かつしかPPクラブ

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(下)=写真・郡山利行

 過去にはフォーラムをしたり、昭和が残る立石を散策したり。出欠席、参加時間などまったくなし。なぜか。だれが幹事か、わからないからです。  

 立石って、全国区だってね。東京見物に来たら、「立石に連れて行って」だってさ。

 「久しぶりでね」

 「ほんと、半月ぶりだね」

 京成立石に来て、昭和の町を散策するのも楽しい。

 中川(一級河川)の七曲りの美景を知っていたら、本物の「立石通」だね、

 京成立石駅から、徒歩で6分20秒。たぶんそんな近場。

・葛飾伝統産業館(駅から約2分)は職人が丁寧に応対

・昭和二十年代の「のんべ横町」(駅から約1分)、駅前開発で半分ちょん切られて無残です。
 これも文学かな。純文学系のひとは見落としなく。



  立石の語り部は、この夫婦にかぎる。

  戦後文学の舞台(著名作家が立石で売血し飲んだ処)
 ・昼過ぎから、飲み屋はあります モツ煮「宇ち多」
 ・立食い寿司「栄寿司」
 ・ことのほか愛想は悪いが、唐揚げは美味しい「鳥房」(夕方5時~)

  むかし遊郭があった街なのに、暴力団がいない。珍しい町だった。どの店に入っても、ぼられない。それが立石の良さ。

 平均1500~2000円/1人くらい。

   

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(上)=写真・郡山利行


日時 6月4日(火) 18:00~21:00
場所 大衆酒場「あおば」葛飾区立石

【飲み放題・食べ放題(料理は女将まかせ)、喋り放題】そして、あおば女将に代金を支払って、好き勝手に帰る。

 一番乗りは、出久根達郎さん夫妻です。

 


18時~21時は4000円/1人。
21時以降も、あおばに残れば、+1000円

東京下町の葛飾・「立石の飲み会」は、作家仲間と葛飾を語れる有志とで、7-8年ほど前から、年一度くらい続いています。

目的・テーマは何もありません。

『力まず、ほんわか、草だんご』 (下)  鷹取 利典

  当店は、昔から木の折り入りだ(11個入り700円)。最近はやりの食べ歩きに合わせ、プラ容器で1個60円でも味わえる。味変も楽しんでもらおうと、店頭には、黒蜜ときな粉の小袋(各30円)もおいている。


 他に変わった食べ方はないかと失礼な質問を向けてみた。自分はやらないが、お客さんが焼いて醤油を付けて食べたとか、お鍋に入れ食べたとか聞いたそうだ。


 それも、甘みを入れていない草だんごだからできるのかもしれない。しかし、やはり王道のあんことの組み合わせが、最上である。


  出来立てのおだんご(左)         それを一つひとつ手でちぎる(右)

●吉野家の看板                    

 三代目ご主人の名取さんが、9年前、先代が亡くなった後、お店を改装した。その際、取り替えた看板は、杉板に店名を彫った物だった。
 しかし、板の乾燥が不十分だったためか、黒ずんでしまった。
それを聞いたお客の看板屋さんが、今の看板を作ってくれたと話す。包装紙の文字を使って、立体的な看板になっている。


(左:現在の看板) (右:9年前、杉板に彫ったの看板)

●吉野家の包装紙                  

 吉野家の包装紙は、無地のピンクの紙に、「柴又 名物草だんご 吉野家」と書かれている。(「ご」は、「古」に「”」を付けた変体仮名を使っている。)

 さらに10年ほど前までは、紐で十字に結わえてあった。しかし、今はやめている。

《あとがき》

 追加の取材に尋ねたのは、ゴールデンウィークの初日。季節外れの寒波到来で、少し寒い日だった。それでも帝釈天の参道を訪れる人が多かった。

 お客さんが店頭で「ここ、昔は行列に並ばないと買えなかったのよ。」とお友達に話しかけていた。心の中で(このひとも昔からのファンなんだ。)と呟く。

 次のお客さんが1つだけ買って、店先で食べ始めた。名取さんが「よもぎが、他と違いますよ。」と言うと、「本当、美味しい。」と笑顔で応えていた。

 名取さんに「今のお客さん、嬉しそうでしたね。」と話しかけると、「そうなんです。『ここのを食べたら、他のは食べられない。』と言ってもらえるのが、一番嬉しいです。」と笑顔を浮かべた。

 お客さんの言葉で一喜一憂する客商売。美味しいの一言が聞きたくて、今日も力まず、竈の炎の様なほんわかとした名取さんだった。

「食べログ 東京 ベストスイーツ部門 2014年度」受賞



 「食べログ」というインターネットの食べ物紹介サイトがある。その中で、「東京 ベストスイーツ部門 2014年度」に、吉野家の草だんごが、37位を受賞した。お店の脇に、主催者のシールが貼ってある。しかし、名取さんは、そんなことを一つも自慢しない。見て、食べて、リピーターが増えることが嬉しいと語ってくれた。

                        《了》

『力まず、ほんわか、草だんご』 (上)  鷹取 利典

    力(りき)まず、ほんわか、草だんご

   帝釈天の参道から撮影した店舗と店主、名取さん。 
  恥ずかしがって、最後までマスクは取ってもらえなかった。


《まえがき》

 東京・葛飾柴又と言えば、映画「男はつらいよ」で有名な「寅さん」だが、もう一つ、欠かせない名物に「草だんご」がある。

 それは帝釈天の開山から始まる。帝釈天は、正式には「経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)」といい、日蓮宗の寺院である。下総中山(千葉県市川市)の法華経寺の上人と二人の弟子の僧によって、江戸初期に開山されたと言われている。

 その帝釈天では、下働きしていた人達に草だんごを作らせていた。その後、下働きの一家が、参道で草だんご屋をはじめて大評判になった。当時は「きな粉」をまぶした草だんごを販売していたが、女中が、あんこを添えることを思いつき、今の「あんこ」と「草だんご」の組み合わせになったと言う。

 現在は参道に、草だんごを販売しているお店が5軒ある。そのなかで、ひときわ個性的な草だんごを作り続けているのが「吉野家」だ。


 父から受け継いだ「草だんご」            

 まずは「吉野家」の草だんごを見て欲しい。この濃い緑色の草だんごは、どうやって作り出すのか。


 筆者は、この「吉野家」を自身の開設するホームページで2002年8月に紹介した。その時に、次のように説明している。


                       (写真は2002年撮影)

『ガラスの向こうにあるのが、お団子です。この写真から分るでしょうか。団子の色が。緑。それも濃い緑。それもそのはず、よもぎ(餅草)が、他の店より多い多い・・・。店の前に置かれた『非売品』の文字が物語ってます。
店の方の気持ちが通じますか。ここのお団子は、一度食べたら、癖になります。もう他のは、食べれません。』

 色の濃いのは、よもぎの量が多く、香り豊かで、味もよもぎ特有の苦味も感じさせる。とっても弾力があり、食べ応えも充分だ。ここまでよもぎを強調した草だんごは、なかなかない。

 店主、名取千枝子さんは、三代目だ。先代のお婆さんが、ここ柴又の帝釈天の参道で草だんご屋を始めたのが吉野家の始まりである。初代の頃は、おだんごを店内でも食べられ、他におでんなども出していた。


                      (写真は2010年ごろに撮影)

 そして二代目、お父さんは、お店の他に仕事を持っていたので、毎日おだんごを作れなった。それで庚申の日しか店を開けなかった。その当時は、幻の草だんごとまで言われ、店の脇の路地に長い行列ができた。

 お父さんから引き継いだ名取さんは、店を改装し9年前から毎日店を開けるようになった。しかし、名取さんのご主人が体調を崩し、今年(2019年)4月からは土日と庚申の日のみの営業になった。一日も早く回復され、写真のように、夫婦二人で店を切り盛りできるようになってほしい。       


吉野家のこだわり「よもぎ」              

「吉野家」の売りは、なんと言っても[よもぎ]である。他の店とは違う。

 一般的に、冷凍よもぎを使う店が多いなか、吉野家は昔から、長野県松代産の乾燥よもぎを使っている。冷凍よもぎの8倍もの費用が掛かるが、冷凍ものより香りが良いからだと言う。

 しかし、最近は乾燥よもぎを作る職人が減り、10年前に比べると仕入れ値が2倍にもなった。それでも、この味と香りを守るため、乾燥よもぎを使い続ける。

 乾燥よもぎを使うには手間がかかる。一度茹でて、パットの上で冷ます。その後が大変だ。よもぎは、植物の「葉」だから、葉脈とよばれる筋がある。名取さんは、これを繊維という。一つひとつ手で取り除く、この作業により口当たりが良くなると語る。

 取材に行った日も、名取さんとパートの女性とで、繊維を一本いっぽん手で取っていた。地道な作業だ。機械生産されたよもぎは決して使わない。

 店の脇に「添加物は一切使用していません。翌日には少し堅くなります。日持ちしません。」と表示している。だから、地方発送はしない。購入した、その日に食べていただきたい。こだわりぬいた味と食感、そして香りを感じてほしいという。名取さんの思いがそこにはある。


 3度目の取材で、作業場を見させてもらうと、入口に石臼があった。年季の入った黒く光る臼である。

 むかしはこの石臼と薪を使った竈でだんご蒸していたと懐かしんで名取さんが話してくれた。

 石臼は、先代お婆さんの時代の物だ。竈は、この時代さすがに、煙いと近所から苦情があり、残念ながらガスに変えた。近所から苦情を受ける前に、自分達も煙くて大変だったという。
しかし、薪の燃える炎がほんわかして、良かったと語る。吉野家の草だんごには、そんな懐かしさも、味わいになっていた。

《つづく》

葛飾区民体育大会、「めざせ、オリンピック」  郡山 利行

 4月21日(日)には、葛飾区主催の、第72回葛飾区民体育大会春季陸上競技大会が開催された。

  奥戸総合スポーツセンター体育館の大体育室では、卓球台が32台も並べられ、上記体育大会競技種目の、春季卓球大会シングルスが開催されていた。 
 会場の中央部付近でプレーしたら、どんなに気持ちいいだろうかと、うらやましかった。


 午前10時、男子110mハードル競走で、大会 午前10時、男子110mハードル競走で、大会は始まった。
 国内外の正式大会と同じ基準での競技である。

 私も若かったらなと、夢のようなことを考えながら、シャッターを切った。

 かつて100kmマラソンで、世界のトップランナーだった能城(のうじょう)秀雄
さんは、当日この陸上競技場の管理運営にかかわる責任者だった。
5年ぶりの再会だった。

 「100kmレースの具合はどうですか 」
 「最近は参加していません」
 「先日、区内ジョギング・散策の、詳細な案内図のパンフレットを見ましたよ」
 「以前、郡山さんから、作り方の概要を教えてもらいましたので、やっと完成させました」 と、うれしい会話を交わした。

 2016年3月にオープンした、水元総合スポーツセンター体育館である(写真右)。

 奥戸の総合体育館が、大きな大会やイベントのメイン会場ならば、水元センターは、規模と設備は小さいが、区内青少年達の主要な養成施設会場の役目を、擁してはどうだろうか。

 選ばれた選手候補生達だけではなく、スポーツ全般に夢を抱く青少年達の、駆け出しの場が望ましいと考えた。
 体育館では、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、バドミントン、卓球等の球技のほか、25mプールでの水泳、水球や、道場での柔道、空手、剣道ができる。

 オリンピックを頂点とした、様々な大会での競技施設とほぼ同等の場所である。

 授業やクラブ活動などでも利用できるならば、少年少女達に強い体験の記憶として残るはずである。


 わがまち かつしかには、未来への力のみなもとがある


 わがまちは、奥戸と水元の総合体育施設のほかに、区内各所に点在する公式試合規格に準じる、様々な競技施設を保有している。

 これらの施設を小学校高学年生から中学生達を中心に、積極的に体験利用できる機会を与 
えてほしいと願う。

 生徒たちの会場への移動には、区内公共施設にある、大型のマイクロバスや大型バスを、学校の授業時間帯に活用する。 数が足りなければ、新品車両である必要はないので、レンタルリースの利用もある。 運転手あるいは案内者は、熟年ボランティア者が、十分に期待できると思う。

 その時間帯の、わがまちかつしか区内の道路は、渋滞していない。

 学校単位で、年に1回でも、2回でも、本物の施設で≪競技≫ができる体感に触れさせてほしい。 学校の校庭や体育館と全く異なる、広さや施設や空気の違いなどで、一瞬にしてその場の雰囲気に歓喜するはずである。

 青少年達の、スポーツに取り組むことへの様々な喜びと、その向こうにある人としての感性の豊かさや、高レベルの競技者へのあこがれの育成などへの、力添えとなると信じる。

《了》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(2) 郡山 利行

 水泳競技を終えたジャージー姿の外国人女性選手が、とても魅力的で、サインをもらいたくても、私には近寄る勇気がなく、少し離れて眺めるばかりの高校生だった。

    オリンピック栄光の記録より : NHKサービスセンター

 国立競技場での開会式は、10月10日だった。 自宅のカラーテレビで中継を見た。

 聖火最終ランナーの坂井義則さんの走るフォームがとても美しかった。そして式典終盤での、航空自衛隊ブルーインパルス飛行隊による、完璧な空中五輪には、世界への誇りを意識した。

 小関裕而(ゆうじ)作曲の、『オリンピック・マーチ』 の軽快な行進曲は、今でも聞くと、身体中に響き渡るような気がする。 


      国立代々木競技場第1体育館  撮影:1964年10月13日
  
        
 高校は中央線武蔵小金井駅にあり、自宅は東横線学芸大学駅だった。水泳会場の≪代々木オリンピックプール≫は、山手線の原宿にあった。

 競技期間の10月11日から18日は、ほとんど毎日途中下車して、代々木体育館会場周辺の、オリンピック空気を楽しんだ。
 様々な国の人達の顔と服装を、見ることができた。


国立代々木競技場の広場にて   撮影:1964年10月13日

《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(1) 郡山 利行



【 1.はじめに 】

 第32回オリンピック競技大会が、来年(2020年)7月に東京を中心地にして、開催される。
 第18回オリンピック東京大会は、1964(昭和39)年10月に開催された。
 私は当時、高校2年生、17才だった。

 私にとって、東京オリンピック1964とは何だったのだろうかと思いを巡らし、その記憶をたどってみた。
 そして、現在のわがまち かつしかへの期待を考えてみた。

【 2.オリンピックの時は、高校生だった 】

 1963年10月、オリンピックの前年、私が高校1年生の時、東京国際スポーツ大会でのサッカー会場の国立競技場で、毎日午後6時から9時、スタンドのごみ清掃をした。

 在校していた中央大学附属高校の生徒による、学校公認のアルバイトだった。 オリンピック本番での、スタンド清掃の時間調査が目的だったと、後日聞いた。

 初めて稼いだ6日間で3,525円は、いいお小遣いになった。


 1964年9月20日、東京オリンピック開催の20日前、中大附高 体育祭

 2年生だった私。写真上、〇印。

 応援合戦で、2年生は浴衣着用で、当時大ヒットしていた三波春夫の 『 東京五輪音頭 』を、踊った。

 体育祭の1ヶ月位前から、授業をさいての時間に練習を重ねた成果発表だった。♪♪ 四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない ・・・・ことのほか楽しんで、踊った。

     《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(3) 郡山 利行

【 4.1964年10月15日 国立競技場にて 】

 陸上競技日程の二日目、私の母、姉二人(長女と次女)と私は、家族4人で観戦した。


入場券は、オリンピック開会直前、銀座4丁目の小さなチケット売店に姉(次女)と徹夜して並んで買った。


     ≪写真のうえで、左クリックすれば、拡大できて、文字が読めます≫    

 オリンピック競技の入場券を担任の先生に提示したら、その競技当日は、出席扱いだった。

     TOKYO OLYMPIADO 1964 : 共同通信社

 写真右は、同日午後3時40分、男子100m決勝の、スタートの瞬間である。 スターターのピストルの白煙が残っているのが確認できる。

 女子走り高とびは、スタンドの目の前での競技だった。

 1m90cmをクリアして、優勝が決まった瞬間、マットの上で両手を挙げて喜んだ、バラシュ(ルーマニア)選手の姿が、今も目に焼き付いている。


 1966年6月12日、私が入学した中央大学は、体育を受講している

 全学部学生の授業の一環として、国立競技場で運動会を行った。会場入り口で、出席票を渡され、記名して学部学科ごとの箱に入れたら、『出席』 だった。

 競技への参加は、自由だった。
 800メートル走で、先頭を二番手で追っ駆けているのが、1年生の私である。
 1年半前のオリンピックの時、各国の選手達が走ったアンツーカーのトラックを、今自分も走っているという喜びは、生涯忘れないだろう。


【 5.思い出の選手たち】

 オリンピック競技開始の直後、真っ先に金メダルを獲得したのは、三宅義信選手だった。 重量あげが、緊迫感に満ちたスポーツだと、日本中に教えてくれた。

 ・女子体操のチャスラフスカ(チェコスロバキア)選手は、圧倒的な実力だった。今回のオリンピックで、こんなに存在感が強かった選手がいただろうか。

 ・陸上女子800メートル決勝で、優勝したのは全く無名の、パッカー(イギリス)選手だった。 彼女はゴールしたらそのまま、第1コーナー付近にいた、同国の婚約者ブライトウェル氏に駆け寄り、喜びの抱擁を交わした。

 そのシーンは、とても話題になった。

 ・男子柔道の無差別級の決勝で、日本の神永選手に勝ったのは、ヘーシンク(オランダ)選手だった。
 彼は、試合終了の瞬間に、寝技を組んだままの体勢で、母国応援席の熱狂を、右手で制止した。

 あざやかな態度だった。

 ・女子バレーボール決勝で、ソ連チームに勝ったのは日本チームだった。 勝利直後に泣きじゃくった彼女たちの姿は、魔女ではない『東洋の魔女』 選手たちだった。

 ・オリンピック最終日の男子マラソンで、優勝したのはアベベ(エチオピア)選手で、ローマ大会に続き二連覇だった。

 ・円谷幸吉選手は、ゴールの国立競技場内で、ヒートリー(イギリス)選手に抜かれて、3位だった。
 彼は4年後、栄光のマラソン人生を、自ら閉じた。悲しい報道だった。

                      《了》

同じ蕎麦はない 蕎麦作りのこだわり 《やぶ忠》=葛飾・柴又 鷹取 利典

 まえがき

 現在の蕎麦は、約400年前、蕎麦掻き(そばがき)が、蕎麦切り(そばきり)に進化したものと言われている。
 元禄15年(1703年)赤穂事件の折、集合場所に向かう前に「亀田屋」という店で蕎麦切りを食べたと記録されている。江戸時代中期からは、会席や鰻屋に比べると安価だと、屋台の蕎麦屋が庶民の間にひろまった。
 戦後の復興と共に、丼物も行う蕎麦屋が広まった。

【木彫りの看板の店名は、ご主人(日髙安邦さん)が彫った】

 現在、厚生労働省による調査では、蕎麦・うどん店の事業所数は全国で3万1869軒あり、市場規模では微減傾向にある。だが、外食産業のなかでは、変化の少ない有望な市場という発表である。

 そんな蕎麦業界で、足立区梅田で修行された初代が40数年前、葛飾区柴又に店を構えた蕎麦屋が「鶯庵 やぶ忠」だ。

 いまは二代目のご主人・日髙安邦さんで、ご夫婦が17年前、帝釈天の参道に開いた店舗で切り盛りされている。

「鶯庵 やぶ忠」のご主人は、創業者の親父さんがこだわった自家製粉 石臼引き、手打ちの蕎麦作りを受け継いでおり、「今でも修行中だよ」と頑張っておられる。


● 同じ蕎麦はない 蕎麦作りのこだわり                

 やぶ忠の蕎麦は、なんといっても自家製粉で石臼引き、手打ちが売りである。

 多くの蕎麦屋は粉を買って蕎麦を作るが、やぶ忠は、新潟の農家から、殻付きの蕎麦の実「玄そば」を仕入れている。まずは磨き、そして自前の機械で殻剥きをし、さらに選別をして自家製粉とする。

「挽きたて、打ち立て、茹でたて」の蕎麦を称して「三たて」と言う。「挽きたて」とは、製粉したばかりのそば粉を使うことだ。
 蕎麦粉は香りや風味の劣化が速い。だから、挽きたての粉にこだわるのは、職人として自然な思いで、大変な手間がかかる。
 自家製粉することで、こだわりの蕎麦が作れる。


【参道から見えるガラス張りの作業場】

 蕎麦の実は、外側から殻(果皮)、蕎麦粉(挽き割り)、花粉(打粉)、そして中心の御膳粉に分かれ、味と香り、つながりやすが変わる。夏は粉が乾燥する時期なので、つながりにくい。
 そこでつなぎ(挽き割り)を多めにして打つ。逆に冬はつながりやすので、あえて殻を入れる。新蕎麦だから白いと思われるが、味や香りを考え殻を入れるので、田舎蕎麦のように黒くなる。
 新蕎麦に見えないとご主人の日髙さん(40才)はこぼす。

 蕎麦作りの難しさで、もう一つはこねても固まらないことだ。蕎麦にはグルテンがないため、水を入れこねても粘りが出ない。
 そこで小麦粉を加え粘りを出す。他店ではワカメや山芋を使うこともある。

 【手前から、こね鉢、石臼】

 やぶ忠の蕎麦は、外二(そとに)と言って、蕎麦が10に対し、つなぎが2の配合だ。
 二八(にはち)よりも、つなぎの量が少ない。だが、それも季節により変える必要があると語る。暖かい蕎麦は、つなぎを多めにしないとのびて溶ける。はしが持ち上がらない。
 特に高齢者は温かい蕎麦を好むので、つなぎを多くすることもある。

 こだわりと物作りの葛藤だ。正解がない。だから『うまい』と言ってくれる人の話だけしか聞かない、とご主人は語ってくれた。

 一元の客か常連かによっても、蕎麦の好みが違うと言う。万人に合わせるのは難しい。毎朝、店のスタッフと話しながら決める。
 しかし、水加減は計ったことはない。季節や天候、気温などを考えて、自分の勘で決める。だから、毎日、同じ蕎麦にはならない。その感覚が分かるまで、6年や7年はかかるとご主人は語る。

 その次の工程が、伸ばしと広げの作業だ。のし板の上で、手早くめん棒で薄く伸ばしていく。通常は、1キロ程度を伸ばすのがせいぜいらしい。
 それをご主人は、3.5キロ(約一貫)の蕎麦を広げる。帝釈天の参道から見えるように作られた作業場ののし板はそれほど広くない。
 3.5キロを伸ばすと、かなり蕎麦がはみ出るが、それを2本目のめん棒で巻きながら、見事に伸ばす。

 蕎麦打ちも、伸ばしの技術も、先代の父親から受け継いだそうだ。他のやり方を知らないから、大変な技術であっても、今はそれが普通だとご主人は言う。

 蕎麦を伸ばす際中、私は横にいて写真を撮っていた。その間も、いろいろな話しをしてくれるご主人。
 緊張しますかと聞くと、「いや。いつも見られているからね。」と自然体だ。確かに、ガラス張りの作業場は、参道を歩く観光客から毎日見られている。「さすが、職人。」と感じた瞬間だった。

 取材中、試しに切ってみないかと蕎麦包丁を渡された。こま板という当て板に包丁を当てて切るのだが、巾がそろわない。太くなったり、細くなったり。不揃いの蕎麦は茹でて、ご主人が切った蕎麦と比較するように、皿を分けて出してくれた(右の皿が私が切った蕎麦)。
 太い蕎麦は、噛む必要があり、のど越しは悪い。しかし、蕎麦の生地が良いので、味は美味しかった。

   【左、ご主人が切った蕎麦。右、作者】


 次の世代につなぐ「そばの花観察運動」        

「やぶ忠」店内のレジ前に、手書きの取材日記が吊り下げてあった。奥様に聞くと、「そばの花観察運動」だと言う。
 全国そば組合(※)が主催する活動で、全国の小学校にそばの種子を配布し、授業や家庭で栽培してもらう。写生画を募集し、厳正な審査により優秀な作品を描いた子どもに奨学金を贈呈している。
 2018年で第32回を数え、応募数は1324点だった。(そば組合のホームページより)

【組合の月刊誌「麺」で発表された入賞者の作品。ご主人の地元、柴又の小学生も入賞している】

 同そば組合の活動は絵の表彰までだが、さらにやぶ忠のご主人は、地元の小学校の家庭科室で、近所の蕎麦店主も誘って収穫した実を使った蕎麦打ち体験を教えている。

 同店のレジ前に吊り下げてあった手書きの取材日記は、その活動に参加した小学5・6年生が作ってくれたものだと教えてくれた。店も、この日だけは休みにして蕎麦打ちの体験を引き受けている。次の世代の子供たちに蕎麦打ちを伝える。
 それを楽しみしているご主人が、嬉しそうだった。


 あとがき

 取材のきっかけは、今年(2019)の正月だった。自宅マンションの友達(居住者)と柴又で飲んだ帰り、締めに蕎麦を食べようとなり、帝釈天の参道に面した「やぶ忠」に入った。

 その時、取材を申し入れ、早1ヶ月近く経ってしまった。公私に忙殺され、なかなか伺えず、とても気になっていた。やっと休みが取れ、アポなしでいきなり店に伺ったが、快く取材に応じていただいた。
 蕎麦切の体験、その蕎麦を茹でててくれたりと、とても親切にしていただき、日髙さんの暖かい人柄に、感謝しています。

 【やぶ忠の1階にあるテーブル】

 テーブルは大きな檜の丸太を半分に割ったもの。知り合いのお店から譲り受けたと言う。こんなに重いものをスタッフだけで高砂から運んだそうだ。私も、欲しい・・・。

◆取材は、2019年1月26・30日、2月11日「やぶ忠 帝釈天参道店」にて。
◆写真は、2019年1月26・30日、2月11日 


 参考・引用資料
 厚生労働省2005年9月発表「飲食店営業(そば・うどん店)の実態と経営改善の方策」

 ※ 全国そば組合=日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会

ピーナッツ菓子「豆板」のこだわり 《やぶ忠》=葛飾・柴又 鷹取 利典

 そば処の《やぶ忠》、ピーナッツ菓子「豆板」のこだわり
 
 豆板とは、ピーナッツと水飴を煉って、板状にした昔懐かしい菓子である。
 ピーナッツの香りが香ばしく、一度食べたらやめられない菓子だ。蕎麦屋なんだけど、この菓子を自家製にこだわり今も続けている。そこが面白いとご主人が語る。

 そば処の《やぶ忠》でなぜピーナッツ菓子「豆板」を、と疑問をむけてみた。

 始めは、先代の父親さんが、足立にあるお菓子屋から仕入れ売っていた。しかし10年前のこと、菓子作りを廃業されることになった。

 そこで先代の親父さんは、自分が継承したいと考えた。だが修行を依頼するも最初は断られた。
 ご主人曰く「結局は職人気質だ。そのまま終わられたほうがいいと、その職人さんは思ったのだろう。」と語る。
 先代は、半年間、掃除や手伝いをしながら通って、やっと作り方を教わったという。


【昭和に作られた機械。メーカーも「よく残っていた」と感心するほど】

 割れないようにと、硬く作るのは簡単らしい。熱いうちに延ばせば、薄くても割れない豆板が作れると、ご主人は語る。

 平らにする技術は、蕎麦を伸ばす技術に通じている。代わりに包装は多少折り目があってもしかたない。昭和の機械。ときには言うことを聞かなこともあるのだろう。

 それより、中身で勝負。安価で美味しい豆板をみんなに食べてほしいとご主人の気持ちが、強く込められている。

 取材で同店に伺うたび、豆板を買ってかえる。そこで気付いたことがある。日によって、豆板の香ばしさが違うのだ。
 豆板も蕎麦と同じ。毎日作っていても、同じ豆板はできない。

 ご主人は店先で『試食してみてください。今日の豆板ですよ。』と客に呼び掛ける。そう、「今日の出来栄え、今日の味」なのだ。