A032-わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)

「良書・紹介」 出久根達郎著『恋の石ころ』 = 戦後80年の人生がここにあり

 2023年の秋から、出版されてきた出久根達郎のエッセイ・シリーズが、手元に8冊ある。世の大勢の方に読んでもらいたい。その想いが第1冊目から強かった。その気持ちのまま、今日に至っておる。

 最初の「一千字」シリーズ四冊は、一冊ずつ、それぞれに収録されている古今東西の名作に対する、出久根達郎の鋭い眼力と感性には都度、度肝を抜かれた。ただ驚愕するばかり。比べて私(穂高健一)が過去に完読した作品となると、限られた数でしかない。本音を明かせば、深読みなど一作もないというほうが正確だろう。
 それゆえに、出久根達郎の「一千字」シリーズは凄すぎて、どうにも手が付けられなかった。
 
出久根・一千字シリーズ.JPG

 もしも、そんな私が、このシリーズを紹介するとなると、作中の名作を羅列し、間接法で記すにとどまる。それでは出久根達郎の筆の精神が伝わらない。歳月は光陰矢の如し。あっという間に7冊が手元に溜まってしまった。圧倒されるばかりで、紹介できず心苦しかった。

                 ☆

 出久根達郎の近著『恋の石ころ』(写真の下段・右寄り2つめ)が八冊目として届いた。(2025年6月30日発行て゛ある。一言でいえば、ことしは戦後80年だ、出久根達郎の人生80年が絶妙なる生々しい筆で描かれている、といえる作品である。
 私とすれは、おなじ世代だけに世相もわかるし、親しみ深い。世の中をおなじ目線でみられる。かれの幼少時からの展開だけに当然ながら文章が平易だし、とても読みやすく、臨場感に満ちていた。ページを捲るたびに、楽しかった。一気に二日間で読めた。


 茨城県の片田舎の極貧の家庭で生まれ育った。とはいえ、終戦後は全国津々浦々の家庭は、いずこも食糧難で貧しいから、みんな明るい生き方ができた。子どもらは自然のなかで、遊び方をよく知っている。
 山野に行けば、いまは雑草といわれようとも、当時は貴重な食糧だ。無銭でも生き永らえた。父親が印刷業を廃業し、小説・俳句など投稿のみで生きる。それを克明に描いている。この貧乏家庭には味があるな、とおもわせる。さすが直木賞作家の父親だと感銘した。やや変わり種でも、そういう生き方ができた時代なのだ。

 中学を卒業後、出久根達郎は集団就職で、東京・月島の古本屋の店員として住み込みで働く。昭和三十年代の世相が、筆の上手さで、平明に快く推し進められていく。やがて、恋をする。
 結婚する前、奥さん以外とはどんな女性と交際したのか。興味津々で目を凝らすも、映画館の銀幕に映し出される女優の列記で逃げられてしまう。「夫婦ケンカ」を避けたのか。まあ、当然だろうな。

 ユーモラスなのは、求婚を承諾してくれた記念に、彼女の希望で「三越劇場」で高倉健の『八甲田山』を観たことだ。酷寒の猛吹雪で、明治の軍人たちが訓練中に大量遭難する、という実話が映画化されたもの。深読みもすれば、若き頃の達郎さんは高倉健に似ていたのかな。だから、この映画を記念に観たかったてのかな。

 結婚後は、「カミさん」という呼称だ。これは巧い。ぴたり決まっている。......細君とか。女房とか、今流のママとか、となれば、作品全体に幻滅を覚えるだろう。このカミさんが登場するたびに、きわだって作中から彼女が立ち上がってくる。読者として、次はいつ登場するのか、と期待してしまう。

 独立して杉並で5坪という狭い古本屋を開業しても売れない。夫婦で食べていくのも難儀だ。ふたりはともに創意工夫をして、古本の出張、手書きの通信販売をおこなう。しだいに登りつめていく。やがて、直木賞の受賞になる。
 サクセスストーリーは、おおむね鼻持ちならないのが常だが、『恋の石ころ』は爽快に読めるからふしぎだ。生き様の底辺が苦労人だから、ごう慢さがない。周りにやさしい。作家として大成功しても、庶民の中に溶け込んでいる。

 戦後80年におよぶ、出久根達郎の人生ドラマである。ショート・エッセイの連続で、平明な文章で、わかりやすい。とりもなおさず、愉快なエピソードが盛りだくさんだ。楽しめる。

 メディアの戦後80年の人物取材ものよりも、同書はとびぬけて、好感度が高い作品である。

 【関連情報】

出久根一千字シリーズ、 2.JPG 発行所 : 藤吾堂出版

 〒395-0045
飯田市知久町3-50
TEL・FAX 0265-22-1646

「恋の石ころ」をこのHPで紹介できた。やっと光明が射してきたかな。追々、バックナンバーを紹介していきたい。

【原爆80年】 長編歴史小説「八月十日よ、永遠なれ」 生い立ち(作家の裏舞台)について

 新著「八月十日よ、永遠なれ」が、2025年6月27日に全国一斉に販売されます。この作品の成り立ち、つまり作家の裏舞台は、読むうえで参考になるかとおもいます。その経緯などを簡略にご説明いたします。

                  ☆

 一年前に出版社(広島・南々社)から、「2025年は広島原爆八十年ですから、それに関連する長編歴史小説を原稿用紙(400字詰め)400枚で、高校生も読めるものを書いてください」という書下ろし小説の依頼をうけました。
 日清・日露戦争にさかのぼり、なぜ戦争国家になったのか。太平洋戦争がなぜ止められなかったのか。なぜ、広島・長崎に原爆が落とされたのか、という点の要望がありました。


 私は、十九世紀から二十世紀の近現代史は得意とする分野であり、躊躇(ちゅうちょ)するものはない。日本史と世界史との関連性なども、深く知りえていると思っている。
「ただ、むずかしい要望だな。高校生でも読めるとなると、難解な歴史をどのように、平たく書くべきか」
 私は深刻に苦慮しました。

 明治・大正・昭和へと数多く海外戦争や出兵があります。国内の政治・経済・軍事なども複雑多岐です。難解な時代を解き明かす。歴史に精通した人ならば、専門用語も次々につかえる。
 しかしながら、高校生にも読めるとなると、戦争や事件やクーデターの呼び名は変えようもないし。地名、人名などすべてルビを打つわけにもいかない。いくら簡素にして明瞭に書いても限度がある。

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 大人の読者も、小中学校で習った社会科・歴史は石器時代から明治維新のころで終わりです。せいぜい大日本帝国憲法の成立くらいである。高校で日本史を選択していなければ、わが国の近現代史はほとんどわからない。これが実態です。

 さりとて、高校で日本史を選択したひとも、縄文時代から始まり、明治時代からの授業は駆け足だ。大正デモクラシー、シベリア出兵、ワシントン条約などはちらっと聞いた程度です。昭和の金融大恐慌、満州事変、国際連盟脱退など、世界との関連など教わっていない。
 
 学校で習う日本史は、現代でたとえれば、アメリカのトランプ大統領の影響など度外視しており、日本人による日本の政治です。海外戦争は敵国・相手国の事情がとても重要です。だが、泥沼の日中戦争にしても、中国の国内事情など、日本史では教えていない。ことごとく、日本史は世界とリンクしていない歴史しか習っていないのです。国際感覚はおそろしく貧しく無知に近いのです。
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 私は数か月も、あれこれ思案した。
「いっそうのこと、主人公を高校生にしよう。彼らの青春小説としよう」
 そこにたどり着きました。
 登場人物の主役は、高校二年生・十七歳の男女六人と設定しました。それは大胆な決意でした。というのも、この年齢は思春期で、恋愛に興味もつ。異性を意識し、敏感で、傷つきやすいし、繊細である。暴走もするし、男女が心を傷つけあう、失恋すれば、自殺もできる年頃ですから。

 作家はその心理を的確に描ききる必要がある。そこで、さわやかな恋心もくわえた17歳の男女の青春物語としました。楽しく、愉快に、時には涙し、読んでもらう。六人の個性を前面にだす。恋心を追えば、ごく自然に歴史が学べていた、という展開にしました。
 題名は「八月十日よ、永遠なれ」と決めました。それを持ち込んだ出版社は、「えっ、八月十日に何があったの」とおどろきました。

 広島原爆は八月六日、そして長崎原爆とソ連軍の満州・千島侵攻は八月九日、ポツダム宣言受諾は八月十四日、昭和天皇の終戦の詔書のラジオ放送は八月十五日である。
「八月十日は、読んでいただければ、わかりますよ」
 出版社は一読して、なるほどね。高校らしい斬新な結末だ、とすぐさま出版が決まりました。
毎日新聞 広告.JPG

    
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  •  現在、世界中に核兵器が一万二千発ある。プーチン大統領がウクライナ侵攻から、核兵器の脅しをかけ続けている。高校生六人の男女は「歴史クラブ」を立ち上げる。そして、いかにして、核兵器を一発も使わさせないことができるか。奇想天外、逆転の発想、若き柔軟な頭脳で、かれらは取り組んでいく。その結果が、八月十日にたどりつくのです。

     これまで私は、知人・作家仲間ら延べ数十人から、「八月十日はなんの日なの」と質問されました。一人として、ぴたりと言い当てた人はいません。

     理由は簡単です。私たちが習った日本史は、限られた日本だけの小さな範囲、つまり「狭隘な範囲」でしか太平洋戦争を 見ていないからです。 
     現代のトランプ政権を見るように、当時のルーズベルト・トルーマン大統領の政権を日本側から真剣に直視していたならば、米国の最も重大な会議が八月十日だったとわかるのです。


     2022年から高1の必修科目「歴史総合」(日本史と世界史をドッキング)を習った現代の高校生たちは、アメリカ、イギリス、ポツダムなど海外から当時の軍国主義の日本を見る目が養われているのです。地球規模からみれば、太平洋戦争の終結とは東西冷戦の始まりです。かれらはそこから「八月十日」を掘り当てるのです。

     その内容は、読んでからの楽しみにしておきましょう。

    メディアの編集・論説者たちは、戦前において戦争を煽りつづけた歴史を忘れすぎている

     最近の私は、歴史小説の範囲を幕末ものから、次のステップで「明治維新から太平洋戦争まで」の近現代史へとシフトしてくる。
     そこで常に「なぜ、こんな大戦争をしたのか」という疑問を向けると、まいず国民が熱狂的に軍部への期待が高かった。国民をそのように仕掛けたのは当時の新聞である。
     
     政府は膨大な軍事費の捻出に苦しみ、戦争は避けたい。しかし、各新聞は政府は弱腰だといい、世論を戦争への煽りつづける。これでもか、これもかと。
     
     日露戦争でもしかりだ。政府が非戦への逃げ道をなくさせたのは、新聞記事である。事実上の戦争推進者だった。

     昭和に入ると、犬養毅が内閣総理大臣になった。かれは満州国を認めなかった。海軍の青年将校らが、首相官邸に押し入った。「話せばわかる」というが「問答無用」と射殺した。
     それら青年将校が裁判にかけられると、日本国中から、減刑の嘆願書が数万通も届いた。これを煽ったのは新聞である。
     満州国の独立が日本の傀儡政権で、国際連盟で総反発で、日本の主張をどの国も認めなかった。
     
     犬養毅が暗殺されなかったら、あるいはテロリスト・青年将校の減刑嘆願を煽らず、テロ批判に回っていたら、太平洋戦争という不幸な戦争はなかった可能性が高いはずだ。 

                    ☆   

     戦後八十年記念特集がメディアで流れ始めている。
    「謙虚に歴史的事実を認め、過去と誠実にむかいあうことである」
     そんなふうに他人ごとで書いている。あるいは報じている。
            
     明治から77年間にわたり我が国を侵略戦争へと煽りにあおったのが新聞だった。悲劇的な運命をつくった加担者だった。という国民への謝罪一つすらない。むしろ、『新聞は無関係でした、正義の味方でした』と美化しカムフラージュしている。

                  *  

     新聞はいまや斜陽化している。それでも過去からのジャーナリズム精神のうえに胡坐をかいた高慢な意識と態度である。自分たちに不都合なことは書かない、逃げることが多すぎる。ろくに取材はしないで、広告(コマーシャル)をこれでもか、これでもか、と流しつづけている。スポンサーの不利なことは書かない。
     報道の品質の低下は甚だしい。まさに自滅への道をすすみはじめている。

     あえてメディアの危機を、私がヒステリックに叫ぶ気持ちはなどないが、「もはや必要としないテレビも新聞もこの世から消えていく」という賢者の言葉が真実味を帯びてくる。

     打つ手はないのか。ここはいちど「昭和初年から100年を洗いなおす」「戦争責任を問い直す」という姿勢と熱意がなければ、再生へ道はなく、奈落へと向かうだろう。というのも、政治家・軍人・皇室に諂(へつら)った往年の姿勢がいまなお現存していないか。むしろひどくなっていないか。内面的な悪魔の手がはたらいていないか。それを問い直すときである。

     民主主義の基本は、顔を民に向けておくことだ。それをもって報道の自由が保障されるのだ。

                  *  

     YouTubeは、玉石混合である。玉(良いもの、価値のあるもの)と石(悪いもの、価値のないもの)が混じり合っている。しかし、市民ジャーナリズムが確実に制度を高めている。
     いまでは、大手メディアよりも、質の高い宝石(真実)が見つけられる可能性が高くなってきた。

     海岸の砂浜を歩くのと同じである。小粒の砂、蛎殻、海中で死んだ魚も打ちあげられている、海藻もある。とんでもないものも遠路から流れついている。それでも、輝く宝石すらもみつかることがあるのだ。
     庶民の目が肥えてきている。自分たちみずから真贋の見極めすらもできてきている。

     それはなにを意味とているか。メディアが情報を篩(ふるい)をかける、という役目が終焉に近づいてきているのだ。とりもなおさず、情報の独占・寡占でなくなったのだ。それを踏まえて

    【近現代史】日中戦争から太平洋戦争へ。二等兵の草むらに隠れた20分間の用便が源流だった

    ......近衛文麿(お公家さん)・内閣総理大臣が就任して、一か月後に盧溝橋(ろこうきょう事件が起きます。
     北京に近い盧溝橋の橋のたもと些細な事件からはじまります。それはまるで落語にでも出てくるような、笑い話しです。二等兵が草むらに隠れた用便が発端です。
     戦争の発端とはこういうものでしょう。
     ここから日中戦争・太平洋戦争、そして広島・長崎の原子爆弾の投下、さらにソ連軍の宣戦布告と同時に侵攻へと歴史は折り重なっていきます。

                 ☆

     大陸の水は汚水が混じっているから、兵士はぜったいに生水を飲むな。
     これは日清戦争において日本兵の戦死者が1417人で、これにたいして戦病死は1万1894人である。変死は177人。このように十人中九人は病死(伝染病と脚気)であった。
     日本人が中国大陸に渡り、戦いのさなかの銃弾・砲弾による死者はきわめて少人数であった。病死者は一ケタちがう。その原因が、喉がカラカラになった日本兵が細菌に汚染された生水を飲んだからである。

     昭和12(1937)年7月7日に、中国の北京近くで「盧溝橋事件」が起きます。深夜10時ごろ、日本軍が夜間訓練をおこなつていた。数発の銃声音(訓練の空砲かもしれない)が 鳴りひびいた。
     中隊長が点呼を取らせると、一人の二等兵がいない。ひとまず連隊本部に連絡した。その連隊は東京の陸軍省に一報を入れた。
     ところが現地では、点呼から20分のちに、新兵・二等兵が草むらから出てきたのである。
     小隊長・中隊長らは、用便で行方不明とはカッコ悪いと思ったのか。夜明けに連隊本部に報告した。
     このころ、牟田口(むたぐち)連隊長が中国軍による射殺だろう、と決め込んでいた。中国側は否定する。
     日清戦争以来、日本人はとかく上から目線で中国人をみくだしている。中国側の言い分は虚偽だとみなし、小攻撃を命じた。
     
     北京近くの日本陸軍らは、戦争したくてウズウズしている。「職業軍人は胸につける勲章と階級が欲しいのです。戦争がなければ、手柄は立てられず、特別昇格の栄誉にもありつけない。そこで高級軍人が考えることは戦争を仕掛けることである」
     張作霖(ちょうさくりん)爆破事件、石井莞爾(かんじ)の満州事変、その後も各地の戦場で、将兵らがあえて戦争を仕掛ける行動が多々あります。

     近衛文麿は陸軍の陰謀だろう、と疑っていたのです。近衛内閣の米内海軍大臣も、次官の山本五十六も、ほぼおなじで考えだったようです。
    「事件を拡大させず、現地で解決に努力するように」
     近衛はそう指示を出しながらも、

     陸軍大臣・杉山元が、「新兵が20分の用便による騒ぎだ」とわかってながら、
    「戦闘が拡大することになれば、在留邦人の1万2000人の安全は保証できない。それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。大軍の中国軍をけん制する意味でも兵を増員してほしい」
    と満洲の関東軍、朝鮮にいる軍隊からの増兵、それと日本内地から3個師団の増派、それにかかる予算・三億円を要求してきた。
     軍部の顔色ばかりを見ている近衛文麿は、内閣総理大臣になってから一カ月余りで、大戦争の端緒を切ったのです。

     日本の大軍が北京付近を征圧した。次なるは上海を攻撃した。さらに南京を攻略する。ここまで、わずか半年間だ。これには兵站(へいたん・兵糧支援)の作戦ができておらず、「現地調達せよ」という略奪・強奪をがみとめられている。

     日本軍がたどり着いた南京は四方が城壁で囲まれている。中国兵は軍服を脱ぎ捨て、市民に紛れ込んだ。食料不足の空腹、性の飢えた日本兵が、現地住民に襲いかかった。ここで南京大虐殺が起きた。

                           ☆

     蒋介石がすばやく重慶に逃げこんだ、ドイツが日中の和平に斡旋に乗りだしてきた。近衛首相がなんと「日本は蒋介石と交渉せず」と悪名高き政策を打ちだしたのだ。
     こうなると、中華民国の蒋介石と共産党の毛沢東も、政権と認めていない日本だから、交渉する政府がいない状態になってしまった。なんのための戦争か。どこまで戦えば、停戦・休戦になるのか。ただ、やみくもに双方が血を流す日々になった。
     こうして「泥沼・日中戦争」という表現でしか説明できない戦争になった。これが太平洋戦争の終結までエンドレスになった。

     戦争とはとてつもない戦費がかかる。地図を見ればわかるが広大な中国大陸を支配すれば、膨大な百万人にちかい日本兵の配置が恒常的になる。国家予算のなかで占める戦費はうなぎ上りとなった。勝算とか、休戦とか。まったくもって見通せず、戦費の垂れ流しである。
     そうなると、日本政府は予算がねん出できず、「国家総動員令」で、人と物は国費でなく、ほぼ無料でつかう。戦争の長期化で、様々な統制が強化される。物資は配給制にする・鉄・金属は供出させる。
     こうして日中戦争のしわ寄せが、国民の生活を苦しめる。国内では物資不足で、闇(やみ)取引を常態化させた。市民の法秩序が狂いだし、「政府批判や戦争反対の発言を聞いたら、すぐに報告するように」と政府が住民同士の密告を奨励する。日々の苦しい生活に、ちょっと不満をもらすと、憲兵や特高警察に告発されてしまう社会に陥ったのだ。

    「近代史」戦後の日本人は、政府の都合の良いプロパガンダにのせられている

     戦前および戦後を通して、日本人がとかく政府のつごよいプロパガンダに乗せられているのはなぜだろうか。近現代史に無知で、政治・経済において無菌状態だからである。

     学校で小・中学でならう歴史は古代から明治時代まで。大正時代、昭和時代、太平洋戦争・戦後の世界はまったくもって教わっていない。
      私たち大人は、おおむね20世紀に生まれている。太平洋戦争の政治・経済・軍事などは、祖父母、あるいは両親から断片的に聞いている。

     ポツダム宣言、日本国憲法、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約ということばは知っている。ただ、学校の歴史として習っていない。
     政府のいうから概(おおむ)ね、正しいのだろう、と信じ込んでくれる国民性だ。為政者には、これがとても都合がよく、プロパガンダで利用しやすいのです。

    「ポツダム宣言は13カ条の条件付き降伏である」にもかかわらず、戦後の政府は「ポツダム宣言は無条件降伏だった」と信じ込ませてきた。

    「憲法はOHQの押し付けだ」というと、そうかな、と思ってしまう。


    「天皇制を残したのはマッカーサー元帥だ」という。マッカーサーと天皇にツーショット写真から、そうかな、と思う。
     終戦後の日本の内閣は瓦解(がかい)したけれども、曲りなりにも内閣総理大臣が選出された。その苦労は並大抵ではない。国民は飢え死に寸前である。住まいは廃墟で建物がない。この復興にたいする政府予算はない。中国大陸や東南アジアから大勢の復員兵を受け入れる、と同時に、失業者の群れだ。
     それに対応するには、急激に政治システム・社会システムの変革がともなった。そこで考えたのが、「マッカーサーの命令だ」という金科玉条のプロパガンダである。

                 ☆
     
     天皇ヒロヒトは第二次世界大戦の主役である。米軍の元帥の立場で、国体(天皇制)を残すなどと、決められるはずがない。アメリカ政府である。ところが、日本政府は、水戸黄門の印籠よろしく、「天皇を存続させたのはマッカーサーの絶大なる権力なり」と日本政府は演出したのである。アメリカには国王がいない。
     1945(昭和20年)年8月30日にマッカーサー連合国軍最高司令官が厚木にやってきた。9月17日頃に東京に行くまで、横浜市の山手にいた。それから10日のちに9月27日の昭和天皇と面談した。
     
     そんな短時間に独断で、天皇ヒロヒトの地位と身分は決められるはずがない。軍人の元帥一人の思惑でなく、米国政府の判断である。

     アメリカ政府が終戦前から、トルーマン内閣で7000万人の日本統治を考え抜いていた。天皇を残す。この裏には、ドイツ・ポツダムで、イギリスのチャーチル首相が絡んでいる。

     イギリス王室は「君臨すれども統治せず」である。日本の皇室は存在するものの政治権力は持っていない。戦争責任は日本政府(the Government of Japan)にして、その上に君臨する天皇・宮様は処分の対象にならず。よって、昭和天皇のみならず、皇室の宮家は軍人階級トップにいたが、だれひとり戦争責任を問われていない。
     イギリス流の発想である。

                    ☆

    「マッカーサーの命令だった」と現代までも、その神話が脈々と生きているのだ。

     明治以降の政治家は、隠す。ごまかす。政府の都合のよいプロパガンダで国民を戦争国家に導いてきた。「日本は神の国だ。神風が吹く。いちども負けたことはない」と。あらゆる儀式、場面で、玉砕するときも、「天皇陛下バンザイ」である。
     挙句の果てに、太平洋戦争で、日本列島の都市部は焼け野原になり廃墟になった。たいせつな人命も、財産も失った。
     
     その昭和天皇が昭和二十一年の元旦に、神聖にして犯すべからず、という立場から降りてきて、「人間宣言」された。
     そうなると「マッカーサー神話である」。マッカーサーは神の声である。絶対の権限を持っている、と国民を信じ込ませた。

     あらゆる政府の決め事が、マッカーサーの鶴の一声で決まったような演出である。日本人は、この世で、一番強いものだと思い込んでいた。

     アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、1951年4月11日ニダグラス極東軍司令官の職から解任しました。
     朝鮮戦争(1950-1953)の最中、トルーマン大統領は限定戦争の方針だった。ところがマッカーサーが中国本土への爆撃や台湾の国民党軍との連携を提案してきた。トルーマンはシビリアン・コントロール(文民統制)で、マッカーサーを解任させたのだ。

     これには日本人のすべてがおどろいた。
    「トルーマンが最高司令長官を解任する権限を持っていた」
    「いかなる軍人でも、民間選出の大統領の命令には逆らえない」

     戦前・戦中において日本の軍部の政治介入が強かった。このマッカーサーの解任によって、「国民が選んだ政府が、軍人よりも上にいる」と学んだ点は大きかった。
    「マッカーサーの絶対・君臨」がほころびる。すると、かっての天皇の絶対的君臨の存在から、象徴天皇へと国民の意識が変わっていった。

    あえて明治・大正・昭和の戦争を回顧する。「これが人間のすることか」

    「もしも、戦争がなかったら、人間は幸せになれるのか」と自分に質問を向けてみると、反ってきたことばは「幸せとはなにか」という返ってきた。
     幸福とはなんだろう。わからないな。概念の用語だから、人それぞれである。
     
     日清戦争で、大陸で戦う日本兵士が戦場を駆けまわり、喉がカラカラに渇けば、差し出された「いっぱいの水」に至福の瞬間を感じるだろう。飲み干した時には、これぞ最高の幸せだろう。日本の河川は真水でも飲めるが、大陸の衛生管理は悪いし、糞尿が川や飲料水に混ざっている。細菌だらけた。幸せに感じた水が死の飲料水だ。

    「水が美味しい」し、日本兵には警戒心がない。
     勇敢に戦う衛生状況が悪い。水が悪い。衛生管理が悪い。赤痢・コレラ、腸チフスなどの伝染病を発症し、兵士から兵士へと感染した。そして、日本陸軍の内にまん延した。、
    戦死者よりも、病死がほとんどだった

     その兵士が敗戦とともに、わが家に帰り、歳月が経てば、ふだん日常生活のなかで、いっぱいの水道水がありがたい、と感じているないだろう。いちいち感動していたら、この世で生きていけない。

     最近は明治維新から太平洋戦争の終結まで、近代史に取り組んでいる。悲惨な記録写真をみる機会が多い。眼をそむけたくなるが、あえて自分を鼓舞し、「これが人間のやることか」と思いながら、直視している。

     日中戦争で観れば、日本軍の上海空爆で、悲惨な人体が飛び散っている。子どもが焼けたまま、放置されている。南京大虐殺では、動画で、中国の複数の民間人(兵士かも)が両手を挙げている。国際条約では捕虜の虐待は許されないにもかかわらず、縛って、「撃て」と日本の将校が声をかける。かれらを背後から銃殺する。
     さらに厳しい映像がある。穴の中に縛られた婦人が生きているのに、実際に目を開けて動いている。口を開けて叫んでいる。それを日本兵がスコップで土を次々とかけている。
    「これが人間のやることか」と私は叫んでしまう。

     これら犠牲者は四万人とも、中国側は30万人ともいわれている。人の命は数ではない。人間の一生は一回だ。

     関東大震災で、遺体が焼け焦げている。自然災害でも、そんな情景を見ると、「神々がやることか、こんな無残なことを」と叫びたくもなる。
     
     

     

    太平洋戦争はほんとうに負けてよかったな

     新たらしいコーナーをつくりました。時事問題や、人生観、歴史観などを綴っていきます。一回目はなにを書こうかな。きょうはトランプ大統領の就任だ。

      映像を観れば、韓国の現職の大統領が逮捕されたあと、賛否に分かれた抗議の人とか、官憲とか、それぞれがすごいエネルギーで争っている。
     かれらは明治時代のころから太平洋戦争まで被植民地を経験し、日本の敗戦のあと平和とはならず、おなじ民族が南北に分かれてし烈な戦争をしてきた。その分断がいまなおつづく。
     映像でみると、一人ひとりが歴史上に生きているな、という感じだ。かれらは地位や立場にかかわらず、自分で考え、発信し、そして自身の意志ではげしく行動している。

     この点では、為政者や組織のトップに従順な日本人と本質がちがうな、とおもう。

     近現代史の歴史小説を書いていると、日本人の本質を身近に感じる。申すまでもなく、明治から太平洋戦争まで、戦火の中で兵士らは個性を殺し、将兵から二等兵まで、一丸となって敵陣に突っ込んで死ぬ。それが玉砕といい、当然なのだ。「ドイツ人は敵の殺し方を教える、日本人は死に方を教える」。ここにも民族性が出ていたようだ。

     下士官から「上官命令は天皇の命令だ」「これらの捕虜を殺せ」と命じられたら、「国際法違反じゃないの」と知っていても、己は銃の引き金を引く。

     資料を見るかぎり、戦地の兵士らはつねに没個性で行動している。戦争でなくても、日本人はとかく画一的 同質的、類型的な体質である。
     日本は単一民族だし、日本人の本質は何だろう。このごろ外国人の日本居留は多いけれど、この際はそれを省いての話しである。
     
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     いまの韓国、および北朝鮮を報道でみていると、戦前の日本の思想・文化・価値観の陰をいくらか感じるも、本質は違うなと思う。かれらの資質は大陸民族である。
     ここで日本人を見てみよう。細長い日本列島で、7000の島があり、縄文時代から1万6000年間の「日本文明」をもって現代におよぶ。日本人とはおおむね紋切り型 没個性、同一行動をとる。

     世界の国々の社会科教科書において、世界八大文明のひとつとして「日本文明」が記載されている。その特徴は現代の日本人の特質、特性にかなり似通っている。いくつか列記してみると、

    ① 日本の縄文土器は世界最古級の土器文化をもっていた。縄目模様のうつくしい装飾が施されている。実用性だけでなく、芸術性や精神的な意義をもつものであった」

    ② 伊豆諸島や小笠原諸島と本州との間でも交易がおこなわれていた。縄文時代の航海術はたんなる移動手段ではなく、文化の発展と交流の基盤であった。

    ③ ヒスイ、琥珀などを素材にした装飾品が多くみつかっている。とくにヒスイ製の勾玉(まがたま)は、交易を通じて広範囲に広まっていた。独自の高度な技術と知識をもっていた。

    ④ 植物の繊維をつかった織物が作られており、布を染める技術ももっていた。

    ⑤ 地面を掘り下げた竪穴住居が一般的で、断熱効果があり、夏は涼しく冬は暖かい構造である。

    ⑥ 弓矢、罠や網、魚釣りの漁労がおこわれ、それら獲物を燻製(くんせい)にしたり、干物にしたり、保存・加工技術も工夫も高度であった。さらに、植物は加工し、毒抜きして保存食にしていた。

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     人間の脳みそは一万年前と現代とさして違わない。考古学がもっと進歩すれば、微分・積分をつかった建造物や土木なども発見される可能性がある。
     ここで考えられるのは、なぜ、災害列島で1万6000年間も一つ民族が滅亡せず生きつづけてきたのだろうか、という素朴な疑問である。くる年も、くる年も、春・夏・秋・冬といずれも大災害がひんぱんに起こる。人間ならば、きっと部族間の激しい戦いもあったであろう。それなのに、日本人という単一民族が廃れていない。世界でも最長の民族である。

     青森県三内丸山遺跡では、巨大な柱を使用した建物跡が発見されている。共同の儀式や集会に使われていたらしい。そこにヒントを見いだせる。「災害時には集団で助け合う。平素からその心構えでいる」。村社会で共同で暮らすからには、画一的 同質的、一律的な没個性で共同の行動をする。その統一精神と叡智が必要である。滅亡しなかった知恵は同一性だろう。
     
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     ところが、いまから80年前の太平洋戦争で「一億総玉砕」と日本民族の滅亡を戦争に利用しようとした軍人の総理大臣がいた。かれが悪いのではない。幼いころから「皇国史観」に染まっていたからだ。
     日本人ならば、全員が一つ枕で死ねると本気で考えていたのだ。戦争が起きても、海外逃亡した日本人は聞かない。
     
     ところで、現代でも日本の社会科教育で、「世界八大文明」の呼称をおしえない。いまだに陳腐な世界四大文明だ。それというのも、皇国史観で、創造神・イザナギとイザナミが国を生み、初代天皇・神武天皇が即位したという。この史観と整合性が取れないからだろう。
     というのも、皇紀元年を西暦にすれば紀元前660年である。ここから万世一系で日本の歴史が歩まれてきた、と岩倉具視あたりが言いだした。それが明治のプロパガンダ「天皇は神聖にして犯すべからず」で、国家統制につかわれた。

     1万6000年間のうち、天皇支配はわずか2700年じゃないか。そこは教えない。

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     皇国史観の下で、日清・日露戦争から、第一次世界大戦、シベリア出兵とつづく。むろん、大本営の軍人は死なない。死ぬのは戦場の兵卒だ。
     2・26事件は昭和維新を掲げたクーデターである。1500人の兵卒はほとんどが農民の徴兵だ。陸士出の上官が、官邸に突入し、首相や元大臣を殺せといわれたら、兵卒は従順に暗殺する。「こんなことはやってはいけないよ」と一人も口にしない。命令に従うのみだ。

     軍人政治は、なんでも軍事が最優先だと思っている。おおむねギリギリのところで国民の生命や安全など考えていない。

     2・26事件のあと泥沼の日中戦争・太平洋戦争へとつづく。1941年7月、アメリカが日本の東南アジアへの侵攻で、石油の輸出を停止した。日本の軍人はさあ大変だ。これでアメリカが攻めてきたらどうする。当時は、石油備蓄量で世界最大とも言われていた日本だ。まだ、1年半はあるぞ。それを使って日本のために、国家・国民のために何をするべきか。そんな思慮は働かなかった。海軍軍人として勇ましさを見せてやる。
    「最初の半年から一年は暴れられるが、それ以上は保証できない」。じゃあ、その先はどうするの。自分の尻ぬぐいもできない、戦争のやめ方も知らずして、戦争などやるなよな。それだけの石油があれば、国民生活にまわして3年も持たせれば、その間の米英蘭との外交交渉で石油解禁も得られただろうに。上から下まで、これが言えないのが日本人の特性だ。

     真珠湾攻撃は戦術的には成功したものの、戦略的にはアメリカを徹底的に怒らせる結果となった。暗号は解読されており、本人が乗った飛行機は撃ち落されてしまう。外交文書も軍事司令も敵に筒抜けだから、巨大な軍艦や空母は撃沈されるし、飛行機は追撃される。制海権・制空権は奪われて、B29は思うまま、東京・大阪・名古屋・神戸に焼夷弾を落とす。「まだ降伏しないの」とビラを撒いて、13都市の爆撃を予告する。そして日々に、焼夷弾で毎日何万人と焼死する。

     それでも軍人政治家は戦争のやめ方がわからないらしい。頼みの綱はソ連だけしかない。停戦の仲介を頼む。ソ連にはロシア革命で新しい国家ができたとき、シベリア出兵の日本兵士たちが、七年間にわたって残虐な殺戮をおこなったという怨みがある。(現っ代でもロシアの歴史教科書に載っている)。連合国との橋渡しの仲介などするはずがない。

     日本列島が焦土の焼け野原になっているのに、「国体を守る」と、そんな訳のわからないことを言う。このままでは1万6000年間の「日本文明」をもった日本民族が消滅する危機に及んでも。

     在モスクワの日本大使が、無理難題をつきつけてくる日本の外務省に、電報で、ひとりの国体(天皇)をまもり七千万の日本人を犠牲にするのか、と打電しているらしい。
     このままというべきか為すすべもなく、挙句の果てには外圧(原爆・空爆・ソ連参戦)で終止符を打つべきときに及んだ。
     昭和天皇はさすがに見かねたのだろう、日本民族の滅亡は避けたい、ポツダム宣言を受理して戦争は終わらせたい、と最後の決断を下したのだ。

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     私には小学二、三年のころから島っ子として記憶が残っている。通学のさなかに原爆の話、GHQのマッカーサー元帥の話題が多かった。そのなかでも強く心に残っているのは、友人に「太平洋戦争は負けてよかったんだよ」と語っていた幼い自分の姿だ。
    「二等兵で入隊したら、毎日、ビンタ(平手打ち)だって。軍人にはなりたくないものな。日本が負けてくれてよかった」
     私は二等兵、一等兵の立場でいつも自分を見ていた。これはいまでも変わっていない。
     

      注)世界四大文明は、紀元前3000年から紀元前2000年にかけて生まれたメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の4つの文明を「世界四大文明」としている。日本の考古学者、江上波夫が携わった1952年発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされている。戦後から7年目で、まだまだ皇国史観の歴史が色濃く残っていたころである。
     ちなみに、欧米やアジアでも、世界四大文明は通じないらしい。

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