NHK大河ドラマ『八重の桜』の先取り講演・清原康正氏=鎌倉
10月27日(土)午後1時から、鎌倉・故早乙女貢さん邸宅で、清原康正(きよはら・やすまさ)さんの講演が行われた。タイトルは、「早乙女人脈の広がりと『明治の兄弟』~NHK大河ドラマの主人公」である。
清原さんは著名な文芸評論家で、日本ペンクラブ・会報委員会の委員長である。同志社大学大学院卒。大河ドラマ『八重の桜』の主人公である新島八重は、新島襄(同志社大学設立)の妻であるから、興味深い講演だった。
私は昨年の秋に、会津に取材で出向いているし、戊辰戦争に関しては常に関心を向けている。この戦争は何だったのか。江戸時代の260年間一度も海外と戦争をしない平和国家から、戊辰戦争で、明治政府は戦争勝利品の味を覚え、海外派兵の戦争国家になっていったという認識が強い。
ことし9月初めころ、清原さんから、「早乙女邸の講演に来ない?」と誘いを受けた。会津の新島八重の話だというので、一言返事で出向いた。
京都人の清原さんの視点だから、薩長と会津とに対して公平感があった。私には好感が持てた。
これまで「会津落城」となると、とかく悲劇の美化とか、史実の歪曲が多く、鼻持ちならない話が多く、あまり好きになれなかった。
会津城を攻撃したのは薩摩藩と土佐藩だった。会津が白虎隊の悲劇を含め、憎むべきは薩摩、総大将の板垣退助・土佐藩なのに、「会津は長州を憎し」と作り上げている。
これらは枚挙に厭わないし、聞くだけでうんざりさせられてしまう。
清原さんは、会津落城とせず「会津開城」として説明していた。
新島八重は会津砲術師範の娘として生まれている。羽織袴を着て、刀を差し、城に立て籠もり、戦った人物である。洋式砲術にも堪能で、スペンサー銃で戦い、幕末のジャンヌ・ダルクとまでいわれた女傑である。
開城後は、京都・薩摩屋敷に囚われていた、兄の山本覚馬(かくま)を頼って京都に行き、そこで新島襄に出会うのだ。清原さんはこうした流れから、なぜ京都か、それを詳しく説明する。