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大東京の空を飛翔する、鷹の訓練士が語る=葛飾

 中川の護岸をジョギングちゅうに、手にとまらせた鷹に骨付きの餌を与えている男性がいた。
 大自然とはほど遠い葛飾である。自然界の猛禽類などが棲める環境ではないと思っていただけに、めずらしいなと横目で見、振り返りながら、10メートルほど行き過ぎた。そして、私は戻ってきた。

「鷹匠ですか」と問うと、「それを職業としていないので、鷹の訓練士です」と答えられた。

 東京・葛飾区にすむ中里貴久さん(45)である。大都会では、鷹を飼いならすのは大変そうだ。話を聞いて撮影もさせてもらった。

 いまは何の訓練をされているのですか。「この子(鷹)を連れまわし、人慣らしの訓練中です」。 鷹がこの大都会の空に慣れる、人間に慣れる、その訓練だとわかりやすく補足してくれた。

 私が話しかける。それだけでも、鷹は人間に慣れていく訓練になるという。

 ふだんの練習場所は平和橋の下流だが、きょうは中川の上流に来てみたという。左岸は犬がノーリール(紐を結ばない)が多くて、練習場所には不向きだと判断し、いましがた右岸にきたと話す。

 ジョギングの時にも思うが、紐をつけていない犬が多くて、実に迷惑だ。マナーがないというよりも、都条例違反だ。走っているとき、吠えられてとっさには止まれず、からだを傾けて横跳びしたこともある。危うく捻挫寸前の経験もある。

 そんな人は犬を飼ってもらいたくない、と思いながら話を聞いていた。

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新宿区・成人式の新成人たちの抱負(2)=東京・京王プラザホテル

 東京・新宿区の成人式が1月9日、同区・京王プラザホテルで開催された。過去の(全国的に)荒れた成人式が嘘のようなに、明るく、楽しく、秩序ある式典だった。

 昨年は東日本大震災があったことからか、参列者たちには浮いた、ふざけ半分の態度などまったくなかった。


 会場では、20歳になった新成人から、将来への抱負を聞いてみました。(写真の方とは無関係です・以下同じ

①被災地の方に役立ちたい。フクシマではあまり役立たなかった。でも、またボランティアに行きます。

②積極的になれる人間になりたい。


③世界を股にかけた、活躍する人材になる。ビッグになる。

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第54回・元気に100エッセイ教室=人物は描写文で書こう

 この講座は54回を迎えた。今回に限って、教室でのレクチャーの範囲を飛び出してみたい。

 昭和54(1979)年の大きな出来事といえば、米国・スリーマイル島の原発事故だろう。炉心溶解(メルトダウン)で、燃料が溶融し、約20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。レベル5だった。

 それでも、当時の日本では「核の平和利用」という政治家たち、実業界の人たちのことばが信じられていた。メディアもそれに乗っていた。そんな背景から、国民全体としては、スリーマイル島の事故はさほど深刻に受け止められていなかった。

 チェルノブイリ原発事故、さらには東日本大震災によるフクシマ原発事故(レベル7)へと及んだ。いまや核兵器並みに、周辺がセシウムなど放射能で汚染されている。首都・東京も例外でないという。

 人間は核をコントロールできる、という科学者たちの驕(おご)りが原因である。それに輪をかけて、核廃棄物すら処理できない、不完全な原子力発電所の廻りで、「平和利用」という甘い欺瞞の言葉で、お金の汁を吸ってきた、金欲人間たちがいた。それも二十世紀半ば以降から。

 フクシマ原発事故はエネルギー政策の道草ではなかった。容赦なく放射能をまき散らした。否、いまなお撒きつづけている。

 これは核の金に群がる強欲人間が、人間を残酷に裏切った結果なのだ。利益誘導者たちはなんら贖罪(自分の犯した罪や過失を償うこと)をしない。
「元の自然に還れない。ここに痛ましさと恐怖がある。あなたには科される罪がある」と名指しされると、違法ではなかったと、きっと逃げるのだろう。それこそ、人間が決めた法の枠を利用する、人間の醜悪な面だともいえる。

 エッセイとは「人間」を書くことである

 人間の行動や言動は性格と心理によって決まってくる。それに業とか、慾とかとを付加すれば、良きにつけ悪しきにつけ、ごく自然に人物が姿が浮き上がってくる。

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2012年元旦は、奥多摩の山を走る

 元旦の昼前には奥多摩駅(標高343m)に着いた。外気温は6度だった。ジャージに着替えると、鋸山林道の大ダワ(約1000m)にむけてランニングで登りはじめた。多摩川に架かる、弁天橋を渡ると、ヒノキや杉の森林を蛇行する舗道である。

 奥多摩~五日市に抜けるルートだが、道路が完成しても、環境問題から、いっさい使用されていない。公共事業のムダの典型的な道路だ。車が通っていない分、(御前山の登山者を迎えるタクシーは過去に一度見た)、ひとり占めである。時おり、崖上からの小石の落石が散乱している程度だが、危険度はない。

「最後のラン登山がどの山だったのかな」
 雲取山か、函館山か、箱根の山か、榛名の山か、記憶は定かではない。
 第2回東京マラソンに出場した。それ以前はランニングで山に登る練習も取り入れていた。大会から遠ざかると、ふだんの練習量は少なくなった。がむしゃらなラン・メニューもなくなった。

「一年の計は元旦にある。今年こそはフル・マラソンに再チャレンジするぞ」
 今回は、そんな格好いものではなかった。
 大晦日の除夜の鐘、初日の出の取材撮影に行くかな、という計画を立てていた。天気予報は曇り。太陽の出ない、初日の出など取材価値がないな、と気持ちは失速した。
「除夜の鐘もやめた。朝起きて、気ままに奥多摩の山でも登るかな」
 そこで下山後に汗を流せる、奥多摩町営「もえぎの湯」をネットで検索すると、元旦から営業だった。
 
 登山となると昼食用のバーナー・コッフェルとか、食糧とか、装備とかが必要だ。
 一方、ランニング登山ならば、ペットボトル1本と小銭(万一のために)さえあれば充分。奥多摩の低山ならば、ランで登れる。つまり、横着な発想から決めたものだ。

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文学者たちと紅葉の小江戸・川越「喜多院」を訪ねる                 

 11月30日、作家、文学者たち7人が川越の喜多院に訪ねることになった。北からの紅葉がすでに首都圏にも到達していた。同院の奥庭は、江戸城の紅葉山を模すだけに、赤色、黄色の彩り豊かな情景が楽しめた。

 顔ぶれは猛暑の8月に『昭和の街』立石で、下町情緒と居酒屋を楽しんだ、日本ペンクラブの広報、会報委員会の有志である。その折、次なる計画がごく自然にできあがり、「紅葉の川越の歴史散策+飲み会」になっていたものだ。


 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、事前に教材『野外講座・川越』が配布されていた。
 歴史小説家の山名さん(同会報委員)は江戸時代の将軍、武家、庶民生活まで詳しい。吉澤さん(同事務局長)は川越の喜多院の裏手で育っているから、同院の隅々まで知り尽くす。
相澤さん(広報委員長)は、喜多院で「ボクはここで厄払いした」と思いだすくらいだから、川越に縁がある。

 新津きよみさん(推理小説作家)は埼玉県在住だから、何度か、川越に来たことがあるようだ。

 井出さん(事務局次長)と私(穂高健一・広報委員)は、ある意味で豪華なガイド付きの川越歴史散策だった。

 同日の午前ちゅうは東武東上線が踏切事故で全面運休だった。川越まで埼京線か、西武線か、どちらかに変更すべきか、と判断に迷っていた。12時20分に復旧したことから、それぞれが川越駅、本川越駅から、2時には銀杏の黄葉がもえる喜多院に集合してきた。


 吉澤さんが「私はこのすぐ裏で育った。この寺が遊び場だった」と話す。東京大空襲で、東京の邸宅(吉澤家は映画配給会社)が焼け、映画弁士の口利きで、この地に引っ越ししてきたという。小学生の集団を見て、わが母校だと懐かしがっていた。

 喜多院は平安時代に慈覚大師円仁によって創建された。やがて関東天台の中心となった。
「この院の興隆と川越の発展は、ひとえに天海(てんかい)僧正と徳川家康接見から信頼関係から始まったといえる」と清原さんが多宝塔の側から、すぐさま解説をはじめた。だれもが興味深く耳を傾けた。


 本堂の内陣の先には、徳川3代将軍・家光が生まれた部屋があった。この由来について、山名さんが語ってくれた。

 1638(寛永15)年の川越大火で、同院はすべて焼失した。(一部、山門を残すのみ)。家光の命で、堀田正盛が復興にかかり、江戸城の紅葉山の別殿を移して、それらを客殿、書院にあてた。このときに、家光誕生の間、春日局の間も、同院に移された。
 「15代将軍のなかで、正室の子は家光だけよ」と山名さんが教えてくれた。

 一連の復興で、東照宮なども造られた。だが、明治時代の廃仏毀釈から、現在は別管理になっている。

 室内は撮影禁止だが、紅葉が盛りの奥庭にかぎり、撮影は自由だった。
「前夜のTVで、この庭がライトアップで中継されていたわよ」
 新津さんが話す。紅葉の名庭は素晴らしい。

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吉岡忍さんが明治学院大学で講演『3.11を考える』、そして懇親

 「ペンの日」懇談会(11月26日、東京會舘)で、佐藤アヤ子さん(明治学院大学の国際平和研究所教授)と吉岡忍さん(日本ペンクラブ専務理事)のふたりlが語り合っていた。同月29日、吉岡忍さんが同大学で『~3.11を考える~』に90分間の講演をする、という話題の最中だった。
 そこに、私が入り込んで挨拶した。
 

 佐藤さんから「聴講にいらっしゃいませんか」と誘われた。
「どんな内容ですか」
「平和学講座(秋学期)の授業です。国際平和研究所が受け持つものです」
 佐藤さんがコーディネーターとして、自他の大学から平和学研究者、外国大使館の大使・公使、作家などを講師として招き、「3月11日を考える」というもの。14回のシリーズの一つとして、吉岡さんが90分間の講演するという。吉岡さんは3.11が発生した4日後から、東北の被災地に入っている。

 私とすれば、3.11がこの先の執筆活動のメインテーマだけに、即座に身を乗り出した。

 明治学院大学(港区・白金台)の訪問は初めてである。吉岡忍さんは待合室で、学園闘争時代、この大学には何度か足を向けたと語っていた。教室に立てこもる男女が別々のフロアで寝泊まりしていた。他大学は男女が雑魚寝だったと、懐かしげに語っていた。

 同月29日午後2時45分から、吉岡さんの講座が始まった。講師の吉岡さんは知名度が高く、世相に対してシャープな切り口だけに、大教室いっぱい約300人の学生が集まった。ボランティア活動で現地に入った学生も多く、より関心度が高かったようだ。
 
 
 吉岡さんはまず鴨長明「方丈記」の無常感から入った。古来から、日本人と災害は切り離せいないと言い、3.11の被災地で目撃した悲惨な状況、瓦礫の凄まじさなどを生々しく語りはじめた。
「これまで、外国の被災地を数多く見てきました。3.11の被災地に入り、瓦礫を見たとき、外国と比べて、日本人はなんて物持ちだろう、と思いました」
 箪笥から衣服が飛び出す。それが水にふやけて3倍になる。それにしても、膨大な物量の瓦礫だったという。そのなかに遺体がうつぶせになっていたし話す。

 2万人が一度に死ぬのは、戦争以来にはあり得なかった。
「助かった人の話もたくさん聞きました。津波で流される屋根に乗った人が、写真を撮っていた。生死の境にいて、思いのほか冷静なんです。3月の冷風の風よけに、流れている発泡スチロールを採り、かぶつていたが、気を失った。意識を取り戻した時、収容されていたそうです」


 60代女性が流される家のベランダにいた。部屋に戻り、衣装ケースから服を出して着替えをはじめた。いつもの習慣で、窓にカーテンを閉めた。

「津波のさなかですよ。誰も流される家の中を見ていない。パニックにならず冷静に着替えているんです。この方は家が突堤にぶつかり、そこで降りて助かった。こういう冷静さもあるんです」

 三陸には小さな半島や小さな浜の集落が数多くある。漁師たちは漁船、漁網、カキやホタテの養殖いかだも津波でなくしてしまった。日本人の食生活は、さんま、カキなど水産業の季節にも大きく関わっている。こうした文化の基盤も失った。

                    佐藤アヤ子さん(明治学院大学・国際平和研究所教授)


 漁師たちは家族、友達を亡くし、生活基盤を失った。失ったものは大き過ぎた。若者たちは「もう一度やろう」という気にならない。ところが、20~60才代の女性10人ほどが浜に出てきて、カキの養殖に必要な、ホタテ貝の穴をあけ(カキの種付用)作業を始めた。茫然自失男たちはそれを見て、やる気を出したと聞きました、と話す。
「女性の力はすごい」
 吉岡さんは強調した。
 
「被災者は、とかく災害弱者と見られがちです。弱者ではない。生産手段をなくした漁師は、いまを生き延びるために、天然のワカメを採りはじめました。それを塩漬けにして、細々ですが、出荷しています。強く生きようとしている。弱者じゃない」

 漁師たちは一国一城の主である。漁具、漁網は高価なもので、所有者が決まっている。津波で散らばった漁具を集めてくる。津波で残った船を使い、沖に漂う『浮き』(一つ3万4万円する)を集めてくる。「数年間は、『自分のものだと主張しないようにしよう。共有物にして使おう』と決めたのです」
 被災地が共同体として連携と、人間のつながりで復興しようとする。

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伝統ある日本山岳会に、13歳の女子中学生が新入会員

 日本山岳会は1905(明治38)年に発足し、100年以上の歴史がある。同山岳会は1956(昭和31)年5月9日にマナスル(8163m)初登頂に成功した。日本人がヒマラヤ8000m級の初登頂を成し遂げたと言い、日本中に登山ブームを起こした。

 現在でも、同会は日本登山界のリーダーである。一方で、会員の高齢化が進み、若返りが大きな課題となっている。

 日本山岳会の晩餐会が12月3日、東京・品川プリンスホテルで開催された。全国から会員が約500人参加した。皇太子殿下も(一般会員として)出席された。

 尾上昇会長が挨拶のなかで、「少子化が進んでいる世の中ですが、若返りを含めた、会員の増加への策に取り組んでいきたい。数は力です」と述べた。


 11年度の新入会員36人が壇上で紹介された。代表挨拶が中学1年生の三上マリモさん(宮城県、13)だったことから、会場にどよめきが起こった。

 三上さんは壇上の代表スピーチで、「5歳の時に、親に連れられて岩木山に登り、山が大好きになりました。オボコンベ(標高約400m・宮城)で岩登りに興味を覚えました。将来は剣岳に登りたいです」と、しっかりした口調で、数々の登山歴と、将来の登山活動への抱負を語った。

 彼女はさらに「将来は雪の山にも、キリマンジャロにも、ヒマラヤにも登りたいです、山に関する幅広い知識を学びたいです」と堂々たるスピーチだった。
 皇太子殿下もテーブルからにこやかに聞き入っていた。

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熱唱する魅惑の歌手たち・第4回澤村美司子音楽賞(下)

           YOKO 『イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング』

 長野県出身です。スタンダードから、ポピュラー、ボサノバまでレパートリーが広い歌手です。とくにバラードは原曲の詩とメロディーを大切にする、その歌唱法を支持するファンは多い。

           演奏 大西敏明シックステッド

           altsax 加藤 朝雄


           石橋みどり 『ロスト・アラウンド・ミッドナイト』

東京都出身、独協大卒です。こんかいの第4回澤村美司子音楽賞で、みごと優秀歌唱賞を受賞しました。JAJの国際線スチュワーデスになって、欧米を回るうち、ジャズボーカルの魅力を知り、やがでプロデビューしました。

           財津 光子 『マイ・ウェイ』
            
 1930年に広島で生まれる。64年に東芝からデビューしましたが、交通事故で声が出なくなりました。70年に復帰後、病を乗り越えて、計3回のメキシコ公演を行っています。
 2011年には歌手生活60年の記念ライブを行いました。


           由紀 真 『ザ・シャドー・オブ・ユア・スマイル』

 俳優座養成所10期生です。ソフトな歌いくちで、スタンダードから、ソウル、ポピュラーまで、幅広く活躍されています。TV、ラジオ、ショー、CM、CFと多彩です。

           有 桂 『オールモスト・ライク・ビーイング・イン・ラブ』

第4回澤村美司子音楽賞で、特別奨励賞を受賞しました。
京都外国語大学の軽音楽部に所属し、学生プロとして、関西のライブハウスに出演しました。卒業後は、音楽活動をしながら、英語教師の仕事にも従事しています。

            旗 照夫 『イッツ・ア・シン・トゥ・テル・ア・ライ』

 1933年、東京生まれ。都立日比谷高校卒業後から、ラジオ東京(現・TBS)の歌番組で、ジャズからデビューしました。
 本格歌手になってから、紅白歌合戦には7回出場しました。江利チエミ、美空ひばりなどとね芝居、ミュージカルに多数出演されました。
 あまい歌声はいまも健在です。

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熱唱する魅惑の歌手たち・第4回澤村美司子音楽賞(上)


第4回澤村美司子音楽賞の授賞式が、2011年10月20日に、東京・渋谷区のけやきホール(古賀正男音楽博物館)で開催されました。主催はJapan Pops Singars Asspciatio (J.P.S.A)です。


今年のメインテーマは、東日本大震災の復興を願って
「君は一人じゃない」
私たちは祈っています。 あなたの幸せを


                       YUKO  『夜明けの歌』


東京大学を卒業後、メーカー勤務から一転し、公認会計士の道を行く。超多忙の日を送るが、ボイストレーニング、ライブ、そしてボランティア活動を行っています。
J.P.S.Aの主力メンバーです


                      弓 のり子 『翼をください』


弁護士秘書を務める傍ら、JTプロダクション所属のプロ司会者です。

2010年6月ラスベガスのガリブ氏と、師匠である中島安敏作曲の『恋の別れ道』『京都の夜』をデュエットでCDをリリースしました


               新井夏実、中野由美子、村石保子 『ドリーム』    


               中島 えりな

シンガーソングライター。1995年にTVアニメ「ウェディングピーチ」の主題歌でデビューしました。2009年から新たなパフォーマンスを取り入れるために、定期的に渡米しています。
2010年に、ラスベガスにおいて、CDレコーディングやジャズフェスティバルに出演しています。

歌唱のみならず、作詞、作曲も手がけています。


                   中島 えりな

2011年に、米国・ワシントンのソングコンテストにおいてオリジナルソング『エトランゼ』が最優秀賞を受賞しました。

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第53回・元気に100エッセイ教室=紀行エッセイの書き方

 江戸時代は日本橋から京都まで、「東海道五十三次」を徒歩で行く。一日中歩いて、まず品川宿に着く。旅籠で宿泊し、翌日も次なる宿場町・川崎にむかって足を運ぶ。53日間がすべて晴れている、それはあり得ない。風雪を考えると、旅人は大変な苦労をしたと思える。


 毎月1回の作品提出のエッセイ教室が53回を迎えた。(8月と12月は休み)。5年以上も、「次は何を書くかな」と頭はつねに休む間もなく、考え続ける。

 講師の私からは、「病気、孫、自慢話し」は書かないでください。そんな条件付きだから、書く材料・素材が枯渇した気持ちにも陥ったことだろう。

「楽にすらすら書かない。隠したいこと、伏せてきたこと、恥部を描くように。苦しんで書く」という付帯条件もある。となると、妻子や友人に作品をみられたら? とプレッシャーが生じてくる。

 書きあがった初稿は、数日寝かせ、大きな声を出して読み、圧縮と省略を図り、無駄な文言を削るように。そうなると、作品の仕上がりにも時間がかかる。

 徒歩で行く「東海道五十三次」と、5年間エッセイの筆を執る。どっちが楽か、苦しいか。ともに体験者でなければ、回答が出ないだろう。

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