かつしかPPクラブ

潮汐(ちょうせき)  田代 真智子

『まえがき』

「汐の満ち引き」「満潮」「干潮」などの言葉は、知っていたが、実際にこの目で確認してことはなかった。平成29年は天候不順の日続いた。

 8月下旬の暑い日に、かつしかPPクラブの取材旅行で広島に行くことができた。2017年8月20日から、2泊3日のハードなスケジュールではあったが、多くの風景を目にした。

 初めてみる安芸の国、一生に一度は訪れたかった宮島で「干潮」から「満潮」までを過ごした。時の流れをこの目で実感することができたのだ。

汐が引いた浜辺でたたずむコサギ

 宮島に到着したのは、8月20日午後3時頃。フェリーから見えた厳島神社の鳥居は、想像していた姿とはほど遠く、なんと鳥居の足がむき出しで、周囲にはたくさんの人が居るではないか!

        汐が引いている状態、干潮である。

 そもそも干潮と満潮は何故起きるのか、それは、月と太陽の引力により引き起きる。
 満月と新月の頃は、潮の満ち引きの差は最大となる。大潮である。差が小さい時は、小潮となる。

 地球は1日に1回転しているので、干潮と満潮は一日に2回ずつ来ることになる。

 この海面の周期的な上下の変化を潮汐(ちょうせき)という。この8月日、私達は潮汐をこの目で確認した。

 月と地球は約27日に1回の円運動をしている。月と地球は、それぞれ万有引力で引き合い、それぞれの相互運動による遠心力が働いているため、一定の距離が保たれているという。
 解るような、わからないような、宇宙の神秘である。

≪潮の種類≫
大潮(おおしお)~ 潮の潮汐作が大きい状態。
新月や満月の前後数日間

中潮(なかしお)~ 大潮と小潮の間の期間

小潮(こしお)~潮の潮汐差が小さい状態

長潮(ちょうしお)~月の上弦、下弦が1~2日過ぎた頃で潮汐差が一段と小さい。
 若潮(わかしお)~小潮末期の長潮を堺に大潮に向かうので潮汐差が次第に大きくなる状態。

 長潮の翌日、潮が若返るということから若潮。

干潮の厳島神社:15時48分(地元では遠浅という) 満潮の厳島神社(海面に神殿が映る)

 汐が満ちるまで、大願寺に行き、勝海舟と木戸孝允の会談の部屋の前で150年前の時間と空間をかいま見た。

 その後の足早に参拝受付が終了する時刻間近の厳島神社境内を見学し、豊国神社の五重の塔、千畳閣を観て夕日の沈む厳島神社の大鳥居を観に戻った。   

 大願寺の九本松(廿日市市天然記念物)



   厳島神社の能舞台では、茶道家元による献茶式が斎行される。



豊国神社の五重の塔(日が傾き始めた)


千畳閣(重要文化財。豊臣秀吉が逝去したため未完成となった)



    18時12分 (夕陽が山陽道の山波へ沈みかける)


 宮島は潮汐によって時の流れが確認できる。たどり着いた海岸は、数時間前とは全く違う空間が広がっていた。

 満ち始めた海を観ている多くの人は、ほとんど外国人である。

 この超日本的風景の魅力は、国籍問わず、多くの人に受け入れられているのだ。
『あとがき』

 美しい夕日は、自然の山や海、都会の中など様々な場所で眺められるが、海に沈む夕日を観て、汐の満ち引きが「太陽」「月」「地球」という宇宙と関連があると考える人がどれだけいるでしょう。

  8月20日の日の入り時刻18時52分

 今回の取材で、汐が満ちてくる水面を観ていて、地震や台風などの自然災害を思い出さずにはいられませんでした。宇宙の神秘とも言える力が起こすから天災というのでしょうか。


  宮島は日本最大の外国人観光客がたくさん訪れるところです。

 東京に生まれ育った私には、滅多に味わうことができない体験を記録に残すことができ、有意義な取材でした。

            写真・文  田代 真智子


【HP管理者より】

 田代記者の取材が昨年8月でした。真夏の取材が真冬の掲載になり、記者には申し訳ないです。宮島は4シーズン通して、素晴らしい景観と歴史の地です。潮汐(ちょうせき)は毎日楽しめます。季節を問わず、ぜひ訪ねてください。

「隠された幕末史」・穂高健一が100人の区民に講演=浦沢誠

 歴史作家の穂高健一が、2018年1月28日 葛飾区立立石図書館・研修会(2階)で、14:00から2時間0の講演をなされました。題名は『隠された幕末史』です。

 当日は晴天のもと、参加者はまるで計ったようにジャスト100名でした。

 年少者は小学生(男子)で、大半は60代を超える年齢の方がたでした。

 講師は『穂高史観』で独特の切り口を持ち、幕末史をひっくり返すような内容で、2時間を熱く語りました。


 立石図書館の白井館長が、冒頭のあいさつで、「作家・穂高さんは、葛飾区史の『郷土ゆかり人』(100人)に載られていますが、私自身、あまり認識がありませんでした。HPを見ると、小説家、登山家、ジャーナリスト、写真家など幅広く活動されています。おどろきでした」と語った。


 「きょうは、明治維新から150年。大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、これらの歴史の舞台裏がどのように語られるのか、とても楽しみです」


 明治22年に、伊藤博文の下で、明治憲法が発布された。この22年に、大久保利通の家屋が全焼し、大久保利通の日記が燃えてしまった。

 白版に『鳥有』と文字を書き、「とりう、と読みます。すべてなくなることです」。つまり大久保日記が全焼したことを意味します。

 国立国会図書館のアーカイブから確認できます、と付け加えた。

「この全焼は放火ではなかろうか」
 なぜか、放火か。幕末史にかかわる主要な人物たちの慶応3年の肝心な日記がことごとく、燃やされたり、抜かれたり、まったく現存しないからだ。

 まさに明治20年代の政府トップは、焚書(ふんしょ)を謀ったのだろう。事実ならば、ヒットラー、毛沢東とともに、明治政府は「世界三大焚書」を成した、後世に重大なる責任を負わねばならない、と語った。

 

 自著の幕末歴史小説「二十歳の炎」(2014年6月に発行)にサインをなさった。

 表紙の英雄・高間省三の写真がとても格好いい。

 明治時代発行の軍人携帯必読「忠勇亀鑑」には、日本古代の武人、日本武尊、加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康らがならぶ。戊辰戦争はたったひとり。西郷隆盛、板垣退助でもなく、唯一の武勲と紹介されているのが、表紙の高間省三です。。

 日本人にはぜひ知ってもらいたい人物です、と穂高講師はつねに語っています。


 穂高講師から学ぶ「かつしかPPクラブ」のメンバーが講演にかけつけました。PPクラブを下支えしてくださる立石名物・岡島古書店の岡島さん、四つ木郷土史家の石戸暉久さんたちも、講演参加されました。

 二次会では、幕末の要人の日記がことごとく「焚書」されたが、どれがやっのか、その犯人探しで、盛りあがりました。
 

【講演・案内】 隠された幕末史 = 葛飾区立立石図書館 1月28日(日)

 穂高健一による『隠された幕末史』を講演する。

 日時: 2018年1月28日 14:00~16:00 2時間

 場所: 葛飾区立図書館・研修会(2階) 無料
 
 メインタイトル「隠された幕末史」

主内容として:
 明治維新から150年、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の知られざる歴史の舞台裏を語る。


 私たちが現在一般に知り得ている幕末史は、焚書のうえ、ねつ造されたものである。

 ここら焚書は学者、歴史作家らは知らないか、知っていても、伏せているのか。これが一段と明白になれば、わが国の幕末史が通説と大逆転するし、「薩長倒幕」など死語になる可能性がある。広辞林からも消える。

 この講演で、それを赤裸々に明かす。

 通説に固まった歴史家にとっては、あまりにも恐ろしいことだろう。論文で綴った学術書、歴史小説などは『根拠も裏付けもなく、知ったかぶりして、嘘ばっかり書いて』と一律に不評を買ってしまうだろうから。


 幕末史のねつ造は、「国民を皆兵」にして、戦争国家へ導く作為につながった。だれがそんな悪質な焚書の工作をしたのか。講演では、犯人探しも試みる。

 
 明治政府のスタートは薩長土肥だった。薩長閥の政治家が中心だった。ただ、薩摩島津(鹿児島)、長州毛利(山口)の体質は根本でちがう。ここらは一律にできない。


 明治の三傑だった西郷隆盛が西南戦争が起きたとき自決して死んだ。同年には長州藩の木戸孝允が病死した。翌11年には大久保利通が東京・紀尾井町で暗殺された。
 一時期の創設者たちが、時おなじくして消えたのだ。


 その後、約10年間にわたり、薩長閥の力の均衡が崩れ、薩摩(鹿児島)は落ちていく。シーソーゲームと同じで、こんどは下級藩士だった長州(山口)閥の政治家たちが伸してきた。かれらは産業界と見苦しくも癒着し、金の力で政府を支配下におき、ほほ独壇場になる。


 伊藤博文による明治22年の憲法発布がおこなわれた。

 さかのぼれば、幕末の長州藩は朝敵だった。小御所会議の段階で、京都には品川弥太郎がひとり毛利藩藩士として情報収集で潜伏していた。たった一人で、逆立ちしても倒幕など言わない。長州藩は倒幕にまったく役立ってはいないのだ。
 
 伊藤博文は極貧農に生まれ育った。井上馨は下級藩士、山縣有朋は中間(ちゅうげん、武家に奉公する小者)の子ども、寺内正毅 は貧しい藩士、田中儀一は駕籠(かご)かきの息子、三浦伍楼は武士の奉公人の又家来(またけらい)の出である。
 かれらは下級藩士というよりも、藩士以下の身分だった。


 身分が極度に低いもの、学歴のなかったものが、最も高い政治支配の地位に就くと、どうなるか。過去を誇大視し、わが身を英雄視し、偉そうに語りたがるものだ。傲慢(ごうまん)な人間ほど、悲しいかな、そうなってしまう。
 極貧の出の豊臣秀吉は天下を取ると、自分をより大きくみせるために、あえて朝鮮侵略をやってみせた。それとまったくおなじである。

 戦争とは自己誇示の最大の道具なのだ。

 長州は、朝敵で挙兵の旗も挙げられなかった。それにも関わらず、自分たちを大きく見せるために、嘘はいくらでも平気でつく。
「長州藩は徳川を倒しただの、徳川よりも優れていたんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから、われらは倒す必要があっただの」とウソをでっち上げたのだ。

 金と権力をもった長州閥の政治家は、「この辻褄(つじつま)に合わない、大名・家老、公卿たちの不都合な日記は全部消せ、この世から消してしまえ」と焚書を一気にやったのだろう。


 長州閥を中心とした明治政府は、わが国、つまり政治家の自分自身を大きくみせるために、世界に君臨する日本国をつくる、軍事大国の欧米に肩を並べてみせる、と豪語した。
 
 そのためにも、歴史をねつ造し、かつての異人を討つ攘夷思想は正しい、国民皆兵は正義だ、聖戦だと教科書で教え込んだ。

 小学生の歴史教科書は明治時代の当初、自由発行で、開明主義の教育だった。外国の知識を広めさせていた。
 ところが、長州閥が政府の中枢に座ると、急激な変化が起きた。

 明治23(1891)年から、歴史教科書が検定制度になった。外国史教育は廃止され、小学校では日本歴史のみと決定された。そして、日本史上の「偉大な」「英雄」人物と重要な事件をとりあげていくものに変わったのだ。
 それは戦争史観から選択された人物たちだった。
 1904(明治37)年には「国定制」へと、一歩ずつ国家統制が強められた。


 ナチスドイツは焚書から、ユダヤ弾圧で思想を統一し、侵略戦争へと進んでいった。日本は聖戦で思想統一した。


『三つ子の魂百まで』、教科書は正しいと思う。教職員、神職、僧侶までも、鉄砲をかついで人を殺しにいく。日清戦争、日露戦争、第一世界大戦、日中戦争、太平洋戦争、といちずに太平洋戦争へと導かれていった。
 聖戦の結果が、祖国の廃墟か、となった。

 戦争の予兆はいきなり鉄砲ではなく、保管すべき公文書の偽造、焚書から芽が出てくるものだ。

『公人による焚書は戦争の原点になる』これは格言として知っておくべきだろう。

描く 田代 真智子

【まえがき】

 わが家に2枚の絵ハガキが舞い込んだ。これは、絵なの?写真なの?という疑問と興味が沸く。どうしてもこの作品を直に見たいと思い、
「誰からもらったの?誰が描いたの?」
 ともらってきた夫に尋ね、早速、取材を申し込んだ。

 快く受けてくださり、お話しを訊かせてもらう約束ができた。
 葛飾郵便局がある四つ木一丁目周辺は、戦災を免れたために基盤整備が充分でないまま住宅と工場が混在している市街地である。そんなことから『東京都防災都市づくり推進計画』で重点整備地域に指定されている。

 取材の日は、朝から日差しが強く、約束の時間15分前に四つ木一丁目のご自宅に到着したが、既にうちわで扇ぎながら店先に立って私を待っていてくれる菊地榮之助さんの姿があった。

 以前は、惣菜店であった店内には、菊地さんの作品が壁いっぱいに飾られている。
 冷たい麦茶を出してくれた奥様のヒロ子さんは、惣菜店の長女で榮之助さんは、お父さんに気に入られ、昭和38年に秋田から婿養子となってこの四つ木に来た。当時この辺りには、映画館が3つもあったというから驚きだ。その1軒は、通りを挟んだ目の前にあり、「よく観に行ったね」とご夫婦で懐かしそうに語る。

 秋田県で育った菊地さんは、子供の頃から絵が得意で隣に住んでいた従兄といつも絵を競っていた。県大会にも出品したことがあり、
「従兄と二人で前に出て褒められるのはいつも絵のことだったな。」
 と目を細めて思い出話しをする。菊地さんの頭の中では、幼い頃の絵にまつわる場面がいくつも浮かんでいるように見えた。

 今はギャラリーだが、惣菜店を閉めてからは、ガレージとして使っていた。作品を飾って人に見せれば?という知人の提案で展示するようになったと語る。

 菊地榮之助さんは、秋田県湯沢市出身の画家『岩井川俊一』の内弟子として絵を学んだ。月間少年誌『漫画王』に連載された絵物語のライオンやシマウマは、リアルな表現で才能を認められていたが、昭和30年に24才の若さで没している。

『岩井川俊一』は、画家『小松崎 茂』の一番弟子である。『小松崎 茂』は、イラストレーターでもあり、空想科学イラストや戦記物、プラモデルの箱絵などで活躍した画家である。

(画家 小松崎茂とその作品)

 両者の影響を菊地さんの繊細な作品から見ることができる。現在81才の菊地さんの作品は、水墨画、水彩画、油絵と様々な画風、作風を持っている。気に入った作品は、絵ハガキやA4サイズにしてほしい人にわけてあげている。最近では、家紋を描いてほしいという注文があるそうだ。

 写真なのか絵なのかと目を疑うような絵、いったいどのような技法でこんな絵が描けるのだろうと魅入ってしまう人も多い。取材中にも何人かの人が足を止め、作品を観て行った。

 近頃は、細いペン先で細かく描いた以前の作品に色を着けて、また違った世界を創り出していると話す。

筆者が最初に見た≪ライオンの絵≫


          作品名≪柴又の花火

 現在は、四ツ木駅近くで仕事をしている菊地さん、お休みの日は、いつも絵を描いていると思うが、そうでもないらしい。
「描きたい時もあれば、描きたくない時もある。」
 なんとも芸術家らしい話しぶりだ。
 いくつもの賞を受賞して『美術年間』にも名を連ねている。

   1988年4月 台北国際水墨書展に出品した時の記念賞状

 最近受賞したお気に入りの作品  作品名≪霜柱

 第26回全日本アートサロン絵画大賞展で優秀賞を受賞している。同作品は第41回「新日美展」に出展された。


 葛飾区内で気の合った作家仲間たちで結成されている『アート自由6人+3』では、毎年展示会も開催している。
 2017年は、9月25日から6日間。『葛飾シンフォニーヒルズ』2階のギャラリーで、書道・水彩・写真・アクリル・油彩・葉彩画・刺繍・刻字・篆刻など葛飾区のアーティストの傑作が観られる。
 なんともユニークなネーミングは、最初は『アート自由6人』で始まり、そこに3人加わっただけなのだそうだ。

 四つ木一丁目は、葛飾区の『四ツ木駅周辺地区防災街区整備地区計画』が進められている。

 ギャラリーには作品を観に訪れた人や仲間と談話するために置かれているテーブルと椅子がある。街の小さな画廊は、地区計画によって16メートル道路に拡幅され、いずれ姿を消すことになる。


【あとがき】

 風景の作品が比較的多いが、静物もたくさん描かれている。その中でひと際、目を引いたのは花の絵である。素晴らしい観察力だ。
 これが81才の男性の作品だなんて、と感動に近い衝撃を受けた。そして、この言葉に心がほんのりした。
「花はいいよ。じっとして動かないから。」

 私も子どもの頃、絵を描くのが好きだった。そんなむかしを思い出させてくれた今回の取材であった。
 私が写した旅行の写真を見て、スケッチブックを買おうかなあ、なんて思っている自分がいる。

       取材・撮影=2017年8月24日

わが国首相の平和思想はどこへ= 郡山利行

 平和主義の憲法9条を持つ、わが国の安倍晋三内閣は、昨年4月、『 核兵器でも、必要最小限度にとどまるものであれば、保有することは必ずしも憲法の禁止するところではない 』 との政府答弁書を、閣議決定した。 


 この表現は、1957(昭和32)年に、安倍首相の祖父、岸信介首相が『自衛権の範囲を越えない限り、核兵器保有は憲法に違反しない』と国会答弁したことが、原点になっている。

 1964(昭和39)年12月7日、日本国政府は、航空自衛隊の育成に『功労』があったという理由で、カーチス・ルメイ(1906-1990)というアメリカ合衆国軍人に、勲一等旭日大綬章を与えた。
 
 この叙勲を許可したのは、現政権(2017年)の安倍首相の大叔父、佐藤栄作首相である。
 叙勲を強く推薦したのは、小泉純一郎元首相の父親、当時防衛庁長官の小泉純也と、当時の参議院議員の源田実だった。

 太平洋戦争の終盤(昭和19年頃から)では、アメリカ本国政府から、前線の基地に、『戦争を早く終わらせるため』 として、日本の大都市への、焼夷弾(現在ではナパーム弾という)攻撃指令が下された。 
 その当時の空軍アーノルド将軍は、適任者として、ルメイを抜擢した。


 ルメイは1945(昭和20)年1月から、サイパン島に隣接したテニアン島の、マリアナ空軍基地の司令官として赴任した。B-29爆撃機による、日本本土の大中都市への、無差別空爆作戦を立案した。そして、実行させた。
 

   
   ≪空襲により焦土化した東京≫ 右手前に両国国技館、右奥は墨田川。

 1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲はひと晩の無差別焼夷弾爆撃で、広島または長崎の原子爆弾の当日よりも多い、10万人以上の人が死んだ。

 ルメイ司令官は、なおも日本の各都市への無差別焼夷弾の攻撃を実行させた。空爆を受けた都市は次つぎと焦土化し、数十万人の人々の命が奪われた。
 個人的には日本攻撃を快感のなかで、かれは実行したといわれている。
 

   
 カーチス・ルメイは、終戦直前の8月には広島と長崎への、原爆投下作戦も指揮したのである。

                         *

 1964(昭和39)年12月7日、ルメイ大将が、航空自衛隊の発足10周年記念で来日した。一部報道は、朝刊・第2面の10段目に、小さな記事で伝えている。

 同紙の夕刊では、埼玉県の航空自衛隊入間基地で、ルメイ大将が浦幕僚長から『勲一等旭日大綬章』の勲章を受け取ったと、これも第8面の8段目で小さく伝えている。


 昭和天皇は、この勲章を直接本人に授与することを拒否したので、宮中での式典は行われなかった。

 世界じゅうの文明が高度化した経済大国のなかで、「無差別空爆のみならず、広島・長崎の原爆投下を直接命令した司令官に、勲一等旭日大綬章を与えて褒めたたえる」という恥ずべき叙勲をおこなったのは、日本の他には存在しない。


 今年(2017年)5月29日、現政権の安倍首相が、地中海マルタ島の英国海軍墓地内にある、旧日本海軍の戦没者の墓を訪れた。

 旧日本海軍戦没者墓地を訪れた安倍首相と昭恵夫人=「外務省」より

 安倍首相の狙いはなにか。なぜ、いまマルタ島なのか。明治時代から薩長閥を中心とした軍国主義のなかで、同盟に基づいた出兵をした事実がある。

 それは第1次世界大戦で、当時の海軍が日英同盟に基づいて、遠くヨーロッパまで軍隊を送った。そして、ドイツと戦った。
 とくに、地中海のマルタ島を拠点に、連合軍輸送船団の護衛の任務では、めざましい業績を挙げた。
 当時、連合軍の艦船は、ドイツ潜水艦のUボートから魚雷攻撃を受けて、次つぎに大きな被害を出していた。沈没した艦船から投げだされた海兵の救助とか、ドイツ潜水艦を逆に攻撃するとかで、日本からきた駆逐艦の戦いぶりは、ヨーロッパの人々をおどろかせたのだ。
 この日本海軍の活躍が、結果として、連合国側において西部戦線の劣勢をくつがえし、勝利につながった。日本に対する感謝の念はとてつもなく強いものがあった。

 旧日本海軍が第一次世界大戦でヨーロッパ戦線に参戦した。その事実は、ほとんどの日本人が認識していない。

 いま、安倍首相はなぜ地中海のマルタ島の戦没者墓地を訪れたのか。

 北朝鮮問題、南シナ海の中国侵出問題が身近にある。このさきの国際情勢、とりわけ米国大統領・米軍の動きによっては戦火にもなりえる。
 その場合、安倍首相は声高に、
「日本はアメリカの同盟国として、派兵するべきだ。かつて日英同盟にもとづいて、ヨーロッパ戦線に参戦した事実がある。同盟国として、これは義務だし、信義だ」
 と国会で語るだろう。

 まずはマルタに旧日本海軍戦没者の墓を訪れ、日本人の霊に花束を捧げておかねば、信ぴょう性が希薄になる。

 過去のマルタの栄光が、安倍首相によって、今後の軍備増強へ利用されていくだろう。既成づくりを得意とする首相は、軍事法案、軍事国家への構築へとすすむ。マルタ訪問もこの軍事力強化への一貫だろう。
 はたして言い過ぎだろうか。

鹿児島県・町内4小学校、同じ日に、閉校記念運動会(下)=郡山利行


 筆者が3番目に訪問校したのは、吉利小学校である。

 在校の児童から卒業生徒まで、そのうえ地域の人たちが、校庭のトッラクで、輪になって踊る。小雨だから、走路を荒らさないように、芝生内で踊る。

『 さあ踊ろう!≪おはら節・日吉音頭≫』 は、吉利小学校の伝統的なプログラムである。

 参加者全員が、ぴしゃりと踊る光景は、わが目を疑うほどに感動のシーンだった。


 保育園児から大人まで順番に、リレー競走をおこなう。微笑ましく競う。
 
 観客席からは「がんばれー」の声援がかけられる。少人数でも、子供は張り切り、楽しく走る。

 会場全体が華やかであった。

 筆者は、昭和29(1954)年4月、吉利村の隣り村にある日置小学校に入学した。当時の1年ろ組の担任は、大楽(だいらく・現姓:前屋敷)先生である。(写真右端)。

 一家だんらんの席で、筆者は先生の家族たちから、ごちそうになった。

 地域の大人たちによるリレー競技がへ賑やかさを添えている。一升瓶にどれだけ速く、色のついた水を茶碗で一杯にできるかと競うものだ。

 スタッフとして、中学生や高校生が手伝っていた。


 子どもたちの目は、一斉に、競技者に向けられている。ふだんは少人数で静かなグランドのだが、子どもらの声援の熱気が『 最後の運動会 』を盛り上げていた。

 きょうこの場の一コマずつが、人生の糧になっていくはずだろう。

 住吉小学校の校舎の壁いっぱいに飾られた記念メッセージのもとで、全児童が紅白に分かれて綱引き競技をおこなう。

 このシーンをじっと見つめていると、目頭が熱くなってくる。

 プログラムのほとんどの種目が、児童だけで競技された。


「きみたちは、雨の中の運動会で、よくがんばった」
 閉会式の時、校長先生が、頑張り抜いた児童たちを力強い声でほめた。

 来年度からは、日吉小学校として生まれ変わる。そこでもしっかり学んでほしい。

 きょうの「閉校運動会」は決して終わりではない。明日へ希望へむかう礎(いしずえ)です。
 きょうの運動会が、きっと素晴らしい人生の一コマになるだろう。

               文・写真 = 郡山利行

鹿児島県・町内4小学校、同じ日に、閉校記念運動会(上)=郡山利行

 2017(平成29)年9月24日(日)

 鹿児島県日置市(ひおきし)日吉町には、4つの小学校がある。日新小学校、住𠮷小学校、吉利(よしとし)小学校、そして日置小学校である。

 これら4校の運動会が同じ日・同一時間におこわれた。


 来年4月から、この4校は統合される。そして、日置小学校の施設が「日吉小学校」として生まれ変わり、新たな歴史がはじまる。

 日新・住吉・吉利の3校の各小学校にとっては、このたびの運動会が『閉校記念運動会』となってしまう。

 この3校j『閉校記念運動会』は、校区の人たちと合同で行われる。

 日新小学校のグランドには5本の万国旗が飾りられていた。華やかな雰囲気が校庭を包みこんでいた。
 開会式のあとは、ラジオ体操第1の準備運動からである。

 運動会の当日は、あいにく朝からの曇天だった。時間の経過ともに、小雨降り状態となった。そのうえ、終日、降り止むことはなかった。
 
 各校の学校関係者らは、運動会中止の判断など、論外の雰囲気であった。雨模様とグランドのコンディションを見ながら、プログラムはぜんぶ実行に移された。

 となると、各学校のグランド整備の担当者たちにとっては、力の発揮の場、ともに大活躍だった。


 小学3、4年生の短距離走は、少人数なので、3人ずつ3組の競走だった。こころなしか短時間で終了してしまった。

 過疎化の傾向がつよい学校の宿命か。

 参加の児童一人ひとりには、それらはまったく関係なく、この運動会がすべてである。


 前日、筆者の夕方の4校の準備状況の取材をおこななってみた。いずこの学校も、最後の記念運動会は準備は完了していた。心なしか、無人の会場は静まりかえっていた。

 それでも、あしたの運動会への期待感がどことなく張りつめた空気を感じさせた。とくに、2番目の訪問校の住𠮷小学校は、いずこの学校も真似できないだろう、豪華で巨大な杉枝の門ができていた。訊けば、校長先生の手で、児童数28個の梨が飾られていた。

 これには感動させられた。


 当日、4校の小学校にあった学校名のテントは、卒業生の記念品だった。

 数十年間にわたり運動会や催し物で使われてきた。この校名入りのテントはもう使われることは、ないのだろうか。
 
 

 午前9時半ごろ、地域の人たちによる競技がおこなわれた。
 デカパンとデカブラをバトン代わりに、大人の男女が肩を組んで、トラックを半周するリレーだった。

 会場には、朝から笑い声が満ちあふれていた。


 運動会に出席した人たちが、各自治会ごとのテントの下で、家族単位でいっせいに昼食をとった。グランドはとても穏やかな光景だった。

 これも長く続いてきた伝統である。『 最後の運動会 』 だからこそ、趣が強い場面に思えた。

                           【つづく】

               文・写真 = 郡山利行

かつしかPPクラブ・取材旅行(4)=大崎上島・神峰山:郡山利行

 われわれは、最終の目的地である大崎上島にやってきた。

 名峰・神峰山(かんのみね)に登った。

 車でも、山頂近くまで登れる。


 神峰山は伝説の山である。

 神がすむ峰とは、ネーミングではおそらく日本一だろう。



 この山頂から瀬戸内の島々が115島もみえる。

 この数はまさに日本一で、多島美だという。



 眼下に見えるのが、木江(きのえ)港で、造船の町である。

 穂高先生が生まれ育った町である。

 幼いころは、住まいの三方が遊郭(女郎屋)だったと聞かされた。



 山頂の小さな建物は、四国の石鎚山を拝礼する社である。


 眼下は県境であり、目前の島は愛媛県だという 


 来島海峡や来島大橋まで、立体感で一望できる。

 


 ここ3日間は快晴だった。

 海も、島も、青空も、心地よく迎えてくれた。


 鐘つき楼がある。だれが何日なんど鳴らしても、まったく自由らしい。

 山麓の人は、きょうはだれか神峰山に登っているな、と思うらしい。

 除夜の鐘は108回と決まっている。神仏職の方が、108回まで数えてくれる。

「あとは好きにしんさい」
 と言い、元旦まで、島の人は鐘をつきまくっていた、と教えてくれた。



 木江港は、明治から昭和の売春防止法の施行まで、「おちょろ舟」に乗った女郎が、全国の船員らに知られていた。
 
 身売りされた娘たち、幼い少女が亡くなると、お地蔵さんとして祀られていた。

 穂高先生は、「山の日」神峰山大会で、朗読用の短編小説を2本書かれた。毎年続けていくらしい。いずれ「神峰山物語」として出版されるでしょう。


            写真・文 : 郡山利行

かつしかPPクラブ・取材旅行(3)=大崎下島・御手洗:郡山利行

 大崎下島の御手洗港に来ました。この港には幕末史の謎が豊富にあります。

 大坂の豪商の鴻池が、御手洗港に寄進した住吉神社です。

 老中首座・水野忠邦にすら、お金を貸さなかった豪商が、なぜ寄進した?


 幕末には、西の雄藩の船宿が17-8軒ありました。

 北前船、大名行列の船、諸大名家の交易船が寄港していました。
 
 幕末志士たちにとっては、絶好の情報収集の場です。

 ことし(2017年)、「大政奉還150年御手洗大会」(主催・豊町重伝建)が10月14日(土曜日)に、午前10時から開催されます。

 幕末の御手洗を知る好機です。

 穂高先生は、13時半から講演です。地元の主催者の責任者と、大会の打ち合わせをなされていました。
 
 この方は、古い家並みの保存作業中でした。
 

 御手洗は薩摩の密貿易港だと、長く住民に語り継がれてきました。

 この『脇屋』には、二刀を差した薩摩藩士が複数、滞在していたといわれています。

 蘇鉄(そてつ)は、薩摩文化が色濃く漂う港だと証明しています。

 
 文久3年に起きた「八月十八日の変」で、長州藩と七卿が都落ちしていきます。

 この御手洗港の竹原屋に宿泊しています。



「豊町御手洗重要伝統建造物保存地区」です。

 


 御手洗にくると、歴史散策マップがあります。

 これを見ながら、幕末史を訪ねてください。

 この金子邸は、現在、補修中です。

 薩長芸軍事同盟にもとづいて、芸州広島藩と長州藩がこの港で落ちあい、朝敵だった長州藩をいかに徳川家の目をくぐり、挙兵・上洛させるか、とこの金子邸で詳細が打ち合わせされました。これが御手洗条約です。

「大政奉還150年御手洗大会」の日には、一般公開されます。

『明治維新は御手洗から始まった』
 これが早晩、躍り出てくるでしょう。

 江戸時代の末期は、「風待ち・潮待ち」で栄えていました。ちなみに、当時は御手洗航路と呼ばれています。

 この絵で、繁栄ぶりがわかります。

                写真・文=郡山利行

かつしかPPクラブ・取材旅行=岩国・宮島・広島・呉、御手洗、神峰山(2)

 人間は、右手に「平和」という数珠や十字架をもち、左手に「戦争」という武器をもっている。
 区民記者たちと、呉市に入った。呉市にくるたびに、ボクは広島の平和主義に疑問をもってしまう。

 呉軍港をもちながら、平和都市だなんて、よく言うよ。横須賀、呉、佐世保という三大軍港がありながら、『広島平和都市』だなんて恥ずかしい、とすら思う。

 大和ミュージアムの敷地に、大砲の側に『鎮魂』という墓標がある。大砲で死者の霊を鎮めるの? 鎮魂の意味を知っているの。まさに右手に「平和都市」、左手に「大砲」という武器をもっている。

 民が選んだ政府が、国家的に決めた軍港だから、致し方ない。これは認めたにしろ、「大和ミュージアム」などは、広島県知事が建設に反対すれば、「建築確認」など降りなかったはずだとおもう。

 大和ミュージアムは、説明するまでもなく、太平洋戦争で、こんな巨大な軍艦がつくれたんだ、と鼓舞している。展示類は「こんなに強い海軍だった」と、大日本帝国海軍の賛美のテーマで統一されているし、青少年にすら、戦争高揚感を煽(あお)っている。

 少なくとも、戦艦・沈没とともに亡くなった海兵を悼(いた)む施設ではない。

 館内で、区民記者は館内ボランティアの説明を聞いている。

 私のほうは、今年(2017)の広島市の8月6日「平和祈念式典」をTV中継の一場面を思い浮かべていた。
 広島市内の小学生の男女2人が「平和への誓い」を読み上げた。

『こんなの誰が書いたんだ。内実も知らない小学生に、嘘を読ませるなんて、狂気の沙汰だ』と思った。


【原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。一緒に創るはずだった未来がありました。広島には、当たり前の日常があったのです。昭和20年(1945年)、8月6日午前8時15分、広島の街は焼け野原となりました】

 広島に原爆投下前、呉市は何度も大規模な空襲に襲われていた。広島市民は恐怖に脅えていた。三原も、今治も、松山も、周辺都市は空爆に遭っている。
「広島にはおおきな師団があり、大陸に兵隊を送りだす宇品港があり、おかしい、なぜ攻撃されないのか、もっと不吉なことが起きるぞ」
 庶民の反応は敏感で、不気味な不安のなかにいた。米軍が上空から、広島市民に撤去を求めるビラを撒く。こっそり読んでから、軍人に渡す。口コミで広がる。

 小学生たちは親元から切り離されて、学童疎開がはじまった。これが、【当たり前の日常があった】のか、嘘もいい加減にしろ、と思った。


【大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました】
 戦禍に脅える広島市民が、そんな笑顔などあるわけがない。いったい誰がねつ造したのか。親か、教育者か。それとも広島市の職員か。

【未来の人に、戦争の体験は不要です。しかし、戦争の事実を正しく学ぶことは必要です】
 国内外の要人が列席されているまえで、小学生に、事実でない朗読させて事実のようにカムフラージュする。こんな欺瞞が許されるのだろうか、広島市は。

 この小学生らが大人になり、戦前の恐怖の事実を知ったならば、心が痛むだけでなく、強い不信感を持つだろう。ぼくとわたしは利用されたんだ、と。


【まっすぐ世界の人々に届く言葉で、あきらめず、粘り強く伝えていきます】。

 小学生にそう言わせたならば、原爆被害の悲惨さをやたら強調する「被爆者」ということばから脱して、「戦争被害者」という表現に変えることだ。

「被爆者」広島・長崎に限定されてしまう用語では、世界の人びとに届かない。

 ベトナム戦争の「被爆者」とはいわない。イラク戦争の「被爆者」ともいわない。東京空襲、第一次、第二次世界大戦など、すべてにわたり「戦争被害者」なのだ。
 世界に届く用語ならば、広島は原爆による甚大な『戦争被害者』という表現にしないと、普遍性がない。

 いつまでも「被爆者」というカテゴリーに留まろうとするから、小学生に嘘の宣言をさせてしまう。もうやめようよ。毎年、内情も知らない小学生を使った、広島のお涙ちょうだいは。
 広島県は呉軍港をもっている。こんな姿勢を続けていれば、「広島平和都市」の不信感が募るだけだ。過去には反原水爆運動が極左し、分裂し、日本国民からそっぽを向かれてしまった。
 こんどは小学生のフィクションの朗読か、欺瞞か、と批判されたら、広島の信頼感が悲しいかなますます失くしてしまう。

 私には、広島市よりも、呉市のほうが、『戦争と平和の狭間にいる危うい姿』をより深く知ることができる。
「平和って、どんな努力なのか?」と考えさせられる。



 戦争とは国家間(民族間)の対立を武力で解決するものである。平和とは非暴力で解決を導くものである。
 人間はなぜ対立するのか。本能である。本能から予防や防衛という戦いの圧力が生じる。

 人間が進化すれば、戦争(本能)の勝敗によって解決しなくとも、外交交渉(理性)や相互経済・社会協力によって争いを解決することができる。

 平和技術の向上をはかる。戦争暴力の抑止をいかに磨くかである。今日的な課題である。

 こんな議論を区民記者たちとしてみたい。