小説家

私の半生とはなにか。なぜ生かされて、小説家になっているのだろう

 いま、わたしの半生をさかのぼってみれば、物書き、登山、病気の三つが大きな比重を占めているし、それぞれが人生に大きく関わってきた。


 小説を書きはじめたきっかけとか、動機とか、よく訊かれる。
 闘病生活など語りたくないので、さらっと、『28歳で大病したので、寝ながらでも、なにか有意義なものがないかと考えました』と前置きし、それは前まえから願望だった中国古典を読みあさることでした、と話す。
 一年半ほど、その読書がつづきましたが、寝ながら厚い本をもって読むのはとても重くて、手が疲れてくるものです。
 そこで思いついたのが、『寝ながら思慮し、起きたときに執筆する』という小説家への道です。当時はとても高い憧れかな、と応えている。

 つけ加えれば、入退院をくり返した15年余でしたが、この間に、直木賞作家の伊藤桂一氏を師としてあおぐ幸運がありました。それがわたしの人生の岐路になりました。「戦地でも、上官の目を盗み、隠れて執筆していた」という伊藤先生の苦労に近づこう、それに近い努力をしよう、という道筋ができたのです。

 妻には、そのうち作家になるからと宣言し、炊事、洗濯、掃除、育児をすべて押しつけてきた。
「この世に生まれてきたからには、一作品は名作を残したい」
 わたしはとくに純文学に拘泥しましたから、10年、20年経っても、めざす文学賞のひとつもとれない。きびしい世界でした。

 わたしは実印をもたない男です。妻の親が一軒家を建築してくれたし、自動車の免許も持たないし、親の産み方が悪かったのか、病気ばかり。
 妻の内職で、子どもの養育費が賄えていた。

            *

 小説に没頭しながら、入退院の狭間の元気なときは、もっぱら登山でした。妻の嫌味のひとつも飛んでくる。そこで考えたのが、エッセイ作品の投稿だった。

 公募ガイドを折々に購入し、片っ端から応募した。次つぎに受賞した。エッセイの募集要項には、主催者がなにを求めているか、テーマが明瞭だから、わたしには書きやすかった。

 当時のわたしの文章技量は、小説で二次予選、最終予選にもいくレベルでしたから、応募者が1000人いても、3本のうち2本は賞に入るだろう、という自信があったのです。
「エッセイは事実を書く」
 そんな妄想が主催者にあるから、尤もらしく感動エッセイを書けば、最優秀賞でなくても入賞作品になった。
 つまり、選者の目をごまかすテクニックを身につけていた。授賞式には妻と同伴すると決め込んでいました。華やかなパーティー場で、妻までチヤホヤされるので、夫のメンツが立つ。

 しかし、小説の授賞式ではないし、わたしは複雑な気持ちでした。その精神的な苦痛から、解放されたくて山岳登山をくり返していたのです。

「……、やはり、小説の筆力はないのかな。これが最後」となんども折れかけました。挫折感のくり返しでもあった。25年かけて小説の文学賞にやっとたどり着いた。
 そこから受賞癖が付いたのか。毎年のごとく、小説の受賞、優秀賞、入賞と延べ8回もつづいた。


 いま思えば、伊藤桂一氏は『小説の職人』といわれて、数多くの選考委員だった。その教えは「結末が勝負」という極意でした。それがわたしの習作時代の多作で身についていたのでしょう。投稿作品が候補作になると、その作品は結末がぴたりテーマとなっているので、まちがいなく受賞するだろう、と自信を持っていました。

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 この間に、わたしは山岳で3度、「これで死ぬのか」という滑落を経験しました。

 北穂高の山頂直下の大雪渓、新雪の奥日光・根無草山では捜索隊がだされたし、真冬の八ヶ岳・硫黄岳の噴火口では標高差190メートルの滑落だった。
「どんな遺体になるのかな」
 と死の恐怖とともに、わたし自身すらふしぎに思えるほど、反射的なピッケルワークが利いて奇跡的に助かったのです。


 文学賞を受賞してからは、純文学のみならば、雑誌のミステリー連載の注文も受けました。龍馬ブームのときには、「坂本龍馬と瀬戸内海」という雑誌連載のしごとが回ってきた。それが幕末歴史小説の執筆への入口となりました。

 いつしか数かずの史料・資料をあたっているうちに、官僚が作った日本史の教科書がいかに嘘が多いか、と腹立たしさを覚えました。

「明治政府がおこなった、幕末史のわい曲は国民のためにならない」

 薩長の下級藩士が伸し上がった明治政府は、自分たちをより大きくみせるために、前政権の徳川幕府をことのほか批判している。…… 徳川政権は愚劣な政治であり、討幕する必要があったと筋書きを作っている。これはきっとウソだ。そんな確信にたどり着きました。


                *

 国難(外患内憂)の徳川時代は、有能な人材を最も多く輩出したときです。身分が低くても、抜擢されたかれらは、優秀な語学力で海外文献を読みこなし、国難に立ち向かう外交官になっていきました。そして、かれらはアジアで唯一、植民地にもならず、貿易立国の素地をつくりあげたのです。

 これは日本人の誇りです。

 勇ましい為政者は、能力に関係なく「もう、戦争をやるしかない」と国民を動かせます。反面、戦争をせず、外交で解決する、というほうが数段に難儀で、知的能力を要求されます。
 平和を維持した徳川政権から学ぶ。そんな考えから、わたしは早くに阿部正弘に目をむけはじめました。しかし、阿部正弘の日記は明治に焼かれていましたから、8年間にわたる長い取材になりました。

 いまやIT時代ですから、外国資料・文献を引っ張ってきて、グーグルで自動翻訳することができます。
 外国側から徳川時代の日本をみると、なんと、わたしたちが教わってきた内容とはまったく違う事象に出合うことが多くなりました。どっちが嘘なのか。ペリー提督の遠征日記などは針小棒大、自画自賛ではないか。そんなところにまで、たどり着きました。

 学校教育では「安政の通商条約」は不平等条約だと教わっています。しかし、当時の5か国はいずこも、日本の外交官(岩瀬忠震・永井尚志など)はしたたかで、強気で、自分たちはとてつもなく不平等な条約を結ばされた、と不満をもっているのです。

 たとえば、日本人が英米仏露蘭に渡来すれば、どの港でも自由に使えるし、国内をいつでも通行できる。しかし、日本は横浜・長崎・函館の三つだけである。(のちに2港追加をする)。そのうえ外国人は10里の枠内から外に出られない。
(外国人は)商品の買付前に現地を見てまわれない。江戸にも、大坂にも行けない。まったく不平等な通商だと記しています。

 日本の輸入関税は20%であり、フランスなどはワイン輸出国であり、酒税35%の高輸入関税が課せられた、不平等な条約だと叫んでいます。(インドは2.5%、中国は5%)。

 個々には強弱はありますが、海外5か国の言い分のほうが正しいと思えます。ここに日本の歴史にねつ造を感じたのです。

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 徳川家は260年余間、海外と一度も戦争しなかった。薩摩がイギリスと薩英戦争、長州が欧米四か国と下関戦争をやった。
 この2藩の薩長が明治の主力の為政者になりました。征韓論、台湾出兵、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争まで77年間にわたり、10年に一度は戦争をする国家にさせてしまった。

 この時代に生きた人たちは軍国主義の教育の下で、軍国少年として育ち、制服をきた軍人が格好よく英雄に映っていた。天皇を大元帥として頂点に掲げた戦争でした。徴兵制で、「祖国のために死す」が美化されて海外へと送り出されたのです。
 女性は男児を産むと、この子は戦争で若くして死ぬ、ときっと空しい気持ちに陥ったはずです。

 本来は戦争は外交の手段である。しかし、明治政府からは武力支配が目的になってしまった。つまり、戦争に勝つことが目的になったのです。
 その結果、日本人は戦争が好きだと思われてしまった。

              *

 日本人は本質的に戦争を嫌う民族です。江戸時代の長い鎖国の理由もそこにあったのです。太平洋戦争後は、ほとんどの日本人が戦争解決・英雄観で、日本の外交を論じることはなくなりました。
 ただ、正しい歴史認識はつねに持っておく必要があります。

 徳川時代に、アジア・アフリカで唯一植民地にならなかったのは、なぜか。戦争せず、優秀な人材をもって開国・通商への道をみずから拓いたからです。日本人が優秀だったからです。
 決して「黒船の砲艦外交に脅えた」わけではありません。こんな嘘はやめる、教科書を糺(ただ)す必要があります。

            *

 維新とは何か。『旧邦(きゅうほう)なりといえども、その命これ新たなり』(詩経)。つまり、260年の古い体質の徳川家でも、みずから内部浄化によって、新しい近代国家へとむかっています。これこそ安政維新です。
 小栗上野介たちは、外国からの融資のもとで、日本の近代化に突っ走っていきます。製鉄所、造船所をつくり、蒸気機関車まで発注しています。完成したのが明治時代だったのです。

 ただ、鳥羽伏見の戦いが起きます。それは薩長を中心とした下級武士たちの軍事クーデターです。それが成功し、かれらがトップに座る「明治軍事政権」になってしまったのです。
 日本という統一国家が生まれながらも、77年間は暗い戦争国家だった。この軍事革命にたいして「明治維新」をつかうのは不自然です。


 わたしは登山にしろ、病気にしろ、死の寸前で生き長らえてきた。おおかた日本史の教科書において、近代化は「安政維新」から始まる、という正しい表記する、そのために生かされているのかな、と思えてきました。

 

 ☆ 「元気に百歳」クラブ誌20号が最終号になりました。そこに寄稿した「安政維新」から抜粋しました。


【関連情報・「元気に百歳」クラブ
とはなにか】

 2000年に設立し、 首都圏とその周辺及び関西が活動の中心です。
 「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」
、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動する。


  高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。
「元気であることが社会に対する最高のボランティア」そして、「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

穂高健一は「エッセイ教室」の担当講師です。

【書籍情報】

 元気が最高のボランティア『元気に百歳』第20号

 定価1200円+税

 制作・発行 夢考房
 〒257-0028
 神奈川県秦野市東田原200ー49
 ☎ 0463-82-7652 FAX 0463-83-7355

 

『安政維新』(阿部正弘の生涯) 素晴らしかった、感動しました。目からウロコです 内山廣人

 寄稿者の内山廣人(横浜市)の紹介します。私(穂高健一)が小説の習作時代に、講談社フェーマス・スクール「伊藤桂一小説講座」で、ともに学んだ方です。
 その後は「年賀はがきの友」ていどの音信でした。このたび、「安政維新」に感動しました、素晴らしかったです、というお手紙を頂戴しました。

【本文】

 本が到着して、読み始めたら面白しくて、一晩で読んでしまいました。
 導入部の女犯の寺へ踏み込むまでの展開と、その後の捌き、上臈の姉小路とのやり取りなどどきどき ワクワクしながら読みました。
 
 私の「阿部正弘」観は、優柔不断で外患に対して何も出来ずに、ついに心労が重なり、若くして亡くなったというものでしたので、目から鱗(うろこ)です。

 清々しい人物で、しかも優秀・理知的で、決断力と勇気があって、欧米列強の植民地政策から、独善的な水戸藩から、日本を守った英雄だったとは、勝った側が歴史を作るとは良くいったものです。
 
 考えてみれば、日本の存亡の時に14年間も老中首座を勤めたということは、他の人材では対応できないからであり、どれ程すごいことなのか、洗脳された身(内山氏)としては考えが及びませんでした。
 
 幕末の植民地化の危機の中で、為政者として、日本を守る為に、ずば抜けて優秀で骨のある官僚を抜擢し、絶妙なポジションに配置し、的を外さぬ適切な采配を振るい、日本を救いました。

 正弘が抜擢した官僚の活躍、特に外国代表たちとの駆け引きなど、胸のすく思いで読ませていただきました。
 本当に面白い本をありがとうございました。
 今2回目を読んでいますが、面白ろく、何度でも読めそうです。

「追伸」
 今回の物語のなかで、主人公となり得る魅力的な人物がたくさん登場していました。次作がとても楽しみです。
 

朝日カルチャー千葉・2020年1-3月期「幕末・維新」講座の受付開始

 朝日カルチャーセンター千葉では、ここ数年「幕末・維新」講座が続いています。今回の講座は「安政維新」(阿部正弘の生涯)が10月半ばに出版されましたので、作者から生の声で、深くわかりやすく説明していきます。

「同書の目次」からポイントを受講生と語りあいます。
 


 毎月第3週土曜日、午後1時~2時半までです。

1月期(1月18日) 阿部正弘が25歳で老中首座(総理大臣)になった。かれの魅力とは何か
 
 清国のアヘン戦争で、欧米列強は次に日本を狙った。国内は天明・天保の大飢饉で、食糧難の飢餓列島だった。この「外患内憂」の時代に、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗する。
 将軍・家慶はもはや待ったなしで、家柄、経験、賄賂など関係なく、天才的な若き政治家・阿部正弘を大抜擢した。奇跡を生み出した阿部正弘の魅力とは何か。
 

2月期(2月15日) 日米交流の曙は、黒船来航の8年前で、双方の人道的な配慮からはじまった。それを教えないのは薩長史観で、歴史をごまかすためである

 弘化2(1845)年2月に、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が、日本人漂流民22人を連れて江戸湾にやってきた。10歳の釜石の孤児が乗っていた。若き宰相の阿部正弘は、「親が見捨てた孤児ならば、幕府が救う」と幕閣の大反対押し切り、浦賀で引き取った。


3月期(3月21日) 日本が植民地にならなかったのは安政の五か国条約である。その先、西欧4か国連合艦隊の下関戦争で不平等な通商条約になった

 長州藩が行った馬関海峡の無差別砲撃は、まさしく日本版のアヘン戦である。西洋の罠にはまった。日本はこの戦争から貿易面で半植民地になった。
文久3年5月10日の「攘夷実行日」は、「異国船打払い令」ではない。現代教育でも、その真実を教えず、徳川幕府を陥れている。

「申し込み先」
〒260-0013千葉県千葉市中央区中央1丁目11-1 · 043-227-0131

【補足・歴史散策】

 この講座のメンバーとは、3か月に一度は作家と歴史散策に行っています。前回は中山法華経寺(市川市)でした。次回は12月14日(土曜・雨は翌日)で、久里浜・浦賀です。どこまでもプライベートで無料ですし、散策後は割り勘で居酒屋です。

「安政維新」(阿部正弘の生涯) イアヤ〜、面白かった 杉 哲男

 私の長年の友人・杉哲男(すぎ てつお)さんから、読書の好評をいただきました。紹介します。そのまえに、かれの人物紹介をいたします。


 杉さんは鹿児島市出身です。かれは中学時代に、原口虎雄さん(戦後・日本史の第一人者・鹿児島大学教授)が中学校に招聘されて講演をされることもあり、日本史が大好きになったと話されています。

 虎雄さんの長男と小中高校まで同級生だった。次男は原口泉さん(NHK大河ドラマ・篤姫、西郷ドンなどの時代考証)で、原口一家と杉家は親しかったと言います。

 杉さんは九州大学、大手電気メーカー、いまはシニア大樂の理事です。かたや、九大OBコンサート会で活躍しています。

 杉さんと私は飲めば、幕末論が酒の肴です。祖父母が語る戦争は、太平洋戦争でなく、きまって薩英戦争だったといいます。「文久3年(1863年)、薩摩藩とイギリスの間で鹿児島でおこなわれた戦争)。

 杉さんから得た薩摩藩関連の知識は、私のエキスの一つになっています。と同時に、杉さんの歴史の目は肥えています。


写真・鹿児島市内の遠望  (ここで薩英戦争がおこなわれました)
             

【杉哲男氏のコメント】

 案内をいただき、早速、Netで手にいれました。ところが、相変わらず、いろいろと忙しく、先週まで「コンサート」の練習に明け暮れていました。ようやく、本日、しっかりと読ませていただきました。

 いきなり、大奥女御の姦淫な事件の描写から始まり、驚きました。歴史物を柔らかくスタートさせましたネ。
 読み進むにつれ、良く知っているつもりの、幕末の江戸幕府の内実が新しい発見の連続でした。

 日露&日英和親条約が想像を超えて経過での締結であり、その後の通商条約の締結にも、当時の阿部宰相を中心に優れた幕閣たちの交渉力が寄与したことなど『目からうろこ』です。

 幕末の「攘夷論」への歴史的な位置づけ&評価の見直しの必要性を真に感じると共に、不平等条約があの長州・下関戦争に起因していたこと、初めて知りました。

 イアヤ〜、面白かった。

 これまでも、幕末の為政者としての阿部正弘への評価は私なりに持っていましたが、この書を通じて改めて理解しました。ありがとうございました。
 また、一度、ゆっくり飲みましょう。

お勧めNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)

 読者の声が、「安政維新 阿部正弘の生涯」が著者のもとに届いています。読者の感想から、そうか、NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、この本を読まれると良い。ペリー来航の真実がわかったうえで、一気に読めますから、それを紹介します。


  写真:歴史秘話ヒストリア@NHKオンデマンド より

【読者感想】

(A)

「安政維新 阿部正弘の生涯」、読み始めると面白く、1日で読み切りました。読書スピードの遅い私としては、近頃珍しい早さでした。30年前でしょうか、山岡荘八の大作「徳川家康」を次々読んだ時代を思い出しました。

 勝者薩摩と長州が色濃く反映された日本の歴史教育を学校で学んだものとしては、今でも薩摩長州の人々への畏敬の念が、体にしみこんでいます。

 それに対し徳川幕府の優秀な人材が、幕末に活躍したことは知らないままでおりました。その意味でNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)は新鮮な驚きでした

 久しぶりの感動を知ってもらいたいと考え、生野町(兵庫県)を中心とする地域連携プロジェトを推進していただいている神戸大学院の先生とわが家古文書を整理研究しておられる茨城大学教授、アメリカに駐在する長男にご著書を贈呈することにしました。

【作者の補足・意見】
 ※ 読者は、NHKの「~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、興味ぶかく読まれたのでしょう。「安政維新 阿部正弘の生涯」は、通説を次つぎに資料からくつがえしていますから。

(B)

 全体的に面白い内容ではあったが、資料から得た史実と作者の推測が入り混じることはやむを得ないが、主観的に流れている感がある。これだったら、「小説」として断定的に描いたほうが、読者の納得を得られるのではないか。 
 もっと文章が洗練されていれば、それなりに説得力もでるかもしれない。田舎くさい文章だ。


【作者の補足・意見】

 ※ 私の歴史小説は史料・資料により近いところで書いています。

 ペリー提督と林大学頭の緊迫した場面などは、江戸時代であり、漢文調ですから、読者の指定するとおり、ずいぶん田舎くさい文に感じたことでしょう。と同時に、これまでの薩長史観とは違うし、作者の主観に感じたのでしょう。

 阿部正弘が、ペー提督に蹂躙されて、おろおろと日米和親条約を結ばされた。これが定説です。
 NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」、1時間番組は、160余年ぶりに、世に出回った林大学頭『墨夷応接禄』(ぼくい おうせつろく)を中心として制作されたヒストリアです。日本の応接掛が対等以上に外交交渉したと、ここらがよくわかります。

 これまで、「ペリー提督日本遠征記」の自慢話、あるいはペリーの負け惜しみを歴史的真実として教えてきた日本の歴史学者は、きっと林大学頭の克明な記録の『墨夷応接禄』を世に出したくなかったでしょうね。教科書の幕末史が根底から崩れますから。

 実際に、わたしたちの目に触れるのはわずか数年前です。
 
             *

 徳川政権が260年間も継続できたのは、「德川隠密組織と御庭番」が有機的に働いたからです。
 アメリカ艦隊が来て、地方の奉行所の与力・同心だけに任せ切るはずがない。現代でいえば、テロ事件が起きると、どんな地方でも、東京・警視庁の公安警察がすぐさま出動するのと同じです。

 老中首座・阿部正弘は備後福山藩の最大のブレーン関藤藤䕃(せきとう とういん)と、老中次席の牧野忠雅はこれも長岡藩の最も有能な川島鋭次郎(河井継之介の先輩)と、ふたりを老中密使として浦賀に送り込んでいます。これは事実です。

 どんなやり取りだったか。ここらは超極秘で資料は残らず。資料がないと歴史学者は書けない。しかし、浦賀の与力だけでペリー提督と初期対応など、常識で考えても、あり得ない。そこは小説家の想像力で埋める。
 それが作家の役目だと考えています。

『安政維新』(阿部正弘の生涯)④「江戸三大改革」は悪政だった。庶民の「嘉永文化」を伝えよう

 弘化2(1845)年2月22日、阿部正弘は満25歳で、老中首座になります。江戸時代を通じて最年少です。
 吉宗の実孫である松平定信(さだのぶ)すら、28歳でした。


 定信は本来ならば、徳川将軍だったのです。だが、徳川宗家(将軍家)に入るまえに、白河藩(福島)に養子に入っていたので、将軍にはなれなかった。しかし、血筋から早ばやと老中首座になった人物です。


 阿部正弘は、備後福山藩は10万石の譜代大名ですが、定信よりも、3年も若くして、12代家慶(いえよし)将軍から、老中首座に大抜擢されたのです。いかに有能だったか。かれは正室の子どもでなく、側室の子です。
 決して、縁故、血筋による抜擢とは言えません。


 当時、アジアではアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、その後において西欧諸国は日本を狙っている(外患・がいかん)。国内は天明・天保の大飢饉で、わが国は過剰人口で米穀(べいこく)不足から、餓死者の死臭がただよう列島でした(内憂・ないゆう)。

 外患内憂の国難の時代に対応できる人材はだれなのか。250年間にわたる德川政権の世襲とか、伝統とか、家柄とかに拘泥(こうでい)した人物を政治のトップをおけば、わが国は悲惨な状況に堕(お)ちいってしまう。
 まして、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗した後釜です。家慶将軍は阿部正弘を抜擢したのです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯)では、なぜ、阿部正弘が抜擢されたのか。その経緯から克明(こくめい)に描いています。

 それが第1章「女犯の怪しい寺」です。22歳の寺社奉行の正弘が、大奥女性と僧侶との姦淫(いんらん)な行為の現場を押さえて捕縛(ほばく)する。そして、大胆な決断力を展開しています。将軍も、大奥も、水野忠邦すらも、その後の正弘の裁決には驚いたのです。

「こんな意表をつく、大胆な判断はだれができようぞ」
 ここで、正弘のとてつもない政治力が示されます。
 正弘は終生、多くの意見にたいする聞く耳をもちますが、最後は己の判断を示す。その多くが、『ひとの意表をつく』ものだったのです。

              *   

 前政権の水野忠邦は、賄賂(わいろ)を積んで、佐賀藩から浜松藩に国替えし、さらに大阪商人から大金を借り入れて、それを踏み倒し、老中へと登りつめてきます。老中首座にたどり着いたのが45歳です。

 阿部正弘は25歳です。いくら賄賂を積んでも、現在の内閣総理大臣にはなれるものではない。庶民らには、それがわかったのです。
 正弘が清廉潔白で英知の人材だったから、家慶将軍に大抜擢された。阿部正弘が政治のトップに立ったとき、庶民は大喜びで、迎えたのです。
 

「阿部家には付け届けはするな。決まって、突き返されるから」と水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の記録が現存しています。
 当時は盆暮れなどのつけ届けなど、役職を得る当然の風習として定着していました。しかし、福山藩の家臣は、それら金品はすべて突き返しに行ったそうです。
 お金には身ぎれいな政治家だった。正弘が享年39歳で死ぬまで、国難の政治のトップにいた最大の理由のひとつでしょう。

 つまり、私利私欲のための政治ではない。「無私」で、国難の日本を救うために、わが国が植民地にならないために、全知全能で走りつづけた、とだれもがわかっていた。だから、他には老中首座になり手がなかったのです。

 政治家として生命をかける。現代でもよく使われることばですが、それを現実に行ったのは阿部正弘であり、まさに稀有(けう)な存在でしょう。

                  *

 正弘は思想弾圧もせず、庶民のための政治を心がけていました。奢侈禁止令(しゃしきんしれい・派手な生活を禁じる)などの法令は出さず、諸民に自由を謳歌(おうか)させています。
 私は作品のなかで、それを「嘉永文化(かえい・ぶんか)」と表現しました。

    「日舞・さつき会」

 江戸時代のなかで、元禄(げんろく)文化よりも、もっと華やかな庶民文化が生まれており、その伝統が現在にも生きています。


 ところが、明治政権は阿部正弘政権の亜流であり、ことさら阿部正弘の政治評価を貶(けな)すことで、自分たちを高くみせています。だから、明治政府は歴史書、教科書に「嘉永文化」をのせていません。

 明治からの軍国主義は、『勝つまで欲しがりません』という政策です。江戸時代の享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革は、三大改革として賛美しています。
 この改革の実態は「庶民いじめ」なのです。庶民に生活苦、がまんを強いた苛政(かせい・悪策)です。それをなぜ美化するのか、わかりますか。

 明治軍事政権は、『ぜいたくは敵』として、国民にがまんに我慢を強いています。がまんで消費を冷やせば、景気が後退します。国民を黙らせる必要がある。いちばん効果的なのは、歴史を利用することです。
 明治・大正・昭和の終戦まで、軍事政権はことさら教科書のなかで、「江戸時代の三大改革」と美化し、国民の目を欺いて、軍国主義に利用したのです。
 つまり、なにごとも、お上の政策のために我慢せよ、という趣旨です。

『不景気になれば、日本は海外戦争をしかけて、軍事景気で活気を取りもどす」
 これも戦争へのおおきな施策でした。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争と、これを10年に一度やりつづけたのです。

 くりかえしますが、歴史は政治に利用されやすいのです。


 昭和、平成、令和となり、戦争を否定した今、庶民の視線から歴史を見直す必要が出てきました。それには、教科書の「江戸三大改革」は苛政(かせい)だった、庶民が困窮(こんきゅう)の極(きわ)みに陥ったと、真実をおしえる時期がきています。

 少なくとも、庶民の目線からみれば、改革でなく、改悪です。
  

              *

 私は歴史小説を政治家たちの歴史年表で書くのではなく、庶民の目線もふまえる必要がある、と考えています。
「安政維新」(阿部正弘の生涯)のなかで、第7章「嘉永文化」という章立てをしています。

 
 阿部は人材抜擢の天才です。それら有能な人材が外国文献から、西欧の資本主義の研究を行っています。
 イギリスなどは産業革命のあと、自由主義が国家の繁栄(はんえい)をきづいている。自由が国家繁栄の基である、という施策が、阿部正弘政権にはわかっていました。

 正弘は江戸町奉行の遠山景元(遠山の金さん)に、「庶民が生きがいを感じる施政をせよ」と指図します。新たな法律で、庶民生活を縛(しばら)ない、自由主義で行く、という方針でのぞんでいます。
 庶民からすれば、過酷(かこく)な取り調べの根幹となっていた「奢侈禁止令」の運用を緩和させたのです。

 水野政権時代「天保の改革」は、座敷の芸者など全面禁止でした。水商売の類の女性は女狩りで、集められて、競売で浅草・吉原に売られて売春婦の身になっていました。


「江戸三大改革」と称したものは、いずれも雨後の竹の子のごとく厳しい法令をだし、庶民をいじめています。
 阿部正弘は、「水野忠邦が作った法律で充分だ」と言い、はあえて新規な法令をほとんど出していません。

 庶民は敏感です。阿部人気、「遠山の金さん」人気から、元禄時代を上回る、民衆文化が一気にはじけたのです。

 金銀製の女の飾り物はご禁制(きんせい)でなくなります。水野時代にはわずか数件だった芸人小屋が、嘉永時代には700軒も開業する。
 草紙、春画、浮世絵、かわら版も巷(ちまた)にあふれる。江戸庶民が好む、すし屋、そば屋、てんぷら屋なども大繁盛です。
 三味線や太鼓は繁華街からながれる。人々が生気を取りもどしたのです。

 それが現代の「遠山金さん」人気に通じています。


 阿部政権になってあまりにも、取り締まりを緩めすぎたので、目に余ったのでしょう。幕閣から苦情が出ます。正弘はきっと渋々でしょう。

 嘉永元年に、お触書をひとつ出しました。『親族のため、あるいは生活に困窮する、よんどころな場合以外は、売女にまぎらわしき、猥(みだ)らな所業は決してしてはならぬ』というお達しです。
 まさに、故意にザル法をつくったとしか思えません。「わたし、家族のために働いているのよ」といえば、街中の座敷、料理屋に出入りできる芸者稼業になれるのですから。
 
 消費があらたな消費を生む。景気が良くなる。嘉永は庶民文化としての園芸が花開いた時代です。浮世絵に梅や松の盆栽が多く描かれています。
 さらに、朝顔が大流行になりました。まさに、嘉永文化は庶民の心に、花を愛でる余裕が生まれたのです。長屋住まいの庶民らは、物価は高いがそれなりに生活を享受(きょうじゅ)できて楽しんでいたのです。
 
 阿部正弘は、福山藩主の側室(妾)の子どもです。母親の高野具美子(くみこ)は、剃髪(ていはつ)して江戸下町の石原町(現・江東区)の、福山藩下屋敷の庵に、ひとり住んでいました。

 正弘は老中屋敷(現・大手町)から、月に1、2度は母のもとに通いつづけています。途中で浅草の「桜もち」(現在も有名)を買いもとめ、実母にとどけていました。正弘は江戸下町に出むき、庶民の生活を見聞する機会が多かったのです。つまり、庶民から政治を見つめる環境が正弘にあったのです。

 そこが明治以降の下級武士・足軽から成り上がった、偉そうぶった軍人政治家たちとはちがう点です。

 私たちはそろそろ薩長史観から脱皮し、徳川長期政権の良さをも取り入れる時代になってきました。阿部正弘は嘉永文化を育てた。庶民よりの政治をすれば、庶民は人生が楽しめるし、文化が熟してくるのです。
「遠山の金さん」はいまなお、庶民の味方だったと、明治以降の軍国時代にすら消えずに語り継がれてきました。
 それは嘉永文化の象徴でした。

 この6章は岡っ引き、下っ引きを主人公に、楽しく読めるようにしています。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~⑤まで続きます。引用は開放いたします。⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは著作権に関係なく、ご自由にお使いください。全文の引用もOKです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯) ③ 弱冠・満25歳にして老中首座(宰相)、そして死ぬまでの長期政権

 阿部正弘は、弱冠・満25歳にして老中首座(現・内閣総理大臣)になりました。なぜ、そんなに若くして徳川幕府のトップになれたのか。賄賂をつかっても、なれる地位ではありません。第12代将軍の徳川家慶が、なぜ、若き正弘を大抜擢したのか。 

 
 阿部正弘が22歳の寺社奉行時代に、中山法華寺(市川市)の末寺・感応寺(豊島区)の僧侶と、大奥との癒着(ゆちゃく)という女犯(にょぼん)の罪を裁きました。
 そらに、家斉いえなり)大御所の偽遺書による「将軍家乗っ取り事件」までも、見事に解決させたのです。

 ここが歴史小説「安政維新」の書きだしになります。

 目次紹介

 第1章 女犯の怪しい寺

 第2章 天保の改革

 第3章 水野忠邦の失脚

 当時は、外観内憂の時代です。外患とはアヘン戦争・植民地化の波が日本に押し寄せました。元寇以来の国難の時代です。

 内憂とは天明・天保の大飢饉という、飢餓列島で過剰人口による食糧不足の時代です。それに対処した水野忠邦の「天保の改革」が、大失敗します。

 それを引き継いだのが、満25歳の阿部正弘です。

 
 第4章 十歳児のいのちを救え

 第5章 前政権の断罪

 第6章 ビットルの浦賀来航

 ペリー来航よりも、7年も前に、アメリカ東インド艦隊が浦賀に来ているのです。ビッドル提督は、アメリカ大統領の親書を届けに来航したのです。
 みなさんはこの事実を知っていますか。

 第7章 嘉永文化

 江戸時代に、もっとも華やかな庶民文化が花開きます。化政文化よりも、上回っています。ここらはこっけいな岡っ引きの目線で描いています。
 思想弾圧をしなかった阿部正弘の人柄がよく出ています。

 第8章 北の漂流者たち

 冒険家マクドナルドが利尻島に上陸します。長崎に送ります。世界の潮流に乗るには、英語教育が必要だ。阿部正弘は、長崎通詞14人に、英語を学ばせます。
 英会話ができる。優秀な人材が育つ。日本の近代化へのおおきな礎のひとつになります。

 第9章 外国軍艦の出没

 第10章 オランダ別段風説書

 第11章 ペリー来航

 ここまでが、作品の前半になります。

              *

 ペリー提督来航から、外圧を利用して、世界の潮流の資本主義に仲間入りを計ります。久里浜(神奈川県)で、アメリカ大統領の親書を受理させます。

 阿部正弘は日本語に翻訳し、幕臣、諸大名、庶民にまでも意見をもとめます。 回答数は、700余通です。大名から・浅草の遊郭主までいます。

 封建制度のなかで、「言論の自由」が行われたのです。なぜか。阿部は「挙国一致」で国難を対処する、「日本国」という考えを確立させたのです。
 「あなたのお国は?」と問われると、武蔵野国、安芸の国、陸奥の国、長門の国です。日本列島を一つにした国家という考え方は殆どありませんでした。
 阿部正弘は、日本列島を一つの国家とした最初の政治家です。

 アメリカ大統領親書に対して、99%がペリー艦隊を撃ち払え、という攘夷主義でした。阿部は、700余通の上申書から、ふたりの意見を採用しています。ひとりは朝廷の実力者の鷹司正通(たかつかさ まさみち)(関白)です。
 ご紹介しましょう。

『アメリカの書簡は慇懃(いんぎん)にして誠意がある。拒絶するべきではない。寛永(かんえい)以前は各国と通商し、わが国に利するところが少なくなかった。交通を許すも、国体(こくたい)を損じることはない』

 孝明天皇・朝廷は外国嫌いだ、とみなさんは教わっていませんか。それからしても、明治時代の為政者や学者たちが歴史をねつ造しているのです。

 もうひとりの意見は、まだ罪人(微罪の冤罪(えんざい)で町人の高島秋帆(しゅうはん)の「嘉永上書」です。
 阿部正弘はこのふたつをもって開国・通商の道を決断します。

 勝海舟の意見は開明的でしたけれど、具体策がない。ただ、人物としては使えると、阿部はかれを取り立てています。

 徳川幕府は封建制度の世襲制で、胡坐をかく旧習に安住する幕閣・大名たちばかりです。斬新な事案をやれる勇気は並大抵のことではありません。

 現在でも、社歴の長い大会社で700人以上が、新規事案に反対するなかで、たった、ふたりだけの意見を採用できますか。


 歴史上、阿部のような大胆な判断を下す人物は百年に一度、二百年に一度でるか、出ないかです。人間として、途轍もなく、優れた人物です。
 
  阿部正弘に関しては、難しい政策判断の評価はあれこれあれども、人物・人柄を悪く書いた史料・文献はほとんどありません。
 備中福山藩は、賄賂を持って行っても、魚が腐っても、家臣がつき戻しに来る。もう、持っていくな。他藩の文献に、こんなエピソードが残っているくらいです。

 阿部正弘は、金銭欲、強欲の面がなく、身綺麗でしたから、25歳から享年39歳(満37歳)まで、長期にトップの座にいたのです。
 と同時に、阿部正弘に取って代れなかったほど、日本は国難でした。まさに、正弘の命は日本の命だったのです(松平春嶽の弁)。

 『安政維新』は、勇気をもらえる歴史小説です。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。

穂高健一著『安政維新』(阿部正弘の生涯)② 明治政府は阿部政権の施策のパクリだった

 西欧5か国と和親条約を結んで開国したあと、阿部正弘は安政3年、「富国強兵」を国家の柱に掲げます。

 そして、日の丸制定、外国との条約国名は大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、安政5か国通商条約、海軍・陸軍の創設、蕃所調所(ばんしょしらべしょ)(東大の前身)など数々の国内改革を断行していきます。
 まさに、阿部正弘は近代化、資本主義化の祖です。

 この政策には見覚えがありませんか。明治時代の薩長下級藩士が政権を取り、阿部正弘政権の施策のほとんどパクリだったのです。蒸気機関車の発注も徳川家です。開通したのが、明治時代です。
 かれらの政権の自己顕示欲でしょう。自分たちをより高くみせるために、故意に歴史を折り曲げ、明治から文明開化、近代化と嘘を教え続けて、現代の学校教育に至っています。かたや、徳川幕府を無能扱いでこき下ろしてきたのです。
 「明治維新」とは名ばかりです。10年に一度は戦争する国家になったのです。明治時代を正確に表現すれば、『明治軍事政権』です。徴兵制で、日本の農民らに殺戮(さつりく)の武器をもたせたのです。

              * 

 豊臣秀吉が刀狩で、「兵農分離」させました。それをうけついだ徳川幕府は、260余年間は、兵農分離を維持しました。二度と戦国時代にもどらない。封建領主の凍結で、戦争をさせない。外国の侵略による戦争を回避するために鎖国政策をとります。
 海外交流は欠かせないので、唐とオランダとの交易に限定しました。


 武士、農民、町民の三段階の身分制度のもとで、農民は鍬と隙をもって田畑を耕す、新田開発をする、農事に専念できました。戦国時代のように、大名の命令で雑兵として、農民が戦場に駆り出される不安がなくなったのです。

 秀吉の朝鮮出陣は歴史上の汚名ですが、一方で、刀狩は日本人に戦争のない時代を与えてくれたのです。江戸時代の平均年齢からすれば、先祖代々、約10世代にわたり戦争を知らない人生がまっとうできたのです。

          *

 外患内憂の時代となると、徳川幕府の鎖国主義にも限界が出てきました。
 阿部正弘政権は、強い外圧のなかで、戦争をせずに開国し、植民地にならず、安政の5カ国条約を結びます。そして、近代化、資本主義の導入を計りはじめたのです。

 安政3年には「富国強兵」を柱に据えます。それは帆掛け船と大型蒸気船との戦いでは、日本国民が悲惨な状況になる。防衛力がないと、西洋に侵略される、という現実がありました。
 抑止防衛で軍艦を買う。農民から搾取すれば苛政になる。海外との通商を拡大し、収益を得て、軍備をそろえるという政策です。外国との戦争を抑止し、国民を守る政策でした。


  阿部正弘政権の有能な人材が、イギリスの経済学者・アダムスミスの「富国論」と、防衛の「強兵」と接合した有機的な「富国強兵」策でした。
  拙著『安政維新』は、この富国強兵が生まれる過程を、わかりやすく、克明に描いています。つまり、むずかしい経済理論を、小説として、ひらたく誰にでも理解しやすく書いています。

          *

 どんな立派な政治理論も、政治家の運用しだいです。わい曲されると、とてつもない不幸をまねきます。これらは歴史から学ぶ点です。

 下級藩士が政権をとった明治政府は、阿部正弘の「富国強兵」をまねて政策の柱にします。用語は同一ですが、実態はまるで正反対です。為政者が自分たちをより大きく見せるためのもので、戦争推進への国策に利用します。
 
 戊辰戦争(箱館戦争)が終結して、すぐさま明治5 (1872) 年には、秀吉の刀狩の恩恵を無視し、山縣有朋らの建議により「全国徴兵の詔」が公布されたのです。まさに、いきなり軍国主義に突っ走ったのです。
 これは維新とは言えるものではないのです。維新とは、故事によると、「国家の変革で、民をより良くする」という内容です。

 明治政府は「富国強兵」をもって、海外侵略の主要な国策にすえたのです。台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争。銃をもって戦場で死んだ農民・町民(二等兵、一等兵、上等兵)などは幾百万人でしょうか。

 富国強兵が、国民の犠牲の政策に利用されたのです。

【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。


講演会「開国の真実」・葛飾区立水元図書館で講演 9月28日(土曜) 

 拙著の「安政維新」(阿部正弘の生涯)が、10月15日に、全国書店・ネットで一斉に発売されます。それに先駆けて、いくつかの講演会が予定されています。
 9月28日(土曜)午後2時から28日に、東京・葛飾区立水元図書館で、題目『開国の真実』の講演を行います。
 会場 : 同図書館内の「葛飾区水元集い交流館2階会議室」
 住所 : 葛飾区東水元1-7-3
 JRまたは京成の金町駅からバス。金町駅北口・(金62)葛飾総合高校下車

 対象 : 中学生以上
 定員 : 50名(当日・先着順)
    入場料無料です。

【講演の要旨】

 最近は歴史の見直しがはじまっています。従来「開国」は黒船のペリー提督の砲艦外交に蹂躙(じゅうりん)されて、日本は無理やり開国させられた、と歴史書には記載されていました。日本史の教科書も同様です。

 歴史の見直しがはじまっています。
 従来は、ペリー提督の黒船が突然やってきたのではない。日本は恐怖に陥れたとは、ウソの記述だ。アヘン戦争が清国で起きた天保時代から、通商をもとめる外国船(おもに軍艦)が次々に日本にやってきた。その都度、江戸城の老中から現地対応の司令を出していた。

 ある意味で、経験則が高まっていたのです。封建制度・鎖国のままでは、アヘン戦争と同様に戦争になる、たいへん危険だと幕閣は考え始めました。「打払令」を止めて、水野忠邦は「薪水給与令」に変えて、外国船が難破すれば、日本国の港に、避難すれば、薪、水、食料をわたす、と法令を変える努力もしています。

              ☆   

 阿部正弘が満25歳で老中首座(内閣総理大臣)になってから、浦賀にきた外国船はペリー提督で5番目であり、幕閣も、浦賀奉行・与力も落ち着き払って対処しています。
 
 ペリー提督との外交交渉(横浜)は、日本が決して弱腰でなかった。その克明な交渉記録が現存しており、その現代語訳も、数年前に世に出てきました。

 かたや、天保・天明の大飢饉から、日本が疲弊してしまった。国が豊かになるために、阿部正弘が戦争せず開国し、世界の潮流となった資本主義に仲間入りを図った、という歴史認識に変わってきました。
 当時のアジア諸国をみると、英仏露は危険だから、最もリスクが少ないアメリカを選んだ。阿部正弘が、ペリー提督の来航を一年前に知り、ここで開国条約を結び、植民地化の危機を切り抜けた。

 みずから開国した阿部正弘は、安政の改革を実行し、富国強兵策、海陸軍の創設、日の丸の国旗制定、大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、挙国一致、近代化政策へと進みはじめます。
 若くして亡くなった阿部正弘の、その遺志を継いだ小栗上野介たちは、安政時代に渡米し、アメリカ大統領・国務大臣にも面談し、西洋の民主主義を知り、さらに世界一周してきます。このときの77人の随行員が、近代化の力になってきます。

 随行船だった咸臨丸の日本人乗組員らも、サンフランシスコの地を踏んでおり、この段階だけでも、百数十人がアメリカ文化に触れて帰国しています。 

 薩長史観では、薩摩藩の15人の留学生、長州・ファイブと、もてはやされて強調されていますが、為政者の徳川家の海外使節、留学生の規模とではまったく比べ物になりません。

 明治政権は、それら阿部正弘の安政施策と近代化路線のパクリとなっています。

 国内変革の維新は、明治維新からでなく、阿部正弘から始まった。歴史の正確な認識として、安政維新が正しく、明治は徳川政権の瓦解による「御一新」だった。(昭和時代初期2.26事件で青年将校が昭和維新と叫び、そのあとに明治維新と一般にいわれるようになった)。

 歴史の見直し、歴史の塗り替えのなかで、早晩、鎖国から開国へと「安政維新」がはじまり、徳川瓦解による「明治の御一新」という正確な表記に変わってくるでしょう。

 その予兆はすでに出てきています。「薩長史観による開国史はあやしい」、明治以降の薩長閥の政治家による「陰謀史観」ではなかったのか、と。ネット、書籍のみならず、テレビ、新聞なども取り上げ始めました。
 講演は、こうした内容を語る予定です。

 写真:坂町郷土史会の提供 2019年4月20日「隠された幕末史 芸州広島藩と神機隊」より

『開国の真実』ポスター

「張作霖を殺した男」の実像  桑田冨美子 

 『関東軍講究参謀・河本(こうもと)大作・大佐はなぜ爆破を敢行したのか?」。昭和3(1928)年6月4日未明、中国軍閥の雄・張作霖を乗せた列車が奉天郊外で爆破され、張作霖が爆死します。河本大作の孫娘が、豊富な資料をもとに、その事件を単行本にされました。
「張作霖を殺した男」の実像」(文芸春秋企画出版/文芸春秋・1500円+税)、ことし(2019年)8月30日の出版です。

 当初から、「これは日本軍の仕業ではないか」、と昭和天皇に詰問された、当時の田中義一内閣総理大臣は、うやむやに、曖昧な弁で言い逃れした。「君は信用ならない」と昭和天皇に叱責されて、田中内閣は総辞職しました。かれは病んで早くに病死した。

 戦後、東京裁判での田中隆吉元陸軍少将が、河本大作による爆破工作だと証言します。これがきっかけで世に知れ渡ります。
「満洲事変、ひいては日中戦争に至る導火線に火をつけた男だ」、とてつもない大事件を引き起こした。「河本大作は幕末志士きどりで独断で蛮行に及んだ」と悪評におよんだ。

 著者の桑田冨美子さんが、河本大作に貼られたこの「大悪人」のレッテルに疑問を呈します。爆薬をしかけた実行犯は関東軍、首謀者で、その高級参謀・河本大佐でした。桑田さんはそれを認めたうえで、祖父の「独断」でも「満洲制圧を目指したもの」でもない、関東軍や東京の参謀本部の指示があったと実証していきます。

            *
 
私(穂高健一)がカルチャ―教室で指導する『小説講座』で、桑田冨美子さんは受講生だった。
「祖父の河本(こうもと)大作の史料が、一杯あるんです。実姉の清(きよ)が、研究していて、それが中断し、わたしの処にまわってきたのです」
 貴重な史料の一部をみせてもらい、これを作品化するとよいですよ、と勧めた。
 当初は、小説の技法が中心だったけれど、内容が斬新で、歴史の通説を覆す一級史料が多々あった。
 張作霖爆死事件のあと、陸軍中枢の幹部たちから、謹慎中の大作に送った激励・慰労の書簡などもあった。大作が家族や知人らに送った手紙、大作の活動の記録など、多くの秘蔵資料が、習作中の桑田さんが筆を執られて、教室で作品の一部として出されていた。

             *

 日本ペンクラブの会合で、当時・会長だった浅田次郎さんに、「受講生で、河本大作の実孫で、とてつもなく、資料があるのです」と、彼女の指導方針を兼ねて、相談してみた。「日中戦争に関する重大な事件です。その資料があるならば、作品化して、ぜひ、世のなかに出すべきです。長期保存場所も考えると良いですね」と話されていた。浅田次郎元会長は、戦前の中国関連作品には卓越した作家である。

 それら浅田さんのコメントを桑田さんに話して聞かせた。彼女はそこで勇気をもらったようだ。
 私は「河本さんから「愛する妻へ」と書きだす、当時の軍人がここまで記される、とても人間の魅力があるかたです。だから、軍事、政事だけでなく、家族愛も含めて、総括的に人間を描かれたほうがよいですよ」と指導してきた。
 
 桑田さんは、戦前は「満洲某重大事件」といわれた関係者、家伝の秘蔵資料、研究書・論文などを探し、しっかり読みこんでいた。感心させられていた。指導する私自身も、勉強になった。

 余談だが、私が幕末小説の執筆を知っているので、「わたしの夫の親戚は、薩摩藩の小松帯刀なんですよ」と桑田さんが話していた。それにはちょっとおどろいたものだ。「張作霖を殺した男」の実像」の書籍には、河本大作の妻(久)の親戚筋として、河野洋平、河野太郎がいる。日本の歴史・政治にかかわる家系だな、と思った。

 なお、私は講師として初期の「小説作法の基本」を指導したのみで、『「張作霖を殺した男」の実像』の著作は、桑田冨美子さんの力と出版社・文芸春秋社で完成させたものである、と明記しておきます。


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