ジャーナリスト

「山の日」大崎上島・神峰山大会=『初潮のお地蔵さま』 【冒頭の一節】(4)

 うすい単衣(ひとえ)姿の13歳の恵美(えみ)が、女郎屋(じょろや)『立木屋(たちきや)』に連れてこられてから、すでに2か月半が経(た)つ。

 清楚な娘にはおよそ縁遠い場所だった。
 立木屋は、大崎上島の木江(きのえ)港にあり、『一貫目(いっかんめ)遊郭街(ゆうかくがい)』と呼ばれる目立つ場所にあった。

 朝日が昇るまえ、室内がうす暗いうちから、彼女は働きづめである。釜戸(かまど)に枯れ松葉をつかって火を熾(おこ)す。土間の窓ガラスまだうす闇で、恵美のはたらく姿が写る。
 細面の恵美は、二重瞼で、目鼻立ちがはっきりしている。艶(つや)のある黒髪は、後ろで束ねて輪ゴム一つで結ばれていた。

 台所の一角には、近所の造船所の廃材が積み重ねられていた。恵美はそれを鉈(なた)で細く割り、釜戸に入れて赤い火を大きくする。

 釜戸の火が上手(うま)くまわると、ぞうりを脱ぎ、板の間の食堂にあがり、折り畳み式の長テープを3つならべる。それぞれの四脚を開く。背丈ほどの戸棚(とだな)から、姐さんたち7人の食器、箸、湯呑み茶碗をテーブルにならべていく。

「順番がまちがうと、姐さんたちから癇癪(かんしゃく)玉(たま)を投げつけられる。この位置で大丈夫かしら」
 食器類を個々におく位置すら、彼女は慎重(しんちょう)にも慎重をきす。それとは別に、立木家の四人家族用の食器類をお盆にのせはじめた。


「もう6時まえ。急がなければ……。朝帰りの早い船員がいると、たいへん」
 彼女の視線が壁のながい柱時計にながれた。
 帰りぎわの男の顔を見たらいけない、といわれている。泊り客が帰る前に、玄関を掃除しておかないと叱られる。

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「山の日」大崎上島・神峰山大会=『ちょろ押しの源さん』 【冒頭の一節】(3)

 祖父の大学ノートが押入れの片隅から見つかった。セピア色に染まったノートの書体は古い。

 祖父はいっとき瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江(きのえ)中学校の教員だった。ノートを読む私には、祖父の島嶼(しま)の生活やしごとメモにさして関心がなかった。

 一方で、克明に記載(きさい)された『ちょろ押しの源さん』には、つよくこころが引き込まれるものがあった。
 太平洋戦争の敗戦後で、世のなかがまだ食糧難のとき、ひときわキラキラ輝いていた港町があった、と祖父は特徴を書いていた。これは日記かな? 祖父は小説家に憧(あこが)れていた節があったようだから、取材メモかな。どちらにでもうけとれる内容だった。


 祖父の古い大学ノートをもった私は、真夏に、現地の島を訪ねることにきめた。呉線の竹原港から、大崎上島行きの高速連絡船に乗船した。
 瀬戸内の澄んだ青い海上に浮かぶ、どこか富士山に似た名峰があった。


 わたしの視線の方角を知ったのだろう、乗船客の年配女性が、
「あれは神峰山(かんのみねやま)よ。悲劇のお地蔵さんが数百体もあるの。いまでも、大切にされてね。夏場は、みんなして冷水をくみ上げて、お地蔵さまを水で洗って、磨いて、亡くなった若い娘たちを祈ってあげているのよ」
 とおしえてくれた。

 その数の多さにおどろかされながら、どんな悲劇なのか、と問う間もなく、高速艇が大崎上島に到着した。

 祖父が『ちょろ押しの源さん』を書いたのは昭和20年代後半だろう。祖父とちょろ押しの源さんは、ともに将棋が好きだったらしい。

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第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(2)

 この島は、瀬戸内海で最大の離島です。名峰・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が眺望できる、絶景です。

 さらなる特徴として、多くの幼い少女、若い娘さんがお地蔵さんとして祀られています。


 室内会場:大崎上島町観光案内所2階 ( 白水港フェリー乗り場から徒歩1分)


開会の挨拶は、大崎上島地域協議会・事務局長  榎本江司 さん (左)


 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から、世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げました。
 このたび、大崎上島において、8月11日の祝日「山の日」に、大崎上島・神峰山大会を開催することができました。


 どんな悲哀があったのか、時代背景などを朗読・小説で知ってください。そして、鎮魂歌の演奏を聴いたうえで、皆さんで神峰山に登り、「悲哀のお地蔵さんを洗う、磨く、祈りましょう」 


 司会  平見健次 さん (右)

 朗読 三原 みずえ さん

     濱本 遊水 さん

 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 「ちょろ押しの源さん」

   第2部 「初潮のお地蔵さま」

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化しています。


音楽演奏者

      Duo de naranjo(デュオ・デ・ナランホ)

・三須磨 大成さん(ボーカル・ギター)

・三須磨 利香さん(ボーカル・パーカッション)

  


 * キューバ音楽による鎮魂歌を聞き入る。



 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート
 
 大崎上島町の木江町は、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。そして、多くの悲劇が生まれた。


 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動しました。~ ハンドタオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布されました。
  
 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいきました。

  石仏の巾や前掛けを付け直します。
 

                       【つづく】        

第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(1)

 大崎上島は、瀬戸内海で、最も大きな離島である。(離島振興法による)。平成の大合併では、周辺の島々は、地方都市に吸収されてしまった。
 しかし、この大崎上島町は、広島県の豊田郡で唯一の市町村として残る。

 この離島で、「山の日」をやろうよ。なぜ?「海の日と勘違いしているんじゃないの」ということばも飛びだしてきた。そうだろうな、瀬戸内海のど真ん中で、「山の日」だから、おどろかれるのは当然だ。

「神事の回伝馬競争、サマーフェスティバル、盆踊り、諸々の行事が立て込んでいる。お盆の時期は、島にはイベントがたくさんある。そんな手が回らないよ」

 8月11日は、ナショナル・ホリディ―だから、別の日にやろう、というわけにもいかない。国家が決めた祝日だから。

「ともかく、やろうよ」 

 広島県・大崎上島町で、平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日)に、11:00~15:00、イベントが開催された。
『第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会』で、主催者:広島県・大崎上島町地域協議会(藤原正孝会長)、後援:全国山の日協議会(谷垣禎一会長)である。

 大会名:悲劇の石仏を「洗う」「磨く」「拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

 瀬戸内の名峰・神峰山は、昨年『しま山100選』に選ばれた。北は利尻富士とか、南は屋久島の宮浦岳とか、その著名な山と肩を並べている。

 神峰山(標高452m)の山頂から、日本一、大小115島が眺望できる、絶景である

 この島は、明治初年からに昭和33年の売春防止法の制定まで、約100年間近く、瀬戸内随一の遊郭が発達した「木江港」(きのえこう)があった。

 明治から戦争の連続で、暗い時代だった。富国強兵だから、国税は軍事費につかわれてしまい、国民の社会福祉や民の生活向上には回ってこない。挙句の果てには、太平洋戦争の敗北で、国民はさらに飢えてしまった。

 この間、「貧乏人の子だくさん」という言葉が日本を支配していた。「口減らし」「満州や海外移民」「ひそかな間引き」とか、食糧に対する過剰人口であった。貧困や食糧難の犠牲になったのが、口減らしの対象となった少女や若き女性だった。

 遊郭に、5~10歳で売られてしまう。そのうえ、14、5歳になると、青春を愉しめず、
「日々、身を売って、親や兄弟に仕送りする」
 という貧困家庭を支える働き手になった。

 遊郭の劣悪な環境の下で、結核や性病、過酷な精神的・肉体的な負担から、いのちを落とした少女や若い娘が多い。
 遺骨が引き取られない、あるいは帰っていく先がなくて、無縁仏になる。

 この島の尼僧が、明治初期から昭和50年代まで、3代にわたり庵を守りつづけてきた。こうした不幸な子どもたちが亡くなると、お地蔵さんを作ってあげる。そして神峰山に奉じてきた。その石仏は、数百体ある。

 島人がいまなお赤いエプロンを着せてあげている。個人なのか、団体なのか、それはよく解らない。

「山の日」に、時代の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることにした。

                    【つづく】

第1回 祝「山の日」大崎上島・神峰山大会=ことしからスタート・8月11日

 目的
〇 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げた。
 この祝日に、瀬戸内の名峰・神峰山(しま山100選)に眠る、売春の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることを目的とする。


1.主催者:広島県・大崎上島町地域協議会
後援 : 全国山の日協議会 (谷垣禎一会長)


2.開催の内容

大会名:悲劇の石仏を「洗う・磨く・拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

開催日時:平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日) 11:00~15:00

会場:大崎上島町観光案内所2階

          * 白水港フェリー乗り場から徒歩1分

          * 住所:大崎上島町東野6625番地61/電話:0846-65-3455

3.参加費: 1000円 昼食、お茶、石仏を磨くハンドタオル代等として

4.スケジュール
 11:00 開会挨拶:大崎上島・木江出身の作家・穂高健一
                (日本ペンクラブ広報委員、日本文芸家協会会員)

 11:10 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 短編小説「ちょろ押しの源さん」(400字詰め約40枚)

   第2部 中編小説「初潮のお地蔵さま」(400字詰め約60枚)

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化した

12:00 神峰山頂上へ移動

 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動 

~ 山頂・展望台で昼食  

13:00 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート

  南米ミュージシャン(ミスマ夫妻)が山頂で鎮魂曲を奏でる

13:20 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいく

 タオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布、石仏の巾や前掛けを付け直す

15:00 山頂・石鎚神社前にて解散
          * 希望者は駐車場まで戻り、バスで案内所まで移動

【大崎上島・特徴】

・大崎上島は、瀬戸内海で最大の離島です。(離島振興法にもとづく)

・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が望める絶景です。
 北海道から九州まで厳選された名峰『しま山100選』(公財・日本離島センター)にも、神峰山は選ばれています。日本最大級の眺望です。

・大崎上島町・木江港の街には、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。
(おちょろ舟で、女性が身を売っていた)。そして、多くの悲劇が生まれた。

6.問合せ先: 同実行委員・事務局 平見健次 090-1659-5722

平和は戦争の仮面をかぶる(3)

 平和は、子々孫々まで伝承できるとは限らない。政治家の平和や安全の連呼は、ときに戦争を招く凶器にもなる。

 戦争関連の法律ができる。そのうえ民衆の平和を脅かす類似の法律ができる。政府も、政治家も、メディアも、結果として『法律はつくり放し』である。『悪法も法である』という格好の餌食になる。これが戦争ガンの浸透になって、次世代で、戦争ガンが発病してくる。

『廃案に持ち込む』。国民は政治家なんて、嘘だ、そこまでやるはずがない、と見限っている。まやかし、口先だけの繕(つくろ)い。できた法律はもはやあきらめてしまう。ここに大きな戦争への落とし穴がある。

 戦争体験者が少なくなった今、「戦意高揚」を高々に謳(うた)った軍国主義時代すら、理解できない。過去の戦争がなぜ起きたのか。なぜ軍国社会になったのか。歴史から学び取るしかない。

 戦争に関連した歴史は、とかく政治家の都合よく歪曲やねつ造されやすい。教育にも悪用されやすい。

 松下村塾がなぜ『明治日本の産業革命遺産』になるのか。これなども、世界に向けた歴史の欺瞞(ぎまん)である。

 吉田松陰は安政の大獄で、危険思想の持ち主として斬首された。まちがいなく、松下村塾の寺小屋は江戸時代である。
 韮山の反射炉も、老中首座だった阿部正弘のもと、江川太郎左衛門がつくった江戸時代の遺産である。
 それなのに、「Meiji World Heritage Convention」と英文すらも明治である。

 世界にむかってまで、Meiji、となぜ嘘をつくのか。日本人として恥ずかしいかぎりだ。もう世界遺産として決まったものだ、とメディアの批判は影や形すらもない。これで良いわけがない。
 吉田松陰の『幽因録』は、歴史の検証として、日本人全体が知っておくべきだ。むしろ、教科書にこれを載せるくらいの勇気が必要だ。

 ※ 中公クラッシック「吉田松陰」より抜粋

『太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。

だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである。

いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。

また、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう」


 明治時代に入ると、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、第一次世界大戦、日中戦争(シナ事変、満州事変)、太平洋戦争と連続してくる。

 大陸侵略と、吉田松陰の『幽因録』と重ね合わせてみると、いかに危険思想家とわかる。これらを国民に広く教えずして、かたや江戸時代の松下村塾を世界遺産にしてしまう。

 これでは子々孫々まで、吉田松陰が世界に承認された思想家だと勘違いさせてしまう。現代から歴史を歪曲して送りだすことになるだろう。

 20年後、30年後、50年後においても、「Meiji」にふさわしくない、間違っている、と悪評がたち、正されるよりも、現代において『明治日本の産業革命遺産』の一部は事実誤認だったと、一部取り消し申請するほうがよい。

 世界遺産の取り消しは、他国で事例がある。
 だから、日本時の不得意な「廃止」「修正」、「廃案」の鍛練として、松下村塾、韮山反射炉など、江戸時代の建造物の取り消し申請からやってみよう。
 現政権で無理なら、次なる政権で勇気をもっておこなう。


 平和は黙っていれば、後退してしまうものだ。戦争に結びつきやすい法律は、あきらめで次世代に送ってはいけない。くり返しになるが、『法律のつくり放し』が最も危険だ。同次世代に生きたものとして、『廃案』へと挑戦する責任感が必要だ。
 アキラメという無責任さが戦争ガンとして、いつしか拡大し、発病してくる。

 多数決、政党政治で決めた。これが逃げ道になってはならない。政治家一人ひとりは与野党を問わず、自己責任で、再吟味のうえ、時代にそぐわない法律は責任を持って『廃案』にすべきである。

 平和は戦争の仮面をかぶる。江戸時代の農民一揆のように、命を掛けてまで、と言わないけれど、合法的に、日本人が最も不得意な、お上の決めた『危険な法律は廃案』へと追い込んでいくことだ。『安全、安心、自由』という視点で、ダメなものはダメと、廃案ができる政治の土壌づくりが、現在からの平和創造の出発点である。

 

平和は戦争の仮面をかぶる(2)

 太平洋戦争はとはなにか。
 日本が中国大陸において、満州国の独立を宣言し、国際連盟から総批判を受けた。諸外国から経済封鎖がされてしまった。
 それをもって、統帥部の山本五十六司令長官がパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。むろん、国民のコンセンサスなど、みじんもない。

 マスコミが戦争を煽ったり、戦争への道筋を作ってきた面がある。政治家が事実を折り曲げたり、明らかに嘘をついたりしている。それを知りながら、大本営発表で、記事にしてきたのだ。政治家への批判精神が大きく欠けていた。政治家や軍部の嘘が、戦争のがん細胞となり、戦争を優先する国家へと、不随の国家になってしまったのだ。

 現代でも通用するが、政治家のウソを見過ごす、体質がマスコミにあることだ。あきらかに歪曲と嘘があると知っていても、次の記事ネタをもらうために、深く追及をしない。ジャーナリズムの本質の批判精神が、ポーズだけで終わっている。

 この頃はメディアの発信よりも、フェイスブック、ブログの方が真実味がある。鋭い追及や、良い勘所をもっている。
「龍馬の手紙発見」という記事に対して、文面、実物写真、専門家の「本物に間違いない」というコメントにたいして、見事なまでに異論を展開し、偽ものだと実証してみせるのだ。説得力がある。

 博物館の研究員の発表通り。そこに危険を覚えた。メディアの記者が目を閉じた。

 戦争とは何か。平和とは何か。わたしはそれを取材のテーマとし、片や、つねに自分自身に問いかけている。大砲や銃弾が飛び交っていなければ、平和なのか、それは違う。

『安全、安心、自由』の三つがそろった社会である。私はそう定義している。戦争抑止のためには、自衛の軍備は必要だ。国民の総意だったとしても、過剰になっていないだろうか。


 古代ギリシャ時代から、戦争の起きる理由は3つに要約できる。『利益』、『恐怖』、『名誉』、この三つは現代にでも十二分に通用する。軍事資源の確保、武器産業と政治家が裏利益で結びつく。ここらは狂いがない戦争理由だろう。

 過剰な武器と軍備をもつと、相手(仮想敵国)の国民や軍部に、じわじわ恐怖を与えていく。やがて、相手は自己防衛のためにと言い、先制攻撃をしかけてくる。抑止が戦争の原因になる。つまり、あいてに『恐怖』を与えすぎると、戦争になってしまう。

「平和」という耳ざわりの良いことばは、使い方によって戦争を招く凶器になる。
 
 東条英機が内閣総理大臣になった時、就任演説で、十数回も、平和ということばがでてくる。国民はみな平和社会がくると信じた。当時、中国大陸で展開されていた日中戦争の解決につながる、とも思った。
 まさか、2か月後に、パールハーバー(真珠湾)攻撃がなされる、海軍統帥部の頂点にいた山本元帥が、そんな準備をしているとは国民は想像もしていなかったのだ。

 政治家は口で平和を唱え、両手で銃弾を撃ち込む。

 太平洋戦争は軍艦マーチで始まり、国民総動員令で、個々人の自由を奪い取り、戦場へと駆り出されていった。そして、国内の民衆は大空襲で逃げ惑った。

 政治家や軍部は、きまって自己防衛、平和回復のため、という理由で突入する。最終目標は、平和社会を取り戻す、という理由だ。

 平和は政治家の道具にされやすい。政治家はいつも平和の仮面を被っている。

平和は戦争の仮面をかぶる(1)

 わたしは最近、徳川政権を倒す必要があったのか、と疑っている。教科書で、討幕は当然だと教えられてきた。その教えは正しいのだろうか。

 現代の視点で客観的に、日米通商条約の条約文を読めば、アメリカ側の方こそ、不平等だと怒ってもよいほど、日本が有利になっている。
 ここ2年あまり、わたしは幕末史講座で、日米和親条約の全文を一条ずつ読んで、研究してもらっている。異口同音に、「アメリカの方が、めちゃくクチャ不利ですね」とおどろかれている。
 明治の為政者が、「不平等条約だった、不平等条約だった」と決めつけたのは、現代のようにネットがないし、だれもが見ることができなかった。それを利用されたのですよ」と説明してあげる。
 さかのぼれば、天明・天保の大飢饉では、日本は食糧不足、人口増の慢性的な過剰人口に陥った。低い輸入関税の通商条約で、小麦粉、トウモロコシ、パンなど安価で大量な食糧物資が継続して輸入できた。飢えから日本は救われた。

 東北の諸藩など一つの藩で数万人、数十万人も飢え死するほど、飢餓の連続だった。攘夷派が主張通り、日本が開国しなければ、大変な天災による飢餓がつづいた。安政の通商条約のあとから、日本は飢饉が起きていない。(物価高の打ちこわし運動はあった)。

 はたして教育で習ったように、通商条約を結ばず、飢餓列島のままの方が日本は良かったのだろうか。国民が飢える。それを賛成する非人情な人は、現在ではいないだろう。

 餓死がどんなに悲惨か。雑草すら食べつくされてしまう。母乳が出ず、赤子が骨と皮膚になって死んでいく、五十歳になれば、姨捨山へ。二男三男は牛馬のように朝から晩まで働いても、凶作で稲が枯れね。食糧が尽きて大人も死んでいく。そんな世界はとても嫌だ。

 徳川家が判断した開国による通商条約は、継続的に、食糧輸入の大量の増加をもたらした。数十万人、数百万人の人命が救われたのだ。
 なぜ、現代の教育はここを教えないのか。歴史教育のなかに、一般庶民の目線が必要ないのだ。誰のための教育なのか、と疑ってしまう。

 徳川家の正しい判断だったはずだ。

 ペリー来航の直後、老中首座の阿部正弘は、『人が国家を救う』といっきに家柄主義から、人材登用は精鋭抜擢主義にかわえた。川路聖謨、永井尚忠、勝海舟、ジョン万次郎、なかでも、岩瀬忠震(ただなり)はとくに突出した人材だった。
「日本は岩瀬がいて幸せだった。ほとんど日本の言いなりの条約にさせられてしまった」
 ハリスが晩年に回顧している。
 岩瀬たちがハリスと延べ15回も会談し、粘りに粘られて日本有利な条約が締結させられたのだ。

 となると、二番手、三番手で条約を結んだ英、仏、ドイツ、オランダなどは、最恵国待遇から、岩瀬が結んだアメリカに右ならえになってしまったのだ。

 現代の教育者は、いまだ薩長政治家がねつ造した安政通商条約を悪の中枢のごとく教える。

 テロリストが井伊大老を狙われた理由は、水戸家と紀州家という徳川家どうしの将軍跡継ぎ問題であり、通商条約ではない。井伊大老自身は、勅許なしの条約締結に反対していたのだ。
ここからして違う。

 有能な永井忠震が、日本の将来を見渡し、通商条約に反対する井伊大老が示した開国条件の約束事のちいさな言葉尻を利用した。永井は『この条約が間違いなく日本のためになる』という確信の下に、わが命をかけて締結したものだ。つまり、確信犯だった。

 井伊大老は激怒して、長井をはじめとした条約締結の関係者を閉門・謹慎の処分にした。

 結果はどうだったか。日本は食糧危機から救われた。姨捨山の悲劇など皆無になったのだ。長野群馬、東北など、生糸輸出が盛んになり、大量の外貨が入り、餓死がなくなり、養蚕振興で潤った。海外の高度な産業生産物の輸入で、近代化が進みはじめたのだ。

 その日米通商条約の批准書交換で、小栗上野介たち3人の正・副使節団、伴侍たち約70人ほどがアメリカに渡った。小栗上野介たち遣米使節団が太平洋を渡り、なんどもアメリカ大統領にも、国務大臣にも会っている。(咸臨丸が遣米使節団を運んだは、嘘の歴史)。
 そこで見たものは、近代化された産業施設、民の豊かな生活だった。
 日本の将軍の外出は一万人の伴を連れる。大統領は伴などつれずに独りで、ぷらっと日本使節団に逢いにきた。この驚きは大変なものだったらしい。
 身分制度の破壊が強く印象づいたのだ。

 これからは大名家の政治じゃない。人民が、政治家を選ぶ社会に移行するべきだ、諸藩の政治から、大名を引き下ろし、身分が低くても県知事、州知事にする。使節団のほとんどが考えた施策だった。

 かれらはヨーロッパを回り、世界一周して帰国した。井伊大老は暗殺されていた。それでも、小栗上野介はフランスの資金導入を図り、開国による近代化を推し進めた。製鉄所、造船所、ホテル、総合商社、鉄道の発注、電信の導入など諸々のアメリカ・ナイズだった。

 大隈重信は「明治の近代化は、小栗上野介の真似ごとに過ぎない」とまで言われている。

 徳川家がそのまま新政権を担当していたならば、日本は大統領制になっていただろう。そして、欧米流の資本主義国家になったはずだ。

 資本主義とはひとことで言えば、「人」、「金」、「物」をまわして利益を創出することである。西洋諸国は産業革命後も、国内戦争なくして封建制度(経済用語)から脱却し、民を土地の拘束から解放し、自由に職業選択できる資本主義の国になった。

 19世紀の日本にも、その潮流がやってきた。商業が発展し、通貨システムはすでにできていた。徳川家は一歩を踏み出していたのだ。勘定奉行(大蔵大臣)の小栗上野介などは典型的な近代化推進派で、民間投資で、資本金100万両(現1000億円)の総合商社を作って成立させた。まさに、資本主義だ。

 徳川家のトップ層は、関ヶ原からの群雄割拠(大名家支配)の封建制から脱却し、中央集権政治となる郡県制(現在の都道府県知事による政治)をめざしはじめた。そのうえ、アメリカ式による大統領制までも検討していた。

 薩長閥の政治家でなくても、徳川家の有能な閣僚たちで、資本主義の新国家はつくれたと思う。帯刀禁止、丁髷などは西洋化でごく自然に消えていっただろう。西洋に貴族文化が消えたように。なにしろ技術の物まねが得意で、洋物・洋風の文化に敏感な民族だから。

 徳川家のまま政権を継続させていた方が、軍事国家にもならず、大陸侵略もなく、アメリカ方式の資本主義が発達し、太平洋戦争という悲惨な惨事まで引き起こさなくても済んだだろう。

 そのひとつの根拠は、徳川家が260年間にわたり一度も海外と戦争していない穏便な政権だったことだ。その実績は高く評価できる。
 最近では「江戸時代は鎖国」という認識は不適切だといわれている。徳川家は細々だが海外と交易しながらも、いちども戦争していないのだ。
 
 江戸時代で唯一、薩英戦争、長州戦争のみが外国との戦争だった。その当事者の薩長の下級藩士が、過激テロリストを国内にはびこらせた。徳川政権下の安定した治安をかく乱した。

 最近は、国立国会図書館や各地の大学・公文館などでデジタル化が進み、過激派攘夷派たちの日記や手紙などが、かんたんに検索できるようになった。これまで隠されていた新事実が次づぎに出てくる。

 薩長の密貿易。のみならず、たとえば大久保利通日記から、薩摩藩は大量の二分金の贋金を鋳銭し、大坂でばら撒まいていた。当人が記している。150年後に、贋金づくりの指図までも、克明に記録された自分の日記がデジタル化されるとは思ってもみなかっただろう。
 西郷は江戸では騒擾(そうじょう)を起こし、強奪、略奪、江戸城・二の丸放火、美女狩りなど、とてつもない不法行為をしている。まさに、市民の敵だった。

 大坂では贋金、江戸では騒擾、という不法な過激派だ。
 大政奉還で明治新政府ができたのに、薩長の下級武士の過激派が鳥羽伏見の戦いでクーデターを起こし、やらなくてもよい戊辰戦争で、政権を奪い取った。

 そのうえ、明治の政治家が幕末史を歪曲し、ねつ造し、義務教育制度を作り、全国民に嘘を落とし込みしてきた。
 西洋の植民地時代は無くなっていた。にもかかわらず、日本政府は明治以降の中国大陸への侵略の口実として、『日本は幕末から欧米の植民地になる恐れがあったから、軍備拡張は当然である』と教えてきた。
 歴史が軍事国家づくりに悪用された。軍国少年、軍国将兵が最も有能な人間だと信じ込ませた。教育の怖さである。

 いまならば、小学生でもPCで、日米通商条約の条約文を読める。第2条など読めば、日本がもはやこの段階で、欧米の植民地にならないとわかつてくる。
 当時は、不平等条約といえば、国民は信じた。「お上の言うことだ」という江戸時代の慣習が悪用されたのだ。教育者を含めて、国民はみな信じた。
 まさか、日米通商条約の条文が、一般庶民まで読める時代が来る、と明治政府は思わなかっただろう。
 現代の教育者でも、同条文を読まずして、薩長閥の政治家・学者のスローガン「不平等条約」をうのみにして教えているひとがいる。
 ここらは改善された方がいい。

かつては、俺にもこんな青春があったのだ=高間完・高間省三

 高間省三の甥(おい)が、高間完(たもつ)である。

 高間完さんは、旧日本軍の海軍中将・勲一等である。子孫の宅に、(2017年)5月におじゃました。完さんは、すでに亡くなられているが、さまざまなお話を聞いたうえ、写真、史料の提供も得られた。

 ふたりの人物には、戦争の時代に生まれたがゆえに、『戦場に命をかけた、それが青春だった』という共通点がある。
 

【 写真・裏面、ルビ以外は原文通り】

 この写真は、大正七年(1919)第一次世界大戦終了の翌年 地中海方面より旗鼓堂々凱旋の記念として撮影したもの。

 旁々(かたがた)Malta(マルタ・地中海の島国).Vallettaに大きな書肆(しょし・書店)を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈ったものである。

 かつては、俺にもこんな青春(二十六)があったのだ。

 然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼
              (八十五歳誕生日偶感)


 高間完は、第二特務艦隊の橄欖(かんらん)に司令官として乗船している。マルタ島など、各寄港地が明記されている。(公的・奉職履歴より)。橄欖は駆逐艦だった。

 第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟の下で、旧日本海軍が第1~第3の特務艦隊をつくった。第二特務艦隊が地中海に派兵された。もっとも危険な海域に派遣されたのである。

 ドイツ潜水艦Uボートとの交戦など。1年半の派遣ちゅうに、同艦隊で雷撃をうけた駆逐艦「榊」乗組員ら78人が戦死した。


※1921年、昭和天皇が皇太子時代に、そのマルタ島のイギリス海軍基地に眠る日本海軍『第二特務艦隊戦死者之墓』に、戦没者の慰霊に臨んでいる。

※今年(2017)5月28日 安倍首相が同様にマルタ島を訪問し、同戦没者たちを慰霊した。


         【写真 : 高間省三 (撮影は慶応4年)】

 芸州広島藩の神機隊は、福島県・いわきから相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵と戦う。わずか300人が激しく挑み、連戦戦勝の勢いをもって東北の雄・仙台藩を震えあがらせた。
 それがやがて奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の要である仙台藩の敗北、さらには戊辰戦争の結果につながった。(大山柏の戊辰役戦史より) 

 8月朔日に、戊辰戦争の天下分け目の浪江の戦いで、神機隊・砲隊長の高間省三は、敵陣の砦を奪った瞬間に、銃弾を顔面に受けて死す。


 旧日本軍において、軍人の必携書であった、『軍人必読・忠勇亀鑑』(明治26年1月発行)で、高間省三は『軍人は武勇を尊ぶべし』と優れた軍人のひとりとして採用されている。
 たとえば、徳川家康、加藤清正、新田義貞、佐々成政、前田利家、山田長政などがならぶ。戊辰戦争では高間省三ひとりだけである。

 かれの出征から3ページにわたり戦闘場面が紹介されている。結末には、

 江戸より奥州に向うとき、書を父に寄せて、いわく『兒(赤子・せきし)は、天皇のために死せん、と行動します。大人(親)は、願わくは喜びて哀しむなかれ、と。
 まさしく、その忠孝、義勇、天性に発するものなり。死するときは年わずか二十有二。筆は阪谷 朗廬(さかたに ろうろ) 【ルビ以外、原文通り】


 当然ながら、甥の高間完のポケットにも、伯父の載ったこの『軍人必読・忠勇亀鑑』が入っていただろう。


 親族の女性はインタビューのなかで、
「祖父・完をつねに尊敬していました。海軍兵学校には1年早く入り苦労したものだとか、いろいろ話を聞きました。しかし、伯父の高間省三はいちどもきいたことはありません。ネットで偶然にも、こんなも身近な、小説にもなる伯父さまがいたんだ、とおどろきました」
 と語っていた。


 高間完・高間省三、写真を見比べてみると、『俺にもこんな青春があったのだ』と燃える顔が似ている。

【良書の紹介】 列島縦断 「幻の名城」を訪ねて=山名美和子

 旅好きなも人、歴史好きな人、一日意義ある過ごしたい人には、このたび出版された山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」(集英社新書・760円+税)がお勧めである。

 山名さんは、お城に関して、日本で第一人者だ。と同時に、お姫様の物語は、現作家のなかにおいて右に出る人はいないだろう。
 緻密な取材で、それをわかりやすく読みやすく書かれる女流作家だ。

 お城には長い歴史がある。建物そのものには地形、地質に見合った構造の特徴がある。数百年の歳月を経て、武士たちが大切に守ってきた。それらが文化財として遺されている。
 それを簡素にして明瞭に紹介した「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」である。

 このところ雑誌コーナー、旅コーナー、歴史コーナーでは、お城紹介の美的な写真付きカタログ以上の出来栄えの派手な『日本の城』本が多い。住居が狭くなり、応接間に書籍に飾る時代ではなくなった。ネット時代でもあり、豪華本など、どこに置くの? 1円しか売れない時代である。

 といっても、旅先に持っていきたい手ごろな本はほしい。旅行ケースに、ちょっと忍ばせる。山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」は手ごろだ。旅先で、半日、一日の休暇過ごし方として、お城めぐりは知的であり、気分一新、旅情を醸し出してくれるものだ。

 同書の良さは、なんといっても首都圏のひとには、「大東京で探す『幻の名城』だろう」、お子様を連れて行けば、社会科見学にもなるし、家族で楽しめる。同書は、お城へのアクセスもていねいに書かれている。

 たとえば、江戸城はともかくとしても、平塚城(豊島園)、石神井城(石神井公園)、練馬城、渋谷城、世田谷城、深大寺城、滝山城、八王子城と、ここらのお城紹介が豊富だ。新書版の見開き(2ページ)、2ページ半くらいだから、なにしろ肩が凝らない。

 
 私は来週に広島にいく。備中松山城にも行ってみるつもりだ。広島からでは割りに遠い。岡山から伯備線に乗り、高梁駅前から乗り合いタクシー500円(要・予約)だ。そこから徒歩で登る。
 帰路も、そのタクシーの予約したら、『4時間もお城で何するんですか。飽きますよ。皆さん30分-長くても1時間です』と言われてしまった。
 藩主・板倉勝静の話をしても仕方ないので、日本一高い山城で、昼寝でもしていますよ、と曖昧にごまかした。
 
 3カ月前、前泊で、津和野に、明治初期のキリシタン弾圧の取材にいった。と同時に、津和野国学。藩主の亀井玆監(かめい・これみ)なども克明に調べた。
 さらには長州戦争で、津和野藩はなぜ幕府側についていながら、大村益次郎の軍隊を無抵抗でスルーして石州へ行かせてしまったのか。
 それなりに取材目的をはたしてきた。

 山名さんの「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」を開いて、津和野城は頭になかったな、失敗したな、と失笑した。


 城郭がなくても、歴史は楽しめる。私なりの実例を示すと、去年の秋、長州藩「萩城」(萩市)はないと知っていて、あえて取材に行った。
 山名さんの『幻の名城』にも、萩城は記載されていない実例だが……。

 明治維新の廃藩置県のとき、木戸孝允が藩主の毛利敬親(たかちか・通称:そーせい公)に両手をついて、「鎌倉時代から続いた武士制度を、ここで一気に無くしたいのです。武士の象徴となるお城を取り壊していただきたいのです。それには、毛利家からお手本をお見せください」と懇願した。
「つらいのう。どうしても、この城を取り壊さねばならぬのか」
「はい。徳川家をつぶした、戊辰戦争で平定したといっても、江戸(当時はもう東京)など東日本の民は御一新に満足しません。実のある、皇国・親政(しんせい)国家のため、西側の毛利家から、まず犠牲を払っていただきたいのです。毛利家の象徴の、お城を取り壊させてください」
「わかった。武家社会の終焉(しゅうえん)なんじゃな。余の代で、お城は無くしてもよい。緒家はともかくとして、萩城は取り壊そう」
 と敬親がいうと、木戸が涙を流していた。

 これが維新後の廃城第一号である。山口県の人は、これは毛利家のお殿様の大決断だといい、いまだ県民は萩城の復元を言いださない。

 坂下門外の変で、暗殺されかかった老中首座・安藤信正の「磐城平(いわきたいら)城」などは、戊辰戦争で自焼したあと、いまではお城の輪郭さえもわからない。

 山名美和子著『幻の名城』の副題には『コンクリート造りの城では満足できない人へ』がついている。
 古城に行って、城郭がなくても、地場の人から、口承を聞くのもひとつの方法だろう。まだまだ明治維新から150年である。話題がいっぱい残っている。それがお城歩きの面白さである。

 滝廉太郎の「荒城の月」を想い出させる城探しなども面白いだろう。