登山家

100年前、関東大震災によって被災した2人の登山家  上村信太郎

大正12年9月1日、午前11時58分44秒、相模灘東部、伊豆沖約30㎞の海底を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東一円を襲った。

 これがわが国最大の災害をもたらした関東大震災である。もちろん登山家も被災した。震災が運命を分けた二人岳人を以下に紹介する。

 神奈川県小田原の資産家の次男、辻村伊助は日本山岳会の創期会員にして東京帝大農芸化学科卒の植物学者。精力的に日本アルプスの山々で冬期登山や大縦走を行っていた。

 大正2年、伊助は園芸の研究とアルプス登山を目的に渡欧。敦賀~ウラジオストク~シベリア横断~ヨーロッパへ。スイスのユングフラウ(4158m)、メンヒ(4099m)、8月、グレース・シュレックホルン(4078m)を登攀するも下山中にナダレで遭難した。ガイド、日本人の友人ともに重症。インターラーケンの病院に長期入院する。
 入院中に看護師ローザ・カレンと愛を育み、帰路ふたりはロンドンの日本領事館で結婚。香取丸に乗船して帰国した。


 伊助はその後、小田原で実兄の常助と「辻村農園」を経営するかたわら、高山植物の栽培と研究に没頭。大正9年、子供・夫人と一緒にスイスを訪れる。翌年に帰国。箱根湯本に1000坪の「高山園」を開く。

 大正12年9月1日。関東大震災が発生した。伊助の家屋、庭園は跡形もなく土砂に押し流される。3年後、伊助夫妻、三人の子供、使用人の遺体が発見された。
 伊助、享年37。遺稿『スウイス日記』は、アルプスの美しさ素晴らしさを日本で初めて紹介した名著といわれている。

 犠牲者の数から関東大震災は東京が中心地と思われがちだが、辻村伊助の悲劇でもわかるように「揺れ」そのものによる直接被害は南関東に集中し、震源に近い横浜は震度6の烈震で、東京は震度5の強震だった。
関東大震災 横浜.jpg
 横浜だけでも倒壊家屋23000、死者24000人。市街地はほぼ全滅、外国人居留地の住民の約8分の1が犠牲になったといわれている。

 震災で被災したもう一人の登山家は、アメリカ人のオーティス・マンチェスター・プールである。震災発生時は横浜の外国人居留地にあった商社の総支配人をしていた。当時43歳。明治13年シカゴ生れのプールは8歳のとき、茶の仕入れ業をしていた父の希望で家族と一緒に横浜に永住するため来日した。
 成長して明治28年にイギリスの船舶売買会社ドッドゥェル・カーリル商会に入社、大正5年にドロシーと結婚、山手68番地に住み、3児をさずかる。震災前には日本支社の総支配人にまで出世していた。


 プールと山の関わりは12歳のときに父と登った富士山だった。それ以後は自分で企画して伊香保、白根山、妙義山、富士山などを登り、明治37年に槍・穂高など、北アルプス240マイル大縦走を達成。この山行により、イギリスの王立地理学会の会員に選ばれ、日本山岳会にも入会した。
 神戸に赴任した時は、イギリス人が創設したハイキングサークル「神戸マウンテンゴート・クラブ」に入会して熱心に六甲山へ通った。また爆発後間もない磐梯山へも出かけている。


 時間を関東大震災発生時に戻す。プールの勤務先は外国人居留地のほぼ中央にあり、日本人50人を含む60人が働いていた。
 正午少し前、個室にいたときに激しい揺れが始まり、約4分間続いた。その間、人々は激しい揺れに翻弄され叩きつけられ、梁はきしみ壁が割れ床は隆起し、いつのまにか天井から空が見え、壁崩壊の轟音と土埃で視界が閉ざされた、とプールは回想している。

 最初の揺れの後、静寂がきて再び激しい揺れがつづき、壊れた家屋のあちこちで火災と強風が発生した。
 プールはひとりでなんとか倒壊をまぬがれた自宅に辿り着き、日本人の下男から避難した家族の安否を知らされ、瓦礫の街へ家族と友人を捜して彷徨する。ついに家族と再会。到着した安全な救援船に避難することができた。

 2年後プール一家は横浜を去り、ニューヨークへ。そして震災から40年後、プールがロンドンの出版社から一冊の震災体験記(日本版の題名は『古き横浜の壊滅』)を刊行したことにより、横浜の外国人居留地における震災の詳細が初めて世界中に知られることになったのだった。

                          写真=横浜開港資料館


 ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№288から転載

一等三角点を訪ねて(Ⅰ) 関本誠一

三角点というと以前は単なる地図上の記号としか見ていなかったが、最近は登頂の証しとして山頂でタッチするようになってから親しみを持つようになってきた。
登山者にとって登山者にとって馴染み深く、とても大切なものであることから本コラムを書くことを思い立ったのでお付き合いください。

一等三角点 1.jpg
 三角点は等級毎に一等から四等(...五等三角点は沖縄県・ハテ島、神山島の2か所のみ)に区分され全国に設置されているのは知られております。では一番最初の基準となっている一等三角点からひも解いてゆきますが、その前に疑問が浮かびます。
 その一つが三角点のおおもと(原点)です。さて、それはどこにあると思いますか?そこで、今回は『原点』のお話し。

 まずそのうちの一つ、標高の基準(水準点)のおおもとが日本水準原点(Japanese datum of leveling)ですが、東京都千代田区にある国会前の庭園(憲政記念館敷地)内の日本水準原点標庫という建物の中にあります。
 東京湾の海水面を基準に作られており、1891年(明治24年)旧参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)があった場所に設置されました。普段、水準原点は非公開でそのものは見ることができませんが、年に一度、測量の日(6月3日)近辺で一般公開されるそうです。
 
 次に経緯度の基準(三角点)のおおもとが日本経緯度原点(Japanese origin of longitude and latitude)ですが、水準原点設置の翌年、1892年(明治25年)に旧東京天文台(現・国立天文台)の子午環を日本経緯度原点として定めました。しかし1923年(大正12年)の関東大震災により子午環が崩壊したため、その跡地に金属標(写真中央部の黒点)を設置し、今日に至っているそうです。
 その場所とは東京都港区にあるロシア大使館の裏側の敷地で、そこに記されている原点数値(緯度・経度)は【3.11】東日本大震災による地殻変動に伴う修正も行われ、現用の施設であると同時に史跡として港区指定文化財にも指定されています。

 因みに、この原点から一番近い一等三角点(東京・大正:25.4m)ですが、隣接のアフガニスタン大使館(旧国交省分室)の敷地内にあります。残念なことに現在は立ち入ることはできないため塀の外から黄色三角標識(写真)を眺めるだけである。

一等三角点 3.jpg

 最近はGPS計測による電子基準点が全国に1300か所ほど設置されており測量技術も時代の流れとともに変わりつつあります。

 写真は東京・練馬区に設置してある電子基準点(高さ5m)です。
 
 次回は三角測量に関するお話しです。(続く)


   ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№219から転載

明治の登山家と松本サリン事件=上村信太郎


 平成6年6月27日深夜、長野県松本市北深志の住宅街に化学兵器サリンが散布される事件が発生した。それが住民8人死亡、数百人が負傷するという未曾有のあのテロ事件であった。

 当初、県警は事件の第一通報者であり、被害者の河野義行さん宅を家宅捜索して多量の薬品類を押収。河野さんを殺人未遂の重要参考人として取り調べ、事件の原因がサリンと判明してからも続けられた。ずっと後になってから冤罪だったとして警察関係者、新聞社、テレビ局などが河野さんへの謝罪を余儀なくされたのは周知のとおりである。

 事件で自身がサリンの被害に遭い、同時に奥さんを亡くされた河野さんを気の毒に感じていたところ、日本山岳会の会報『山927号』に河野義行さんに関する短い記事を見つけたのでここに紹介することにした。


 記事のタイトルは「河野齢蔵の写真貼」、執筆者は長野県在住の登山史研究家の牛丸工氏。河野齢蔵は長野県生まれ。「日本山岳会」創期会員であり会員番号は九六番。明治から昭和の初めにかけての登山家、博物学者、山岳写真家、高山植物研究家、教育者としても活躍した人物だ。
 四男三女に恵まれたが、男の子はいずれも幼少で亡くなり、後継男子がいなかったのでのちに義行さんが養子になった。」のだという。

河野齢蔵.jpg
 東京新聞出版局刊『岳人辞典』によれば、「河野齢蔵は長野県出身。慶応元年生まれ。

 登山は、明治26年夏の乗鞍岳、明治31年白馬岳、明治37年赤石岳登山、赤石山頂に2泊して高山植物の写真を撮る。昭和7年利尻・礼文植物採集、さらに千島チャチャヌプリ岳でコマクサ群落発見。明治44年に信濃山岳研究会を創立。登山の普及に努めた。著書は『日本アルプス登山案内』『日本高山植物図説』などがある。」と紹介されている。

 このほか、日本山岳会の機関誌『山岳』には河野齢蔵の肖像写真が掲載されている。その姿は旧百円紙幣の板垣退助ソックリのヒゲ姿。また、大正2年に赤石山脈で採集した新種の植物の学名は発見者の名をとって「ロニセラ・コーノイ」と命名されたとの信濃毎日新聞記事も見つけることができた。


 それにしても義行さんはサリン事件の容疑者にされた多量の薬品をなぜ持っていたのだろうとずっと不思議に感じていたが、牛丸氏はその点について「松本サリン事件の際、通報者の河野さんの家が家宅捜索され、大量の薬品が出てきたため〈お前が犯人だ〉とされてしまったが、この薬品は博物学者の河野齢蔵が雷鳥などを剥製にするための薬品の小瓶で、半世紀以上経っても多数残されて家にあった。」と書いている。
 おそらく義行さんは、尊敬する父が使った多量の瓶を大切に保管していた。そのことが不運にも捜査員の疑惑を招くことになってしまったのかもしれない。


 今回、長年の疑問が解け、同時に明治期の一人の著名な登山家の存在を知り得たことでこの文章を書いた。  (記・上村)


(ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№282から転載)

山頂に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ宝篋山=武部実

2022年 3月20日(日) 晴れ
参加メンバー:L上村信太郎、武部実、他11人
コース:土浦駅からバスで宝篋山入口バス停~極楽寺コース~宝篋山~小田城コース~     宝篋山入口バス停

上村 ①.jpg
 
 茨城県を代表する山といえば、誰もが筑波山と答えるだろう。
 その筑波山の南方に位置するのが宝篋山だ。20年位前から、地元のNPO法人らが登山道を整備して人気ハイキングコースになったということだ。

 土浦駅に集合し9:25発の筑波山口行のバスに乗車し、目的地までの料金は640円、しかし土休日に限ってIC系カードを提示すると710円の一日乗車券になる。覚えていてほしい。
 宝篋山入口バス停から5分で小田休憩所があり、ここで一旦トイレ休憩。10:35に出発。登りは極楽寺コース。舗装された林道からは真正面に宝篋山の山頂の電波塔が眺められる。歩くこと15分、今が見ごろとばかりの真っ白な花を咲かせていたコブシが2本と、道路をはさんで緋寒桜が対照的に真っ赤な花を咲かせていて、とても綺麗だった。

 ドングリが一面に落ちている山道を過ぎ、ちょっとした岩場をぬけると、白滝等の小さな滝がいくつか続く。純平歩道との分岐を過ぎると、富士岩の表示板がある。ここから富士山が眺められるのかと思ったら、円錐形の岩が富士山に似ているからのようだ。宝篋城の空堀跡を過ぎれば電波塔が2棟設置されているところが山頂だ。

 12:13標高461mの山頂に着いた。正面に宝篋山の表示板があり後ろには、この山の名前にもなった2.5mもの高さがある、石造りの立派な宝篋印塔が鎮座してあった。
 説明板には「山頂より見渡せる所に棲むすべての生類を極楽浄土へ導く威力をもった石塔です」とある。この見晴らしのいい場所からは相当数の人が該当する、ありがたい仏塔なのだ。

 山頂には大勢のハイカーが来ていたが、人気の理由がうなずける。筑波山の半分の標高で、これだけ展望のいい山はなかなか無い。北方には筑波山や雪をかぶった男体山、西方には富士山そしてスカイツリーまでも、そして南方は霞ケ浦と、眺望に納得の山頂だ。

 13:15に下山を開始する。小田城コースで下る。下浅間神社、幸福の門(狭い岩を潜り抜けること?)を過ぎて、要害展望所で一服。はるか先に牛久大仏がうっすらと眺められた。14:50に小田休憩所に着く。

「天気に恵まれ、眺望の素晴らしい山に登れて最高の一日であった」と参加者一同思っていること間違いなしだ。

 (ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№269から転載)

福島・栃木・茨城の県境に位置する八溝山=佐藤京子

日 時:2023.年5月17日(水) 快晴
参加メンバー:L武部、関本、古賀、佐藤  
常陸大子駅前からタクシー8:25発~日輪寺遊歩道入口9:05着~旧参道入口~八溝五水経由~八溝山10:10着~日輪寺10:55~日輪寺遊歩道入口11:30~登山口入口12:30~蛇穴バス停着12:38(昼食)13:08発~常陸大子駅13:45着 13:52発~水戸15:09着 15:27発(ひたち18号)~品川駅16:50着 
                               
上村 ②.jpg

前日に袋田の滝と月居山に登ってから太子駅前の旅館に泊り、二日目の今日は茨城県最高峰という八溝山に登る。
早めに就寝したこともあり昨日の月居山への階段上りの疲れは取れたか?? 
7時朝食。玉屋旅館で立派な軍鶏弁当を受け取りいざ出発。リーダーが手配してくれたタクシーに乗り込む。余談だがこの弁当は、「玉屋の奥久慈しゃも弁当」として駅で販売しているそうだ。車は、九十九折の林道をどんどん登ってゆく。新緑がまばゆい。約40分で日輪寺参道入口に着いた。 「八溝川湧水群を経て山頂1.7Km」の看板。旧参道を登っていく。新緑の中にオレンジ色の山つつじがひっそりと咲いている。八溝山の湧水群は、古来「五水」 とも呼ばれ「金性水」「鉄水」「龍毛水」「白毛水」「銀性水」というそうで、徳川光圀公が命名したといかにも茨城県らしい解説が書いてある。これらの湧水群は、集まって沢となり久慈川の支流である八溝川の源流となるそうだ。昭和60年に環境庁の日本名水百選に選ばれたとか。ひとつ枯れていたが川の流れの音が心地よい。野鳥の声も美しい。春ゼミの一声も聞こえた。
古賀さんが何度もギンリョウソウを見つけた。チゴユリもかわいらしく咲いている。カタクリは花の部分がもう黄緑色の莢状だ。八溝嶺神社を経て1022mの頂上に着いた。この山は茨木、栃木、福島の三県にまたがっているという。有料の展望台に上ってパノラマの風景を楽しむ。空気が澄んでいれば西は那須連山、男体山、南には富士山、筑波山、北には蔵王連峰や安達太良山も見えるようだ。 
帰りのバスの本数が少ないため先を急ぐ。日輪寺を経て遊歩道入口に戻った。行きはここまでタクシーだったがここからバス停のある蛇穴(じゃけち)まで舗装道路を約4K以上歩く。  バス停に着きホッとする。草の上にシートを敷いてやっと昼食。軍鶏弁当を味わう。ゴボウの味がとても美味。何とか食べ終えたところにバスが到着。客は我々のみ。茶畑が所々に見えた。寒暖差が大きいので美味しいという久地茶を買いたかったが店はない。水郡線に乗換え水戸を経て東京へと戻った。この日の気温は31度と真夏のような日差しだった。    

(ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№284から転載)

不老山(928m)でサンショウバラ鑑賞 武部実

2022年5月28日(土) 晴れ

参加メンバー:L武部実、佐治ひろみ、市田淳子、針谷孝司、金子直美、古賀雅子

コース:駿河小山駅からバスで明神峠 ~ 湯船山(1041m) ~ サンショウバラの丘 ~ 世附峠 ~ 不老山 ~ 駿河小山駅

 
 今回の山行の主目的は、ちょうど見ごろをむかえたであろうサンショウバラを観賞することである。
 出発点の明神峠は、サンショウバラを求めて路線バスで来た人たち以外の登山客も大勢いた。M山岳会のメンバーは貸し切りバスを利用して、30数人が参加とのことだった。

 9:30 標高900mの明神峠を出発した。
 アップダウンがなく平坦な登山路は、ブナの葉などにおおわれていて下界の暑さが噓のような涼しさであった。
 山ツツジが赤い花をそこかしこに咲かせていた。40分ほど歩くと、今回のルートで一番標高が高い湯船山(1041m)に着いた。山頂の周りは樹木で見通しはない。
 この辺りのブナの木は巨木が多いのが印象的だ。


 明神峠から歩いて2時間位からサンショウバラを見かける。この辺からサンショウバラの丘までが群生地である。
 バラは、木という感じはしないが、サンショウバラは木に咲いているのだ。ちょうど見ごろで大小のピンクの花びらを咲かせて、いい香りを漂わせていた。
 ゆっくり観賞したり写真撮影したりで、サンショウバラの丘に11:50に着く。先着の登山客もここでみなで昼食を摂る。
 箱根方面の眺めも良い格好の休憩場所だ。


 12:30出発。5分も歩くと世附峠だ。ここからの登りがこのコースで、一番キツイところ。登山客が増えているのだろう、いままでなかった簡易トイレが設置してあった。
 40分かけて登りきったところが、不老山山頂と駿河小山駅へ下る分岐だ。
 10分ほどで不老山山頂に着く。たしかここにもサンショウバラの木があったと思ったが、二本とも花は無く葉のみ。

 集合写真を撮って下山を開始した。
不老.jpg

 駅に向かう下山ルートは二つあるが、今回は金時公園まわりだ。途中、林道の法面が陥没している箇所があり早期の修理が望まれる。キイチゴを食したりして、順調に駅近くまで来たら、私の足が前に進まなくなった。

 初めての経験であり、皆さんにサポートしてもらい、なんとか16:34発の電車に乗ることができた。
 二か月前に頭を打った後遺症なのか、はたまた別の要因か、電車に乗って休んだら元通りになったが、年とともにアクシデントは起きるものだ。
 ご心配とご迷惑をおかけしたことをここでお詫びします。

 山行としては、初期の目的であった、サンショウバラが丁度見ごろで良かったのではないかと思う。ある旅行会社が私たちと同じルートを一週間後に企画し8800円で募集していた。
 今回はこれ以上の価値があったと思う。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№272から転載

山岳信仰の霊山・両神山(1723m) 金子直美

日 時  2022年6月12日(日)
メンバー L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、金子直美

 前日の天気予報が急変してしまい、朝方に雨は上るけど、12時と15時に傘マークが追加された!
 それも最近頻繁に発生してるゲリラ豪雨予報でした。だが、佐治リーダー武部さん佐藤さん私の日頃の行いを信じて、決行となりました。


 山名の由来は、イザナミ、イザナギの神を祀っているから両神、「龍神を祭る山」が転じて両神山など、諸説あるそうです。

 今回のお山は、秩父の両神山です。
 日帰りは少々厳しく、始発のレッドアローでは町営バスに間に合わず、たまたま私の親友が秩父在住なので甘えてしまい、西武秩父駅から白井差登山口まで車で送ってもらうことが出来ました。
 そこで待っていたのは、前日に入山予約電話を入れたお相手・山中氏(両神山の地主)です。
 コースタイムに余裕が無いのに、話しは面白かったけどちょっと丁寧すぎる説明のあと、入山料(環境整備協力金)1000円は、無事に下山した時にお支払することで、まずは10時に登山を開始した。


 今回の白井差コースは、見事な滝を見ながら渓流沿いを、その先は葉高の広葉樹林帯である、頂上の直前には少しの鎖場。山中氏が小綺麗に整備されたとても歩きやすい登山道でした。

 水晶坂の辺りで声が聞こえるので振り返ると、長靴を履いて片手にクリネックスの空き箱を持って登ってきた山中氏がいた。ここの400mがきついだけだよ、今100m、200mとエールを送ってくれていたのに、いつの間にかお姿は消えてました。

 その後、ブナ平辺りで雷と小雨が降り始めたので、豪雨に備えカッパを着込みました。結果は着なくてもいい程度でした。でも、頂上では雹が降っていたみたいです。
両神山.jpg
 私たちが頂上に到達した時には、太陽が微笑んでくれていたので、頂上で昼食を摂る。13時10分に下山を開始する。

 気がつくと、帰りのバスの時間ギリギリになっていて、佐治リーダーが山中氏の家まで先に下り、入山料をお支払した。
 リーダーの交渉のお陰かな? 山中氏にバス停まで軽トラックで送って頂ける事となりました。みんな大喜び! さらにバス停で、16時22分の町営バスが来るまでの約1時間、山中氏の色々なお話をたっぷりと聞くことができた。
 とても楽チンで、たいへんお勉強になった山行となりました。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報272から転載

平山城址公園と多摩丘陵ハイキング  藤田京子

2022年1月13日(木)晴れ
参加メンバー: L佐治ひろみ、SL古賀雅子、開田守、蠣崎純子、武部実、渡邊典子、藤田京子

コース:長沼駅 → 長沼公園 → 平山城址公園 → 七生公園 → かたらいの道 → 高幡不動 →
高幡不動駅


 からっと晴れた日差しとは裏腹に館の風が頬に凍みるなか長沼駅を出発した。(10:00)

 間もなく都立長沼公園の看板を見て、枯木の木立を進んでいった。ここは多摩丘陵の北側の端だそうだ。可愛いアオジが餌をついばんでいた。
 時期が合えばウグイスなど色々な鳥が見られるらしい。

 丘陵を上っていくと、景色が良くなっていった。春から秋の頃は花や緑で気持ちいいだろうが、冬の今は葉がなく見通しが良い。つまりどの季節でも良いと言うことだ。

 となりの平山城址公園へ行くには、急な階段を降りて、住宅地を抜けていく。

 LとSLのリードで無事に平山城址公園へ。
 本当の城はあったのかなかったのか? そんなことを話しながら適度なアップダウンを繰り返し、中央付近の京王研修センターの入り口に着いた。
 ここからは歩きやすい道だ。見晴台で昼食。ここは奥多摩~奥武蔵の山々の眺めが素晴らしい。(11:55)写真撮影。

 新型コロナのオミクロン株の急拡大が心配されるので、ディスタンスを十分にとって、しばしの休憩。腹ごしらえもできて後半へ。(12:40)
多摩.jpg
 平山城址公園を出て、多摩メモリアルパークでトイレ休憩。そこを抜けると、以前は多摩テックがあったところ。そのそばを通り広い道路に出た。信号を渡り、ふたたび里山らしい雑木林の道へ。
 家のゆずが鈴なりに実って、道路に飛び出していた。ここは都立七生公園の中らしい。やがて「かたらいの道」の看板がでてきた。

 またしても、アップダウンの道を辿っていくと、多摩動物公園のフェンス伝いの道に出た。Lが下見の時はオランウータンが見られた、という。そこに期待していたのだが、オミクロン株のために休園だった。
 オランウータンは残念だったが、少し先の猛禽類の檻で鷹か鷲か?の勇姿が見られた。ラッキー! アップダウンは少々きつかったが、時おり聴こえるかわいい鳥の鳴き声に癒やされて高幡不動の八十八カ所巡礼地に入っていった。


 ここではお参りの人が巡るらしく、出会う人の数が増えてきた。椿・紫陽花・彼岸花も有名である。今度は花の時期に来たいと思った。
 立派な五重の塔がそびえ立ち、私たちの到着を迎えてくれた。本堂では護摩焚きが行われ、線香の煙が疲れた身体をほぐしてくれた。
 仁王門は古めかしく、この寺の歴史を感じさせてくれる。
 ゆかしい門を出て高幡不動駅へ。(15:10)

 久しぶりの山歩きで心も体もスッキリ。ありがとうございました。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№268から転載


【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

槍ヶ岳.jpg
 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

         *

 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

           *
 
 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

【歴史から学ぶ】ロシアのウクライナ侵攻と、昭和12年の日本帝国の日中戦争はそっくり

 21世紀に入り、まさか西洋諸国どうしの大戦争が勃発するとは、予想外のおどろきである。
 ロシアがウクライナに侵攻した。ロシアがなぜこうもクルミア半島やウクライナにこだわるのか。帝国主義の発想なのか。

 双方の事情を知るほどに、昭和12年から、日本帝国が遼東半島にこだわり、中国に侵略する暴走と実によく似ていると思う。

 昭和初期の日本帝国は、国際連盟の常任理事国という大国の地位にいた。軍事力も優れていた。ロシアは安保常任理事国である。まさに、国力はよくにている。


 このたび侵攻したロシアは、隣国のウクライナを弱小国家として上から目線でみていた。おおかた数日で陥落すると目論(もくろ)んでいたと思う。

 昭和12年の日本帝国は、中国の兵器や軍事力は劣っているし、中国人の士気は弱いと侮っていた。いとも簡単に落とせると豪語し、中国の首都(南京)や主要な都市に攻撃をかけたのである。

 当時の中国といえば、国内の政権が分裂し、蒋介石(しょうかいせき)の国民軍と八路軍(はちろぐん・共産軍)が内戦同様にいがみ合っていた。

 日本側とすれば、八路軍は農兵で粗末な武器でしか戦えないと、あまく見ていたのだ。

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 ところが、日本帝国が侵略したとなると、中国側の蒋介石の国民軍と毛沢東(もうたくとう)の八路軍がともに手をたずさえて死力をつくし、日本に挑んできたのだ。

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 現在のウクライナ情勢に目を移すと、戦況はどうだろう。ロシアの侵攻にたいして、ウクライナのゼレンスキー大統領が、私は逃げないし、死を賭(と)して祖国を守ると、全国民に徹底抗戦を呼びかけた。すると、民は祖国愛から士気を鼓舞し、強力なロシア軍と戦っている。

 これはとりもなおさず中国の蒋介石が南京が陥落しても、首都を奥の都市へ移してでも、日本軍に降伏しないと宣言した。それゆえに軍、官、民の固い結束で日本帝国に挑んできたのだ、その構図はいまのウクライナ国民の戦闘とよく似ている。

 ウクライナにしろ、中国にしろ、侵略してきた軍隊を駆逐(くちく)することにある。こうして、またたく間に、本格的なウクライナ戦争、日中戦争に突入し、ともに全土の戦いになったのだ。

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 クライナ軍は士気が高く、当初の予測よりも、よく持ち堪え、侵略者・ロシアを国外に追いだすまで徹底抗戦の気構えだ。
「あらゆる困難に耐え、抗戦の意思を持続させる」
 ゼレンスキー大統領は首都に留まり、全土の戦いへと一歩も引いていない。

 約100年前と見比べると、ウルグアイの政府軍と、中国の国民軍と八路軍(日本が農兵と侮っていた)の武器は希薄でも、強い意思をもって臨む戦い方がよく似ている。
 
 現在のロシア側は圧倒的な軍事力で、プーチン大統領が核兵器をもちらかせる。昭和12年の日本帝国は圧倒的な火器をもち優位にある、と奢(おご)っていた。

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 いまや、侵略国ロシアは世界の各国から強い批判を浴びせられている。結局のところ、世界各国から厳しい経済封鎖されはじめた。
 
 日中戦争に突入したあと、欧米諸国は日本帝国がこの戦争をやめないと、石油輸出禁止にするといくども警告を発していた。
 日本は都市部の攻撃で連戦連勝であり、勝ち戦なのに、相手が完全降伏しないかぎり和平に応じられないとした。

 これはいまのプーチン大統領の考えとまったく同じである。

 外国から「礼儀正しく秩序を重んじる日本国民だったが、別の国民になってしまった」といわれた。「ロシア人は他国の市民を殺す無情な国民になった」といわれる。
ここらも、良く似ている。

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 西欧諸国は、日本が樹立した満州国を認めず、ホロコーストのドイツ・ナチスと手を組んだ(日独伊三国同盟)日本は中国大陸からの撤兵の意思なしと見なした。やがて、欧米は手を取り日本列島の周辺にABCDラインという経済封鎖を布いた。そのうえで、日中戦争の即時停止と中国からの撤兵をもとめてきたのだ。

 日本国内はしだいに備蓄の石油が無くなりはじめ、軍艦、戦車、飛行機の戦略にも影響が出はじめた。
「石油があるうちに、仮想敵国のアメリカを攻撃した方がよい」という意見も飛びだす。
                 
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 現在のロシアは2014年3月11日にクルミア半島を独立国家にさせた。日本がかつて満州国を樹立し傀儡(かいらい)政権をつくったように。実に、よく似ている。

 ここまで似るのか、と思うほどだ。

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 古今東西。戦争突入は簡単だが、和平は難しいといわれてきた。『戦いは安く。和は難しい』という格言になっている。

 ロシアはいま勝利している側だ。ここが重要だ。
 プーチン大統領としては叩きのめすまで戦う。勝っている以上は自分の要求は通すまで講和しない、という気持も解らぬではないが、経済封鎖が利いてきてロシアの国力が弱ると、それはかつて日本帝国が失敗した道なのだ。

① ロシアはいま、ウクライナ側のゼレンスキー大統領から和平をもとめられているのだから、すみやかに「和平と講和」のテーブルにつくチャンスだ。交渉は有利に展開できる。いまが休戦、停戦、講和へと進む最上の道だ。
 なにはともあれ、最高の「講和の機会」のチャンスというとらえ方だ。ここを見間違うと、たいへんな戦争犯罪者になっていく。
 日本でいえば、東条英機元首相のように。

② さらに第三国から和平の斡旋があるいまは「躊躇なく」それに応じることだ。フランス、トルコ、イスラエルなどから和平斡旋の手があがりはじめた。最大の和平の好機と見なす。
 これをむげに蹴(け)っていると、昭和16(1941)年に太平洋戦争に突入した日本帝国のように、世界を見渡しても仲介国が一カ国もない状態になってしまう。外交努力すらもできない。

 プーチン大統領は、帝国主義の古い発想だ。ゼレンスキー政府を倒し、ロシアの意図とする臨時政権をつくっても、それはまちがいなくウクライナ内戦を呼び起こす。泥沼の惨事になるだろう。
 その先は、かつてのアフガンのような最悪の状況になり、五年、10年後にはロシアの経済力がいつそう衰えて撤退する結果になる。
「あの時、止めておけばよかった」
 あらゆる戦争の最後の言葉を吐くことになる。


 最悪のシナリオがある。1853年のクルミア戦争のように、小さな戦争があれよあれよ、という間に英仏とロシアというヨーロッパの大戦争になった。この過去の教訓を生かすべきだ。
 もし、おなじ道になると、NATOとロシアの対立構造というヨーロッパ大戦争になる。戦争がはじまると、双方で冷静さが失われる。
 こんかいも原子力発電所が狙われた。
 となると、戦争犯罪者としてプーチン大統領の命狙いでモスクワ・クレムリン宮殿に戦術核が落とされないとも限らない。

 その危険な状況にもはや近づきある。日本帝国が歩んだ、日中戦争、太平洋戦争、東京大空襲、広島・長崎は他人事ではない。
 まだ100年も経っていないのだ。

 いまは核戦争を止められるのは、プーチンロシア大統領のみだ。