かつしかPPクラブ

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(下)郡山利行


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


 穂高先生紹介パネルの前の、ガラスケース上には、同区立鎌倉図書館と中央図書館のご協力により、先生の出版書≪海は憎まず≫、≪二十歳の炎≫、≪燃える山脈≫を、3冊ずつ、図書館貸出書として、展示期間置いてもらった。


 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。

 今後、ほかの会場でさまざまな内容で展示する機会があるとすれば、葛飾区の行事・イベントや場所・景観・人物などのテーマでの開催も考えられる。 


 当クラブは、昨年までは同区教育委員会主催の穂高先生講師による、≪区民大学講座≫の修了者でなければ入会できなかったが、今年度からは、同区の≪区民大学≫卒業生で、当クラブ会員の推薦があり、会長が許可した方は入会できるようになった。


          写真・文 = 郡山利行

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(上)郡山利行

 今年2017(平成29)年3月1日から31日までの1ヶ月間、当クラブとしては初めての、作品展示会だった。

 今回の展示作品は、特別なテーマはなく、14名の会員の各人お気に入りの作品だった。


 図書館内の展示コーナーは、図書館事務所横の通路で、延長約10mの壁面とガラスケースだった。

 原本の作品の大きさは、A4を中折りにしたA5サイズだが、各ページをA4縦に拡大印刷して、クリア・ポケットファイルで製本した。


 それを館内での閲覧展示とした。 原本は、施錠されたガラスケース内に展示した。



 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


        写真・文 = 郡山利行 

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(5)郡山利行

  1964(昭和39)年10月10~24日  第18回オリンピック 東京大会



  高校では、オリンピック競技の、入場券を学校に提示すれば、その日は出席扱いだった。 姉と銀座で徹夜して並んで買った、券である。


 前の席の、外国人女性の金髪が、午後の日差しに、とても美しかった。

 右の写真は、同年10月15日、国立競技場スタンドにて。



  1964年10月15日 15:40 男子100m決勝スタートの瞬間


 写真の中央付近、スタート号砲の白煙が、残って見えている。レースでは、第1コースのボブ・ヘイズが、10.0秒で優勝した。



 1964(昭和39)年から3年間、NHK総合テレビで、『 虹の設計 』 という、TVドラマが放映された。
 建設業界を舞台とした、数々の男たちのドラマの中で、天草諸島に橋を架ける設計の話で、
 筆者は土木技術者に憧れた。
 ≪島と島を結ぶ橋を、海の上に架ける!≫  船乗りになることをあきらめた、自分を見た。

 優しい顔立ちの少年が、たくましく変貌を遂げて、中央大学理工学部土木工学科へと出陣した。

 
【 5.編集後記 】

 高校生までの少年時代の文化的活動を振り返り、主要な事がらを並べてみた。はっきりとした記憶に残る人達は、家族と学校の先生と、小中学校の三人の級友である。

家族 母 郡山トシ、姉 益代、兄 孝丸

 特に、姉益代と兄孝丸の二人は、古希を迎える現在にまで、決定的な影響を与えた存在であったと、改めて強く思った。

 益代姉からは、小学1、2年生の頃、国語の教科書を1冊まるごと覚えてしまうまで、声に出して読まされた。本を読むということに、慣れさせられてしまった一方で、中学高校生時代には、文学本をたくさん買ってくれた。
 そして孝丸兄からは、本の推薦では、弟が好きそうなものを選んで、タイミング良く知識を伝えてくれた。



小学校の先生 大楽先生(1年)、本田先生(2,3年)、大迫先生(5年)

中学校の先生 見上先生(テニス部)、会沢先生(2年)

高校の先生 栗原先生(3年間担任)

小中学校級友 宮城君(小学6年)、山田君(中学1年) 伊澤君(中学2,3年同級)

 少年期を過ぎた後の本読みは、完全な乱読となったが、その結果として、幅広い知識欲おうせいな大人になることができた。

  姉と兄の二人に共通していたのは、外国航路船長だった父から買ってもらった、ドイツ製小型カメラを使った写真撮りだった。
 この趣味の世界を、筆者はストレートに受け継いだ。

 本小冊子の次のステップは、『青春篇』ともいえる、大学生時代を経て、社会人となった土木工事技術者としての、結婚後の家庭生活と、文化・旅行・スポーツ・親類行事などに、分類編集する構想である。
 自分の後世代に残すべき、強い記憶の事がらの瞬間・状況を、穏やかに素直に表現していきたい。

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(4)郡山利行

【 4.高校生の時 】

昭和38(1963)年4月、中央線武蔵小金井駅下車の、中央大学附属高等学校に入学した。

  写真 = 高校一年 春

 東横線都立大学駅からの電車通学では、渋谷と新宿が乗り換え駅だったので、土曜日の午後は、たいていどちらかの駅で途中下車して、封切り後再上映の映画をよく見た。
 渋谷の東急名画座は、特に大好きな映画館だった。

 3年間担任だった英語の栗原先生は、洋画をたくさん見て、英会話に慣れるようにと、勧めてくれた。

   映画 『 サウンド・オブ・ミュージック 』

『サウンド・オブ・ミュージック』は、ミュージカル映画のとりこにさせられた、映画である。ジュリー・アンドリュースの元気はつらつの歌声が好きで、20回をはるかに超える回数で楽しんだ。
 歌とセリフと字幕文字は、ほとんど覚えたほどだった。



   映画 『 ローマの休日 』

『ローマの休日』は、渋谷の封切館パンテオンの上階、東急名画座で見るのがいちばん心地良かった。 モノクロ画面と単純なコメディ展開が、映画館の気軽な雰囲気に合い、上映していれば必ず見た。

掲載写真 = Googleの写真より

   映画 『 マイ・フェア・レディ 』

『マイ・フェア・レディ』では、ヘプバーンの歌は吹き替えだったが、他の俳優たちの歌と演技が、いかにも大人の世界濃厚で、何回見ても、飽きなかった。

    本 『 戦争と平和 』:トルストイ

 電車通学、往復100分の読書である。 人名地名の混乱を克服するのに、2年かかって読了したが、中身を全く理解し得えていない、とても不思議な長編小説である。
 後年見た、同名の米国とソ連の映画でも、理解できていない。


    本 『 誰がために鐘は鳴る 』:ヘミングウェイ

美しいタイトルの物語である。 映画の方を先に見た。 主演ゲイリー・クーパーのロバート・ジョーダンがかっこ良くて、女優イングリッド・バーグマンが美しい。映画化を先取りしたようなヘミングウェイの作品群の中で、筆者には一番のお気に 入りである。
 

    本 『 罪と罰 』:ドフトエフスキー

 3年生夏休みの、読後感想文宿題の、課題本だった。 最初から陰湿な場面ばかりで、読むのにつらかったが、後半の緊迫した状況展開では、本から目が離せなくなった。後年読んだ野間宏の『 青年の輪 』は終盤で、『 罪と罰 』のようだなと、思ったことがある。


    本 『 天と地の間に 』:ガストン・レビュファ

 2年生夏休み、姉が、北アルプス表銀座ルートを縦走させてくれた。下山後しばらくしてからの日、兄が、「ヨーロッパの登山家って、素敵だぞ」 と、教えてくれたのが、フランスのガストン・レビュファだった。
 

    本 『 アルプス登攀記 』:E・ウインパー

 兄がくれた、エドワード・ウインパーのマッターホルン登頂記である。 登山の本で、この本以上に興味深く読んだものはない。 線描画の挿絵が美しく、読み進む過程で、登山路の休憩所のような安らぎを感じた。


   映画 『 ビルマの竪琴 』

 映画『ビルマの竪琴』 での、水島上等兵の、ひと言も発せず仲間達に、 自分を伝えようとした姿が崇高に思えた。原作以上に、映画を見ての感動で、それまでの自分の、戦争を見る目が、明らかに変わった。


 

  写真 = 高校三年 冬




「かつしかPPクラブ」が創立6年にして、展示会=葛飾中央図書館

「かつしかPPクラブ」とは、なにかしら。

 東京都葛飾区教師委員会が、単位制の「かつしか区民大学」を立ち上げた。それからすでに6年が経つ。「写真と文章で伝える私のかつしか」と題した講座が、当初から開講された。この講座は途切れることなく、つねに毎年十数人の受講生が学んでいる。

 第1期生が約20人ほどいた。『葛飾区内を歩く、撮る、取材する、そして書く』。この三拍子を学び、小冊子にするものだ。8回の連続講座で、添削はプロ作家・プロジャーナリストだから、一字一句、写真の構図にも、容赦なく朱を入れてきた。取材も、度胸だと言い、飛び込みを行う。それを繰り返して、力量をつける。

「学んだことをこのまま終わらせたくない」
 浦沢誠さんら複数の有志が提案し、自主クラブが発足した。それが「かつしかPPクラブ」浦沢会長である。

 年4回の小冊子発行は欠かさず行ってきた。そして、穂高健一による、きびしい指導の下で、配本してきた。そこには、取材力、撮影力、記事文の文章力には妥協しなかった。
 諸般の事情で、『去っていくものは、追わない』、そして残されたものが、力を磨いていく。その方針も、ぶれなかった。

 かれらの力量は、大手のメディア記者、あるいは雑誌ライターと比べても、まったく遜色がない。それだけの充分な力をつけてきた。

 最大のメリットは、読み手、読者にある。葛飾区内の大きな話題でも、メディアを見ても、ほんの少し、わずか数行しか載らない。これでは欲求不満だ。

「かつしかPPクラブ」の小冊子は、徹底して掘り下げている。読み手には、ふかい感慨を与える。葛飾区をより深く知ることができる。

 こうした力量アップの上で、作品の展示会を決めた。3月1日から3月31日まで、1か月間の特別展示である。

【関連情報】

 展示場所:葛飾区中央図書館

 最寄り駅:金町駅(JR、京成)

 問合せ先:同図書館 03-3607-9201

     :かつしかppクラブ・窓口 090-8689-8166

 

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(3)郡山利行

【 3.中学生の時 】


 昭和35(1960)年4月、東京都目黒区立第十中学校に入学した。 

 1年E組、自宅のすぐ近くの山田君が同じクラスだった。 彼も本読みが大好きな戦記物少年で、自宅にはいっぱい持っていた。 筆者も負けずに古本屋通いした。


    本 『坂井三郎空戦記録』:坂井三郎

『坂井三郎空戦記録』は、戦記物単行本で、一番最初に読んだ。痛快ともいえる物語の展開で、戦闘機の空戦物読書の原点になった。

『空戦』は、P・クロステルマンという英国空軍に所属した、フラン人パイロットの、ヨーロッパ戦線での空戦記である。 坂井三郎氏のような華々しさはなく、冷静な幅広い視点での物語が、好きだった。


    本『戦艦大和ノ最期』:吉田満

 筆者の父は、太平洋戦争の時には、陸軍商船隊の軍属として、シンガポール、スマトラ方面で、輸送作戦に従事していた。 そのため、艦戦記も数多く読んだ。 その中でこの

『 戦艦大和ノ最期 』は、勇ましさがほとんどなく、何度も読み返した本である。 文語体調の漢字カタカナ文であり、いつも身が引き締まる思いで読んだ。

 1年生夏休みの林間学校での、山中湖一周サイクリングの模様を、宿題作文に書いた。 数枚の原稿用紙に、手書きの挿し絵まで書き、和とじ製本した。 書き出しの一行目が、先生の笛による合図のあとの、「さあ、出発だ。」 だった。 山中湖北部の平野の景色を、故郷の景色に重ね合わせた。
 この作文を授業の時、皆の前で先生が発表してくれて、以後の人生で、文を書くことが好きになった。

     映画 『 二十四の瞳 』

 映画 『二十四の瞳』 には、いろいろな思いがいっぱいである。≪銀座カンカン娘≫が、大石先生になって、自転車でさっそうと、岬の小学校に現れた。 筆者の小学一年生の担任、大楽先生のイメージに重なった。
 そして12人の子供達の青年時代まで、彼らに寄り添う姿が、中学二年の担任、会沢先生にも重なった。


    本 『 西部戦線異状なし 』:レマルク

 2年生の夏、10才年上の兄が、「 そんなに戦記物を読むのが好きなら、これを読んでみろ 」と買ってくれた1冊の文庫本、それが、レマルクの 『西部戦線異状なし』 である。

 二十歳前の主人公、パウル・ボイメル少年の視点で描かれた、戦場の様子と登場する人達の人間描写が、衝撃だった。後年になって見た同名の映画では、更に、この原作としての存在感に一段と感動した。


    本 『 風と共に去りぬ 』:M・ミッチェル

 3年生になった頃、姉が、「そろそろ文学全集も読みなさい、これは面白いわよ 」 と、ド
サッと目の前に置いたひとつが、『風と共に去りぬ』 である。 興奮気味に一気に読んだ。


    映画 『 グレン・ミラー物語 』

 3年生の秋、この1本の洋画に感動し、そして、熱狂的な軽音楽ファンになった。生まれて初めて買ってもらったLPレコードが、『グレン・ミラー・オーケストラ』だった。

    映画 『 七人の侍 』

 3年生の秋、生徒会主催の文化祭(10中祭)で、体育館で上映されて、初めて見た。七人の侍たちが、最高に恰好良かった。
 戦闘シーンの迫力にびっくりした。

    本 『 白鯨 』:H・メルヴィル

 読むことに夢中になった、数少ない小説のひとつである。 そして映画での、グレゴリー・ペックによるエイハブ船長は、興奮せずには見られない存在だった。

 そして映画 『白鯨』 の後に見た映画で、モビィ・ディックと共に太平洋に消えたエイハブ船長が、新聞記者になって、ローマのスペイン階段に現れた時は、映画というものの面白さを、楽しんだ。

    本 『 インカ帝国 』:泉靖一

 3年生の時、級友の一人伊澤君は、横浜方面から東横線で通学して来る、読書少年だった。
彼が、級友の誰も読まない、岩波新書なるものを、いつも平気で読んでいたので、つい真似をした。 彼に勧められたのが、この 『インカ帝国』 である。
 その後大量に読み親しんだ、同新書の、記念すべき第1冊目となった。

「インカ帝国を知ったのなら、この人の本はどうだ 」 と、兄が教えてくれたのが、ノルウェーのトール・ヘイエルダールという人類学者だった。

    本 『 コン・ティキ号探検記 』:T・ヘイエルダール

『インカ帝国』を読んだ後、続けて読んだヘイエルダールの著作、 『コン・ティキ号探検記』 と『アク・アク』である。 帆走のバルサ筏(いかだ)で、南米大陸から太平洋諸島への文明の伝播を、立証しようとした海洋冒険記と、イースター島の調査記録である。 


 夢中になって読みふけった。 そこで、決意した。 将来必ず、イースター島に自分も行ってみる、と。
 時に、1962年秋である。

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(2)郡山利行

【 2.小学校の時 ② 】

  絵画 『湖畔』 と 『読書』 :黒田清輝

 5年生の担任、大迫(おおさこ)先生は、図画が得意だった。 ある時鹿児島市の美術館で開催された、黒田清輝展に連れて行ってくれた。 

   『湖畔』は、筆者が生まれて初めて、女性を美しいと意識した絵である。 

  『読書』を見て、「台風の雨で濡れた本を、1ページずつめくっているところですか」
と、先生にたずねたら、あきれられた。
                      
 4年生の時、学校でバイオリンを習わされた。まったく弾けず、自然にやめた。

 学校から帰ると、日本の北から南まで、都道府県名と県庁所在地を、順番に全部言えないと、地理の知識が豊かだった母さんは、外に遊びに行かせてくれなかった。 


 日置から伊集院まで、8kmの武者行列。 上写真、前列中央で、左手に先頭提灯を持っているのが、筆者である。
5年生、初めての妙円寺参りだった。責善舎とは、鹿児島特有の地域内≪郷中教育≫の場のひとつで、薩摩藩士意識の源でもある。

 昭和34(1959)年3月、家族は鹿児島から、東京都目黒区に引っ越しした。同年4月から、筆者は同区立東根(ひがしね)小学校に転校した。6年4組、女性担任が高知県出身だったので、当時はやっていた流行歌 『南国土佐を後にして』 を、将来は民謡歌手とおだてられ、学芸会では独唱までした。

 6年の同じクラスに、宮崎県の西都原(さいとばる)出身の、宮城君がいた。同郷的な感覚をお互いに持ち、すぐに友達になった。 その彼は、鉛筆画で太平洋戦争当時の戦艦や戦闘機を描くのが、とても上手だった。

 それを真似したことで、筆者は≪戦記物少年≫になった。 絵の教本となる 『丸』 という戦記月刊誌は、新刊ではなく古本屋で買っていた。 そして、写真グラフ誌と同時に単行本も読むようになったのは、中学1年生になってからである。

                       【つづく】

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(1)郡山利行

 1.はじめに 
 筆者は、今年2017年に古希を迎える。サラリーマン人生39年間の終盤頃から、おぼろげに考えていた、家族・親類史と自分史作りについて、それを実現させるべく、行動を開始する。

 昭和29(1954)年4月1日は、鹿児島県日置(ひおき)郡日置村立日置小学校に入学した日である。 1年ろ組の担任は、25才の大楽(現姓・前屋敷)ミエ子先生だった。 昨年(2016年)春に、87才でお元気達者の大楽先生に、お会いした。

   4枚一組の写真は、筆者と大楽先生である。


 62年ぶりの先生から、筆者が小学校一年生の時に、どんな児童だったかを語ってもらった。 その喜びが、まず自分史作りに取り組もうかとの、引き金になった。

 上写真は、筆者の、日置小学校入学式の日、自宅玄関前庭での写真であり、同学年時の≪通信簿≫は、現存保有している実物である。 大楽先生に、「先生、ほら、これ」 と見せたら、まあ、と言って、とても照れていた。


 2.保育園~小学校の時 

 右写真は、昭和27年夏、外国航路船長だった父の会社の、神戸の家族宿泊施設にて、5才の筆者である。

 施設ロビーにあった蓄音機で、高峰秀子の、『銀座カンカン娘』のレコードを、何度も何度もかけて、一緒に大きな声で歌っていた。 筆者の母は、この写真を見るたびに、笑いながらそう語った。

 父が、神戸か横浜に帰港した時、田舎の家に送った荷物の中には、珍しい食品等がどっさり入っていた。

 ハーシーのキスチョコと板チョコ、ネッスルのコーヒー、バンホーテンのココア、そしてグレープフルーツなど(左写真)。

 舶来品との出会いだった。

  キスチョコは、母が時々しまう場所を変えていた。 でもちゃんと見つけてポケットに入れ、家の外に遊びに出て、友達にも分けて食べた時のおいしさは、今でも口に残っている。


> 映画 『シェーン』、『砂漠は生きている』

 筆者が5、6歳のころ、13才年上の姉が、鹿児島市で見せてくれた映画である。

『シェーン』では、ジョーイ少年が、シェーンの最後の決闘場所へ行く時、丘から滑るように駆け下る場面で、「がんばれー、急げ!」 と叫び、


『砂漠は生きている』では、見たこともない花が、スローモーションでパーッと開くシーンのたびに、
「 うわー、うわー!」
 と声を上げて喜んだのよと、姉はひやかすように語った。


 写真は、昭和31(1956)年4月、日置小学校3年生になってからのものである。2年生の時の担任、本田先生が、図画や習字のコンテストで入選した児童たちを集めて、記念撮影した。
 
   筆者は前列右端である。


  左写真は県知事の賞での、習字箱であるが、もう何十年も使っていない。

 右写真は、3年生も生担任だった本田先生の、図画の時間である。 写真左側の黒い上着のくりくり坊主の少年が筆者である。

                  【つづく】


新金線は大願成就なるか? 葛飾の夢をもとめて=櫻井 孝江

 葛飾区内には、北から常磐線、京成線(本線と押上線)、総武線(快速・各駅)が東西に横切っている。

小松橋から新小岩駅方面を写す

 しかし、南北を繋ぐ鉄道はない。亀有等から東西線の葛西へ行く時は、バスを利用するか、都心を通って大きく迂回して行くしか方法はない。

 不便を感じている区民もいた。そこで、金町・新小岩間にある線路(貨物の新金(しんきん)線(せん))の利用を旅客用に考えた人々がいた。記者もその一人であった。
 葛飾区内の南北の旅客鉄道の願いが、どのようになっているか 調べることにした。


明治30年12月27日(1897)   金町駅開業

大正15年7月1日(1926) 新金線開通(同時に新小岩操車場開設)

昭和3年7月10日(1928)    新小岩駅開業

操車場を停車場(駅)に変更した

昭和21年(1946)  新小岩駅にて貨物営業開始。

昭和38年(1963)  新中川開通(線路が一部変更になる。奥戸中学校あたり)

昭和39年(1964)  新金線電化

昭和43年(1968)  駅の貨物営業分離で、新小岩操車場駅開設

           操車場跡



・新金線のJR戸籍上は、総武線支線 貨物線である。

・区間は、新小岩信号場駅から金町駅迄である。

・距離は、6,6㎞の全線単線である。


2、新金線の今

 現在の新金線のダイヤは下記の10本である。

① 金町駅発➡新小岩駅着

   0027➡0038(日曜休)

   0624➡0635
 
   1017~1049➡1223~1053

   2131➡2141

   2250➡2301

② 新小岩駅発➡金町駅着

   1523➡1533(日曜休)

   1745➡1758

   1920➡1930

   1949➡1959

   2230➡2241

『新金線に沿って15ヶ所の踏切がある』

 新小岩寄りから、

 奥中区(おくなかく)道(どう)・立石大通り・細田・東京街道・耕道・耕道第二・小松川街道・高砂・新堀・新宿新道・柴又・浜街道・三重田街道・第二新宿道・新宿道である。

 (人・自転車のみ通行)

 新宿新道は、国道6号線と交差している。その他は、のどかな住宅地の中である。

 高砂付近で、金網で囲まれた線路を、金網の隙間から入って、反対側に歩いていく女性を見かけた。

  『これからの展望』

 葛飾区内の南北の鉄道がないので、バス路線が区内の隅々まで行き渡ってきた。新金線沿線を取材していると、かつて、旅客化・複線化を考えていたのではないか と思える場があった。

 新中川を渡る陸橋に沿って、橋脚がもう一列ある。

 橋を渡った線路沿いの一部には、盛り土が幅広くなっているところがある。線路際にある細田小学校の場所に駅を作る予定であった という噂もあった。

 葛飾区都市計画マスタープラン地域別まちづくり勉強会のまとめ(平成21年9月 6日)には、金町・新宿地域と奥戸・新小岩地域から 

○新金線の活用で旅客化できないか。


○電車を走らせなくても、既存線路を活用した新交通システムを活用したい。
 等の意見が出ていた。しかし、JRからは、「貨物線の廃止は、代替路線がないためできない。」と説明済みの返事であった。

 平成28年区議会でのくどう きくじ議員の質問にも同じ回答が寄せられている。

 区議のうめだ 信利さんが、今も新金線の活用を訴えている。

 旅客化となると、国道と交差している部分の問題などがあり、難しくなり、現実化は厳しいと分かった。

                          
                2016.9.19~10.4取材 10.28編集


【情報使用(写真、時刻表、文章)の場合は、下記のクレジットを明記してください】


     かつしかPPクラブ  櫻井 孝江

遥かなる貴金属宝飾加工 (上) =  郡山利行

 ネックレスの先端に飾られた、降り龍と昇り龍、一対の金細工の表と裏である。 石戸さんが、裏面の、金細工と赤めのうの全体を一体にする、枠組み(K18)を加工製作したもの。


『はじめに』
 貴金属宝飾加工業の職人の世界で、東京地区にはこの人の腕にかなう職人はいないといわれている人がいる。 石戸暉久(てるひさ)さんである。

 2013年夏に一度だけ、石戸さんの自宅2階にある作業場を、短時間ではあるが、見せてもらったことがある。 それ以来、貴金属宝飾加工業のことに、接する機会はなかった。
 本小冊子テーマ≪極≫を、『極める』 と意識して、石戸暉久さんの技の世界の一端を、記録として残したいとの願いを込めて、今年8月に取材を申し込んだ。

 【 2.石戸さんの作業場 】

石戸暉久(てるひさ)さん、1944(昭和19)年生まれ、葛飾区東四つ木4丁目、在住、71歳。

取材・撮影:2016(平成28)年8月4日

 昭和5年に、父三郎さんが創業して以来85年間の、貴金属加工である。
 暉久さんは、1968(昭和43)年、24歳の時にこの道に入り、いきなり父のもとではなく、まずは徒弟制度が生きていた外部の組織で、修行を積んだ。

 その後、自宅作業場は、父三郎さんが1階、息子の暉久さんが2階だった。 石戸さんは、父のかたくなな緻密さを、範と仰ぎ、自分の技術を築き上げてきた。 「この世界に入る前の化学研究所での経験が、執ような探求心につながったのかもしれません」 と、わが路を振り返った。
 「この部屋にはですね、父親の道具や作品の記録が、まだ山ほどあるんですよ」
 と、もの静かに語り、いくつかの引き出しを開けて見せてくれた。



 室内にある棚やテーブル、引き出しなど木製の設備は、ほとんど手造りで、写真(上)の引き出しのある収納設備は、
「私の小学校時代の机を改造したものですよ。 ペンチ、ヤットコ類のターンテーブルは、昔のレコードプレーヤーのものです」
 と解説する。


 【 3.思い出の作品  】

  父親の代から、個々人のお客さんの特注品だけに携わってきたので、お客さんの要望するデザインの細部まで確認し合い、製作したものである。
 これらの作品はそれ故に、それぞれ1個だけしかこの世に存在 しない。


紹介する作品は、石戸さんが手がけた仕事の記録として、撮影して残した写真データ(ほんの一部)を、複写させていただいたものである。


 写真上、2個のダイヤモンドの指輪。光る小さなダイヤを、びっしり隙間なく固定させてあるのが、比類なき特徴である。

 写真左、デザイン・ネックレス。

 
 葛飾区在住の、著名な芸術家に依頼された、最新の作品である。


 一対の龍の金細工は、芸術家の父の遺品。 日本刀の、柄(つか)にある目貫(めぬき)の、金の飾りである。


 亡き父への熱い想いを託され、石戸さんは、強く意気に感じて、宝飾加工に取組んだ。

 写真(右)は、超音波の洗浄器である。

 街の眼鏡屋の店先で見かける物の、古い工業用品である。 写真の細かい網目のかごに、小さなダイヤモンドや宝石等を入れて、洗浄する。