小説家

東京大学の銀杏は黄葉の盛り=彰義隊のシンポジウムに参加してみて

 広島から上京された方が、12月1に東京大学「シンポジウム「彰義隊の上野戦争」-明治150年に考える」に聴講されるという。この日は日本山岳会・晩餐会に諸事情で欠席だった。主催者の大蔵八郎さんとは先日、名刺を交わし、同シンポジウムの参加を勧められていたので、私はそちらに出向いた。

 東大の構内は銀杏並木の黄葉が盛りだった。目が鮮やかに染まり、とても心地よく、絵を描く人、写真を撮る人、外国人の観光客が多かった。それにも驚いた。

 聴講だけのシンポジウムは、実に気楽に聞くことができた。私は拙書「神機隊物語」で、彰義隊はかなり詳しく調べている。よって、流れがわかるし、パネリストたちの発言にも、一つひとつ納得したり、懐疑的になったりもした。

 歴史はそれなりに解釈があってしかりだと思う。

 奇異だったのは、安田講堂の壇上で、長唄・安岡社中の方々が、唄、三味線、囃子など十数人が豪快に披露した。

 彰義隊が楠正成の軍で、新政府軍が足利尊氏にになぞらえている。

「えっ逆じゃないの」
 新政府軍は、後醍醐天皇の親政を掲げて王政復古を成している。つまり、建武の新政(けんむのしんせい)、建武の中興(けんむのちゅうこう)を旗印にした。

 明治天皇が自ら政治をおこなう。それが明治維新であり、新政府である。

 後醍醐天皇に反旗をひるがし、武家政治をめざした足利尊氏が離反した。ここに後醍醐天皇に忠誠を尽くす楠正成が、わずかな兵で、足利尊氏を迎え撃つ。それが湊川の戦いである。

「長唄・岡安社中」の説明では、これがまるで逆で、旧徳川幕府・彰義隊が楠正成になっている。新政府(天皇軍)が足利尊氏になっている。

 いい加減だな、と思った。


 シンポジウムは、パネリストとして、戊辰戦争の彰義隊のひいき筋の作家・かたや新政府軍側の歴史作家たちが語った。

 新政府軍は、なんでも薩長と一言で括っている。会津戦争の中心となった板垣退助など、だれひとり語らない。勉強不足だな、と感じた。

 

 一律に、鳥羽伏見の戦いのあと、江戸城開城、そして上野戦争で半日で戦いが終わったと中学生なみだった。
 鳥羽・伏見の戦い →  阿波沖海戦 → 甲州勝沼の戦い → 梁田 戦い そして江戸開城 → 宇都宮城の戦い →  市川・船橋の戦い、→ 五井の戦い → 今市 →  鯨波そして、遂に上野戦争、 飯能戦争に及んだと理解しているのかな、と思った。

 戦争はそうそう突発的に起こるのでなく、段々と規模が大きくなっていくものだ。鳥羽伏見の戦いから江戸城開城のあれこれ、そして彰義隊の戦いへと話しを運ぶ。中間がぬけ落ちている。ここらは歴史作家はおうおうにして「戦争を知らない世代」の弱点化と思った。

広テレ!キャンパス 第2期「広島藩から見た幕末史・そして現代」

 広島テレビカルチャーセンターで、第2期(1月~3月)の募集・受付がはじまりました。メインタイトルは「広島藩から見た幕末史・そして現代」で、こんかいは広島藩の有能な人物を取り上げます。

 浅野家の家史「芸藩志」がここ数年で世に知られはじめてから、倒幕の先がけは広島藩だったと認知されてきました。具体的に、だれが、どのように活躍したのか、政治を動かしたのか。
 芸藩志を読み解くには時間がない。しかし、活躍した人物を知りたい。これに応えるものです。

              *

 幕末・維新期の広島藩には、名君と呼ばれた藩主が3代つづきます。薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)が死の床で、
こんにち日本の大変化のときに際して、天下のことを託すのは芸藩安芸守・慶熾(よしてる)より他にいない。汝、芸州の藩邸に赴いてこれを告げよ
 と遺言しています。


幕末にはロクな家老がいなかったが、藩をまともに導けたのは辻将曹(広島藩)と岡本半介(彦根藩)だけだった」(勝海舟・氷川清話 )


 明治26年発行「忠勇亀鑑 : 軍人必読」の武勇において戊辰戦争の英雄はたった一人、それは西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、広島藩の高間省三のみである。かれは21歳にして広島護国神社の筆頭祭神です。他を超越しています。

            *

 明治政府が広島藩を恣意的に歴史から消した。それによって倒幕といえば坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通などの活躍が躍っていますが、それ以上に有能な優れた人物が、広島藩には多々います。
 
 これら幕末史を動かした本物の実力者たちの特徴、活躍、業績を知ることで、真実の歴史がしっかり見えてきます。
 と同時に、広島藩がより身近に感じられます。

 1月16日(水) 「徳川家を終焉させた」
             辻将曹(つじ しょうそう)
             船越洋之助
             池田徳太郎

 2月13日(水) 「燃える神機隊」
             高間省三(たかま しょうぞう)
             川合三十郎
             小林柔吉(じゅうきち)

 3月20日(水) 「名君と呼ばれた藩主」
             浅野 慶熾(あさの よしてる)
             浅野 長訓(あさの ながみち)
             浅野 長勲(あさの ながこと)

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広テレ!キャンパス事務所  ☎ 082-567-8676

 〒732-8575
 広島市東区二葉の里3丁目5番4号 F
 
                       写真提供:山澤直行さん

「知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍」広島県・大竹市=講演案内

 わたしの講演会・明治維新150年記念『知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍』が、11月24日、広島県・大竹市総合市民会館2階ホールで開催されます。時間は13時30分から16時まで。

 共催は大竹市教育委員会、大竹市歴史研究会。入場料は無料です。

 「薩長倒幕」が最近、疑問が呈されています。かたや、昭和53年にわずか300部、世に出てきた広島藩・浅野家史「芸藩志」から、倒幕の主導は広島藩だった、とクローズアップされてきました。

 河合三十郎、橋本素助編「芸藩志」は、ペリー来航から明治4年の廃藩置県まで、克明に記載されており、全国の史実と照合しても信ぴょう性が高い。

 明治政府がこの芸藩志を厳格に封印したのは、薩長閥の政治家が「俺たちが徳川政権を倒幕したのだ」と胸を張るのには、とても不都合だったからです。

 一方で「防長回天史」は、井上馨の圧力による、長州を美化した私的な要素が強い。不都合なことは記載されていない。事実のわい曲だ、あやしげだ、これまでの薩長史観は鵜呑(うのみ)みにできない、と厳しい批判の目にさらされはじめました。

 講演では広島藩側から、第二次長州征討(長州戦争)の大竹、大野、五日市、廿日市の甚大な被害から、徳川政権の倒幕への展開を克明にお話していきます。
 

 【講演の主だったところ】

 慶応2年、第二次長州征討(長州戦争)まえに、広島藩主の浅野長訓(ながみち)、世子の長勲(ながこと)らが先頭に立ち、幕府の再征には大義がないと非戦を唱えました。

 幕府軍の指揮を執るために、老中の小笠原長行が広島表にきた。執政(家老職)・野村帯刀(たてわき)が折衝する席で幕府をつよく批判したことから、謹慎(きんしん)処分をうけました。
 同年5月、おなじく執政・辻将曹(つじ しょうそう)が幕府に対して非戦をつよく訴えた。すると、辻将曹も武士としては致命的な謹慎処分をうけた。

 老中・小笠原の横暴に対し、広島藩の学問所(現・修道学園)の有志たちは憤り、夜を徹して議論し、「執政の謹慎は藩主をないがしろにした、頭ごなしの処分である。わが藩にたいする脅迫にも等しい、老中の首を打ち取るべし」と決意する。それは切腹を覚悟する行動でした。

 拙著『広島藩の志士』(倒幕の主役は広島藩だった)は、ここからストーリーがはじまります。

 浅野家の世子・長勲が、不穏(ふおん)な空気から、すべての藩士を広島城内にあつめました。「いましばらく自重せよ、身分を問わず腹蔵するところ藩に建白せよ」と申しわたしました。

 文武師範(しはん)の55人が連署で建白した。『藩主の直命があれば、水火も辞せず(命も惜しまず)、暴挙に対して行動を起こします、今後とも長州藩ヘの出兵は固く拒否してください』という趣旨だった。この抵抗運動が德川倒幕への精神となりました。

 広島藩は若者の意見を取り入れて不参戦を表明した。小笠原老中は藩内の過激な動きに怖れをなして、夜に紛れて広島を脱し、小倉に移っていった。

         *

 しかしながら、慶応2年6月には第二次長州征討が勃発(ぼっぱつ)した。大竹から廿日市まで、戦場になってしまった。
 ……町並の家々は焼かれ、農民は田畑を踏み荒らされ、無差別な暴行をくり返えされた。流浪の難民となった数はかぞえきれない。庶民の生活が甚大な影響をこうむり、荒廃してしまった。

 広島藩は戦争反対、開戦反対の建白を20回に及び、出兵を辞退していながらも、わが領地が戦禍にさらされてしまった。
 藩主の長訓以下、無念の極みだった。ここで徳川政権に見切りをつけます。
「こんな徳川家には政権を任せられない。このままだと、いずれ西欧列強の餌食になってしまう。徳川家には天皇家に政権を返上させよう」
 藩主・長訓、世子・長勲、執政・辻将曹たち、そして若い家臣たちが、倒幕へと藩論を統一し、大政奉還運動を加速させていきます。

 当時、政治の中心となっていた京都で、広島藩士たち上下を問わず、烈しく倒幕活動を展開していきます。岡山、鳥取、徳島、津などへ働きかけます。
 さらに公武合体派の薩摩藩を巻き込みます。
 御手洗交易で親密な薩摩は、広島藩の提案する大政奉還という倒幕運動に同調します。ここで、土佐藩の後藤象二郎も巻き込みますが、山内容堂の出兵拒否にあってしまった。
 そこで、禁門の変から朝敵だった長州藩を、薩芸は秘密裏に仲間に加えます。ここに薩長芸軍事同盟が結ばれます。

 慶応3年秋、波乱に満ちた歴史がははげしく動きます。大政奉還、3藩進発(挙兵)、小御所会議における明治新政府の誕生、鳥羽伏見の戦いへと展開します。

 第二次長州征討の最大の被害地だった大竹市で、この歴史展開を語ります。

穂高健一の新刊本「神峰山」(かみのみねやま)=10月25日から全国書店で一斉発売

 ことし(2018年)3作目の新刊・単行本となる「神峰山」が、東京の出版社・未知谷(みちたに)から発売される。定価は2000円+税。全国の書店およびネットで発売される。

 これは中編の書き下ろし5作品が収まっている。

第1章 ちょろ押しの源さん

第2章 初潮のお地蔵さま

第3章 紙芝居と海軍大尉

第4章 首切り峠
 
第5章 女郎っ子

【作品の趣旨】

 昭和20年代の瀬戸内の遊郭街で栄える、木江港の群像を描く。五編の中編を通して、戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描く。

「歴史はくり返す」
 戦争は人と人が殺し合うもの。敗戦、休戦、という言葉だけで、戦争は終わらない。社会を破たん・破局させた軍人政治家たちは、無責任にも政治舞台からおりるだけで、戦争責任を負わない。
 庶民は戦後、どん底の悲惨な生き方を強いられてきた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。生きることに必死だった戦後の姿こそが、「2度と戦争をしてはならない」という歴史的な証言である。

 戦争とはどんな悲惨な結果を及ぼすか。それを小説で再現化する。

【著者から】
 5編とも、登場する人物は魅力的に克明に描いています。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。
 結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない。それぞれにモデルはいるが、フィクション小説である。

 ※ アマゾンは10月24日(水)から購入できます。

『燃える山脈』の最大の取材協力者・務台亥久雄さま逝く= 弔辞

 謹んで哀悼の意を表します。
 務台亥久雄さまの、突然の訃報に驚いています。
 私は「山の日」制定記念出版「燃える山脈」を書いた小説家・穂高健一です。務台亥久雄さまから、数々の取材協力を得て、「市民タイムス」に237回にわたる新聞連載、および「山と渓谷社」から単行本で発刊いたしました。
 亥久雄さまは、わがことのように喜んで下さいました。簡略に、その推移を申し上げますと。

 国民の祝日「山の日」が2014年に、約100人の超党議員連盟により国会で成立しました。と同時に、法案の可決が世界中に報道されました。日本の重要法案が世界をかけまわることは稀です。しかし、「山の日」がナショナル・ホリデーになったと、世界のひとを驚かせたのです。
 この『山の日』が単に登山の日にするだけは止めよう。山の恩恵に感謝の念をもつ場にしよう。山の文化や歴史にも、組み込もうという趣旨が決められました。そして、第1回全国大会が上高地に決定されたのです。
 私は、議員連盟事務局長だった務台俊介代議士から、「山の日の歴史小説を書いてほしい、信州によい素材があるから」と依頼をうけました。

 天保時代に、あづみ野から北アルプスを二座も越えた、飛騨国へ米と塩を運ぶ、『飛州新道』ができています。ちょうど、播隆上人が槍ヶ岳初登頂、十返舎一九があづみ野にきた頃と時代が重なっています。これらを織り込んで、歴史山岳小説として書いてほしい」と務台さんから依頼されたのです。

 拾ヶ堰の完成があずみ野の「いのちの水」になり、その後の発展の基盤になったので、そこは特に書きこんでくださいと、務台代議士から強調されました。

 一つ返事でお受けした私ですが、その実、瀬戸内の造船で栄えた港町で生まれ育っており、農業にはまったく無縁でした。高校時代に初めて田植を遠目に見たくらいでした。およそカイコは見たこともなく、機織り、囲炉裏の生活体験もないし、信州の生活様式すらわからない。
風土・風紀の空気感、信州人の気性も同様で知識がありませんでした。

 ともかく小説家として、山々の荒々しさを描き、天明・天保の激動期のきびしさに生きる、という仮想定の段取りから取材をはじめました。

 2015年6月初、大糸線の駅から「拾ヶ堰」を訪ね、おどろきました。拾ヶ堰は真っ直ぐで、ほとんど傾斜がなく、川面の水流はゆるやかで、常念岳の方角に流れていく。野鳥が優雅に遊ぶ情景です。想定する艱難辛苦な掘削のイメージとは真逆で、あまりにも、おだやかな風景でした。
「書けるのかな、私には?」
 務台亥久雄さまが、取材協力者になってくださいました。稲作と水温の微妙な関係を語られて、「農家は利巧ではなければ、出来ません」と前置きされた。それがつよく印象に残っています。
 農事の知識がゼロの私といえば、トンチンカンな質問ばかり。「天保の飢饉では、水稲はバタバタ倒れている光景でしょうね」。「いいえ。稲穂が倒れたら、実りが豊かで豊作ですよ」。虫害から「うんか」(害虫)といわれても、なあに? となる。冬場のしごとでなぜ藁を叩くのですか。備蓄米、救荒米の違いもぴんとこない。水田で泳ぐ小鯉や鮒が子どもの遊び魚だろうとおもっていると、水中の空気の拡散です、といわれる。なにも理解できていない。

 私が農事の歴史を書いても、侮られるだけだ、と考えました。

『小説は人間を画くこと』。純文学の原点で筆を進めよう、農業でなく、掘削に携わった人間の精神を書こう。それに徹底しました。艱難辛苦の下で、掘削に命をかけた人をすさまじく描くことができました。

 しかし、完成のあとは米余りの状況下から、販路をもとめて北アルプス越えの飛州新道の開拓へと「燃える山脈」が新たな展開がなされていきます。
 亥久雄さまは、郷土史家でもありました。務台家および親戚筋には、歴史的に重要な家史が豊富にあり、それら一つひとつを拝見しながら、説明をうけました。

 亥久雄さまの直系先祖には、知的で聡明な『務台伴語』という寺小屋の師匠がいました。明治初期まで活躍されています。

 小説の舞台となる天保4(1833)年の伴語は20歳でした。私は儒者髷の伴語を主人公に据えました。とても喜んでくださいました。取材の過程で、岩岡家の古い戸籍謄本から、「岩岡志由」という魅力的な17歳の女性がみつかりました。ともに実在人物です。
 ここから務台伴語と岩岡志由の淡い恋心を発展させながら、飛州新道の開拓へと作品を推し進めました。

 かたや、亥久雄さまが務台家・本家に案内してくださり、『務台景邦』なる有能な庄屋の膨大な史料や日記を見せて下さいました。景邦は播隆上人といっしょに槍ヶ岳に登頂しています。もっと筆を割きたかったほど、景邦は有能な人物でした。

 天保6(1835)年に、大滝山、上高地湯屋、焼岳を経由する飛州新道が完成しました。ウィンスントンが世界に上高地を紹介する、約60余年前のことです。
「江戸時代の信州の歴史を、ここまでよく掘り起こしてくれた」と亥久雄さまが高評してくださいました。農業に無知識な作家を鞭撻してくださり、両輪の輪でしたから、「燃える山脈」が世に送りだせたのです。

「市民タイムス」の新聞小説の発行日、あづみの講演会の決定日、「拾ヶ堰が世界かんがい施設に登録された日」と、それぞれに電話をくださった喜びの声が、いまもよみがえります。

 信州の教育者だった務台伴語さんに、あの世でお会いになりましたら、「燃える山脈」の主人公になったよ、とお伝えください。
 そして、安らかにお眠りください。

「補足関連」
 2018年10月2日、務台亥久雄さまの葬儀が行われました。
 私(穂高健一)は、地中海のマルタ島を取材ちゅうであり、亥久雄さまの訃報に接し、弔辞を葬儀の場で、代読していただきました。その全文です。
 第一次世界大戦のとき「日英同盟」により、日本海軍が初めて地中海に艦隊派兵をおこないました。(加藤友三郎海軍大臣のとき)。100年前です。日本の海兵隊兵の犠牲者がマルタ島のイギリス軍墓地で眠っています。

 あらためて務台亥久雄さまのご冥福をお祈りいたします。        
     


戦争が残した非情さ。女と男の悲惨な生き方を描く=小説「神峰山」発刊予定

 私は単行本「神峰山」(かんのみねやま・2000円)を年内(2018)に出版する予定である。
 昭和20年代、広島県・大崎上島に、木江(きのえ)港という瀬戸内随一の遊郭街があった。その町に生まれ育った私には、当時の空気感が未だ十二分に残っている。
 昨年度(2017)の8月11日大崎上島「山の日」神峰山大会から、朗読用として中編小説の執筆をはじめた。
 第一作「ちょろ押しの源さん」を、日本ペンクラブ有志が立ち上げた文藝同人誌「川」で発表してみた。自家自賛するようだが、かなり評判が高かった。すぐさま、出版の話がでた。
 他の4編は中編小説の書き下ろしとして、5編を収録した単行本「神峰山」として年内に発刊する予定である。すでに著者校正の段階なので、おおかた11月頃だろう。


神峰山の山頂付近から。眼下の集落が木江港


【作品の狙い】

 戦争は人と人が殺し合うもの。戦場や戦禍を描くだけが戦争小説ではない。敗戦、休戦で、庶民に平和がきたわけではない。
 太平洋戦争が昭和20年8月15日に終わった。軍人政治家たちは社会を破たん・破局させたまま、政治舞台から降りていった。無責任にも政治責任を負わない。
「戦後の日本」は無政府状態に陥り、庶民はどん底の悲惨な生き方を強いられた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描いている。

 昭和20年代の生きることに必死だった戦後の庶民の姿こそが、『2度と戦争をしてはならない』という歴史的な証言である。それを小説のテーマにおいた。
 
 登場人物は5編とも、魅力的に克明に描いた。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない作品になっている。
 舞台のプロアナウンサーすらも、涙声の連続で朗読したほどである。

             *

 私の脳裏には、広島原爆の孤児、太田川沿いのバラック建てなど、しっかり刻まれている。木江港の遊郭街はリアルに存在する。ある海軍中将の遺族から資料提供もあり、事実に近いところで描いている。

 私が小学6年生のときだった。昭和30年5月11日、宇高連絡船どうしの衝突事故が起きた。世界で3番目の海難事故で、小中学校の修学旅行生が多数乗船しており、生徒と教師が多く水死した痛ましい出来事だった。

 当初、私たちの通う木江小学校が5月9日出発で、予定通りならば、紫雲丸に乗る予定だった。そして、一週間後に同じ町内の木江南小学校が出発だった。両校はほぼ生徒数がはおなじだった。
 運命のいたずらか。この2校の出発日が直前で入れ替わったのである。かれら木江南小学校が宇高連絡船の事故に遭遇した。そして、生徒22人、教師3人、併せて25人が犠牲になった。
 私たちは六年生全員が南小学校葬に参列した。松村文部大臣が弔辞を読んでいた。
 中編小説のタイトル『女郎っ子』のなかで、運命のいたずらと言えば残酷すぎる、この紫雲丸事件を展開している。


        紫雲丸事件の海難現場

 単行本「神峰山」を脱稿した私は、ことし(2018年)9月7日、木江小学校に出むいて25人の慰霊の前で手を合わせた。
 少年・少女の遺影写真の25人を見入った。記憶どおり松村元文相の弔辞の原文が残っていた。当時、新聞報道された現場写真を掲げられている。幼い生徒たちが死に逝く寸前で撮影されている。痛々しいかぎりだ。
 翌々の10日(雨)、私は紫雲丸事故の同海峡にむかった。この宇高連絡船の紫雲丸事故から、瀬戸大橋を架けようという運動が広まった。現在は、高松と岡山間は鉄道と道路で結ばれている。貨車を運ぶ当時の宇高連絡船は廃止になっている。

 事故現場により近い航路を持っている宇野・高松フェリーに乗船した。雨降る海で、風景は霞んでいる。島々の間を縫う。岩礁、浮標などそばを航行する
 雨雲の視界を狭めて薄ほんやり水平線ができる。


      高松港の全景 

 昭和30年5月11日の事故当日は濃霧だった。紫雲丸は国鉄の体質の時間どおり、レーダーに頼って全速力で航行していた。そして、おなじ国鉄の連絡船・第三宇高丸と衝突したのである。
 衝突現場に差し掛かった。
「予定通りならば、私が紫雲丸に乗っていたならば、どんな行動をとっただろう。泳げる私でも、死んでいたかもしれない。単なる運命の差なのか」
 その推考はいまだに頭から離れない。

          *

 小学校は違っても大崎高校では、島内の小・中学が一つになる。南小学校・中学から進学してきた同級生の、ある男子生徒に、私は紫雲丸事故の状況を訊いてみた。
「ぼくは第三宇野丸に乗り移った。だから、泳がなかった。だから、まったく濡れなかった」
 かれは口重たげに、そう言った。
「木江小学校(難を逃れた方)の六年生は、先生に引率されて、南小学校の学校祭に行った。遺影を見ると、犠牲者のほとんどが女子だった? 漁師町の女の子は、家の手伝いといえば、漁船に乗ることだろう。泳げないわけがないよな」
 島の人間はうわさ好きだ。大半の犠牲者が女子が多かった理由は、事故直後から、私の耳にも入っていた。真実を知りたかった。かれの口から確かめたかったのだ。
 だが、高校のクラスメートは語らなかった。

 沈没した紫雲丸には、いくつもの小中学校の修学旅行生が乗船していた。木江南小学校の教師は3人死んだ。
「先生の犠牲者の数は、南小学校がいちばん多かったんだよね」
 かれは無言だった。
(真相を知っている顔だな)
 かれの深く悶々とした顔から、それを読み取った。
(そっとしておいてほしい)
 高校時代の同級生は、そんな表情に変わった。

 泳げる女子が同校で二十人死んだ。なぜか。クラスメートは語らなかった。私は単行本「神峰山」のラストシーンで紫雲丸事故の、これら疑問も復活させて描いている。
 高校のクラスメートの沈鬱な顔がよみがえりながらも、私はそれを素材にして筆を進めた。大崎上島を素材にする以上は、紫雲丸事件は避けて通れなかったのだ。
 作品の校正者が、まさかというストーリーですね、と言った。小説家は非情だな、という自戒の念がある。

 高松港に着くと、屋島に登ってみた。紫雲丸事故が発生した場所が一望できる。私たちと入れ替わった木江南小学校の死者たちを悼んだ。

「フィクション小説とはいえ、厳しい境遇を描いたな。小説『神峰山』のいずれの主人公も哀れすぎる」
 私はこころのなかで、いつまでも呟いていた。

 高松港の町並みには夕方の灯が点きはじめた。もはや屋島山頂からの終バスはなかった。


 

【講演・案内】~知られざる幕末から明治維新=葛飾区立水元図書館

 穂高健一の幕末講演会『知られざる幕末から明治維新』が、葛飾区立水元図書館で、平成30年9月22日(土曜)午後2時から4時まで開催されます。

【詳細】

講師・穂高健一

日時 9月22日(土曜)午後2時から4時
      開場時間*午後1時30分

会場 葛飾区立水元図書館2階「水元集い交流館」
   葛飾区東水元1-7-3
    
アクセス JR金町駅・京成金町駅 駅前からバス 「葛飾総合体育館前」で下車

定員  50人(当日先着順)

入場料 無料

お問い合わせ先 03-3627-3111

 掲載写真 2018年1月28日、葛飾区立立石図書館、約100人の参加者です。

 3月・東広島市、5月、広島市・船越、9月8日(土曜)広島・五日市ともに約150人の参加者がありました。

 水元の会場はやや狭くて、定員がありますから、お早めに入場ください。
  
   
 
  

【新規講座】広島藩からみた幕末史。そして現代。=広島テレビカルチャーセンター

 広島テレビが広島駅新幹線口に、新社屋を建てました。その新社屋4階に『広島テレビカルチャーセンター」が開設されました。

 講師・穂高健一による『広島藩からみた幕末史。そして現代。』が、本年(2018)9月より毎月1回、開講いたします。
 講座の趣旨は、「歴史を知ることは現代を知ること」。倒幕・維新に大きな役割を果たした広島藩の活躍を知ってもらう、学んでもらうことです。


 現代の立場(視点)から、江戸時代~明治・大正・昭和・平成と近現代史を学んでいきます。たとえば、「なぜ、原爆が広島に落とされたのですか」という疑問とむきあう。
 パールハーバー(真珠湾攻撃)から、というだけでは、広島・原爆投下の真相や真実は解明されません。

 ペリー来航、日米通商条約から、日米の関係は始まっています。幕末には尊王攘夷と叫びながら、なぜ明治政府は攘夷論を捨てて開国主義になったのでしょうか。
『戦争は景気が良くなる』
 この考え方、富国強兵の政策の下で、日清、日露、シベリア出兵、第一次世界大戦、上海事変、満州事変、太平洋戦争と10年に一度は戦争する国家になった。

 とくに満州事変からは、国家統制、国体の軍事色が強くなり、欧米からは大反発をうけてしまった。
 東京が第一軍都、鈴鹿山脈で割り、広島が第2軍都となった。つまり、東京と広島が戦争を推進する強烈な都市になった。

 米国の空軍アーノルド将軍は、昭和20年3月10日に東京大空襲、8月6日に広島と、2つの軍都の壊滅作戦を立てた。そして、実行に移した。(長崎原爆は強力なプルトニウム239の威力を確かめる目的が強かった。小倉から長崎へと、当日の天候で投下場所が移った)

              *

 戦後の日本は、「もう戦争は嫌だ」という国民の真の願いになった。所得倍増政策から、高度経済成長を果たし、アジアで唯一選ばれたサミット加盟国になった。日本人は「戦争をしなくても豊かになれる」という自信につながった。
 

 戦後73年の平和社会を築いた価値観と自信からみれば、

「薩長中心の明治政府からの富国強兵策は、正しかったのか」

「ほんとうに欧米列強による植民地になる危機が、日本にあったのか」

「明治から77年間、10年に一度は戦争する国家をだれが作ったのか」

 と、従来から鵜呑(うの)みにされてきた官制の幕末・維新史にたいして疑問がむけられはじめた。
 つまり、「あのような戦争国家に逆戻りは嫌だ」という視点からも、薩長賛美の歴史から脱却する時代に入ってきたのです。


 こうした近現代の歴史の流れを通して、現代を知り、将来を見通す。それらを学ぶ講座です。


【講座・日程】

 9月19(水) 16:30~18:00

 なぜ、江戸時代の広島藩が歴史から消されたか。

 10月10日(水)15:30~17:00

 藩校・学問所出身者が神機隊を発足させる。

 11月7日(水) 16:30~18:00

 芸州・浅野家が主導した徳川幕府の倒幕であった。

 12月12日(水) 15:30~17:00

 藝薩長の3藩による倒幕挙兵が、慶応3年に御手洗から進発された。


 全4回 : 10,800円(税込)


【申し込み先】

広テレ!キャンパス事務所

 
 ☎ 082-567-8676

 〒732-8575
広島市東区二葉の里3-5-4 広テレビル9回
 

【幕末・維新フォ-ラム】芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕=9月8日・広島県五日市

『幕末・維新フォ-ラム 』として、『芸州口の戦い(第二次長州戦争)と大政奉還への内幕』が9月8日(土)に、広島市佐伯区の五日市で開催されます。

 禁門の変から長州戦争へ。戦いの舞台となった大竹、五日市、廿日市の戦火、そして御手洗へと、倒幕への流れができていく。
 広島藩の若き志士たち、桂小五郎、大久保利通、坂本龍馬たちが大崎下島・御手洗に集まり、四藩軍事同盟の密議をおこなった。そして、いよいよ倒幕へと火の手が上がった。

 そこから150年間にわたり、なぜ突如として慶應3年11月末に、芸薩長の6500人の西洋式軍隊が京都に挙兵できたのか、とまさに歴史の空白だった。

(同年・同月15日には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されている。かれらは1週間前の御手洗密議に参列していた)
 大河ドラマでは決して語られない歴史の空白だった。その真実が現地の郷土史家の方々によって今明らかにされます。


日時:平成30年9月8日(土)13:00~16:00


場所:光禅寺(🏣731-5127 広島市佐伯区五日市2丁目1-1) TEL:(082) 921-0011


 入場 : 無料

13:00~13:10(10分)  あいさつ・講師紹介ほか


13:10~14:10(60分) 《第一部 基調講演》~穂高健一

            ☆

14:20~16:00(100分)《第二部 パネル・ディスカッション》

 司会:(コ-ディネ-タ-)穂高健一

 パネリスト(各20分)

「西国街道と長州戦争」~佐々木卓也さん(五日市西国街道散策倶楽部・指導員)

「芸州大竹口と戦跡」~畠中畃朧さん(大竹市歴史研究会・会長)

「日本遺産 御手洗の果たした役割」~

 尾藤 良さん(御手洗 重伝建を考える会・会長)

 井上 明さん(御手洗 重伝建を考える会・理事)

《質疑応答》

  ☆

主催:一般財団法人 中国地方郵便局長協会(🏣730-0016 広島市中区幟町3-57)

後援:広島県教育委員会・広島市教育委員会・中国新聞社

協賛:光禅寺・五日市西国街道散策倶楽部・大竹市歴史研究会・御手洗 重伝建を考える会・てくてく中郡古道(狩留家・三田・井原・落合郷土史会)ほか


【光禅寺へのアクセス】

●JR山陽本線・五日市駅(北口)より徒歩10分

●広電宮島線 佐伯区役所より徒歩6分


《お問い合わせ先》

 (一財)中国地方郵便局長協会:事務局

  竹内 TEL 090(7120)0998

星野 TEL 090(2804)9968

『良書・紹介』 「漱石センセと私」=出久根達郎

 出久根達郎著「漱石センセと私」(潮出版社:本体1500円)が6月20に出版された。このタイトルの『私』とはだれか。先入観からいえば、妻なのかな? と思いきや違っていた。

 四国・松山にすむ「より江」なる尋常小学校一年生の少女が登場してくる。離れの2階に独身時代の夏目漱石、1階に正岡子規が下宿していた。夏目センセと呼び、子規におだてられて俳句を詠む。より江はこうした羨むべき文学環境の下で育った。
 
 主人公は幼いより江「私」である。文豪の夏目漱石にたいする淡いラブ・ロマンスかな、と思いきや、センセが鏡子なる女性と早ばやと見合い結婚をしてしまう。この予想もちがっていた。
 見合いの場のエピソードは、漱石像の一端を物語り、ユーモラスに描かれている。 


 夏目漱石が松山から熊本の五高へ転任になった。松山の少女は夏休みに入ると、祖父につれられて熊本にでむく。漱石の家に訪ね、新婚の鏡子夫人と対面する。
 一般に、漱石の妻は自殺を図ったり、精神が不安定だったり、悪妻だと決めつけられている。しかし、作者は温かい目で、より江「私」からみた鏡子夫人を優しい良き女性として丹念に描いている。つまり、鏡子夫人は悪妻という通説をくつがえしている。
 それが作者・出久根さんの狙いであり、作品の趣旨だろう。


 より江の恋のスタートは、このときの熊本からだった。
 熊本の旅館で、祖父が急病になった。少女はそのからみで、一高卒で帝国大学医学部に在学する「ドクトル猪之吉」なる久保猪之吉(いのきち)と知り合う。ふたりは人力車で熊本城見学をする。ごく自然に、西南戦争、明治熊本地震(明治22年7月29日)などの語りが出てくる。


 ふたりの間で、松山と東京という遠距離交際がはじまり、やがて恋愛結婚へと成就する。お見合いが中心に座る時代に、なぜ長期に文通が続いたのか。それには理由があった。

 猪之吉がかつて学んだ一高の国語恩師・落合直文が、国語辞典の編さんに取り組んでいた。それに協力する帝大生の猪之吉が、松山のよし江に、「日常生活のなかで、変わった言葉、妙な言葉、どういう意味だろう」と疑問に思ったことばの拾い集める役をたのむ。それに対する返信が都度もどってくる。

 国語辞典の完成まで、ふたりの長い交際の源になる。なるほど、とおもう。と同時に、国語辞典をつくるプロセスが興味ぶかく読める。


『吾輩は猫である』のなかで、より江が雪江で登場するらしい。「もっとも顔は名前ほどではない」とセンセはあんまりであると記す。「ちょっと表に出て一二町あるけば、かならず逢える人相である」と作中で展開しているようだ。
 小説家の妻とか、友人とかはモデルにされると、コケにされるから、要注意かもしれない。


 より江は猪之吉への想いから、やがて東京への進学をめざす。
 夏目センセの奥さま(鏡子夫人)はそれを知ると、二十社の「合格祈願」の朱印が捺された集印帳を送ってくれた。松山からは特産の竹細工を贈る。この交流のプロセスからも、鏡子夫人の日常生活や身辺が克明に描かれていく。


 国語辞典が完成し、より江と久保猪之吉が3年ぶりで再開する。そして、求婚、結婚、初夜、出産と物語が展開されていく。医者の妻として良き人物に成長する、さわやかな内容である。
 この間に、かつて母親の求婚者だった男性を探すシーンが出てくる。その手掛かりは松山の伊予絣(がすり)である。意外な結果だった。こうしたストーリーの味付けも、作品に求心力をもたらしている。

 出久根さんは随所で、漱石作品を深く解説している。と同時に、数多くのエピソードも作中で展開する。二つばかり紹介すると、

 熊本の丁髷(ちょんまげ)を結った古本屋が、懇意なる夏目漱石の書物の好みを教えない。それは権力者が思想調査をしているから、情報提供になってしまうからだという。

 栗の木も素朴だが面白い。枕木になる、堅くて腐らないから舟の艪(ろ)の材料になる、栗飯ご飯はイガから炊き上がるまで手間がかかる、10人家族だと大変だ。現代では消えかけた知識が習得できる。

 エピローグでは当時の文壇事情を解説しているので、幅広い知識が得られる。


『目次』を紹介しておくと、下記の通りである。

 第1章 いっぷり

 第2章 大人

 第3章 ヨとヲ

 第4章 求婚

 第5章 いとしのより江ンジェル

 エピローグ