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日本文藝家協会が公益法人になる=総会で発表

 日本文藝家協会の総会が、2011年5月17日、東京・アルカディア市谷(私学会館)で開催された。同協会は4月1日、公益法人として正式に認定されて登記した。

 「物を書く人(作家、詩人)は、書くこと自体が公益です。それ以外は不得意なもの。今後は、文芸講演会、文学トークイベント、文化庁主催セミナーの支援などの公益活動を活発にし、文化人、文藝愛好家にたいして信用度を増す活動をしたい」と篠弘理事長が述べた。

 寄付者に対しては、税制優遇があり、寄付控除がある。「協会が新設した義援金基金口座が、銀行ですぐにできた。これも公益法人となったメリットがすぐに出た、事例の一つです」

 東日本大震災では日本図書協会から協力を依頼された。同協会は支援の輪に加わり、書籍のコピーやデータ、朗読などの録音、録画データを送信できるようにした。
 本来ならば、それぞれ著者の許諾を必要とするが、入手困難と時期と地域にかぎり、一括して許諾できるものとした。

 青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県の会員は105人(全国の会員・2548人)。被災状況について問い合わせした。42人から返信があった。大小の被害を受けている。会費の二年間猶予など、今後は検討されていく。

 林真理子さんら3人が理事に加わった。

P.E.N.広報委員会の反省会、打上げ会、作家たちは美声を聴かせる

 「国際ペン東京大会」が2010年9月に開催された。会場は早稲田大学・京王プラザホテルなど。ノーベル賞作家、文学者たちの講演会、文学イベントが行われた。他方では国際会議として、諸外国から参列した文学者たちの代表者会議が行われた。

 ホスト役の日本ペンクラブは大会を成功裏に終わらせた。それには阿刀田高会長以下、各委員会・メンバーや会員が精力的に処してきた、という背景がある。

 同会員は、現役の作家、詩人、文筆業、大学教授など、大半がそれぞれ仕事を持って活動し、収入を得ている。
 国際ペン大会に向けて、仕事の一部、あるいは大半を棚上げし、全力投球してきた人も多い。同クラブはボランティア(会場までの交通費も自前)だから、収入減になる。それもいとわず国際文学活動のために尽くしてきた。

 私が所属する広報委員会(相澤与剛委員長)は会報委員会(清原康正委員長)と合同で、一年半、取り組んできた(担当役員:高橋千劔破)。
 
 大会前の広報活動は、報道各社への案内、会員への通知など、処すことが多かった。大開当日は、「日本ペンクラブの歩み」などの展示会、記者会見の対応、そして各セッションに出向き、「記録資料編纂」の取材を行ってきた。

 国際大会が終わっても、記録の整理、執筆などが続いてきた。半年後の現在、記録資料がゲラの段階まできた。
 一区切りついたところで、合同委員会の反省会と打ち上げ会が行われた。

 国際ペン東京大会は25年周期で、日本が受け持ってきた。となると、次回も25年後の可能性が高い。それが共通認識だった。
 この反省会が次回に生かされるにしても、25年後は誰も委員として残っていないかもしれない。個々人が良かった点と改善点を述べ、記録で残すことになった。

 反省会。とともに委員会メンバーの最後の顔合わせ会でもあった。日本ペンクラブ規定で、各委員の任期は2年間である(再選もある)。

 阿刀田会長は2期勤めたが、3期目を辞退している。新しい日本ペンクラブ会長は誰になるのか。
 初代が島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成……、と著名作家が続いてきた。次期会長の選任には興味深いものもある。

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年に1度、ギター演奏を聴く=名曲が心にしみる

 川瀬のり子と教室生徒による、第8回「ギターサロンコンサート」が4月24日、東京・自由が丘チエスナットホールで開催された。小、中学生(男女)から、リタイアして本格的にギターに取り組む60代まで、と幅が広い。


 演奏者たちはそれぞれ真剣な表情で、1小節ずつ楽譜に忠実に弾く。緊張から音が硬くなる。それでも、この日のために、練習に励んだ、という熱意と努力が伝わってくる。



 年に1度、ギター生演奏から、心を癒してもらっている。
 個人的な好みからいえば、より初級者の曲のほうが心地よい。

           

「禁じられた遊び」「グリーンスリーブ」「シェルブールの雨傘」「夜霧のしのび逢い」「枯葉」「鉄道員のテーマ」「ラ・クンパルシータ」など、聞きなれた名曲だけに、心にしみこんでくる。

 中級、上級者になると、ホ短調とか、変奏曲とか、アストゥリアスとか、むずかしくなる。なにも考えず、自然体で聴いている。

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春の郊外を歩く、大震災を考える=作家として、何をなすべきか

東日本大震災から、約1ヵ月たった。日本人が一つになって、復興・復旧へと向かいはじめた。とはいっても、いまなお暗い雰囲気が漂う。

 メディアは相変わらず、政府関係者や東電をバッシングし、妙に利巧ぶっている。為政者を攻撃しなければ、知的集団ではないと、ジャーナリストたちは勘違いしているのではないか。そんな想いが強くなるばかりだ。

 今回の大震災の発生後から、私はどこかジャーナリストでなく、小説家として自分を置きたいと考えている。そんな自分を意識している。


       
 東京・仙台までの新幹線が開通した。被災した現地に足を入れようかなと考えた。いま出向いて、暗い報道ばかりを伝えても、大手メディアの二番煎じになるだけだと思い直した。
 
 状況が落ち着いた頃、ジャーナリストでなく、小説家として被災地に出向きたい。被災地で、人々が経験した「人間とは何か」という根幹を求めて現地を回ってみたい。
 単に事実の伝承、報道の上滑りでなく、災害時の人間の本心、本音、思考をさぐり出したい、浮かび上がらせたいというものだ。
  

 4月末の晴れ間を狙って、東北には向かわず、初めて目にする千葉県・柏市の郊外を歩いてみた。近郊農家もある。あけぼの山農業公園もある。
 田畑や花や土地の匂いを感じながら、いま文学は何をするべきか、何を書き残すべきか、と考えてみたいと思った。

  

 2008年2月、日本ペンクラブ主催の世界フォーラムで、「災害と文化」が行われた。国内外の著名な作家たちの作品が紹介されたり、朗読されたりした。

 大自然はある日突然、巨大なエネルギーで人間に襲いかかる。人間は為すすべがない。脆弱な姿をさらしだすしかない。
 人間が自然災害と立ち向かったとき、いかに弱いものか。そのなかで、人間は何を考え、どんな行動をするか、それらが作品化されていた。

 人間は自然災害を制御、防御、コントロールできる。そう信じるのは人間の驕(おご)りだと、多くの文学者・作家たちは語っていた。
 予想も、予知もできない。人間の思慮を超えたりするものだ。
 

 災害を被った直後、人間は何を考え、どんな行動をとり、どんな希望へと結びつくのだろう。
 希望が得られない人は絶望になる。

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写真で観る、春の奥多摩。歩く、登る、楽しむ

春になると、一度は訪ねたいのが、桜の咲いた奥多摩と、周辺の山です。
鳩ノ巣駅とか、白丸駅とか。奥多摩渓谷の中腹には、古風な駅舎が続いています。桜の古木が見事に咲いています。


桜は青空に透かせば、心まで澄んできます。


川乗山の登山道は、民家が点在する集落を抜けていきます。


汗をかいて、小休止。眼下に広がるV字渓谷の情景には心が和みます。


遠望の山が、どこか虎刈りの坊主頭を思わせます。

尾根道には光と影の造形美があります。

川乗山の山頂からは墨絵のような、山並みが遠望できます。

百尋の滝は豪快です。落差があるので、瀧口だけを撮ってみました。


人工林の杉と太陽が戯れて、木洩れ日を作っていました。


渓流の魅力の一つは、流れる音です。渓谷にこだましています。

下山すれば、奥多摩の温泉で汗を流し、着替えをします。休憩室で、そばとビールで、開放感を味わいます。

【書評】中嶋いづる・作「石文は歌を残した」=東北の悲劇を描く

 東日本大震災はマグニチュード9.0で、地震、津波、原発事故とトリプルの大災害となった。規模と被害は想像を絶するもので、世界的にも震撼とさせるものだ。

 中嶋氏から、「25年ぶりに小説を書いてみました」と、「塵風」(西田書店、900円、2月1日発行)が送られてきた。彼は3、40代頃の小説の習作仲間である。(講談社・フエーマススクール「伊藤桂一教室」で、学んだ友)。
 早めに読みたいという気持ばかり。それが先送りになっていた。開いたのは大震災の後だった。

 
作品は西暦700年代(奈良、平安時代)の東北が舞台である。北に侵攻する大和朝廷に対して、青森、岩手、宮城の蝦夷が立ち向かう、敗者の歴史小説である。朝廷の武力に屈する蝦夷の民の悲しみがテーマとなっている。

 このたび、東北地方は大地震の途轍もない大災害に打ち負かされた。現代の悲惨・悲劇と、作品とどこかオーバーラップしながら読み進んだ。
 
 作者は、邪馬台国が九州説を採っている。その勢力が奈良盆地に拠点を移してきた。日本(ひのもと)と国名を決め、応神天皇を祖とする大和朝廷が誕生する。勢力争いで、奈良を追われた王権がやがて津軽へと亡命していく。

 当時の津軽・蝦夷は一つの国でなく、部族の集まりだった。文字の文明はなかった。粟、栃、山菜、きのこを採り、海では魚介類を捕り、山では熊や鹿を獲る。稗、粟、蕎麦などの雑穀農業が行われていた。

 津軽に亡命してきた王権は、漢字や数学の文化を持ち込み、地場産業だった・製鉄(タタラ)や、古くからの中国大陸や北海道の交易と結びついた。そして、国名を日本中央(ひのもと まなか)と称した。

 西暦789年、蝦夷の800人の騎兵が北上川支流の衣川で、4000人の朝廷軍を川に追い込む、という奇襲作戦で打ち勝った。溺死者は1036人(続日本書紀)。武将の名前はモレとアテルイだった。

 その勝利はつかの間だった。大和朝廷は律令制による中央集権政治を推し進めるために、決してあきらめず、執拗に北部・東北地方を攻めてきた。そこで、朝廷は坂上田村麻呂を中心として10万の大軍を差し向けてきた。当時の日本の総人口は600万人だから異様な人数である。

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逃亡しない日本人たち

 世界を見渡しても、自然災害に縁のない国が多い。それらの人々には、この大災害がどのように映っているのだろうか。東日本大震災のあと、私は「外電」の報道に興味を持っている。

 地震発生時の、激震でゆれる建物と逃げ惑う人たちがTVに映し出される。約30分後の津波が、船舶や家屋を次々に飲み込み、黒い舌のような大波で逃げ惑う人々に襲いかかる。さらには、福島の原子力発電所が水蒸気爆発を起こす。農産物や生乳から自然界にない放射線物質が検出されている。

 まさにトリプルの大被害である。これは有史以来の世界最大の自然災害だといえる。

 東北や関東の被災地の人たちは、「生きていただけでありがたい」といい、救助、救援の人たちに「ありがとう」「お手数をかけます」という言葉を向けている。ヒステリックに泣き喚く光景などない。
 外電はそれらを日本独特の秩序と精神だと伝えている。

 日本在住の外国人たちは、放射線の被曝を怖れ、国外へとぞくぞく退去している。各国のメディアは、それら引き揚げ状況を報道している。それが外電で、日本に伝わってくる。

 一昨日、上海出身の唐湘己さんから、母親からの伝言として、「東京は危ないから、上海に来なさいよ」と連絡があった。生命を案じてくれる厚意に対して、謝意を言いながらも、私は心の中で、「日本人は災害から逃げない」と一蹴していた。

「仮に大量に放射線を被爆しても、3年や5年くらいで、すぐ死ぬわけじゃないし」という気持もあった。

 私は広島出身で、原爆小説を書いたことがある。多少だけれども、核物質、核反応、放射線被爆の被害の知識がある。
 広島・長崎の被災者は、核爆発でどれだけの放射線を浴びたことか。残留濃度の高い放射線の街で、広島県民は死と隣りあわせで道路を整備し、近代的な街を作ってきた。
 原爆投下の8/6以降に広島に入り、復興に尽した。それらの人たちも白血病で死んでいった.その数はとてつもなく膨大である。

 それらの状況と今回と比較して考えている。

 福島原発では原子炉が自動停止しており、核分裂もゼロ。わずかな放射線被爆の可能性(マイクロ・シーベルト単位で)、国内外のメディアがあれこれ騒いでいる、それが滑稽に思えたりする。広島・長崎の高濃度の被ばく線量と比較して、論じれば、わかりやすいのに、と思ってしまう。

 日本人は逃げない、被災地の復興に挑む、その精神ルーツを考えてみた。

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海外報道は間違っている、日本人に礼節などない

 東日本大震災で、日本はあまりにも悲惨な状況下におかれている。海外の報道は被災地の日本人を絶賛している。「混乱や暴動や略奪はない」、「怒鳴り合いや喧嘩もない」、「日本の冷静さに世界が感心」、「日本人には秩序と礼節がある。それを見習おう」という趣旨が多い。

 世界は日本に対して同情一色である。貧しい国、たとえば内戦状態のアフガンからも、「日本から見れば、たいしたお金ではないだろうが」といって、この災害に対して義援金を送ってくれる。

 東北の被災した現地では、救助、救援、ボランティアの人たちが不眠不休で、被災者の救出や生命を守るために活躍している。福島の原発事故では、東電の作業員や支援部隊の人たちが、放射能による後遺症を覚悟で、「自分がやらなければ、日本人が大変になる」という武士道に似た精神で、生命をかけて原子炉に立ち向かっている。

 世界が認めるように、被災地の人たちは連帯感で助け合って頑張っている。それは日本人としても誇りに思うし、賞賛に値する。


 ところが多くの日本人はどうだろうか。首都圏の大手スーパーでは、開店前から消費者が行列を作り、開店と同時に、食品や生活用品を必要以上に買い込む。トイレットペーパーなどは大勢が群がり、わず1時間で売り切れてしまう。まさに、「自分の家庭さえよければ、被災者など関係ない」という身勝手な行動だ。

「なぜ、こんなことをするのか」
 オイルショック時から何度も見せられてきた光景だ。うんざりさせられる。2週間か、3週間ほど待てば、トイレットペーパーは市場に出回り、やがては過剰在庫から、商品はだぶつく。スーパーは値下げ競争になっていく。それがわかっているはずなのに。

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区民記者の時代へ、第1歩。『かつしかPPクラブ』が活動開始

 平成22年春から、「かつしか区民大学」がスタートした。講座の一つとして、市民記者養成「私が伝えるかつしか」が1年間(8回講座)にわたって行われた。受講生は20人(定員)。私は講師として、写真の取り方、文章の書き方、取材方法など、座学と課外活動など実践的な指導を行ってきた。

 毎回、受講生には作品提出を義務づけ、添削を行って力量を高めてきた。全員が葛飾区内を歩き、インタビュー記事を書ける技能を身につけた。

 卒業生のうち12人が同年12月に、「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)を発足させた。最初のP=PHOTO(写真)、次のP=PEN(ペン)。
 活動方針は、区民の目線で葛飾を取材し、小冊子やネットなどで報道していくもの。他方で、「報道の質的向上を高める」、という信条のもとに、定期的な講座も開いていく。

  初代会長:浦沢誠さん(写真・右)



 第1回講座が2月18日、同区東立石で開催された。事前に、私の手許には「年末・年始」をテーマとした取材作品が届いていた。パワーポイント、およびビデオカメラなどを使い、それら作品の総評と、個別の講評を行った(器具協力:同区教育委員会・生涯学習課)。

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僕を知らないの? 日本人で、あんただけだよ

 日本ペンクラブの2月度・例会が2月15日、東京・千代田区の東京會舘・ロイヤルルームで開催された。阿刀田高会長が冒頭において、「今年初めての例会です。旧正月でもあり、おめでとうございます」と新年の挨拶を行った。「国際ペン大会が終わり、やや気の抜けた気分もありますが、新たなペン活動のために推し進みましょう」と述べられた。
 
 乾杯の音頭は中西進副会長だった。
 司会の高梁千劔破(ちはや)常務理事から、「今年は定款の改正があります。2/3の出席(委任状を含めて)が必須です」と、春の総会の参加を呼びかけていた。

 新ペンクラブ会員が壇上で紹介された。外国人が2人いた。1人は欧米系の女性。もうひとりはアフリカ人男性だった。


 その後、パーティーに移り、広報委員会のメンバーがあれこれ談笑していた。アフリカ人のオスマンユーラ・サンコンさんがやってきた。私はふだんTVニュースのみで、娯楽番組を観ていない。作家仲間からは「芸能音痴」で通っている。

「何、やっている人なの?」
 私がサンコンさんに訊いた。
「日本人は1億2千数百万人いるよ。知らないのはあなただけだよ」
 彼は呆れ顔で、白い歯を出して笑っていた。
 となりにいた鈴木康之さん(副委員長)が、「穂高さんはほんとうに芸能音痴だね、TVバラエティー番組で、一世を風靡(ふうび)していたタレントだよ」と教えてくれた。

 サンコウさんに文筆活動を問うと、日本の自然、家族、そして素晴らしい日本文化をアフリカに紹介している、と説明していた。ただ旧来の家族良さが消えかけている、とつけ加えた。

 現在は、タレント稼業よりもギニア大使館に勤務している。
「何等書記官なの?」
「一等書記官だよ。大使とふたりで日本にきたからね」
「だったら、一等書記官兼飯炊きだね」
「そういうことよね」
 彼は大笑いして打ち解けていた。

「胸のバッチは?」
 私が指すと、
「2年前に、『東久邇宮 文化褒賞』を受けたんだよ」
 彼はギニアの緑化運動、学校づくりに7年間に尽くしてきた。それが評価されたものだという。
 この表彰式で、明治初年に撮影された第1回の功績叙勲者たちの集合写真を貰ったという。

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