寄稿・みんなの作品

【幕末彼氏伝〜高間省三物語〜】マンガ化プロジェクト☆第一話が完成しました

『ばくまつ彼氏伝 マンガ化プロジェクト』 より、

いつもご支援賜り誠にありがとうございます。

第一話が完成しましたので、報告させて頂きます。

第一話は見本として公開しております。

 また、一般公開用としてはYoutubeにて見れるようにしていきます。

今後共よろしくお願いいたします。

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【寄稿 エッセイ】   また、延岡へ = 永野 さくら

 昨年(2018年)の秋、別居中の夫から、体調が悪いと連絡があった。
「食欲がなくなり、身体がだるく、微熱が続くので、1週間ほど前から病院に検査入院している。担当医から、どうしても家族と話したいと言われているから来てほしい」という。
 夫とは別居して8年になる。病院は彼の単身赴任先で、夫の実家のある宮崎県延岡市である。その間、娘の結婚式で会った以外、ほとんど連絡をとっていなかった。

 
 夫の女性問題がきっかけで夫婦仲がうまくいかなくなり、別居を始めた時、私は一刻も早く離婚届けを出したかった。
 だが、夫からは「会社の単身赴任寮(延岡)に入るためには家族が必要なので、在職中、籍はそのままにしてほしい」と言われた。私も、夫の扶養家族のままならば、保険料などを支払わなくて済む。お互いの利益のために、籍は抜かないままになっていた。

 戸籍上は妻だが、実生活は無関係に埼玉県で暮らしている。妻として病院に行くのには抵抗があった。私の住む埼玉から延岡へはかなり遠い。

 私たち夫婦の不仲を、夫の両親や親戚たちは、なぜか一方的に私の責任だと思っていた。私たちがもめていると聞いた義母からは、かつて「こうなったのも、すべてあんたが悪い」と、私を誹謗中傷する電話がかかってきたものだ。義母の強い口調に、私はひどく傷ついた。親戚たちまでもが、夫に都合のいい話だけを鵜呑みにして、かなり誤解していたようだ。

 私は「事実はこうです」と反論したかったが、すでに夫とは別れる決心をしていたので、あえてそれを口にしなかった。私を悪者にした夫や義父母を心から憎み、二度と会いたくないと思っていた。
「交通費も出すからどうしても来てほしい」
 という夫の言葉に、これはただ事ではないとの予感がして、迷った末、私は延岡まで行くことにした。

 延岡は、旭化成の工場がいくつもある街だ。中心部にはシンボルの大きな煙突がそびえ立つ。24時間稼働している工場からは、白い煙りがもくもくと立ち上っている。
 もう二度と行くことはないと思っていたこの街に、こんな形で再訪するとは、思ってもみなかった。


 夫から連絡があった約二週間後、昨年の11月の末、私は約20年振りに延岡を訪れた。

 JR延岡駅で汽車を降りるとすぐにタクシーに乗り、夫が入院する医師会病院に向かった。病院で再会した夫は、憐れな病人だった。太り過ぎたと言い、高いお金をかけてダイエットしていたころとは、まるで別人だった。

 夫は私を見ると、小さく手をあげて「すまんね」と言った。
 そんな彼を見て、私はどうしようもない複雑な気持ちになった。過去にはさんざん恨んだりしたが、別居して何年もたつと、そんな気持ちも消えていた。
 私は、夫のあまりのやつれように驚き、急に夫が可哀相になった。
 そうは言っても、この街には、さんざん私の悪口を言っていた義父母や親戚たちがいる。病気になった夫には同情するが、私にもプライドがある、と心の中で我を張った。

 医者と話をする時間になった。担当医からは
「色々調べても原因がわらないので、宮崎県立延岡病院へ転院して調べてほしい」と言われた。
 これはもしかすると、相当深刻な病気かもしれない。

 その日、義父母たちは遠慮していたらしく、病院で顔を合わせることはなく、私は一人で夫を転院させ、いったん埼玉に帰った。
 その後、転院先の病院で、胃カメラや大腸の内視鏡検査やリンパの組織検査などをしたが、いっこうに病名はわからなかった。私はその間、夫からのメールや電話で様子を聞いていた。夫は「相変わらず食欲がなく、どんどん痩せていく」と不安そうに話していた。私の心もやり切れなかった。


 転院して1か月半ほど経ち、年が明けて、やっと病名が「原発不明ガン」だとわかった。これは、ガンがどこから発生したかわからないが、どんどん転移していく恐ろしい病気である。
 私はその知らせを自宅で夫から電話で聞いた。夫はかすれた声でそう話すと「もう疲れた」と電話を切った。冷静さを装っていたが、内心は動揺しているようだった。
 私も心が大きく揺れた。
 夫が命に係わる病気になった今となっては、たとえ長期になっても、看病しに行こうと決めた。それは、愛情というよりも憐みに近い感情だった。義父母との確執も、この際忘れるよう努力しようと思った。

 幸い、私に一番辛くあたっていた義母は数年前から認知症になり、すでに自分の息子が病気だと認識できないという。

 私は、夫が先日生まれた初孫に会いたがっていると聞き、娘と孫を連れて、1月末に再び延岡を訪れた。
 夫は嬉しそうに痩せた手で孫の頭をなでていたが、すでに抱っこする力は残されていなかった。

 その後私はホテルに滞在し、病院を往復する日々が続いた。医師からは、もう抗がん剤を投与しても体力はないので、緩和療法で少しでも苦痛を和らげるしかないと言われた。

 本人も病状は理解しており、自分に万が一のことがあれば、遺産は私と子どもたちとで分け、住んでいた単身寮の後片づけをしてほしいと、かすれた声で私に話した。私も「あとのことは心配しないで」と応えた。正直、どんどん弱っていく夫にいたたまれなく、どんな言葉をかければいいかわからなかった。
 2月になり、夫は急激に衰弱していき、水を飲むことさえ困難になった。医師からは、会いたい人がいたら、会わせておいた方がよいと言われた。
 私は子どもたちに急いで来るよう連絡した。近くに住む親戚たちも集まって来た。皆が涙ながらに別れを悲しむが、本人の意識はだんだん薄れていき、どこまで認識していたかはわからない。

 そして2月10日早朝、ベッドの横に置かれた装置に、それまでは規則正しく山型に刻まれていた呼吸の波形がだんだんと崩れて不規則になった。血圧も下がってきた。そして呼吸の波が徐々にゆるやかになり、ついに平らな一本の線になった。同時に、赤いランプが点滅し、ピーピーという電子音がけたたましく鳴り響いた。

 これが、人の一生の終わりの瞬間なのか。夫は薄目をあけているが、呼吸はしていない。夫の妹たちの嗚咽が聞こえる。

 私は、ベッドの足元にいてその様子を見守った。涙は出なかった。ただ、夫には「ご苦労様でした」と言いたかった。
 痛みなどの苦しみはなかったものの、食べ物が食べられなくなり、やせ細り、だんだんと歩くこともできなくなる夫の様子を見ていただけに、楽になってよかったとさえ思った。

 夫が亡くなってからは、通夜や葬儀の準備で急にあわただしくなった。
 私が「喪主」だったので、棺桶や骨壺から来客に出す料理まで、すべてをすぐに決めなければいけない。悲しみに浸っている暇などない。
 私は数日前から病院に泊まり込んでいたので、ほとんどまともに眠ることができず、時々めまいがしていた。それに、折り合いの悪い親戚たちとの共同作業は、いやな思いをすることもしばしばあった。皆が私を嫌っているようにさえ思えた。

 習慣の異なる土地で、葬儀の作法も違い、戸惑うことも多かった。そんな時は「夫を見送るのは私の義務で、これさえ済めば私の仕事は終わる」と自分に言い聞かせ、無難に乗り切ろうと思った。

 葬儀での喪主の挨拶は、長男である息子が引き受けてくれた。100人を超す弔問客の名簿は、娘婿がすぐに作ってくれた。子どもたちの存在が、私の心の支えとなった。
 通夜、葬儀をなんとか無事に終え、数日中にあわただしく夫の住んでいた寮を引き払った。その後、市役所や入院していた病院を回り、一通りの手続きを終え、私は埼玉の自宅に帰った。夫が亡くなって、一週間たっていた。心身ともに疲れきっていた。

 帰宅して、持ち帰った色々な書類に目を通していると、昨年12月に夫が書いた入院同意書の署名が目に入った。文字が震えてゆがんでいる。このころすでに、かなり身体がきつい状態に陥っていたのだろう。
 60歳という年齢で、まだまだやりたいこともあったのに、きっと無念だっただろうと、このとき初めて私の目がしらが熱くなった。


                                 了

「寄稿・孔雀船93号」(詩誌)  桜印の殺人ナイフ 望月苑巳

赤ちゃんは白紙で生まれてくるから

泣き方が完璧なのだ

母に抱かれながら


喜怒哀楽を

乳首から思い切り吸い込む

見上げれば

へこんだ空に桜印

いつの間にか春になっている

明るい少年が

故郷を歌っている

時々暗くなって

時計回りにひねくれてしまったので

若返りの招待状を破って

貧相な大人になる

ナマ乾きの夢

つまみあげてポケットにしまう

ポケットの中で申し訳なさそうに

骨に擬態して

カラカラと鳴る

悲しい色で

大人になってこの色に染まったのか

手にはアーミーナイフが握られている

かつて赤ん坊だったころの

喜怒哀楽が

音階状にこみあげてくる

標的は

桜印の

自分自身

夕暮れの自分自身

桜印の殺人ナイフ : PDF 縦書きで読めます

                      イラスト:Googleイラスト・フリーより

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

富士山は雲の中だった大蔵高丸(1770m)=大久保多世子

1 登山日 :2018年6月9日(土)晴れ                             

2 参加メンバー : L佐治ひろみ、栃金正一、武部実、中野清子、開田守、金子直美、大久保多世子

3 コース :甲斐大和駅 ~ 湯ノ沢峠登山口 ~ 湯ノ沢峠~大蔵高丸 ~ ハマイバ丸 ~ 米背負峠 ~- 大谷ケ丸 ~ コンドウ丸 ~ 大鹿山分岐 ~ 景徳院 ~ 甲斐大和駅


 8:40 甲斐大和駅に集合する。予約してあったタクシーで約20分、湯ノ沢峠登山口に到着した。中止もあり得る雨予報だった。だが、終日最高のハイキング日和になり、緑を満喫した爽やかな1日になった。


 降車するなり、春ゼミの大合唱と、ウグイスの鳴き声が迎えてくれた。落ち葉が柔らかくなった山道は、足に優しく歩きやすい。

 沢沿いに歩いたりクリンソウを愛でたりして、1時間で到着した避難小屋は、室内も綺麗に整えられていた。
 その小屋からしばらく歩くと、尾根に出た。草原が広がっている。

 可憐なスズランやキンポウゲの花が、目を楽しませてくれた。大蔵高丸は秀麗富士12景で展望は良いが、肝心な富士山は雲のなかに隠れたままである。

 朗らかな健脚2人組に会い、集合写真のシャッターを押してもらった。


 なだらかに起伏した尾根が続き、ゆるい登り下りを繰り返し、11:25にハマイバ丸に到着した。ここで昼食となった。

 山頂の脇に「破魔射場丸」との表示があり、珍しい山名に納得できた。

 山頂から少し下ったところは、露岩が散在した荒地で、破魔射場と呼ばれるそうだ。急な下りや笹やぶ・灌木帯を過ぎて少し登ると、【大きな岩=天下石】がある。

 ここから先は広葉樹林帯が続き、木々の緑が一層美しい。下りきって、米背負峠に着き、正面の坂を登ると、大谷ケ丸に到着。先着の3人組が、「1時間ほど前に、すぐそこにクマが出た。」と教えてくれた。

 若い男性とにらめっこを2回して、離れて行ったと話す。皆、緊張して顔を見合わせる。この山の西側から南アルプスも見えるそうだが、それよりクマ鈴を身に着けたり、話し声を大きくしたり……。幸い、熊に出会うことはなかった。

 滝子山への分岐や滑りやすい急な下りを過ぎると、カラマツ林に変わる。地図には「防火帯に入らない」と注意書きがある通り、やや戸惑った。
 右側に目印のリボンが5~6個ついていて、難なく進むことができた。大鹿山への分岐で、男性3人は山頂まで往復し、女性はそのまま下ることになった。

 急な下りに時間がかかり、30分ほどで合流できた。大鹿山への往復は10分弱だったという。男性陣は皆、健脚揃いだった。

「間もなく景徳院だろう」
 と思われる所。左にコンクリートで固められた山道、右に手すりのある急な細道があり、無標識なので全員で相談して、右に進んだ。だが、2か所も大きな柵で、塞がれていて大変であった。

 二つ目の柵を過ぎてから、左の道が正解だったことが分かった。西日が強く、どっと疲れが出たが、傍らのヒメレンゲの群生が美しかった。

 景徳院で休憩後、県道に出て、4:22のバスで甲斐大和へ向かった。

 全体を通して、何か所か急な下りはあったが、最後まで歩きやすい柔らかな道の連続で疲れが少なかった。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№226から転載


全山錦秋の雨飾山(1,963m) = 佐藤京子 

登山日 : 2018年10月14日~16日

 
参加メンバー : L武部実、SL開田守、中野清子、佐藤京子の計4人


コース: 1日目 東京駅から新幹線で糸魚川へ。駅からジャンボタクシーで雨飾山荘(泊)

      2日目 雨飾山荘 ~ 梶山分岐 ~ 雨飾山 ~ 梶山分岐 ~ 笹平 ~ 荒菅沢 ~ 雨飾山登 山口 ~ 雨飾高原キャンプ場 ~ 小谷温泉 雨飾荘(泊)

3日目 雨飾高原~(バス)~南小谷駅~信濃大町~松本駅~新宿駅


 今回のテーマは、「紅葉と秘湯の山旅」である。東京駅を昼過ぎに、のんびりと出発した。

 雨飾山には、新潟県の糸魚川側から登る今回のコースと、長野県の小谷温泉から登るコースがある。
 糸魚川は、初めての場所である。糸魚川断層の博物館もあるようだが、予約のタクシーで、まっすぐ雨飾山荘へ。
 そこは日本秘湯を守る会の加盟の1軒宿である。自家発電の山小屋で、9時には消灯となる。 今回は、男女別で泊まれた。

 5時の夕食まで、たっぷり時間があるので温泉につかる。食堂は、木造りで明るい。主人がにこやかに見守っており、客に声をかけていた。
 玄関前の露天風呂には、男性陣が暗闇の中ヘッドランプで入る。夜空にはカシオペアがみえる。明日の天気がいいことを願い、7時半には寝床に入る。

 隣の部屋からいびきが聞こえてきたそうだが、私は疲れていたため、ぐっすり眠れて幸せ。


 2日目。8時間は歩くというので、5時に朝食をとる。6時には出発。登るにしたがって、ブナの林が広がり、ナナカマドは赤みを増していく。

 日本海と糸魚川市街も見渡せた。登りは結構きつく、到着が正午頃とだいぶ時間をとられてしまう。

 山頂は、双耳峰である。南方に着いた時は、全方位が見渡せたが、それもつかの間だった。すぐ雲がかかってしまう。

 下りも時間がかかりそうなので、のんびりはできない。残念だが、北方には登らず、山頂直下の分岐で昼食。下山を急ぐ。
 笹平を過ぎると、進行方向が全山が錦秋である。

 梯子を二つ降りただろうか。 荒菅沢で、すこし休憩し先を急ぐ。途中「携帯トイレ使用場所」という看板のある建物があった。


 長野県側の道には、登山口まで、2/11、7/11など、11分割の標識がかけられていて目安になった。ふもと近くの道には、木道がかけてあり、沢沿いに泳ぐ魚も見えた。岩魚のようだ。


 二日目の宿泊先となる雨飾荘についたのは、4時頃だった。予定を超え、10時間の行程になった。
こちらの温泉は、ぬるめ。いつまででも入っていられる。

 夜の献立は、たいそう立派なものだった。清流岩魚の姿造りを、生のわさびを擂っていただく。手打ち蕎麦にもまた擂る。


 翌日は、宿で土産を買ってからバスに乗り込む。乗り換え駅の信濃大町の立ち蕎麦もおいしくいただきスーパーあずさに乗り込んだ。

  リーダーの武部さんほか皆さまには大変お世話になりました。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№230から転載
   

「はやち」は「疾風」を意味する早池峰山(1917m)=武部実

登山日 : 2018年6月30日(土) 晴れ

コース : 盛岡駅バス ~ 小田越 ~ 早池峰山 ~ 小田越 ~ バスで盛岡駅


 大人の休日俱楽部東北4日間15,000円パスを使って、丁度この時期、6月上旬~8月上旬の土日に盛岡駅から早池峰山の登山口まで直通バスが運行されるということで計画した。

 盛岡に前泊し、7:00に出発。2時間弱で、登山口である小田越に着いた。(8:55)。


 登山口で登山者に呼び掛けているのが、携帯トイレの販売である。山頂に3か所の携帯トイレブースがあり、使用した袋を登山口の返却ボックスに入れるというもの。利尻山でも勧めていたが、自然保護ということだけで、定着するのはなかなか難しそうだ。そう思うのは、私だけか。

 歩き始めは樹林帯である。緩やかな登山路を進むと、所々に一斗缶とこん棒がつるされているのが目に入る。クマよけの音だしだ。

 30分弱ほど歩くと、樹林帯を抜け、森林限界になり、見晴らしのいいところに出る。ここが一合目である。蛇紋岩の岩がゴロゴロしているところを登る。
 当日は風が強くバランスをくずさないように慎重に登るが、登山路に張られているロープを掴む登山者もいた。

 すると、下山中の登山ガイド(?)が
 「ロープは緩くて危険ですから、ハイマツを掴んでください。根っこが一本位抜けてもすぐ生えますから」
 と大きな声で怒鳴っていたのが、印象的だった。

 “はやち”とは風が強いこと、ここから早池峰山と名付けられたことがよくわかる。

 一合目あたりから、ミネウスユキソウをぼちぼち見かけてきた。

            【ハヤチネウスユキソウ】

 下山中のの登山者が上のほうに行けば、ハヤチネウスユキソウがたくさん見られるとのことで、少し様子をみる。周りを見渡すと、紫色のミヤマオダマキがいっぱい咲いていた。

 今回の高山植物の主役は、この花に間違いなし。その他にミヤマアズマギク、ミヤマシオガマ等が良く咲いていた。

 しかし、この山で有名な高山植物は何といっても早池峰が頭につく、固有種のハヤチネウスユキソウだ。
 登るにつれて、たくさん咲いていた。
 綿毛が特徴らしいいが、以前に見た礼文ウスユキソウとの違いがよくわからなかった。だが、なんとなく納得できた。

 山頂の直下では、途中の登山路で見かけなかった、イワカガミ、コバイケイソウ、チングルマ等咲いていた。
 剣が峰と山頂との分岐には11:10に着く。ここから山頂は15分で到着した。残念ながら、ガスが出て見晴らしは無かったし、記念の山頂写真は小さな標識しかなくて、少しがっかり。


 今回の東北の旅は、山以外にも10年ぶりの友人に会うこともでき、とても有意義な旅だった。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№228から転載

「寄稿・孔雀船93号」(詩誌)  水滴の家 鷲谷 みどり

ある日彼女は 霧の匂いのする夕食のあと

床下に穴を掘っていた

彼女が横たわることができるだけのそれを

モルタルづくりの彼女の家のすみずみに

彼女の不安の水がいきわたるように

いつか そこから

ふかい みどりの不安の木が

生い茂るように


木はどこまでも彼女の

新鮮な不安をほしがるから

彼女の小さな如雨露は

たちまち指先から空っぽになって

そのすきとおり方を皆に褒められながら

やがて みずみずしく したたり落ちていく

不安の果実に囲まれて

彼女は誰にも見えなくなった


私は叔母に会ったことがない

私が引き継いだこの家は

いつも内側からの わずかな雨に濡れていて

私の指など 素知らぬ顔で

木は ますます盛んに

暗く沈んでいく


叔母の口の中をいつも満たしていたという

うすにがいそれは

私の膜と決して交じり合うことはない けれど

とろけたビー玉のようなその実を

ふいに舌の上に乗せるとき

私はすこしだけ

叔母のまるく光る 白い皿の淵の

そのつめたい空腹に

からだを浸すことができた


家をななめに傾がせて

外へ大きくせり出した木は

風が吹くと カラカラと彼女の骨の音が鳴る

その音はしばらく

近所の子どもたちを

おびやかして

それも やがて消えていった


水滴の家 PDF: 縦書きで読めます


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

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TEL&FAX 042(577)0738

「寄稿・孔雀船93号」 川上さんの話 = 脇川郁也

かすかに夕日の差し込むオフィスの

窓際に置かれた半円形のミーティングテーブルに

紙コップがふたつ残されている

ひとつにはコーヒーが少し

だれかのため息が浮かんでいて

もうひとつは力まかせにつぶされて転がっている


どうしようもない悔しさを飲み下したのは

川上さんという戦争を知る老いた男だった

ふだんは鷹揚に構えている彼だが

酔うといつも何かを思い出して目を潤ませた

酷いものだよ、戦争は

と彼は言う

人の生き死にを気安く忘れちゃいけないんだよ

とも言った


赤く染まっていく西の空を見ていると

ぼくの心の奥底に

彼の言葉だけがよみがえってくる

だれもいなくなった場所に届いた

おだやかな秋の夕暮れは

人々のざわめきとともに

ガラス窓に張りついたままだ


さて

昭和二〇年のこと

大正九年生まれの父は

陸軍伍長として

終戦を台湾の基隆(キールン)で迎えたと聞いた

昭和二年生まれで女学生だった母は

兵器工場で勤労奉仕をしたらしい

だが 父からも母からも

ぼくは戦争の話を聞いたことがない


もう日は傾きかけている

明日は雨になるとテレビが言っている

雨のたびにしっとりと折りかさなる

いくえもの時の名残が

明日もきっと剝がれ落ちるのだろう

銀杏の葉が舞い落ち

しずしずと降り続けるように


川上さんが道に刻んだ影を

ぼくらは踏みつけているのではないか

ぼくはもっと彼らの影に寄り添って歩もうと思う

知らぬ間に失われていく光が

その静けさを

いっそう深いものにする

わずかばかり残った空のあかね色が

つぶされた紙コップに

うっすらと染み込んでいるのだった


川上さんの話 PDF



【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

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【詩集・寄稿】 クリムトのような抱擁 = 望月苑巳


ひらひら舞いながら落ちてくる

花びらが宙でむつみあう

やわらかな抱擁を繰り返す

ぼくがもう忘れてしまったかたちのきみ

とろけるような優しさで


クリムトはおもむろに筆をとり、キャンバスの中にムートンのような愛をねっとりと厚塗りした。子供は産みたくないと、ダダをこねていた女は情人に心を裏返されてあっけなく陥ちた。そんなはずじゃなかったと悔やんでみても後の祭り。船は次の港を目指して出航する。その日、地球は悲しいくらい隅々まで晴れ渡っていた。


あの日、木の下で孤独を振り払い

ぼくを抱擁したきみがいる

「ひとりでは抱き合えないのよ」と

白い歯をこぼして

はらはらと、はらはらと

甘くささやいたきみがいる


クリムトは金魚鉢の水がこぼれたら足してあげるだろう。猫のしっぽを踏んでしまったら頭を撫でながら許しを請うし、地球は平らだと主張する奴がいたら頬をひっぱたくだろう。それが良識(コモンセンス)というものだ。振り返ってみれば傷つけあった日々の方が愛おしく感じられるように、絵の具は残酷な色を使う。それも二重螺旋の良識。クリムトのみだらな良識。みだらな抱擁。


悲しみを心の内側にこぼしてしまった日に限って

弦楽四重奏は哲学的な対話をしながら満ちるのに

音楽が凍りついてしまうのはなぜなのか

そんな日に限って

銀河と銀河の渦巻きが抱き合って

ぼくときみが生まれたりする


クリムトのような抱擁 PDF


【作品 情報】


詩集 クリムトのような抱擁


2018年10月25日発行


著者 望月苑巳 (もちづき そのみ)


発行所 七月堂


〒156-0042
東京都世田谷区松原2-26-6


☎ 03-3325-5717

FAX 03-3325-5731

【詩集 クリムトのような抱擁】 クラゲの抱擁 = 望月苑巳

クラゲの抱擁

シンと更けてゆく胸の内に

尖った男が住んでいたころのことだ。


部屋の掛け時計が止まっていても

失った人がいれば悲しみの針は止まらない。

夏のひまわり畑で、残酷な黄色が太陽と結婚する時間

喉が渇いて水が欲しくなるほど、青い海原を泳ぎきったあと

クラゲのように抱擁し

たっぷりと恍惚の水に溺れる

それは時間の砂に埋もれた裸体の思想だ。


賑やかで派手なサーカスが、どこか淋しいのはなぜか知っていますか。サーカスのテント裏には、失敗したナイフ投げの名もない弟子や、滑り止めを忘れて落下したブランコ乗りのゴシック体が、紳士のように並んでいるのです。


尖った男が象の調教師で

その昔象に恋したことがあったと、女は知っていた。

振り返ってみれば

人生はすべて借りと貸しからできているということだ。

だから、女は割り切って男を愛したのに

哀しみの時計が針を巻き戻すことはない。


夏の海にいて、なぜ、惨憺たる漆黒の闇を見るのですか。胸の内に深海の流れを見るのですか。あの手のぬくもり、殺気を閉じ込めた頬の陰影。男は嫉妬でほっこりと女の手を食べ始め、女は傲慢な拒絶で男の足を齧ったのです。


夕凪はふたりを繭玉のように包み込み

すなわち原子に帰っていった。

人間は欲望から成り立っているのだから

クラゲの抱擁ほどいやらしく神聖なものはないのだ。


クラゲの抱擁  PDF


【作品 情報】

詩集 クリムトのような抱擁


2018年10月25日発行


著者 望月苑巳 (もちづき そのみ)


発行所 七月堂


〒156-0042
東京都世田谷区松原2-26-6


☎ 03-3325-5717

FAX 03-3325-5731