A020-小説家

岡山城で、あの武将に巡り合う

 広島には1時間余りの日帰りの用があった。交通費はかかることだし、東京にトンボ帰りにしても勿体ないし、岡山に立ち寄り、後楽園と岡山城に行ってみようと決めた。ある意味で単なる気まぐれだった。
過去に一度、岡山城には足を運んだはず。だが、どんな城だったか、記憶のなかには残っていなかった。


 東京を発つ前日の、深川歴史散策の折り、PEN仲間の山名美和子さん(歴史作家)に、岡山城に立ち寄る話題をむけてみた。
「旭川の方からみた岡山城は素敵よ。日本の城のなかで最も好きな一つね」
 そう賛美してから、
「正面から見た岡山城は、どでーんとして、面白くないけど」
 とつけ加えていた。
 正面よりも裏側が美しい。社寺仏閣にしても、そうざらにある話ではない。

 4月20日の午後は曇天で、ときに小雨が降っていた。後楽園を見学してから、同園の南門を通り、旭川に架かった橋を渡りはじめた。そこから見た4重6階の天守閣はまさしく美城だった。ほれぼれしながら、カメラのシャッターを切った。
 カルチャーなどのPHOTO教室では、
「風景写真は絵葉書的で面白くないし、他人に見せても感動しない。人物は必ず入れなさい」
と指導している。
 その手前もあるし、鉄橋には通行人などいないし、程ほどに数枚撮って止めた。城址に入ると、ジャージーを着た、京都の女子高生たちが散策していた。彼女たちを取り込むかなと思うが、タイミングが合わない。


 岡山城の概要の案内板を読んだ。宇喜多秀家が城郭を建造した、と明記されていた。
「えっ、あの宇喜多秀家(うきた ひでいえ)だ」
 私は大声で叫びたくなった。それは小説の習作時代に、取り上げた人物だったからだ。


 私は28歳から腎臓結核の長い闘病生活に入った。読書三昧だったが、そればかりでは面白くないので、2年後の30歳のとき、小説を書いてみよう、と決めた。

 数年後に社会復帰は果たしたが、すぐさま膀胱腫瘍とか、病いの連続だった。人生は悪いことばかりでなく、他方では直木賞作家の伊藤桂一氏と巡り合い、長く指導を得ることになった。

 私は純文学の小説にこだわっていた。ハードルは高いし、文学賞ははるか彼方に思えた。小説で食べられなくてもよかった。死ぬまでに一冊でも良い、後世に残る作品を書きたかったからだ。


 恩師の伊藤先生は現代小説のほかに、人情豊かな時代小説を書くし、私も多少は影響され、時代小説とか、歴史小説とかを習作として書いていた。

 歴史のなかでも幕末史が好きで、西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟など取り扱ってみた。出版社の編集長から、「どの出版社も、大物作家にならないと、有名な歴史上の人物は新人では取り上げてくれないよ」と言われた。

 そこで歴史小説の人物探しで、伊豆下田に足を運び「下岡蓮杖」とか、瀬戸内の能島・因島の村上水軍とかを取り上げていた。創作の前後は忘れたが、そのなかに宇喜多秀家がいたのだ。

「あの秀家を書くために、この岡山城に来たことがある」
 秀家の生涯はわりに覚えているが、城を見た記憶はほとんど残っていない。およそ、正面から見た城は面白くないから、印象から消えていたのだろう。

 秀家は母親と秀吉の艶の関係から、豊臣の養子になった。豪姫(前田利家の娘)を妻とする。やがて岡山城主となり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将だった。破れたあと、変装し、鹿児島・島津家を頼って落ちた。しかし、家康に情報が洩れて、やがて八丈島に流された。

 豪姫とは永遠に会えず、なんと50年間の流人生活という、波乱に満ちた人生だった。とくに流人の50年間に視点を当てた習作を書いたのだ。
 あの生原稿は世に出ることもなく、自宅のどこかで眠っている。


 訪ねた天守閣内では陶芸教室「備前焼工房」があった。私はいまの自分に戻り、「城と人」という視点から撮影を申し込むと、快諾が得られた。
「きょうがオープン日なんですよ」
「えっ、初日なんですか。運がいいな」
 そんな偶然の出会いを味わう。
 丸皿、小鉢、湯飲み、箸置などの「土ひねり体験」コーナーである。 体験教室の指導員の3人には、制作過程や粘土の特性などを訊きながら、場面ごとに撮影させてもらった。
 後日、焼きあがった完成品で受け取ることができる。こうしたプロセスも笑顔で親切に教えてくれた。

「小説家」トップへ戻る