元気100教室 エッセイ・オピニオン

若い奴たち 青山貴文

 真夏の深夜の静けさを破り、数人が奇声を張り上げて、我家の団地を通り過ぎていく。どうも、話し声からすると、3~4人の若者らしい。


 最近の若い奴の中には、他人の迷惑を考えない連中がいる。それ故に、彼らも仲間内で元気を出しあっているのだろうと、余りカッカとしない。
 私も、若い頃、もっと悪質な近所迷惑をやったものだ。


 思えば、40数年前の真夏の一夜がよみがえって来る。蒸し暑い夜であった。
 それは私を含めた3人の酔っ払いが、熊谷市美土里町の飲み屋街を2.3軒はしごして、半キロ先の我家の庭まで歩いてやってきた。


 美土里町は私が勤めていた鉄鋼会社の熊谷工場と我家との丁度まん中辺に所在している。その界隈には、航空自衛隊の基地や工業団地があり、隊員や工場員の飲み屋街になっていた、
暗い夜空に煌々と月が輝いていた。酒を飲み、無性に体がほてり、力がみなぎっていた。3人は、私の芝生の庭で、大声を張り上げて万歳三唱を繰り返す。

 隣家の明りが一つ、二つと点く。
「ウワ! 点いたぞ。点いたぞ」
 私たちは、小躍りして芝生を転げ回る。 
「ご近所の皆さん。本日、青山の長女が生まれました」
 と、私より10歳くらい年上の成沢さんが大声を発する。
 彼は、私に似て太っていて、酒が余り強くない。ただ、だれとでも付き合いがよく、話しをよく聞いてくれる。10人くらいの若手工員を統率し、普段は仕事熱心な本間製作所の営業を兼ねた工場員だ。本間製作所は、私の勤めていた鉄鋼会社の金型部門を担ってくれていた。

 すると、もう一人のがっちりした体躯の男が、おもむろに立ち上がり、直立不動で野太い声で、演説をはじめる。
「酔っ払いの青山は、今日やっと一児の親になりました」
 と、厳粛な口調で話す。
 彼は私とほぼ同じ32歳位で背格好も同じだ。本間製作所の跡取りで私よりはるかに貫禄がある。私と違って酒が強い。バーに行っても、私のように女性といちゃつかない。
 泰然として、酒を飲む。金があるから、他のところでうまくやっているのかと思っていたが、どうも仕事以外に余り興味がなかったようだ。
 また、二つ三つと数軒先の家の光が点灯する。
「青山も、挨拶をしろよ」
 と、本間がうながす。
「ええ、ただいまご紹介に預かりました青山でございます。日々、細君がいろいろお世話になっております。本日長女が生まれまして、・・・」
「元気がないぞ!」
 と、本間と成沢が大声を張り上げる。

 喋っているうちに、自分も人の親になったのだと、何か嬉しさがこみ上げてくる。飲み友達とはそんなお膳立てしてくれるものだ。今思えば、わたしたちは若くて、希望に燃えていた。

 翌朝、南隣の岩下さんが、
「昨夜は、御機嫌でしたわね」
 と、にこにこされる。
 内実は、「うるさかったわよ」と苦言であったと恐縮しているが、今は引っ越されて居られない。

 わたしは、そのころ昼間は青色の作業服を着て、振動粉砕機の騒音の中で、重油炉の灼熱職場を走り回っていた。
 その反動もあり、週末になると冷たいビールを求めて、飲み屋街に作業服で繰り出したものだ。よくぞ、体が持ったもんだと思う。

 その後、仕事一途な本間さんは、そのころの数十倍の収益を上げる中堅企業に育て上げ、今は会長に納まっている。温厚な成沢さんは平穏な老後を過ごされ、すでに鬼籍に入られた。
 酔っ払い3人に祝福された長女は、2人の子供の母になっている。
 先日は奇声を張り上げて、団地を通り抜けて行った若い奴らも、今日も元気でやっているだろう。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

有名になりそこなった = 月川 りき江

 今日は忙しくて疲れた。孫の転宅手伝いに朝から行き良く働いた。私は長い間の転勤族なので、引っ越し手伝いはお手のものと言ったものの、やはりそれは若い時の話で、この老齢ではさすがに疲れた。

 私はいつも疲れた時、卵の黄身だけを二個飲む。黄身にお箸の先でチョンと穴をあけ、お醤油を二、三滴落としてそのまま飲む。美味しくて、身体の細胞に栄養が行きわたるように感じる。が、今日の卵は違った。

 割った途端「キャーッ」と声がでた。
 卵の中に黄身の横に1、5センチ位の肉団子のような物がある。これはなんだろう。気持ち悪い。ひよこに変わる前だろうか?
 すぐに流しの三角コーナーゴミ入れに捨てた。しかしフッと(これは捨てちゃいけない。テレビや新聞に取り上げられるしろものではないか?)と思った。

 何かの研究資料となり、新聞やテレビに出て、私は有名になるのではないかと、頭のなかを駆け巡った。それには証拠の為に写真に撮らなければ、と思って、三角コーナーの中から捨てた卵をお皿に取りあげた。
 この時、黄身をちょっと傷つけた。写メに撮ったが、捨てる前だったら黄身と肉団子がはっきりしていたのに、黄身がダラリとながれた写真になった。


 しかし、これはなんだろう、どこで調べればいいのか。パソコンで調べるにしても言葉は何と検索するのか。
 まず生活消費者センターに電話をした。クレームを言うおばさんと思われたくないから電話に出た人に、
「苦情を言うのではありませんから」
 と最初に念を押して事情を話した。
 その人も「わかりませんね~。聞いたことありません」と言うだけで隣の人に聞いている。隣の人は
「詳しい人がいるから聞いてみます。しばらく待ってください」
 と言って別の人を電話の側につれてきた。

 声は年配の人のように感じた。
「それは卵の殻が異変を起こして出来るもので、ミートスポットといいます」
 と教えてくれた。
 解ったのはいいが、私は途端にがっかりした。テレビや、新聞にでも出るかな、と少々期待していたが、それほどのものではないと解って、張り切っていた馬鹿な自分に苦笑した。

 しかし、その人は「めったにお目にかかれるものではありませんよ。良い体験をされてよかったですね」と言われた。まあ、それだけでも良しとしよう。
 すぐにネットで「ミートスポット」を調べた。
 見ると、世の中にはたくさんあるのだ。食するには何ら問題はない。と書いてあるが、とんでもない。私は八十三年生きてきて初めて見た。
(若い鶏も産むが、老齢の鶏が産むことが多い)
 と書いてある。

 人間の老女は役にたたないが、老鶏は卵も産めるのだと、にがにがしく思った。 さっそく、私より若い高齢者の友人にメールで事情を話した。
「老齢でも卵の産める鶏は幸せね」と返事がきた。
「実感こもっているね~」
 と二人で笑った。

 あれ以来、最初見た風景が脳裏にやきつき、気持ちが悪くて卵の黄身を飲めなくなった。今は疲れた時はもっぱらドリンク剤だ。
           
              イラスト:「フリー素材集 いらすとや」より

お茶会 = 筒井 隆一

 ここ靖国神社の境内は、新緑が美しい。

 今日は和服で正装した二人の女性と待ち合わせ、本殿の裏手にある「洗心亭」で開かれるお茶会にやってきた。
 我々三人を招いてくれたのは、中学・高校同期の男だ。彼は後期高齢者になるまでサラリーマンを勤め上げ、この三月で退職した。
 数年前から、飲むたびにこぼしていた。
「仕事一本で、僕には趣味、道楽がない。退職後は何を楽しみに過ごせばいいのかな」
「趣味、道楽なんてものは、待っていてもできるものじゃない。俺もこれからの人生楽しんで生きていこうと、道楽つくりにはずいぶん金と時間をかけたよ」
 私も、えらそうな説教をしてきた。


 私のアドバイスを、まともに受けてくれたのか、彼は退職の二年ほど前から、茶道の稽古を本格的に始めた。
 元もと彼の母親は裏千家の大師匠で、茶道教室を開き、手広く後進の指導をしていた。十年ほど前に亡くなったが、彼も生前の母親の教室に出入りしていたので、それなりの知識と素養は、持っていたのかもしれない。
 母親の一番弟子だった女性を師匠として、稽古に励んだようだ。今日のお茶会でお披露目をするから、ぜひ来てくれ、と招待してくれた。


 私は、茶道は日本の大切な伝統文化とは思いつつも、妙な気取りがあると勝手に極めつけ、馴染めないでいた。茶席では、政治、経済、宗教などの話をしない。議論を避け、文化の薫り高い会話をしなければならない、と聞いていた。
 加えて、茶器、花卉、掛け軸などを、見え透いたお世辞で褒めちぎる。どうも私の好みに合わない。そのようなわけで茶道とは縁がなく、本格的な茶席は今回が初めてだ。

 私の初陣を心配して、家内があれこれ指導する。扇子、懐紙、黒文字を取りそろえ、白い靴下を準備し、
「畳の縁は踏まないように」
「茶器を拝見する時には間違っても高く持ち上げないように」
 などなど、基本的なマナーを教えてくれる。
 家内も長年お茶を続けているので、気になるのだろう。まず入門書を一冊読まされた上、手持ちの道具で、リハーサルをしてくれた。

 同行した同期の女性は、二人とも茶道の嗜みがあり、うち一人は、自宅で弟子を取って指導するほどの実力者だ。彼女が正客となった。
「筒井さん、私の隣に座って次客でやればいいわ。私のやることを見ながらその通りにやってちょうだい。分からなければそっと聞いてね」
「君が隣にいてくれれば心強いよ。よろしく頼む」
 席に案内された。正座をするのに座布団がない。
 お茶をふるまって客をもてなすのに、座布団もないのかと、まずおどろいた。お茶はもともと修練の場だったとかで、その名残が残っているのだろうか。

 亭主が静々と出てきた。着慣れぬ和服の裾を踏むのではないかと、はらはらしながら見ていたが、無事所定の位置に着き、お点前の開始だ。

 お点前が進むうちに、正客と師匠との対話が始まった。
「本日はお招きをいただき、ありがとうございました」
「ご多忙中にもかかわらず、皆さまお揃いでお出かけいただき、誠にありがとうございます。ちょうど時候もよろしく、結構なお茶事となりました」
「お軸も時節に相応しく、結構に拝見させていただき、目の保養になりました。どちらの作でしょうか」
 これらの対話を聞き、経験を積んだ茶人同士の会話で、よどみのない立派なもの、と感心した。
 反面、形式的で、表面的で、薄っぺらなやり取りだ、と複雑な気持ちになる。

 菓子を取り分け、お茶をいただき、茶器を見るときも、その都度次席の人に「お先に」「お先に」と言わなければ、ことが進まない。何回言わなければいけないのかと、ぞっとする。


 半面、日常でも人を差し置いて、我先に物事を進めるのでなく、譲り合いの心を大切にするように、という教えかもしれない。
 誉め言葉の洪水に抵抗を感じていたが、席が進むにつれ、それにも慣れ、歯の浮いた言葉のやり取りにも、抵抗を感じなくなってきた。
 そして、人を招くときの心得、招いた客をどのように誠意を尽くしてもてなすか。自分にはできないし、やりたいとは思わないが、参考になった。

 茶席が終わり、彼が私たちを見送りに来た。
「今日はありがとう。ガチガチに緊張したが、君たちが見守ってくれている、と思ったので少し気が楽になった」
「俺の方も正客と次客だったので、お前さんの立ててくれたお茶を飲めてよかったよ。美味しかった。でもマナーには、とてもついていけないね」
 招いた客に気を配り、喜んでもらえるサービス精神が発揮される。招かれた側は、亭主の意図を受け止め、心尽くしに率直に感謝の意を表す。

 その誠意の交換が、人と人との間の理解と共感を生むのかな、と少しわかった靖国神社の一日だった。


                  イラスト:Googleイラスト・フリーより

世界の子どもに良い本を = 桑田 冨三子

 1912年に「世界の子どもに本を届ける」という国際シンポジウムがあった。私を含めて子供に良い本を渡す運動をしているJBBYの人達の報告会である。

 皮切りは、朝日国際児童図書普及賞に輝くカンボジアのNGO・SIPARであった。若い男性の発表者は、大きな目をくりくりさせて、希望に満ちあふれた調子で話した。

「30年前の暗黒の歴史を知るカンボジアの若者は少ない。1970年代のクメール・ルージュ独裁との長い内戦で、失われた大切なものを取戻すために、自国の本の出版や、図書館の充実などに最大の努力を払っている。」
 日本からは3・11の震災地を廻る図書館バス「あしたの本プロジェクト」に携わった斎藤紀子さんの報告があった。

 気仙沼にバスを停めた時、4歳の女の子が飛び込んできた。いきなり、
「地震なんかコワクナイ」
 と凄い形相でさけび、繰返しさけんでいる。
 顔が極度の緊張でひきつっている。斎藤さんは思わずその子を抱きしめた。
「一緒に本を探そうね」
 やさしく話かけ、本を選ぶ。
 しばらくすると、女の子の顔がだんだんと、やわらいできた。家で、地震がコワイと言っちゃ駄目と言われた。
 子ども心に地震はコワクナイ、と自分に言い聞かせては、それを大きな声で叫ばずには居られなかったという事だった。

 陸前高田の女の子の話である。
「ア、この本、前、家にあったよ」
 といって『赤頭巾ちゃん』を取り上げた。ついてきたおばあちゃんが、
「この間借りた本じゃないの、他の本にしなさい」
 しかし、その子は頑としてきかない。
 次にやって来た時も、その子はまた、同じ本を選んだ。亡くした本が忘れられず、何度も何度も読むのだろう。


 IBBYの元会長でガテマラ生れのカナダ女性、パトリシア・アルダナは精力的に世界を廻っていた。その時の話をしてくれた。
 レバノン、ガザ地区へも行ったが、アフガニスタンのカブールに入った時は、搭乗した飛行機に危険が迫った。
(ここで撃たれて死ぬのだ)
 と何度も思ったそうだ。しかし、飛行機は奇跡的に無事についた。

(こんなに危険でひどい時期に、アルダナは本当にやって来るはずはない)
 そう思っていたカブールの仲間たちは、感嘆し、大歓迎をした。

 一番先に出迎えたのは、年老いた白髪の女性であった。悟りの境地にあるような、落着き払った長老の態度に、アルダナは、不安定な日常を過ごす仲間たちは きっと、この長老に厚い信望をよせているにちがいないと確信したそうだ。


 カブールの冬は厳しい。凍死する子も出る。そんな厳しい状況下でのIBBYの活動は勇気ある挑戦であった。子どものための学校を開くことである。
 仲間たちは活動名をアシアナと名乗っていた。どこにでもテントを張り、中でアシアナ学校を開く。子どもは親の手伝いをしたり仕事に出たりして、なかなか学校へは行かれない。
 建物よりはテントの方が来やすいらしく、好まれるから、テント張りの学校にしたとのことだ。テント教室の方がずっと効果が高いという。
 テントを開くと、子ども達はすぐに集まってくる。嬉しそうに、しかも、走ってやって来る。
 その喜び勇んで走ってくる様子を見るのは、教えるものにとっては、確信を新たにし、至福となる。子どもたちはテントの中で喜んで教科書を開き、読書を楽しみ、給食を食べて、帰って行くという。


 どの話もみな素晴らしい感激的な報告会であった。運動に携わる者は時として
「一体、自分は何をしているのか?」
 と疑問を持つが、仲間が頑張っている話を聞くと励まされ、やっぱり続けて行こうと思う。


               イラスト:Googleイラスト・フリーより

思いがけない発見! = 廣川 登志男

 5年前の夏、「御府内八十八ヵ所めぐり」をした。会社を卒業したてで巡礼などをしたいと思っていた時だ。四国八十八ヵ所は少し遠すぎる。ならばと、近場の「府内」、これは都内中心部になるが、その八十八ヵ所巡礼に出かけた。

 巡ったお寺さんそのものも興味深かったが、途中での「へー。こんなところがあったんだ」と、名前だけは聞いていたが、実際には行ったことのない神社仏閣や史跡、それに美味しそうなお店など、多くの発見に驚かされ、見聞を広めることができたのは収穫だった。
 というのも、巡礼のほとんどを歩いてまわったので、いろいろなことに出会えたのだと思う。一日にだいたい八時間、延べ十一日ほども歩き回ったのだ。


「街歩きも結構面白い」と、その後もいろいろな街や史跡めぐりに興じた。
 昨年の春には、何度目かの皇居散策に出かけた。東京駅を出て、駅中央の御幸通りから皇居に向かった。
 和田倉噴水公園の素晴らしい噴水を右に見て、内堀通りに差し掛かる。目の前には桔梗濠(ききょうぼり)があり、奥に巽櫓(たつみやぐら)が二つに重なった白壁を陽光に映えらせて、美しい姿を見せてくれる。

 皇居というところは、松の緑に、重層な石垣、白壁と瓦屋根の櫓、それに濠の水面などが、我々を楽しませてくれる。ときには、大きく枝を広げたソメイヨシノが、淡いピンクの花吹雪を、石垣と濠の水面を借景に、えも言われぬ日本的な風情で見せてくれる。


 通りを渡り、巽橋の写真を撮ろうと、濠の角に歩いていくと、石畳の一角に何やら花を刻んだ石板がある。五十センチ四方くらいで、何だろうと覗くと「宮城県 みやぎのはぎ」と刻んである。
 どうも県花のようだ。勿論、写真を一枚。元々、皇居を一周しようと来たので、そこから北にある大手門に向かって歩いた。ちょうど百メートルほど歩いたところに、また一枚の石板がある。
「秋田県、ふきのとう」とある。
 続いて山形県、福島県と続く。私の一歩は、およそ85センチ。なので百十八歩で百メートル。歩きながらそれぞれの石板の間隔を調べると、ほぼ百二十歩前後だったので大体百メートル間隔で設置されているようだ。

 それにしても、皇居には何回か来ていたが、こんな石板が埋め込まれていたのかと驚いてしまった。いつ頃できたのだろうかと疑問に思っていたら、一周ぐるりの最後のころ、二重橋前の信号付近で、県花の石板とは違うのがあった。
 2枚あり、両方とも桜の花柄で、「花の輪 平成五年」とある。今から二十数年前に作られたのだろうか。

 少し手前の桜田門近くに大分県と宮崎県の石板があるが、その中間に、「花の輪 案内」の石板があった。
 なるほど、四十七都道府県すべての県花が石板として設置されている。加えて、先ほどの「花の輪 平成五年」の2枚と、もう1枚「千代田区 さくら」の石板が途中にあったので、計50枚の石板が設置されている。間隔がおよそ100メートルなので、ぐるり一周はおよそ5キロになる。

 確か、皇居ランナーのブログに一周約5キロと記載されていたから、間違いなさそうだ。
ふと、平成5年当時に思いを巡らせてみた。


 この石板設置についてはいろいろな経緯があったのだろう。皇居周りのことだから皇族の方々が知らぬことはないと思うが、この企画を天皇に奏上された方々のご苦労は大変なものだったのではあるまいか。

 東御苑には県木が植えられている。この県花の石板も、国民の象徴としての天皇がお住まいになる皇居には、ふさわしいもののように思えてならない。
 そうか、ひょっとすると天皇ご自身が発案されたのかもしれない。想いをめぐらすと、あれやこれやと興味が湧いてくる。
 歩き始めた矢先で見つけた石板のおかげで、思いがけない発見があった。健康なうちに、街あるきを楽しもう。
 
                    イラスト:Googleイラスト・フリーより 

細目の人相 青山貴文

 電車が止まる。ドアが開き降客が降りると、数人の乗客が乗車してくる。その中に老婆が居ると、彼女は躊躇無く一直線に私のところに歩んできて、わたしの席の前に立つ。

 私は即座に立つ。小中学生のころより、老人には席を譲るのが礼儀であると躾けられている。
あと数駅で降りる場合は、心からどうぞと、格好良くゆとりをもって席をゆずれる。しかし、疲れているときや、まだ下車する駅から遠い時などは、内心いやいやながら立たざるをえない。
寝た振りは、性格的にどうしてもできない。

 そこで、始発の列車に乗るときは、出入り口からなるべく離れた車内の中程の席に座るようにしていた。
 私は、どうも人のよさそうな顔つきをしているらしい。鼻の高い端正な紳士然とした顔つきとは、およそかけ離れている。そうかといって、目つきの悪い怖い顔でもない。どちらかと言えば、四角張った目の細い人のよさそうな顔つきだ。

道を歩いていると、見知らぬカップルから、
「このカメラで撮ってくれませんか」
 と頼まれる。人相的に、悪いことのできない人と思われるらしい。
 私は、母に似て色白で、父に似て目が細く、鼻が横に広がった安定感のある顔つきをしている。


 中学生のころ、色白で目が細いために女々しい男として扱われる。これがすごく嫌だった。男らしく振舞ったが、そうは見てくれない。親にもらった顔つきなので、いたしかたなかった。
 浪人して、酒屋に住み込み店員するようになり、真っ黒に日焼けし、体つきも男らしくがっちりとしてきた。しかし、その時だけで、夏が過ぎると、白い肌に戻り、顔も青白くなる。それがいやであった。

 細目といえば、高校生の頃、瞼が一重の成績の優秀な女子生徒がいた。彼女は、そのころ、教科書にでてくる平安貴族の顔に似ていた。ひと筆で書いたような細い目で、ふくよかな顔つきであった。

 平安時代は、細目が美人の条件であったらしい。私は、一重で細目の人が好きだった。優秀な女子生徒に魅せられていた。自分も目を見開くことはしないで、目を細めにして歩いたものだ。
さらに、この細目は退屈な大会議場では、頗る都合がよかった。目を瞑って聴いていても、目立たないからだ。

 ところが、時代とともに、美男美女の条件が変わってきた。三船敏郎や栗原小巻のように、目玉がやたらと大きくなってきた、当時の私は、目が大きいと、吸い込まれるようで怖かった。

 世が世であれば、細目の私などは上位のランクの筈だった。理想の面相が変わってきたのだから、いたしかたない。
 ここ数十年は、列車に乗るときには、目が疲れるので、もっぱら目を閉じて、いろいろと考えることにしている。老婆が、前に立っても気がつかない。決して、狸寝入りしているわけではない。

 しかし、最近は案ずることも無くなった。列車の出入り口付近に座っていても、老婆がやってこなくなった。
 なんてことはない、日に焼けた浅黒い肌の細目老人になっていた。
 

イラスト:Googleイラスト・フリーより


ザリガニパーティー  石川通敬

 ザリガニを食べたことがある日本人は少ないのではないだろうか。

 今では農薬とあぜ道が整備されたため滅多にお目にかかれないが、私が子供の頃には、田んぼにぞろぞろいたものだ。
 戦後何もない時代の子供たちとってザリガニは、ドジョウやイナゴと並んで手ごろな天然のおもちゃだった。ザリガニが食べられるものであることを知ったのもその頃、小学校一年の時であった。

 敗戦直後の食糧難を逃れて東京から静岡に疎開してきた母方の祖父が、玄関わきの小川からザリガニをとって、みそ汁に入れて食べたのだ。

 家族は驚き、大いに心配したが、本人はすましていた。もともとザリガニは、ニューオルリンズに代表される熱い沼地に生息するもので、フランス人がスープの食材としてきた歴史がある。祖父は一〇〇年前にサンフランシスコに駐在していた。そのときフランス料理としてザリガニを食べていたため抵抗なく食べたのだろうと私は推測している。


 時は移り、我が家ではここ20数年夏には、ザリガニパーティーをしている。ザリガニは春から脱皮を繰り返し八月ごろ立派に成長し食べごろになるからだ。ただし我が家の料理は、フランス風ではなくフィンランド式である。
 その出会いは35年前のヘルシンキ出張にさかのぼる。当時私は銀行の駐在員としてロンドンにおり、北欧には国際金融商品の売り込みによく出かけていた。ある時現地の友人がしてくれたアドバイスが、出会いとなったのである。

 彼は「競争相手と違った方法でフィンランド人の心を捕まえなければビジネスには勝てない。ヘルシンキ一のホテルで、ザリガニ(英語ではクレイフィッシュと呼ぶ)パーティーを企画し、主要顧客を招待するのがお勧めだ。」

 そうすれば「君の会社は、間違いなくフィンランドでのビジネスに成功する」というのである。その狙いは、フィンランドの国民的夏のイベントである、ザリガニパーティーのスポンサーになることにより、会社の名を売るという作戦だったのだ。

 更に彼は「そのパーティーにカラオケを持ち込めばより効果的だ」というのだ。我々は彼の力を借りて約10年近く毎年「クレイフィッシュ&カラオケパーティー」を開催した。そのお陰で、我が社は大きな成果を得ることができた。


 フィンランドは寒冷地だが、夏にはザリガニがとれる。一年のうち八月だけが、地元産ザリガニが解禁になり、捕ることが許される。
 捕れたザリガニは、香草ジルの葉と種をたっぷり使い、塩も驚くほど入れてゆでる。その後二昼夜ゆで汁の中に入れたまま冷蔵庫で寝かせる。
 このゆで汁が各家庭で競いあうポイントなのだそうだ。食べ方は、至極簡単。鮮やかに真紅にゆであがったザリガニは大皿に盛られる。
 これを一匹づつ各人の皿に取って、尾っぽをナイフで切って取り出し、4センチ四方の薄いトーストにバターを塗り、ザリガニと緑のジルの葉を載せて食べるのだ。彼らの楽しみ方は一匹食べるごとに、ウォッカで乾杯し、全員でフィンランドゆかりのフォークソングを歌う。


 国民的行事と希少な季節商品のため、ホテルでは当時1匹1000円と、とても高価な料理だったと記憶している。また、独り占めして食べていないということを示すためか、全員食べた後頭を外に向け何匹食べたかわかるように、皿に並べる風習が面白い。


 ザリガニパーティーにすっかり魅せられ、我が家でもやりたいと思ったが、仕事が忙しく手が付けられなかった。20年前に少し暇ができたので、家内に相談すると、嫁入り道具に持ってきたタイムライフの世界の料理全集の北欧編で、大きく取り上げられていると教えてくれた。

 そのお陰で我が家でもできるようになった。タイムライフ社は、その後破たんしたが、この全集が出版されたのは、今から半世紀以上も前だ。当時の国際情勢は、アメリカが断トツの力で世界を引っ張っていく状況だった。
 そのみなぎる力が、北欧料理の紹介にまで及んでいた証拠と考えると、感無量だ。


 問題はザリガニの調達だった。日本での大口消費者は、フランス大使館だということは分かった。しかし一般のフランスレストランでは、ザリガニを使うところが減り、今ではほとんど需要がないと取扱業者に言われた。

 そんなことから、土浦や茨木の養魚所に手あたり次第電話をかけ、苦労して確保した。幸い近年は埼玉の水産業者から買えるので助かっている。しかし商売の中心が観賞用のザリガニのようなので、いつまで食用の物が手に入るか心配している。

 ザリガニパーティーの評判は、いつも上々だ。ある友人からは、土浦でザリガニレストランを共同で経営しようと申し出があったほどだ。孫に生きたザリガニがよいと思って2、3匹やったら、ゆでたのを食べたいといわれる始末だ。あるときフィンランドの友人を自宅に招いた。
 その時彼らが、日本産ザリガニのほうがおいしいと褒めてくれたのが、今でも忘れられない。


 そうした中、数年前にNHKの歴史ヒストリアでザリガニスープが、大正天皇の即位記念の宮中晩さん会で出されたという話が披露されたのを見て驚いた。

 それによると、「政府は、外国の賓客に日本の国威を示したいと考え、フランスで修行中の秋山徳蔵を帰国させて料理長に任命した」。「彼は、熟慮の末ザリガニスープを目玉料理として出す決断をした」
 これに従い政府は、軍隊の力を借りて、北海道で日本ザリガニを探させた。そして二か月かけて3000匹を京都にまで運ばせたという。なお、スープの絵図を含む詳細な記録が、今も国立公文書館に遺されていると報道していた。


 ザリガニパーティーが気に入っているのは、100匹で数千円と低価格なことだ。伊勢海老2匹程度の値段で調達できるのだ。残念なのは、国家事業の食材とされたにも関わらず、国民から忘れられた運命にあることだ。

 つい2、3年前中国でザリガニの人気が沸騰し、爆食されている様が放映された。いずれおいしい中華風ザリガニ料理が開発されるかもしれないと期待している。


            イラスト:Googleイラスト・フリーより

あつかましくなれる  青山貴文

 5月の陽光を浴びた新緑は、心をうきうきさせてくれるものだ。
熊谷駅北口から、北西に徒歩2分くらいのところに、外壁が若葉の蔦で覆われている『まじま居酒屋』がある。

 その居酒屋の女主人は、私のエッセイを適切に批評してくれる。また、シャンソンが趣味で、なかなかの美人だ。神は2物を与えずと言うが、時たま気まぐれをするのだろう。

 ここでは、毎年2回、5月と11月に彼女の声量のあるシャンソンを聴く会が催される。
 出席者は、彼女の幼稚園、小中高大学時代の同級生が大半で、男女合わせて二十人位が集まる。中には、元早大グリークラブ(男声合唱団)員の美声の持主もいる。

 毎回、彼女のシャンソンのあとには、出席者の自己申告による発表の場がある。出席者が気軽に持ち歌や得意な楽器を披露するのだ。

 私は,これという芸もなく、あつかましく自作エッセイをたんたんと読んでいる。朗読をする方は私以外にいたが、自作エッセイを読む方はいなかった。


 数年前から、自分の芸不足を補うために、この集まりに芸達者な友人2人を伴って出席していた。
彼らは、オペラや合唱をサクラメイト(熊谷市籠原地区の文化会館)などの大舞台で、華麗な唄を生き生きと披露する。
 そのために、わざわざ舞台を借りたり券を売ったりで、その努力は大変なものだ。

 一方、わたしは、自宅で居ながらにして、毎月1回、多くの読者に自作エッセイをブログで配信している。作品を披露する手段は、彼らと比較して、手数がかからず優越感を感じていた。ただ私のエッセイは、彼らのように、お金を取れるような価値のある作品ではない。

 昨年11月の集まりでは、エッセイ『やりがいを感ずる時』の朗読をおこなった。このエッセイの内容は、「自作エッセイをブログで発表するとき、このうえないやりがいを感じる」ことを描いたものだ。

 その日は、友人の芸達者2人も元グリークラブ員も都合がつかず欠席した。そのため、いつものギターや歌あるいは朗読では、時間がもてなくなった。そこで、女主人からなんとか歌ってくれないかと、依頼される。


 わたしは、カラオケ店などに余り行ったこともない。時たま、風呂の中で歌っている詩情豊かな山の唄
『いつかある日』を伴奏なしで気軽に歌った。

 いつも出席する歌の上手な3人が同席していたら、いくら厚かましい私でも、歌えなかったであろう。人間、競合する人が居合わせないと、意外に厚かましくなれるものだ。
 久しぶり、私の愛唱歌の山の唄を、人前で心おきなく唄うと、朗読するよりも、はるかに高揚する自分がいた。

 芸達者の2人が、頭を下げてまで券を売って舞台に立とうとする気持ちが理解できた。今年も、5月の『まじま居酒屋』の催しが近づいてきた。
 

           イラスト:Googleイラスト・フリーより

気付かなかったこと 吉田 年男

 一時的に右眼が不自由になった。白内障の手術を受けたのだが、手術は思っていたより簡単に終わった。

 手術より術後のケアーがしんどかった。時間を決めての目薬の点眼、洗髪、洗顔の制限。でんぐり返しなどの運動の制限。眼の手術とはいっても、身体の一部にメスを入れたのだから、それくらいの辛抱はしなくてならないと思ってはいたが、めんどうくさがりやの私にとっては、どれもが窮屈なことであった。医師の指示に従って、しばらくの間、公園での運動を控えていた。


 穏やかな午後のひと時、久しぶりに、公園に出かけた。歩道から敷石の敷かれた広場に入ろうとした。
広場は、いつも運動をしていたところだ。入り口のところの感じが今までとなんとなく違う。よく見ると、そこにあった大きな石が取り省かれている。

 石があった時も、不自由も感じず、石の存在に気にも留めずに広場へ出入りしていた。石がなくなってみると、確かに広場へ入りやすい。
 石のあった周りをよく観察してみると、きれいに舗装もしなおされている。歩道と広場との間にあった、段差もなくなっている。今は車いすの人でも楽に広場に入ることができる。


 永い間、毎日ここを通行していたのに、なぜ通りにくいことに、気が付かなかったのか? 私が気付いれば率先して、公園を管理している区役所に直してもらえるように働きかけることもできたはずだ。

 ひとへの思いやり、優しさのなさに改めて恥ずかしく思った。私が運動を休んでいる間に、広場への入り口が狭くて、入りたくても入ることができずに、辛い思いをしていた車いす使用の人か、もしくはそれに気が付いた人たちが、車いすでも、幼い子供たちでも、楽に広場に入れることができるように、思い余って陳情を申し入れたのであろう。


 耳の不自由な人たちとのコミュニケーションがとりたくて、手話を懸命に覚えようとしたが、途中で挫折した昔の苦い思いが、頭をよぎった。

 気を取り直して、広場の中央に立って、大きく深呼吸をした。そして両腕を回しながら眼を池のほうに向けると、小高い丘のところに、はなみずきが今を盛りに咲き誇っているのが見えた。

 人工的に作られた公園名物の滝の音も、からだを動かしたことで、すこし気分が変わったのか、いつもと違って聞こえる。曲がりくねった公園内通路の両側には、手すりが設けられている。
 いつもみなれていた手すりだが、それさえも新鮮に見える。手すりに近寄って触ってみた。よくみると手すりの何か所かに点字版がついていた。


 入り口に回って、あらためて公園案内図を探した。
 普通の案内図とは別に、そこには、眼の不自由な人のための、立派な金属製の点字案内図が設置されていた。


          写真:Google写真・フリーより

ビバ・アンダルシア   金田 絢子

 集英社版『スペインうやむや日記』(堀越千秋著)は大層面白い。

 スペインでは、「フラメンコ」とは、踊りではなくて「唄」(カンテ)のことだという。もう長いことスペインに住む画家の堀越さんは、カンテの歌い手でもある。

「アンダルシアは貧しい。ジプシーは悲しい。『おらぁまだセビーリャ見たことがねえ』何故か。貧しいから
である。政府は汚職まみれ。冬、スペインにも冷たい雨が降る」
 西洋崇拝で「何かというとおフランス」の日本人を笑い飛ばし、「EUはそのうちだめになるぜ」なんて警句も吐く。

 平成元年、私たちが「スペイン・アンダルシアを巡る」ツアーに参加した当時、この本はまだ出版されていなかった。
 私は何の予備知識もなしにスペインの土を踏んだ。因みにメンバーは、夫婦ふた組、ミスとミセスが一人ずつ、たったの6人だった。
 グラナダでは、「穴倉のフラメンコ」を観た。山の斜面に掘られた穴倉へと、デコボコの歩きにくい道をすすんだ。穴は、ほかにもいくつかあったと夫は言うが、私は見なかった。


 穴倉の中は、中央に空き地をのこしてぐるりと周囲に、沢山の椅子が並べられていた。薄汚れたロングスカートをはいた、年配のジプシーが、愛想のない目つきで、白人のカップルをじろじろ見ながら、膝の上の楽器を鳴らした。
 彼女の隣に立っていた12、3歳と思われる美少女が、私に笑顔を向けた。

 今では、踊り手の服装も唄も何もかも、かすんでしまっているが、たとえ演出にせよ、ショー化されたものにはない、そこはかとない哀愁があった。

 街灯もない暗闇に、ライト・アップされた、美しいアルハンブラ、何気ないトレモリノスの海岸の様子、どこかさびれた闘牛場など、目の前に浮かんでくるが、ひときわ懐かしいのは、セビーリャの小さなまち、「マカレナ」である。

 昼食をはさんだ観光のあと、ホテルに戻り自由時間となった。ほかの4人は街の中心部に、添乗員と買い物に行ったが、私たちはホテルに残った。


 このへんにどこか観るところがないか、ホテルの人に尋ねると、マカレナ教会に、涙を流しているマリアの像があるという。早速出かけた。

 ひなびた小さな教会で、礼拝堂もせまい。正面に金メッキの大きな像があった。上部が見上げるほど高い位置にあるので、下からではよくわからない。
 見まわすと、二階への階段をのぼったところに、資料室がある。階段をあがり部屋に入ってみた。いろいろなものが並んでいるが、マリアの像らしきは見当たらない。

 そこへ、若い男性が寄ってきて何か言うが、ちんぷんかんぷんである。何せスペイン語は「グラーシアス」と「シー」ぐらいしか知らない。
 そのうち、指を目の下にあてて、涙が落ちてくる仕草をする。涙のマリアのことらしい。夫が「シー、シー」と言った。すると彼は、こっちへ来いという風に手招きをした。

 廊下を幾歩か行ってから、ドアを入ったのだったと思う。気がつくと手の届かんばかりのところに、涙を浮べたマリア様の横顔があった。ふるえるほど感動し、しばらくはただ見とれていた。顔の部分がちょうど階段をのぼった高さだ。

 かなり大きな彫像である。
「グラーシアス、サンキュー・ベリマッチ」
 夫はうわずった声で言った。二人とも気分よく、階段を降りて、礼拝堂の入口まで戻ってきた。一緒について来てくれた若者に
「グラーシアス、アディオス」
 手を振って外へ出た。私にも夫の興奮が伝わり、
「チップをあげなくていいの?」
 とは言い出せなかった。


 歩きながら夫が、
「あのお兄ちゃん親切だったけど、なんで最後に変な顔してたんだ? あ、そうか。チップを忘れたね。わるいことしちゃったな」
 公園の側を通りかかったとき、夫は転びかけた。感動の余韻のせいだったかもしれない。
 近くにいた、ソフトクリームを頬張った青年が、さっと右手を差しのべた。それにはすがらないで、夫は転ばずにすんだのだが、彼のとっさの機転が嬉しかった。

「涙のマリア」は、キラキラではなく、淡いブルーで私の瞼にのこっている。
 ふりかえれば、未知のアンダルシアから、いい思い出だけを持ち帰ったのだ。そんな気がする。


イラスト:Googleイラスト・フリーより