寄稿・みんなの作品

霧のなかで硫黄が鼻を突く、 那須三山 = 松村幸信

平成25年10月7日(月)~8日(火) 二日間とも晴れのち曇り

参加メンバー : L石村、武部、野上、市田、中野、松村

ルート:

【一日目】  那須塩原駅 ~ 那須ロープウェイ ~ 茶臼岳 ~ 硫黄鉱山跡 ~ 牛ヶ首(姥ヶ坂) ~ 姥ヶ平・ひょうたん池~姥ヶ平下~沼原分岐~三斗小屋温泉

【二日目】 三斗小屋温泉~大峠~三本槍岳~熊見曽根~朝日岳~峰の茶屋跡~
    那須ロープウェイ山麓駅~鹿の湯~那須塩原駅        



 今秋は、台風が次々と襲来し、雨が多く天候が安定せず、出発の間際までやきもきしていた。

【一日目】

 8:12に到着の東北新幹線で、三々五々と那須塩原駅に集合した。駅前から、8:30発の那須ロープウェイゆきバスに乗車する。車内で購入できるフリーパス券は、2日間は何回でも、乗り降りできて往復料金よりも安く実にお得だった。

 9:45、山麓駅に到着するや否やロープウェイに飛び乗る。
 紅葉時期にはまだ早いと思っていたが、ロープウェイから見える鬼面山は、見事に色づいていて、他の乗客から歓声があがる。

 4分で、頂上駅に到着する。準備をして、茶臼岳を目指し、歩き出す。だが、ガスが掛かり見晴らしはよくない。
 風に乗って、硫黄の臭いが鼻を突く。
 10:45 茶臼岳の山頂に到着した。眺望もなく、集合写真を撮ると、直ぐ先に進む。ガスに巻かれ方向を見失い、お鉢の回りをうろうろ。

 11:35 硫黄鉱山跡分岐に着いた時には、ガスも晴れ、姥ヶ平の鮮やかな紅葉が、目に飛び込んでくる。

 11:41 お腹も空き、山道脇に腰を下ろし、眼下の紅葉を楽しみながらの昼食である。12:36 姥ヶ平、ひょうたん池に写る逆さ茶臼岳と紅葉は見事だった。
 紅葉を思う存分満喫し、今晩の宿である三斗小屋温泉に向かう。

 14:48 煙草屋旅館に到着した。楽しみにしていた露天風呂は基本混浴だが、15時から17時の間は女性専用のため、残念ながら男性陣は内風呂へ。

 16:30 夕食をとり、21:00 消灯。

【二日目】

 4時過ぎに目を覚まし、暗闇の中を露天風呂に向かう。ひとり満天の星を見ながら、静かにゆっくりとお湯を楽しむ。
 夜が白み始めると、次々と人が入ってきて、あっという間に芋洗い状態となる。

 東側に山を背にしているので、日の出が見えないのが残念である。

 6:30朝食をとり、7:05に出発、天気は晴れ。大峠までの間に、三回の渡渉があり台風による増水もなく、全員が無事に渡り9:00に大峠に到着した。

 ここからは尾根道で木立も無くなり、日差しが強く、肌を突き刺す。

 11:14 くたくたになりながらも、三本槍岳に到着し、やっと昼食を摂る。ここまで、予定時間より大幅に遅れる。
 三本槍岳から清水平へ下り、登り返すと、茶臼岳が目の前に現れ、終点がみえたことでほっとする。那須三山の最後の朝日岳に13:19に登頂した。
 バスの時間に間に合うよう、急ぎ下山していく。バス発車時刻の5分前の、14:50に山麓駅バス停に到着する。那須湯本で、途中下車し、硫黄泉質の鹿の湯で汗を流す。
 さっぱりしたところで、再びバスに乗車、17:10に那須塩原駅に到着。今回は天候にも恵まれ紅葉と温泉を存分に堪能した山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№173から転載

【寄稿・エッセイ】 人形たちの供養 = 金田絢子

 わが家のちかくに、急勾配の「天神坂」がある。ちなみに坂の名の由来は、菅原道真の祠があったからとされる。
 ずっと以前、買物の帰りにこの坂をのぼったことがある。坂に足を踏み入れた刹那、自転車に小さい子を乗せた母親が、ケイタイをかけながら猛スピードで降りてきた。私は「バカヤロウ」と怒鳴った。
 こうした手合いには、あれ以来会っていない。それは私が歳をとって坂を避けて歩いているからかもしれない。

 うちの周囲は坂の多いところだが、天神坂は急な点で群をぬいている。それでも清正公(覚林寺)のお祭りには、日頃人もまばらな坂道に露店が並び、大勢の人で賑わう。

 坂をあがりきったあたりに、どことなく時代がかった葬儀社がある。昨年(平成二十八年)の十月下旬に、たまたまその前を通りかかった末の娘が、いい知らせを持ってきた。

 お払い箱にしたい人形の供養をしてくれるという。私がかつて何体か持て余している日本人形があると話したことがあった。店の貼紙をスマホに写してきて見せてくれた。カラーの写真がついているが、殆どがぬいぐるみなのにびっくりする。目を凝らすと、赤いおべべの日本人形も写っているので安心した。

 受付は、十一月五日土曜日十時半からである。うちから、坂のてっぺんまでまっすぐに行ける平らな道があるので具合がいい。

 私は、ベッドわきの人形ケースを引き出し、俄かに忙しくなった。人形本体だけを持ってこいという。人形はいずれもケースの床から、ひきぬかないとならない。人形がそんな風にして立っていたのだと、初めて知る。

 四、五日して葬儀社を、前もって見ておこうと思い立った。案内を乞うと男の人と女の人と二人出てきて、愛想よく応対した。
「じゃあ、十時半に持ってきます」
「お経は三時半からです。三時ごろお持ちになってはいかがですか」
「お預けしてすぐに帰ってはいけませんか」
 と私が質問したからである。


 さて、私が物事を処すのに、誰の手も借りずにやるなんて、未だかつてない。多分に、緊張していたのか、興奮していたかのどちらかである。落ち着かない気持ちのまま、その日が来た。
 都合よく、納戸にあった紙袋に人形を入れ、ごく小さいトートバッグに二千円の入った封筒を入れた。“いざ出陣”である。ところが着いてみると
「(供養は)あしたですが」
 と言われた。
 あがっている証拠に、土曜だと早合点して颯爽(?)と家を出たのだ。幸い、「お預かりします」と言ってもらえた。
 既に事務所の隣の部屋に、お布施の箱が置かれ、祭壇も準備されていた。丸いテーブルがいくつか並んでいる。茶菓を振舞うからだろう。

 私は、まだ二つ三つある日本人形と、ぬいぐるみの行く先きを思って、こうした催しは来年もあるのかと尋ねた。これまでにもずっと行なっているのだという。天神坂が難所でなかったら、貼紙に気がついた年だってあったに違いないと思うとちょっぴりおかしかった。

 今回、ひと仕事終えてよかったと、胸なでおろしながら、なにかしら淋しかった。長く一緒に暮らした人形たちへの、愛着のせいだったろう。


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

三浦アルプス(二子山)立派な一等三角点、横須賀~横浜まで一望=武部実

 山行日 : 平成28年10月12日(水) 

 参加メンバー : L武部、中野、開田、武部弟の計4人

 コース : 逗子駅 ~ 長柄交差点 ~ 川久保 ~ ゲート ~ 二子山 ~ 阿部倉山の裾 ~ 川久保


 逗子駅から長柄交差点までは、バスで5~6分である。国道311号を東に向かって15分ほど歩くと川久保交差点。その横断歩道を渡り、5分で「葉山にこにこ保育園」入口の看板が見えてくる。
 道路を少し歩くと、保育園児たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

 10:04、ゲートに着く。ここから車や自転車は通行止め。ゲートを潜り抜けると、ようやく山道らしい雰囲気だ。森戸川林道である。左岸には森戸川が流れる。樹木が濃いので、日差しがさえぎられて意外と涼しい。気持のいい林道だ。

 この辺から山頂まで、小鳥のさえずりが盛んだ。大きい鳴き声から、可愛らしい小さな鳴き声まで、何種類もの声を聴いたことだろう。だが、残念ながら、小鳥音痴の私にとっては、名前がわからず無念である。
 山頂の直下には「この森で見られる野鳥」の看板があり、15種類の小鳥が描かれている。今度行ったとき時に、確認してはどうですか。

 三浦半島中央道路の下を通り、15分ほど歩いたところが、林道の終点だった。(10:46着)。ちょっとした空き地になってベンチがあり、小休憩する。ここは分岐になっていて、東方向は中尾根を歩いて乳頭山に、北側は森戸川沿いに二子山に行くことになる。

 二子山コースには「マムシ注意」の看板があってドッキリさせられたが、ここから渡渉が始まる。小さい川なので、水量はもちろん少ないが、滑れば相当なケガはまぬかれないだろう。慎重に歩を進める。5~6ヶ所ほど渡渉し、この間にはトラロープが張ってある登りもあって、なかなかのバリエーションぽいルートだ。

 東逗子駅との合流点を過ぎれば、山頂はすぐそこだ。標高は低いが、立派な一等三角点の楚石を確認し、木材で組み立てられた展望台に登れば、眼下の横須賀はもとより横浜まで一望できる。見通しが良ければ、スカイツリーまで眺められるようだ。

 12:10 阿部倉山(161m)を目指して出発。樹林帯の中を小さなアップダウンがいくつも繰り返して歩く。なぜか一か所だけに、大きな50弁ほどの花をつけたトリカブトが咲いていた。もう、そろそろ阿部倉山に着くはずだが、一向に目的の山に着かず、とうとう川久保の登山口まで着いてしまう。
 どうやら阿部倉山を巻いてしまったようだ。これから登る、という地元の人に話を聞くと、わかりにくい場所らしい。それに阿部倉山は見通しも良くないと言われて、まあしょうがないかと納得した。
 13:10という早い時間に下山したので、帰りは逗子駅までのんびりと歩く。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№208から転載

【寄稿 エッセイ】 生(なま)が最高 = 和田 譲次 

 生が好きだというと、皆さん方は、私がビールは生を好み、新鮮な魚介類や肉も生で食べるのが好きだと思われる。飲食に関わることではなく、音楽や演劇など趣味の世界のことである。

 私は、生まれついての音楽好きで、聴き手だけではなく自分で音も出している。仕事や諸団体の活動を離れた今、音楽が生活の一部どころか殆どを占めている。
先日、中高時代の仲間との昼食会の席で、私が注がれたビールを殆ど口にしないのを気にして、となりに座った西村が、
「体の具合が悪いの」
 と、心配して声をかけてきた。

「このところ体調は安定しているよ」
 仲間に心配させてもいけないと思い、音楽会のチケットを取り出して見せた。


「夕方から音楽会があるので飲めないのだよ」
「なに、これオーケストラのコンサートが二万円以上もするの」
 と、あきれられた。CDやDVDなら二、三千円で同じ音楽が聴けるのにどうして、そんなお金を使うの、などいろいろな意見が出た。
「ライブの魅力にはまってしまったのだよ」
 と、会場で聴く音の魅力をといた。
「わかるな、私は落語は寄席で観るのが好きだ」
 と言う意見に続いて、
「私は歌舞伎が好きで、良い席が取れなくても歌舞伎座で観たいわ」
 と言う女性の発言の後、テレビ観戦か現場へ足を運ぶかと言うことで議論が沸いた。

 年寄りのサッカーファンがいて、まずスタジアムへ足を運び、勝った試合は後でビデオも見るという。サポーターの中で大声を張りあげて応援することが自分の健康の維持に役立っていると言う。

「音楽会場や芝居小屋でも、多くの聴衆の中で観たり聴いたりしたほうが臨場感があり。気持ちが高揚するよ」
 と言う私の意見でひとまず議論は収まった。
 少し体調が悪くても、前もって購入したチケットがあれば出かける。どうしてこんなに熱心になったのだろう。歳をとるごとにこの傾向は強くなってきている。


 この二十数年の間に東京には、サントリーホールをはじめ、オペラシティ、ミューザ川崎など、世界的にみても一流のコンサートホールが出現した。ここで、オーケストラ音楽を聴くと、今まで聞きなじんでいた音楽のイメージが一変する。全身が音に包まれ、自分も演奏に参加しているような気分になる。
 良い会場のおかげで、そこで演奏するオーケストラのレベルも向上し、東京のメジャーのオーケストラは欧米一流のそれらと比較して、見劣りしない音が出せるようになった。このような状況の中で、今、オールド音楽ファンで音楽会場があふれている。興行者たちもこの事態を見て、平日の昼間の公演を増やしてきている。

 私がライブにこだわるのは、音楽や芝居など、観客の中に身をおくと、お互いに脳からエネルギーを発散しているようで、会場内が熱いムードで覆われ、高揚感がましてくる。間合いの静寂、終了時の熱狂、知らない人同士でも「良かったですね」と言葉を出さなくても通じ合っている。

 昨年一年の日程表を見ると、音楽会に五十回以上通っている。中には招待いただいて出向いたものもあるが、半病人ながらよく出かけたものだと思う。このほか。音楽会への出演、そのための練習などもあり、おおきな楽器を抱えて出かける私を、家内は不安そうに見ていたが、今では気にしないどころか安心している。音楽に関心が薄れたら先が長くないと判断しているのだろう。

 私は生身の人間だ。家で静かに読書や音楽を聴く姿は私らしくない。仲間と好きなことに取り組んでいたほうが体にはよさそうだ。
                                 (了)

【寄稿・エッセイ】 私と酒 = 青山貴文

 夕焼け雲が、真っ赤な空に浮かんでいる。
 二階の書斎は、内壁や棚が暖色に染まり、居心地がよい。 私は、小さなグラスに赤ワインを注ぎ、それを夕陽にかざして軽く乾杯する。ワインがなければ、ブランディ、吟醸酒、ウイスキーなど、アルコールであればなんでもよい。夕暮れを愛でながら、明日の晴天を期し、何ともいえないいい気分になる。

 こんなことを書くと、私は酒飲みと思われるが、元来アルコールに弱い。母方の家系に似たのであろう。酒を飲めない祖父が、酒造りを創めて失敗した。もっともなことだと思う。

 19歳のころ、東京麻布の仙台坂の酒店に住み込んで働いていた。当時は、ビールをコップに3分の1ほど飲んで、気持ちが悪くなり吐き気をもよおした。アルコールの入った飲み物は、身体が受け付けなかった。ビールよりも冷水の方がよっぽど旨かった。店主にとっては、盗み飲みもしない良き働き手であったと思う。

 社会人になっても酒席は苦手だったが、飲むことが仕事と割り切って、うまくもない酒を飲んだ。
最初のコップ一杯のビールは水よりうまい。二杯目からは、顔が紅潮し、さらに心臓の鼓動が早くなる。
 その内、ゆったりした話声は、図太く早口になってくる。ビールの味などわからない。そうこうする内に、日本酒が運ばれて来る。同僚と差しつ差されつするうちに、酒の弱さを隠すように大声を張り上げる。
 ところが、会社を辞めてから、アルコールが入ったものなら、何でも好きになってきた。飲むほどに、小さなことはどうでもよくなってくる。部屋が乱雑であろうが、予定どおりことが進まなくても、影口を叩かれようともなんでもない。私はほんわかして、すべてを許してしまう。

 アルコールに弱いから、少し飲んでも直ぐ眠くなる。安上がりの眠り薬だ。数時間で目覚めると頭がすっきりして全てに積極的になれる。

 一方、親父は、アルコールが強かった。酒豪ではないが、酒がすこぶる好きだった。特に日本酒に目が無かった。若い頃は、ご飯に日本酒をかけて食べたというくらいだ。ビールでは酔わないと言い、もっぱら日本酒を飲んだ。独りで一升瓶をあけたこともあったという。
 ただ、酒癖が悪かった。普段、無口でもの静かであったが、酒を飲むと口数が多くなった。理屈っぽく、相手の弱いところを突いてくる。昔の些細なことを、ぐだぐだ言いながら際限なく酒を飲む。自然と、友人は寄り付かなくなる。

 小学生のころ、立川の集合住宅に住んでいた。父が飲みだすと、わたしたち家人は彼を無視した。すると、父は絶え間なく意味不明のことを大声で一人で喋る。薄壁の向こうの隣人はいたたまれなかっただろう。子供ながら、こんな父を持つことが恥ずかしかった。年中付き合わされた母の苦労は大変だったと思う。

「酒は人を狂わせる。お父さんみたいになってはいかんよ」
 と、母は、いつも私にささやいた。
 私は、酒飲みには絶対ならないと心に決めた。

 父は、終戦後、再就職した町工場で大怪我をして、両手とも義手をするようになったが、81歳まで生きた。『人生50年』と言って、いつも飲んだくれ、母を困らせていたが、持説より30年も長く生きた。
 酒の力で生き、働き、そして、私を私大に行かせてくれた。そういう意味では、酒の効用はあると信じている。
 父と同じDNAを持つ私は、会社を辞めてから酒の美味さを知った。このDNAの体質が、もっと早く出て来なかったかと恨んだものだ。

 最近は、ウイスキーでも、小さなグラスなら、顔が赤くならなくなったらしい。夕方、ウイスキーを少し飲んで階下におりていっても、誰にも気づかれない。
 これは愉快きわまりない。
「了」

【寄稿・エッセイ】 小唄 = 石川 通敬

 人生を豊かにしてくれたものはいろいろある。その中でも、小唄は大きな比重を占めている。最近、最もうれしかったのは、毎年、小唄仲間の唄に合わせて踊ってくれている赤坂の芸妓育子さんが勲章をもらったことだ。
 これまで芸者という職業人が勲章もらったことはなく、彼女が第一号だそうだ。私は彼女の大ファンである。心意気が素晴らしい。
 あるとき赤坂の例会で、育子さんに、
「唄いたい唱があるが、師匠にあなたの身分の人が唄う唄ではない、と教えてもらえない」
 と愚痴をこぼした。すると、私が踊ってあげるから自主トレをしてきなさいと激励された。これを励みに練習し、翌年育子さんに踊ってもらったという思い出がある。
 叙勲の知らせを聞いた時、世間の目は確かだと感激したのだ。

 小唄が楽しい最大のポイントは、苦労して覚えた唱を発表するところにある。赤坂もその一つだが、一番緊張するのが、2年に一度師匠が三越劇場で主催する会で唄うときだ。
 時には半年近く練習を重ね、仕上げる。
 それだけに聞きに来てくれた友人から、よかったよ、と言われた時のうれしさは格別だ。老人ホームにも慰問に行くが、また来てね、と言われると、練習の苦労も吹っ飛ぶ。

 演奏会出演の副産物として得たものが、和服を着る楽しみである。家内の熱心な協力があって実現したのだが、有難いことと感謝している。

 しかし、ここまで来るには、50年の時間がかかった。小唄はマニアックなものと思う。なぜそんなものに関心を持ったのか、というと遠因が二つある。
 一つはビジネスだ。私が就職した50年前には、ビジネスマンの必修科目として囲碁、ゴルフ、小唄の三ゴが上げられていた。
 就職して間もなく私も囲碁とゴルフにはチャレンジしたが、小唄の世界は敷居が高く、長年憧れの対象であった。
 もう一つは、家族の思い出である。母はよく実家の昔語りのなかで、深川生まれの祖母が100年前に、祖父に連れられてサンフランシスコに駐在した。この時に、異文化の地でよく三味線を弾いていたと話していた。
 なぜか、深川、サンフランシスコ、三味線の取り合わせが面白く記憶に残っていたのだ。 

 それでも、40歳前後になると、外国人ビジネスマンを料亭に接待し、芸者の踊りと小唄を楽しむ機会が出てきた。そうした折、チューリッヒに駐在していた時のことである。日本から出張して来られた取引先の役員が、スイスの銀行員との昼食会の席上で、突然、
「小唄をご披露するので、君訳してくれたまえ」
 と私に依頼したのだ。
 その唄には、「こたつ」とか「向島」という言葉が入っており、日本を知らないスイス人が想像することはむりなものだった。だが、何とかその場のピンチは切り抜けた。おかしなもので、この体験が本気で小唄を習いたいと決意させることになった。

 夢が実現したのは、50歳になり、接待で日本のビジネスマン相手に料亭に出入りできるようになった頃だ。ある料亭の女将が、今、稽古をしていただいている春日とよ徳花師匠を紹介してくれたのだ。

 小唄の楽しみは、唄うことだけではない。
 日本の伝統芸能、邦楽、文学に幅広く接することができることだ。唄の題材は、江戸時代の流行り唱から、民謡、清元、長唄、浄瑠璃の世界が中心だが、奈良、平安時代の和歌、芭蕉の俳句まで取り込んでいる。時間的幅の広さは1000年だ。領域の広さは、歌舞伎や新派の芝居の取り込みに象徴される。 
   
 楽しむという観点で特に重要な特徴は、演奏時間が短いことである。短いものは1分。長くても5分だ。そのお陰で2、3時間かかる芝居や、読めば数時間かかる物語のエッセンスが短時間で楽しめるのだ。

 小唄のご縁で、享受しているもう一つの楽しみは、多彩な人との出会いだ。新年会、浴衣会の機会を通し、ビジネス界、官庁のOB・現役から、医者の奥様、女性社長や、師匠の弟子仲間の、神楽坂のベテランから若い美人芸妓まで、これまでに100人を超える人々と出会えたのだ。

 人気の街神楽坂が楽しめることも、気に入っている一つだ。
 師匠のお稽古場が神楽坂にあるので、月に4,5回は神楽坂に行く。そして、稽古の帰りには老人仲間と居酒屋で一杯飲む、それが恒例となっている。
 話題は小唄、三味線談議にはじまり、最近ではトランプ大統領、ときには石油、金融問題などが盛り上がる。

 ある時は、家内の友人とミッシェランの星のあるフランス料理店に行き談笑する。また、お稽古場の向かいにある八百屋での、買い物も得難い恩恵だ。場所柄、その店には料理屋向けの安くて、おいしい旬の野菜がいつもある。

 私は生来、歌が下手だった。習い始めたころ師匠が、「いいお声ね」と言ってくださったのがうれしく先輩に聞いたら、褒めるところがないときに使う常套句だと教えてくれた。
 今でも「いいお声」とよく言われるが、中々うまいとは言っていただけない。だが、たまに褒められるとうれしい。
 小唄にかける思いが、残された人生への活力の源泉となっている。

「了」

【寄稿】これってインチではありませんか。天下り天国か=遠矢 慶子

 日本の車社会は1970年頃からで、あっという間に車優先の社会が作り上げられた。

 路面電車はほとんど消え、大きな量販店は郊外に移り、車なしの生活が出来ない地域が増えた。そんな中で、仕方なく高齢者ドライバーは増え続けた。

『83歳の女性の運転する車が歩道に突っ込み、男女二人死亡』
『87歳の男性の運転する車が、小学生の列に突っ込み男女二人死亡』

 高齢運転者の交通事故が、毎日のように報道され、社会問題になっている。 私も、2、3年前から、夫や子供たちから運転を辞めるようにうるさく言われてきた。
「大丈夫、遠出はしないし、夜は運転しないし」
と、車を手放す気にはなれなかった。

 ただ、なぜか車体のあちこちに、知らない間に擦り傷があり、そのうえ車庫入れなどで運転感覚がにぶっている。
 それでも、視野が狭くなる身体的なことと、自分の経験や技能を過信していたことは事実だ。

 こうした高齢ドライバーのデーターを参考に、最近は免許証の自主返納の促進策が叫ばれている。

 昨年、終の棲家、便利なマンションに移って、車の必要性もなくなり、55年の車の運転も終わりにした。
 免許証も、ついにあと1か月で切れてしまう。

 やはり手放し難く、返納して運転歴記録の申請をすることにする。
 免許証と写真を持って交通安全協会に行った。
「証書代1000円と写真代700円です」
「ここに写真は持ってきたのですが」
「6か月以内の写真ではないのでダメです。免許書とまったき同じですから、撮影日は古いですね。ここで撮れば700円ですが、隣のスーパーは800円とられますよ」
「免許証として使うわけでもないのに、6か月以内とはきびしいのですね。それで申請をして、これはなにに使えるのですか」
「さー、シニア割引とか・・」
 あいまいで、首を傾げる。何のために発行しているのか、まったく熟知していない。
「返却すると3万円もらえる市町村もあると聞きますが、葉山町は何か特典がありますか?」
「何もないです。ご自分の運転歴を証明するためです」
 と本音をおしえてくれた。
「マイナンバーと、どう違うのですか?」
 わたしは強い疑問をおぼえた。
「マイナンバーを持っているなら、これは必要ないですね。これはご自分の運転歴を10年間証明するだけのものです」
 事務員の話を聞いて、実にバカらしくなってきた。
 何のため1700円も出して、使えない免許を作るのか。運転歴なら自分が知っている。
「それなら申請やめます。この1000円の証書もお返しします」
 と言って、写真代とも1700円を返してもらう。

 交通安全協会のために、使えもしない免許歴証明を1700円で買うこともないと思い直し、腹が立てきった。このお金は何に使われるのだろうか。
 交通安全協会は、名前はもっともらしいが、警察署長らの定年後の就職口のために作り、運転免許の申請の仕事をしている。かれらの高額な給料にまわるのだろうか。
「免許証自主返納という制度を作って、運転を辞めようとする老人にたちに、免許履歴をちらつかせ、最後まで、お金を取ろうとしている。それが見えみえだ。

 金取り仕事の「交通安全協会」だ。言い過ぎだろうか。これが交通行政か、考えるほどに腹立たしくなってきた。

 免許証は、これまで、身分証明の代わりに使われてきた。生活習慣になっている。マイナンバーははそれに代わる身分証明証だ。国民にまだ浸透していない。
 年配主者は新規なもの、個人情報にたいする警戒心から、その申請に躊躇(ちゅうちょ)している。マイナンバーが浸透まで、数年はかかるだろう。その狭間を狙った、ずるい行政のやり方だ。

 交通安全協会で、『マイマンバーは身分証になります。それでも、運転履歴の証書を必要としていますか』 と親切なマニュアルをつくれば、申請者は半減以下になるだろう。解っていながらやらない。悪質とはいえないにしろ、ちょっとひどすぎではありませんか。
 警察行政のお偉いさん。年金生活者の立場、弱い者の立場に立ってちょうだい。
  
 政府は、いまや高齢者の免許返納の課題視野にして、ライドシェア(自家用有償旅客運送)とか、完全自動運転の規制緩和をすすめている。また、地域ごとの対策も考えられているが、実用化には、時間がかかりそうだ。

 私はこのところ期限の切れた免許証をみせて、美術館の割引を受けているし、映画館のシニア割引の証明にもなっている。
 写真がついているし、住所、年齢と身分を証明するには充分だ。65歳以上、70歳以上の証明は、古い免許証でも、生年月日がわかるから有効だ。

 いま持っている免許証に『免許・返納済み』とハンコを押せば、その手間もお金もかからないはずだ。新規に作る1700円など、まったく必要もない。それが親身な行政だとおもう。

 お役人の天下り対策は、もういい加減やめにしましょう。弱者や高年齢者を敵に回さないでください。

  イラスト=Googleイラストフリーより

【寄稿・オピニオン】 消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 八月のくぼみーまえばし = 船越素子

  1

その夏、初めてという時間が

朔太郎さんのまえばしで

それは駅前のロータリーから始まる

「熱風の後にー思索は情緒の悲しい追憶にすぎない」

追憶についてはきっと


地方都市だから わたしの街も

台風到来のうわさとともに

フォークナーへとむかってくる

聞こえるのは失われた音の集積

孵化し蠢く蚕や

女たちのざわめき

八月の光がわたしの胸を射る 

真昼のからっぽの大通りを

書きかけのサーガを抱きしめ歩く
 
 2

欅の街路樹にひきよせられたのは

肋骨のあたり 

燻されていたのだ

汗が したたり落ちてくるというのに

くるり くぼみを反転させる

台風と気象予報士の

不穏で孤独な手続きがよぎる

ブログでもツイッターでもない

手帖であるべき理由を胸の内で一〇個考える

歩き続けるしかないから そこへは

「広瀬川白く流れたり」

  3

ゴーストタウンなのか

通行人1と3のあとで

4になれないわたしが狼狽えている

尾行するものらも

気にかかる

獣と草いきれの匂いがしたから

(蚊帳吊り草、雄ひじわ、えのころ草、ねじばなも)

猫町を猫足で歩く気配のひとよ

  4

ついとあたりをみわたすと

まだ新しい無人ビルが

みずうみのような

かなしみでみたされている

くぼみが水でみちると

八月の ひたひた 

水脈はわたしの胸にたどりつく

いつまで この旅は続くのだろう

そこが曠野であれば

あたらしい光が

また差し込んでくるのだろうか 


八月のくぼみーまえばし 船越素子 縦書PDF 

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 抱擁の標本 = 望月苑巳

さくらのはなびらにじゃれつく猫

猫の暗闇にぼく


ぼくの骨格に似た無邪鬼がいる

とうの昔に夜店で失ったものがそこにある

柔らかな毛並みを抱くと

温かいいのちがはらりと

夢の外へ逃げてゆく

昨日買った手帳にその夢を貼りつける

抱擁を貼りつける

喜びの源はぼくの内側にあったと

その時、気づく

いのちの回数券が減ってゆくように

はらり

はら

さくらは散る時、宙で背を向けるだけなのに

テロメアは

背を向けないまま

弟の命日にじゃれついたのか

これみよがしに

黙々と目を伏せている散華

一枚落ちるたびに生を願い

死を思う

一枚裏返るたびに

一歳、歳をとり

一歳若返る気がする

その弥生は

人を狂わせるだけに存在するようだ

夢の外の闇だまりにはまりこんで

またさくらと、ダンスに興じている

猫が

腕の中でチコンと標本になっているので

ぼくはつるりと泣きだしてしまう

*テロメア=命の回数券とよばれる。染色体の先端にあり

細胞分裂を繰り返すたびにこの部分は短くなって、死んでゆく。


抱擁の標本 望月苑巳 縦書PDF

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738