小説家

穂高健一の新刊本「神峰山」(かみのみねやま)=10月22日から全国書店で一斉発売

 ことし(2018年)3作目の新刊・単行本となる「神峰山」が、東京の出版社・未知谷(みちたに)から発売される。定価は2000円+税。全国の書店およびネットで発売される。

 これは中編の書き下ろし5作品が収まっている。

第1章 ちょろ押しの源さん

第2章 初潮のお地蔵さま

第3章 紙芝居と海軍大尉

第4章 首切り峠
 
第5章 女郎っ子

【作品の趣旨】

 昭和20年代の瀬戸内の遊郭街で栄える、木江港の群像を描く。五編の中編を通して、戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描く。

「歴史はくり返す」
 戦争は人と人が殺し合うもの。敗戦、休戦、という言葉だけで、戦争は終わらない。社会を破たん・破局させた軍人政治家たちは、無責任にも政治舞台からおりるだけで、戦争責任を負わない。
 庶民は戦後、どん底の悲惨な生き方を強いられてきた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。生きることに必死だった戦後の姿こそが、「2度と戦争をしてはならない」という歴史的な証言である。

 戦争とはどんな悲惨な結果を及ぼすか。それを小説で再現化する。

【著者から】
 5編とも、登場する人物は魅力的に克明に描いています。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。
 結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない。それぞれにモデルはいるが、フィクション小説である。

『燃える山脈』の最大の取材協力者・務台亥久雄さま逝く= 弔辞

 謹んで哀悼の意を表します。
 務台亥久雄さまの、突然の訃報に驚いています。
 私は「山の日」制定記念出版「燃える山脈」を書いた小説家・穂高健一です。務台亥久雄さまから、数々の取材協力を得て、「市民タイムス」に237回にわたる新聞連載、および「山と渓谷社」から単行本で発刊いたしました。
 亥久雄さまは、わがことのように喜んで下さいました。簡略に、その推移を申し上げますと。

 国民の祝日「山の日」が2014年に、約100人の超党議員連盟により国会で成立しました。と同時に、法案の可決が世界中に報道されました。日本の重要法案が世界をかけまわることは稀です。しかし、「山の日」がナショナル・ホリデーになったと、世界のひとを驚かせたのです。
 この『山の日』が単に登山の日にするだけは止めよう。山の恩恵に感謝の念をもつ場にしよう。山の文化や歴史にも、組み込もうという趣旨が決められました。そして、第1回全国大会が上高地に決定されたのです。
 私は、議員連盟事務局長だった務台俊介代議士から、「山の日の歴史小説を書いてほしい、信州によい素材があるから」と依頼をうけました。

 天保時代に、あづみ野から北アルプスを二座も越えた、飛騨国へ米と塩を運ぶ、『飛州新道』ができています。ちょうど、播隆上人が槍ヶ岳初登頂、十返舎一九があづみ野にきた頃と時代が重なっています。これらを織り込んで、歴史山岳小説として書いてほしい」と務台さんから依頼されたのです。

 拾ヶ堰の完成があずみ野の「いのちの水」になり、その後の発展の基盤になったので、そこは特に書きこんでくださいと、務台代議士から強調されました。

 一つ返事でお受けした私ですが、その実、瀬戸内の造船で栄えた港町で生まれ育っており、農業にはまったく無縁でした。高校時代に初めて田植を遠目に見たくらいでした。およそカイコは見たこともなく、機織り、囲炉裏の生活体験もないし、信州の生活様式すらわからない。
風土・風紀の空気感、信州人の気性も同様で知識がありませんでした。

 ともかく小説家として、山々の荒々しさを描き、天明・天保の激動期のきびしさに生きる、という仮想定の段取りから取材をはじめました。

 2015年6月初、大糸線の駅から「拾ヶ堰」を訪ね、おどろきました。拾ヶ堰は真っ直ぐで、ほとんど傾斜がなく、川面の水流はゆるやかで、常念岳の方角に流れていく。野鳥が優雅に遊ぶ情景です。想定する艱難辛苦な掘削のイメージとは真逆で、あまりにも、おだやかな風景でした。
「書けるのかな、私には?」
 務台亥久雄さまが、取材協力者になってくださいました。稲作と水温の微妙な関係を語られて、「農家は利巧ではなければ、出来ません」と前置きされた。それがつよく印象に残っています。
 農事の知識がゼロの私といえば、トンチンカンな質問ばかり。「天保の飢饉では、水稲はバタバタ倒れている光景でしょうね」。「いいえ。稲穂が倒れたら、実りが豊かで豊作ですよ」。虫害から「うんか」(害虫)といわれても、なあに? となる。冬場のしごとでなぜ藁を叩くのですか。備蓄米、救荒米の違いもぴんとこない。水田で泳ぐ小鯉や鮒が子どもの遊び魚だろうとおもっていると、水中の空気の拡散です、といわれる。なにも理解できていない。

 私が農事の歴史を書いても、侮られるだけだ、と考えました。

『小説は人間を画くこと』。純文学の原点で筆を進めよう、農業でなく、掘削に携わった人間の精神を書こう。それに徹底しました。艱難辛苦の下で、掘削に命をかけた人をすさまじく描くことができました。

 しかし、完成のあとは米余りの状況下から、販路をもとめて北アルプス越えの飛州新道の開拓へと「燃える山脈」が新たな展開がなされていきます。
 亥久雄さまは、郷土史家でもありました。務台家および親戚筋には、歴史的に重要な家史が豊富にあり、それら一つひとつを拝見しながら、説明をうけました。

 亥久雄さまの直系先祖には、知的で聡明な『務台伴語』という寺小屋の師匠がいました。明治初期まで活躍されています。

 小説の舞台となる天保4(1833)年の伴語は20歳でした。私は儒者髷の伴語を主人公に据えました。とても喜んでくださいました。取材の過程で、岩岡家の古い戸籍謄本から、「岩岡志由」という魅力的な17歳の女性がみつかりました。ともに実在人物です。
 ここから務台伴語と岩岡志由の淡い恋心を発展させながら、飛州新道の開拓へと作品を推し進めました。

 かたや、亥久雄さまが務台家・本家に案内してくださり、『務台景邦』なる有能な庄屋の膨大な史料や日記を見せて下さいました。景邦は播隆上人といっしょに槍ヶ岳に登頂しています。もっと筆を割きたかったほど、景邦は有能な人物でした。

 天保6(1835)年に、大滝山、上高地湯屋、焼岳を経由する飛州新道が完成しました。ウィンスントンが世界に上高地を紹介する、約60余年前のことです。
「江戸時代の信州の歴史を、ここまでよく掘り起こしてくれた」と亥久雄さまが高評してくださいました。農業に無知識な作家を鞭撻してくださり、両輪の輪でしたから、「燃える山脈」が世に送りだせたのです。

「市民タイムス」の新聞小説の発行日、あづみの講演会の決定日、「拾ヶ堰が世界かんがい施設に登録された日」と、それぞれに電話をくださった喜びの声が、いまもよみがえります。

 信州の教育者だった務台伴語さんに、あの世でお会いになりましたら、「燃える山脈」の主人公になったよ、とお伝えください。
 そして、安らかにお眠りください。

「補足関連」
 2018年10月2日、務台亥久雄さまの葬儀が行われました。
 私(穂高健一)は、地中海のマルタ島を取材ちゅうであり、亥久雄さまの訃報に接し、弔辞を葬儀の場で、代読していただきました。その全文です。
 第一次世界大戦のとき「日英同盟」により、日本海軍が初めて地中海に艦隊派兵をおこないました。(加藤友三郎海軍大臣のとき)。100年前です。日本の海兵隊兵の犠牲者がマルタ島のイギリス軍墓地で眠っています。

 あらためて務台亥久雄さまのご冥福をお祈りいたします。        
     


戦争が残した非情さ。女と男の悲惨な生き方を描く=小説「神峰山」発刊予定

 私は単行本「神峰山」(かんのみねやま・2000円)を年内(2018)に出版する予定である。
 昭和20年代、広島県・大崎上島に、木江(きのえ)港という瀬戸内随一の遊郭街があった。その町に生まれ育った私には、当時の空気感が未だ十二分に残っている。
 昨年度(2017)の8月11日大崎上島「山の日」神峰山大会から、朗読用として中編小説の執筆をはじめた。
 第一作「ちょろ押しの源さん」を、日本ペンクラブ有志が立ち上げた文藝同人誌「川」で発表してみた。自家自賛するようだが、かなり評判が高かった。すぐさま、出版の話がでた。
 他の4編は中編小説の書き下ろしとして、5編を収録した単行本「神峰山」として年内に発刊する予定である。すでに著者校正の段階なので、おおかた11月頃だろう。


神峰山の山頂付近から。眼下の集落が木江港


【作品の狙い】

 戦争は人と人が殺し合うもの。戦場や戦禍を描くだけが戦争小説ではない。敗戦、休戦で、庶民に平和がきたわけではない。
 太平洋戦争が昭和20年8月15日に終わった。軍人政治家たちは社会を破たん・破局させたまま、政治舞台から降りていった。無責任にも政治責任を負わない。
「戦後の日本」は無政府状態に陥り、庶民はどん底の悲惨な生き方を強いられた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描いている。

 昭和20年代の生きることに必死だった戦後の庶民の姿こそが、『2度と戦争をしてはならない』という歴史的な証言である。それを小説のテーマにおいた。
 
 登場人物は5編とも、魅力的に克明に描いた。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない作品になっている。
 舞台のプロアナウンサーすらも、涙声の連続で朗読したほどである。

             *

 私の脳裏には、広島原爆の孤児、太田川沿いのバラック建てなど、しっかり刻まれている。木江港の遊郭街はリアルに存在する。ある海軍中将の遺族から資料提供もあり、事実に近いところで描いている。

 私が小学6年生のときだった。昭和30年5月11日、宇高連絡船どうしの衝突事故が起きた。世界で3番目の海難事故で、小中学校の修学旅行生が多数乗船しており、生徒と教師が多く水死した痛ましい出来事だった。

 当初、私たちの通う木江小学校が5月9日出発で、予定通りならば、紫雲丸に乗る予定だった。そして、一週間後に同じ町内の木江南小学校が出発だった。両校はほぼ生徒数がはおなじだった。
 運命のいたずらか。この2校の出発日が直前で入れ替わったのである。かれら木江南小学校が宇高連絡船の事故に遭遇した。そして、生徒22人、教師3人、併せて25人が犠牲になった。
 私たちは六年生全員が南小学校葬に参列した。松村文部大臣が弔辞を読んでいた。
 中編小説のタイトル『女郎っ子』のなかで、運命のいたずらと言えば残酷すぎる、この紫雲丸事件を展開している。


        紫雲丸事件の海難現場

 単行本「神峰山」を脱稿した私は、ことし(2018年)9月7日、木江小学校に出むいて25人の慰霊の前で手を合わせた。
 少年・少女の遺影写真の25人を見入った。記憶どおり松村元文相の弔辞の原文が残っていた。当時、新聞報道された現場写真を掲げられている。幼い生徒たちが死に逝く寸前で撮影されている。痛々しいかぎりだ。
 翌々の10日(雨)、私は紫雲丸事故の同海峡にむかった。この宇高連絡船の紫雲丸事故から、瀬戸大橋を架けようという運動が広まった。現在は、高松と岡山間は鉄道と道路で結ばれている。貨車を運ぶ当時の宇高連絡船は廃止になっている。

 事故現場により近い航路を持っている宇野・高松フェリーに乗船した。雨降る海で、風景は霞んでいる。島々の間を縫う。岩礁、浮標などそばを航行する
 雨雲の視界を狭めて薄ほんやり水平線ができる。


      高松港の全景 

 昭和30年5月11日の事故当日は濃霧だった。紫雲丸は国鉄の体質の時間どおり、レーダーに頼って全速力で航行していた。そして、おなじ国鉄の連絡船・第三宇高丸と衝突したのである。
 衝突現場に差し掛かった。
「予定通りならば、私が紫雲丸に乗っていたならば、どんな行動をとっただろう。泳げる私でも、死んでいたかもしれない。単なる運命の差なのか」
 その推考はいまだに頭から離れない。

          *

 小学校は違っても大崎高校では、島内の小・中学が一つになる。南小学校・中学から進学してきた同級生の、ある男子生徒に、私は紫雲丸事故の状況を訊いてみた。
「ぼくは第三宇野丸に乗り移った。だから、泳がなかった。だから、まったく濡れなかった」
 かれは口重たげに、そう言った。
「木江小学校(難を逃れた方)の六年生は、先生に引率されて、南小学校の学校祭に行った。遺影を見ると、犠牲者のほとんどが女子だった? 漁師町の女の子は、家の手伝いといえば、漁船に乗ることだろう。泳げないわけがないよな」
 島の人間はうわさ好きだ。大半の犠牲者が女子が多かった理由は、事故直後から、私の耳にも入っていた。真実を知りたかった。かれの口から確かめたかったのだ。
 だが、高校のクラスメートは語らなかった。

 沈没した紫雲丸には、いくつもの小中学校の修学旅行生が乗船していた。木江南小学校の教師は3人死んだ。
「先生の犠牲者の数は、南小学校がいちばん多かったんだよね」
 かれは無言だった。
(真相を知っている顔だな)
 かれの深く悶々とした顔から、それを読み取った。
(そっとしておいてほしい)
 高校時代の同級生は、そんな表情に変わった。

 泳げる女子が同校で二十人死んだ。なぜか。クラスメートは語らなかった。私は単行本「神峰山」のラストシーンで紫雲丸事故の、これら疑問も復活させて描いている。
 高校のクラスメートの沈鬱な顔がよみがえりながらも、私はそれを素材にして筆を進めた。大崎上島を素材にする以上は、紫雲丸事件は避けて通れなかったのだ。
 作品の校正者が、まさかというストーリーですね、と言った。小説家は非情だな、という自戒の念がある。

 高松港に着くと、屋島に登ってみた。紫雲丸事故が発生した場所が一望できる。私たちと入れ替わった木江南小学校の死者たちを悼んだ。

「フィクション小説とはいえ、厳しい境遇を描いたな。小説『神峰山』のいずれの主人公も哀れすぎる」
 私はこころのなかで、いつまでも呟いていた。

 高松港の町並みには夕方の灯が点きはじめた。もはや屋島山頂からの終バスはなかった。


 

【講演・案内】~知られざる幕末から明治維新=葛飾区立水元図書館

 穂高健一の幕末講演会『知られざる幕末から明治維新』が、葛飾区立水元図書館で、平成30年9月22日(土曜)午後2時から4時まで開催されます。

【詳細】

講師・穂高健一

日時 9月22日(土曜)午後2時から4時
      開場時間*午後1時30分

会場 葛飾区立水元図書館2階「水元集い交流館」
   葛飾区東水元1-7-3
    
アクセス JR金町駅・京成金町駅 駅前からバス 「葛飾総合体育館前」で下車

定員  50人(当日先着順)

入場料 無料

お問い合わせ先 03-3627-3111

 掲載写真 2018年1月28日、葛飾区立立石図書館、約100人の参加者です。

 3月・東広島市、5月、広島市・船越、9月8日(土曜)広島・五日市ともに約150人の参加者がありました。

 水元の会場はやや狭くて、定員がありますから、お早めに入場ください。
  
   
 
  

【新規講座】広島藩からみた幕末史。そして現代。=広島テレビカルチャーセンター

 広島テレビが広島駅新幹線口に、新社屋を建てました。その新社屋4階に『広島テレビカルチャーセンター」が開設されました。

 講師・穂高健一による『広島藩からみた幕末史。そして現代。』が、本年(2018)9月より毎月1回、開講いたします。
 講座の趣旨は、「歴史を知ることは現代を知ること」。倒幕・維新に大きな役割を果たした広島藩の活躍を知ってもらう、学んでもらうことです。


 現代の立場(視点)から、江戸時代~明治・大正・昭和・平成と近現代史を学んでいきます。たとえば、「なぜ、原爆が広島に落とされたのですか」という疑問とむきあう。
 パールハーバー(真珠湾攻撃)から、というだけでは、広島・原爆投下の真相や真実は解明されません。

 ペリー来航、日米通商条約から、日米の関係は始まっています。幕末には尊王攘夷と叫びながら、なぜ明治政府は攘夷論を捨てて開国主義になったのでしょうか。
『戦争は景気が良くなる』
 この考え方、富国強兵の政策の下で、日清、日露、シベリア出兵、第一次世界大戦、上海事変、満州事変、太平洋戦争と10年に一度は戦争する国家になった。

 とくに満州事変からは、国家統制、国体の軍事色が強くなり、欧米からは大反発をうけてしまった。
 東京が第一軍都、鈴鹿山脈で割り、広島が第2軍都となった。つまり、東京と広島が戦争を推進する強烈な都市になった。

 米国の空軍アーノルド将軍は、昭和20年3月10日に東京大空襲、8月6日に広島と、2つの軍都の壊滅作戦を立てた。そして、実行に移した。(長崎原爆は強力なプルトニウム239の威力を確かめる目的が強かった。小倉から長崎へと、当日の天候で投下場所が移った)

              *

 戦後の日本は、「もう戦争は嫌だ」という国民の真の願いになった。所得倍増政策から、高度経済成長を果たし、アジアで唯一選ばれたサミット加盟国になった。日本人は「戦争をしなくても豊かになれる」という自信につながった。
 

 戦後73年の平和社会を築いた価値観と自信からみれば、

「薩長中心の明治政府からの富国強兵策は、正しかったのか」

「ほんとうに欧米列強による植民地になる危機が、日本にあったのか」

「明治から77年間、10年に一度は戦争する国家をだれが作ったのか」

 と、従来から鵜呑(うの)みにされてきた官制の幕末・維新史にたいして疑問がむけられはじめた。
 つまり、「あのような戦争国家に逆戻りは嫌だ」という視点からも、薩長賛美の歴史から脱却する時代に入ってきたのです。


 こうした近現代の歴史の流れを通して、現代を知り、将来を見通す。それらを学ぶ講座です。


【講座・日程】

 9月19(水) 16:30~18:00

 なぜ、江戸時代の広島藩が歴史から消されたか。

 10月10日(水)15:30~17:00

 藩校・学問所出身者が神機隊を発足させる。

 11月7日(水) 16:30~18:00

 芸州・浅野家が主導した徳川幕府の倒幕であった。

 12月12日(水) 15:30~17:00

 藝薩長の3藩による倒幕挙兵が、慶応3年に御手洗から進発された。


 全4回 : 10,800円(税込)


【申し込み先】

広テレ!キャンパス事務所

 
 ☎ 082-567-8676

 〒732-8575
広島市東区二葉の里3-5-4 広テレビル9回
 

【幕末・維新フォ-ラム】芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕=9月8日・広島県五日市

『幕末・維新フォ-ラム 』として、『芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕』が9月8日(土)に、広島市佐伯区の五日市で開催されます。

 禁門の変から長州戦争へ。戦いの舞台となった大竹、五日市、廿日市の戦火、そして御手洗へと、倒幕への流れができていく。
 広島藩の若き志士たち、桂小五郎、大久保利通、坂本龍馬たちが大崎下島・御手洗に集まり、四藩軍事同盟の密議をおこなった。そして、いよいよ倒幕へと火の手が上がった。

 そこから150年間にわたり、なぜ突如として慶應3年11月末に、芸薩長の6500人の西洋式軍隊が京都に挙兵できたのか、とまさに歴史の空白だった。

(同年・同月15日には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されている。かれらは1週間前の御手洗密議に参列していた)
 大河ドラマでは決して語られない歴史の空白だった。その真実が現地の郷土史家の方々によって今明らかにされます。


日時:平成30年9月8日(土)13:00~16:00


場所:光禅寺(🏣731-5127 広島市佐伯区五日市2丁目1-1) TEL:(082) 921-0011


 入場 : 無料

13:00~13:10(10分)  あいさつ・講師紹介ほか


13:10~14:10(60分) 《第一部 基調講演》~穂高健一

            ☆

14:20~16:00(100分)《第二部 パネル・ディスカッション》

 司会:(コ-ディネ-タ-)穂高健一

 パネリスト(各20分)

「西国街道と長州戦争」~佐々木卓也さん(五日市西国街道散策倶楽部・指導員)

「芸州大竹口と戦跡」~畠中畃朧さん(大竹市歴史研究会・会長)

「日本遺産 御手洗の果たした役割」~

 尾藤 良さん(御手洗 重伝建を考える会・会長)

 井上 明さん(御手洗 重伝建を考える会・理事)

《質疑応答》

  ☆

主催:一般財団法人 中国地方郵便局長協会(🏣730-0016 広島市中区幟町3-57)

後援:広島県教育委員会・広島市教育委員会・中国新聞社

協賛:光禅寺・五日市西国街道散策倶楽部・大竹市歴史研究会・御手洗 重伝建を考える会・てくてく中郡古道(狩留家・三田・井原・落合郷土史会)ほか


【光禅寺へのアクセス】

●JR山陽本線・五日市駅(北口)より徒歩10分

●広電宮島線 佐伯区役所より徒歩6分


《お問い合わせ先》

 (一財)中国地方郵便局長協会:事務局

  竹内 TEL 090(7120)0998

星野 TEL 090(2804)9968

『良書・紹介』 「漱石センセと私」=出久根達郎

 出久根達郎著「漱石センセと私」(潮出版社:本体1500円)が6月20に出版された。このタイトルの『私』とはだれか。先入観からいえば、妻なのかな? と思いきや違っていた。

 四国・松山にすむ「より江」なる尋常小学校一年生の少女が登場してくる。離れの2階に独身時代の夏目漱石、1階に正岡子規が下宿していた。夏目センセと呼び、子規におだてられて俳句を詠む。より江はこうした羨むべき文学環境の下で育った。
 
 主人公は幼いより江「私」である。文豪の夏目漱石にたいする淡いラブ・ロマンスかな、と思いきや、センセが鏡子なる女性と早ばやと見合い結婚をしてしまう。この予想もちがっていた。
 見合いの場のエピソードは、漱石像の一端を物語り、ユーモラスに描かれている。 


 夏目漱石が松山から熊本の五高へ転任になった。松山の少女は夏休みに入ると、祖父につれられて熊本にでむく。漱石の家に訪ね、新婚の鏡子夫人と対面する。
 一般に、漱石の妻は自殺を図ったり、精神が不安定だったり、悪妻だと決めつけられている。しかし、作者は温かい目で、より江「私」からみた鏡子夫人を優しい良き女性として丹念に描いている。つまり、鏡子夫人は悪妻という通説をくつがえしている。
 それが作者・出久根さんの狙いであり、作品の趣旨だろう。


 より江の恋のスタートは、このときの熊本からだった。
 熊本の旅館で、祖父が急病になった。少女はそのからみで、一高卒で帝国大学医学部に在学する「ドクトル猪之吉」なる久保猪之吉(いのきち)と知り合う。ふたりは人力車で熊本城見学をする。ごく自然に、西南戦争、明治熊本地震(明治22年7月29日)などの語りが出てくる。


 ふたりの間で、松山と東京という遠距離交際がはじまり、やがて恋愛結婚へと成就する。お見合いが中心に座る時代に、なぜ長期に文通が続いたのか。それには理由があった。

 猪之吉がかつて学んだ一高の国語恩師・落合直文が、国語辞典の編さんに取り組んでいた。それに協力する帝大生の猪之吉が、松山のよし江に、「日常生活のなかで、変わった言葉、妙な言葉、どういう意味だろう」と疑問に思ったことばの拾い集める役をたのむ。それに対する返信が都度もどってくる。

 国語辞典の完成まで、ふたりの長い交際の源になる。なるほど、とおもう。と同時に、国語辞典をつくるプロセスが興味ぶかく読める。


『吾輩は猫である』のなかで、より江が雪江で登場するらしい。「もっとも顔は名前ほどではない」とセンセはあんまりであると記す。「ちょっと表に出て一二町あるけば、かならず逢える人相である」と作中で展開しているようだ。
 小説家の妻とか、友人とかはモデルにされると、コケにされるから、要注意かもしれない。


 より江は猪之吉への想いから、やがて東京への進学をめざす。
 夏目センセの奥さま(鏡子夫人)はそれを知ると、二十社の「合格祈願」の朱印が捺された集印帳を送ってくれた。松山からは特産の竹細工を贈る。この交流のプロセスからも、鏡子夫人の日常生活や身辺が克明に描かれていく。


 国語辞典が完成し、より江と久保猪之吉が3年ぶりで再開する。そして、求婚、結婚、初夜、出産と物語が展開されていく。医者の妻として良き人物に成長する、さわやかな内容である。
 この間に、かつて母親の求婚者だった男性を探すシーンが出てくる。その手掛かりは松山の伊予絣(がすり)である。意外な結果だった。こうしたストーリーの味付けも、作品に求心力をもたらしている。

 出久根さんは随所で、漱石作品を深く解説している。と同時に、数多くのエピソードも作中で展開する。二つばかり紹介すると、

 熊本の丁髷(ちょんまげ)を結った古本屋が、懇意なる夏目漱石の書物の好みを教えない。それは権力者が思想調査をしているから、情報提供になってしまうからだという。

 栗の木も素朴だが面白い。枕木になる、堅くて腐らないから舟の艪(ろ)の材料になる、栗飯ご飯はイガから炊き上がるまで手間がかかる、10人家族だと大変だ。現代では消えかけた知識が習得できる。

 エピローグでは当時の文壇事情を解説しているので、幅広い知識が得られる。


『目次』を紹介しておくと、下記の通りである。

 第1章 いっぷり

 第2章 大人

 第3章 ヨとヲ

 第4章 求婚

 第5章 いとしのより江ンジェル

 エピローグ

 

【良書・紹介】 2018年徳間文庫大賞 『二年半待て』=新津 きよみ

 新津きよみ著『二年半待て』(徳間文庫・680円+税)は、女性の目線で、社会人として年齢的に多種多様な問題と向かい合っていく小説である。

 現代人が身近に感じる就職問題、恋人関係、社会の矛盾と病巣、家庭内の複雑な問題などを素材にしている。
『2018年徳間文庫大賞』の受賞の名に、十二分に応える価値ある現代小説である。


 人間は、幸福なひとだとか、不幸せな人生だとか、一つ概念で括(くく)れない。各章立てでは、女性の機微を絶妙に描く。全編を通して、これが女の一生なのか、としみじみ感じさせられる構成になっている。


  読後の感想からいえば、現代の社会人が感じている問題にたいして、作者は一つひとつていねいに深く掘り下げている。男性の目線からも、女性の心理とはこんなにも複雑で、厄介なものか、と思わせる場面が随所に出てくる。
 男女を問わず、大学生から中高年層まで、人間の生き方を考えさせられる作品である。


 就職活動が「就活」と呼ばれて久しい。それが第一話である。第二話の「婚活」、第三話の「恋活」はわかりやすいことばだ。

 第四話の「妊活(にんかつ)」となると、知らなかったな、と思わせる。
 保育園の入園問題から、出産日を決める。数日の違いがゼロ歳児を受け入れるか否かの重要な分岐点となってくる。だから、帝王切開で出産する、あるいは妊娠日を決めるために、セックスの日取りが決まってくる。

 ここらは現実か、作者の想像か、そこはわからないけれど、現代社会の抱えている保育園問題の構造からすれば、十二分にありえる事例認識だとおもえた。


 第五話は「保活(ほかつ)」、そして第六話は「離活(りかつ)」、結婚時において、離婚同意書に署名しておく。その内容も、新郎を甲とし、新婦を丙とする契約書だ。公正証書にでもしておいたのか。ストーリーはその証書にもとづいた離婚式からスタートする。

 29年間の夫婦生活、子育てが終わったからと言って、割り切れないのが人間である。作者はここらの人間の心理を深く掘り下げていく。なるほどな、と納得させられる。


「卒婚」なる言葉も登場してくる。「あえて離婚はせず、結婚を卒業し、大人の関係を築く。男女の役割にとらわれず、互いに干渉せず、自由を認め合う」。となると、『卒婚=自由不倫』かな、と思いを馳せてしまう。こうした思慮も楽しめる小説だ。


 第六話は「離活(りかつ)」、そして第七話は「終活(しゅうかつ)」である。ラストストーリーだけに、人生とは何か、とより深く考えさせられる。人間は老いても、女も男も、恋にこころをとらわれる。90歳になっても、初恋の人を想う。人生はロマンだな、と読後の余韻に結び付いている。


 女性ミステリー作家の第一人者として、作中に「ひねり」もあるけれど、読むうえで推理はさして重要ではない。この作品の狙い・テーマは、ひとことで言えば、『女の生きる道』の現・近未来の姿だろう。
 早晩、そんな社会が来る、と予知させる人間小説である。

【良書・紹介】頑固者が面白い・『小言又兵衛・天下無敵』=飯島一次

 飯島一次著「小言又兵衛・天下無敵」(二見時代小説文庫・648+税)、サブタイトルは、血戦護持院ヶ原(けっせん・ごじいんがはら)である。

 小説は人物が書けていると、面白い。作品に深みと味がある。
 旗本の隠居・小言又兵衛(こごとまたべえ)は、良く書けている。家禄がわずか300俵の旗本だが、8代将軍・德川吉宗に対しても、畏怖せず、「曲った畝(うね)を直さねばなりませぬ」と苦言をいう。武士道にうるさい。その小言がもし間違っていたら、腹を切ります、と吉宗に言いきる。
 時代小説ならばこそ、読者はこうした痛快な人物と向かいあえる妙がある。


 小言又兵衛は当然ながら出世街道から外れたうえ、江戸・本所で隠居へと追いやられる。雇った女中にたいしても、小言が止まらない。女手不足の時代である。
 だれもいつかなければ、困るのだが、それでも小言はやまない。唯一の小者「三助」はいつもへらへらしているし、泣きべそ、弱音は吐く。この人物の存在感がたっぷりだ。


 小言又兵衛は銭湯に行けば、誰かまわず、怒り、叱りつける。となると、銭湯にお客が寄り付かなくなる。当人はわれ関せずだ。この銭湯がよい伏線になっている。

 三助に誘われて、武士が表向き観てはならぬ芝居を観に行く。「鍵屋の辻の決闘」など、町人が夢中になる芝居にこそ、武士道がある、と知ったのだ。
 ただ、江戸中期は、武士といえども、人を斬ることはまずない。(現在の警官が何万人もいても、銃でひとを撃ったことがないのと同じである)。
 小言又兵衛も剣で人間を殺したことがない。ここらも、ストーリーの味になっている。


 作者の飯島さんの素顔は、ふだんから「寄席」に通う。そして、人間の機微とか、人情とか、熱心に研究されている。達者な筆さばきで、登場人物の会話などが落語なみにテンポ良く、切れがいい。


 駿河阿部藩・2万石から、美人の姉と武術のない弟、ふたりが父の仇討ちに江戸にやってくる。芝居町で、博徒やごろつきに襲われている。それを助けたのが小言又兵衛である。
 と同時に、ここから仇討のストーリーが動きはじめる。

 亡き父親はかつて背中を斬られている。相手は同僚だった。金を持ち逃げしている。藩はメンツがあるから、それを内密にしている。
 当時の江戸は100万都市だった。一人の仇を探しだすのは、雲をつかむような話だ。実にミステリアスだ。わずかなヒントから、医者の良庵が謎を解いていく。これら一つひとつに説得力がある。

 読者にも、やがて仇の人物像が見えてくる。悪い町方と手を組んでいる。ここらがわかると、解決しそうだが、推理小説のように、読者の先入観、予測を次つぎと裏切ってくれる。うまいストーリー運びだ。参った。読者はなんどもつぶやくだろう。

 
 次つぎに登場してくる人物は、癖が強く、愉快、痛快、意外性はたっぷり。ラストシーンの護寺院が原で仇をうつまで、目が離せない小説である。

 これ以上はネタバレになるから、書けないけれど、時代小説として善人、悪人が明瞭だけれど、いずれも個性豊かに描かれている。

 
 
 

西日本豪雨で、広島県・坂町の「芸州広島藩の幕末史」講演会が延期

 平成30(2018)年7月16日(海の日)に、坂郷土史会25周年記念講演会として、講師・穂高健一【広島藩の幕末史と神機隊】が予定されていました。
 主催:坂郷土史会、共催は同町教育委員。講演:広島テレビ、中国放送、広島ホームテレビ、中国新聞、幕末芸州広島藩研究会である。
 同町を挙げて、つよい意気込みの下で、150人の入場整理券が6月末の段かいにはすでに配布されていた。


 ことし七夕の日に、猛烈な豪雨が西日本を襲った。広島県下は甚大な被害をだした。同県だけでも、死者・行方不明は53人余り。全国の被害者は死者128人、行方不明者79人であり、平成時代にで最大の自然災害となった。(7月9日10時現在)
 とくに、広島県が甚大である。


 TV報道の西日本豪雨の災害報道で、広島県・坂町が各局のともトップで報じられはじめた。同町内に流れる河川の氾濫、山崩れなどで、坂町に被害者が出ている、という。
 しかし、まだ災害は進行形であり、ぼう大な豪雨の数値がうなぎ登りだ。どこの河川も深夜の真っ暗闇で、水位の状況の掌握が出ていなかった。
 

 私は固唾(かたず)をのんでいた。私はかつて3・11東日本大震災で、岩手、宮城、福島に、二十数回の取材した経験がある。作品は『3・11小説 海は憎まず』で発表しています。


 この経験より、災害被害者たちの苦境、現地の混乱のイメージできる。町の方々はいま、生死を分けた苦闘中である。
 おおかた情報の混乱、情報不足によるつのる危機感、家屋喪失の絶望感、死傷者を出した気持の動転、将来への失意などが、わたしには目に見えるようにわかる。


《災害報道の教訓》

 災害を知れば、だれもが身内・知人の安否を知りたいものだ。ただ、遠隔地・東京などからケータイ、スマホによる電話、パソコン通信が一斉に発信されると、有限の電波回線が浪費されてしまう。
 これは最大の迷惑であら、現地の通信を不能にされて、緊急対応ができない、罪悪である。


 いま、現地の災害救助関係者(消防、警察、自衛隊)が、倒壊した家屋内に取り残されたたちに、「おい、無事か。応えてくれ。妻と子は無事か。連絡してくれ」と懸命にケータイで呼びかけている最中だ。

 東京・大阪など遠隔地から、被災地に飛んでいける場所でもないのに、「皆大丈夫かい」というのんびりした電波消費などは論外である。
現地が知りたくても、電話を掛けない
 これが3・11大震災から日本人が学んだ教訓である。電話を掛けない、被災地への最大限の現地協力になる。

 むろん、私は坂町の講演の行方も気になるが、TV情報だけに押しとどめていた。


            *


 7月7日の深夜21時52分。講演会主催者の事務局から、SNSで『ニュースでご存知かと思いますが、坂町が甚大な被害が発生しています。講演会の会場〈SUNSTARホール〉(坂町立町交流センター)が避難場所になっています』と一報が届いた。

 続けて、『避難場所の同会場は、氾濫した濁流が流れ込んでいます。まだ、豪雨が継続しています』と補足情報が寄せられた。

 これは即返答しないと、坂町郷土史会の方は、私に連絡が届いたか否かの不安が生じる。その精神的な摩耗を避けるために、SNSで「大きな災害のなかで、講演会の気づかい大変なことだったと思います。講演会は臨機応変で臨まれて、皆さまは災害救助、復旧活動に取り組んでください」と発信した。


 同日22時13分には、TVで死者が確認できたので、「被災者の1日も早い回復と、お亡くなりになられた方には、哀悼申し上げます」SNSを入れた。

 同7日深夜22時52分に、坂町郷土史会きから『お見舞いありがとうございます。講演会は一段落したら、ご連絡します』


 翌8日夕方17時53分に、『さきほど、郷土史会の会長から、開催は困難なので、延期となりました』。
 それを受けた私は、大災害のなかで、町の関係者が「講演会」の行方を心配してくれていたたと熱い感慨をおぼえた。

 7月8日(8日)22時02分、私からは「講演の延長の件、了承しました。被災者の方々に心痛し、1日も早い回復を願っています」
 
 7月9日(月)の真夜中の0時17分、『お見舞いありがとうございます。災害復旧の目処がどのくらいかわかりません。時期は、また相談させてください』

 こうしたリアルタイムなやり取りで、講演会は7月16日は中止し、順延になりました。同講演会は、災害復旧の目処が立った時に検討されます。きまりましたら、ご連絡いたします。


【補足事項】

① 7月17日(火)18:30に開催される『幕末芸州広島藩研究会』は予定通り実施されます。

 場所は:port.inc(ポートインク)
   住所:広島市広島市中区本川町3丁目1ー5
   シーアイマンション2F 

 連絡先、同研究会・広報室 090-6416-9518

② 8月11日「山の日」・大崎上島。神峰山大会で、午後【広島藩の幕末の活躍について」が予定通り講演されます。

  問い合わせ先「NPOかみじまの風事務所」0846-67-5530

③ 平成7(1995)年度・第42回 地上文学賞受賞「千年杉」が、テーマとして山津波を取り扱っています。同作品は日本ペンクラブ・電子文藝館『小説』に全文掲載されています。

 千年杉は、選考委員が満場一致による受賞作です。23年経った今でも、穂高健一のなかでも、優れた作品のひとつと評価されています。