないとも限らない。

 その危険な状況にもはや近づきある。日本帝国が歩んだ、日中戦争、太平洋戦争、東京大空襲、広島・長崎は他人事ではない。
 まだ100年も経っていないのだ。

 いまは核戦争を止められるのは、プーチンロシア大統領のみだ。 
  
 

雪化粧した富士山くっきりの矢倉岳(870m)=関本誠一

日時 : 2021年11月25日(木) 晴れ

参加メンバー : L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、開田守、関本誠一(計5人)

コース : 新松田駅(バス)⇒矢倉沢BS~矢倉岳(昼食)~(足柄万葉公園)~地蔵堂BS⇒新松田駅

登山記録

 これから登る矢倉岳は、おむすびの形をした山で、その特徴的な形状から、標高が高くないにもかかわらず、街なかからも目立ち、地元の人たちからは「たけのこし」と称して親しまれている。

 ここ南足柄市周辺はフィリピン海プレートと北米プレートの境目になっており、世界でもまれな場所である。
 国府津-松田断層があり、山頂付近はマグマが噴火せず、地下深くでゆっくりと冷え固まってできた「深成岩(石英閃绿岩)」 と呼ばれる岩石が、現在の高さ(870m)まで隆起してできたもの。しかも、数キロしか離れていない箱根山が、今も活発な火山活動しているのとは対照的である。
 この場所がダイナミックに変動したかを物語ってくれる。ブラタモリもびっくり!ジオサイトだ。


 新松田駅に8:40集合した。8:45発のバスで、南麓登山口のある矢倉沢BSに9:20到着する。

 バス停からジオパークを過ぎ、民家(?)の壁に大きく書かれた標識に従って進む。舗装路から急な登りが始まり、さらに鹿(イノシシ)柵をくぐると、本格的な登山道に入る。

 緩急の坂を繰り返しながら、日当たりのよい登山道を登ってゆく。紅葉が一部残っており、これを目の当たりにすると、息苦しさも忘れるくらい和ましてくれる。
 山頂直下の最後の急登を登りつめると、矢倉岳山頂に到着(11:25)した。

 山頂には数パーティーが休憩中だったが、我々が登ったコースで他の登山者とすれ違うことはなかった。
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 山頂からの展望はいうことなし。かつては木製の展望台(櫓)があったらしいが、この山には不要である。

 箱根・神山と外輪山の金時山、明神が岳、7~8合目まで雪化粧した富士山、愛鷹山群にかけての眺望撮影に30分も夢中、落ち着いたところでようやくランチタイムとなる。

 山頂滞在1時間後に出発(12:30)する。足柄峠方面に向かう。途中、万葉集が書かれた立て札のある足柄万葉公園を通過する。

 下山は足柄古道を下る。

 この道は1200年前の奈良・平安時代の東西交易路の一部で御殿場からこの地(足柄峠)をえて、坂本(関本)を通り小絵(国府津)から箕輪(伊勢原)、武蔵へと続いていた。だが、富士山の噴火で一時通行止めになってから東海道が主流となり人々の往来も少なくなり、わずかに残る石畳がかつての風情を醸し出していた。

 車道を横切るように道が続いており、ところどころ矢倉岳を正面に見ながら下ってゆく。地蔵堂BSには約1時間で到着する(15:00)。

 バス便までの40分ほどバス停脇の茶屋でミニ反省会。その後は有志で新松田駅近くでの反省会で締める。新型コロナが落ち着いているなかのハイキング日和と、筆者とって2年ぶりの会山行、同行した山仲間に感謝だ。


            ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報266から転載

高尾東山稜 ~ 初沢山(294m)の新雪ハイク =佐藤京子

日時 : 2022.2.12(土)                
メンバー  : L上村信太郎、佐治ひろみ、宮本武、佐藤京子                           
集合場所 : 京王高尾山口駅 10時集合
コース :  高尾山口駅~四辻~金毘羅山~初沢山~高尾駅


今年初めての山行だ。風もなく天気も上々である。

 2日前に都心にも新雪が降ったので、アイゼンをというアドバイスをいただき、スパッツとともにリュックに詰める。
 高尾山口に10時に集合。パソコン検索で良い地図が見つからなかったこともあり、駅の売店で「新版高尾山登山詳細12,500分の1」を買う。これで今後、自分の行動範囲が少しは広がると思う。 

 西氷川橋を渡り、甲州街道を右へ。ホテルTAKAONE(タカオネ)の前を右に少し進むと商店と駐車場の間に細い道があり「登山道ではありません」という看板があった。
 紛らわしいがここを入る。
「かたらいの路・高尾・草戸コース 四辻・高尾駅」の看板が見えたところから細い山道に入ると、雪道が山へと続いていた。
 リーダーの指示によりアイゼンを装着しストックを出す。私は、アイゼンを使用するのが3回目なのでとても嬉しい。
 
 雪道を登っていくと遠くになだらかな初沢山がくっきりと見えた。椿の花が冬景色にいろどりを添えている。
 四辻から金毘羅神社に向かうところに蝋梅が咲いていた。茶色の枯れた大きな実をつけている。
 ろうばい園などでは、きれいに見せるため種を取っているのだと佐治さんが教えてくれた。

 金毘羅特別保全地区を歩き、浅川金毘羅宮の長い階段を登る。12時20分に狭い頂上に着いた。ここで昼食を摂る。
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 この神社では、雨水を大きなドラム缶に貯めて、蛇口をつけて利用し「自然護持 未来永劫 天水尊」と書いてある。

 午後は、1時に出発した。初沢山高尾天神社の階段を登ると、境内には蝋梅が咲いていた。二宮尊徳像もあった。
 1時40分頃、山頂の初沢城址跡に到着する。

<やすべえの森>と書いた手作りの看板に「やすべえさんは身代を興し、せっせと土地を買って、誰でも散歩できるよう柵もせず、ぐるぐる小径をつくった。のちに、山口安兵衛さんのご子孫が市に寄付された。」《高尾 浅川の自然を守る会》と書いてあった。


 ここでのんびりコゲラ、メジロ、ヤマガラをウオッチする。しばらく下ると、黄色い円錐形の巨大な塔が見えてきた。「高尾みころも霊堂」だ。
 みころも公園にシラサギが1羽が羽ばたく。雑木林から小鳥の鳴き声がたくさん聞こえる。カワセミもいた。
 双眼鏡で美しい姿に見とれる。
 いつか鳥の名前と鳴き声が、それぞれ聞き分けられるようになりたいものだ。

 久々に山歩きができて楽しい一日だった。高尾駅前で反省会をしたのは久しぶりだ。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

コロナ禍の城南五山めぐり 市田淳子                          

日時:2020年12月13日(日)
コース:花房山~ねむの木の庭公園~池田山公園~島津山~雉子神社~高輪南児童遊園八つ山~御殿山庭園

 この春、新型コロナウイルス感染症が流行してから近所の友だちと実行している活動の一つがウォーキングだ。
 家から出かけて戻るまでたいていの場合、交通機関を使わない。

 今までの最長記録は目黒の自宅から神代植物公園の往復だ。この日は、紅葉を楽しみながらゆっくり歩くことを目的とした。コースは城南五山めぐり。花房山・池田山・島津山・八つ山・御殿山を城南五山と呼ぶ。五山はそれぞれが近くにある。
 つまり、山あり谷ありの地形というわけだ。

 ところで、東京スリバチ学会という名前を聞いたことがあるだろうか。ブラタモリでもお馴染みだが、凸凹地形に着目した、東京の楽しみ方を教えてくれている。
 目黒駅周辺は急な坂が多く、坂を下ると例えば目黒川のような川やスリバチの底に行きつく。アップダウンの多い散歩コースで、絶好のスリバチ散歩だ。

 まず目黒駅前の花房山からスタート。今ではただの高台だが、目黒から花房山通りを下り五反田駅に至る。
 五反田に下りずに池田山の高台にある「ねむの木の庭公園」に向かう。ここは上皇后陛下のご実家・正田邸の跡地を整備し、2004年に開園した区立公園だ。公園の中央にはネムノキがあり、庭にはプリンセスミチコが上品に咲いていた。

 次は池田山公園。坂道の下から入っていき池の畔を歩き、山を登りながら紅葉を堪能した。上から池を望むと、地形がよくわかる。
 公園を出て国道1号を渡ると、島津山、清泉女子大学がある。中にある重要文化財「旧島津家本邸」を見学したかったが、現在は見学ができないようだ。その島津山の地域にある雉子神社をお参りした。

 慶長年間に徳川三代将軍家光公が、この地に鷹狩りに来られた時、1羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、珍しいこの地を「雉子宮」と称したとのことだ。

 島津山から坂道を下る途中、高輪南児童遊園に立ち寄り、高低差を利用した公園であることを感じた。そして、八つ山を通り最後の御殿山庭園へ。
 東京マリオットホテルの南側にあり、江戸時代は桜の名所だったそうだ。ここも高低差を生かした庭園で、モミジの紅葉が素晴らしい。
 山を下りていくと水の音がし、人工的な流水は池に注ぐ。四季折々の自然が楽しめる庭園だ。こうして城南五山散歩のゴール。遠くの山に行かなくても1日楽しむことができる。これもコロナのおかげと言ったら言い過ぎだろうか。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報255から転載

コロナ禍の権現山(1312m)   佐治ひろみ       

日時...2021年4月1日 晴れ

• コース...猿橋駅8:18 → 浅川バス停8:50 ~ 浅川峠9:40 ~ 権現山11:10 ~ 雨降山12:35 ~ 初戸バス停14:30/14:54 → 上野原駅

• メンバー...佐治他4名

 久し振りの権現山山行に心は弾む。山頂から綺麗な富士山は眺められるだろうか?

 猿橋駅発8:18のバスに乗り、浅川バス停まで約30分。里山には山桜があちこちに咲いている。終点のバス停に着き身支度を整えて5人で出発した。
 今日は久々の千メートルを越える山、まずは浅川峠を目指してゼイゼイしながら登る。
 9:40 峠に着き、小休止をとる。

 ここから権現山へ行く道と、扇山へ行く道に分かれている。いつも権現山しか行かないが、今度は扇山方面にも行ってみたいものだ。
 休憩を終え歩き出すと、あちこちに鳥の声がする。綺麗な自然林の新緑の中で、きっと小鳥達も気持ちがいいのだろう。人間も同じ。
 権現山へのジグザグの急な登りに喘ぎながらも、心は何だかウキウキしてる。自粛生活の中でのたまの休みに、こうして山の中を歩き回れる幸せをしみじみと感じてしまう。

 山頂までの辛い登りもようやく終えると、尾根に出る。ここからは尾根伝いにもうひと頑張りだが、まわりの景色が開ける分やる気が出てくる。
 平日のせいか、すれ違う人はゼロ。山頂に着いても私達だけで、広々とお昼ご飯をいただく。
 あいにく富士山の方向だけ雲がかかっていた。だが、北側の笹尾根、東の坪山、南の扇山、これから行く雨降山等、素晴らし景色に、ご飯も一段と美味しく感じる。

 30分の休憩の後、雨降山に向かい出発すると、今日初の登山者に遭遇した。恰好からして、サイクリングの人? 少し下った祠の近くに、かっこいいマウンテンバイクが止めてあった。この山道をチャリで登るとは恐れ入る。

 尾根上に2つのピークを踏む。以前は名札など付いてなかったけれど、大窪沢ノ頭と次に鍋割沢ノ嶺を越えすみれの丘?を通り、雨降山の雨量観測施設に到着する。
 今日はここから初めての黒房尾根を通って下りるのだ。どんな道なのだろうと興味津々だったが、ほとんどが檜林の下り一直線である。
 こちら側から登るのは大変だろうと思ってしまう。

 ようやく里の家々の屋根が伐採地から見えるようになると、山の中腹には山桜が咲き、川が流れ、足元には小さな花が現れた。
 さらに下りバス停近くにはスイセン、色鮮やかな花桃、さくらが咲き乱れ、こんな山奥に桃源郷! と思わせるような景色に疲れも吹き飛んでしまった。
 最後にこんなステキなお花見ができて、本日の山行も大満足でした。


         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報261から転載
 

コロナ禍の山行・宇都宮アルプス=佐藤京子

                                  
日時 : 2020年11月7日(土) 快晴

参加者 : L武部実 佐治ひろみ 宮本武 金子直美 佐藤京子
                         
集合 : 宇都宮駅 8時00分 集合
 
コース : 宇都宮駅 8:30のバス(日光方面行き) ~ 一里塚停留所下車 ~ 平成記念子どものもり公園内 冒険活動センター管理棟から山に入る 榛名山 ~ 男山(527m) ~ 本山(562m) ~ 飯盛山(501m) ~ 晴嵐峠~高舘山(477m) ~ 黒戸山 ~ 登山口 ~ 中徳次郎バス亭 ~ 宇都宮駅

 新幹線に乗ったのは今年になって初めてである。7時8分発。コロナのせいか普通車両はガラガラだ。宇都宮で下車した。西口歩道橋下からバスに乗り約30分で、一里塚バス停で下車する。

 少し歩くと、一里塚と書いた高い標識が立っている。船生街道入口交差点を左折した。約2キロで、「こどものもり公園」に入る。宿泊棟や炊事場もある大きな公園だ。
 木々の紅葉が私たちを迎えてくれた。遠足なのだろうか。小学校の名前を書いたバスが2台駐車している。


 冒険活動センター管理棟から榛名山を目指した。低山ながら、けっこう急登で岩場もある。きつい。ハアハアいって登っていると、子ども達の声が聞こえてくる。もう榛名山に登頂し、下山のようだ。
 聞くと市内の小学五年生だ。2校の長い列だった。軽々と下りてくる子どもたちがほとんどだが、恐々おしりをついて下りてくる子もいる。
「お弁当が楽しみだね。」
 なんて声をかけた。

 遥かに日光の山並みがくっきりと見える。男体山と女峰山だと、仲間が教えてくれた。メンバーではもう登った人が多い。
(私は、いつか登ることがあるかしら。)

 昼前に本山に到着する。待ちに待った昼食だ。朝が早かったので、お腹はペコペコだ。陽だまりの中、昼食を楽しむ。

 帰りは、急坂があるとは聞いていたがけっこうきつい。ロープを張ったところが何か所もある。このロープがなければ、もっときつかっただろうと話す。ロープをきちんと張ってくれた方々に心の中で感謝する。

 そういえばスーパーボランティアとして有名になった尾畠春夫さんが、今年、緑綬褒章を受章された事を思い出した。
 登山道の整備がボランティア活動の最初だそうだ。私にも何かできることはあるのだろうか。ゴミ拾いくらいか?

 時間が押してきたので兜山は省略した。バスに乗って宇都宮駅に戻り餃子屋さんを探す。「GO TO EAT」のせいか? 各店には行列ができている。空いている店を見つけて入る。
 宇都宮餃子とビールで静かに乾杯だ。


 当日の天気予報は、「曇り。夜は雨」だったが大外れ。温かい山歩きだった。
 晴れ男の武部氏と同行者に感謝する。Kさんが落とした上着を、すれ違いで登って行った若い男性が見つけてくれたようで、管理棟に届けてくれたことは、本当に嬉しい出来事だった。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報256から転載

ヒストリー・福島安正の単騎アルタイ山脈越え 上村信太郎    

 明治維新から25年後、まだシベリア鉄道はなく、日清・日露の戦争が勃発以前、1人の日本人が世界を驚かせた快挙がある。それは、当時まだ誰も成し遂げなかった厳冬期シベリア横断を、同僚や従者を伴わずに馬で完全踏破して日本人の存在を世界に示したことだった。

 その人物は当時ベルリン駐在武官の福島安正陸軍少佐(40歳)で、任務を終えての帰国にあたり、あえて騎馬で陸路を走破したもの。赴任地ベルリン出発に先立ち、福島はドイツ皇帝ウィルヘルム二世に謁見している。

 明治25年2月11日、英国産の9歳牝馬「凱旋号」に跨って勇躍出発。ベルリンを発ちポーランドのワルシャワ、ロシアのサンクトペテルブルグ、モスクワ、カザン、エカテリンブルグ、オムスク、セミパラチンスクを経由し、ロシアと清国(中国)国境地帯の山脈を越え、モンゴルのウランバートルから北上してロシアへ入った。さらに、バイカル湖畔のイルクーツクに立ち寄り、東シベリアのチタを経て、旧満州(中国東北部)に入り、ハルビンを経て三度ロシア入り、ウラジオストクから「東京丸」に乗船。釜山で汽船に乗換えてスタート翌年の6月29日横浜に上陸して市民の盛大な歓迎を受けた。

 所要日数は488日。延べ走破距離およそ1万4千㌔メートルだった。


 馬によるこれだけの長期旅行を実行するくらいだから、福島は騎馬隊出身と思ってしまうが実は歩兵。乗馬訓練は「凱旋号」購入のあと猛特訓している。

 また、幾つもの国を通過するのにどの国の言葉を使ったのか気になるが心配無用。福島は中国語、英語、ドイツ語、フランス語が堪能で、ロシア語を習得中だったからだ。

 この長大な横断のために福島が携行した荷物は全部で40㌔グラムと驚くほど軽量。主な持ち物は下着、手袋、洗面具、医薬品、地図、製図用具、日時計、晴雨計、馬体手入具、予備の蹄鉄、人馬の予備食糧1日分、護身用として軍刀と拳銃。他に寝具用毛布1枚と外套を鞍の後部に括り付けた。

 最初の難関はウラル山脈越えだ。入山5日目の7月9日、山頂に建つ「欧亜境界碑」に到達した。二番目は、ロシア、新疆ウィグル、モンゴルの国境に連なるアルタイ山脈越えだ。ロシア人将校の助言によりキルギス人の案内人を雇う。

 山脈中の富士山に似た峰に「アルタイ小富士」と命名したスケッチを残している。9月20日、ロシア国境警備隊に見送られて麓の村を出発。山中で大吹雪に遭うもウランタバ峠を突破。国境を越えて9月24日にモンゴル側の遊牧民天幕に到着。アルタイ山脈踏破は日本人最初であった。

 三番目はバイカル湖の東に位置するヤブロノヴィ山脈越え。標高こそ低いが厳冬期のため気温は氷点下30度以下。1月14日この山脈の峠を越えた。その28日後、アムール河上流の凍結した氷上で落馬し、昏睡状態に陥る瀕死の重症を負うも、奇跡的に恢復して旅を続行。


「単騎シベリア横断」を実行した福島の動機は、欧州人が事あるごとに日本人ら東洋諸国を軽蔑した態度をとるのに反発し、それなら世界初の偉業を達成して彼らの鼻柱を折ってやろうと思ったのが真相らしい。

 冒険ブームの今、「冒険家・福島安正」をマスコミが取り上げないのはもったいないと思う。


 最後に、単騎シベリア横断の主役は馬だ。「凱旋号」の運命は哀れ途中で死亡。すぐ現地で次の馬を購入して「ウラル号」と命名。ウラル山脈を越えたがケガをしたため手放す。難所アルタイ山脈越え直前にロシア人の牧場で5歳の牡馬を入手し「アルタイ号」と名付けた。

 全行程で購入した馬は10頭。この内、「アルタイ号」など3頭は日本まで連れてこられ、最後は上野動物園で余生を送ることができたのだった。

   (白山書房『山の本』112号掲載文を短縮)

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№250から転載

いつもと違う夏・コロナ禍の陣馬山=市田淳子

 新型コロナ感染の収束が見えず、夏になってもいつもと違う生活を強いられている。withコロナの山行はどうあるべきなのか、自分自身に問いながら、8月22日、陣馬山から高尾山までを歩いた。

 山に行くことを考えるなら、まず、体力を維持しなければならない。今までなら夏山のためトレーニングをして山に臨んでいたが、春から自粛生活をしているのだから、トレーニングは他の形でできる限りしておかなければならない。
 そして、山では人との距離を持つ工夫が必要で、出会ったならマスクを着用して、自分も他人も守らなければならないと思ってきた。

 そんなことを念頭に8月22日、陣馬山から高尾山という縦走を実施した。最寄り駅から始発で高尾駅へ。高尾駅を降りると、さほど暑くはなく爽やかだとさえ思えた。

 しかし、高原下でバスを降りて登っていくにつれ、風はなく足どりが重くなった。足は鍛えていたが心肺機能は衰えたのだろう。

 ちょうど近くに1人で歩く女性がいて、「暑いですね。風がないですね。きついですね。」と話しながら、苦しいのは自分だけじゃないと言い聞かせて歩いた。いつもより単独行が多いような気がする。


 山頂近くになると、様々な秋の花が頑張れと言わんばかりに次から次へと現れた。キバナアキギリ、オミナエシ、オトコエシ、シラヤマギク、ススキ、キンミズヒキ・・・そんな花を見るだけでも吹いてもいない秋の風を感じられたような気がする。

 春から秋にかけて陣馬山頂付近には草原の花が多く見られ、私にとってはこれから始まる縦走の充電をする場所だ。


 しかし、先が長いからゆっくり楽しんでいるわけにはいかない。景信山までが飽きるほど長い。この日は高温で風がないため、特に長く感じた。小仏城山手前の階段まで行くと、もう少しだという気分になる。

 時計を見てもまだまだ余裕があり、最後まで行けそうだ。それにしても、すれ違う登山客やトレランを楽しむ人たちがほとんどマスクをしていないのには驚きだ。

 夏の奥高尾は高温でマスクは厳しいのはわかるが、私はマスクなしでは歩く気になれず、すれ違うたびにフェイスカバーを付けた。高尾山まで来ると、もう先が見えたようなもので、どのルートで降りようかと余裕も出てきた。

 そして、ついに高尾山口駅まで到着することができ、この日の目標を達成した。こんな山行がいつまで続くのか、これからはこうなるのか、先が見えない不安はあるが、自分なりに確立していく必要があると感じた。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№253から転載

奥多摩・上高岩山(1010m)  武部実

 2020年9月5日(土) 晴れ

 参加メンバー : L武部実、佐治ひろみ、針谷孝司、佐藤京子、金子直美、藤田京子、他1人

 コース : 武蔵五日市駅からバス ~ 大岳鍾乳洞入口 ~ サルギ尾根 ~ 高岩山 ~ 上高岩山 ~ ロックガーデン ~ 御嶽ビジターセンター ~ ケーブルカー駅


 
 武蔵五日市駅のバス停は多くの乗客が並んでいた。ほとんどがトレランのいでたちで、これから大岳山まで練習に行くとのことだった。
 その多人数のせいもあってか、バスは臨時便がでて2台で出発する。ほとんどの乗客が大岳鍾乳洞入口で下車した。

 9:00出発。サルギ尾根の登山口は養沢神社の右奥にある。ところで、サルギ尾根とは面白い名前だ。
「戦後間もなく、昭和20年代の前半のこと。大岳沢に群れをなして棲んでいた猿が時々、この尾根に出てきた。山仕事に出かけた人々が見て、猿が出てくる尾根だから猿来尾根/サルギ尾根と言い習わしたという」(日本山岳会多摩支部HPより)

 登り初めから急登だ。
 30度超えの気温と相まって、汗でシャツからズボンまでビショビショでまるで服の上からシャワーを浴びたみたいな状態だ。一時間半ほどで、炭焼き窯跡になる。このあたりから高岩山の由来となった、と思う露岩がでてくる。

 11:20高岩山(920m)着。山頂は狭く見通しもあまりない。唯一見られたのが、これから登る上高岩山の赤い東屋の展望台である。目標物に向かってもう一息だ。

 12:10展望台着。大きな赤く塗られた東屋があって20~30人は入れそうだ。見晴らしは抜群で、近くの御岳山や日の出山はもとより、眼下の青梅市から西武ドームまで眺められることができた。

 昼食を摂って出発。展望台から上高岩の山頂までは10分ほどであった。
 12:55に着。標識があるだけで見通しはあまりない。

 ここから下って芥場峠からロックガーデンに行く予定だったのが、少々のミスで、地図の破線ルートに入り込んでしまった。
 こちらからでも問題はないが、登山路の確認がおろそかだった。岩場とクサリのコースは、あまりお勧めできないと事前に調べてきたのに、反省。

 14:15ロックガーデン着。ここで小休止。サルギ尾根で出会った登山者は上高岩山から下りて来た時にすれ違った6~7人のパーティーのみ。コースとしての人気度はイマイチなのを感じる。

 途中ビジターセンターに立ち寄り、ケーブルカー駅には16:10に着いたが、一車両後にしてレンゲショウマの観察に行く。
 8月6日に訪れた時と同じくらいの数が咲いていて良かった。とにかく暑く大変な山行だったが、また来てみたいなと思ってくれれば幸いである。

(上高岩山展望台東屋にて)
   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№252から転載