「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

RCCラジオ・放送 神機隊と渋沢平九郎 = 9月11日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ・放送

 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)、渋沢平九郎らは上野の彰義隊と決別し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 5月23日、新政府軍は飯能の振武軍を攻撃した。半日で決着した。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が50人で、忍藩の藩兵を引きつれての夕方に飯能に着いた。戦争の決着がついていた。越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。

 遭遇したのが、副大将の渋沢平九郎だった。悲劇が起こった。


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RCCラジオ・放送 神機隊と上野戦争 = 8月14日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ 神機隊と上野戦争


 神機隊は、広島藩庁に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。
 そして、大阪の湊から奥州にむかう。蒸気船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港した。

 かれらは上陸し、浅野家菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所とした。ちなみに、赤穂浅野家は分家(5万石)で、本家は芸州広島藩浅野家(42万石)である。

 4月21日に江戸城は無血開城されました。

 かれらが江戸城の総督府に挨拶に行くと、長州藩の大村益次郎は上野戦争の参戦をもとめられた。主力でなくとも、上野山の北側の王子・飛鳥山に陣を張ってほしい、と依頼された。

「長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」

 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。

 江戸城が無血開城、江戸は戦火もまぬがれていた。それなのに、新政府軍はなぜ上野戦争を仕掛けたのか。

 RCCラジオの放送はここらの疑問にも触れています。


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神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

「おのれ。大村益次郎め。敵兵は一人もいない甲府にまで、神機隊の大隊に足を運ばせさせた。会津にむかう神機隊への妨害行為だ。われらは神機隊自費で出陣しているのだ。広島藩への嫌がらせだ」
 神機隊の隊長たちは、江戸城の新政府の総督府に抗議に出向いた。大村に噛みついた。どこの国でも、隣りあわせは仲が良くないものだ。
「自費出兵の補填として6000両を出します。長州の蒸気船を貸与します。江戸湾から、房総沖を回り、平潟(茨城県)まで、お使いください」
 芸藩志の神機隊の金銭出納に、それが克明に記録されている。
 貸与された長州船に乗れば、汽缶の故障ばかり。太平洋上のかなたまで漂流してしまうありさまだ。

 平潟に上陸すれば、新政府軍がすでに上陸し、「いわき城」(福島県)の戦いが終わっていた。
            *

 日和見、臆病者といわれた広島藩が、関東まで来ても、勇敢に戦う名誉回復の場などなかったのだ。神機隊はいずれも屈辱感を味わっていた。

 磐城から先は白河から会津盆地に入るか。激戦が予想される仙台相馬軍と旧幕府軍の連合軍がいる浜通りを北上するか。神機隊はあえて激戦地を選んだ。
 東日本大震災3.⒒の東電原発事故の被害地の海岸沿いを北上していく。

 この浜街道がなぜ激戦地なのか。見渡すかぎり、広々した田園地帯で、身を隠す場所がない。敵が少しでも高台に陣取っていると、狙い撃ちされる。

 あいては旧幕府軍と仙台、相馬連合軍である。「奥羽越列藩同盟」軍である。幕府の元老中だった板倉勝静(いたくら かつきよ)、小笠原 長行(おがさわら ながみち)、安藤 信正(あんどう のぶまさ)が集結し、江戸奪還を狙っている。新撰組、彰義隊の残党もいる。推定約4000人の主力部隊がいると予想された。

 薩摩軍が危険な攻撃だと知り、巧妙に鳥取藩と入れ替わっていた。

 神機隊と鳥取藩兵は併せて約600人の兵だった。広野の戦いで相馬・仙台軍らと正面から激突する。
 日夜を問わず、相馬・仙台軍は攻撃してくる。連続する銃弾、大砲で煙硝が立ち込める。休ませてくれない激戦だった。

 鳥取藩が砲隊長の近藤類蔵が戦死する。鳥取藩が引いてしまった。神機隊280人がたった一隊で、旧幕府軍や仙台・相馬軍と戦う。敵兵の十分の一もいない。無謀な戦いだった。
「一度引けば、気迫が廃れ、恐怖心が勝り、立て直せない」
 神機隊は死も恐れず戦う。仲間が血を流す、即死する。武器や食料の不足をきたす。「銃弾が雨のごとく」という記載が残されている。

 広野の戦いでは、砲隊長の高間省三の戦略の奇策で、突破口を見つけ、丘陵に構えられた敵の陣地を奪う。それでも敵は無勢に多勢で、交代しながら、戦闘行為に及んでくる。
 睡眠不足で、空腹で、意識がもうろうとする。それでも、戦い続けた。

 やがて、新政府軍の第二次、三次と応援部隊が到着する。長州藩4個中隊(約800名)、福岡藩440名、岩国藩200名、久留米藩(不明)、津藩95名などである。相馬・仙台軍がやや退却ぎみになる。

           *


 神機隊の砲隊長の高間省三が奥州の「浪江の戦い」で、銃弾が頭部に貫通し戦死した。高間の死は強い衝撃を与えた。

 広島城下・山根町の聖光寺には明治3年の建立で、【高間壮士之碑】がある。恩師・阪谷朗廬の撰文である(漢文)。

『高間省三は、この日(慶応4年8月1日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、
「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」
と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。
燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣に一番乗りした)。そして、次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた』
 このような撰文で記されている。

      *

 明治26年に発行された、『軍人必読 忠勇亀鑑』には、日本武尊、加藤清正、徳川家康らとともに英雄に列せられている。戊辰戦争で取り上げられたのは、西郷隆盛でも、板垣退助でも、大村益次郎でもなく、藝州広島藩の高間省三のみである。

 高間省三は満二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。この神社は初詣客として中国・四国地区で最も多い。広島カープの必勝祈願で名高い。
 初詣客にきた人に、「この神社の高間省三は御存じですか」と聞いても、どのくらい答えられるのだろうか。

「高間壮士之碑」の撰文を書いた阪谷朗盧は、幕末からの著名な開明派の学者だった。備中・井原は一橋徳川家の領地だった。そこに創立された興譲館に招かね、阪谷朗盧は初代館長となった。
 高間省三は18歳で、芸州広島藩の学問所の助教だった。先輩の頼山陽も同校の助教をつとめながら、「日本外史」を執筆している。頼山陽は20代後半だった。18歳の高間がいかにエリートちゅうのエリートだったわかる。
 その高間省三は、明確な年月日の資料がないけれど、少なくとも慶応3年には井原の興譲館の阪谷朗盧に学んでいる。
 高間は学問所で洋学(英語)を習っているし、武具奉行の父が購入してくれたイギリス製の手帳を戊辰戦争のとき持っていっている。遺品として広島護国神社に奉納されている。
 父子の考えで、遊学先として開明的な学者として阪谷朗盧を選んだのだろう。

           *

 当時の一橋家の家主といえば、幕末史のど真ん中にいる徳川慶喜である。
 孝明天皇は安政の通商条約を白紙に戻し、「横浜港の鎖港」という攘夷の方針を取っていた。慶喜は実父の水戸斉昭の尊王攘夷論を引き継いでいた。その方向で、幕府の外国奉行をフランスに送り込んでいるくらいだ。


 一橋家臣となった渋沢栄一の勧めで、慶応2年、阪谷朗廬は京都にいる一橋家の慶喜に拝謁したのだ。阪谷はそこで勤皇開港論を説いた。

『欧州がこんにち日本に和親・通商を望むのは、往年の旧教派の侵略主義ではありません。日本がいつまでも攘夷主義を唱え、外国を排除するのは間違っています。夷人を恐れることは、『人を見れば、泥棒とおもえ』という諺に似ています。ここは異国人を排除するのでなく、通商すれば、国が開けて豊かになります』
「わかった」
 理解力の優れた聡明な慶喜だ、従来とは真逆の方向に動きはじめた。
 孝明天皇が京都に近いという理由で兵庫湊(神戸港)の開港に反対していた。「兵庫開港問題」である。慶喜は欧米に期限付きで開港すると約束した。さらに、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国通商条約」の勅許を、孝明天皇から得るのだ。ここに安政の大獄、井伊直弼の暗殺、下関戦争など、動乱つづきの根本の通商条約が突如として解決したのだ。

 慶喜がなぜ開国に方向転換に計り、孝明天皇がそれに乗ったのか。歴史ミステリーだった。当時から不可解な慶喜の行動だった。長州藩の木戸孝允すら、「慶喜は家康の再来だ」と言わしめるほど、そこから幕末史がおおきく動いた。

 慶応2年に、阪谷朗盧と徳川慶喜が京都で対面する場を作ったのが渋沢栄一である。そして、鎖国主義だった慶喜が急に開国に舵を切った。
 阪谷朗盧の存在を知らなければ、慶喜の180度の方針転換は読み取れない。阪谷朗盧を語らずして、幕末史の終盤は理解できない。上滑りだと言っても、過言ではないだろう。

 慶応3年には、高間省三が井原の阪谷朗盧の下に留学している。
 この年に、 27 歳の渋沢栄一は、15 代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の弟・ 水戸藩の徳川昭武(あきたけ)に随行し、パリの万国博覧会で渡航する。

 高間省三とすれ違いか。あるいは一度くらい顔を合わせた接点はないだろうか。そんな興味で、歴史取材しているが、裏付けの資料は発見できていない。

 高間省三が「浪江の戦い」で戦死した。翌年の慶応4(1868)年8月1日である。開明派の学者の阪谷朗盧は、同年に芸州広島藩の藩学問所(現修道学園)の主席教授として迎えられている。
 
 阪谷朗盧が、書生時代の高間を可愛がっていたとしても、おかしくない。高間省三は阪谷朗盧から、きっと十五代将軍慶喜の素顔、思想、性格などを聞いているだろう。
 
            *

「今年はパリ万博に出向きます。2年前に、笠岡の鯛網は楽しかった。もう一度、楽しみたいものです」
 仮定の話だが、渋沢が井原の阪谷朗盧を訪ねてきて、そう語ったとする。
「パリで資本主義の経済を学ぶといい。送別会は、ちょうど春ですから、2年前のように笠岡に出向いて鯛網を楽しみましょう。興譲館の書生を連れていきましょう」
 興譲館の書生となれば、高間省三かもしれない。2年前の鯛網は大漁だった。そのときのように、捕れた鯛を肴して渋沢、阪谷、高間らは酒を酌み交わす。すこぶる上機嫌で、日本の将来を語る。
 こんなエピソードがあると、歴史も面白くなる。

神機隊の秘められたエピソード① = 上野戦争に参戦か、拒絶か

 幕末の芸州広島藩といえば、近年、神機隊が知れ渡ってきた。
 第二次長州戦争(慶応2年・1866)において、広島藩は非戦をつらぬいたが、幕府軍と長州軍の双方の戦いで、広島藩領の大竹から廿日市の領民らが大惨事をこおむった。

「われら武士は、農民から生活の扶持をもらいながら、民を助けられなかった。民の生命と財産を守れる、精鋭の軍隊を作ろう。軍律は厳しく、秩序を保ち、訓練された部隊だ」
 広島藩の学問所のOBたちと、草莽の志士たちが立ち上がり、精鋭部隊の神機隊を結成した。それは慶応3年の夏だった。
 薩長芸軍事同盟が結ばれるなど、まさに幕府が瓦解していく動乱期であった。

 戦争には後世に伝わるエピソードが残るものだ。

         *

 慶応4年5月の上野戦争では、神機隊の五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が敵陣に迷い込んだ。藤田太久蔵小隊長は天性の機智で、巧妙に脱出している。
 東叡山寛永寺の輪王寺宮(一説に東武天皇)が、戦火のなかから巧妙に消えた。総督府の大村益次郎から、神機隊には探索が命じられた。しかし、長々と雨が大量に降り続いており、道路は陥没し、輪王寺宮は捜しきれなかった。

            *
 小田原戦争、箱根戦争、飯能戦争などが起きたのだ。

『林昌之助(下総・請西藩の藩主)が箱根に立て籠もり、小田原城を下し、甲府城を取り、奥州賊軍と相応して官軍に抗せんと謀る。神機隊は甲府に派兵せよ』
 命じられた甲府における残党狩りに尽くしても、芸州広島藩の名誉回復の戦いなどあり得ない。神機隊のだれもが渋々だった。神機隊の主力部隊が甲府城へとむかった。(後でわかるが、敵兵は誰もいなかった)。


忍城 (埼玉県)

『藝州藩は50人の兵士を武州の忍城(おしじょう)に出張して、同藩を監督できる、「軍監」ひとりを推薦してほしい』と大総督府参謀から、依頼書きた。

 忍藩はかつての譜代大名で、徳川幕府の名門だった。ペリー提督の黒船が来航したとき、江戸湾の房総の守りの要だった。
 幕府が瓦解しても、藩士らには佐幕派が多く、忍藩はまだ新政府に恭順していない。それゆえに、今後において元幕府軍らと手をむすぶ可能性が高い。

「総督府から、忍藩に恭順を促す詔書をとどける」その役も兼ねていた。同藩を監督できる「軍監」として、小隊長の藤田次郎が選ばれて、忍藩にむかう。途中で、早馬がやってきた。
「もうしわけない。忍藩にとどける詔書のあて名が、川越藩主だった。間違っていた」
「バカバカしい」
 神機隊の藤田小隊などは苛立っていた。

 総督府から、忍藩が恭順したら、それら忍藩兵を引き連れて、飯能戦争の支援にむかってほしい、という。

           *

 上野戦争の直前に、渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)らと上野を脱出し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 敗北した彰義隊の残党を吸収し、振武軍の総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が忍藩を引きつれて5月23日の夕方に飯能に着けば、昼前に新政府と振武軍の戦争の決着がついていた。
「ここでも、出遅れたか」
 神機隊は自費で出兵しながらも、広島藩の強さなど、関東でなにも見せられていない。神機隊の主力部隊はすでに甲府にむかっている。後から追うにしても、小隊長・藤田次郎たちはこの日、越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

           * 

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。
「また、落ち武者狩りか。武勇には関係ない」
 藤田たちは不満に満ちていた。
 江戸城・総督府の大村益次郎が、広島藩が先に会津に入られると困るので、無駄な役目を与えているのではないか、と疑いはじめた。

           *

 現在、埼玉県の郷土史家において、『飯能戦争といえば、渋沢平九郎』といわれるほど、研究がすすんでいる。
 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 帰国した栄一は、養子の渋沢平九郎が、飯能戦争で死んだとわかった。悲しみ、徹底して調べさせた。それらも起因しているのだろう、現代でも渋沢平九郎の研究者が多い。
 剣の達人だった平九郎の死は悲劇として演劇、歌舞伎にもなっている。

 取材してみると、広島側の資料と、埼玉側の資料は微妙に違っている。

埼玉側の資料

 渋沢一族が幹部の振武軍(しんぶぐん)は、飯能戦争で半日で新政府軍に破れた。副将の22歳の渋沢平九郎は仲間とはぐれてしまった。
 秩父山地の顔振峠(かあぶりとうげ)にきた。茶屋の老婆から熊谷へ抜ける道をおそわった。
「そんな武士の格好だと危ないだ。大勢の官軍が越生村にいるだぞ」
 老婆の話をききいれて、九郎は大刀を茶屋に預けたうえで、変装してから越生への道を下っていく。黒山村(三滝で有名)で、新政府軍(神機隊)の斥候3人に遭遇したのだ。

 平九郎は神官だとごまかしたが、神機隊の斥候に見破られた。剣の達人の平九郎は、神機隊の2人を斬る。しかし、銃弾を一発を受けてしまった。
 3人の官軍は援軍を呼びに立ち去った。この間に、平九郎が石の上で自刀する。

           *
 
 慶応4(1868)年戊辰5月23日、武蔵国比企郡安戸村に、宮崎通泰という医者がいた。より信ぴょう性の高い証言をしている。
 官軍(広島藩・神機隊)の要請に応じて、入間郡黒山村に出向いた。そこで、軍士3人の創傷を治療した。
「なぜ、こんな大怪我をしたのか」と宮崎が医師として状況を訊いた。

 『澁澤平九郎昌忠戦闘之図』

医師の宮崎が、この絵の下に解説文を添え書きしている。
『かれら3人は官軍・神機隊の斥候で、黒山村(黒山3滝の近く)で、徳川の脱走兵士の一人が変装し、下山している男と出会った。
 糾問(きゅうもん)すると、飯能から脱走してきた兵士だとわかった。平九郎は佩(おぶ)るところの(携帯する)刀を抜いた。甲の一人を斬り、振り返って乙の一人を傷つける。
(絵はこの瞬間である)。
 また、転じて丙の一人を討った。甲は斃(たお)れた。(死んではいない)。乙と丙は逃げ走り去った。脱走の士は路傍の盤石にうずくまる、屠腹(とふく)(切腹)して死んでいた。

 その武勇は歎賞すべしといふ。すなわち、その時の状況を図に表し、また、平九郎の懐中にあった、歌および八時を写し、帰り道で、男衾(おふすま)郡畠山の丸橋一之君に逢う。君之を乞いて、家に蔵し、人に示し、これを話して歎賞す』

 十数年が経ったあと、榛沢(はんざわ)郡の斉藤喜平にもおしえると、その脱走兵士は地元の尾高平九郎とわかった。
 平九郎は渋沢栄一翁の養子だった。徳川幕府に仕えて、一年にして、戊辰の変に遭遇している。彰義隊に入り、閏四月二十八日に紙障に歌を書いていた。

   惜しまるる時ちりてこそ世の中の人も人なれ花も花なれ

   いたずらに身はくださじなたらちねの国のために生にしものを

   夏日夕陽 渓に臨んで氷を得たり

 自刃した平九郎の首が、法恩寺門前の立木に晒(さら)された。

 宮崎医師の証言とは別に、越生の旧家からも、さらし首の図が見つかっている。それによると、梟首(きょうしゅ)は越生の法恩寺でなく、徳田屋の脇の立木らしい。

           *
 
 現代の感覚でみると、「さらし首」は残忍な行為である。平九郎のさらし首にたいする批判の文献は、埼玉県において実に多い。
「恥ずるべき、断じて許せない行為だ」
 切腹した副将の屍骸の首を刎(は)ねるとは、言語道断だというものだ。

「名も知らない死を晒すとは、武士道に反する」
 晒し首に対する怒りだ。
 
 明治時代に入っても、大久保利通は江藤文平(法務卿・法務大臣)を梟首させている。
 第二次世界大戦でも、日本軍は武勲として、敵の大将クラスの首を日本刀で刎(は)ね、公衆の面前に曝(さら)し、敵への警告代わりにしている。

 戦争は残忍だし、人間を狂気にする。地元贔屓(ひいき)なのか、ややヒステリックな批判ともいえる。

            *
 
 渋沢平九郎の亡骸(胴体)は、黒山村の全昌寺(ぜんしょうじ)、頭部は寺僧が法恩寺の林に埋められていた。『脱走(だっそう)のお勇士(ゆうし)さま』として、村人たちが寄り合い涙をながしたという。

 渋沢栄一が、平九郎の遺骨を東京・谷中墓地に移し、上野寛永寺で法要をおこなっている。

            *

 芸州広島から自ら意思でやってきた神機隊は、上野戦争を含めて関東の戦いで、さしたる成果もなく、自費の軍費をひたすらムダに浪費しただけである。
 上野戦争では輪王寺宮を捜しだせず、忍藩に行っているうちに飯能戦争は終わっていた。甲府に出むけば、敵はひとりもいない。
 神機隊の小隊長・藤田次郎の約50人が、陣をはった越生村から斥候たちが、山奥に残党刈りに出ていくと、渋沢平九郎と遭遇する。平九郎は剣の達人だった。隊員が三人が小刀で傷つき、陣から応援部隊が駆けつければ、平九郎はすでに自刃で死んでいた。

 神機隊としては、好き好んで殺したわけではない。

 渋沢平九郎の「さらし首」の汚名が現代まで、埼玉人たちに怒りで語り継がれているのだ。まさに貧乏くじだろう。

広島側の資料
 

 日清戦争の前夜ともいうべきか。明治26年になり、渋沢栄一は大本営があった広島にやってきた。宿泊所したのが、元神機隊員の長沼主悦助が経営する旅館だった。

 渋沢栄一(男爵)は、妻の弟で、養子の平九郎と広島藩の軍隊との遭遇から、事実解明をもとめた。それは「回天軍第一起神機隊」の精鋭部隊だとわかった。
 広島藩の浅野藩主から任命された正規の藩兵ではなかった。神機隊は義勇同志の結束で、戊辰戦争の参加した稀有の存在だった。
 
 渋沢翁は実質的に総隊長といえる川合三十郎と面談した。
「平九郎の死はどんな状態でしたか」
  川合三十郎はこのとき浅野家史「芸藩志」(げいはんし)300人が編纂する責任者だった。

「私・川合三十郎は、神機隊の主力を率いて、飯能戦争には立ち寄らず、甲府城に出むいていました。くわしい事情は、忍城から分遣隊長となった藤田次郎が知っております」
 渋沢栄一が藤田次郎と面談した。
「当日の夕方、神機隊の小目付だった長沼主悦助(神官出身)たち6人を斥候に出ました。(埼玉側の資料は3人)。黒山村で貧しい身なりに変装した士(平九郎)と遭遇しました。生け捕るつもりだった。いきなり相手から斬りつけられた。壮烈な勇士だ、と長沼から聞きおよんでいます。この旅館の主は長沼で、最初にでた斥候のひとりで事情をよく知っていますよ」
「それは奇遇です」
 この長沼は旅館業、海運業、鉄道事業、電気工事業など各種事業の経営にあたり、広島財界の重鎮だった。
 元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督の長沼健が孫にあたる。

「男は遭遇した際、武士ではござらぬ、神主です、と偽ったのです」
 当時の長沼は神官であり、いくつかの尋問で、奴は嘘をついたと見破ったのだ。

 見抜かれたと判ったのか、突如として小刀で襲いかかってきた。腕が立つ相手で、神機隊の斥候6人ちゅう3人が傷ついた。長沼もその一人だった。神機隊の無傷の者が銃を放ちながら、皆して負傷者を抱きかかえ、越生の陣までもどってきた。
 
 長沼たち斥候の報告で、藤田次郎も含めた神機隊の大勢が黒山村に駆けつけた。

 渓流の脇にある盤石の上で、平九郎はすでに切腹していた。

「その屠腹(とふく)の状態は、落ち着いてあわてず、天晴な技でした」
 藤田次郎は渋沢栄一にそう述べている。
 この藤田は東京上等裁判所の検事、立憲改進党の結成、衆議院議員二回、山陽鉄道の社長を歴任している。

 切腹に使った小刀は、藤田次郎から実質的な総督ともいえる河合三十郎の手にわたった。

「小刀の装飾はみるからに実用的でした。替目釘(かえめくぎ)を使った名刀でした。この武士は尋常でなく位の高い人だろう、と推察しました。
 譲り受けた私・川合三十郎が、愛蔵の品として、幾く星霜(せいそう)、つねに磨き、座右においておりました」
 河合はその小刀を渋沢栄一に返還した。

「切腹の刀が遠く広島にわたり、川合どのの手で、ていねいに保管されておりました。平九郎はあの世でも、冥利だと喜んでいることでしょう」
 渋沢栄一翁(男爵)は、当世、稀(まれ)にみる士だと川合を褒め称えている。

           *


 私が出版した「広島藩の志士」(二十歳の炎・改題)は、第二次長州戦争前から戊辰戦争までで、明治時代は組み込んでいない。渋沢平九郎の小刀が広島にあるまで、筆を運んでいない。

  NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢平九郎が自刃するシーンがある。渋沢平九郎の小刀の行方まで追っていない。
 広島藩からどのように返還されたのか。渋沢平九郎ファンにとっては、まさに謎に満ちているようだ。その実態は殆ど知られていなかった。私が取材で得たものを歴史的な事実として、ここに公開した。
 
                      【つづく】

 写真は一部ネットを利用させていただきました。

「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争

 私が著作「二十歳の炎」を出版したのが、2014年6月だった。
 2011年3月11日の東日本大震災で、三陸海岸が大津波の惨事に遭った。取材で福島県いわき市、広野町などに出向いた。東電原発被害があった一帯に、広島藩の墓を見つけた。

「なんで、明治元年(慶応4年)広島藩の墓があるのだろう」
 その疑問から出版まで、約3か年を要している。

 当時は、広島に足を運んでも、「原爆で史料がありません」というオウム返し。ただ、雪降る福島や会津に出向けた。郷土史家たちから、広島藩が西軍としてきたという多少の資料があった。広島地区をかなり歩いて、広島藩・神機隊という名前が浮上してきた。

 広島の藩兵でなく、若者たちが立ち上げた独自色の強い軍隊だった。やがて、神機隊の研究者だった武田正視(呉市)から『浅野家・芸藩志』の存在をおしえられた。

 同家史は、明治後半に完成したけれど、薩長閥の政治家により、自分たちに不都合だと言い、封印されていた。やがて昭和52年、東京の出版社が「芸藩志」全26巻という膨大な量を発行していた。わずか300部の発行だった。
 東京から全国に散っており、広島ではほとんど見かけなかった。運良く、東京中央図書館に全巻が置かれていた。その芸藩志を読み込んでみると、幕末の広島藩が克明に浮かび上がる貴重な資料となった。

 神機隊の320人が奥州戦争に自費で出兵していく。そこを作品化したのが「二十歳の炎」(改題・広島藩の志士)だった。
 同書のなかで、大きな疑問の一つが慶応4年5月15日の上野戦争だった。神機隊の約280人が上野戦争に参戦しているのに、あらゆる幕末関係の歴史書、歴史小説において広島藩がまったく登場しないのだ。なぜか。不可解だった。

「大村益次郎が立てた戦略図面にも、広島藩の存在がない。なぜだ?」
 芸藩志のなかでは、上野戦争で、飛鳥山(東京都・北区)に陣を張っているし、彰義隊の逃亡兵を幾人かつかまえている。軍隊として成果がゼロでもない。
 その不可解さが解明ができないまま「二十歳の炎」を芸藩志に近いところで、書きあげた。


京都・御所で、神機隊が「奥州鎮撫使応援」の命を受けた

 神機隊は、広島藩に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。それも勇気がいることだ。神機隊は大坂の広島藩の藩邸で、浅野家世子・長勲の労で、京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。そして、大阪の湊から奥州にむかう。機帆船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港する。
 隊員らは上陸し、浅野家の菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所としていた。
 
 江戸城の開城で、徳川幕府から新政府軍に渡っていた。神機隊の代表が江戸城に挨拶に行くと、大村益次郎から、上野戦争の参戦を要請されたのだ。
 長州藩の大村益次郎は、新政府に出向する徴士(ちょうし)で、上野戦争の戦略・戦術のプランナーだった。上野山の北側に位置する王子方面に陣を張ってほしい、と依頼された。
 
 かれらは泉岳寺に,その話を持ちかえった。神機隊は総督をおかず合議制だった。

「バカバカしい。長州の奴らの頼みごとなど聞けるか。鳥羽伏見の戦いあと、広島藩の名誉を失墜させた。......、広島藩は幕府にも色目を使うコウモリだ。風見鶏だ。日和見だと京都で罵詈雑言のうわさを流した。それが長州の品川弥二郎たちだ」
 その噂への怒りから、広島藩・神機隊は自分たちの強さをみせてやろうじゃないか、そして名誉回復のためにも、と自費出兵してきたのだ。

「よりによって長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」
「そうだ。その通り」
「江戸で寄り道などできるか。それに、奥州に行くまえに、神機隊の戦力を消費してしまうのは考えものだ」

「そもそも、江戸城は約1か月前に無血開城しているのだ。なにも2か月後(閏月が入る)に、上野の彰義隊を壊滅させる必要があるのか。大村は腹の底で、なにを考えておる。慶喜公の一橋家の家臣が彰義隊を立ち上げたというではないか。大村がいうように、彰義隊はほんとうに賊徒なのか。どうも解せない」

「結論をだすまえに、いちど彰義隊を偵察してみよう。拙者が行ってみよう」
 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。
 かれは大勢に取り囲まれた。

「早まるな。拙者は広島藩の浅野家家中のものだ。隊長に取次ぎをしてもらいたい。長州戦争のとき、幕府軍が広島に参集した。海田市で陣を張っていた時の隊長が、もしやこちらにいないかと思って、訪ねてきたのだ」
 藤田は有名な奇才だった。彰義隊の小隊長のまえに案内してもらった。


 広島県海田町の皆さん  越後高田藩が長州戦争で陣営をおいていた
 
「貴藩(広島藩)の海田市で、我が隊は八か月間にわたり、お世話になった。長州との戦闘がはじまると、弊藩は犠牲者も多く出した。貴藩には寺院を斡旋してもらい、死者をていねいに葬ってもらった。あらためて、お礼をいう」

「第二次長州討伐は、わが広島藩は戦争回避だった」
「よく存じております」
 意気投合した。ふたりの話題が慶応三年の大政奉還、同年12月9日の小御所会議へとすすんだ。 

京都御所・小御所会議

「われら彰義隊は、幕府側からみれば、薩摩藩の大久保、西郷の罠(わな)だとおもっておる。慶喜公を参列せず、王政復古派は幼帝(のちの明治天皇)を担ぎ上げる。新しい王政復古の政権が誕生すると、こんどは徳川家に辞官納地せよ、という。でたらめだ」

「わが広島藩浅野家の浅野長勲公、執政(家老職)の辻将曹が、その小御所会議に参列した。しかし、その後は、大久保、西郷の動きが怪しい、これは私的な動きだ、島津幕府を狙っておると、辻将曹や長勲公が薩摩藩と距離をおきはじめた」
 それは鳥羽伏見の戦いが起こるまえだった。

 大久保利通と西郷隆盛は、公家の岩倉具視としめし合わせて、徳川家に約800万石の領地を朝廷に返上させる。それをもって新政府の費用をまかなう、と強引に押してきたのだ。かといって、大久保は島津久光に77万石を朝廷に返上してほしい、と口が裂けても言えない。

「慶喜公は大久保・西郷の悪質な陰謀だと見抜いたのでござる。小御所会議のあと、辞官納地の要求だ。徳川家だけが、王政復古政権に領地を返上するのはおかしい。なぜ、徳川家だけに犠牲を強いるのは不公平だ、という慶喜公が怒るのはわかる。ここから旧幕府側のわれらは、慶喜公の怒りをくみ取り、薩摩がほんとうにを許せなくなった。打倒薩摩藩となった」
 彰義隊の小隊長の説明にたいして、藤田太久蔵(たくぞう)は理解をしめした。
 

 彰義隊の小隊長は、さらにこういった。
「大政奉還のあと江戸や関東周辺で、薩摩藩の狼藉、放火がはじまった。江戸警備の庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれた。(現代でいえば、テロリストが警視庁に銃弾を撃ち込んだのと同じ。)。幕府側は堪忍袋の緒が切れた。薩摩藩をつぶせ、もはや『討薩』が合言葉になった」
 
 勘定奉行の小栗上野介らが、薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちした。海軍をつかって逃げる薩摩藩士を追う。このとき旧幕府と会津藩は、朝廷に「薩摩藩を討つ」という許可をもらうための「討薩の表」を持って京都にむかった。
 そして、華城(大坂城)の慶喜の許に立ち寄った。
 華城(大坂城)/秀吉が築城する 写真=ネットより

 二条城から、慶喜が華城(大坂城)に移っていた。討薩軍らの幹部は、面会した慶喜公から、朝廷から薩摩征討の許可が得られるまで、戦争をしてはならぬ。討薩の許可が出ても、『京都で、銃を放つな。朝廷に銃をむけた『禁門の変』の二の舞いにもなりかねない。一つ間違えると、朝敵になってしまう』と指図した。
 
 鳥羽伏見街道で、薩摩側からふいに攻撃が仕掛けられた。双方で戦闘になった。加担したのが長州、鳥取、土佐、岡山、徳島藩である。


 広島藩の執政(家老)辻将曹は、『これは会津と薩摩の遺恨だ、私闘だ』と言い、広島藩兵に銃を撃たせなかった。前線部隊から辻将曹のもとに、戦わせてほしいと、なんども要望があがってきていたけれど。
「ならぬ。勝てばよいが、もし劣勢になれば、戦闘の舞台が京都に移ってくる。そうなれば、禁門の変の二の舞いになる。朝敵・長州の二の舞いになる」
 それは広島藩、浅野家を守るためでもあった。
 京の都の市街戦を回避する点では、辻将曹と徳川慶喜公と考えがよく似ていた。
 

 この間に、元幕府海軍が兵庫沖で、薩摩海軍を砲撃し、制海権を奪った。旧幕府軍は大阪の薩摩屋敷を攻撃した。そして、慶喜らは蒸気船で江戸に帰っていった。その際、新政府軍には大阪城を無傷で引き渡すな、と指図していた。
 そして、3日間の間に、幕府は金銀や重要書類を榎本武揚海軍で運び出していた。尾張・越前の立ち合いで長州(徳山・岩国)への引き渡式は見せかけであり、当日、智将の旗本(大目付)の妻木頼矩(よりのり)が火薬庫を大爆発させたのだ。
 大久保・西郷らは土壇場で、薩摩屋敷の江戸屋敷からはじまって大坂屋敷も焼かれるし、蓄財をあてにした華城(大坂城)も全焼し、一泡食わせられてしまったのだ。

 慶喜、板倉勝静(かつきよ)、松平容保(かたもり)、松平定敬(さだあき)らは品川にたどり着いたが、王政復古政権から、いずれも朝敵になった。そして、歴史が動き、東征軍が江戸にむかった。そして、江戸城の無血開城となった。

「われら彰義隊は慶喜公を守り、と同時に江戸の治安を守る治安部隊です。賊徒など、言いがかりだ。腹立たしい。憎きは薩摩です」
「わかりました」
「広島藩が敵とは思っておりません。神機隊の皆さんに、そうお伝えください」
 彰義隊の小隊長が東叡山の出口まで、見送ってくれた。
 
 五番小隊長の藤田太久蔵が、泉岳寺に帰ってきた。

「神機隊が大村の要請で、参戦せず、江戸を素通りして奥州の会津に行ったとなれば、広島藩はまた逃げたともいわれるだろう。陣地は上野山の裏手の王子(東京都北区)だ。逃亡兵をつかまえる役だ。神機隊は飛鳥山に陣を張っていよう」

 神機隊は意見を統一し、上野山の戦いに参列した。

 彰義隊は1日で壊滅した。

 翌日には、総督府から神機隊に、輪王寺宮さまが家来を随行させて尾久村に落ちている。探し出して、江戸城にお供せよ、として命じられた」
 神機隊は豪雨のなかで、農家や林間を探す。しかし、輪王寺宮は見当たらなかった。輪王寺宮の所在もわからなかった。その実、奥州まで落ち延びていたのだ。

 芸藩志は次の舞台の飯能戦争にむかう。


 
 彰義隊の墓(東京・上野) 写真・ネットより

 歴史は後からつくられる。この上野戦争を検証する切り口は幾つかある。
 
① 薩摩藩の大久保が岩倉具視と西郷隆盛に謀って、徳川家のみに800万石の領地を返上させるという陰謀がなければ、歴史はどうなったか。

② 大政奉還のあと、薩摩藩は江戸騒擾というテロ活動を2か月もつづけた。江戸市民は恐怖のどん底に落ち込んだ。当時も現代も、無抵抗な市民の命と財産を奪うことは、道徳・倫理の面で許されない。

③ 慶喜は大正時代まで長生きしたが、「長州藩は許せても、薩摩は許せない」と複数の側近に伝えている。

 歴史を見てきた慶喜は、幕末・薩摩の偽がね造り、密貿易、江戸騒擾、辞官納地という陰謀から、おそらく日本流でいえば、ふたりは良い死に方しない、と思っただろう。
 西郷は西南戦争で鹿児島・城山で自刃し、その首が政府軍の山形有朋のまえに運ばれた。令和の今も、賊軍として靖国神社に祀られていない。大久保利通はその翌年、東京・紀尾井坂付近で暗殺されている。

④ 明治からの歴史家は、鳥羽伏見は薩摩側の勝利とするが、果たして、そうだろうか。高輪薩摩屋敷、鳥羽伏見の陸上戦、兵庫沖の薩摩軍艦の沈没、大阪薩摩屋敷、この10日間は旧幕府軍よりも、戦死者の数が多いはずだと類推できる。
 天下を取った為政者たち、不都合な数字はごまかすか、伏せるが常だ。とくに品川沖、兵庫沖の薩摩海軍の犠牲者数の史料はあるはずだが、今日(こんにち)も学者は出してこない。戦死者の逆転が、不都合なのだろう。
 
③ 上野寛永寺の彰義隊は、渋沢誠一郎ら一橋家臣が徳川慶喜を守るために立ち上げたものだ。誠一郎は大河ドラマでも、渋沢栄一と行動を共にし、平岡円四郎に拾われて一ツ橋家の家臣になった人物だ。慶喜に忠誠を尽くす。

 彰義隊の特徴のひとつは、慶喜と同様に、幼帝を担いで勝手な振る舞いをした薩摩の大久保一翁・西郷が天皇家を利用した私欲とみなし、「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成していることだった。

 彰義隊はほんとに賊徒だったのか。これらは大河ドラマの「青天を衝け」で、どう描くのだろうか。興味深い。
 
④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。

 私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。

 薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
 南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
 分断の国家が歴史的事実ならば、公表しても、国民はすなおに受け入れるとおもうけれど。

 

藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか、RCCラジオ7月9日放送

RCCラジオ(中国放送)で、毎月第2土曜日の9時05分から『歴史スペシャル』で、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されています。

(2021年)7月9日は、『藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか』というタイトルです。

 幕末の歴史で、広島藩がどう関わったのか。薩長という言葉はよく聞くが、広島について語られることは少ない。なぜか。たしかに広島藩は42万石の大藩であり、「日本外史」の頼山陽を生みだすほど皇国思想の要の藩でありながらも、「天下の駄藩」と蔑まれるほど、政治に関わっていません。

 ペリー提督の来航、水戸藩からの尊皇攘夷、長州の過激攘夷論、桜田門外の変、薩摩による公武合体論、文久の改革、と幕府の根幹が一気に崩れますが、広島藩は我関せずです。

 その理由のひとつとして、浅野家は徳川御三家に近い血筋が多々入っている。かたや、豊臣政権時代には、浅野長政が五奉行の筆頭(内閣総理大臣)という、複雑な立ち位置にあったからです。
 そんな広島が急激に動いたが「禁門の変」で、長州藩の毛利家が朝敵になり、孝明天皇の征討の勅命が幕府に出たときからです。
 長州戦争を前にして、幕府と長州を仲介する役がいない。まわりの諸藩は逃げ回っていた。ならば、徳川系にも、豊臣系にも、顔がきく広島藩が双方の仲介役を買って出たのです。
 ここから、広島藩が強烈に幕末歴史に登場してきます。  

【今回の放送内容のあらすじ】

 総督の尾張慶勝(元尾張藩主)と参謀・西郷隆盛(薩摩藩)らが、孝明天皇から幕府に朝敵の長州を討て、という大命題に添わず、毛利敬親・親子の処分を行わず引き揚げた。
「芋の悪だくみに、慶勝は乗せられた」と一橋慶喜の怒りを買った。そこで、14代家茂将軍を江戸城から大坂城へと出陣し、諸藩にふたたび出陣を要請した。


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  越後高田藩の出兵風景。明治最後の絵師:揚州周延(橋本直義)の作

 35藩のいずこも、「わずか四か月のあと、また長州出兵か」とウンザリ。戦意もなく、死にたくないし、武器砲弾も自前だし、それも消費したくない。厭戦気分だった。

 ちなみに、越後高田藩は、幕府の第二次長州征伐の出兵要請で、4500人の藩兵は慶応元(1865)年5月に大阪に向けて出発した。幕府の方針が細部で煮詰まらず、半年は大坂で無為に過ごす。やがて、大坂から広島藩領の海田に12月に到着した。ここからも明日の戦いはやるのか、やらないのかと、長期に7カ月も滞陣する。厭戦ムードは高まるばかり。

  かれら国元、あるいは江戸藩邸を出てから延べ13カ。妻子や家族を想う望郷の念の書簡が多く残されています。

「なんで第一次で決着できなかったのだ』と不満が募る。第二次長州征討の戦いに勝ったところで、幕府から報奨金が貰えるわけではない。兵士にかかる衣食住と宿賃は、幕府の補填がなく、すべて藩の負担になる。

            *

 広島藩は「この2回目の征討には大義がない」と猛反対だった。
 慶応2(1866)年6月には5月、広島藩学問所(現・修道高校)のOB・若者たち55人が、前線基地の広島にきていた老中・小笠原にたいして暗殺予告まで行う。騒然となった。広島藩は藩主・長訓、世子・長勲の仲介で、広島藩出兵拒否で解決を図った。

 翌6月には、第二次長州戦争が勃発した。6月は長州軍は岩国から大竹・大野に入り、旧式武装の彦根藩、高田藩を打ち負かし、広島城下に近い廿日市、五日市に勢いよく進軍した。
 それを見た幕府は真剣になり、フランス式最新部隊の紀州藩を芸州口の最前線に投入してきた。紀州藩は互角以上に戦うし、沖合の幕府軍艦から連続して艦砲射撃で長州兵を打ち負かす。長州藩は岩国に近くまで逃げ帰った。

 芸州広島藩が乗りだし、安芸領(広島領)で戦争するな、領民が迷惑だと言い、長州軍と幕府軍の間に割り込んだ。戦争以前の状態にもどさせた。
 芸州口の戦いは、後世で言われるほど、長州の勝利ではなかったのだ。

1か月後の7月、大坂城で、14代家茂将軍が20歳の若さで死去したのである。
「将軍が死去して、本州の外れの一藩と関わっている暇はない。勝海舟、休戦してこい」
 一橋慶喜の命令で、海軍奉行の勝海舟が単独で広島城下にやってきた。広島藩の執政・辻将曹が勝と面談したうえで、宮島(広島県)で、双方の休戦協定が結ばれた。

 長州は、馬関海峡をはさむ小倉藩との戦いでも、九州男児の死に物狂いのゲリラ戦だの、小倉城を自焼するだの、決して楽な戦場ではなかった。沖に幕府海軍の軍艦が終結している。まだ、火を噴いていない。
 長州側も、徹底抗戦し、大坂、京都、江戸に攻め入る力などない。辻将曹の和解に快く乗ってきた。9月初旬に、幕府と薩摩との和平協定が結ばれた。しかし、長州の朝敵と、毛利家処分問題が解決したわけではない。たんなる戦争の現状維持の停止だった。

 この慶応2年12月には、ペリー来航以来、朝廷政治を取り戻そうとする孝明天皇が死去した。政治が混沌としてきた。ただ、長州の朝敵が外れたわけではない。

 その後においても、幕閣(江戸城組)は、未解決の毛利処分を言いだす。芸州広島藩などいくつかの諸藩に、萩城の毛利敬親・定広の親子を捕縛し、江戸に連れて来い。処分は江戸で命じるからという。
「そんなことはできるはずがない」
 どの藩も拒否すると、幕閣はならば、第三次長州征討を言い出す。

「ここで3度目の長州征討をやれば、疲弊した民は塗炭の苦しみに陥る。西洋諸国は、内戦を口実に内政干渉し、植民地になる恐れがある。こんな幕府は政権を朝廷にもどさせよう」

 広島藩主の浅野長訓、世子の長勲はそう決断した。慶応三(1867)年正月、広島藩の執政・石井修理が老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に「大政奉還の建白書」を提出した。これは一般にいわれている後藤象二郎の「大政奉還の建白書」よりも、10カ月も早いものだった。
 しかし、幕府は拒否でもなく、無視だった。


写真=ネットより
                
 この慶応3年5月に、幕府と雄藩の有力大名との「四侯会議」が京都で開かれた。「長州藩処分問題」と「兵庫港の開港問題」が主要課題だった。
 島津久光(薩摩藩)が音頭を取り、松平春嶽(前越藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)らによる幕府の諮問会議の形態だった。ただ、薩摩のイニシアチブを嫌う德川慶喜が、この「四侯会議」を分裂・解体させたのだ。

         *
 
 「四侯会議」の分解をみた広島藩は、幕府に期待するものがないとして、「大政奉還」を藩論とした。執政の辻将曹など、多くの有能な広島藩士が、大藩に「大政奉還」に働きかけた。薩摩、土佐。さらに岡山藩、鳥取藩、徳島藩などである。


 御手洗港(広島県・大崎下島 写真)で、薩芸交易が盛んにおこなわれている。かたや、宮島(広島県)で芸長交易がある。これは薩摩、長州、広島は深い三角貿易の経済圏であった。
 この3藩がやがて結びついて、薩長芸軍事同盟ができる。
 
 まず、広島藩の辻将曹の働きかけ、薩摩の島津久光が「大政奉還」に乗ってきた。薩摩家老の小松帯刀も賛成した。小松が札度同盟土佐藩にも持ち込む。後藤象二郎は山内容堂から、建白書の提出は良いが、武力圧力に反対された。

 広島藩は、この「四侯会議」の空中分解を機に動き出す。まず、薩摩藩の島津久光、
「土佐がダメならば、朝敵の長州を誘い込もう」
 小松帯刀の奇策に対して、長州は待ちに待っていたと乗ってきた。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれた。

 ただ、後藤象二郎が抜け駆けで徳川慶喜将軍に、大政奉還建白書を出した。慶喜が公議政体論者でもあったことから、これにのって政権を朝廷に返還した。朝廷も受理した。
 
 大政奉還のあと、藝州広島藩は藩論が割れた。鳥羽伏見の戦いが勃発したが……。広島藩は非戦を唱えた。広島藩は伏見街道に、軍隊を出しながらも、辻将曹は一発も撃たせなかった。「これは薩摩と、会津の遺恨に過ぎない戦いだ」
 その認識が、広島藩の幕末の存在を消してしまったといえる。

 広島は日和見主義、臆病風が吹いた、と侮られた。これが広島に伝わると、かれら神機隊の320人は憤り、戊辰戦争の関東、奥州への出兵を決めます。広島藩の藩政府は彼らの出兵を認めなかった。すると、神機隊の320人は全員が脱藩届を提出し、自費をもって、出兵します。

 第二次長州征討には小笠原老中を暗殺してまでも、無益な戦争を止めようとしていた若者たちです。それなのに、かれら若者は命を惜しまず、出兵します。そして、最も激戦地を選び、戦います。

 くわしくはこちらからお聞きくださいからお聞きください

徳川幕府を揺るがせた「攘夷思想」の誕生 

攘夷思想は「黒船とペリーが原因」だと歴史教科書では教えられていますが、「実は、そうではない」と、穂高健一が判りやすく解説します。

① 開国派、攘夷派とは

② なぜ、水戸徳川家が攘夷論を言い出したのか?

③ 孝明天皇は、どうして攘夷派になった?

④ 尊王攘夷は正しいのか?

 この①から④まで、幕末史ではとても重要です。薩長史観では、これまでかなり史実が曲げられてきました。穂高健一が、より歴史的事実に近いところから解説しています。

 「広島テレビ・カルチャーセンターにて」

広報室  山澤直行


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作者が取材から語る「安政維新・阿部正弘の生涯」

 日本の国難を救った人物は、北条時宗、阿部正弘だと言われています。
 みなさんは、どの程度、阿部正弘を知っているでしょうか。もし、39歳で死去した老中・阿部正弘がわが国にいなければ、尊皇攘夷論の旗の下で、強烈な軍隊をもった西洋列強と戦争したでしょう。そして、清国のようにアヘンがまん延し、わが国はまちがいなく殖民地になっていたでしょう。
 薩英戦争、下関戦争、という薩長の悲惨な負け方からも、かんたんに想像がつきます。

「夷狄に打ち勝つ。それが大和魂だ」。この尊皇攘夷思想は、とても危険な思想です。第二次世界大戦まで、軍部を支えた中枢の思想です。
「勇ましく西洋人に打ち勝つ」.日本は古来、二度の蒙古襲来で、『神風が吹いた』という神がかりから、北条時宗は1945年の原爆投下、敗戦日まで、神さま扱いです。実際に、学徒、予科練、あらゆる若者が徴兵されて、「神風特攻隊」と名のもとに、命を失くしました。

 かたら、軍国主義の目線から、「ペリー提督が浦賀にきたとき、阿部正弘は蹂躙(じゅうりん)させられて、開国した」という、水戸藩の徳川斉昭の法螺(ほら)を太平洋戦争末期まで、引きずりました。

『北条時宗は英雄、阿部正弘は日本を売った』、という歴史のねつ造が軍国教育でまかり通っていたのです。

                *

 アジア、アフリカ、南アメリカを見わたせば、日本が唯一植民地にならなかった国です。厳密にいえばタイ国も半独立を保てていました。この国は疫病のまん延で、西洋諸国の軍隊が入っていけなかったのです。
「西洋は強烈な武力をもってくる。日本は優秀な人材を選りすぐって外交で勝つ」
 これが阿部正弘の戦略です。
 
 阿部正弘が老中首座のときに設立したのが「誠之館」です。いま広島県立誠之館高校になっています。小学校は東京都文京区の誠之館小学校です。いつ設立されたか。皆さんはご存知ですか。嘉永6(1853)年12月です。

 この年にはペリー提督が6月3日に浦賀にやって来ます。ペリーはアメリカ大統領の国書を持参し、来年には回答をもらいに来る、と立ち去ります。すぐさま、第12代德川家慶が急死し、身体障害者の家定が13代将軍になります。
 すべての責任が老中首座の阿部正弘の力量にかかってきます。
「德川御三家」が幕政に口を出すのは家康の時代からご法度(同族の政治は短命だという家康の考え方)。老中政治が250余年支えてきました。
 しかし、水戸藩の斉昭は、老中首座の阿部にたいして攘夷を振りかざします。神風が吹く、大和魂で退治せよ、と執拗に申し出ます。阿部は拒絶します。
 そういう多難な同年に、阿部正弘は江戸と福山に、人材育成のために「誠之館」を設立するのです。
 こんなすごい人材主義の阿部正弘は、日本人の誇りだと思いませんか。現に、植民地にはなっていません。


 誠之館高校の会報の5月号に、穂高健一が「阿部正弘について寄稿しています。

 (写真を左クリックすれば、内容が読めます)


こちらからPFFで読めます

                    広報室 山澤直之 (監修・穂高健一)

作家に学ぶ歴史講座「激動の幕末広島藩」=広島城内

 歴史は人間の英知がたっぷりあります。将来に生きるためには、過去の歩み、歴史をヒントにする。
 広島の人は、歴史に疎い。毛利元就から原爆まで、大半の人が認識していない。原爆の被災者から、憐れみを語れば、世界に通用してきた広島だった。もはや原爆三世の時代です。生々しい悲惨を語り、被曝の同情だけでは前にむかっていけない。
「世界遺産」として物理的な歴史的な建造物になった。

「なぜ、広島に原爆が落されたのですか」という質問にも、大半の広島人は応えられない。それが明確に答えられなくても、自分たちの歴史を知らなくても、世界から国から被曝支援金が入ってくるのです。

 一言でいえば、150年前に「尊王攘夷」という思想がなければ、広島、長崎には原爆が落ちなかったでしょう。それを簡略にわかりやすく説明できないようでは、広島人はなさけないと穂高健一は常に語っています。

 人類はつねに疫病、戦争、飢餓という三大災害と戦ってきた。日本人はどんな風に戦ったのか。そこには英知がいっぱい詰まっています。

「いまからでも遅くない。歴史を学ぼうよ」と広島人に語っています。

 広島県大崎上島町出身者から、穂高健一は広島の恥部でも語れるのですよ。他府県の人は遠慮して、広島は原爆に寄りかかりすぎると語れないでしょう。故郷愛がとても強いから、広島の事を思えばこそ、耳ざわりのことも言うのですよ、と語る。

  【写真を左クリックしても、YouTubeに入れます


作家に学ぶ歴史講座「激動の幕末広島藩」


 講演日は2019年9月8日、広島城内

戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

 戊辰戦争は、なぜ幕府軍は負けたか。戦争はお金がなければ、勝てない。それを150年間も隠し続けたのが、学者や歴史作家である。
「学者が隠す、薩摩藩の悪質な密貿易、贋金づくりが徳川家をつぶした」

穂高健一が史料から、暴露する。

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戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した