小説家

~志和の歴史に学ぶ~ 講師穂高健一「志和と幕末」 志和中学

令和4年11月10日
志和中学校保護者の皆様
地域の皆様
東広島市立志和中学校
PTA会長 堀 光都子
校  長  脇坂 治海

志和中学校PTA教育講演会開催について(ご案内)
~志和の歴史に学ぶ~


秋涼の候 保護者・地域の皆様には益々ご健勝のこととお喜び申しあげます。また,平素より本校教育並びにPTA活動の推進に,格別のご理解とご協力をいただき,心から深く感謝しております。

さて,本年度の志和中学校PTA教育講演会は,作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏をお招きし,「志和と幕末」と題し講演会を次のとおり開催いたします。

今回は,新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から,会場の人数を考慮し,同じ内容で2回講演をいただきます。保護者及び地域の方はどちらか都合のよい方にご参加いただけます。

ご多用の折とは存じますが,是非ご参加いただきますようご案内申しあげます。

1 日 時  令和4年11月30日(水)  午前の部 10:30~11:30
                      午後の部 13:30~14:30       
2 場 所  東広島市立志和小中学校 体育館

3 講 師  作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏

4 演 題  『志和と幕末』
       
5 日程及び参加対象者         
日程等 参加対象者
☆ 午前の部 志和小6年生、志和中1年生
       保護者・地域の方
   受 付 10:15~
   講演会 10:30~11:30

☆ 午後の部 志和中2・3年生

 受 付 13:15~
 講演会 13:30~14:30
   
※ 午前でも午後でもどちらでも参加いただけます。
    
6 その他  駐車場は,志和小学校グラウンド及び中学校グラウンドをご利用くだ
さい。

新聞連載小説「妻女たちの幕末」 = 8月1日より開始

 今年度(2022年)8月1日より歴史小説「妻女たちの幕末」公明新聞で連載されます。
 現在は宮部みゆきさんの小説「三島屋変調百物語青瓜」が7月30日で終了し、そのあと穂高健一「妻女たちの幕末」がはじまります。むこう一年間(日祭日を除く)です。


③公明新聞・予告2.07.261024_1.jpg

 これまで、私を含めて男性側の視点から歴史小説が書かれています。大別すれば、薩長史観&徳川史観という対立構造です。
  
 この世には男性と女性が半々いるし、対立もする。歴史は男だけで動かない。思い切って女性の視点から幕末史にチャレンジします。むろん、随所には男性の活躍も加わります。

「歴史は庶民がつくる』
 現在でも国会議員だけが歴史をつくっているなど、誰も考えていないでしょう。それなのに、歴史となると学術書も、小説も、為政者に偏っています。

 できごと、事件のとき組織の頂点にいだけでしょう。先頭に立つて采配をふるったとか、先見の目があったとか、英雄が創作された。おおむね単なる飾り物か、後世の美化でしょう。

 極限られた少人数の英雄たちだけで、千年もつづいてきた封建制度、および武家政権が短期間に都合よく消えるわけがない。

 そこにはおおきな民衆の力と渦巻く流れがあった。かれら民衆が、やがて徳川幕府を瓦解させた。その本質を忘れ得ずして、市民の目線も加えて展開していきます。


関連関連情報
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 ただし、私の連載小説は日曜日版の掲載がありません。

 

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (下)

 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争を教えず、アメリカの黒船が来航した際の、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔を載せる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。
 それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされている。

           *

 下級藩士による明治政府が、上級武士だった徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『幕府は西洋を知らず、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。まさに明治政府のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる7年前には、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米国大統領親書をもって来航している。

 ほかにも民間の捕鯨船マンハッタン号が日本人遭難者22人を人道的に浦賀に連れてきてくれている(弘化2年・1845年)。イギリスの測量軍艦、意外なところでデンマーク軍艦も江戸湾の入りまで来航している。

            *   

 嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に初来航したとき、交渉に臨んだ香山与力が、{ところで、あなた方の国のパナマ運河にそった地峡横断鉄道はもう完成しましたか」と質問しており、アメリカ側は日本の世界情報収集力におどろいたと記録している。

 このように、アジア(広東・シンガポールで)で発行されていた英字新聞の内容が、幕臣たちにまでも伝わっていたのだ。

 1852年9月28日の記事から、ワシントンでは、日本遠征計画の準備が熱心に続けられていると報じられている。
 当然、日本の幕閣は読んでいる。

 オランダからの別段風説書で、ペリー提督の日本遠征内容の詳細が伝えられた。
『......、最近の情報によりますと、北アメリカ合衆国は艦隊をだして、日本と交易を取結ばんと、御国(日本)へ参上すると申しています。合衆国より日本帝(将軍)へ使節を差しだし、アメリカ天徳(米国大統領)の書簡を奉り、かつ日本の漂流民を連れて参るそうです。

 この使節は、北アメリカの民間交易のために、日本の一つ二つの港に出入りを許されんことを願っています。かつ、また相応の港をもって、石炭の置き場と為す許しを得うて、カルフォニアと中国との間を往復する、蒸気船の用意に備えん、と欲しているとのことです」

北アメリカの軍船が、いま中国周辺の海にいるのは、次のとおりです。
 サスケハナ号    軍用蒸気フレガット船 
 サラトガ号      コルヘット船
 プリモウト号     コルヘット船
 シント、マリス号   コルヘット船
 ハンダリア号     コルヘット船

 上記の船は、アメリカ使節を江戸へ送るように命じられたそうです。また、最近の情報では、艦隊司令長はオーリックでしたが、ペルリと申すものと交代となり、前文の5隻の軍艦のほかに、なお次の軍艦を増加致すそうです。

ミスシシッピ号  蒸気船  指揮官ペルリはこの船で参るそうです
プリンセトウン号 蒸気船 
ペルリ号 ブリッキ船 
シュプリ号 輜重船

 新たな情報が加わり、陸軍の攻城の諸道具も積んでいるそうです。ただし、四月下旬以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聴いています(1852年情報)』

 こうした大規模な派兵だ。アメリカ海軍は陸軍部隊を乗せて、地球の裏側から1年がかりで日本にやってくる。

 阿部正弘はこのオランダ情報に対して、幕閣と対策を考える。
DSC_0509 福山会.jpg 『阿部正弘の末裔・阿部さんと』

「世界情勢をみれば、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており、いまや異国船撃攘(げきじょう)の令を出して必勝を期することはできない。もう勝てぬのならば、敵がやってきて、強攻に追い払って負けるならば、恥辱となるだけだ。日本の小さな舟では異国の軍艦に対抗できないのみならず、江戸湾の出入り口をふさがれて、江戸近海の通商が断たれて、食糧欠乏に陥るのみである」
 軍艦を製造できる能力を得るまで、外国との戦争は無謀だと、非戦を決めていた。

 ところが後世学者たちの多く、一年前にオランダからペリー提督来航の情報がありながら、生かされていなかった無策の幕府だと批判する。
 批判のための批判だ。日米の武力の差は歴然としており、外交で勝敗を決する、と非戦を決めた阿部正弘に、学者はいった何をどうすれば、良かったというのだろうか。
 
 それは水戸藩の徳川斉昭の「攘夷論」を称賛し、攘夷論者がやが明治政府を樹立する立役者だったと展開する前ぶれのためだ。
これは七年前の斉昭の書簡にあったものだ。
「異国人と交渉すると見せかけ、白刃一閃(はくじんいっせん)、敵将の首を取り、乱入し、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば、難問一挙に解決し、軍艦四隻も手に入る。一挙両得の名案だ。これでいこう」
 
 実際にペリー提督が来航すると、
「いまとなれば、(軍艦も作れない、大砲も鋳造できない)、打払いが良いとばかり言えない。衆議をつくして、ご決断せよ」
 これが徳川斉昭の生の声だった。

攘夷だ。外国人は徹底的にぶち殺せ」という過剰な攘夷論は、斉昭の名誉のために、あえて言及すれば、後世の学者のねつ造ではないだろうか。

              *
 
 1853年にクリミア戦争が勃発すると、戦争がアジアに拡大し、当事国の英仏露は軍艦や商船で、わが国の港にひんぱんに来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪を謀り、戦闘までしかけている。
 これには日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

           *
 
 2022年のロシアのウクライナ侵攻戦争が新聞、テレビ、映像などで日々に報じられている。
 いつぞやロシア潜水艦が北方四島近くで、ロケットの発射演習していた。ヨーロッパの戦争がさして遠い話ではない。わたしたちは無関心でいられない。

 嘉永6年、7年(安政元年)の日本人の武士、町人、農民を問わずクリミア戦争が最大の関心事だったにちがいない。幕府の対応をじっくりみていたと思う。

 結果として幕府はよくやった。わが国はクリミア戦争のさなか、地の利を得て、植民地にならず巨大国家の欧米3カ国と、ほぼ同時的に和親条約(平和条約)を結んだのだから。

 この認識に立てたのは、2022年ロシアのウクライナ侵攻戦争で、「歴史は自国の都合で流れない」という原点にもどれたからだ。ウクライナ侵攻があったから実に幕末の対外政策がリアルに理解できたのだ。

 こんにち日本の首相がウクライナ支援とか、経済制裁とか、石炭の輸入禁止とか、石油や駅がガスはどうするか、と世界を飛びまわっている。
 老中首座の阿部正弘も、英米仏露の戦艦がわが国に来航するたびに、現場対応の奉行から早馬がやってきて、内容を吟味し、幕閣と逐一対応を協議する。そして、現地に指示をする。おそらく休む暇もなかっただろう。

                *
 
私たちが1853年の黒船来航からの「幕末史」の書籍を手にしたとき、当時の重要なクリミア戦争が欠落していれば、その学者・作者には世界史観がまったくないか、重大なクリミア戦争という前提がない粗悪商品だ。

 言い方を変えれば、きよう新聞を見て、世界の政治・経済・燃料・食料問題が絡むロシアのウクライナ侵攻が1行も載っていないようなものだ。学術書といえども、既成の攘夷思想が正しいと刷り込まれた、薩長史観に感化された作品に違いない。歴史の中心・コアが欠落した、内容の希薄な、架空、想像で書かれた不良品だろう。
 私たち日本人は、これまでそんな類の幕末史に染められてきたのだ。


 『明治のプロパガンダ』とはなにか。
 いまも薩長史観で、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっている。
 明治以降の日本人を悪くした原因は、権謀に富み、事実を隠蔽し、嘘で歴史を作り上げた薩長人の天下を取り成したことをいう。
 国民は騙されて、戦争国家の兵員として利用された。

 平成・令和の世でも、政治家らが重大な事実を隠し、公文書を隠蔽し、賄賂と癒着政治をおしすすめていても、時間が経てば国民が忘れるという思想が底流にある。これらは明治プロパガンダが未だに清浄されていないからである。、

                      (了)

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (中)

『1853年はなにが起きましたか』
 学校で問われれば、
「アメリカインド艦隊のペリー提督の黒船来航です」
 日本の学生のほとんどがそう応えるだろう。

 世界各地の学校教育の場で問えば、
「1853年は有名なクリミア戦争です」
 と答えるはずだ。
占いの行列.jpg
 クリミア戦争とは1853年に勃発したイギリス・フランス・オスマントルコと、帝政ロシアが戦った戦争である。
 その起因は、ロシアが聖地エルサレムの管理権を要求して南下してきた。そこでイギリスがクリミア半島に出兵した。ここから起きたヨーロッパ最大級の大戦争である。
 それゆえに、『クリミア戦争』と呼称されている。

 イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心を抱いており、英仏の艦隊がロシア海軍を追撃しアジアまで侵攻してきたのだ。
 1853~56年の3年間にわたり、カムチャッカ半島で戦闘がおこなわれている。

 戦争は歴史的な領土問題、宗教問題、経済利権など、双方が自国の利を追及することで起きる。
『戦争はやらないで、外交で解決すべきだ』
 ひとたび
『戦争がはじまれば、勝つことだ』
 敗戦国となってしまえば、膨大な戦争債務を背負うとか、最悪は植民地になるとか、その差は子々孫々まで影響する。戦勝国の言いなりで、国民は悲惨なことになる。

 英仏露の艦隊はアジアで有利な戦いをするために、戦略面から兵站、食糧、燃料基地として日本の港の開国は喉から手が出るように欲しかったのだ。
 日本は立地的にも、戦略的にも、とてつもなく有利な立場になった。
            
 当時の日本は世界にたいしてブラインドを下ろしていない。老中首座・阿部正弘は、長崎奉行からオランダ出島・ジャワを通じて「わが国はクリミア戦争にたいして中立である」と世界に発信した。これは日本が孤立していたわけでもなく、世界の一員であるというメッセージである。

 日本史・教科書から『鎖国』という表現が近々に消えていく。「鎖国」は薩長史観の明治政府の御用学者の創りだしたものだからだ。
 日本人の海外渡航は将軍家光の時代から厳禁だったが、アジア(清国)・ヨーロッパ(オランダ)ともに貿易をおこなっていた。海外情報の収集にたいして実に熱心であった。
            *

 さかのぼれば、阿部正弘は老中首座になった弘和2(1845)年から、アジアの数か所(広東・シンガポール)で発行されている英字新聞を、貿易国・オランダに英語→蘭語に翻訳させて日本にもってこさせていた『別段風説書』。長崎と江戸では幕府の官吏が蘭語→日本語に直す。
 こうして欧米系の新聞内容が、日本語に翻訳されて幕府から徳川御三家・御三卿、親藩に伝えられた。
 一方、長崎の通詞(つうじ・翻訳者)が小遣い銭稼ぎとして、外様大名の長崎駐在員「聞き役」という役職に翻訳内容をながしていた。
 日本の多くの大名・重臣たちは世界の流れをむさぼり読んでいたのだ。

 当時の日本人は鎖国で何も海外情報を知らないというのは、あまりにも無謀な論理だ。だから、鎖国が教科書から消えるのだ。

 かりに高校2年の世界史の問題を、幕府関係者や諸大名に問えば、ナポレオン侵略、アメリカ独立戦争、スエズ運河の開削、イギリスフランスの海底ケーブル、産業革命など、充分に応えられるだろう。
 なにしろ、大名たちは別段風説書(英字新聞が原本)で、世界を知っているのだから。
 その証拠に、安政時代に開国すると、徳川幕府の幕臣たちは海外の予備知識が十二分にあるので、こぞって使節団をなんども出されている。鉄鋼・造船などの海外技術者らも現地で招聘してくる。

 歴史書では薩摩藩留学生19人や長州ファイブが取り上げられているが、幕臣らは数百人も渡航しているのだ。
 まるで薩摩・長州しか海外体験をしていない書き方だ。それ自体が抜本的に狂っているけれど。
 
DSC_0490 京都.jpg

 嘉永6(1853)年に話をもどすと、同年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチン提督が長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)も従えていた。
 英仏露米にとって『クリミア戦争』の勝敗にも影響するので、イギリス、フランスの軍艦もゾクゾクやってくる。
 日本の歴史書はまるでペリー艦隊だけが、ふいに日本に来航してきたようなねつ造をしている。大違いである。

            *

 ペリー提督、プチャーチン提督の2カ国はともに国書を受理するが、来年返答するから、1年後にまた来てくれ、と伝えて艦隊を去らせている。
 日本とすれば、自国の体制におおきな影響をするので、即決せず、アメリカ、オランダの言い分を熟慮検討する必要があって、1年の猶予は当然である。
 これこそ幕府の余裕である。

 ペリー提督が持参したアメリカ国書のなかで、難破船の船員が日本で虐待されていると記している。アメリカ捕鯨船の難破した船員虐待は事実無根だと突っぱねた。
 日米和親条約は、かれらの要求する通商を認めなかった。
 その実、条文の内容は、『薪水給与条例』を和親条約に変えたていどだった。

 ......天保13(1842)年に、当時の老中首座・水野忠邦が、オランダを介して世界に発布した『薪水給与条例』(しんすいきゅうよ じょうれい)がある。
 それは遭難船の入国はいずれの港も認める。そして薪と水と食料を提供するという博愛主義的な内容だった。
 日米和親条約は、遭難船でなくとも、米国船(主に捕鯨船)が指定する伊豆下田、箱館港に入れば、合法的に薪、水、食糧を提供する。ただし船員の休暇目的の場合、決められた数里の範囲しか行動できないものとする。

            * 
 
 おなじ嘉永7(1854)年に、イギリス艦隊が長崎港に入港してきた。(外交交渉の船は長崎に自由に寄港できた・決して鎖国ではない)。
 英国艦隊司令・スターリングは、イギリス軍艦の燃料・食料の供給基地として、長崎港と函館港の利用をもとめた。

「貴国がこの場でアメリカと同一の条文で、和親(平和)条約を結ぶならば、2か所の港は利用させる。条約を結ばずして、貴国の軍艦が長崎・函館に立ち寄る行為はいっさい断る。わが国はクリミア戦争に中立であると、すでに世界に通達している」
 長崎奉行は高飛車な姿勢をつらぬいた。

 艦隊司令スターリングは、日本側の条件を受け入れた。
 ここで怒ったのが、東洋全域を管轄するイギリス香港総督である、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港においたて日本の法律に従うと明記されている。これはイギリス政府と国民にたいする屈辱の条約である」
 と破棄の添え書きをつけて、本国政府にその締結内容を送ったのだ。

 イギリス国会は、クリミア戦争に勝つことが最優先だ、日本の港が利用できるメリットは大きいとスターリングが言っているのだからと言い、日英和親条約を批准してしまったのだ。

 アヘン戦争における清国の立場と比べると、わが国の優位性は雲泥の差である。

 その翌年は元号が嘉永から安政に変わる。敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場から、「日露和親条約」をむすんだ。かれらが民俗学的にもロシア系アイヌ人の領地だと主張する択捉島・国後島を日本領土としたのだ。

 現代のロシアは、クリミア戦争当時の弱り目・祟り目の条約で、北方四島が日本に奪われた、という意識なのだ。ただ、ニコライ1世が批准した条約だから、戦時の無効だと言いだし得ない。歯ぎしりしているのだ。

 このようにクリミア戦争は、日本にとって実に有利な風が吹いたのだ。米、英、露という大国の3カ国と、ほぼ同時的に和親=平和条約を結べたのだ。

                             【つづく】

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (上)

銀閣寺 ①.jpg 歴史は自国の都合だけでうごかない。かならず世界情勢および隣国との関係で政治・経済・文化は連動して推移していく。
 2022年のロシア(プーチン大統領下で)、ウクライナ侵略がなされた。全世界が驚愕し、世界中の人々が、この先どうなるのか、と案じた。
 ある人は戦略核が使用されるのではないか。あるいは第3次世界大戦にまで拡大するのではないか。ロシア・ウクライナの小麦を中心とした穀物輸出の大幅に減り、アフリカなど食糧飢饉になるのではないか。あるいは餓死の悲惨な状況に陥ってしまうのではないか。

 日本においても、ウクライナ侵略に触発されて、中国が「一つの中国を掲げ、台湾に侵攻し、日本も、その戦争にまきこ乗れるのではないか」と案じた人たちがとてつもなく多い。
 中国・台湾が戦争になれば、米軍の出動が沖縄からになる。中国は敵基地攻撃で沖縄を攻撃する。日米安保は軍事同盟だから、あるていどの覚悟が必要だ。

 沖縄を守るために、今の自衛隊員だけで日本防衛ができるのか。日本の成人男子は戦闘要員として与しないと、またたくまに兵員不足で惨敗するだろう。
 これはGNPの軍事予算比の問題でなく、「60歳まで徴兵制で、日々の厳しい野戦軍事訓練で、戦場らおもむいては命を賭せますか」という、あなたへの問いかけになっている。
DSC_0440 銀閣寺 ②.jpg
              *
 このようにヨーロッパ大陸のロシア・ウクライナの2カ国の戦争が、またたく間にアジアに波及し、日本への影響、庶民の暮らしに跳ね返ってくる。むろんきょう現在も石油や食糧の不足から、物価は高騰し、日常生活にまで直結して影響している。

『歴史は自国の都合だけでうごかない』という格言が、2022年2月のロシアウクライナ侵攻で、得られた実感である。

               *

 明治以降に編纂された幕末史が、いかに大嘘だったかと、白日の下に晒されている。政府や学者や歴史作家は、裏を返せば、いかに嘘の幕末史で国民をだましてきたと、それが実証された。

 さかのぼると約170年前、現在のロシア・ウクライナ侵攻とまったく同じことがヨーロッパで起きたのだ。それが1853年の世界史でも最大級に有名なクリミア戦争である。
「野戦のナイチンゲールが活躍で有名な戦争ですよ」
 といえば、ああ、なんとなく解る、という方も多いだろう。
 それほど有名な戦争である。
                             【つづく】 
 

 

『いたましい海難事故』 1955(昭和30)年5月11日は? 土岡健太

 土岡健太です。広島県・呉市在住です。

 広島県大崎上島がご出身の穂高健一先生の著作「神峰山(かみのみねやま)」を再度ご紹介させてください。

 この本は5作の短編で構成されています。先夜、その中の「女郎っ子」をまた読んで、また泣きました。
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 1955(昭和30)年5月11日、大崎町木江南小学校6年生の修学旅行で、主人公の乗船していた"宇高連絡船"「紫雲丸」が高松沖で沈没。多くの方が犠牲になりました。

 犠牲者は168名に上り、うち修学旅行中の四校の児童生徒、先生は100名を数え、木江南小学校は児童22人、先生3人が犠牲になったとあります。大惨事でした。
 主人公も亡くなりました。

 じつは父の実家が香川県にあるので、幼いころこの宇高連絡船には何度か乗って、四国に渡ったことがあります。

 連絡船は岡山県の宇野港から高松港まで貨車も積む大きな船で、出航を知らせるドラの音も懐かしく思い出されました。

 その記憶と小説の描写が重なります。また、私(土岡健太)の修学旅行も「金毘羅さん、屋島」、とよく似たコースでしたので、尚更共感しました。

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   栗林公園で昼弁当 1962(昭和37)年


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   丸亀城 1962(昭和37)年

  1957(昭和32)年4月12日、広島県生口島瀬戸田港近くで起きた、忘れてならない身近な大海難事故に「北川丸沈没事故」があります。

 あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

                        【了】   

国際ペン ― 世界の作家のウクライナに関する声明 ― ノーベル賞受賞者、作家、芸術家

 世界中のノーベル賞受賞者、作家、芸術家は、1000人以上が署名した前例のない手紙でロシアのウクライナ侵攻を非難します

 文学と表現の自由の組織であるPENインターナショナルは、世界中の1000人以上の作家が署名した手紙を発表し、作家、ジャーナリスト、芸術家、ウクライナの人々との連帯を表明し、ロシアの侵略を非難し、流血の即時終結を呼びかけました。
ウルグアイ 中川.png

クライナの友人や同僚に

 私たち世界中の作家たちは、ロシア軍がウクライナに対して解き放った暴力に愕然とし、流血の終焉を緊急に求めています。

 私たちは無意味な戦争を非難し、プーチン大統領がモスクワの干渉なしに将来の忠誠と歴史を議論するウクライナの人々の権利を受け入れることを拒否したことで団結しました。

 私たちは、作家、ジャーナリスト、芸術家、そして最も暗い時間帯を生きているウクライナのすべての人々を支援するために団結しています。私たちはあなたのそばに立ち、あなたの痛みを感じます。
                   
 すべての個人には、平和、自由な表現、自由な集会の権利があります。プーチンの戦争は、ウクライナだけでなく世界中の民主主義と自由への攻撃です。

 私たちは、平和を求め、暴力を煽っているプロパガンダを終わらせるために団結します。

 自由で独立したウクライナがなければ、自由で安全なヨーロッパはあり得ません。

 平和が優先されなければなりません。
             
         (イラスト:中川有子) 
 
【原文・英語】

Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand
Sunday 27 February 2022 - 5:30pm
Read the briefing in full
Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand

PEN International, the literary and free expression organisation, has released a letter signed by over 1000 writers worldwide, expressing solidarity with writers, journalists, artists, and the people of Ukraine, condemning the Russian invasion and calling for an immediate end to the bloodshed.

Read in Ukrainian, Russian, Arabic, French and Spanish.

To our friends and colleagues in Ukraine,

We, writers around the world, are appalled by the violence unleashed by Russian forces against Ukraine and urgently call for an end to the bloodshed.

We stand united in condemnation of a senseless war, waged by President Putin's refusal to accept the rights of Ukraine's people to debate their future allegiance and history without Moscow's interference.

We stand united in support of writers, journalists, artists, and all the people of Ukraine, who are living through their darkest hours. We stand by you and feel your pain.

All individuals have a right to peace, free expression, and free assembly. Putin's war is an attack on democracy and freedom not just in Ukraine, but around the world.

We stand united in calling for peace and for an end to the propaganda that is fueling the violence.

There can be no free and safe Europe without a free and independent Ukraine.

Peace must prevail.

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ②

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 今夜の宿泊地は、山中湖畔のカントリーホテル「スターダスト」である。富士山とフランス料理が売りである。
 一泊2食が1万1500円~である。満足度の割にずいぶん格安である。+アルコール代も加えても、リーズナブルなお値段だ。

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 かつて山仲間(可児さん)と、スターダストに一泊し、ちょうしに乗って酒を飲み過ぎてしまい、富士山の山頂への登攀がことのほか苦しかった。ふたりは登山ザックにワインを数本入れて担ぎ上げたけれど、二日酔いで一滴も飲めなかった記憶がある。

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 何年前か忘れたが、この山中湖畔の「スターダスト」に泊まり、白雪の11月の富士山に登った。パートナーは肥田野さんである。
 ふたりは冬山ゆえに二日酔いを警戒し、ビールは1、2杯で控えた。そして早朝に、完全装備の登山姿で出かけた。

 冬場は富士5合目までの路線バスなどない。裾野から自力で登攀していく。
 単独峰に吹く風は強烈である。雪面は風で磨かれてツルツルに光るほど研磨されている。
 転倒すれば、制動が利かない滑落となり、助かる確率は低い。まさに死に直結する一歩ずつである。
 七合目からはもはや台風並みの風で、わたしたち二人の足を止めてしまった。酷寒の烈風はとうとう山頂まで近づけてくれなかった。二人は断念し、下山してきた。

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 スターダストでは、フランス料理の美食を摂ったあと、マスター(木村あずささん)が手品を披露してくれた。一つひとつに感激。見事な腕前だ。

 もう10年くらい前になるかな。わたしは「山中湖ハーフマラソン」に出場した。そのときも、かれが上手な手品を披露してくれた。前泊の食後に、とてもリラックスできる好い時間がもてた。
 そんな記憶がよみがえってくる。

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 御殿場からみた富士山が話題になった。

 林忠崇(ただたか・21歳)は、総国請西藩(じょうざいはん・千葉県木更津市・一万石)藩主だった。鳥羽伏見の戦いあと、旧幕府(徳川将軍家)を追いつめる新政府に反感をもった。

 藩主の忠崇みずから脱藩し、藩士70名らとともに、旧幕府の遊撃隊に参加した。幕府海軍の協力を得て、館山から相模湾の沿岸に上陸し、小田原、箱根や伊豆などで新政府軍と激しく交戦する。

         *

 このころ、芸州広島藩の自費出費で320人が参戦した「神機隊」は、上野戦争、飯能戦争のあと、会津にいく予定だった。ところが、江戸城の総督府・大村益次郎(長州藩)から、
「林忠崇のつよい遊撃隊が、最新型のフランス銃を装備したうえで、小田原から御殿場を経由し、甲府にむかっている。討伐してきてくれ」
 と派遣を要請されたのだ。

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 懇願に応じた神機隊が甲府、さらには高所の三つ峠を越えて河口湖周辺(写真)まできてみた。さらに、山中湖まで足を延ばしてみるが、林忠崇たち遊撃隊の形跡がまったくなかった(忠崇は奥州戦争にむかっていた)。
 神機隊は江戸城までもどってくると、総督府総帥参謀の大村に対峙し、
「がさネタで、無駄足をさせてやがって。わが神機隊は自分たちが集めた自費で参戦しているのだ。弁償しろ」
 と上から目線で、六千両を脅し取っている。

 毛利家祖の元就は、広島藩から戦国の雄になった武将だ。さらに、幕末・明治維新まで、芸州広島藩の浅野家(42万石)が、朝敵にもなった長州藩毛利家(36万石)よりも、つねに優位性を保っていた。
 そんな背景から大村は、神機隊の隊員・軍備搬送として江戸湾から平潟(茨城県)まで、長州藩の軍艦までも貸与させられている。

         *
 
 明治に入ると、元藩主の林忠崇は脱藩・反逆の罪で平民まで堕ちたうえ、極貧の流転つづきであった。実に、気の毒だ。
 昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲(ながこと)が死去すると、忠崇が最年長の『最後の元大名』となった。


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「スターダスト」を創立した元オーナー・木村忠さん(写真)は、大手の通信メーカーのエンジニアだった。38年前に、脱サラで、保育園勤務の妻・翠(みどり)さんとともに、山中湖にペンションを開業した。
 技術屋さんが接客業とは、わたしの想像を超える。

「ここまでの38年間で、一番苦しかったのはいつですか」
 おおかた、なれない経営の創設期だろう。
「一にも二にも、新型コロナのここ2年間です。創設期は若さから夫婦で懸命に働きました。子育てをしながら。それなりに口コミもあって、お客さんの確保ができて上向きました。しかし、コロナ禍は営業ができず、手の施しようがなかったからです」

 ただ、山梨は全県民らの力で、新型コロナの新規感染拡大が徹底して抑えられてきた。その成果が生まれた今、ことし10月から中学生の修学旅行が入りはじめましたと話す。

 妻の翠さんもかたわらで、
「山梨県は全国で3番目に、修学旅行の人気だと公表されています。やや灯りが見えてきた感じです、第六波のコロナ禍を想像すると、まだ心細い灯りですが」と語る。 

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  明日はどこに行ってみるかな。
「いまはちょうどダイヤモンド富士で、カメラマンが大勢きていますよ」
 カメラマンは小説の素材として興味がわかないしな。
「花が少ないフラワーパークも、情感があります。河口湖です」
 そこがいいな。
 さらなる候補先をいくつかあげてもらった。  
                    
               『つづく』     

【関連情報】

カントリーホテル「スターダスト」

〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野2977

電話番号0555-62-2200

 

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ①

 富士山麓に行ってみよう、宿は山中湖村の「スターダスト」ときめた。日本人にとって、富士山は最も人気があるけれど、それだけに月並みな山でもある。
 文学、芸術の世界で、美しい対象ほど表現するのは実にむずかしいものだ。
 
 写真の腕前えが優れているとうぬぼれる者でも、月めくりカレンダー「富士山と桜と湖」の写真と比べれば、見劣りがする。
 かりに絵画の心得があったとしても、江戸時代の浮世絵師たちの独特の絵画技法には、逆立ちしてもかなわない。小説の筆力がある書き手でも、太宰治の名作「富嶽百景」にはおよばないだろう。

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 晩秋に3、4日くらい富士山麓で過ごしたところで、先人をまえにして、わたしは挫折感を味わうだけである。
 それがわかっていても、11月半ばの富士山は、四季を通して、白雪をかぶった形と姿が最も好いし、山容に魅せられてしまう。考えたあげくの果てに、やはり日本人の心の象徴・富士山だと、足をむけた。

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 富士五湖の湖畔で恋をする。ふたりはすねて、甘えて、心のなかで最愛の人だと信じ、澄んだ目で語り合う。やがて、恋の決意をかためていく。
 そんな燃える男女の情愛をえがく小説を理想としている。

 この景色なかに、恋が燃焼している男女はいないかな。そんな被写体をごく自然にもとめている自分を知る。作家の職業病なのかな。

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 山中湖の湖畔で、記念写真を撮るほほえましい親子をみつけた。三脚のそばで、少年が両親を撮る姿が妙に恰好よかった。かたや、少年に笑顔をむける両親の表情もこころよい。
「カメラマンのボクの写真を撮らせてください」
 両親が快諾してくれた。

 少年の写真を掲載すべきか。親子の姿か。ずいぶん迷ったけれど、男女が恋をして、家庭をもち、子どもが生まれ、家庭をきずいていく。
 このプロセスのほうが、私の作風にあっているかな。

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 家庭を築いて、子育てが終わり、老夫婦で旅に出る。そこにはともに人生を歩んできた年輪と、苦節を越えられた自信とが、いたわり歩く姿に凝縮されて醸(かも)し出されている。
「若いころは、よく夫婦喧嘩をしたわね」
「いまもね」
 そんな思い出ばなしも、ほどほどに楽しみ、語り合っているのだろう。
 
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 生きている今が最も大切だ。あすは何が起こるかわからない。よきドラマならばよいが......。
 この湖畔の村は、伊勢湾台風の大雨で、裏山から巨大な山津波が発生し、集落ごと湖水に流されてしまった。全村の生活が阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかで、すべて消えた。
 
 この伊勢湾台風は、昭和34(1959)年9月の潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心に、ほぼ全国に甚大な被害をもたらした。明治時代以降の台風災害で史上最悪の惨事となった

 愛知県・三重県の被害がとくに甚大であった。となり合う、ここ山梨県の富士山麓も例外ではなかったのだ。
 
 村中の幼子、少年・少女、若夫婦、働き盛りの農夫、余生を送る老人らが瞬時に、土石流にのまれていく。号泣しながら、救いを求める、むごたらしい悲惨な光景になったのだ。

 わたしが初受賞した文学賞は『千年杉』で、山津波が素材だった。それだけに、いま観光で復元された村にきて、災害当時の惨状をきくほどに胸が痛む。
 
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 富士山は活火山だ。もし噴火したら、どんな姿になるのだろうか。雲を噴煙に見立ててみた。

 宝永噴火は1707年だった。いまからさかのぼること300年前。幕末は150年まえの曽祖父の時代だ。そこから、たった2倍前にすぎない。地球年齢でみれば、まさに、きのう今日とおなじ。

 東京は関東ローム層(富士火山灰)の上に建つ大都市だ。
「富士山は300年周期です」
 そう教えてくれた。
 富士山噴火は射程なのだな。

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 火山噴火は真っ赤な溶岩がながれ出てくる。数千度の高温岩石に襲われる恐怖はどんなものだろう。
 わたしの作品には、山岳にからむ小説がことのほか多い。ただ、火山噴火はいちども素材として描いていない。
『善人が助かって、悪人が死ぬ』
 そんな善悪の法則など一切ない。運命か、宿命か。そこに凝縮されてしまう。そう考えると、自然災害は人間の努力と連動してこない。
 わたしには想像できない世界観(宗教観に近い)ゆえに、とても書けない分野だ。
 
 富士山爆発を予言した雑文で、金儲けする著述業者の心理はわからない。無責任な恐怖で人を惑わす、かれらが最も悪人かも知れない。
 
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 人間は強烈な記憶でも、歳月とともに忘却していく。

 わたしは日記をつけたことがない。不精な性格というわけでもないけれど、取材ノートや手帳でも、読み返すことなど、ほどんどない。約束事などは記憶で行動するし、執筆は脳裏にとどまっている範囲内で文章化してしまう。要するに、忘れたことは書かないだけだ。

 だから後日、見もしない日記など書いても意味がないと思っている。ただ、晩秋の単純な風景など、今冬になれば、まちがいなく忘れてしまう。

 最近のデジタル写真は撮影の時分、露出条件、場所すらもGPSで、こちらが依頼しなくとも詳細に記録されている。メモ代わりに、シャッターを押しておくか。

               『つづく』  
 
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〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野2977

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2022年8月1日から新聞連載小説に備えて、「接続詞」の勉強中

来年(2022)8月1日から、新聞の連載小説がはじまります。某紙で公称80万部、実売50万部。日曜を除く毎日で、一年間の契約です。
 いまは宮部みゆきさんが歴史小説「三島屋変調百物語」を連載中です。その次が私で、題名は『妻女たちの幕末』です。時代背景は天保(1830年)~戊辰戦争(1868年)までです。
 
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写真・左より:篤姫、皇女・和宮、德川美賀子 (ネットより)

 私の近著として『安政維新』(阿部正弘の生涯)、『紅紫の館』があります、一つは老中首座の阿部正弘を主人公にして天保時代の後期から安政時代までを描いています。紅紫の館は徳川史観で、桜田門外の変、からは戊辰戦争まで展開しています。
 2冊を一つに考えれば、幕末そのものです。

 政治や動乱は男の表舞台です。
 女は歴史の裏舞台です。

 2冊は男性の視点だったけれど、3冊目は女性の視点でより史観
に近いところで小説化するものです。きっと薩長史観を逆なでるものだと思います。

 これまで名君と言われていた大名が、女の視点から描くと、女の心を無視した政略結婚を企てる、とんでもない暴君になってしまう。
 かれらは農民から搾取した金で、大奥の女を利用するために、湯水のごとく賄賂をさしむける。とりもなおさず、支配者たちが名誉、権威、威信を得るための欲だった。
 
 幕末史を掘り下げると、男たちの強欲な暴走であり、影で女の欲の底力がある。男と女の対立を描かずして歴史が語れない。
 
           *
  
 私の出自は純文学です。特徴は叙述の文章で心理描写、情景描写文、そして会話文に徹するものです。かたや極力、説明文を排除してきました。
 これは小説の登場人物に、読者の感情移入を誘い込むものです。私の過去の文学賞はすべて純文学でした。

 幕末動乱期には避けて通れない、大きな事件や出来事が連続します。かぎられた新聞紙面で、濃密な心理描写など展開すれば、ストーリーが先に進ません。

 となると、政変、内戦、陰謀、外交、騒擾、事件、貧困、疫病など、これらは説明文を多用し、時間軸の年月を進める必要があります。
 心理描写を圧縮し、事件の概要説明や補足説明などは、下手をすれば、論文調でゴツゴツした内容になってしまいます。

江戸城・大奥
      揚州周延の浮世絵 (上越市立総合博物館)      
 
 新聞の読者からすれば、「妻女」というから艶っぽい、情欲的な小説かと思いきや、「これって、学者が書いたの」という批判にもなりかねません。
 
 私は「よみうりカルチャーセンター」と、「目黒学園カルチャースクール」では、「文学賞をめざす小説講座」を指導しています。
 受講生たちの文体は尊重しながらも、私が得意とする叙述文の書き方の指導になっています。
 説明文は「主語+述語」のかかり方が正確ならば、それでよい、と考えています。提出作品を添削するときに、「主語+述語」がおかしければ、作品に朱を入れる程度です。
 あえて指導はしていません。なぜか。学生から社会人になる段階で、作文、論文、ビジネス文、報告書で、記事など、だれもが一通りマスターしてきている。
 講師の私がなにも説明文の指導する必要がないと考えていました。

 説明文のコツがあるとすれば、巧い接続詞で、文章と文章が溶接されていれば、読者を的確に誘導できます。

 つまり、接続詞とは車のウィンカーとおなじで役目です。右方向に行くよ、後ろに下がるよ、左に曲がるよ、と読み手に予測の提供するものです。

「かれこれ、10年前にもどれば」と接続詞で説明すれば、ひと昔まえにさかのぼる。「江戸奉行は、現代に例えれば、警視くらいである」と使えば、一気に150年後まで高跳びできます。
 このように、時空も自在に展開できます。

 エッセイストが文章の書き方で口にするのが、「起承転結」です。まったくナンセンスだと、私は考えています。自由に思うままに書けば良いので、意味不明な難解な「起承転結」を要求するから、文章を書くことが嫌になってしまうのです。
 
 話をもどせば、私は小説を叙述文で書いて、説明文が排除してきました。それゆえに「接続詞」のボキャブラリーは抱負ではない。

 新聞連載まで、あと10カ月あります。ここは100くらいの接続詞を存分に使いこなせる努力をしたいと考えています。


『接続詞の一部紹介』
 原因・理由(それで)、場面転換(すると)、言い換え(つまり)、相反(しかしながら)、予想外(それにしては)、対比(一方で)、決着(いずれにせよ)、結果(こうして)、次の場面(それから)、・・・・・・

* 接続詞とはまさに車のウィンカーと同じで、タイミングよく出せば、読者に文章の先を上手に、ごく自然におしえられます。

 説明文は接続詞を効果的に入れると、読み易い文章になります。ただ、前後におなじ接続詞をなんども使うと、作品の品質をさげます。そこは要注意です。