戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く①=いわき市末次
歴史は後世のものが勝手に作ったり、推測で書かれたものがまかり通ったりする。戦いの悲劇が美化されたり、若くして死ぬと英雄視されたりする。ここらは用心してかからないと、誤った史観に陥ってしまう。
歴史小説が史実だと勘違いしているケースも、これまた多い。最も顕著なのが、司馬遼太郎の坂本龍馬である。どこまでもフィクション小説である。『船中八策』は幕末、明治、大正半ばまで史料にも、文献にも一行もない。
大正時代の終わりに、土佐の文人が「新政府綱領八策』(国立国会図書館・長府博物館に本ものがある)を下地にして面白おかしく『船中八策』を創作した。司馬遼太郎がフィクション小説・龍馬がらみで作品の中核においたから、大半の人がそれを史実とみなしている。『船中八策』の現物などまったくあり得ないのに。
会津落城(開城)などは、ご当地の作家や関係者が故意に美化し、薩長敵対とか、悲劇とかを作り上げている面もある。それに乗っかり、市全体が観光に利用している傾向すらある。(戦時中は、軍部から特攻精神に利用された)。その意味からしても、福島・戊申戦争関連は用心してかからないと危ないな、という警戒心が私にはある。
現地に問い合わせても、こちらの資料には芸州藩がきたという事実は見当たりませんね、という回答すらあった。つまり、浜通りの戦いすら、薩長が誇張されているのだ。
それを前提に、1月14日から3日間ほど、戊辰戦争「浜通りの戦い」の取材に出向いた。初日はいわき市・末次という集落だった。初日の14日は大雪だった。「50年ぶりじゃないかな。いわきで1月に、こんな大雪が降ったのは」と地場のひとがいうほど、時間とともにかなり積もってきた。
この末次の寺にも、芸州(広島)藩の兵士たちが眠る。
芸州藩は浜通りの戦いで、最も死傷者を出したのに、戊辰戦争後には「薩長土芸」が「薩長土肥」に変り、芸州藩が歴史から消えてしまった。なぜか。
広島に出向いて幕末史を調べると、決まって「原爆で資料はなくなった。他藩から調べて構築するしか手がない」と言われてしまう。
広島は他県に比べて、幕末の芸州藩の研究者が大学教授を含めて極度に少ないのが特徴だ。
現代の広島人は、毛利元就(広島・吉田町出身)を中心とした、毛利には関心が強い。毛利が大好きなのだ。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利が萩に移されてから、その後の歴史となると、関心度が極端に低くなってしまう。
浅野家が、德川色の強い和歌山から広島にきた、そのことすら認知していない人もいる。忠臣蔵の浅野の本家だとも知らない。つまり、德川(江戸)が好きではないのだ。
(浅野家は幕末に強い影響力を持ち、幕長戦争すら戦わず和平交渉に持ち込んだ、十五代将軍・德川慶喜には武力をちらつかせた大政奉還へと推し進めた)
芸州藩が大きな働きをしている。しかし、現代の広島人には、紀州から来た浅野家の功績など、德川どうしだから、どうでも良いのだ。私にはそう思えてならない。
