元気100教室 エッセイ・オピニオン

7月のつぶやき 桑田 冨三子

 7月は、七夕に詩歌を短冊にかいてそなえる月だから文月、夜は月が明るく、すずやかだから涼月ともいうそうだ。

 昨日は、わたしの誕生日だった。傘寿のお祝いと書かれたカードがついた花束が届いた。息子家族からだった。孫の佳凜から電話が来た。
「お誕生日おめでとうございます。ねエ、オーミ(ドイツ語・お婆の意)。オーミは、ほんとに30なの?」
 声のトーンが、いかにも訝しげだ。
 電話の向こうは、さぞかしアンビリーバブルといいたげな顔付きだろうと想像し、思わず笑ってしまった。
「3年生じゃァ、未だ傘という漢字、習ってないよね」

 夕方からイル・デ―ヴの「魂のうた」リサイタルに出かけて行った。
 イル・デ―ヴは、4人の男性ヴォーカルで全員、主役級のトップオペラ歌手である。
 前半は一人づつのソロであったが、後半は、かもめ、サボテンの花とか懐かしい昭和ソングス、特攻隊員への鎮魂、復興、未来の子供たちへ、など、「魂のうた」と名付けただけあって、内面的メッセージがよく伝わってきた。
 輝かしい歌声や、極上の男声合も、大変、楽しめるものだった。

 特に最後がよかった。
 それはイル・デ―ヴ版アレンジ・本邦初演の「花は咲く」であった。歌の最後の歌詞、いつかは生まれる君のために・・・、私は何を残しただろう、は何度も繰り返された。
 山下浩二のバリトンの響きは素晴らしく、望月哲也の振るえる抒情的テノールは、心の琴線にふれた。会場の人々はみな心を奪われ、感動で魂を揺さぶられた。

 鳴りやまぬ喝采の中に、壇上の司会者は一人のうら若き女性を見つけて、皆に紹介した。それは、今歌った歌、あの3.11の「花は咲く」の作曲者・菅野ようこさんであった。日本だけでなく、世界の人々を感動に導いた歌の作曲者は、謙遜で美しい、しなやかな人だった。

 久しぶりに感動したコンサートが終わり、家へかえって一人に戻ると、なんだかあの歌が、あの歌詞が、いつまでも心に残っている。

 80年も生きてきたわたしは一体、何を残したのだろうか?これは、かなりきつい問いかけだ。


 自然界の生き物は皆、子孫を残すと死んでしまう。
 生まれた川に戻ってきて産卵を済ませた鮭が、すぐ死んでしまうのを見たことがある。子孫を残せば、それで生きる役目は終わるのだ。
 生殖を済ませた後でも長く生き残っているのは、人間だけらしい。特に女性は閉経後も、とても長く生きることが出来る。進化論学者が言ったのを聞いたことがある。
 人間という種が長生き出来るようになったのは、それが種にとって有利だからです。その種にとって有利なことだけが、進化するのを許されるのです。

 フウン、そうなのか。
 でも、長生きすることが人間という種にとって有利とは、一体どういうことなのだろうか?


 進化論学者は、こうも言っていた。子どもを産んで良く育てる。
 これは人間という種にとって大事なこと。でも子どもの代だけでは心配だ。その子供がちゃんとまた子供を産んでよく育てられるかまで、見守る必要があるのです。
 だから、我々は、働く息子夫婦の孫の世話を引き受けるというのは、長生きするようになった進化の重要な要素なのです。 

                       完

              イラスト:Googleイラスト・フリーより

テル先生 遠矢 慶子

 ごっとん、ゴトゴト、ゴトゴト。飛行機は、深夜の羽田空港に着陸した。

  隣に座っているテル女史先生をそっと見る。ほっとした表情、やっと日本に戻って来られたという10年の疲れと安堵が顔にも表れている。 二人分の荷物をカートに載せ、車椅子のテル先生とタクシー乗り場へ急いだ。最終便で人影もまばらの空港待合室。テル先生が八十二歳で急にオーストラリアに移住して、ちょうど十年が経っていた。


 私は、学友たち4人でブリスベンの友人所有のコンドミニアムに長期滞在をしていた。毎日ゴルフにショッピングと遊びまわっていた。
 少々飽きてきて、やっとアデレードに住む先生に電話をかけてみた。
「とにかく1日でも2日でもいいから、アデレードに来てちょうだい」
 一人異国で住むテル先生に会わずに帰国するわけにもいかず、懇願されて、西オーストラリアのアデレードに飛んだ。

 7年ぶりに会う先生は、外国人のように体いっぱいに喜びを表し、両手を広げてハグされた。
 毎日、車椅子を押して一緒に街を歩き、いつも厳しい表情の凛とした先生が、信じられないほど優しい。
「お願いがあるの。私に日本に帰るチケットを買ってきてくれない?慶子さんと一緒に帰りたいから」
 弱音を吐いたことのない、いつもと違う表情で訴える眼差しに、私も
「分かりました」と、一人でダウンタウンのJALのオフィイスに行った。


 東京行きは満員で、大阪行きがやっと取れ、大阪から国内線で羽田へ飛ぶことにした。 帰国当日の朝、小さなバッグを持ったテル先生は、広いコンドミニアムに何もかも残して、急に帰ることに何の未練もない様子だった。

 私が45年前、葉山に越した時、母に「先輩が葉山に住んでるから、一度訪ねてごらんなさい」と言われた。
 一色海岸を見下ろす高台のテル先生の家を初めて訪問した。ちょうど先生は、主婦たちに英会話を教えていた。即、私も入会させられた。

 佐藤テル先生は1904年生まれ、英語学校を出て、その頃としては珍しい職業婦人で、日本進出のフォード社で働いた。
 戦後は磨きのかかった英語力で駐留軍の司法政治の顧問、教科書の翻訳とキャリアウーマンとして活躍した。


 その間、登山に目覚めニュージランドへ女性五人の遠征隊の隊長として最高峰クック山に登る。得意の語学力で、ヒラリー郷やノーマン・ハーデイと交流を深め、その頃、女性アルピニストとして一世を風靡した。

 世界的な登山家というと、がっちりした体格の真っ黒に日焼けした体育系の女性を想像する。テル先生は原節子そっくりの色白で、鼻が高く美人で外国人のようだ。そのうえおっしゃれで、白髪に紫色がトレードマークだ。

 葉山国際交流協会、湘南ウイメンズクラブとつぎつぎと国際的組織を作り、その行動力と企画力には感心する。

 そんなテル先生が急に思い立って、82歳でオーストラリアに移住するという。移住先は、何回も訪れたニュージランドでも、2年留学したアメリカでもなく、訪れたことのないオーストラリアで更に驚いた。世界の経済を考えてのことだった。

 その後、テル先生の住む町と葉山町は姉妹都市となり、賑々しく市長、議員らが大勢アデレードに集い、私も公費で、初めて参加させてもらった。
 その時が、テル先生の人生最後のハイライトで、その後、両市とも不景気で、学生の交換も途絶えている。

 私に付いて帰国してから、テル先生は元気を取り戻し、ネイビーの婦人たちとの会、山岳協会の名誉会員としての会合に、私はよく運転手をしてあげた。


  時々おのせした車のシートがしめっていることがあり、誰からともなく会員に
「テル先生、時々おもらしすることがあるので、横須賀ベースの家に行くときは、当番が必ず先生のために座布団を持参するように」と、申し伝えが来た。
 ある時、東京の山岳クラブの会合に出かけるテル先生を、逗子駅に送った。
「お気を付けて、いってらっしゃい」と、車から降り改札口に向かうテル先生の後ろ姿に声をかけ、思わず
「あっ! 大変、どうしよう」
 スカートのお尻の辺りが丸く大きく、濡れているのがありありと分かる。
自分のことのように狼狽してもどうすることも出来なかった。

 歳をとることの残酷さを見て、何とも悲しく、おそろしくなった。

 92歳でオーストラリアから帰国して8年、先生は、100歳の時久里浜のホームに入られ、102歳で、波乱万丈の輝かしい生涯を終えた、
 私の最も尊敬する女性、佐藤テル先生、天は頭脳、行動力、語学力、健康とすべてのものを与えてくださったが、子供もなく、最後は一人だ。
 どんな人も、人知れない苦しみを背負って生きている。

                           【了】

                           
            イラスト:Googleイラスト・フリーより

 

変わらない坂道 吉田 年男

 中学校の正門まえの路を歩いた。そこは自転車に乗って走ってみないと判らないくらいのわずかな起伏がついている。

 我が家からその路までは、トウモロコシなどが植わっていた広い畑を通って行かれた。直線にすると500mにも満たない距離であった。その路に立っていると、始業ベルを聞いてから畑を突っ切って登校していた懐かしい中学生のころを思い出す。

 畑だったところは、今では全て宅地に変わってしまい、二階建てなどの高いたてもが立ち並び、路も、中学校の校舎も我が家からは見えなくなった。
 都内を歩いていると、目印にしていた家やビルなどが、いつの間にか取り壊されて、街並み、風景が変わってしまうことがある。ここはどこなのか? 一瞬迷ってしまう。

 そういう時に、私がたよりにしているのは、路の起伏であり、曲がり角などの形だ。建物は変わっても、わずかな路の起伏や曲がり角をチエックすることで、変わる前の街の風景が見えてくる。


 JR市ヶ谷駅をおりて、外堀通りを飯田橋方面に向かって歩いた。いつも定量の水を蓄えている堀は、どこからの水なのか? ふっと思った。
 都内でも比較的高台の城西地区に水源をもつ、何本かの河川からという話を聞いたことがあった。起伏のことを考えながら歩いているうちに詳しく知りたくなった。
 時間をつくって調べてみたいと思う。
 東京の坂を撮影した写真展を観た。大きいサイズのものから小作品まで50点の、魅力ある写真が並んでいた。リストには、なんと展示作品の十倍の501か所の坂の名前が記されていた。あらためて東京の起伏の多いことにビックリした。


 501か所のうちの神田明神坂や昌平坂など300以上の坂の名前は、江戸時代からのものとリストに書かれていた。起伏や土地の形状は、大火や震災、戦災などに遭っても、そう簡単には変わるものではないのだと改めて思った。
 中学校正門前の緩やかな坂道は、周りの景色は目まぐるしく変わっても、そのたたずまいは、中学生のころから半世紀以上も全く変わっていない。

 その坂道を見たくなれば、思い出した時に、いつでもすぐそこに行かれる。ながく地元に住んでいるからできるありがたさだ。

 些細なことであるが、中学校正門前の、緩やかで変わらない坂道をみると、落ち着いてきて幸せな気持ちになる。

【了】


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視点を変えよう 森田 多加子

 私には歩きなれた数通りの散歩道がある。夏場は陽が落ちるのを待って歩くことにしている。中でも第一コースは、一番のお気に入りだ。人通りの少ないことがいい。
 散歩中には、なるべく知人に会わないようにしたい。

 万が一出会ってもわからないようにと、帽子とサングラスは必須だ。冬場はこれにマスクが加わるので万全だ。どうしてここまで武装? するのか。

 最近の私は、デレデレと怠惰な毎日を送っている。顔にも身体にも緊張感というものがない。一日中スッピンで、だらしない風体だ。
 しかし、歩くことだけは、毎日律儀に続けている。
(今日は面倒だなあ)
 そう思っても、自身で決めたことなので頑張っているが、緊張感のない身体をなるべく人様に見せたくない。いや、見られたくないのだ。

 少し薄暗くなって、右側が高い崖になっている静かな道を歩く。計算通り、知人にはほとんど出会うことがない。
 人馴れした猫が寝そべっている。猫には、ネコナデ声で話しかける。
(私はなんて優しいのだろう)。
 猫は私を見送るために首を半周させた。軽く手を振る。
(う~ん、いい気持ちだ)
 幸福感の中でふと思う。もしも、この道が未知の場所だったら、この時間には怖くて歩けないだろう。
 人通りのない道なんて誰が襲ってくるかもわからない。特に外国だったら……。おおいやだ、思考停止。


 別の日、第二コース。門を出たところで、いつもの方向に誰か立ち話をしているのが見えた。犬を連れているのは……、急に思いついて逆方向に向かった。
(おや、なんだか新鮮)
 同じ道なのに全く違う景色になっている。逆方向から歩くと、景色がこんなに違うなんて、改めて驚いた。
 ある家は、なんだか塀ばかりだ、と思っていたのに、逆から行くと、横に立派な玄関が見えた。印象ががらりと変わった。

 十数年前、北海道の旭川動物園が、ただ檻の中にいる動物を見るだけではなく、上下から、外から、水中からといろんな角度から動物を見られるようにしたことで一躍有名になった。全国から旭川動物園に人が集まった。
(我々も旭川動物園に行くぞ!)
 友人たちと一緒にでかけた。

 上野動物園に比べると、なんと小さな動物園だ。しかし、上野では檻に入っている動物たちが、飼育員の発想の転換から、ここでは動物たちの生活が見られた。

 ゴリラが外で遊んでいる。アザラシは、水槽で全身を見せてくれた。ライオンは、すぐそばの草の上に寝そべっている。
 この方法を手本にして、今では多くの動物園が、どうやって動物の生態を見せるか、を真剣に考え始めている。


 今年、池袋の水族館が、地上40メートルの屋外に水槽を作り、ペンギンを住まわせるそうだ。私たちは、空を飛んでいるように泳ぐペンギンを、見られるという。
 今まで遠くにいたペンギンが、旭川動物園では、目の前をよちよち歩いていて感激したが、今度は泳いでいる全身を眺められるという。

 最近話題の、史上最年少棋士の藤井四段は、普段は対局側からしか見ない将棋盤を、相手の方にまわり、そこから盤を見ることがあるという。対座して相手の盤上を見ているので、いつもは相手の駒は逆さに見えるだろう。それを相手側にまわって違う視点から見ると、何かひらめくのかもしれない。

 天橋立の「股のぞき」もそうだが、ふと視線を変えると、まったく違うものが見える。思わぬアイデアも浮かぶようだ。
 さて、私はというと、視点が変わって驚いた景色から、何か生まれるのか? 残念ながら古い頭脳からは、今のところ何も浮かんでこない。しかし……、
(驚くことはいいことだ)
 少なくとも緊張感のなかった体中が、ピンとした。

【了】

       イラスト:Googleイラスト・フリーより
               

若い奴たち 青山貴文

 真夏の深夜の静けさを破り、数人が奇声を張り上げて、我家の団地を通り過ぎていく。どうも、話し声からすると、3~4人の若者らしい。


 最近の若い奴の中には、他人の迷惑を考えない連中がいる。それ故に、彼らも仲間内で元気を出しあっているのだろうと、余りカッカとしない。
 私も、若い頃、もっと悪質な近所迷惑をやったものだ。


 思えば、40数年前の真夏の一夜がよみがえって来る。蒸し暑い夜であった。
 それは私を含めた3人の酔っ払いが、熊谷市美土里町の飲み屋街を2.3軒はしごして、半キロ先の我家の庭まで歩いてやってきた。


 美土里町は私が勤めていた鉄鋼会社の熊谷工場と我家との丁度まん中辺に所在している。その界隈には、航空自衛隊の基地や工業団地があり、隊員や工場員の飲み屋街になっていた、
暗い夜空に煌々と月が輝いていた。酒を飲み、無性に体がほてり、力がみなぎっていた。3人は、私の芝生の庭で、大声を張り上げて万歳三唱を繰り返す。

 隣家の明りが一つ、二つと点く。
「ウワ! 点いたぞ。点いたぞ」
 私たちは、小躍りして芝生を転げ回る。 
「ご近所の皆さん。本日、青山の長女が生まれました」
 と、私より10歳くらい年上の成沢さんが大声を発する。
 彼は、私に似て太っていて、酒が余り強くない。ただ、だれとでも付き合いがよく、話しをよく聞いてくれる。10人くらいの若手工員を統率し、普段は仕事熱心な本間製作所の営業を兼ねた工場員だ。本間製作所は、私の勤めていた鉄鋼会社の金型部門を担ってくれていた。

 すると、もう一人のがっちりした体躯の男が、おもむろに立ち上がり、直立不動で野太い声で、演説をはじめる。
「酔っ払いの青山は、今日やっと一児の親になりました」
 と、厳粛な口調で話す。
 彼は私とほぼ同じ32歳位で背格好も同じだ。本間製作所の跡取りで私よりはるかに貫禄がある。私と違って酒が強い。バーに行っても、私のように女性といちゃつかない。
 泰然として、酒を飲む。金があるから、他のところでうまくやっているのかと思っていたが、どうも仕事以外に余り興味がなかったようだ。
 また、二つ三つと数軒先の家の光が点灯する。
「青山も、挨拶をしろよ」
 と、本間がうながす。
「ええ、ただいまご紹介に預かりました青山でございます。日々、細君がいろいろお世話になっております。本日長女が生まれまして、・・・」
「元気がないぞ!」
 と、本間と成沢が大声を張り上げる。

 喋っているうちに、自分も人の親になったのだと、何か嬉しさがこみ上げてくる。飲み友達とはそんなお膳立てしてくれるものだ。今思えば、わたしたちは若くて、希望に燃えていた。

 翌朝、南隣の岩下さんが、
「昨夜は、御機嫌でしたわね」
 と、にこにこされる。
 内実は、「うるさかったわよ」と苦言であったと恐縮しているが、今は引っ越されて居られない。

 わたしは、そのころ昼間は青色の作業服を着て、振動粉砕機の騒音の中で、重油炉の灼熱職場を走り回っていた。
 その反動もあり、週末になると冷たいビールを求めて、飲み屋街に作業服で繰り出したものだ。よくぞ、体が持ったもんだと思う。

 その後、仕事一途な本間さんは、そのころの数十倍の収益を上げる中堅企業に育て上げ、今は会長に納まっている。温厚な成沢さんは平穏な老後を過ごされ、すでに鬼籍に入られた。
 酔っ払い3人に祝福された長女は、2人の子供の母になっている。
 先日は奇声を張り上げて、団地を通り抜けて行った若い奴らも、今日も元気でやっているだろう。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

有名になりそこなった = 月川 りき江

 今日は忙しくて疲れた。孫の転宅手伝いに朝から行き良く働いた。私は長い間の転勤族なので、引っ越し手伝いはお手のものと言ったものの、やはりそれは若い時の話で、この老齢ではさすがに疲れた。

 私はいつも疲れた時、卵の黄身だけを二個飲む。黄身にお箸の先でチョンと穴をあけ、お醤油を二、三滴落としてそのまま飲む。美味しくて、身体の細胞に栄養が行きわたるように感じる。が、今日の卵は違った。

 割った途端「キャーッ」と声がでた。
 卵の中に黄身の横に1、5センチ位の肉団子のような物がある。これはなんだろう。気持ち悪い。ひよこに変わる前だろうか?
 すぐに流しの三角コーナーゴミ入れに捨てた。しかしフッと(これは捨てちゃいけない。テレビや新聞に取り上げられるしろものではないか?)と思った。

 何かの研究資料となり、新聞やテレビに出て、私は有名になるのではないかと、頭のなかを駆け巡った。それには証拠の為に写真に撮らなければ、と思って、三角コーナーの中から捨てた卵をお皿に取りあげた。
 この時、黄身をちょっと傷つけた。写メに撮ったが、捨てる前だったら黄身と肉団子がはっきりしていたのに、黄身がダラリとながれた写真になった。


 しかし、これはなんだろう、どこで調べればいいのか。パソコンで調べるにしても言葉は何と検索するのか。
 まず生活消費者センターに電話をした。クレームを言うおばさんと思われたくないから電話に出た人に、
「苦情を言うのではありませんから」
 と最初に念を押して事情を話した。
 その人も「わかりませんね~。聞いたことありません」と言うだけで隣の人に聞いている。隣の人は
「詳しい人がいるから聞いてみます。しばらく待ってください」
 と言って別の人を電話の側につれてきた。

 声は年配の人のように感じた。
「それは卵の殻が異変を起こして出来るもので、ミートスポットといいます」
 と教えてくれた。
 解ったのはいいが、私は途端にがっかりした。テレビや、新聞にでも出るかな、と少々期待していたが、それほどのものではないと解って、張り切っていた馬鹿な自分に苦笑した。

 しかし、その人は「めったにお目にかかれるものではありませんよ。良い体験をされてよかったですね」と言われた。まあ、それだけでも良しとしよう。
 すぐにネットで「ミートスポット」を調べた。
 見ると、世の中にはたくさんあるのだ。食するには何ら問題はない。と書いてあるが、とんでもない。私は八十三年生きてきて初めて見た。
(若い鶏も産むが、老齢の鶏が産むことが多い)
 と書いてある。

 人間の老女は役にたたないが、老鶏は卵も産めるのだと、にがにがしく思った。 さっそく、私より若い高齢者の友人にメールで事情を話した。
「老齢でも卵の産める鶏は幸せね」と返事がきた。
「実感こもっているね~」
 と二人で笑った。

 あれ以来、最初見た風景が脳裏にやきつき、気持ちが悪くて卵の黄身を飲めなくなった。今は疲れた時はもっぱらドリンク剤だ。
           
              イラスト:「フリー素材集 いらすとや」より

お茶会 = 筒井 隆一

 ここ靖国神社の境内は、新緑が美しい。

 今日は和服で正装した二人の女性と待ち合わせ、本殿の裏手にある「洗心亭」で開かれるお茶会にやってきた。
 我々三人を招いてくれたのは、中学・高校同期の男だ。彼は後期高齢者になるまでサラリーマンを勤め上げ、この三月で退職した。
 数年前から、飲むたびにこぼしていた。
「仕事一本で、僕には趣味、道楽がない。退職後は何を楽しみに過ごせばいいのかな」
「趣味、道楽なんてものは、待っていてもできるものじゃない。俺もこれからの人生楽しんで生きていこうと、道楽つくりにはずいぶん金と時間をかけたよ」
 私も、えらそうな説教をしてきた。


 私のアドバイスを、まともに受けてくれたのか、彼は退職の二年ほど前から、茶道の稽古を本格的に始めた。
 元もと彼の母親は裏千家の大師匠で、茶道教室を開き、手広く後進の指導をしていた。十年ほど前に亡くなったが、彼も生前の母親の教室に出入りしていたので、それなりの知識と素養は、持っていたのかもしれない。
 母親の一番弟子だった女性を師匠として、稽古に励んだようだ。今日のお茶会でお披露目をするから、ぜひ来てくれ、と招待してくれた。


 私は、茶道は日本の大切な伝統文化とは思いつつも、妙な気取りがあると勝手に極めつけ、馴染めないでいた。茶席では、政治、経済、宗教などの話をしない。議論を避け、文化の薫り高い会話をしなければならない、と聞いていた。
 加えて、茶器、花卉、掛け軸などを、見え透いたお世辞で褒めちぎる。どうも私の好みに合わない。そのようなわけで茶道とは縁がなく、本格的な茶席は今回が初めてだ。

 私の初陣を心配して、家内があれこれ指導する。扇子、懐紙、黒文字を取りそろえ、白い靴下を準備し、
「畳の縁は踏まないように」
「茶器を拝見する時には間違っても高く持ち上げないように」
 などなど、基本的なマナーを教えてくれる。
 家内も長年お茶を続けているので、気になるのだろう。まず入門書を一冊読まされた上、手持ちの道具で、リハーサルをしてくれた。

 同行した同期の女性は、二人とも茶道の嗜みがあり、うち一人は、自宅で弟子を取って指導するほどの実力者だ。彼女が正客となった。
「筒井さん、私の隣に座って次客でやればいいわ。私のやることを見ながらその通りにやってちょうだい。分からなければそっと聞いてね」
「君が隣にいてくれれば心強いよ。よろしく頼む」
 席に案内された。正座をするのに座布団がない。
 お茶をふるまって客をもてなすのに、座布団もないのかと、まずおどろいた。お茶はもともと修練の場だったとかで、その名残が残っているのだろうか。

 亭主が静々と出てきた。着慣れぬ和服の裾を踏むのではないかと、はらはらしながら見ていたが、無事所定の位置に着き、お点前の開始だ。

 お点前が進むうちに、正客と師匠との対話が始まった。
「本日はお招きをいただき、ありがとうございました」
「ご多忙中にもかかわらず、皆さまお揃いでお出かけいただき、誠にありがとうございます。ちょうど時候もよろしく、結構なお茶事となりました」
「お軸も時節に相応しく、結構に拝見させていただき、目の保養になりました。どちらの作でしょうか」
 これらの対話を聞き、経験を積んだ茶人同士の会話で、よどみのない立派なもの、と感心した。
 反面、形式的で、表面的で、薄っぺらなやり取りだ、と複雑な気持ちになる。

 菓子を取り分け、お茶をいただき、茶器を見るときも、その都度次席の人に「お先に」「お先に」と言わなければ、ことが進まない。何回言わなければいけないのかと、ぞっとする。


 半面、日常でも人を差し置いて、我先に物事を進めるのでなく、譲り合いの心を大切にするように、という教えかもしれない。
 誉め言葉の洪水に抵抗を感じていたが、席が進むにつれ、それにも慣れ、歯の浮いた言葉のやり取りにも、抵抗を感じなくなってきた。
 そして、人を招くときの心得、招いた客をどのように誠意を尽くしてもてなすか。自分にはできないし、やりたいとは思わないが、参考になった。

 茶席が終わり、彼が私たちを見送りに来た。
「今日はありがとう。ガチガチに緊張したが、君たちが見守ってくれている、と思ったので少し気が楽になった」
「俺の方も正客と次客だったので、お前さんの立ててくれたお茶を飲めてよかったよ。美味しかった。でもマナーには、とてもついていけないね」
 招いた客に気を配り、喜んでもらえるサービス精神が発揮される。招かれた側は、亭主の意図を受け止め、心尽くしに率直に感謝の意を表す。

 その誠意の交換が、人と人との間の理解と共感を生むのかな、と少しわかった靖国神社の一日だった。


                  イラスト:Googleイラスト・フリーより

世界の子どもに良い本を = 桑田 冨三子

 1912年に「世界の子どもに本を届ける」という国際シンポジウムがあった。私を含めて子供に良い本を渡す運動をしているJBBYの人達の報告会である。

 皮切りは、朝日国際児童図書普及賞に輝くカンボジアのNGO・SIPARであった。若い男性の発表者は、大きな目をくりくりさせて、希望に満ちあふれた調子で話した。

「30年前の暗黒の歴史を知るカンボジアの若者は少ない。1970年代のクメール・ルージュ独裁との長い内戦で、失われた大切なものを取戻すために、自国の本の出版や、図書館の充実などに最大の努力を払っている。」
 日本からは3・11の震災地を廻る図書館バス「あしたの本プロジェクト」に携わった斎藤紀子さんの報告があった。

 気仙沼にバスを停めた時、4歳の女の子が飛び込んできた。いきなり、
「地震なんかコワクナイ」
 と凄い形相でさけび、繰返しさけんでいる。
 顔が極度の緊張でひきつっている。斎藤さんは思わずその子を抱きしめた。
「一緒に本を探そうね」
 やさしく話かけ、本を選ぶ。
 しばらくすると、女の子の顔がだんだんと、やわらいできた。家で、地震がコワイと言っちゃ駄目と言われた。
 子ども心に地震はコワクナイ、と自分に言い聞かせては、それを大きな声で叫ばずには居られなかったという事だった。

 陸前高田の女の子の話である。
「ア、この本、前、家にあったよ」
 といって『赤頭巾ちゃん』を取り上げた。ついてきたおばあちゃんが、
「この間借りた本じゃないの、他の本にしなさい」
 しかし、その子は頑としてきかない。
 次にやって来た時も、その子はまた、同じ本を選んだ。亡くした本が忘れられず、何度も何度も読むのだろう。


 IBBYの元会長でガテマラ生れのカナダ女性、パトリシア・アルダナは精力的に世界を廻っていた。その時の話をしてくれた。
 レバノン、ガザ地区へも行ったが、アフガニスタンのカブールに入った時は、搭乗した飛行機に危険が迫った。
(ここで撃たれて死ぬのだ)
 と何度も思ったそうだ。しかし、飛行機は奇跡的に無事についた。

(こんなに危険でひどい時期に、アルダナは本当にやって来るはずはない)
 そう思っていたカブールの仲間たちは、感嘆し、大歓迎をした。

 一番先に出迎えたのは、年老いた白髪の女性であった。悟りの境地にあるような、落着き払った長老の態度に、アルダナは、不安定な日常を過ごす仲間たちは きっと、この長老に厚い信望をよせているにちがいないと確信したそうだ。


 カブールの冬は厳しい。凍死する子も出る。そんな厳しい状況下でのIBBYの活動は勇気ある挑戦であった。子どものための学校を開くことである。
 仲間たちは活動名をアシアナと名乗っていた。どこにでもテントを張り、中でアシアナ学校を開く。子どもは親の手伝いをしたり仕事に出たりして、なかなか学校へは行かれない。
 建物よりはテントの方が来やすいらしく、好まれるから、テント張りの学校にしたとのことだ。テント教室の方がずっと効果が高いという。
 テントを開くと、子ども達はすぐに集まってくる。嬉しそうに、しかも、走ってやって来る。
 その喜び勇んで走ってくる様子を見るのは、教えるものにとっては、確信を新たにし、至福となる。子どもたちはテントの中で喜んで教科書を開き、読書を楽しみ、給食を食べて、帰って行くという。


 どの話もみな素晴らしい感激的な報告会であった。運動に携わる者は時として
「一体、自分は何をしているのか?」
 と疑問を持つが、仲間が頑張っている話を聞くと励まされ、やっぱり続けて行こうと思う。


               イラスト:Googleイラスト・フリーより

思いがけない発見! = 廣川 登志男

 5年前の夏、「御府内八十八ヵ所めぐり」をした。会社を卒業したてで巡礼などをしたいと思っていた時だ。四国八十八ヵ所は少し遠すぎる。ならばと、近場の「府内」、これは都内中心部になるが、その八十八ヵ所巡礼に出かけた。

 巡ったお寺さんそのものも興味深かったが、途中での「へー。こんなところがあったんだ」と、名前だけは聞いていたが、実際には行ったことのない神社仏閣や史跡、それに美味しそうなお店など、多くの発見に驚かされ、見聞を広めることができたのは収穫だった。
 というのも、巡礼のほとんどを歩いてまわったので、いろいろなことに出会えたのだと思う。一日にだいたい八時間、延べ十一日ほども歩き回ったのだ。


「街歩きも結構面白い」と、その後もいろいろな街や史跡めぐりに興じた。
 昨年の春には、何度目かの皇居散策に出かけた。東京駅を出て、駅中央の御幸通りから皇居に向かった。
 和田倉噴水公園の素晴らしい噴水を右に見て、内堀通りに差し掛かる。目の前には桔梗濠(ききょうぼり)があり、奥に巽櫓(たつみやぐら)が二つに重なった白壁を陽光に映えらせて、美しい姿を見せてくれる。

 皇居というところは、松の緑に、重層な石垣、白壁と瓦屋根の櫓、それに濠の水面などが、我々を楽しませてくれる。ときには、大きく枝を広げたソメイヨシノが、淡いピンクの花吹雪を、石垣と濠の水面を借景に、えも言われぬ日本的な風情で見せてくれる。


 通りを渡り、巽橋の写真を撮ろうと、濠の角に歩いていくと、石畳の一角に何やら花を刻んだ石板がある。五十センチ四方くらいで、何だろうと覗くと「宮城県 みやぎのはぎ」と刻んである。
 どうも県花のようだ。勿論、写真を一枚。元々、皇居を一周しようと来たので、そこから北にある大手門に向かって歩いた。ちょうど百メートルほど歩いたところに、また一枚の石板がある。
「秋田県、ふきのとう」とある。
 続いて山形県、福島県と続く。私の一歩は、およそ85センチ。なので百十八歩で百メートル。歩きながらそれぞれの石板の間隔を調べると、ほぼ百二十歩前後だったので大体百メートル間隔で設置されているようだ。

 それにしても、皇居には何回か来ていたが、こんな石板が埋め込まれていたのかと驚いてしまった。いつ頃できたのだろうかと疑問に思っていたら、一周ぐるりの最後のころ、二重橋前の信号付近で、県花の石板とは違うのがあった。
 2枚あり、両方とも桜の花柄で、「花の輪 平成五年」とある。今から二十数年前に作られたのだろうか。

 少し手前の桜田門近くに大分県と宮崎県の石板があるが、その中間に、「花の輪 案内」の石板があった。
 なるほど、四十七都道府県すべての県花が石板として設置されている。加えて、先ほどの「花の輪 平成五年」の2枚と、もう1枚「千代田区 さくら」の石板が途中にあったので、計50枚の石板が設置されている。間隔がおよそ100メートルなので、ぐるり一周はおよそ5キロになる。

 確か、皇居ランナーのブログに一周約5キロと記載されていたから、間違いなさそうだ。
ふと、平成5年当時に思いを巡らせてみた。


 この石板設置についてはいろいろな経緯があったのだろう。皇居周りのことだから皇族の方々が知らぬことはないと思うが、この企画を天皇に奏上された方々のご苦労は大変なものだったのではあるまいか。

 東御苑には県木が植えられている。この県花の石板も、国民の象徴としての天皇がお住まいになる皇居には、ふさわしいもののように思えてならない。
 そうか、ひょっとすると天皇ご自身が発案されたのかもしれない。想いをめぐらすと、あれやこれやと興味が湧いてくる。
 歩き始めた矢先で見つけた石板のおかげで、思いがけない発見があった。健康なうちに、街あるきを楽しもう。
 
                    イラスト:Googleイラスト・フリーより 

細目の人相 青山貴文

 電車が止まる。ドアが開き降客が降りると、数人の乗客が乗車してくる。その中に老婆が居ると、彼女は躊躇無く一直線に私のところに歩んできて、わたしの席の前に立つ。

 私は即座に立つ。小中学生のころより、老人には席を譲るのが礼儀であると躾けられている。
あと数駅で降りる場合は、心からどうぞと、格好良くゆとりをもって席をゆずれる。しかし、疲れているときや、まだ下車する駅から遠い時などは、内心いやいやながら立たざるをえない。
寝た振りは、性格的にどうしてもできない。

 そこで、始発の列車に乗るときは、出入り口からなるべく離れた車内の中程の席に座るようにしていた。
 私は、どうも人のよさそうな顔つきをしているらしい。鼻の高い端正な紳士然とした顔つきとは、およそかけ離れている。そうかといって、目つきの悪い怖い顔でもない。どちらかと言えば、四角張った目の細い人のよさそうな顔つきだ。

道を歩いていると、見知らぬカップルから、
「このカメラで撮ってくれませんか」
 と頼まれる。人相的に、悪いことのできない人と思われるらしい。
 私は、母に似て色白で、父に似て目が細く、鼻が横に広がった安定感のある顔つきをしている。


 中学生のころ、色白で目が細いために女々しい男として扱われる。これがすごく嫌だった。男らしく振舞ったが、そうは見てくれない。親にもらった顔つきなので、いたしかたなかった。
 浪人して、酒屋に住み込み店員するようになり、真っ黒に日焼けし、体つきも男らしくがっちりとしてきた。しかし、その時だけで、夏が過ぎると、白い肌に戻り、顔も青白くなる。それがいやであった。

 細目といえば、高校生の頃、瞼が一重の成績の優秀な女子生徒がいた。彼女は、そのころ、教科書にでてくる平安貴族の顔に似ていた。ひと筆で書いたような細い目で、ふくよかな顔つきであった。

 平安時代は、細目が美人の条件であったらしい。私は、一重で細目の人が好きだった。優秀な女子生徒に魅せられていた。自分も目を見開くことはしないで、目を細めにして歩いたものだ。
さらに、この細目は退屈な大会議場では、頗る都合がよかった。目を瞑って聴いていても、目立たないからだ。

 ところが、時代とともに、美男美女の条件が変わってきた。三船敏郎や栗原小巻のように、目玉がやたらと大きくなってきた、当時の私は、目が大きいと、吸い込まれるようで怖かった。

 世が世であれば、細目の私などは上位のランクの筈だった。理想の面相が変わってきたのだから、いたしかたない。
 ここ数十年は、列車に乗るときには、目が疲れるので、もっぱら目を閉じて、いろいろと考えることにしている。老婆が、前に立っても気がつかない。決して、狸寝入りしているわけではない。

 しかし、最近は案ずることも無くなった。列車の出入り口付近に座っていても、老婆がやってこなくなった。
 なんてことはない、日に焼けた浅黒い肌の細目老人になっていた。
 

イラスト:Googleイラスト・フリーより