かつしかPPクラブ

東日本大震災を忘れるなかれ、岩手・宮城の両県を現地取材する

 東日本大震災は、東京・葛飾においても、他人ごとではない。
 最近、各家庭に災害時のハザードマップが配布された。東京下町の葛飾、足立、江戸川、江東区などは危険地帯として真っ赤に染まっている。「どこに逃げるの?」。千葉県の市川、松戸も真っ赤である。一目瞭然で、逃げ場所がない。
 
 かつしかPPクラブは、2018年度の遠距離・取材として岩手、宮城の大津波被災地で、被害者から生の声を聞く取材活動をおこなった。
 

 11月10日(土)上野駅発7時22分の「はやて119号」一ノ関駅着・9時30分で、現地にむかった。車で出迎えてくれたのが、大和田幸男さん(写真・左)だった。

 陸前高田駅はすっかり消えた。駅舎のあった場所で、チリ地震の最高水位がここでした。しかし、3.11の大津波ははるかに高かったのです、と大和田さんがリアルに語る。

 

 かつしかPPクラブは、葛飾区内を中心に活動しているが、年に一度は、遠征・取材している。これまで新潟、鹿児島、広島に次ぐもの。

 費用はかかるけれども、それだけに真剣な取材で力量をつけることができる。という考え方です。、 

 一ノ関から陸前高田まで、距離が長い。途中、昼食を兼ねて名所・猊鼻渓で、船下り約1時間ほど楽しんだ。



 渓谷の絶景である。かつては砂金が取れた。

 岩手は平泉が物語るように、黄金文化が栄えたところだ。

 

 東京を早立ちしてから、14時頃に陸前高田に着きました。大和田さんがさっそく陸前高田の被災地・一本松に近い丘陵に案内してくれ、3.11当日と現在の復興状況などを語ってくれた。

 丘陵の高台に新築の家を建てている方からも、話しを聞くことができた。



 
 地元の有力な製材所を経営していた大和田幸男さんは、工場・事務所のすべてを失くした。
 
 「ここが工場敷地でした」

 大津波に負われた私の逃げの姿が、ユーチューブで見ることができます。

 大津波で破壊された中層マンション。最上階だけが、津波にまぬがれたのが確認できる。



 
 
 箱根山展望台から、三陸のリアス式海岸へと大津波が襲ってきた方角が確認できます。
 方位盤からも確認するなど、取材は念入りです。

 

 大船渡市の碁石海岸に案内していただいた。

 真正面の沖合が、3.11震源地になる。波はダイレクトに押し寄せて、この一帯の漁師さんたちの集落は破壊されてしまったという。

 

 なぜ、碁石海岸なのか。

 砂浜でなく、岩石が大波で粉砕されて、長い年月の間に、ちょうど碁石の大きさになったもの。自然の破壊力を海辺で実感する。 
 

 ふだんでも荒い波が押し寄せる。


 カメラワークも、たいせつな取材だ。

 大学生らしき団体もやってきた。

 磯を洗う大波には、だれもが驚嘆していた。 

 大船渡、気仙沼の市街地は回復しており、3.11を感じる痕跡はほとんど見当たりません。すべて自己責任の範囲で、家を建てる。行政は住民コントロールを失ったのでしょうか。

 日没が早く、17時頃に陸前高田のキャピタルホテルに入りました。

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生命の力 田代 真智子



見頃を迎えた蓮の花

はじめに
掲載写真
12月の不忍池
2月の風景
4月の様子
5月の動物たち
6月開花を待つ蓮の花
7月池いっぱいの蓮の花
  (フラミンゴの赤ちゃん)
8月満開の蓮の花
10月秋の不忍池
表紙 
台風や地震などによる被害のニュースが、日本だけでなく、世界のあちこちで流れている。
家屋に居ても安心できず、いつ車が飛び込んでくるかわからない。飛行機が落ちてくるやもしれない。裏山が崩れたり、かかっていた橋や道路が突然なくなったりする。
朝が来ることが当たり前と思ってはいけないと痛感する。とともに朝の陽光に感謝したい気持ちでいっぱいになる。
上野の不忍池に咲く大きな蓮の花を知る人は多い。とは言ってもいつも咲いているわけではなく、一年の間にいろいろな姿を見せてくれる。

【下記のPDFをクリックしてください1~4まで、写真とキャプションが楽しめます】

写真とキャプション PDF1


写真とキャプション PDF2>


写真とキャプション PDF3>


写真とキャプション PDF4>

平成30年「葛飾花と緑のはがき」コンクール表彰式 須藤裕子

 平成30年度「葛飾花と緑のはがきコンクール」授賞式が、11月14日(水)午後4時~5時まで、「かつしかエコライフプラザ研修室」で行われました。

 絵画の部、押花の部、写真の部、3部門の表彰です。

  葛飾区長は、青木区長の手から表彰状が授与された。


 絵画・押花は小学生、中学生、一般の部があります。写真の部は区分なしです。合計38人が喜びの受賞をしました。

 たがいに受賞を喜び合う高校生たち。さわやかですね。


絵画の部 ☆小学生の部 少女のこころは嬉しくても、表情がこわばってしまう。緊張ぎみですね。

  押花の部 審査委員長・岡田満江さん 都立農産高校教諭 制作のコツなどを説明されました。

  写真の部 受賞者たち。うれしいですよね。

 三部門にわたり、葛飾郵便局長賞、葛飾新宿郵便局商が授与されました。

  絵画の部  審査委員長・枯野(うるの)洋子さん  日本絵手紙協会 公認講師
 
  応募点数は962点です。選ぶのは大変ですね。

 主催者の環境課・担当者から記念撮影です。広報などに掲載されます。 

写真の部 審査委員長・穂高健一さん  日本写真協会会員
 
 今年は写真への応募が昨年の2倍と、関心が出てきました。来年が楽しみです。

 葛飾区緑化推進協力員会 会長賞の授与です。表彰状は年齢に関係なく、いつもらってもうれしいものです。

 会場の受賞式、講評の様子、記念撮影などのスナップです。皆さん、来年も頑張ってください。   

喜ぶ笑顔が見たくて 田代 真智子

まえがき

一度きりの人生をどう生きるかは、人それぞれ違う。
♪ ケセラセラ~ なるようになる~ ♬

この歌が多くの人に好かれるのは、泣いても笑っても明日は来る。それならば、笑って楽しく生きたいと思うからなのか?
十人十色の楽しいひと時を探してみたくて、周囲を見わたしてみた。


 JR京浜東北線王子駅から徒歩15分、北区立中央公園に来た。駅から川沿いの遊歩道を抜け、公園に入るとこんもりした丘の上に3頭の木曽馬が目に入った。大都会の公園にこんな景色が目に入るとは驚きである。

 訪れたのは、『さわやかポニークラブ』というボランティアの定期乗馬会だ。『チップの広場』という丘の上には、小田原のサドルバック牧場の馬3頭がいる。動物学校の先生やインストラクターが、その馬たちの毛並みの手入れをしている。


 遠くには3頭の馬が乗せられてきた青い車が見える。


 この日は、5月の風が心地よく吹いていた。続々と集まってくるさわやかポニークラブのボランティアのメンバー。馬が大好きな人たちが集まって「障がい者に乗馬を楽しんでもらう」活動をしている。準備が終わる頃になると、家族に付き添われて同クラブのメンバーらがやってきた。

 この日は、4クールに別れ、1人の障がい者にインストラクター、リーダー、サイドウォーカー3名の計5名が付いて約40分の乗馬体験をしてもらう試みだ。

 公園の中を歩いたり、ゲームをしたり、その乗り手に合わせたメニューを楽しませてくれる。乗り手の得意そうな表情や嬉しそうな顔を見ていると、取材に行った私まで幸せな気分になってきた。


 途中で馬が糞(ボロと言う)をしてしまうと、手の空いた人が塵取りと熊手に似た道具を持ってきてすみやかに片づける。

木の枝に下げたシフト表を確認する人や全体を見るタイムキーパー。

 お茶とお菓子で談笑するメンバーや家族。乗馬会の様子を見に公園に訪れた人達もいる。自転車を降りて馬が通り過ぎるのを待つ人の姿もあった。
 そしてこの日のすがすがしい風と日差しは、まるで映画やお話しの世界のようだ。そこにいる人たちのやさしさとゆっくり過ぎていく時間に感銘を受けた。
 この日参加した人はみんな、今日を楽しんで幸せな気分で帰ったに違いない。

「次は誰なの?」乗り手をじっと待っている

(青々とした草を見て)早く草がたべたいよ~。

みんなが来る前に水分補給しなくちゃ


 
あとがき

お金をかけた楽しみや時間をかける楽しみなど色々ある。けれど、人ぞれぞれの価値観が違うのだからどれも比べられない喜びである。


(取材・撮影2018年5月20日)


【原口 泉・吉岡 忍 夢の歓談、ついに実現】(下) 浦沢 誠、郡山利行

 そして原口さんは、穂高先生とは、広島藩と薩摩藩との貿易の舞台だった、御手洗港についての最新情報を交換しました。


 吉岡さんが、「原口さん、予定表なのか記録簿なのか、その冊子、すごいですね」と問いかけましたら、原口さんは、「昔から、このパターンで、予定と行事記録にしていますのでね」と答えていました。

 元々の姿は、B5版で1週間見開きの行動予定帳だそうです。 


 吉岡さんとの会話の途中で、何かを調べようとして頭をかかえている、原口さんです。


 歴史学者とドキュメンタリー作家の、トップ会談のような場面でした。 お互いに、ご自分の自慢話はまったくなく、著作作りの苦労話や、日本国中の近未来での過疎・高齢化での、自分の在り方などについても、語り合っておられました。


 西新宿≪渡邊≫での2時間のあと、京王プラザホテルのティールームで1時間ゆったり過ごして、午後4時ごろ解散しました。
 「それではまた!」と声をかけあった、吉岡さんと原口さんでした。


【了】

【原口 泉・吉岡 忍 夢の歓談、ついに実現】(上) 浦沢 誠、郡山利行


  葛飾区立石・居酒屋≪あおば≫にて 2012.11.17. 


 平成24(2012)年11月17日に開催された「葛飾区制施行80周年記念 かつしか区民大学特別講演会 『昭和が残る下町 葛飾・立石の魅力を語る」 後の懇親会です。

 底抜けの明るさで、身ぶり手ぶり豊かに、流れるような語りで、同席者全員を朗らかに弾ませたのが、当時、日本ペンクラブ副会長の吉岡忍さんでした。


  鹿児島市≪サンロイヤルホテル≫にて  2016.07.19. 

  一昨年(の平成28(2016)年7月、かつしかPPクラブの講師の穂高健一先生と、浦沢、郡山の3人は、真夏の鹿児島で、薩摩藩明治維新の背景を取材しました。

 私(郡山)の知人である田中さんと満冨(みつとみさん・ともに鹿児島在住)が、鹿児島市にある志學館大学の原口泉教授(写真・前列中央)との懇談の機会を設けて下さった。


 ここで実現したのが、近代史・小説作家の穂高健一先生と、歴史学者原口さんとの初対面対談でした。
 このとき。私はこのお二人に、ノンフィクション作家の吉岡さんを交えたら、どんな会話になるのだろうかと、夢みたのでした。

             *

 そして時が流れて、平成29(2017年)の年末から、翌年(ことし)の春にかけて、私が穂高先生に、吉岡さんと原口さんとの歓談を提案しました。

 いつの間にか『10月19日の午後新宿で』という日程が決まったのです。


 新宿区西新宿・手打蕎麦≪渡邊≫の店内で、2018、10、19 以下・おなじ。


 吉岡さんへの具体的な行動予定の確認は穂高先生が、原口さんへは私が連絡を取り合って、この日が実現したのです。

 2018年10月19日の午後1時から2時間の場面です。 信州佐久出身の、吉岡さんお気に入りのお店でした。

 私(郡山)は、感激のあまり、くしゃくしゃ顔で喜んでいます。 昼食として、おろしそばと柔らかくやさしい味のそばがきを食べました。

 穂高先生を含むPPクラブ3人は、控えめにビールをいただきましたが、吉岡さんと原口さんは、その後の予定の都合で、アルコールなしでお茶だけでした。

 お二人はそれぞれに、日本酒と焼酎をたんと好まれると聞いていますので、もし今日の都合がなかったら、どのような盛り上がりになったか、想像がつきません。

 初対面の原口さんと吉岡さんは、とてもそうとは見えないなごやかさで、いきなりものすごい勢いでの歓談が始まりました。

 まず原口さんが、昨日18日に、時代考証をやっていたNHK大河ドラマ『せごどん』の収録が終わり、出演・関係者全員での記念写真撮影が行われたことを語り始めました。

 28年前から今回で4作目の、時代考証の苦心談でした。

 吉岡さんは、日本ペンクラブ発足当時の話や、現在の外国のペンクラブや日本のペンクラブ活動についての説明が、語りの始まりでした。

 2010年の第3回国際ペンクラブ総会が日本で開催された時、開会式で鹿児島県の奄美高校生徒による、竹太鼓の演奏が大好評だったことを、原口さんに熱く語りました。
          
                    「つづく」

【 わがまち原動力】 戦後栄えた血液銀行の証言者たち(下)=郡山利行

【 4. 血液銀行 】

 日本製薬(株)は、1950年代から、本社ビルがあった立石8丁目で、国策による輸血用の血液採血を実行するため、国民からの売血を受ける施設、『 ニチヤク血液銀行 』 を開設した。

 この跡地が、現在(2018年)の財務省国税庁の葛飾税務署である。平成2(1990)年9月30日に、売血制度が完全に廃止されるまでは日本製薬(株)葛飾工場だった。

 左の写真がかつての日本製薬(株)の跡地である。
 現在は、葛飾税務署となっている。

 日本で最後の 『ニチヤク血液銀行』 だった。売血に訪れる人が絶えなかった。 地元立石の人達は 『バンク』 と呼んでいた。


・ 1956(昭和31)年に、貴重なヒトの血液を原料とした、『ガンマグロブリン』という血液製剤の開発を成功させ、製造販売の事業を拡大させた。

 1966(昭和41)年の頃、アメリカ軍がベトナム戦争の最前線で、この緊急輸血用の血液製剤を、大量に消費していた。

 昭和41年の国会の予算委員会で、血液製剤の輸出内容について、審議された歴史がある。


・  沢田教一写真集:ベトナム戦争 1989刊 より


  『散歩の達人 267号』より (P.25)

 右写真は、つげ忠男さんが、若い頃、地元立石の血液銀行で働いていた時のことを書いた雑誌に載せた、写真である。

 キャプションには『 製薬会社社員の着替え部屋から見えた風景で、社員も売血すると400円もらえ、半休ももらえたんです 』 と、書いてある。

 昭和30年代前半頃の、血液銀行の一角である。そして、つげ忠男さんは、当時の必死に生きる人々を間近に見られたことが、自分の漫画の肥やしになってなっていると思いますと、この雑誌につづっている。
 著作の単行本、『つげ忠男劇場』:(ワイズ出版、1998年刊)は、葛飾区では中央図書館に1冊しかない。


  松竹映画 『 張込み 』 :1958(昭和33)年1月公開  


 上写真は、1958年公開の松竹映画 『 張込み 』 の一場面である。 この場面は葛飾区立石にあった、本物のニチヤク血液銀行の中を使って撮影された。

 松本清張原作、同名の短編小説の映画化であり、新潮文庫、松本清張短編集(5)に作品がある。 10ページの12行目に『・・血液を売ったりした。・・』 の活字がある。

 映画では、刑事が犯人石井の身もとを洗う場面である。
 当映画のDVDビデオ映像では、スタート後、37分54秒から、13秒間1カットの固定カメラ映像である。

 昭和30年代前半頃、血液銀行にやって来た売血者は、一日600人~800人、まれには1000人を超える日もあったという。
 映画の画面に見える待合室は、実際には順番を待つ人で、大混雑していたであろう。

 必死の思いで、比重試験に合格した人が、200ccの採血で得た金額は400円である。2018年現在のお金に換算してみると、約20倍とすれば、8000円になる。ぜいたくしないで食べて飲むだけなら、いい稼ぎだったにちがいない。


≪人びとは、血液銀行へ、京成立石駅から、この道を歩いた≫

 筆者は平成30年7月10日、血液銀行への道を歩いてみた。


 バンクへ向かう時、400円ふところにして立石駅へ帰る時、みんな何を考えながら、この道を歩いたのだろう。

 立石駅への帰り道、なかには貧血で倒れてしまった人も、多くいたという。 

 知らせを受けたバンクから、すぐに看護婦が駆けつけて、バンクに連れ戻して手当てしたという。 薄い血の方が、血液製剤の原料として貴重な時代もあったので、だいじに扱ってもらえた。

 血を売る人の中には、女性もいた。さほど多くはなかったが、ほとんど赤ちゃんをおぶった人だった。 彼女たちは弱い立場だったので、採血の順番を都合付ける、仕切り屋に付いた。そして、ピンハネされていた。

 
 立石駅からバンクへの途中には、お菓子屋(食品店)があった。

 山崎パン屋が毎朝店の前に、パンが入った箱を置いていく。良からぬ売血者が、そのパンをバンクの待合所で売っていたのがばれて、バンクの職員がいつもお店にあやまりに行っていたという。

 売血者の血液型の中で、Rh(-)の人がいたら、それはもう大変な待遇で、特にAB型の人の時は、会社役員が出てきて、完全な特別待遇だったという。

 昭和40、50年代の頃、筆者の知人が、病院に入院して手術を
することになった時、その人と血液型は違っても、200ccとか400
ccとかを、その病院に献血しに行った記憶がある。 近年では、
エイズウィルス感染のチェックを兼ねて街頭での献血が、ブーム
のようになったことも思い出した。


【 5.編集後記・謝辞 】
 わがまちでは、京成立石駅の北側と南側に、新しい区役所を含む、商業施設と高層住宅に造り変える≪再開発≫という名の計画が、進められている。

 北側は、かつて赤線と呼ばれた歓楽街もあった街であり、こんにちでは、その名を知られた立石独特の飲食店が、数多くにぎわっている。
 南側には『昭和』 の名残りとして特に名高い、飲食・商店街が、人気高く残っており、区内外の多くの人達から、親しまれている。



 立石という街に、これだけのメスを入れるのであれば、この街の、戦前から戦後の復興史での、部分的な封印の姿勢を解くべきである。

 この街と人々の生活の歴史を、消滅させてしまう前に、わがまちは、かつて都道環状7号線工事の関連で実施した、遺跡調査活動のようなエネルギーで、口述記録、写真画像・映像、生活物品などの記録を、探し出して保存してほしい。

 いま生活している私たちの先輩たちは、戦後のきびしい生活環境の中を、生き抜いてきて、こんにちの、わがまちかつしかの生活風土を、築き上げてきた。
 誇るべき歴史の歩みと言える。

 このようなことにきちんと取り組んで、区民に広く情報公開することが、わがまちの、文化的品格を向上させるための責務である。
 再開発施設の中に、ぜひとも立石博物館を作ってほしい。


 本冊子で取り組んだ3件について、岡島秀夫さん(76才、立石で古書店を営んでいる)と、石戸暉久(てるひさ)さん(74才、町の文化と歴史をひも解く会で活動中)には、歴史の口述から図書・資料の拝借までお世話になった。

 特に、血液銀行については、石戸さんからは、『張込み』という映画の1シーンが、実際の建物がロケ地だったことを教えてもらった。
 岡島さんからは、親類の方が3名もバンクに務めておられ、その方達の口述記録のメモを見せてもらった。感謝多大です。

 数年前から、どうしても取組んでみたかった、立石地区の封印されている歴史の糸口を、やっと少し見ることができたような思いである。


≪参考資料・図書≫
・ 野中尚子 『立石の赤線地帯を通して見る日本の公娼制度』
   平成28年度 かつしか区民大学 ゼミ調べて書く  葛飾区教育委員会 
・ 石尾光之祐 『日の丸堂・その他』: 青木書店、昭和61年 【古本屋】創刊号
・ つげ忠男 『つげ忠男劇場』:ワイズ出版、1998年1月
・ 『散歩の達人 No.267』: 交通新聞社、2018年6月

                                          【了】

【 わが町原動力】 消えた都内随一の縁日 (中)=郡山利行

 【 3. 喜多向観音の縁日 】

 喜多向観音は、葛飾区東立石4-15番地にある。立石バス通り(奥戸街道)に面している。『 喜び多く向かい給え 』 とお参りすれば、必ず一つはかなうとの言い伝えがあると、由来看板に書いてある。

 縁日は、奥戸街道の整備が完了した昭和8年頃から始まり、開催日は、毎月7日、17日、27日の、月3回だった。 戦時中一時中止されたが、 昭和23年5月から復活して、50年代初めまで約40年間盛大に行われた。
 都内でも有名な縁日だったが、その後急速に衰退し、今は開催されていない。

 石尾光之祐(みつのすけ)さんは、少年時代(小学校4年生)から学徒動員まで、立石で育った、読書と本がとても好きな人だった。 大正10年生まれで、70才くらいで他界された。
 昭和61(1986)年1月に青木書店から発行された、『古本屋』という小冊子に、石尾さんの記事があり、『日の丸堂』という名の古本屋が登場する。

 筆者がいつも葛飾情報でお世話になっている、岡島秀夫さんの父親が、元気なころのお店の名前である。
 この記事の中に、昭和8、9年ごろの小学5、6年生の石尾少年が見た、喜多向き観音の縁日の話があった。


  国土地理院HP  撮影:1936(昭和11)年6月 



平成10年頃に書かれた、立石大通り商店会の看板

 縁日は、今のアーケード街が奥戸街道と交わる所から、大道橋手前までの約200m(上写真の長○ 印)の範囲から始まり、最初から歩道片側ずつ交代の開催だったと、記されている。  


 最盛期には、上写真の、立石大通り商店会の端から端まで、延長約440mにわたり、バス通りの片側に約200軒の出店がびっしりと並んだ。
 主催者は誰だったのだろう、何人ぐらいの人びとが、月に3回もここにつどったのだろう。

 地域の人、周辺の人達に約40年間にわたり、楽しみと憩いの場面を与え続けていた。その熱意・情熱は、今ではもう容易に想像できない。

 上写真は、山本サトシ著:『東京の縁日風土記』:(講談社、昭和57刊) の、216~218ページにある、ごくごく表面的な訪問記事に添載された、写真である。

『夕方、露天の荷物が運び込まれる 』とのキャプションが付いている。縁日の歴史が、もう華やかではなくなった頃と思われる。

 揚げ物の増田屋3代目主人、中山さんが生まれ育った店は、下写真の○印の家(かまぼこと書いてある)である。
「 子供の頃はそれはもう、楽しみの縁日でした。小銭を握りしめて、いろんな店をのぞきましたよ。 人がぎっしり一杯で、私は背が低くて、まわりが見えず、自宅から迷子になったこともありましたよ 」と、語ってくれた。


 引用:写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和27年 立石バス大通り


 喜多向観音付近から、渋江方向を見た立石バス通り  平成30年7月10日.

 この喜多向観音の縁日に関する記録資料や写真は、区内の図書館でも現地商店街の数件で尋ねても、目にすることができなかった。
 当時の人々は、日常の生活が必死で、縁日のことを記録に残せなかったのだろうか。
 それでも、人々がここで熱い時を過ごしたことは、多くの人の心には残っている。

 立石の喜多向観音縁日の歴史が、そのまま、ここ立石地区の、更には葛飾区全域の、地場産業工場の盛衰だったともいえるような気がする。

                       【つづく】

【わが町原動力】 立石の旧赤線地帯 (上)=郡山利行

1. はじめに

2. 立石の赤線地帯

3. 喜多向(きたむき)観音の縁日

4. 血液銀行

5. 編集後記・謝辞


【 1.はじめに 】
 2017(平成29)年10月30日に、『 葛飾区史 』が出版された。 1985(昭和60)年3月に発行された『 増補 葛飾区史 』 以来、32年ぶりである。

 前区史の分厚い上・中・下巻3冊の、見た目には辞典のような製本とは著しく異なり、新区史は、A4サイズに大型化して、博物館や美術館のカタログ誌のように、豪華な装丁である。(右写真と写真)。
 大きさは、横21.5cm、縦30.0cm、厚さ2.5cmで、本文全体395ページの上質厚紙製本のため、重さは1.363kgである。

 巻頭言で、青木克徳葛飾区長は、読みやすくわかりやすい区史にすることを心がけたと述べている。 東京23区では初めて、区のホームページに、『ウェブ版区史』 を開設したことと、子ども版区史も別冊で刊行したことを、同区長は、誇らしげに語っている。

 区史は、区役所3階の区政情報コーナーのほか、郷土と天文の博物館と葛飾中央図書館で、購入することができる。
 申し込めば郵送(費用は自己負担)でも可能である。 価格は、『葛飾区史』が2,100円で、『子ども葛飾区史』は1,100円である。

 筆者は、わがまちかつしかの現代史についていろいろな角度から、この数年間にわたり、見たり聞いたり、調べたりしてきた。 しかし今年2018年春にこの葛飾区史(以下新区史と表示)に接してから、わがまちの品格ってなんだろうと悩んだ。
 新区史では、第二次世界大戦後(以下戦後と表示)からの、葛飾の工業振興の代表的存在としてか、玩具産業が4ページにもわたって描かれている。

 しかしながら、多くの人達の生活の中で、存在感がとても強かった施設や行事(本ページ下部に記述)が、まったくとり上げられていない。

『葛飾から全国へ』という青木区長の強いメッセージでは、サッカー少年と亀有駅前交番巡査の二つの漫画と、柴又の食堂家族隣人たちの娯楽映画の紹介が、区史の12ページにも及んでいる。
 反面、日本国内どころか世界中に何人もいないような、技術や技能を持っている人が、区内の各所で今日も元気に活躍されておられる記事は、どこにもない。
 全国を越えて、世界にアピールできる人達なのに。

 さらに昭和22年のカスリーン台風水害での、葛飾区内住宅街の災害写真が、一枚も掲載されていないのは、なぜなんだろうと思わずにはいられない。

 立石地区には、かつて大きな存在であったが、区史をはじめとした、わがまちを報じるほかの公的刊行物で、記録されていないものが三つある。

 ①赤線地帯

 ②喜多向観音の縁日

 ③血液銀行である。

 この三つに共通しているのは、主に戦後に登場したことに始まる。そして、昭和20年代半ばから前半は同時に存在していたことである。 また、立石地区のみならず、葛飾の近隣から、東京を中心とした地域の人達にとっては、性的快楽と、ひと月に3回の娯楽・慰労の場所であり、低所得者の生活費稼ぎの施設だったことでもある。

 わがまちの品格と、こんにちへの人情と活力を考える糸口の情報を知りたくて、取材してみた。


【 2. 立石の赤線地帯 】

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、総武線亀戸駅付近にあった花街は、焼け出された。 そこの業者の一部が、京成立石駅の北側にやってきて、同年6月に新たな店を数件こしらえたのが、立石の花街の始まりである。

 同年8月の終戦直後から、日本国政府は、占領軍向けの性的慰安施設を、積極的に用意した。
 立石には、亀有と同じに、アメリカ軍の黒人兵士だけが送り込まれたが、半年後の1946年3月には、性病のまん延を理由に占領軍兵士は立入禁止となった。

 政府による慰安施設は、公娼制度に基づいて運営されていたが、『施設』ではなくなったあとは、私娼地域として、営業が継続された。 その時、警察がこの地域を、地図上に赤い線で囲んだので、『赤線』 と呼ばれるようになった。 そして、昭和33年の売春防止法の施行まで、存在した。 

 その後、立石の赤線地帯は、飲食店やキャバレー街となり、今日までわずかながら、夜の灯をともし続けている。

 立石の赤線地帯に関する資料は、野中尚子さんによる、平成28年度、かつしか区民大学の『ゼミ 調べて書く葛飾 』 での作品が、詳しい。

画はつげ忠男さんが描いた、立石花街の、お姐さん達である。




 20歳前後の若い女性が大半を占めていたという。筆者がカメラを構えたとき、今にも窓が開いて、「お兄さん、きれいに撮ってよ!」 と、 手を振ってくれそうな気がした。



『散歩の達人 267号』より  つげ忠男:画 (P.24部分)

 つげ忠男さんは、少年の時の思い出を、画を載せた雑誌につづっている。 立石北口商店街の縁日で、アイスキャンデーを売るのを手伝ったとき、花街のお姐さん達がいつも買いに来てくれた。
 そして、くじ引きでセルロイド製のアヒルのおもちゃが当たった時の、彼女たちの無邪気な笑顔が、忘れられないと記す。

熊野神社大祭 立石映画館前にて、立石新地の皆さん 昭和28年頃町の文化と歴史をひも解く会:編  わが町のアルバム(写真集)
『 木根川・渋江・四ツ木・立石 界隈 』  平成27年6月刊 より 

 彼女たちは、交通安全運動や、街のお祭りなどの、地域活動にもかり出されて、宣伝にもなっていた。 

 昭和24年から、27、28年頃までが、立石赤線の全盛期だった。 全国から連れて来られた、彼女たちのその後の人生は、社会に登場してこない。

                        【つづく】

穂高健一先生の出版記念会に、かつしかPPクラブの会員とOBも参加

 年に4回ほど行われる作品発表の例会で、いつも的確なアドバイスをしていただく、講師である穂高健一先生の出版記念会が、立石の居酒屋「あおば」で開催され、かつしかPPクラブの会員やOBも、多くが参加をさせていただきました。

 折しも葛飾図書館では、私たちやOBの制作した小冊子が一般公開されていますが、開催されたのはちょうど中日に当たる、6月15日のハナキン(死語でしょうか?)です。

 午後6時からはじまった即席の会場には、あふれるばかりの来客が、日頃お世話になっている穂高先生を囲み、酒を酌み交わしています。

 まず驚いたのは、日本ペンクラブ会長の吉岡忍先生や、会の発起人である出久根達郎先生、
それに、元朝日新聞論説委員の轡田(くつわだ)隆史先生をはじめとした、そうそうたる顔ぶれでした。

 また、出版に尽力された西元社長や渡辺社長、それに大日本印刷のご担当の方など、普段お忙しい来賓もところ狭しと席を埋め、積極的に先生と話されておられました。


 強烈な個性と豊富な見識に圧倒されてしまい、カメラを持つ手も震えてしまいます。私たちはまるで借りてきた子ネコのごとく、酒場の片隅に固まって呑んでいました。


 すると見かねた穂高先生が、例会のようにやさしく接していただき、あたたかい声を掛けてくださいます。

「きょうは出版記念に名を借りた、単なる飲み会ですよ。楽しく過ごすために、わけ隔てなく席を囲みましょう」

 私たちはほっと胸をなで下ろし、お酒の力を借りて緊張も和らぎ、取材とおなじ気分で来客と接していきます。

 ベテランの文筆家が、芥川龍之介や川端康成のこぼれ話を、わかりやすく解説してくださいます。
 とても高名な作家さんが、若いころ日本や世界を放浪したときの、恋や酒の話に花を咲かせます。気さくなある先生も、明治や大正に活躍した、名もなき庶民の武勇伝を聞かせてくださいました。

 そんな盛りあがる宴席でOBの斉藤さんが、手作りの水ようかんケーキ(あっているかな?)を差し入れてくださると、海千山千の先生方も頬をゆるめ、われ先にと指を伸ばし、なかには両手を使ってほお張るツワモノも現れました。

 穂高先生もそうですが、著名な作家の皆さんって、紳士と少年が体に同居しておられるのですね。(失礼しました!)

 そして酒宴のピークは、吉岡忍先生がお声を掛けられ、会員の秋山さんと伴って現れた賓客の女性です。
 笑顔を絶やさぬその美女は、長年にわたって穂高先生の陰になり、日向になり、苦楽をともにされた奥さまでした。

「奥さんが辛抱したから、離婚されずに済んだのか」
「日頃呑み歩いている俺たちの当てつけだろう」
「家族を大切にして、もっと稼げる小説を書け」

 容赦ないヤジと心のこもった励ましは、穂高先生がこれまでに築かれた、作家仲間のつよい絆だと理解できます。
 そして会員からも、ささやかながら色紙2枚と花束を、先生と奥さまにプレゼントしました。
 先生は恥ずかしそうに、「そんなに気を使わなくても良いのに」とつぶやき、私たちに向かいます。

「この居酒屋はスポーツ選手の色紙ばかり貼られている。店員さんも興味ないみたいだし。
これほど素晴らしい作家が集まっているのに、写真の一枚さえ飾ってくれないんだものな。でも君らに活躍してもらったら、何十年か後には伝説となって、語り継がれる酒場になるかもしれないよ」

 いつもより酔っていた先生が胸を張り、冷静な眼差しで話してくださった言葉が、ふかく胸に残りました。

 私たち、かつしかPPクラブ会員の筆力は、まだまだ穂高先生の足元にも及びません。
それでも、無名の私たちを招いてつくっていただいた、この貴重なご縁を心にきざみ、先生のご期待に添えるよう、精進を重ねていこうと、改めて決意を固める夜となりました。


文章:隅田 昭  写真:郡山利行  出版記念・題字(毛筆):秋山与吏子