フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

【歴史から学ぶ】 恐怖の天然痘とワクチン=幕末期の日本人たち(中)

 老中首座(内閣総理大臣)の阿部正弘といえば、嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に来航し、翌年には日米和親条約など5か国と開国条約を結び、開国、通商への道筋をつくった。大半の認識がこのように政治史としてみるのが一般的である。

 疫病は恐怖であり、国家・政治を変える大きな出来事にもかかわらず、歴史は後世からみるので、政治的な要素に偏り、疫病史の存在は薄くなり、片隅に追いやられてしまう。

 幕藩体制の下、260藩はそれぞれ別の支配である。日本全土を統一した防疫システムなどまったくなかったようだ。
 約5割の乳児が喉に天然痘の水泡が広がり、母親から哺乳できずに死亡した。治療薬はないし、祈祷頼みである。産まれるそばから、葬式である。ゼロ歳から3歳まで無病は至難の業だった。
 生き残った子も顔面に痘痕(あばた)で婚姻の条件が悪く、失明すれば将来は按摩の道にかぎられてくる。
 天然痘など感染症は、親も巻き込まれた一家全滅も珍しくなく、村社会の崩壊もあった。それゆえに、天保時代まで日本人の人口が伸びない理由の一つに、疫病のまん延があった。
 
 阿部正弘が満25歳から老中首座になった弘化2年から、安政4年に享年39歳で亡くなるまで、約14年は戦争はなかった。しかし、東海大地震、安政江戸大地震、江戸大火災、さらにコレラ・天然痘・腸チフス、赤痢など感染病の大流行に遭遇している。
 こうした背景の下で、阿部正弘が政治のトップとして天然痘ウイルスの種痘にも取り組んでいる事例がある。2つの事象を挙げてみたい。
 

 文政11(1828)年のシーボルト事件から、漢方医(東洋医学)の勢力が強大で、奥医師(将軍の侍医)を独占し、幕府の医療行政に強い影響力を与えていた。漢方医の政治工作は水野忠邦、阿部正弘へと続いていた。
 漢方医は嘉永2(1849)年、阿部正弘に「蘭書翻訳取締令」、「蘭方医禁止令」(外科と眼科など外部治療は除外)などをださせた。

           *
 
 福井藩の町医者・笠原良策が先立つこと、弘化3(1846)年に藩主の松平春嶽に、牛痘種の輸入を上伸していた。春嶽は却下した。
 嘉永元(1848)年に、笠原が2度目の上伸をおこなった。春嶽がそれをもって老中首座の阿部正弘に申し出たのである。

 阿部正弘とすれば、漢方医の医療行政への働きかけで「蘭方医禁止令」への圧力をかけられていた最中である。それを承知で、阿部は長崎奉行の大屋明啓(みつよし)に指図し、正式な長崎ルートで牛の種痘導入の許可を与えたのだ。
 
             *   

 嘉永元(1848)年、オランダ東インド陸軍軍医のモーニッケ(ドイツ・ボン大学医学部で学ぶ)が、依頼された牛の種痘をもって長崎の出島に来日した。長い100日間の航海で、失活(効力をなくす)していた。
 翌2(1849)年6月に、バタヴィア(現インドネシア)から、ふたたび牛痘苗が運ばれてきた。


「写真資料は、佐賀県立病院好生館蔵」
 
 モーニッケが鍋島藩の藩医・楢林宗建(そうけん)の3人の子どもたちに接種した。すると、三男・健三郎から美痘が生じた。
 このたった一人に成功した痘種から、長崎の子どもら381人の腕から腕へと伝播(でんぱ)されたのである。       
   
 この年に「蘭方医学禁止令」がだされた。ところが、長崎でたった一つの成功した牛痘からわずか半年で京都、大阪、福井、江戸と順番に広がっていった。全国の蘭方医が次々に接種の技術を学び、日々にたずさわり、子どもの腕に痘苗を植えつけていった。
 牛痘という新しい予防接種が日本に普及していった。

 その背景には阿部正弘の高所からみた政治判断と、長崎で学んだ蘭方医(オランダ医学者)たちのレベルが高かったことがある。
 モーニッケは、幕府が秘かに鼓舞し支援したにせよ、衛生上の義務をつくらなくても、日本人の親たちが「わが子に種痘を」と進んで種痘を植えつけさせた。だから、大成功したのだと記録している。

 明治10年に、米国人のエドワード・モース(大森貝塚の発見者)が、これに類似したことを記している。
『外国人の筆者で一人残らず一致することがある。日本は子供たちの天国で、この国の子どもたちは親切に扱われ、他国のいずれよりも、自由をもっている。日本人に深くしみ込んだ特性である』。子どものためならば、何をさておいてもやる民族らしい。

 福井藩の町医者・笠原良策が、結果として阿部を動かし、難儀な「雪の栃ノ木峠」を越え、痘苗を福井上下に持ち帰ってきた。そして、越前、金沢、富山へと伝播していく。いかなる子も助ける、日本人の一途な精神だろう。
 

  
 当時の蝦夷(現・北海道)は、幕府直轄領だった。阿部正弘は、箱館奉行の村垣範正(のりまさ)を任命した。
 1807年に、和人との海の交易で運ばれてきた天然痘が大流行したとき、アイヌ総人口の4割強が死亡している。その後も、アイヌの間に大規模な天然痘の流行がなんども発生した。そのたびにアイヌ人口は減少していった。

 安政2年から、ふたたび天然痘が流行しはじめた。奉行の村垣は、江戸の阿部正弘に種痘のできる医師の派遣を要請したのである。それを受けて、蘭医の桑田立斎(りゅうさい)と深瀬洋春らが蝦夷に派遣された。

 そして、国後島にまで至るまで、大規模かつ強制的な種痘が行われたのだ。
「牛の角が生えてくるぞ」とアイヌ人は山中に逃げ込んだという。かれらには恐怖を感じると、山に逃げるという習慣があった。
 現地の役人は、山狩りによって強制的にアイヌ人を連れもどし、接種を実施させたのだ。
 このとき、アイヌ人口の半数が種痘を受けたと伝わる。五千人とも六千人ともいわれている。

 これが世界初の、天然痘根絶のための強制・義務による予防接種(種痘施術)である。天然痘の流行は二年ほどでおさまり、多くのアイヌの命が救われたと記録されている。

 写真・イラスト=ネットより引用

【つづく】


【歴史エッセイ】井伊大老の歴史評価、善か、悪か。あなたはどう見る? ②

 歴史作家・司馬遼太郎は、「安政大獄」を起こした井伊直弼に対して、『支離滅裂で、狂気のように弾圧した』と述べている。まさに、傍若無人の悪者扱いである。
 勝海舟が、
「安政大獄となると大騒ぎするが、思想犯の処刑は8人だ。日本の歴史からみれば、この処刑人数は小さなできごとのうちだ」
 と言い放った。

 近代史のなかで、私たちが目を背けてはならないものに、明治44(1911)年の「大逆事件」がある。幸徳秋水らは明治天皇の暗殺を謀ったという理由で11人が処刑された。それは明治政府のでっち上げで、全員が無実だった。

 明治政府が幕末史を作った。

「桜田門外の変」のスケッチ。広島県・大崎上島の望月邸から出てきた。撮影=穂高健一

 井伊直弼は悪役のイメージが強調されてきた。と同時に、「桜田門外の変」の井伊大老暗殺が正当化されてきた。

 ひとの命は単純に比較できないが、「安政の大獄」は幕府の規定に反した処分だったが、明治政府の「大逆事件」は無実のひとを陥れる思想弾圧だった。明治政府の方がひどいと思える。司馬遼太郎は大正12(1923)年に生まれている。明治時代末期に起きた「大逆事件」はそんなに遠い事件でない。
「明治政府は近代化をおしすすめて、西洋列強と肩をならべる軍事大国にまでなった。日本人の優秀さがここにある」
 そんなふうに明治時代を礼賛する作家であるにしろ、井伊直弼が狂気のように弾圧したと決めつけるのはかなり公平感に欠けている、と言わざるを得ない。

            * 

 明治政府の長崎の「浦上四番崩れ」というキリスト教徒の大弾圧では、三千数百名が西日本の各地に流刑された。ほとんど、すべてにわたり拷問・私刑、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問する。
 過酷さと陰惨さ・残虐さが欧米諸国から激しく批判された。明治4年の岩倉具視たち欧米使節団は、行く先々の国で、民から石を投げられたほどだ。
「浦上四番崩れ」の死者の数は計り知れない。
 歴史は勝者が作る。これら宗教大弾圧はいまもって教科書の上から抹消されている。日本人の大半が知らない。
 安政の大獄の処刑・8人と比較しろとは言わないが、日本史教科書は極度に不公平である。
  
          * 
 
 世の中が変われば、歴史上の人物も見直されて再評価される。開国と通商を推し進めた歴史上の功績がある井伊大老を暗殺することが、正当化されて良いのか。通商の反対派の「攘夷」なる主張は、いまや笑止な愚論ではないのか、という薩長批判が出てきたのだ。
 水戸浪士の集団テロ活動が正当化されなくなってきたのだ。

          *

 井伊大老の人生は苦労人そのものである。幕府のトップとして規律を重んじ、実直で、合理的で冷静な判断があればこそ、安政の大獄が起きたともいえる。
 井伊直弼は、文化12(1815)年に、第13代藩主の井伊直中が隠居後に、側室の子、十四男として生まれた。当人はここから彦根藩主になれるなど、思っていなかったようだ。花の咲くことのない身と考えていた。「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅で、17歳から32歳までの15年間にわたって300俵の部屋住みとして過ごしている。
 柳の木をみずからの生き方としている。
 井伊直弼は長野主膳から国学を学んだ。とくに熱心に茶道(石州流)を学んでいる。ほかにも、みずから台本を作るほど能や狂言にうちこんでいる。和歌、鼓、禅、兵学、居合術を学ぶなど文武にたけていた。


 31歳の直弼は、弘化3(1846)年に、第14代藩主の井伊直亮の養子という形で、彦根藩の江戸に召喚された。そして、直亮の彦根藩の後継者に決定する。
 直弼はまだ世子で、藩政を補佐する身分になった。ちなみに4歳年下になる、27歳の阿部正弘はすでに老中首座(内閣総理大臣)となって、内憂外患の国難を取り仕切っていた。
 嘉永3年(1850年)11月21日、藩主・直亮の死去で家督を継いだ。ペリー来航の3年前である。藩政改革に取り組んだ。このときから長野主膳(安政の大獄を京都で推し進める)を幕政に関与させている。
 井伊直弼は藩主になると、藩政改革を推し進めた。3年の在任中に、9回も領内の巡視を行っている。善行者たちを表彰し、貧しいものには救済や金を与えるなど、領民から慕われていた。

 安政の大獄で処刑された吉田松陰が、国元にあてた手紙で、『井伊直弼は名君だ』と高く評価している。皮肉といえば、皮肉である。
 松陰は萩から江戸に証人尋問のために送られてきて、幕吏から問われもしないのに、老中暗殺計画を得意げに語り、結果として刑死したのだ。
                         【つづく】
                    

                     

福島・楢葉町で、古書店を開業。えっ、お客さんはいるの?= 岡田悠さん

 2011年3.11のフクシマ第一原発事故のとき、福島県・楢葉町には全域避難指示がだされた。避難した全町民の苦労は、並大抵のものではなかった。
 東電関係者による放射能除染がすすんだ。やがて、人体に影響が少ない安全値まで下がったと言い、昨年(2015)9月、同町の住民には全域避難指示の解除がだされた。

 約4年半も町から避難している住人にとって、かんたんには帰還できない諸事情がある。ことし(2016年)3月現在、町民の6%(約420人)しか帰還していない。

『この町は、どのように再生されていくのか』
 3月27日(日)に、街なかを取材した。住宅のほとんどは窓の内側のカーテンを閉ざしている。地震による屋根瓦の傷みの補修がやたら目立つ。門を閉ざした無人の家屋がとにかく目につく。

 国道6号には、フクシマ第一原発の工事トラックがひんぱんに行きかう。
 そこからやや奥まったところに、2本の『営業中』の赤い幟(のぼり)が立つ。家屋の玄関先の「100円マンガ」という表示からして古本屋だ。
「町民の6%の帰還者なのに、商売になるのかな」
 それが率直な印象だった。
 古書店主は岡田悠(ゆたか・37歳)さんである。店内は7畳ほどで、漫画本を中心に約3000冊がならぶ。実にこじんまりした店内だ。

「私はいわき市・四ッ倉で、父親とともに古本屋をやっていました。古書店歴は13年です」
 祖父の兄、父、私と3代続いて古本屋を営んでいるという。

 悠さんから、まず経歴を聞かせてもらった。地元高校を卒業したかれは、専門学校、その後は4年間ほどフリーターとして各種仕事に就いた。
 24歳の時に、いわき市・四ッ倉で父親が営む古本屋に入った。
「自分の食い扶持は自分でさがせ。それが父親の口癖でした。古本に対する商売の目利きは、同業の方から数多くを学びました」
 13年間は神田古本市場に仕入れで通う。そこで、商売に必要な専門的な知識、知恵などを学んだ。「郷土史は大切にしなさい」。それはいまでも強く意識しているという。
 たしかに、店内には郷土史の本が多い。

 岡田さんが、楢葉町に移りすむ動機はなんですか。
「私の兄は、楢葉に新築して、わずか3か月で3.11大震災に遭いました。その後は郡山に住んでいます。その兄から『代わりに自分の家に住まないか』と持ちかけられたのです」
 家屋の傷みはあるが、リフォームすれば、十二分に住める。となりは4年半ほど前に亡くなった祖母・一子(かずこ)さんの実家だった。かつては駄菓子屋を営んでいた。

「この駄菓子店を改装し、古本屋を開くことに決めました」
 それには古本を仕入れなければならない。東京の古書店を巡り、おもに漫画本を仕入れてきた。そのなかには、約60年前の「少年ブック」など貴重な少年誌もある。そして、昨年9月28日に店をオーブンさせた。

「最初の1週間は、ひとりのお客さんもきませんでした」
 まあ、そうでしょうね。最初のお客さんはだれですか。
「骨董品の商人です。古物の買い出しに来て、ちょっと立ち寄ったていどです」
 それから、またしても客のこない閑散とした日々となった。

 福島民報の新聞記者が、町の取材ちゅうに立ち寄った。(社会部らしい)。
「文化部の記者をよこさせるよ」
 と約束してくれた。
 10月20日。新人ぽい記者がきて、取材し、紙面でおおきく報道してくれた。それがきっかけとなり、他社のメディアが訪ねてきて報道してくれた。
 これまでにTVは3局、新聞は5-6社が来ているようだ。
「テレビを観たと言い、会津あたりから数人きてくれました。ラジオを聞いて、隣町の広野町からも親子できてくれました」
 それだけでは商売にならないでしょう。
「幟が前々から気になっていたから、寄ってみたと、作業員がマンガ本を買ってくれました」

 高速道路寄りと天神岬には、除染関係者の宿泊用の仮設プレハブ住宅が、建ち並ぶ。約1100人がいるらしい。それら作業員が時々、100円漫画を買いに来てくれる。
「南相馬市の小高からも、月に1~2度は年代物の少年漫画を買いにきてくれます」
 お客は1日3人ていど。これだけでは生活できないので、岡田さんは、古本イベント会場に出店したりネット古本市にも出店したりしている、と教えてくれた。

 一般論として、町で商売するには、約3000人ほどの人口がなければ成立しないと言われている。国・県・町の行政だのみ、東電だのみで、人口のお膳立てができてから帰還するか。多少なりとも、人口回復の見通しがあれば、踏み込むか。岡田さんのように、開拓精神で帰還するか。

 地方都市の過疎化対策とはちがい、底流には原発問題がある。それだけに、住民はそれぞれ複雑な心境の判断が強いられるはずだ。
 外部の者があれこれいうと、その多くは実態知らずで、とかく現実とはかい離しているものだ。
 しかしながら、約3000冊の古書を買い込み、店頭に幟2本を立てて、まずは営業を開始したという、37歳男性の勇気ある決断と行動はだれもが賞賛できるだろう。
 

フクシマ・楢葉町の人口は6%=5年放浪は心労の極み

 フクシマ原発事故の関連取材は、約10回くらい行っている。ここ3年間は棚上げだった。その理由としては、浜通り取材のさなかに、福島・浜通り(現在の原発通り)で、戊辰戦争の激しい戦いがあったと知った。幕末歴史小説「二十歳の炎」(広島藩を知らずして幕末史を語るなかれ)として執筆し、出版した。
 その直後には、祝「山の日」が国会で成立し、その関連で、山岳歴史小説「燃える山脈」の取材・執筆へと注力してきた。昨年10/1から今年(2016)5/31まで、松本市「市民タイムス」に新聞連載(計240回・毎日)し、6月には単行本の出版を予定している。


 それら執筆の区切りがついたので、あらためてフクシマ第一原発関連の取材再開である。3月27日に福島県・楢葉町に入った。
 楢葉町は放射能の除染がすすみ、2011年3月11日の東日本震災から数えて、1638日経った昨年(2015)年9月5日に、4年6ヶ月ぶりに避難指示が解除されている。大震災の前年の人口は、7701人だった。
「帰還者は全人口の6%です」
 最初の訪問者・會子さん(60代)が語ってくれた。
 彼女と落合った場所は、楢葉町の海岸の天神岬である。眼下には木戸川と広野火力発電所が見える。
「よく助かりましたね。奇跡ですね」
 大地震が発生した瞬間、彼女は防潮堤の上に散策でいたという。彼女のケータイ電話がビー・ビー・鳴り出した。

 
 帰宅率は6%でも、被災地を訪ねる若者もいる。
 

 その実、彼女はアンチ・ケータイ派だった。実娘の薬剤師がその前年に、「ケータイはゼロ円だから、持ちなさいよ」と勧めてくれていた。「いらない。必要ない」と拒絶していた。

 とうとう娘さんが買って押し付けた。ストライプには購入日として2011年2月05日が書かれていた。ケータイは使いこなせていない。なにしろ大震災の日まで、1か月余りしか経っていないのだから。
「ビー・ビーとしか覚えていないのです。堤防の上だと、津波がきて危険だと思い、走って、走って、平たん地の田んぼ道を逃げました。高台のわが家にむかいました。途中で、軽トラックのお百姓さんに乗せて、と言っても、方向がちがう、と拒否されました。また、走りはじめました」
 會子さんは、きっと慣れないケータイに『大津波警報の発令』を目にしていたのだろう。

 高台の家に着いたら、夫や近所の人がみんなして海を見ていた。沖合から白い横線が一本貴紙に向かってきた。堤防の上で跳ね上がり、鮭の遡上で有名な木戸川にのぼってきた。それが大津波だった。


 會子さんが防波堤を指す。10.5㍍の大津波が堤防を越え、民家を奪い去った。いまは単なる荒れ地にしかみえない。


 母と娘して、もう一つの奇跡があった。

 娘さんは薬剤師で、いわき市内の総合病院に勤務している。薬剤師も交代の夜間勤務が月に1、2度ある。2011年3月11日、娘さんは夕方5時からの夜勤シフトだった。早め自宅を出た。駅まで母親も一緒だった。
 午後2時過ぎに木戸駅から、いわき行の列車に乗った。
 
 木戸駅で娘さんを見送った會子さんは、郵便局に立ち寄り、天神岬の堤防まで散策に向かったのだ。

 片や、娘さんの乗った列車は途中の久ノ浜駅から、低地の海岸線を走る。2時46分の大地震発生は、トンネルの手前だった。列車は突然止まった。
 乗客全員が危険だと言い、逃げ出した。やがて大津波が列車の車体を襲った。乗客は高台に避難した直後だった。間一髪で、娘さんは助かった。

 しかし、久ノ浜の港は津波による瓦礫で、大火災が発生した。娘さんは火焔の恐怖におびえた。


 母と娘は、大津波から奇跡的に助かった。しかし、それだけで安堵とならなかった。つぎなるは「福島第一原発」の惨事に巻き込まれていくのだ。
 翌3月12日の早朝、町の有線放送で、「原発が危ない」と避難の呼びかけがあった。第一原発とは反対の方角に避難するように、と指図があった。

「東電は安全だと言っていました。私は東電第2原発(ホール)で、生け花教室や催し物などに参加していました。そのあと、構内バスの巡回で発電所見学がありました。有名な学者や技術者がきて、原子炉は冷却しているので、安全です、と強調されていました」

 安全神話を疑わなかった。
「どうせ、すぐ帰って来れるんだから」
 本気になれなかったという。
 犬は通常通り、鎖に縛り、猫は室内に入れてから、彼女は夫と車で、いわき市にむかった。道路は大渋滞だった。

 いわき市第六小学校の体育館に一時避難した。食糧はない。トイレの水もない。なにかにつけて長い行列ができている。
「90歳代のお年寄りを連れているので、それは実に大変でした」
 一時避難所から、放射能で、自宅に帰れず。なにも持ち出していないので、金品がなく、惨めだった。それから5年間は流浪の身となった。白河、東京、いわき、昨年の12月になって楢葉町に帰ってきた。
「この間に、心労が重なり、体調は悪くなりました」
 彼女は体調不良をくわしく語ってくれた。


 私は3年前、飯館村菅野村長に、単独取材を思い出した。「岩手・宮城は物理的な破壊だけれど、フクシマはそれプラス精神的な破壊です」と強調されていた。
 そこから、私のフクシマのテーマは「物理破壊+精神破壊」だと考えている。
 ゲンパツ事故では金銭的な補てんはあった。(津波で漁船や家屋を流されると、生活保障はしない)。多くの人は仮設住宅を刑務所に例える。明日の生活が見えず、悶々として、虚脱、虚無が支された日々だった。しだいに精神を痛める。傷ついた精神や心は復元力を失っていくようだ。

 
 これは過去の福島の取材による知識だった。明るい性格の會子さんすらも、体調不良を訴える。原発事故は、明日が見えない不安に苛まされたようだ。
 天神岬から、會子さんの自宅を訪ねた。ご主人がいた。荒れ放題だった庭木を手入れして、四肢を痛めていた。

「町が留守の間に、イノシシが多くなってね。飼い犬を狙うのです。かみ殺して、犬の内臓を食べるし。味をおぼえたので、次々に狙ってくるのです」
 ご主人が、散歩で犬を連れて歩いていると、道の左右にイノシシの気配を感じるという。

文学サロン・講演「チェルノブイリの祈りとノーベル文学賞」=川村湊

 2月22日(月)に、日本文藝家協会で、文学サロンが開催された。18~19時半。講演タイトルは「チェルノブイリの祈りとノーベル文学賞」で、講師は文芸評論家の第一人者・川村湊さん(法政大学国際文化学部教授)である。

 川村さんなりの、ノーベル文学賞の選考にたいする推論が興味ぶかかった。文学賞の場合は受賞者はひとりである。化学、医学のように複数(3人)はない。生存者にかぎられている。

 同一の国が連続して受賞しない。過去から解析すれば、最短でも5年以上である。日本では川端康成さんと大江健三郎さんの間が24年間である。村上春樹さんはメディアが騒ぐように、ほんとうにノーベル文学賞候補になっているか、どうかも、不明瞭だと述べる。

 ノーベル賞の選考過程は50年後に開示されるルールらしい。これまでなぜ春樹さんが選考から外れたのか、我われはおよそ知ることができないだろう。
 
 
 川村さんは独自の解析で、英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、ポルトガル語圏など、言語による持ちまわりの可能性が高いと述べる。
 日本・韓国・中国は漢字の同一言語と見られているならば、次なるは韓国ではなかろうか、と川村さんは予測する。


 昨年度のノーベル文学賞は、スベトラーナ・アレクシェービッチさんである。『チェルノブイリの祈り』はノンフィクションで、すべて聞き書きである。作者の意見は加わっていない。
 ジャーナリストに文学書を与えられたのは例外的でめずらしい。作品の内容から判断すれば、妥当である、と川村さんは語る。


 フクシマ原発に対して、日本の文学者はなにをなすべきか。いかなる作品が生みだせるか。現実の福島原発事故は、チェルノブイリよりもひどい状況にある。

 IAEの御用学者たちは、「フクシマはたいした被害でない」とひた隠しに隠す。山間部を含めて満足な除染などできていないのに、住民を帰宅させる。補助金を打ち切る政策を打ち出す。
 子どもの甲状腺や心臓の欠陥が増えているのに、別の要因だと言い、真実を隠すことに躍起になっている。発表する数値はいい加減である。

 日本の文学者は作品を通して、公式のデータをくつがえしていく必要がある。アレクシェービッチさんを越えられるのか。否、越えなければならない、と川村さんは強調した。


 加賀乙彦さんが手をあげて、一言発言をした。

「原爆と原発の核利用は『悪』である。過去にはおおきな被害をだしておきながらも、おなじことをやろうとしている。『悪』にたいする反省を追及するのが、文学の正道である」

 文学の方向性を示してから、
「原民喜(はら たみき)のように、広島・原爆の苦しみで、表現が尽きるほどに昇華していく作品を、日本人は書いてもらいたい。脱原発の文学はそこまで求められる」
 と加賀さんは熱っぽい口調で話した。

 東大医学部卒の医者で作家の加賀さんだけに、人間が開発した核が人体へつよく悪影響を与えていると、心底から訴えている姿があった。


 二次会は近くの居酒屋だった。15人ほどが参加した。
 「谷崎潤一郎、阿部公房が存命だったら、ノーベル文学賞を受賞しただろう」と川村さんは、話されていた。途中から、わたしは川村さんと隣り合ったので、
「イタリア、アルゼンチン、ロシアの作品を紹介されていましたが、私は外国人の名まえが苦手で、読むさなかに頭は混乱するし、一晩経ったら、男か女か、誰だかわからなくなってしまう」
 と話題をさしむけると、文芸評論家の川村さんにも、外国文学に同様な苦労があるらしく、盛りあがった。

私たちの歴史は平和として描かれるのか(上)=平和は瀬戸物なり

 歴史作家は歴史年表で書く。それはかならずしも史実ではない、と私は気づいた。

 数年前の国政選挙では、脱原発か、2~3%の経済成長か、と二つの政権が争った。国民は2~3%の成長を選んだうえ、憲法改正ができる3分の2の議席という大きな政権力を与えた。
『経済(食べること)が、政治を動かす』
 それは如実な証明だった。しかし、後世の歴史年表にはまず記されないだろう。

 戦後の平和社会に生きる私たちは、50年後、100年後の歴史小説にどのように描かれるのだろうか。
 1945年から戦争孤児、満州引揚げ、安保騒動、公害の空気汚染、イタイタイ病・水俣病、浅間山荘事件、内ゲバ事件、地下鉄サリン事件、秋葉原無差別殺人、3・11東日本大地震、フクシマ原発事故とつづいた。
『とてつもなく危険な時代に生きていた』
 と書かれても、葛飾・立石にすむ平和社会の私は、これらの事件・事故とほとんど無関係だった。

 動乱の幕末をみると、寺田屋事件、池田屋事件、禁門の変、第一次、第二次長州征伐、薩長同盟(実際には成立していない)は、倒幕活動へと結び付ける。そんな幕末小説がほとんどだ。
 当時の葛飾の民は、京都・長崎・江戸の斬り合いなど、地下鉄サリン事件とおなじ。人々の話題にはなるが、庶民生活には関わりがない。

 江戸時代は『家』社会である。個人の考えは後回し。女は子どもを産み、男が「家風」に見合った教育をする。『お家のために』『お家の存続』がすべてに優先する。

 家臣は扶持をもらう「島津家のため」「毛利家のため」に尽くすとなる。それなのに、江戸時代を「藩」で見ていると、歴史の事実誤認を起こす。


 江戸城の松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野家は、改易(お家取りつぶし)となった。しかし、赤穂藩は健在である。支配者階級として長井家が入ったのだ。「お家」を変えただけなのだ。農商人の生活にはさして変化はない。
 それは民主党が自民党に変わったていどだ。

 第二次長州征伐で、将軍家の徳川家は長州藩を消す気持ちなど微塵もない。毛利家を叩きつぶす。それだけなのだ。毛利家を打ち負かしたら、長州藩の大名家はいずこかの「家」と入れ替えるのみ。

 毛利家の立場からみても、勝っても負けてもいない。現・山口県から火の粉を払ったにすぎない。
戦いの半ば、トップの家茂将軍が死去した。
「喪に服するから、各藩の軍隊はひとたび国もとに帰れ」
 と一方的に停戦しただけなのだ。慶喜はさらなる第三次攻撃を思慮していた。

えっ? 福島第一原発が写っていた=こんな近くまで入っていたんだ

 6月2日の夜に、福島・浪江町の郷土史家である末永福男さんから、「からだが幾分回復しましたから、高瀬川の古戦場に案内します。許可の都合上、日時を決めたいのですが」と電話が入ってきた。幕末歴史小説の協力者である。

 ことし4月上旬の撮影予定の前日になって、末永さんが体調不良から浪江に入れなかった。それには理由があった。

 さかのぼること2011年3月11日、末永さんは浪江町の奥まった山間の陶芸小屋にいて、第一原発事故から町民全避難を呼びかける有線放送が聞こえず、放射線量の最も高い数値が出たところ(山間は放射能が溜まりやすい)に4-5日も滞在していたのだ。

 自宅に帰るとだれもおらず、わずかな情報から、3月の雪深い二本松市内の体育館にたどり着いた。避難所で頭髪など四肢に放射能測定器をあてると、その針が振り切れたという。その後、夫婦して体調を崩されている、と昨年来の取材で知っていた。

「幕末歴史小説は4月が最終校了でしたから、独自に飯館村、南相馬を経由して、国道4号線の行けるところまで入ってきました。体調が悪い末永さんに、無理押しもできませんでしたから」
 それは古戦場を遠望するだけであった。謝意を表しながらも、単行本はもはや印刷所に入っていますと事情を説明した。

 秋口には末永さんを再訪する。放射能汚染と浪江町民のヒアリングに、ご協力をしてもらえませんか、と要望した。快諾してくれた。


 「海は憎まず」を世に出した後、私はフクシマに入った。「望郷」をテーマにして、戊辰戦争の戦死者と、帰郷できない原発難民を小説に書こう、と思い取材活動をはじめたのだ。
 出版社側と話した結果、「芸州藩からの幕末歴史小説」と「現代小説・フクシマ」(仮題)とは切り離すことになった。

 この段階で、私は現代小説のほうは9年かけて書こうと決めた。「誰がために鐘は鳴る」はスペイン内乱から9年後に出版された。「西部戦線異状なし」は第1次世界大戦から9年後だった。だから、私も「現代小説・フクシマ」は9年後までに出す。この間は腰を据えた取材活動に徹する……。

 歴史小説に没頭していたから、「穂高健一ワールド」(フクシマ取材ノート)にはなかなか手が回らなかった。しかし、取材だけはこまめにしており、ICレコーダーに数々収録している。

 実際に、広野町の総合病院とか、大熊町の体育館にいた茨城大の院生とか、京都市内に避難した牧場主の子息も訪ねるとか、ことし5月には富岡町の仮設住宅に再訪するとか、取材で諸々歩いている。

 歴史小説の執筆が外れたいま、福島原発(フクシマ取材ノート)に書き込みをしようと、フクシマ関連の写真を整理していた。そのなかのひとつ双葉町は、戊辰戦争で戦死した高間省三が眠る、第一原発がある町だ。
 昨年11月半ばには、町から特別許可をもらい、双葉町の自性院を訪ねた。車中から丘陵に送電線が群がっている光景を撮影した。記憶に残っていた写真を取りだし、(フクシマ取材ノート)に掲載した。改めて、じっくり見ると、3枚の写真が「第一原発の塔」をとらえていた。


 自性院から3キロだから、原発が写っていても不思議ではない距離だ。だが、「遠くに来たもんだ」という歌があったが、「ずいぶん近くまで行ったものだな」、私の取材はリアルだな、と思った。

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戊辰戦争の地・英雄の高間省三が眠る、双葉町は無人なり(1)

 福島第一原発のある双葉町は立ち入り制限地区だ。住民すら許可がなければ、立ち入れない。戊辰戦争の陸前浜通りの戦いから、かれこれ150年が経つ。そこには一人の英雄・高間省三が静かに眠っている。浪江の戦いで、20歳で死す。
 かれは双葉町の自性院に葬られている。高間省三を主人公にした幕末歴史小説を書くうえで、どうしても訪ねたかった。この目で見ておきたかった。それには公益立入の手続き許可が必要だ。
 
 歴史上の人物の墓参の意味合いもある。双葉町の関係者が善処してくれて許可が下り、役場職員の案内で町を訪ねた。

 いわき市から広野、楢葉、富岡、戊辰戦争の戦いのルートを北上する。民家の前は柵がなされている。侵入・不審者の見回り、パトカーが巡回している。

 検問所では、許可証と身分証明書を提示する。

 そして、車は無人の町へと進む。運転する役場職員が放射能測定の計器の数値を読み上げてくれる。しだいに上昇してくる。車窓からみる町なかは人影すらもない。動物の動きもない。
 富岡町から大熊町に入る。家屋はすべて原型通りだが、人間がゼロだ。SF映画の不可思議な世界に思えてくる。

「人間の居ない町とは何か」
 適切な言葉ではないかもしれないが、負(-)の感慨を覚えた。地球上で核で人間が滅びると、こんな町がどこまでも地平のかなたまで続くのだろう、そんな想像も簡単にできた。
 人間が核をコントロールできると信じた時から、究極の世界は未知でなく、現実にあり得ると思った。実際に未知の世界でなく、無人の町なのだから。

 地球が滅びて、唯一、宇宙のかなたで生き残っていた私が、ふいに地球に戻ってきて、まわりを見渡している。そんな気持ちが最もいまの自分の心象を表しているとさえ思った。


 
 田畑はすべて雑草が生えている。植物には放射能など関係ないのだろう。民家の向こうには福島第一原発の塔と、送電線の群れがみえる。原発から、かつて電力が東京など関東地方に送られていた。もう、あの送電線には電気が流れることはないだろう。
 
 ここの町民はすべて避難地に住む。全国都道府県・30余におよぶ。老人は望郷念がつよいが、除染した後、この町に戻れといわれても、一度植えつけられた恐怖心はそう簡単には取り除けないだろう。とくに、若い世代は「子供のために」と尻込みするはずだ。となると、町全体が有機的なつながりが持てないし、生活設計ができず、住めないことになってしまう。


 
 町民がいなくなれば、役場の機能が圧縮される。町が消えれば、町役場はいらなくなる。職員もいらない。将来の不安が増す。そんな連鎖すら不思議ではないほど、荒涼としている。

「福島第一原発をそのまま残して、世界遺産にしたら」
 かつて住民が投げやりに話した言葉を思い浮かべた。双葉町にきて、この街を見るほどに、そう簡単にすめないと思う。あながち暴言でも、非論理的な話でもなく、将来の構想として考えても良いのではないだろうかとさえ思った。
 やがて、自性院に着いた。


  放射能の内部被ばくがあるといけないので、と町役場の職員が防護具が手渡された。
 
 墓地の墓石は半数以上が倒壊している。大地震のすさまじさを感じる。双葉町の海岸は津波の被害を受けているが、この自性院まで及んでいないので、地震の被害だけだ。墓がメチャメチャだと、人間は当然ながら、立っていられなかっただろう。

 墓地には「戊辰戦争西軍戦没者の墓」と角柱が立っていた。150年前の戦死者にとって、この戊辰戦争とはなんだったのだろうか。少なくとも、故郷に帰れず、望郷の念で眠る。
 誘致した原子力発電所とはなんだったのだろうか。福島原発事故で故郷に戻れない人たちと、双方に折り重なるものがあった。

フクシマ原発は核災害だ。ことばで本質をごまかしている=ペンの日

 日本ペンクラブが創立したのは昭和10年で、初代会長は島崎藤村である。創立記念日となる「ペンの日」が11月26日(火)に、千代田区の東京會館で開催された。冒頭対談は若松丈太郎さん(福島・相馬市在住)と、アーサー・ビナードさん(ミシガン州出身)のふたりの詩人である。

「私は勿来(なこそ)から南で暮らしたことがない、奥州人です。東北という言葉がきらいです。メルトダウンの町、デッド・エンド(死の淵?)の町からやってきました」と若松さんは自己紹介をする。

 ビナードさんは日本語でシャープな詩を書く。『釣り上げては』で中原中也賞を受賞している。主な詩集に、『左右の安全』、『ゴミの日』などがある。
「私が生まれ育ったデトロイトから西へいくと、カリフォルニアでした。そこで日本にあこがれ、西へと行くと東京に着きました。私は西に行ったつもりだったが、極東でした。なぜ西が東でしょう」と言葉の敏感な詩人らしい自己紹介だ。
「さらに西へ行けば、東南アジア、中近東となります。地域の東西とは何をもった価値基準でしょう。この本質が解らない。ヨーロッパ中心時代の名残でしょう」とビナードさんは日本語で流暢に語る。

 東西南北から、話題がすすみ、若松さんはこういう。
「生まれ育った福島は決して東北ではない。住む人自体がなぜ東北というのだろうか。これは自分たちの発想ではない。「頑張ろう・東北」の目線はどこからきているのか。どこを中心として決めているのか、疑問である」
 ふたりの対談の歩調が合ってきた。

 ミナードさんが若松氏の宅に二度も訪ね、浪江町に案内してもらうなど、親しい交流が続けられている、と明かす。福島第一原発へと話題がすすむ。

「南相馬からは真っ直ぐいわき市まで行けなくなってしまった。浜通りに福島第一原発があるから、交通は遮断されてしまった。私は、決して原発事故という言葉は使わない」
 事故は当事者だけに被害が限定される。福島原発は生やさしい状況ではない。人間が核をコントロールできるとした驕(おご)りである。
「人間が作り出した災害で、広範囲に被害を及ぼしています。だから、核災害です」と若松さんは、詩人として、正しい用語の使い方を強調した。
 中國新聞の論説委員が、「核災害」「核罪」という若松さんの言葉を使いたいと行ってきたとも明かす。


「汚染水というと、自然水、天然水、還元水と同列に見えてしまいます。これは言葉のごまかしです。本質を隠しています。ダダの汚れた水に思えますが、危険な放射性物質が大量に含まれているのです。汚染水は中身と合っていません」とミナードさんが痛烈に批判する。

 都市生活の生活は豊かになる。それ以外の人に負担と犠牲を強いている。ふたりの話題は核と人間社会の格差の話題に集中していた。

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海洋に流れ出た放射能はどうなるの(2)=いわき漁師の苦悩する叫び

 獲れた魚をすべて放射能検査して出荷する。水揚げした魚を毎日のルーチンワークの放射能検査を行うことは難しいだろう。サンプリング調査のみで、消費者が納得するだろうか。

「あまり売れないだろうな。水揚げする前から、悲観的だけど」
 漁師は苦悩する。3・11大津波で、漁船は失い、再起を期したとたんに、放射能汚染の地下水で、頭から水をかけられた状態だ。9月からの、試験漁業の商業ルート・東京・築地魚市場を期待していた。そこでのセリの見通しが暗くなった。
 全国の魚は一度築地に集まってから全国に散る。福島沖の約100魚種のうち17魚に絞り込んでも、漁師たちは全国に売る販路をなくす状況下に追い込まれようとしている。

「どうされます?」
「いまさら試験操業は止められないだろうな。築地がダメならば、地元で売るしか手がない」 
 いわきの漁師も、福島の浜通りの人は地元の魚のおいしさを知っているから買うだろう。だけど、仲通りなども内陸の人は福島産の魚にあまり手が出ないだろう、と漁師は見通す。

「厳しいですね」
 福島県内を歩くと、福島の人々は殊のほか放射能を警戒して「福島産」農作物を敬遠して買わない。東京人よりも敏感なんだな、と感じる。それはなぜなのか。
 
 双葉郡出身の大学院生に、それの理由を聞いてみた。
「3.11の第一原発爆発で、外部被爆を受けているんです。その恐怖があるのに、食べ物からこれ以上の内部被ばくを受けたくない。それが本心です。たんなる風評ではない。少なくとも、母親は子どもには食べさせたくない。そういう心理状態です」
 フクシマ第一原発が見える場所で生まれ育っている若者だけに、妙に説得力があった。

 魚介類は日本人の食生活には欠かせない。海洋の放射能汚染問題は、単に東電・一つの企業の問題ではない。日本人の生命、安全にかかわる、重大な問題だ。

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