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粋な最中(もなか)は「窓の月」 鷹取 利典 


           最中の皮を裏からライトを当て撮った    

《 まえがき 》

 和菓子の「最中(もなか)」は、サクサクの皮に餡(あん)を包んだ和菓子のことである。

 もち米で作った皮の香りと、しっとりとした小豆の餡が絶妙な味わいで、日本人には親しみのある和菓子だ。

 今回の資料集めでは、「最中」を扱った書籍が少ないことに驚いた。
 図書館で和菓子の専門書を調べるも、団子や練り菓子、煎餅などにはページを割いても、「最中」に関する記述はどれも少なかった。しかし、調べるうちに最中のおもしろい過去を発見した。

 葛飾柴又、参道で売られている「最中」の紹介も兼ねて、和菓子「最中」についてひも解いてみた。


 最中の起源 》                    

 「最中」という名の起源は、今から1200年前、平安時代まで遡る。

 宮中の宴で、歌人 源順(みなもとのしたごう)が詠んだ「水の面に照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋の最中なりける」(『捨遺和歌集』秋)の句だと言う。

「ふとっぱら最中」 店:柴又い志い 柴又参道 種:少し厚め、香高い 餡:大納言、甘さ適当、艶あり、ボリュームあり 1個200円

 それから1000年経った江戸時代、浅草は吉原の煎餅屋「竹村伊勢大掾(いせだいじょう)」が、煎餅種の半端ものに、使い残しの餡(あん)を入れて売り出したのが、現在の「最中」の起源と言われている。

 当時の最中は、中秋の名月に見立て丸い形で、「最中の月」と呼んでいた。

 江戸のお店が掲載料を支払って紹介する『江戸買物独案内(国立図書館 蔵書)』と言う本があった。
 この本には、「最中」と謳った店が数軒掲載されていた。それほど、最中が流行っていたという証しだろう。


《 粋な最中は「窓の月」誕生秘話 》               

 江戸時代の最中は、「最中の月」と呼ばれたように、丸い形が主流だった。そして主に日本橋界隈で販売されていたと言う。

 浅草は吉原の三浦屋に、高尾太夫(たかおだゆう)という遊女がいた。高尾太夫は、丸い最中を四角に造り変え、丸くした餡を種の中央に挟んで馴染み客に出した。
 
 客は珍しがって菓子の名を問うと、「窓の月」と高尾太夫は答えた。確かに、行燈の灯にかざすと最中が「窓」、餡が「丸い月」に見えたのだ。
 それ以来、四角い最中は、「窓の月」と、呼ばれれるようになった。

 種「五糎角」 店:亀種  場所:台東区駒形  90組 2,980円

 当時の遊女の世界は、客から身請けしてもらうか、高利子で莫大な借金を返し終えるか、それとも足抜けするしか逃げる術がなかった。
 人気を博し、大夫になれば、身請けも、借金の返済も可能となる。美貌と、客へのもてなしが重要だったはずだ。そんな遊女の戦略が、「窓の月」を生むきっかけになった。遊女と最中がかかわる、粋な話だ。


 最中の種 》 
                    
 最中は、中身の餡と、周りの皮とでできている。その皮は、「種」、もしくは「種物」と言う。その皮の専門店を和菓子業界では「種屋」と言う。


 「矢切の渡し最中」 店:代々喜最中 柴又参道 種:薄目、香良し 餡:小豆、甘さ控えめ 1個 100円

 最中の美味しさは、ほおばった瞬間、もち米の香ばしい種の香りと、餡の甘い味わい大豆の食感が、口いっぱいに広がることだ。

 種の標準は、内側が白く、外側がこんがり焦がした色に仕上げるが、注文する菓子屋の注文で、焦がし具合も自在に作れる。

 また、食用色素を混ぜ、桃色や引き茶色、小豆色などカラフルな種も作れる。
 見た目にも楽しい最中になる。種の製造過程で、餅を短冊に切って焼くので、出来上がった種には短冊型の跡が見られる。この手作り感が味わいにもなっている。

 最中の弱点は、「湿気、衝撃、灯り」である。湿気と衝撃は分りやすいが、灯りになぜ弱いのか。それは、焦げ色に仕上げた種は、長時間灯りにあたると焦げ色がなくなっていくからだ。
「焦げ」は、微妙な色加減なのだ。


 地元葛飾区には、種屋が高砂と四ツ木にある。その他、東京都内には、足立区椿、台東区駒形、中野区弥生町、板橋区仲宿などにもある。


《 最中のいろいろ 》
                     
 おもしろい最中として、葛飾柴又に、「矢切の渡し最中」がある。江戸川を渡る渡し舟を模した種に、しっとりとした餡が詰まっている。白餡と小倉餡の2種類が選べるのも味変があって楽しい。一口サイズで、一度食べると、二個三個と食べたくなる味だ。

 他にも,路面電車を模した東京都の「都電もなか」や、神奈川県の「江ノ電もなか」がある。

 新橋の和菓子店「新正堂(しんしょうどう)」の、「切腹最中(せっぷくもなか)」は、新橋のサラリーマンに有名だ。苦情を言われた顧客に、冗談半分にこれを持参してお詫びに行くと言う。


 あとがき 》 

 今回の課題は「窓」。5月に発表されて以来、何をテーマにしようか考えても、なかなかアイデアが浮かばず、締切だけが迫ってきた。

 葛飾区高砂に、最中の皮「種」の専門工場があり、「最中」と課題の「窓」がつながらないかと下調べをしていたら、偶然、「窓の月」のことを発見した。早速、取材を申し込みに行くも、断られてしまった。
 しかし、そこで諦めるのも癪に障るので、今回は資料のみで、冊子を制作した。


《 最中の種切り包丁 》

 種を作る工程に、延した生地を切る作業がある。その生地を切る専用の包丁があった。その名も「種切り包丁」。曲線を画いた刃が、柔らかい生地でも切りやすくする秘密だ。


                      制作 2019年8月15日


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日本刺繍画に広がる世界  田代 真智子

『まえがき』

 葛飾シンフォニーヒルズの2階のギャラリーで初めて作品を見て、これが刺繍(ししゅう)?なんて細かい作業なんだろう。
 一体どんな人がこの作品を生みだしたのだろうと思いました。その作者は、私が通る道筋にある美容院とブティックを経営する女性でした。

 何年か前にお店で洋服を買った時、「私が作ったものだけど良かったら使って」と首飾りのヘッドをいただき、親しみを感じたあの女性がここに紹介する日本刺繍画の作者だったのです。


      菅縫ぼたん(すがぬいぼたん)

 京成四ツ木の駅から渋江商店街を抜けた信号を通り過ぎると、右に美容院とブティックがある。

 ここは、日本刺繍画作家『平野恵美子』さんの仕事場兼作品制作のアトリエでもある。平野さんは、岩手県出身で嫁いでこの地、葛飾に住み、現在に至っている。


 女学生の頃から、針を持つのが好きだったという平野さんに日本刺繍を始めたきっかけを訊ねてみた。

 姉の嫁ぎ先が、立川で「紳士・婦人服の仕立て屋」を営んでおりましたから、毎年、休みになると岩手から東京に来て縫子さんに裁縫を教わったりして、洋裁などの勉強をしていました。高校を出て若い時に美容師の資格を取り、着付けの仕事をしていく中で、着物の刺繍に目がいくようになりましたと話す。

 1985年、子どものPTA役員を終え、日本刺繍教室『紅会』に入学し、本格的に日本刺繍の勉強を始めた。

 虎ノ門にあった『紅会』には、月2回15年通った。その後、東京、大阪、名古屋など、各地の展示会に出品し、個展も開催。2005年には『日本芸術学院』でデッサンを学んだ。

 デッサン? と疑問を感じたが、重要な過程と分かった。

 刺繍の制作工程は、図案を決める事が最初にあるが、写真を撮って実際に描きたい大きさに引き伸ばし、それを書き写して刺繍をしていく。当然、絵を描く技術も必要になるのだろう。

     「風車」


             「アネモネ」

 作品は、様々なジャンルで、着物、帯、額に至る。飾りものやコンパクトやキーホルダーなど、注文で作成することもよくあると話される。


            「宙を舞う花」

           「木枯」(こがらし) 

 気に入った作品でも欲しい人がいると譲り、手元に残っていないものもたくさんあるようだ。

 刺繍にしたいと思う絵に出会うと、その画家に刺繍にして良いか了解を得る。そして例えば、色や葉の数、角度等を変え、平野さんの作品にしていく。

 展示会出品の大作完成後は、指を休めるのではなく、休めてはもったいないとキーホルダーのような小さいものを刺すというから驚きだ。

 餅つきの刺繍は、どこかで見たような?数年前に宝くじの図案を描いた画家の作品が元だという。
 そんな絵のカレンダーが店の壁に貼られていた。

              「餅つき」

 瀬川明甫作品集「思い出のふる里」より


 平野さんは、2008年から東京岩手美術会運営委員として活躍し、 現在は、毎年『東京岩手美術展』 に出品している。


   「孔雀」
 
      伊藤若冲の作品から

 『根津・虹の会展』『リアスの風復興展』『東京・銀座大黒屋3人展』『東京・第一美術会展』他にも『東京・NHKふれあいギャラリー』などに出品している。

 7月には、葛飾シンフォニーヒルズで「アート自由六人+3」が控えており、今は、9月に開催する『東京・岩手美術会』の展示会の制作に入っている。


「藤娘」を製作中

 好きな日本刺繍と向き合って作品の一つひとつについて語ってくれた平野さんの瞳は、輝いていた。

 
        「ピエロ」 瀬川明甫作品集から


『あとがき』

 手元を離れてしまった作品が多くあるなかで、今までの作品は、記録として写真に収められていました。
 そのアルバムの写真を見せてもらい、エピソードを交え、お話を聞くことができました。その作風の幅の広さと数にびっくりしました。
 美容院とブティックを経営しながら、これだけの数多くの『日本刺繍画』の制作をする時間は、いったいどこにあるのでしょう。

 多くの作品を残した 画家『ゴッホ』や『モネ』、音楽家『モーツアルト』、浮世絵師『葛飾北斎』などの思い、ああ、これが芸術家なんだと感じました。

 今後、どのような作品ができあがるのか、今から楽しみです。

          取材・撮影  2019年(令和元年)5月18・19日

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(下)=写真・郡山利行

 過去にはフォーラムをしたり、昭和が残る立石を散策したり。出欠席、参加時間などまったくなし。なぜか。だれが幹事か、わからないからです。  

 立石って、全国区だってね。東京見物に来たら、「立石に連れて行って」だってさ。

 「久しぶりでね」

 「ほんと、半月ぶりだね」

 京成立石に来て、昭和の町を散策するのも楽しい。

 中川(一級河川)の七曲りの美景を知っていたら、本物の「立石通」だね、

 京成立石駅から、徒歩で6分20秒。たぶんそんな近場。

・葛飾伝統産業館(駅から約2分)は職人が丁寧に応対

・昭和二十年代の「のんべ横町」(駅から約1分)、駅前開発で半分ちょん切られて無残です。
 これも文学かな。純文学系のひとは見落としなく。



  立石の語り部は、この夫婦にかぎる。

  戦後文学の舞台(著名作家が立石で売血し飲んだ処)
 ・昼過ぎから、飲み屋はあります モツ煮「宇ち多」
 ・立食い寿司「栄寿司」
 ・ことのほか愛想は悪いが、唐揚げは美味しい「鳥房」(夕方5時~)

  むかし遊郭があった街なのに、暴力団がいない。珍しい町だった。どの店に入っても、ぼられない。それが立石の良さ。

 平均1500~2000円/1人くらい。

   

立石の飲み会【飲み放題・食べ放題、喋り放題】(上)=写真・郡山利行


日時 6月4日(火) 18:00~21:00
場所 大衆酒場「あおば」葛飾区立石

【飲み放題・食べ放題(料理は女将まかせ)、喋り放題】そして、あおば女将に代金を支払って、好き勝手に帰る。

 一番乗りは、出久根達郎さん夫妻です。

 


18時~21時は4000円/1人。
21時以降も、あおばに残れば、+1000円

東京下町の葛飾・「立石の飲み会」は、作家仲間と葛飾を語れる有志とで、7-8年ほど前から、年一度くらい続いています。

目的・テーマは何もありません。

『力まず、ほんわか、草だんご』 (下)  鷹取 利典

  当店は、昔から木の折り入りだ(11個入り700円)。最近はやりの食べ歩きに合わせ、プラ容器で1個60円でも味わえる。味変も楽しんでもらおうと、店頭には、黒蜜ときな粉の小袋(各30円)もおいている。


 他に変わった食べ方はないかと失礼な質問を向けてみた。自分はやらないが、お客さんが焼いて醤油を付けて食べたとか、お鍋に入れ食べたとか聞いたそうだ。


 それも、甘みを入れていない草だんごだからできるのかもしれない。しかし、やはり王道のあんことの組み合わせが、最上である。


  出来立てのおだんご(左)         それを一つひとつ手でちぎる(右)

●吉野家の看板                    

 三代目ご主人の名取さんが、9年前、先代が亡くなった後、お店を改装した。その際、取り替えた看板は、杉板に店名を彫った物だった。
 しかし、板の乾燥が不十分だったためか、黒ずんでしまった。
それを聞いたお客の看板屋さんが、今の看板を作ってくれたと話す。包装紙の文字を使って、立体的な看板になっている。


(左:現在の看板) (右:9年前、杉板に彫ったの看板)

●吉野家の包装紙                  

 吉野家の包装紙は、無地のピンクの紙に、「柴又 名物草だんご 吉野家」と書かれている。(「ご」は、「古」に「”」を付けた変体仮名を使っている。)

 さらに10年ほど前までは、紐で十字に結わえてあった。しかし、今はやめている。

《あとがき》

 追加の取材に尋ねたのは、ゴールデンウィークの初日。季節外れの寒波到来で、少し寒い日だった。それでも帝釈天の参道を訪れる人が多かった。

 お客さんが店頭で「ここ、昔は行列に並ばないと買えなかったのよ。」とお友達に話しかけていた。心の中で(このひとも昔からのファンなんだ。)と呟く。

 次のお客さんが1つだけ買って、店先で食べ始めた。名取さんが「よもぎが、他と違いますよ。」と言うと、「本当、美味しい。」と笑顔で応えていた。

 名取さんに「今のお客さん、嬉しそうでしたね。」と話しかけると、「そうなんです。『ここのを食べたら、他のは食べられない。』と言ってもらえるのが、一番嬉しいです。」と笑顔を浮かべた。

 お客さんの言葉で一喜一憂する客商売。美味しいの一言が聞きたくて、今日も力まず、竈の炎の様なほんわかとした名取さんだった。

「食べログ 東京 ベストスイーツ部門 2014年度」受賞



 「食べログ」というインターネットの食べ物紹介サイトがある。その中で、「東京 ベストスイーツ部門 2014年度」に、吉野家の草だんごが、37位を受賞した。お店の脇に、主催者のシールが貼ってある。しかし、名取さんは、そんなことを一つも自慢しない。見て、食べて、リピーターが増えることが嬉しいと語ってくれた。

                        《了》

『力まず、ほんわか、草だんご』 (上)  鷹取 利典

    力(りき)まず、ほんわか、草だんご

   帝釈天の参道から撮影した店舗と店主、名取さん。 
  恥ずかしがって、最後までマスクは取ってもらえなかった。


《まえがき》

 東京・葛飾柴又と言えば、映画「男はつらいよ」で有名な「寅さん」だが、もう一つ、欠かせない名物に「草だんご」がある。

 それは帝釈天の開山から始まる。帝釈天は、正式には「経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)」といい、日蓮宗の寺院である。下総中山(千葉県市川市)の法華経寺の上人と二人の弟子の僧によって、江戸初期に開山されたと言われている。

 その帝釈天では、下働きしていた人達に草だんごを作らせていた。その後、下働きの一家が、参道で草だんご屋をはじめて大評判になった。当時は「きな粉」をまぶした草だんごを販売していたが、女中が、あんこを添えることを思いつき、今の「あんこ」と「草だんご」の組み合わせになったと言う。

 現在は参道に、草だんごを販売しているお店が5軒ある。そのなかで、ひときわ個性的な草だんごを作り続けているのが「吉野家」だ。


 父から受け継いだ「草だんご」            

 まずは「吉野家」の草だんごを見て欲しい。この濃い緑色の草だんごは、どうやって作り出すのか。


 筆者は、この「吉野家」を自身の開設するホームページで2002年8月に紹介した。その時に、次のように説明している。


                       (写真は2002年撮影)

『ガラスの向こうにあるのが、お団子です。この写真から分るでしょうか。団子の色が。緑。それも濃い緑。それもそのはず、よもぎ(餅草)が、他の店より多い多い・・・。店の前に置かれた『非売品』の文字が物語ってます。
店の方の気持ちが通じますか。ここのお団子は、一度食べたら、癖になります。もう他のは、食べれません。』

 色の濃いのは、よもぎの量が多く、香り豊かで、味もよもぎ特有の苦味も感じさせる。とっても弾力があり、食べ応えも充分だ。ここまでよもぎを強調した草だんごは、なかなかない。

 店主、名取千枝子さんは、三代目だ。先代のお婆さんが、ここ柴又の帝釈天の参道で草だんご屋を始めたのが吉野家の始まりである。初代の頃は、おだんごを店内でも食べられ、他におでんなども出していた。


                      (写真は2010年ごろに撮影)

 そして二代目、お父さんは、お店の他に仕事を持っていたので、毎日おだんごを作れなった。それで庚申の日しか店を開けなかった。その当時は、幻の草だんごとまで言われ、店の脇の路地に長い行列ができた。

 お父さんから引き継いだ名取さんは、店を改装し9年前から毎日店を開けるようになった。しかし、名取さんのご主人が体調を崩し、今年(2019年)4月からは土日と庚申の日のみの営業になった。一日も早く回復され、写真のように、夫婦二人で店を切り盛りできるようになってほしい。       


吉野家のこだわり「よもぎ」              

「吉野家」の売りは、なんと言っても[よもぎ]である。他の店とは違う。

 一般的に、冷凍よもぎを使う店が多いなか、吉野家は昔から、長野県松代産の乾燥よもぎを使っている。冷凍よもぎの8倍もの費用が掛かるが、冷凍ものより香りが良いからだと言う。

 しかし、最近は乾燥よもぎを作る職人が減り、10年前に比べると仕入れ値が2倍にもなった。それでも、この味と香りを守るため、乾燥よもぎを使い続ける。

 乾燥よもぎを使うには手間がかかる。一度茹でて、パットの上で冷ます。その後が大変だ。よもぎは、植物の「葉」だから、葉脈とよばれる筋がある。名取さんは、これを繊維という。一つひとつ手で取り除く、この作業により口当たりが良くなると語る。

 取材に行った日も、名取さんとパートの女性とで、繊維を一本いっぽん手で取っていた。地道な作業だ。機械生産されたよもぎは決して使わない。

 店の脇に「添加物は一切使用していません。翌日には少し堅くなります。日持ちしません。」と表示している。だから、地方発送はしない。購入した、その日に食べていただきたい。こだわりぬいた味と食感、そして香りを感じてほしいという。名取さんの思いがそこにはある。


 3度目の取材で、作業場を見させてもらうと、入口に石臼があった。年季の入った黒く光る臼である。

 むかしはこの石臼と薪を使った竈でだんご蒸していたと懐かしんで名取さんが話してくれた。

 石臼は、先代お婆さんの時代の物だ。竈は、この時代さすがに、煙いと近所から苦情があり、残念ながらガスに変えた。近所から苦情を受ける前に、自分達も煙くて大変だったという。
しかし、薪の燃える炎がほんわかして、良かったと語る。吉野家の草だんごには、そんな懐かしさも、味わいになっていた。

《つづく》

葛飾区民体育大会、「めざせ、オリンピック」  郡山 利行

 4月21日(日)には、葛飾区主催の、第72回葛飾区民体育大会春季陸上競技大会が開催された。

  奥戸総合スポーツセンター体育館の大体育室では、卓球台が32台も並べられ、上記体育大会競技種目の、春季卓球大会シングルスが開催されていた。 
 会場の中央部付近でプレーしたら、どんなに気持ちいいだろうかと、うらやましかった。


 午前10時、男子110mハードル競走で、大会 午前10時、男子110mハードル競走で、大会は始まった。
 国内外の正式大会と同じ基準での競技である。

 私も若かったらなと、夢のようなことを考えながら、シャッターを切った。

 かつて100kmマラソンで、世界のトップランナーだった能城(のうじょう)秀雄
さんは、当日この陸上競技場の管理運営にかかわる責任者だった。
5年ぶりの再会だった。

 「100kmレースの具合はどうですか 」
 「最近は参加していません」
 「先日、区内ジョギング・散策の、詳細な案内図のパンフレットを見ましたよ」
 「以前、郡山さんから、作り方の概要を教えてもらいましたので、やっと完成させました」 と、うれしい会話を交わした。

 2016年3月にオープンした、水元総合スポーツセンター体育館である(写真右)。

 奥戸の総合体育館が、大きな大会やイベントのメイン会場ならば、水元センターは、規模と設備は小さいが、区内青少年達の主要な養成施設会場の役目を、擁してはどうだろうか。

 選ばれた選手候補生達だけではなく、スポーツ全般に夢を抱く青少年達の、駆け出しの場が望ましいと考えた。
 体育館では、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、バドミントン、卓球等の球技のほか、25mプールでの水泳、水球や、道場での柔道、空手、剣道ができる。

 オリンピックを頂点とした、様々な大会での競技施設とほぼ同等の場所である。

 授業やクラブ活動などでも利用できるならば、少年少女達に強い体験の記憶として残るはずである。


 わがまち かつしかには、未来への力のみなもとがある


 わがまちは、奥戸と水元の総合体育施設のほかに、区内各所に点在する公式試合規格に準じる、様々な競技施設を保有している。

 これらの施設を小学校高学年生から中学生達を中心に、積極的に体験利用できる機会を与 
えてほしいと願う。

 生徒たちの会場への移動には、区内公共施設にある、大型のマイクロバスや大型バスを、学校の授業時間帯に活用する。 数が足りなければ、新品車両である必要はないので、レンタルリースの利用もある。 運転手あるいは案内者は、熟年ボランティア者が、十分に期待できると思う。

 その時間帯の、わがまちかつしか区内の道路は、渋滞していない。

 学校単位で、年に1回でも、2回でも、本物の施設で≪競技≫ができる体感に触れさせてほしい。 学校の校庭や体育館と全く異なる、広さや施設や空気の違いなどで、一瞬にしてその場の雰囲気に歓喜するはずである。

 青少年達の、スポーツに取り組むことへの様々な喜びと、その向こうにある人としての感性の豊かさや、高レベルの競技者へのあこがれの育成などへの、力添えとなると信じる。

《了》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(2) 郡山 利行

 水泳競技を終えたジャージー姿の外国人女性選手が、とても魅力的で、サインをもらいたくても、私には近寄る勇気がなく、少し離れて眺めるばかりの高校生だった。

    オリンピック栄光の記録より : NHKサービスセンター

 国立競技場での開会式は、10月10日だった。 自宅のカラーテレビで中継を見た。

 聖火最終ランナーの坂井義則さんの走るフォームがとても美しかった。そして式典終盤での、航空自衛隊ブルーインパルス飛行隊による、完璧な空中五輪には、世界への誇りを意識した。

 小関裕而(ゆうじ)作曲の、『オリンピック・マーチ』 の軽快な行進曲は、今でも聞くと、身体中に響き渡るような気がする。 


      国立代々木競技場第1体育館  撮影:1964年10月13日
  
        
 高校は中央線武蔵小金井駅にあり、自宅は東横線学芸大学駅だった。水泳会場の≪代々木オリンピックプール≫は、山手線の原宿にあった。

 競技期間の10月11日から18日は、ほとんど毎日途中下車して、代々木体育館会場周辺の、オリンピック空気を楽しんだ。
 様々な国の人達の顔と服装を、見ることができた。


国立代々木競技場の広場にて   撮影:1964年10月13日

《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(1) 郡山 利行



【 1.はじめに 】

 第32回オリンピック競技大会が、来年(2020年)7月に東京を中心地にして、開催される。
 第18回オリンピック東京大会は、1964(昭和39)年10月に開催された。
 私は当時、高校2年生、17才だった。

 私にとって、東京オリンピック1964とは何だったのだろうかと思いを巡らし、その記憶をたどってみた。
 そして、現在のわがまち かつしかへの期待を考えてみた。

【 2.オリンピックの時は、高校生だった 】

 1963年10月、オリンピックの前年、私が高校1年生の時、東京国際スポーツ大会でのサッカー会場の国立競技場で、毎日午後6時から9時、スタンドのごみ清掃をした。

 在校していた中央大学附属高校の生徒による、学校公認のアルバイトだった。 オリンピック本番での、スタンド清掃の時間調査が目的だったと、後日聞いた。

 初めて稼いだ6日間で3,525円は、いいお小遣いになった。


 1964年9月20日、東京オリンピック開催の20日前、中大附高 体育祭

 2年生だった私。写真上、〇印。

 応援合戦で、2年生は浴衣着用で、当時大ヒットしていた三波春夫の 『 東京五輪音頭 』を、踊った。

 体育祭の1ヶ月位前から、授業をさいての時間に練習を重ねた成果発表だった。♪♪ 四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない ・・・・ことのほか楽しんで、踊った。

     《つづく》

わがまち かつしか 2019『東京五輪体感記』(3) 郡山 利行

【 4.1964年10月15日 国立競技場にて 】

 陸上競技日程の二日目、私の母、姉二人(長女と次女)と私は、家族4人で観戦した。


入場券は、オリンピック開会直前、銀座4丁目の小さなチケット売店に姉(次女)と徹夜して並んで買った。


     ≪写真のうえで、左クリックすれば、拡大できて、文字が読めます≫    

 オリンピック競技の入場券を担任の先生に提示したら、その競技当日は、出席扱いだった。

     TOKYO OLYMPIADO 1964 : 共同通信社

 写真右は、同日午後3時40分、男子100m決勝の、スタートの瞬間である。 スターターのピストルの白煙が残っているのが確認できる。

 女子走り高とびは、スタンドの目の前での競技だった。

 1m90cmをクリアして、優勝が決まった瞬間、マットの上で両手を挙げて喜んだ、バラシュ(ルーマニア)選手の姿が、今も目に焼き付いている。


 1966年6月12日、私が入学した中央大学は、体育を受講している

 全学部学生の授業の一環として、国立競技場で運動会を行った。会場入り口で、出席票を渡され、記名して学部学科ごとの箱に入れたら、『出席』 だった。

 競技への参加は、自由だった。
 800メートル走で、先頭を二番手で追っ駆けているのが、1年生の私である。
 1年半前のオリンピックの時、各国の選手達が走ったアンツーカーのトラックを、今自分も走っているという喜びは、生涯忘れないだろう。


【 5.思い出の選手たち】

 オリンピック競技開始の直後、真っ先に金メダルを獲得したのは、三宅義信選手だった。 重量あげが、緊迫感に満ちたスポーツだと、日本中に教えてくれた。

 ・女子体操のチャスラフスカ(チェコスロバキア)選手は、圧倒的な実力だった。今回のオリンピックで、こんなに存在感が強かった選手がいただろうか。

 ・陸上女子800メートル決勝で、優勝したのは全く無名の、パッカー(イギリス)選手だった。 彼女はゴールしたらそのまま、第1コーナー付近にいた、同国の婚約者ブライトウェル氏に駆け寄り、喜びの抱擁を交わした。

 そのシーンは、とても話題になった。

 ・男子柔道の無差別級の決勝で、日本の神永選手に勝ったのは、ヘーシンク(オランダ)選手だった。
 彼は、試合終了の瞬間に、寝技を組んだままの体勢で、母国応援席の熱狂を、右手で制止した。

 あざやかな態度だった。

 ・女子バレーボール決勝で、ソ連チームに勝ったのは日本チームだった。 勝利直後に泣きじゃくった彼女たちの姿は、魔女ではない『東洋の魔女』 選手たちだった。

 ・オリンピック最終日の男子マラソンで、優勝したのはアベベ(エチオピア)選手で、ローマ大会に続き二連覇だった。

 ・円谷幸吉選手は、ゴールの国立競技場内で、ヒートリー(イギリス)選手に抜かれて、3位だった。
 彼は4年後、栄光のマラソン人生を、自ら閉じた。悲しい報道だった。

                      《了》