小説家

【良書・推薦】 山﨑保彦著「老船長のLog Book」  まさか、こんな人生が、あるなんて

『老船長のLogBook』出版案内

 山﨑保彦著「老船長のLog Book」(定価1,600円+税、紙とペン書房)が2020年6月に発刊されました。

人生における3度の奇跡、生と死、家族愛、生きる勇気と逞しさとが、読者の感動と感激を誘います。
まさか、こんな人生が、あるなんて
 そんな驚きの連続です。


 Log Book とは航海日誌です


 広島一中(現・国泰寺高校)2年生のとき、それは昭和20年8月6日で、ふだんより朝1時間ほど早く、翠町(みどりまち)の自宅を出ました。
 広陵(こうりょう)前から電車にのり、相生橋を通り(7時15分頃)、学徒動員として地御前(じごぜん)の兵器工場に着きました。8時から、上半身は半裸体で恒例の体操です。

 8時15分に原爆がさく裂しました。

『せん光が走り、一瞬目がくらんで、あとは何事もなく静かだった。こんどはものすごい爆風で、工場の窓枠とガラスが、一面に飛んできた。全員が地面に伏せた。「待避」と指揮者が叫んだ。中学生は防空壕に向かって走った』
 わき上がった不気味な雲の下はどす黒く、地上の火焔を反射して深紅だった。けが人がトラックで、次つぎに工場に運ばれてきた。


 翌日は、郊外電車は動かず、己斐(こい)から無残な市街地(原爆ドームの南)を通って、翠町の自宅に帰ってきたのだ。
 かれの進学希望は、江田島・海軍兵学校だった。だから、4か月前に上海の中学から広島一中に転校してきていたのだ。


 終戦で、海軍兵学校は消えた。そこで、東京商船大・航海科に進み、大阪商船に入社した。
 三等航海士から、「海の男」として、危機一髪の海難事故、病気、客船ではお客の水葬、海難救助と、息をつく間もなく、一気に読ませる。

           *

 一等航海士として、アルゼンチンの方の水葬の場面は圧巻です。

『わたしが葬儀の担当になった。水葬はお棺が大きすぎると、ボートになって浮いてしまう。ご遺体の寸法を計測した。沈めるための砂嚢(さのう)の重量も決めた。頭側には4分、足側には6分の重量配分をおこなった。そして、頭側に小穴を4カ所、足側にも6カ所開けた』
 これで水葬のとき海面との衝撃で破損することもなく、浮くこともなく、静かに入水していくだろう。

 一等航海士のかれは船内放送で、水葬をお知らせした。 

『乗船客のお別れの挨拶もすんだ。お棺のなかを見ておどろいた。すきまなく廃棄予定の救命胴衣がびっしり詰まっていたのである。

 老コックさんが、「深い海のなかでは、仏さんは寒いだろう」と思って入れたのだ。気持ちはわかるが、これではお棺が浮いてしまう。
 最後にお棺の上にアルゼンチン国旗をかけ、固く縛った。
 船長がおおきく船を旋回させると、白い航跡が円くレースを敷いたような静寂な海面ができた。

 デッキからお棺を滑らせる。お棺はいったん海中に消えるが、ふたたび姿を現し、ゆっくり流れて、やがて足元から静かに沈んでいった。
 汽笛長三声が悲しさを誘う。』

          *

 こうしたドラマとエピソードが次つぎにつづくのだ。

 山崎さんが一等航海士から、船長になれば、紅海のせまい海峡でエンジン火災を起こす。ハプニングの連続である。ロンドン支店駐在船長、ふたたび大型船の船長となる。

 海の男の極限の戦いが、写真とイラストも加わり、読みやすさがあります。

 退職後の山﨑さんは、「大阪湾パイロット」となりました。晴れた日もあれば、嵐もある。危機と背中合わせの仕事である。同僚の痛々しい事故にも遭遇する。
 
 やがて、山崎さんは国際パイロット協会の副会長に就任される。世界で発言する船乗りになったのです。


「この体験は必ず書き残すべきですよ。後世のためにも」と私(穂高健一)は勧めました。

 16ページにわたる『写真が語るLog Book』も愉しませてくれます。内容の濃いカラー写真がつづきます。


 『関連情報』

 問合せ先 平木滋(広島ペンクラブ・会員)090-4027-0353    

【歴史から学ぶ】日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る(上)

 新型コロナウイルスの感染拡大で、日本中の経済・文化・学術活動が思いもかけず急ブレーキがかかった。ここ2~3か月間は外国への往来の航空機も、物流の船舶も止まった。経済活動があらゆるところで停止した。
 経済が動かなければ、世のなかは沈んだ状態になる。多くのひとは「お金(紙幣)」の重要性が身に染みている。
 全国民に1人当たり10万円の支給と言い、一万円札が10枚並んで大写しになる。その肖像画はいま福沢諭吉である。2024年から渋沢栄一に変わる。
 福川諭吉といえば多くが知る思想家であり、慶應義塾大学の創設者、「学問のすすめ」と矢つぎばやに答が出てくる。
 しかし、渋沢栄一となると、「日本の資本主義の父」という概念くらいで、かれの具体的な業績はあまり知られていない。
 封建主義から資本主義に変えたうえ、日本を産業革命に導いた。そして、世界列強という大国にまで伸し上げさせた。それが渋沢栄一である。
 日本人の慈善家として、2度もノーベル平和賞の候補にもなった。


 紙幣は厳密にいえば「日本銀行券」である。渋沢はその中央銀行の発足にも最大限にかかわってきた。真っ先に、紙幣の肖像画に採用されても良かった。
 過去からなんども肖像画の候補になりながら、顔に顎(あご)髭がない理由から採用されなかった。伊藤博文のように、繊細な頭髪や顎髭は、贋金(にせがね)防止のために必要とされてきたからである。

 いま流通する福沢諭吉の紙幣は、顎髭がなく、精巧で贋金防止ができた。ならば、大本命の「渋沢栄一」で行こう。当然の成り行きだ。

            *
 
 私たちはウイルス禍を機に、今後の社会は変化する、と感じている。なにが、どのように変わるのか。いまの段階で、誰も、これだと見通せない。
 かえりみれば、現代社会は企業の力を強くすることで国の富を増してきた。
 私の想像だが、企業や組織よりも、個人の力を底上げすることで、国が豊かになる時代の到来かもしれない。
 これまでは企業とか、チームとか、国とかの枠や後ろ盾(バックボーン)が重要視されてきた。しかし、これからの世のなかでは、多くの人が個々に技量を磨き、プロフェショナルという職業人になってくる、と思われる。
 本人の自由意思で働く、「フリーランス時代」というべきだろうか。営業マンにしろ、介護士にしろ、店員にしろ、プロとして自立して、ネットを通して自分を売る時代だ。ある意味で、お呼びがかかる、全国、世界に渡りあるく時代になりそうだ。
               
            *

 私の憶測とか、推測よりも、歴史を読み解いてみたい。そのなかに将来へのヒントがあり、教訓とか、学ぶこととかがあるだろう。
 それには150年前、新しい経済の偉人・渋沢栄一に向かいあってみよう。そこから英知をもらおう。

           *
  
 令和2年は新型コロナ禍で、社会が一律に元気を失い、消沈している。これとよく似た歴史が、幕末から明治時代に突入したときである。
 戊辰戦争で国中が疲弊し、社会全体が活気を失い、経済が停滞していた。幕藩体制の崩壊で、武士は給料(扶持・ふち)をもらう相手がいない。どのように生きたらよいか、まったく見通せない環境におかれていた。
 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允は、「明治の三傑」かれらは地方の下級藩士で、全国統一の政権運用の経験がない。そのうえ、「武士はそろばん勘定ができない」の類で、西洋の資本主義の実務がまったくわからなかった。
 
            *
 「明治の三傑」たちは尊王攘夷論者で、鎖国にもどれと叫んでいたから、新政権となって、いきなり近代化路線をとった。といっても、外貨、外債、利回りとか、資本主義の経済用語そのものが理解できない。
 ひとまず王政復古で、奈良・平安時代に使われた「大蔵省」を名づけた。ただ、1000年も昔の仕組みなど、19世紀にはなんの役にも立たない。

 薩長土肥の新政府の要職たちは、中央集権の経験がない。とはいっても、外国人と対面する必要がある。
「拙者は100石取りである」
「イギリス・ポンドに換算にすれば、いくらになりますか」
「外国紙幣なんて、見たこともない。紙幣そのものを使ったことがない」
 かれらは資本主義の仕組みすらわからない。
 ならば、
「外国人を雇い入れると、良いのだ。しかし、資本主義の仕組みの金融・財政で、外国人を招聘(しょうへい)すれば、アジア各国はみな都合よく半植民地にさせられている」
 この二の舞は避けたい。
「だれかいないのか」
 長州ファイブといえ、1、2年留学したくらいで財政・金融の理論と実務までわからない。現代でいえば、大学の経済学部の2-3年生が大蔵省や日本銀行の実務などできないのと同じである。
「だれか適任者はいないか」
「農民出身ですが、渋沢栄一がいます」
「農民の出か。どこにいる」
「静岡の一橋家です」
「德川慶喜の下にいるのか」
 慶喜といえば、15代德川将軍で、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、さらには追討令まで出している。そして、駿府(静岡)の70万石に閉じ込めた。新政府とすれば、最大の敵としてきた人物である。
 渋沢栄一はその静岡県で、ヨーロッパ仕込みの会社を起こしていた。とても、巧く行っているようだ。しかし、いまさら慶喜に頭を下げたくない。
「静岡県令に命じて、渋沢栄一を大蔵省に出させよ」
 予想通り、渋沢は断ってきた。


【歴史から学ぶ】日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る(中)

 渋沢栄一は面白い経歴だった。ここらからひも解いてみよう。


 生れが天保11(1840)年で、武蔵国洗島村(埼玉県・深谷市)の農家(名主)だった。幼少の7歳で、頼山陽の「日本外史」を読んでから尊王思想に魅せられたという。

 武蔵国の豪農の子どもらは剣術をならう。近藤勇、土方歳三などのように。渋沢栄一も武芸として神道無念流を学んだ。
 渋沢は19歳で結婚してから、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入門する。そこでも、尊王攘夷の思想に染まり、23歳にして、大胆なことを考える。
 農民はどんなに才知があっても、勤勉しても、政事はつけない。逆の道をいこう。それには、尾高惇忠、後に彰義隊頭取になる渋沢成一郎などとともに、「高崎城を乗っ取り」、その勢いを借りて、外国人の多い横浜の横浜を焼打ちにする。国家が混乱すれば、英雄が出てきて、国政をとるだろう。
 
「暴挙だ、一揆とみなされて、斬首が落ちだ」
 と従弟に反対される。

 高崎城乗っ取りを断念した渋沢栄一は、京都に出て、尊王攘夷の志士活動をしようと決めた。八月十八日の変のあとで、期待した過激派の長州は京の都を追われていた。勤王派は凋落していたのだ。
「持ち金がなくなった。腹がすくし」
 江戸で顔見知りだった一橋家の重臣・平岡円四郎が京都にいる。そこを訪ねた。
「うちにきて、中間でもやれ」
 と手を差し伸べてくれたのだ。ここから人生は尊王攘夷とは真逆になった。
 一橋家の最も下っ端で、足軽以下で、雑魚寝(ざこね)である。すこし昇格して御徒士(おかち)になった。
「一度でよいから、殿さまの慶喜公にお目通しさせてほしい」
 と御用人に頼んでおいた。大胆な希望だった。ところが、そのチャンスを作ってくれたのだ。
「一橋家には軍隊がありません。殿さま(慶喜公)は京都守衛総督でいながら、身辺警備の100人ばかり。京に戦いが起きたら、守衛でいながら役にもたちません。一橋家の御領内から1000人の農民をあつめて、歩兵を組み立てられたらいかがでしょうか」
 と注進した。慶喜はただ無言で訊いていた。

 数日後、歩兵取立御用掛を言いつけられた。つまり、兵士の募集係だ。

 一橋家は飛び地として摂州、泉州、播州、備中、それに関東にもある。御徒士の低い身分の渋沢栄一が出むいても、どこの代官所も協力しない。予想外の難問だった。一軒ずつの農民を口説いても、翌日には断ってくる。1人も集まらない。
 別の領地に出むいて、そこの代官に直接頼んでも、下っ端か、とあなどられてしまう。
 備中井原村(現・岡山県)は一橋領で、興譲館(こうじょかん)があり、阪谷朗廬(ろうろう)という著名な学者がいた。学者から代官に頼んでもらおう。思惑とおり、阪谷は協力してくれた。ここから切り口ができて、総体として450人ほどあつめられた。
 
 この興譲館には、広島・神機隊砲隊長となる高間省三が、学問所の助教のとき遊学していた。もしかすれば、渋沢栄一と顔を合わせていたかもしれない。
 神機隊と渋沢栄一とは戊辰戦争の時、思わぬ関わりが生じるのだ。

           *
 
 渋沢栄一は、小規模ながら、一橋家の軍隊を起こした。さらに、産業奨励にも積極的で、勘定組頭になった。みずから提案した藩札も発行し、金融の実践である。それぞれが成功した。経済が好きな人物になった。
 これが近い将来のヨーロッパ留学で、おおいに役立つのだ。

           *

 厄介なことに、慶喜が15代将軍になったことで、組織は巨大になってしまった。渋沢は望まずして家臣から幕臣になった。とはいっても、幕府内の超下っ端だから、とても産業・金融の仕事などありつけない。
 むろん、将軍・慶喜にも拝謁できない。また、浪人にもどろうか、と渋沢は考えていた。 

 慶応3(1867)年に、パリ万博が開催される。德川将軍の名代として、水戸藩の昭武(あきたけ・最後の水戸藩主)が出むくことになった。慶喜は、年少の昭武には5-6年は留学させる予定だった。
 かたや、水戸藩は頑迷な攘夷派集団だから、外国人嫌いだ。お供の人選に難航していたらしい。かろうじて7人と決まった。一橋家からは、金銭感覚の良い渋沢栄一が加わったのだ。
「経済が学べるぞ」
 夢が一杯だった。貪欲に学びたい渋沢は、まず船中でフランス語を勉強していた。
「なにがなんでも、ヨーロッパの好いところを学びたい」

 一行はパリ万博のほかにスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと巡回旅行した。
 渋沢は学ぶポイントを絞り込んだ。将来は政事・政策など無縁だし関係ない。ひたすら経済学を修めて金融、運輸、商工業を会得することだと燃えていた。
 
 最大の関心事は、紙幣の流通だった。紙幣が金・銀に替えられる。それも量目も純分も同じある。日本の場合は石高の表示であり、金に換えられない。

 次の興味は銀行だった。他人の金を預かったり、貸したりもする。為替の取り扱いもする。ここらは日本にないシステムだった。
 ヨーロッパの鉄道会社は新規投資に、借用書(社債)を出す。日本では借金を隠すのが一般的だが、ところが、なんと借用証文(公債証書)が公然と売買されているのだ。

 商工業の組織は不特定が株券を買う、株式会社である。つまり、大勢が出資した商工の会社である。
「なるほど、国家の富強は、かくのごとき物事が進歩しなければならないのか」
 と資本主義の骨幹を知った。

 日本は武士が威張っている。だけれど、ヨーロッパの軍人は商工者(実業家)の地位を尊敬している。まるで、日本と逆だ。
「すべてのひとが平等でなければ、たがいに投資して、共同で事業の進歩を成すことができない」
 渋沢は領事官を介して、銀行家、郵船会社の重役に会って話すこともできた。経営者からの視点も得られた。

 こうして学んでいるとき、徳川幕府が倒れてしまった。帰国命令が出たので、一行は明治元年11月に日本に帰ってきた。

 德川慶喜公は謹慎で、駿河の宝台院という寺の汚い一室に、押し込め隠居のような有様だった。出発時には将軍であったひとが、惨めな生活を強いられている、と渋沢は心を痛めた。

 かれには養子に剣術の達人・渋沢平九郎(写真)がいた。戊辰戦争の飯能戦争で、振武軍の副将だった。
 平九郎は敗戦で、秩父の山道を逃げているさなか、広島・神機隊の斥候たちと遭遇した。4人をあいてにして追い払ったが、銃弾を一発足に受けていた。平九郎は観念して自刃した。

 渋沢栄一は慶喜の境遇、平九郎の死という失望感から、田舎に帰り農業するか、駿河でヨーロッパで学んだ産業の実践経営をするか、と迷っていた。

 ちなみに静岡市内の有力者たちに、合同出資を持ちだしてみた。

 ヨーロッパ帰りということで賛同者が得られたので、官民合同の「静岡商法会所」(株式会社)を設立した。渋沢栄一は事務総裁の頭取と名づけて、そこに座った。
 事業は米穀、肥料など商品の売買、そして銀行業務として貸付、預金もひきうける。いわゆる万屋(よろずや)商法であった。

           * 

 明治2年11月、箱館戦争が終結するまえだった。突然、大蔵省に出仕せよ、と藩庁を介して渋沢栄一に厳達がきたのだ。
 かれは拒否した。
「それはならぬ、静岡藩が新政府に楯突(たてつ)くことになる、有為な人材を隠していることにもなる」
 と藩庁は受け付けない。藩主や慶喜公にも迷惑になることだという。

 この当時、大蔵卿(大臣)が伊達宗城、大蔵大輔(実質のトップ)が早稲田の大隈重信だった。その下に伊藤博文、さらに井上馨と続いていた。


 渋沢栄一は静岡藩庁の顔を立てて、ひとまず大蔵省に出仕してから、すぐに大隈重信に辞表をだした。
「これからの日本の経済界を進めていくには、渋沢栄一が必要だ」
(御免こうむりたい)
 渋沢は慶喜公の惨めな姿からしても、新政府に役立つ人間になろうとは思わなかった。
大隈の説諭は執拗だった。

                     【つづく】

【歴史から学ぶ】日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る(下)

  渋沢栄一は、ヨーロッパ帰りで、静岡で商法会所を起ち上げて、資本主義の原点である商工業と銀行業をスタートさせた。
ところが約半年後に、大蔵省の租税正に任命されたのだ。渋沢はかたちのうえで出仕してから、大隈重信に直接面会して、辞意を述べた。

               *
  
「たとえ足下(渋沢)が、充分なる学問がないにせよ、すでに駿河で一商会を組み立てている。それを日本全国に普及させて、日本に実業界を作ってくれ。それにはまず大蔵省で仕組み(法)をつくる。そのためにも、有為な人物が必要なんだ」
 肥前藩出身の大隈重信は、頭が切れるし、強引だった。
「私は静岡で自分流の事業を行いたいのです。官吏にはなりたくない」
 渋沢は新政府の要職は御免だとばかりに、あれこれ申し立てた。

「慶喜公にたいする義理は一応もっともである。だが、慶喜公のみを思うて、天子(明治天皇)にたいする奉公の念はなくても良いのか。大蔵省で財政・金融の仕組みを作ってから、足下(渋沢)が思う存分に実業すればよいことだ」
 薩長土肥の政治家は、資本主義の経済そのものが理解できておらず、日本が今後どの方向に進んでいくべきか、まったくわからないのだ、と大隈はくり返す。


「奉職は引き受けかねます」
「なにを苦しんでおる。足下(渋沢)の考えはちがう。静岡と、日本の将来という大小を比べてみたまえ。わが国は欧米諸国の先進国の谷間で、封建主義の古い体質から変わらないと沈没してしまう。解るだろう」
「私は一橋家に仕えた身です」
「大蔵省は新政府をつくるというよりも、日本の資本主義を作るのだ」
  弁の立つ大隈重信に、渋沢栄一はとうとう口説き落とされてしまった。

           *
  
 ここから4年余り、渋沢は財政・金融の総合プランナーになって、貨幣制度を「両」から「円」に切りかえた。銀行条例を作った。会社組織の条例も次つぎにつくった。

 この間、明治4年には廃藩置県があり、全国から大名支配が消えた。これにともなう数々の新制度を作った。

 租税もお米から紙幣に改正した。鉄道を作るために、外債を発行する。新紙幣は信用をつけるために、ヨーロッパと同様に兌換紙幣にした。新政府の国庫には金・銀の手持ちがない状況下で、実にハイ・リスクである。

 失敗を恐れていたならば、日本経済は死ぬか止まってしまう。渋沢は突っ走った。新事業として、官営冨岡製糸場をつくる。

 写真=冨岡製糸場のHPより

 武士階級が消える。士族には公債証書(有価証券・売買はできる)を発行し、年4分の利息を付けて、6年間は元武士の生活保障をした。


 話を割り込むが、新型コロナウイルスの現在、政府が収入のない中小・小規模企業のみならず、国民に一律の支給する。さらに5年間は無利息・無担保という。
 国民の生活保障をして支えようとしてる。失業した武士を支える。収入がない人にたいする政策努力において似ている面がある。

           * 

「君は生まれつきの経済の天才だ。そのうえ、良く勉強もするし。物事は学問だけではできぬ。経済から近代化を推し進めてくれ」
 激賞する井上馨がとくに後押した。

 大蔵卿の大久保利通が岩倉使節団と海外に行って不在だったから、渋沢の企画がスムーズに採用されていた。貨幣制度、公債発行の方法、銀行の仕組みが整った。

 当時は、外国から招聘(しょうへい)した行政官、教育者(北大・クラーク博士など有名)、産業指導など多分野で指導をあおいだ。しかし、大蔵省だけは、渋沢栄一がいるので、1人も外国人を入れず、財政・金融システムを創りあげた。


 渋沢栄一は、日本が植民地にならなかった最大の貢献者である


 戊辰戦争の勝利者だった薩長土肥の政治家だけでは、渋沢栄一のように資本主義の骨格形成などは、とても迅速にできなかっただろう。疑いもなく、歴史的にもそう言い切れる。

 渋沢栄一は大蔵省を辞してからも、第一国立銀行を創立した。そして、日本の基幹産業の会社づくりに猛進した。印刷業の発展からも、製紙業は和紙から洋紙にするためには必要不可欠な企業だった。「王子製紙株式会社」を設立した。

 物品の海上輸送と荷為替の両立するためには、保険が必要である。「東京海上保険会社」を作る。株券・社債・証券の売買には「株式取引所」を作り、古巣の大蔵省の認可を得た。

 外国から綿糸を輸入していると、外貨がながれでていく。そのためには紡績業の発展が必要だと言い、「大阪紡績株式会社」を設立し、成功させる。

           * 

 明治42年まで、渋沢栄一は約500社の株式会社の設立にかかわった。
 新規の産業となると、リスクもあり、失敗する事業がある。他人から批判されることもあった。それでも、彼はみずから率先し、先進国並みの企業を創立した。

 諸外国で産業革命から200年余りかかったことを、20-30年でやり遂げようとしていた。
 現代にまでつづく大企業が多かった。日本郵船、清水建設、東京電力、東京ガス、IHI、帝国ホテル、東京製鉄、サッポロビール、川崎重工など、書きつくせないほどある。

「私が一人で作ったのでなく、たくさんの企業家、資本家と深い関係をもちながら、創業にかかわったのです」
 渋沢は信頼が財産という考えだった。


 渋沢のすごさは財閥を作らなかったことだ。三井財閥、住友財閥、安田財閥とまわりは巨大化していく。

 日清戦争・日露戦争のあと、渋沢は企業活動から手を引いた。そして、慈善活動、教育活動へとシフトした。数々の大学の設立にかかわった。
 欧米、アジアとの民間外交に専念する。
「外国との協調なくしては、日本の繁栄がない」
 渋沢栄一は、昭和6(1931)年、91で永眠するまで、世界の激しい変化のなかで、民間外交に尽くした。
 2度もノーベル平和賞にノミネートされながら、日本が大正・昭和初期の戦争という路線で、受賞から外されている。

           *

 渋沢栄一が推し進めた資本主義は基幹産業として企業を作ってきた。それが現代日本の根幹だった。
 新型コロナウイルス禍で、新しく日本が生まれ変わろうとしている。これからはテレビ会議、オンライン、ネット文化のなかで、いかなる社会になるのか。
 個々人が独立した起業家になっていく様相を呈している。
「新しい事業には、一直線で無難な進行などないのです。躓(つまず)き、種々の悩みを経て、辛苦(しんく)をなめて、はじめて成功をみるものである」
 新しい分野への道は、いつの時代もまったく同じだろう。

 農民の出で学問はありません、と言いながらも、苦労に苦労を重ねて、率先して「日本を資本主義の大国に導いた」渋沢栄一の一つひとつの言葉は、含蓄(がんちく)があり、「座右のことば」にしたくなるものがたくさんあります。
 そこから読み解いていくと、私たちの将来へのヒントが生まれるでしょう。
 

「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」② 「わたし、書きたいものが一杯あるのです」

 体験を自分のために書くのが作文です。エッセイは自分ために50%、読者のため50%で書く。『小説は100%読者のために書く』ものです。

「わたし、書きたいものが一杯あるのです」
 そんな希望を述べて、小説講座に入ってくるひとがいます。
「あなたの書きたいものなど、どうでもよいのです。私(読者)が読みてくなるものを書いてください。小説は読者のために書くものです」
 というと、けげんな顔をされる。

 作者の独りよがりな作品では、作文なみだと評価されます。

 たとえば、殺人現場を見た。この種の小説を書いても、駄作(ださく)ならば、TVドラマを観たほうがましだと言われかねません。

「現代は、TV・映画のドラマ、社会の数奇(すうき)な事件が日替わりで報道されています。あなたの過去に、どんな大きな体験があったにせよ、奇異(きい)なできごとに出合ったにせよ。作中で人間が描けていないと、途中で放棄されます」


            備中松山城(岡山県)

「先生。これは事実です」
 そのように、教室で、語るひとがいます。
「たとえ、事実でも、日本中の書店にでむいて、そのように言い訳ができますか。不可能でしょう」
「そうですけれど」
「虚構(フィクション)作品でも、読者がまるで事実のような、臨場感をおぼえなければ、小説はだめなんですよ。熟練した作者は、東京から伊豆に往って復ってきただけでも、読者の心にひびく名作を描くのですよ」

「名作じゃなくても、いいんです」
「独りよがりな小説だと、途中で退屈だと言い、捨てられてしまいます。人間をしっかり描いておけば、最後まで読んでくれます」
「人間をえがく、って何ですか」
「人間って、そうだよな。そう言わしめればいいのです」
「たった、それだけですか」
「それが難しいのです。人間の一人ひとりの内面は複雑でしょ。登場する人物、みな顔も、性格も、考え方も違うのです。それらをていねいに描くことです」
 

「物語なら、書けるんですけれどね」
「小説の道でなく、シナリオライターに進まれたら良いんじゃないですか。TVドラマ、芝居の台本ならば、ストーリーが中心になります」
「冷たいんですね」
「読者の目はもっと厳しいですよ。一冊700円の文庫本を買うにも、30分も1時間もかけて、けっきょくは買わない。ラーメンならば、メニューを見て1~2分で決めるでしょう。あなたはいかがですか?」
 と質問してみる。
「5分以上待たせたら、はやくしなよ、とラーメン屋のお兄さんに怒られます」
「そうでしょう。書店の棚から本を抜きだす、それにはまずタイトルをみる。そして、目次、書きだしを読んでみて、それでも買わない。場合によったら、あとがきを読む。そして、棚にもどしてしまう」
「経験があります」
「書きだしの2-3ページで、主人公が立ち上がって、魅力的じゃないと、本はまず買ってくれません」


 小説を書きはじめる人には、小説はストーリーだけじゃないよ、という点から教えます。
 

 
 良質な小説とはジャンルを問わず、『作品が興味深く、わかりやすく、感銘を与える』ものです。それをつねに意識してください。


 よい作品を作る条件として

①  主題(テーマ)が興味深い

②  三要素(環境、人物、事件)がテーマにふさわしい

③  構成がよく、読みだしたら止められない。

④  叙述は具体的で、描写は迫真性をもっている。

⑤  描写文(情景描写・心理描写)で書き、作者の説明文は入れない。


 
① 楽しませる、知らせる、感動させる、行動させる。 

② 主人公の性格や心理など、興味深く描ける素材を採用する。

③ 事件の原因には、人間の普遍性(生き方の哲学)を組み込む

④ 作者が良く知った土地、職業、環境などを選ぶ。

 魅力的な主人公を克明に描けば、良質の作品になる。

①  どんな困難や劣等感にも挫けないで生きる主人公は魅力的である。

②  社会の格差や差別に対して許せない、と行動する人間は読まされる。

③  解決すべき問題や障害を設けて、主人公に戦わせ、乗り越えさせる。

④   視点の統一が大切である。

⑤   一人称と三人称の用語の使い方はちがう。

⑥  神の視点はつかわない。


「こんなにも、多いの」
「だから、小説家として世に出るには10年も、20年もかかるのです」
「ため息が出るわ」
「ところで、毎日書いていますか」
「最近は、しごとが忙しくて……」

 机にむかえない理由は、とても上手に見つけます。人間はことのほか自分を甘やかしすぎるるものです。むろん、これが標準です。

「いいですか。プロ野球選手は旅先でも素振りをしています。プロ作家も毎日書いています。あなたが毎日書かずして、5日間も怠ければ、もう作家の道は遠いでしょうね」
「先生に、心を見透かされているみたい」
「書店の棚は一冊分の透き間もないのです。毎日書かずして、日々に執筆するプロ作家を押しのけて、世には出られませんよ」
「肝に銘(めい)じます」
「次回はこれら項目をピックアップしながら、具体的に説明していきます」
「期待します」
 
        
 部分引用・全部引用の場合、「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」と明記していただければ、非商業誌、商業誌の転載もOKです。

「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」① 小説は最後まで読んでもらえば、実力がある

 わたしが小説を書きはじめた30歳のとき、小説技法がわからず、迷いのなかにいたものです。直木賞作家の伊藤桂一氏の小説講座に出合うことができた。それがわたしの人生すらも変えてくれました。

 当時、講談社が芥川賞・直木賞作家を養成しようという趣旨で、フェーマススクール「小説講座」が誕生した。純文学は伊藤桂一氏、エンターは山村正夫(やまむら まさお・ミステリー作家)氏だった。
 受講生は予備審査があり、世に出たい一心のひとたちばかりが集まっていました。

 山村教室からはミステリー作家として宮部みゆきさん、篠田節子さん、新津きよみさんなど著名なプロ作家が続出した。
 かたや、純文学は道が遠く、伊藤教室からは、いちどは文学賞を受賞するが、プロの道まで進めない人ばかり。少なくとも、書店で買ってもらえる作家までたどり着けなかった。
 フェーマススクールは、絵画部門の赤字から数年で閉鎖されてしまいました。

 その後、数十年経った現在も、伊藤教室は「グループ桂」という同人誌をつづけてきています。山村教室もかたちを変えて続けられているといいます。
 当時20~40代のエネルギッシュな人たちばかりだったから、文学の火を消したくないと継続できているのでしょう。


写真:宮古島

 わたしは現在、読売カルチャー金町、目黒学園カルチャースクールで、ともに「文学賞をめざす小説講座」を開いています。ときどき、講師だった伊藤桂一氏のことばを想いだします。

「講師は自分の創作の仕事がありながら、受講生・数十枚の作品を目を凝らして読まされることになり、少々の読み取り料をもらっても、たいそう負担になる。小説が好き、人の面倒を見るのが好き、読むことを苦にしない、という性格でなければ、つとまらない」
 と著作のなかで書き記しています。まさに、作家を育てたいという熱意がないとできない。

 わたしは時おり、このように語っています。
「純文学作家として、プロの道に進めたのは、伊藤教室・伊藤桂一先生のおかげです。先生への恩返しのつもりで、小説を書きたいという後輩に、作家になる道の手助けをしています。だから、指導のために、手を抜きません」
 受講生が最高だと思った提出作品に、朱が入れると、失望して去っていく人が多い。

「穂高教室は、入ってきた人数だけ、止めていきますね」と、受講生にからかわれたりする。それは、小説で世に出るには、狭い関門を潜らないと出ていけない。文学賞を取らないと、世のなかの人は買ってまで読んでもらえない。
 世のなかで、最も賄賂が効かない世界ではなかろうか。

 良いところは褒めてあげて、そこを伸ばす。悪いとろこでなく、改善点として、このように変えてみたら、と示してあげる。

 受講生を引き留めるための、おべんちゃら(ほめ殺し)は使わない。それに徹している。



            写真:山口線   
 
 私の指導のなかには、純文学へのこだわりがあり、カルチャーの小説講座は、文章作法がうるさいと思う。

 主語+述語、その関わりが悪い。助詞の使い方は、ここでは「は」でなく、「が」です、といった点までも、チェックしたりもする。

 皆さんが文学賞に投稿しても、基本的な文章、小説技法ができていないと、「世に出る資格はまだない」と、いとも簡単に捨てられてしまいます。
 皆さんが応募作品100枚~400枚の原稿を書いても、大半は最初の1、2枚しか読んでもらえないのですよ。悲しくなるでしょう。

 なぜならば、文学賞は一人、優秀賞、佳作など入れても、3人ていどです。仮に1000作品の応募があっても、997作品を棄ててしまえばよいのです。

 1000作品でも、下読みはせいぜい3人ていどです。(大半が微細な予算)。下読みには一人あたり段ボール箱で、300人分ていどの作品が送られてくる。「最後まで読める」その作品を抽出すればよいのです。
 つまり、振り落す作業です。

 下読みはほとんど1週間くらいしか期間はありません。全員のリストにABCのランク付ける。Aランクの作品だけ編集部にもどす。あとは、ゴミ箱行きである。

 下読みから挙がってきた作品の50~100枚が一次通過作品になる。残り900作品はどこか焼却炉に消えている。それが厳しい現実です。
 わたしの知人の小説の下読みは、多少の差はあれども、そんな体験談を語って聞かせてくれます。

 一次予選通過は編集部が手分けして読んで、2次予選を決める。そして、こんどは編集部全員で読んで、候補作を確定する。
 
 わたしは指導する場合、伊藤桂一氏がつねに『最後まで読んでもらえる小説を書きなさい』ということばを座右の指導の言葉としています。

 小説は一人よがりでは読んでもらえない。どんなに執筆に月日や歳月をかけても、小説作法の基本ができていないと、最初の書き出しで、終わりです。
 これでは淋しいし、悲しい。

 そこで、このHPでも、カルチャーで受講生に指導しているレジュメ(教材)などをつかい、「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」として連載しよう、と考えました。

 今回は、小説の応募作品はどのように扱われるか、と知るかぎりの内情を示しました。


※ 部分引用・全部引用の場合、「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」と明記していただければ、非商業誌、商業誌の転載もOKです。

 小説を書くひと、読むひとが増えれば、それが文化の発展につながりますから。 
    

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小説講座のアフター・フォローで、 真半分に割れた「エンディング」

 読売カルチャーセンター金町で「文学賞をめざす・小説教室」の講師をしている。第4週木曜日の夜6時50分から2時間である。

 なぜ、夜の講座なのか。それは会社帰りのサラリーマン、OLが仕事帰りに、小説が学べるように、という配慮だ。

 片や、目黒学園カルチャースクールでは、第2週午後3時~5時までだ。こちらは平日だから、薬剤師とか、自由業とか、お寺の奥さんとか、日祭日が出勤で平日休みがとれる勤め人である。


 教室内の講座の進め方は、ほとんど同じである。提出作品は文章添削と、作品全体の講評を400字詰め原稿用紙1枚に書いて、各自に手渡している。時折り、私が「小説の書き方」のレジュメ(教材)を配布することがある。


「文学賞は結末が勝負です。最後まで読ませる技量を身につけることです。そして、結末(エンディング)はテーマとぴたり一致させる。これが最良です」
 講師の私は、小説講座の指導で、最も重視しているのが、エンディングである。


     備後福山城       
 
 
 読売カルチャー金町の場合は、講座が終わるのが夜9時である。勤め人の方は、職場から教室に直行して来ているので、だれもが空腹である。

 小説講座がおわると、高層ビル内のファミレスで、軽食を取り、ビールやドリンクバーで、のどを潤し、諸々語りあう。
 講師の立場から、「プロの小説家をめざすには」と動機づけの場にもしている。


 質問が出れば、私の体験談も語る。また、私の著作の解説、あるいは創作の舞台裏も語る。

 私は純文学でスタートした作家である。最近は歴史作家といわれることが多い。歴史ものの単行本が出版が続いているからだろう。それとともに、歴史講演の依頼があるから、なおさらだと思う。


 受講生にも直接・間接に影響を与えているようだ。小説講座で、歴史小説を書きたい、というひとがふえてきた。

 恋愛小説はせいぜい40歳代まで。その先は感性が鈍る。歴史小説、時代小説も書けるようにしておくと、息の長い作家生活ができる、と薦めている。

                  *


 静岡県出身で、IT会社の若き役員Yさんは、伊豆の歴史小説、とりわけ江川太郎左衛門を書きたい、とつねに語っている。それだけに、幕末の小説には関心が高い。

 私が最近出版した【安政維新】(阿部正弘の死後)について、Yさんがその話題を持ちだし、
「エピローグで、えっ、こんなおわり方があるの? と意表を突かれました」
 と話題をつくった。


「期待外れだったの」

「まあ、そうです。穂高先生は、小説は死んだところで終わらせるな、というのが教えの一つですよね。阿部正弘が享年39歳では死ぬと、当然わかっていましたから、その先は先生がどう処理するのかな、と楽しみにしていました。しかし、エピローグとなり、その後の歴史の流れにまったく触れていなかった。それが意外です」

「Yさんは、どんなふうに考えたの?」と質問してみた。


「阿部正弘が死んだあと、安政の大獄が起きますよね,そこから尊王攘夷論の旋風が日本中に吹き荒れます。あっという間に、260年続いた徳川政権が瓦解(がかい)したわけです。だから、阿部正弘の開国・通商が、どう瓦解に影響したのか。穂高先生はそこらまで筆を延ばすと思いました」
 Yさんはそのように応えた

「実は、Yさんとおなじ意見が、日本ペンクラブの著名作家からあったよ。なぜ穂高健一は、薩長史観を問い正すところまで書かないのか。それを期待して「安政維新」を読んでいた。失望したよ、と強烈な意見だった」とおしえた。


「ぼくは、薩長史観の批判・攻撃でなくても、阿部正弘がペリー来航後に雄藩から意見を聞いたから、その後は外様大名の発言が大きくなった。それが強いて、徳川家の命取になった、という注釈ぐらいはあってもよかったと思います」と、Yさんはつけ加えた。


 わきから、聞き入るS君が口をはさんだ。かれは明治時代を背景にした作品を書いている。

「あのラストシーンがよかった。十三代家定将軍が、えっ、天下の命を失ったと茫然(ぼうぜん)とする。そこがとてもよかった」

                 * 

「小説とは人間を書くもの。これはジャンルを問わない。たとえ、歴史小説といえども、阿部正弘の人間が描き切れていればいい。だから、エピローグは、死後の歴史などとらわれなかった。私には、当初から、この終わり方しか考えていなかった」
 私(穂高)は、そのように説明した。


 ことし(2020)1月8日の広島県・竹原市の講演会「幕末 芸州広島藩の活躍」のおわったあと、聴講者の数人とお茶を飲んでいた。土岡さんがボールペンで、掌に『残心』と書いた。

「安政維新を読み終わったとき、ラストで未消化な気持ちになりました。ところが数日後になると、エピローグの読後感がもっとも心に残っていました。つまり、『残心』です」
 

 昨年10月の発行後、まっさきに感想をくれたひとが、広島市・平見さんである。
「よかったです。エピローグは三度も読みましたよ」といきなり、そこに及んだ。
 

 このように、「安政維新」(阿部正弘の生涯)のエピローグは、評価が真半分に割れている。
 歴史書に近いところで読まれた読者は、エピローグに不満を感じたらしい。
 阿部正弘の性格・人柄など感じ入ったひとは、エピローグに読後感の良さと余韻をもったようだ。


  さまざまな読み方がある。それが小説だろう。

  文学賞は、「実力+運」だよ。選者好みに合う、それが作品の運だから、と説明することもある。

《講演会・案内》「幕末 芸州広島藩の活躍」広島県・竹原市

 穂高健一の講演会が、1月8日に広島県・竹原市で開催されます。題名は「幕末 芸州広島藩の活躍」で、サブタイトルは「~頼山陽から神機隊まで~」です

 開催日 令和2年1月8日(水)

 時間  13:00 ~ 15:00

 会場  グリーンスカイホテル竹原
      竹原市中央4-2-18

 定員  100人(先着順)

 会費  500円

 問合せ先 : 芸州広島藩研究会 広報室 山澤さん 090-6416-9518


 講演の趣旨


 ① 竹原の商人・頼春水(らいしゅんすい)は、広島藩・浅野家の学問所の創設者のひとりです。江戸詰のころ、ときの老中首座・松平定信の「寛政異学の禁」に、大きく関わりました。
 息子の頼山陽は広島で育ちました。武士の身分に取り立てられており、山陽が脱藩を企て上洛すると、叔父の頼杏坪(きょうへい)によって京都で発見され、広島へ連れ戻されました。廃嫡のうえ自宅へ幽閉されます。このときに『日本外史』を執筆しました。
 武家の栄枯盛衰を名文で書きあげた歴史書で、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。江戸時代・明治時代を通して、日本史上の最大のベストセラーとなりました。
  
 竹原が生み出した頼春水・頼杏坪(『芸藩通志』などの藩史編さん)・頼山陽の息子の頼三樹三郎(安政の大獄で、吉田松陰らとともに刑死)などを語ります。

 広島藩が幕末の倒幕におおきく関わりましたが、その一つには頼山陽の皇国思想があったからである、と講演で語ります。


 ② これまで広島藩の幕末の活躍が、世のなかに、ほとんど知られていませんでした。それは明治政府が浅野家史「芸藩志」を封印したからです。世に出たのが昭和53年にわずか300冊です。
 このころ坂本龍馬を題材にした司馬遼太郎著「竜馬がゆく」が昭和41年に出版されておりました。当然ながら、広島藩の存在は司馬氏もまったくわからず、龍馬を英雄に仕立てる司馬史観で書きあげています。

 実際は薩芸倒幕です。しかし、司馬史観によって薩長倒幕にすり替わってしまいました。

 江戸時代を通して、広島藩は薩摩とは御手洗交易を介し、経済的に強いつながりがありました。特に、アメリカ南北戦争のあと、フロリダから繰綿の輸出がとまり、薩芸貿易によって、薩摩が多大な利益を上げました。
 
 これが徳川幕府を倒す、大きな原動力になりました。


③ RCC中国放送の中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」が、(1か月半前)、昨年(2019年)11月17日(日)18:00~20:00生番組で放送されました。
 司会:一文字弥太郎さん、岡佳奈さんです。

 この2時間の生番組のなかで、幕末史では第一人者の原口泉さん(篤姫。西郷ドンの大河ドラマの時代考証)が、従来の薩長同盟の定説をくつがえす、爆弾発表をしました。そのうえで、薩芸交易と広島藩の存在がなければ、徳川幕府の倒幕はなかったと、はっきり言いきりました。

「くわしくは穂高先生に聞いてください」と結んでいます。

 薩芸交易、長州戦争、大政奉還、さらに戊辰戦争に自費で参戦した神機隊まで、広島藩の立場で語る講演会です。

【歴史エッセイ】③ オランダ風説書を知らずして、幕末歴史小説を書くべからず

 朝日カルチャーセンター千葉で、月に一度は「幕末・維新史」の講座をもっている。いまは、私の著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)を教材にしている。むこう3か月にわたる連続講座の予定である。


 主として、歴史小説の作品を作るうえで、基礎になった資料とか、創意とか、創作(各章)の組み立て方とかを語り、同作品の認識をより深めてもらう趣旨である。

 一般に、私たちは書籍を読んでも、記憶の底に残るのが5-10%ていどくらいであり、全体が長々と残ることは、特殊な場合以外ほとんどない。
 その5%のなかみが、人物への感動、強いドラマ(出来事)、思想、ある印象深い場面、教示的なことばなどが、読後感の良さとともに残るのである。


 私の経験からいえば、著者から生の声で聞いた裏舞台は何年経っても、わりに残っているケースが多い。若いころでは、「小説はそんなふうにして創るのか」というものが断片的にしろ、長く記憶に残り、プロ作家になっても役立っている。

             *

 著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)について、8年前から着想があり、取材をつづけていた。
 日本の歴史学者は信用ならず、ウソが多いと、直感的に思った。となると、海外の情報を駆使して書こうと考えた。

「一つずつ、歴史的なできごとは海外側から裏を取ろう、それは刑事が裏を取る捜査とおなじ手法」
 それはすべて事実かな、本当かな、と疑問を持つことだった。この意識で、とくに5-6年まえから海外資料の取り込みをはじめた。

 当初は語学の面とか、資料収集とかには難があった。手探りで、根気もいる。ただ、IT時代の進化があり、古い英字新聞でも、多言語(英・仏・オランダ・ロシア)の書籍でも、グーグルをつかえば、日本語への翻訳が瞬時にできる。これは便利だった。

 このコツをつかむと面白いほどすすむ。それがやりがいにもつながった。

「日本の歴史学者は、ここまで、よく平気で、ウソを教えられるな」
 そんなおどろきが年々高まってきた。日本側と欧米側と、認識が真反対だったりもした。
「ごまかされたり、隠されたりすると、人間は腹も立つ」
 そんな気持ちがしだいに強まった。


 明治政府以降は、薩長閥の御用学者の歴史ねつ造の塊で、不都合なことは国民に知らせていない。ときには事実の方が少ないのではないか、とすら思った。

             *

 今回は、德川幕府の首脳陣が、どれだけオランダ風説書から国際情勢を持っていたか。その実例を示した。主として「1852年・1853年の別段風説書」である。

「えっ、そこまで知っていたんですか。ぼくは知らないことだらけだ」
 朝日カルチャーの受講生は、一つひとつにおどろきの声をあげていた。

「当時の日本の国際情報の収集力はすごいよ」

 実際はぼう大な情報ですが、その一部をここに記してみます。 


浦賀港の渡船 (神奈川県)


『 別段風説書の抜粋 』


・ 最近の情報(1852年)では、アメリカ合衆国より軍艦を派遣し、交易をおこなうために、日本に渡来するということである。米国大統領親書を提出し、また漂流民を連れてくるようだ。
 この使節は、民間貿易のため日本の1-2の港の利用許可をもとめる。適当な石炭貯蔵の港を用意して、カルフォニアと中国の間を往来する蒸気船に役立つために、日本に願い出る。

・合衆国の軍監で、現在、中国附近に展開しているのは、次の通り。
 シュスケハンナ号(軍用蒸気船)、サラトガ号(コルベット)、フリモス号(コルベット)、プリモス号(コルベット)、バンダリア号(コルベット)を江戸に送れと命じられている。

・艦隊司令長官はオーリックであったが、ペリーという者に交代した由である。


・アメリカ東海岸より出港するのは次の通り。
 ミシシッピー号(蒸気外輪船・旗艦艦長・艦隊司令ペリーが乗船)プリストン号(蒸気船・指揮官はシドネイ・スミット中尉)、ペルリ号(輜重船・艦長ハイルハスキ)、サプライ号(輸送船・アルチュル中尉)である。

・ある情報では、陸軍、攻城武器も積んでいる。(現代の海兵隊か)。ただし、出帆は1852年4月、(嘉永5年3月)よりも、遅れるだろう。


「アメリカ艦隊が喜望峰を回ってアジアにやって来る。途中で、船舶機関故障が多々あり、浦賀にたどり着いたペリー艦隊は4隻です」
 私は補足説明をした。


・ オランダとイギリスは海底電設設備の計画が始まった。これはフランス・イギリスと開通したものとおなじ(英仏間の海底ケーブルはすでに別段風説書で日本に連絡済みである)


・ フランスはナポレオン三世が国政を掌握した。昨年定めた、国政改革は廃止した。これは国民大衆に助けられたものである。(民主革命)


・ トルコ国境で、オーストリア軍が介入してきた。全般的に治まっていたヨーロッパ諸国の平穏が破られようとしている。(クリミア戦争の予兆)


・ オーストリアに敵対してミラノ(イタリア)で市街戦があった。すぐに鎮圧された。


・ アメリカのエリクソンが蒸気機関に関した重要な発明をした。蒸気機関では、水を用いるが、水の代わりに空気を用いて、これを熱して運動力をえる工夫をした。通常の薪炭が五分の一になった。


「黒船が来て、蒸気船を初めて知ったと教える。こんな嘘が現代の日本の歴史教科書です。阿部正弘たち江戸の幕閣は、もはや蒸気機関の構造までも知っていたのです。なぜ、日本の学者は、日本人に真実を教えないのでしょう」
 私はこんな注釈も加えていた。

 ・アメリカで今年3月25日に、万博が開かれた。
「別段風説書には、万博の詳細が書かれています」


・ ドイツには多くの国郡があり、共和国にしたいという願望があるが、なかなか実行できない。ドイツ制をプロシアで新たに決定し、ドイツ国内で実施したところ、1-2カ国は異議なく認めた。この方式で、プロシアの国王がドイツ国王の任に当たる。

「プロイセンとの日普修好通商条約はやや遅れて結ばれます。(3年後の1861年)。この交渉過程で、外国奉行・堀利熙(としひろ)が、老中の安藤信正と言い争い、割腹自殺しています。堀利熙は阿部正弘に見いだされた有能な人材でした」


・ エジプトはアッバツ・パシャの支配するところであるが、まるでトルコの属地になったかのように見える。
「日本と関係ないようなエジプト、オーストラリアの巨大な金鉱発見、デンマーク海軍のこと、ハンガリーが戦争の危機など、別段風説書は他にも国別に細かく報じられています」


・ 南北アメリカをつないでいるパナマ地峡を切り崩す件で、関係国がロンドンで会議を開いた。この切通し(運河)は、大型船が通れるように、幅が広く、底深いものになる。


「徳川幕府は、こうしたパナマ運河をつかえば、西洋と日本が近くなる。もはや、世界自由貿易が、スエズ運河、パナマ運河で、地球規模になっていく、と認識していたのです。清国のようにアヘン戦争で負けてからでは、不利益な条約が結ばれてしまう。だから、開国と通商は、日本側から先手を取って、条約締結の交渉を持ちだしたのです」


「たとえば、フランスはワインの輸出国です。通商条約の交渉のテーブルに乗ると、日本側が酒類に輸入関税を35%かけてきた。清国は5%だ。日本の外国奉行はもし嫌だったら、日仏通商条約は結ばなくてもいい、という強気の態度です。フランスは約1か月間ほど粘ったけれど、とうとう妥協させられた。他の4カ国も、ことごとく輸入関税は20%にさせられた」

 外国の当時の資料を読み解くと、日本人はしたたかだ、欧米はことごとく不平等条約にさせられた、と怒りまくっています。
 それなのに、日本の歴史教科書では、日本側の不平等だと教えている。ここらの細部は「安政維新」(阿部正弘の生涯)に、くわしく描かれています、と補足した。

               *

「国力は人口構成がとても大切です。オランダ風説書は、それも伝えています」

・ アメリカ合衆国の人口(1850年現在)、白人1963万人、有色自由人42万8000人、奴隷320万4000人、総人数2326万2000人。

「広大なアメリカの人口は2326万です。日本の嘉永時代は3000万人を越えていました。日本がいかに過剰人口で、食糧難だったか。この数字からわかるでしょう」


 餓死ほど、人間につらいものはない。母親がわが子を亡くす、家族が餓死で全滅。路上には死骸の山。食糧不足から伝染病が流行する。これが当時の現実だった。

            *

【 ここから、穂高健一の説明です 】

 政治家・阿部正弘は、民の飢えに最も心痛めていた。それには食糧輸入で、飢餓列島から解放される、という施策を取った。
 水戸の徳川斉昭が過激な攘夷をふりまわしても、阿部正弘は日本人のいのちを救う、と一途に開国にすすんだ政治家だった。

 阿部正弘の信念は明確です。かれには私欲、自分の立場の損得などなく、備後福山藩のためでもなく、賄賂は一切もらわず、ともかく日本国民のために尽くす姿勢を貫いた。その面では稀有な天才的な政治家だった。
 だから、22歳で老中になり、享年39歳まで日本のいのちを任せることができた人物です。


「リンカーンにも、勝るとも、劣らない、政治家だった、と私は考えています」

 安政の5か国通商条約が結ばれたあと、幕末、明治時代、大正時代にはなんども天候不順の凶作が起きています。しかし、餓死者はいちども無かった。貿易で稼いだお金で、食品が購入できたからです。

「開国・通商から160年経った今も、横浜、神戸の国際貿易港が最大限に活用されて、日本を豊かにしています。植民地にならず、100年、200年先をみつめられる政治家がうまれたわが国は幸せです。私たち日本人の誇りです」


「鎖国にもどせ、という『尊王攘夷』が最高の素晴らしいイデオロギーだったと、ごまかされないでください。德川幕府を倒すには有効な戦略だったかもしれません。しかし、家族が飢えて死ぬ、死臭の世界にもどれ、という鎖国主義は、人間の命の尊厳さを欠いています」

 
 水戸藩がつくった尊王攘夷論が、長州藩によって過激攘夷論へと拡大しました。これは粗野な思想です。国民・庶民の安心できる平和な暮らしよりも、真反対の戦争の道へと進む道になったのです。
 いまの日本には戦争など必要はないのです。英雄なども必要としない。英雄史観で尊攘論を正論とすれば、危険思想に結びつきます。

 いまや、戦争を否定する、正しい歴史認識で教えてくれる学者が求められる時代になってきました。

 ペリー提督来航の前をさして知らずして、オランダ別段風説書の内容も知らず、尊王攘夷論で幕末歴史小説を書くような薄っぺらな作家は必要としない時代に入ってきたのです。
「それを自戒としています」
 私はそのように受講生に語った。

私の半生とはなにか。なぜ生かされて、小説家になっているのだろう

 いま、わたしの半生をさかのぼってみれば、物書き、登山、病気の三つが大きな比重を占めているし、それぞれが人生に大きく関わってきた。


 小説を書きはじめたきっかけとか、動機とか、よく訊かれる。
 闘病生活など語りたくないので、さらっと、『28歳で大病したので、寝ながらでも、なにか有意義なものがないかと考えました』と前置きし、それは前まえから願望だった中国古典を読みあさることでした、と話す。
 一年半ほど、その読書がつづきましたが、寝ながら厚い本をもって読むのはとても重くて、手が疲れてくるものです。
 そこで思いついたのが、『寝ながら思慮し、起きたときに執筆する』という小説家への道です。当時はとても高い憧れかな、と応えている。

 つけ加えれば、入退院をくり返した15年余でしたが、この間に、直木賞作家の伊藤桂一氏を師としてあおぐ幸運がありました。それがわたしの人生の岐路になりました。「戦地でも、上官の目を盗み、隠れて執筆していた」という伊藤先生の苦労に近づこう、それに近い努力をしよう、という道筋ができたのです。

 妻には、そのうち作家になるからと宣言し、炊事、洗濯、掃除、育児をすべて押しつけてきた。
「この世に生まれてきたからには、一作品は名作を残したい」
 わたしはとくに純文学に拘泥しましたから、10年、20年経っても、めざす文学賞のひとつもとれない。きびしい世界でした。

 わたしは実印をもたない男です。妻の親が一軒家を建築してくれたし、自動車の免許も持たないし、親の産み方が悪かったのか、病気ばかり。
 妻の内職で、子どもの養育費が賄えていた。

            *

 小説に没頭しながら、入退院の狭間の元気なときは、もっぱら登山でした。妻の嫌味のひとつも飛んでくる。そこで考えたのが、エッセイ作品の投稿だった。

 公募ガイドを折々に購入し、片っ端から応募した。次つぎに受賞した。エッセイの募集要項には、主催者がなにを求めているか、テーマが明瞭だから、わたしには書きやすかった。

 当時のわたしの文章技量は、小説で二次予選、最終予選にもいくレベルでしたから、応募者が1000人いても、3本のうち2本は賞に入るだろう、という自信があったのです。
「エッセイは事実を書く」
 そんな妄想が主催者にあるから、尤もらしく感動エッセイを書けば、最優秀賞でなくても入賞作品になった。
 つまり、選者の目をごまかすテクニックを身につけていた。授賞式には妻と同伴すると決め込んでいました。華やかなパーティー場で、妻までチヤホヤされるので、夫のメンツが立つ。

 しかし、小説の授賞式ではないし、わたしは複雑な気持ちでした。その精神的な苦痛から、解放されたくて山岳登山をくり返していたのです。

「……、やはり、小説の筆力はないのかな。これが最後」となんども折れかけました。挫折感のくり返しでもあった。25年かけて小説の文学賞にやっとたどり着いた。
 そこから受賞癖が付いたのか。毎年のごとく、小説の受賞、優秀賞、入賞と延べ8回もつづいた。


 いま思えば、伊藤桂一氏は『小説の職人』といわれて、数多くの選考委員だった。その教えは「結末が勝負」という極意でした。それがわたしの習作時代の多作で身についていたのでしょう。投稿作品が候補作になると、その作品は結末がぴたりテーマとなっているので、まちがいなく受賞するだろう、と自信を持っていました。

            *

 この間に、わたしは山岳で3度、「これで死ぬのか」という滑落を経験しました。

 北穂高の山頂直下の大雪渓、新雪の奥日光・根無草山では捜索隊がだされたし、真冬の八ヶ岳・硫黄岳の噴火口では標高差190メートルの滑落だった。
「どんな遺体になるのかな」
 と死の恐怖とともに、わたし自身すらふしぎに思えるほど、反射的なピッケルワークが利いて奇跡的に助かったのです。


 文学賞を受賞してからは、純文学のみならば、雑誌のミステリー連載の注文も受けました。龍馬ブームのときには、「坂本龍馬と瀬戸内海」という雑誌連載のしごとが回ってきた。それが幕末歴史小説の執筆への入口となりました。

 いつしか数かずの史料・資料をあたっているうちに、官僚が作った日本史の教科書がいかに嘘が多いか、と腹立たしさを覚えました。

「明治政府がおこなった、幕末史のわい曲は国民のためにならない」

 薩長の下級藩士が伸し上がった明治政府は、自分たちをより大きくみせるために、前政権の徳川幕府をことのほか批判している。…… 徳川政権は愚劣な政治であり、討幕する必要があったと筋書きを作っている。これはきっとウソだ。そんな確信にたどり着きました。


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 国難(外患内憂)の徳川時代は、有能な人材を最も多く輩出したときです。身分が低くても、抜擢されたかれらは、優秀な語学力で海外文献を読みこなし、国難に立ち向かう外交官になっていきました。そして、かれらはアジアで唯一、植民地にもならず、貿易立国の素地をつくりあげたのです。

 これは日本人の誇りです。

 勇ましい為政者は、能力に関係なく「もう、戦争をやるしかない」と国民を動かせます。反面、戦争をせず、外交で解決する、というほうが数段に難儀で、知的能力を要求されます。
 平和を維持した徳川政権から学ぶ。そんな考えから、わたしは早くに阿部正弘に目をむけはじめました。しかし、阿部正弘の日記は明治に焼かれていましたから、8年間にわたる長い取材になりました。

 いまやIT時代ですから、外国資料・文献を引っ張ってきて、グーグルで自動翻訳することができます。
 外国側から徳川時代の日本をみると、なんと、わたしたちが教わってきた内容とはまったく違う事象に出合うことが多くなりました。どっちが嘘なのか。ペリー提督の遠征日記などは針小棒大、自画自賛ではないか。そんなところにまで、たどり着きました。

 学校教育では「安政の通商条約」は不平等条約だと教わっています。しかし、当時の5か国はいずこも、日本の外交官(岩瀬忠震・永井尚志など)はしたたかで、強気で、自分たちはとてつもなく不平等な条約を結ばされた、と不満をもっているのです。

 たとえば、日本人が英米仏露蘭に渡来すれば、どの港でも自由に使えるし、国内をいつでも通行できる。しかし、日本は横浜・長崎・函館の三つだけである。(のちに2港追加をする)。そのうえ外国人は10里の枠内から外に出られない。
(外国人は)商品の買付前に現地を見てまわれない。江戸にも、大坂にも行けない。まったく不平等な通商だと記しています。

 日本の輸入関税は20%であり、フランスなどはワイン輸出国であり、酒税35%の高輸入関税が課せられた、不平等な条約だと叫んでいます。(インドは2.5%、中国は5%)。

 個々には強弱はありますが、海外5か国の言い分のほうが正しいと思えます。ここに日本の歴史にねつ造を感じたのです。

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 徳川家は260年余間、海外と一度も戦争しなかった。薩摩がイギリスと薩英戦争、長州が欧米四か国と下関戦争をやった。
 この2藩の薩長が明治の主力の為政者になりました。征韓論、台湾出兵、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争まで77年間にわたり、10年に一度は戦争をする国家にさせてしまった。

 この時代に生きた人たちは軍国主義の教育の下で、軍国少年として育ち、制服をきた軍人が格好よく英雄に映っていた。天皇を大元帥として頂点に掲げた戦争でした。徴兵制で、「祖国のために死す」が美化されて海外へと送り出されたのです。
 女性は男児を産むと、この子は戦争で若くして死ぬ、ときっと空しい気持ちに陥ったはずです。

 本来は戦争は外交の手段である。しかし、明治政府からは武力支配が目的になってしまった。つまり、戦争に勝つことが目的になったのです。
 その結果、日本人は戦争が好きだと思われてしまった。

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 日本人は本質的に戦争を嫌う民族です。江戸時代の長い鎖国の理由もそこにあったのです。太平洋戦争後は、ほとんどの日本人が戦争解決・英雄観で、日本の外交を論じることはなくなりました。
 ただ、正しい歴史認識はつねに持っておく必要があります。

 徳川時代に、アジア・アフリカで唯一植民地にならなかったのは、なぜか。戦争せず、優秀な人材をもって開国・通商への道をみずから拓いたからです。日本人が優秀だったからです。
 決して「黒船の砲艦外交に脅えた」わけではありません。こんな嘘はやめる、教科書を糺(ただ)す必要があります。

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 維新とは何か。『旧邦(きゅうほう)なりといえども、その命これ新たなり』(詩経)。つまり、260年の古い体質の徳川家でも、みずから内部浄化によって、新しい近代国家へとむかっています。これこそ安政維新です。
 小栗上野介たちは、外国からの融資のもとで、日本の近代化に突っ走っていきます。製鉄所、造船所をつくり、蒸気機関車まで発注しています。完成したのが明治時代だったのです。

 ただ、鳥羽伏見の戦いが起きます。それは薩長を中心とした下級武士たちの軍事クーデターです。それが成功し、かれらがトップに座る「明治軍事政権」になってしまったのです。
 日本という統一国家が生まれながらも、77年間は暗い戦争国家だった。この軍事革命にたいして「明治維新」をつかうのは不自然です。


 わたしは登山にしろ、病気にしろ、死の寸前で生き長らえてきた。おおかた日本史の教科書において、近代化は「安政維新」から始まる、という正しい表記する、そのために生かされているのかな、と思えてきました。

 

 ☆ 「元気に百歳」クラブ誌20号が最終号になりました。そこに寄稿した「安政維新」から抜粋しました。


【関連情報・「元気に百歳」クラブ
とはなにか】

 2000年に設立し、 首都圏とその周辺及び関西が活動の中心です。
 「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」
、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動する。


  高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。
「元気であることが社会に対する最高のボランティア」そして、「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

穂高健一は「エッセイ教室」の担当講師です。

【書籍情報】

 元気が最高のボランティア『元気に百歳』第20号

 定価1200円+税

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