タイトル:なぜ「海を憎まず」でなく、『海は憎まず』か。「を」、「は」の違い
多くの人から、文法的にみれば、『海を憎まず』ですよね、と訊かれる。カルチャー教室でも「小説」を教えている作家なのに、単行本のタイトルの助詞が間違っている。そんな顔もされる。
人間の立場、人間の眼から見れば、「海を憎まず」だ。それは当然の疑問だろう。
海を主体に置いた、海の方の視点でみれば、「海はなにも人間を憎んでいない」。大自然は決して人間の敵ではない。
人間が憎いと思って、海が大津波を引き起こしたわけではない。人間側と海側と、双方の眼から見れば、「海は憎まず」が中庸として成立する。
さかのぼること、同書を書くために三陸の各地を回っていた。陸前高田市で、ある50代の漁師を取材中に、
「津波は必要なんだよ」
と真顔で話す。
「えっ。必要なんでか、津波が」
私はびっくりした。
東日本大震災は人間社会を破壊した。こんなにも大災害で、大勢の死傷者を出し、漁船など生産手段を奪われながら、なぜ津波を怨んではいないのか、私には理解ができなかった。
「津波は、人間が汚した海底の、どぶ掃除をしてくれるんだ。津波がくるたびに、海がきれいな状態に戻ってくる。数年に一度は津波がこない、と日本人は魚介類を満足にたべられなくなるよ」
そう言われると、人間はあまりにも海を無造作に汚しすぎてきた、と妙に反省するものもあった。
「何十年に一度は、とんでもない大津波がくる。船もイカダも、一切合財津波が持っていかれてしまう。その時は、悲しくてつらい。でも、海から(漁獲で)貰った財産だ、生涯に2度くらいは海の神様に返す。そう自分に言い聞かせている」
この話は、気仙沼大島の漁師もまったく同様に語っていた。
「2、3年に一度の津波はとてもありがたいんだ。津波は海岸に近いヘドロを沖まで、熊手のように、あらいざらい沖へ持って行ってくれるんだ。台風など嵐は海上の上辺だけが波立つだけで、海底の掃除までしてくれない」
