カメラマン

華麗なバラの庭園・旧古河庭園=東京・北区


可憐な花弁で、宝石のような輝きです。その花の名は「 ローズマリー」です。



旧古河庭園の魅力は、美の極限のバラと、大正6年5月に竣工した煉瓦造の建物とのコントラストです。


 バラは幻想アートの世界に導いてくれます。


           花壇に見入る人たち
         味わう、感動する、感銘する
    どんな言葉が浮かんでいるのかしら

 かつては旧古河庭園は陸奥宗光の別邸でした。武蔵野台地は小高い丘で、そこに洋館を建て、日本庭園を配しています。

 洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)です。わが国の建築界に多大な貢献をした人物です。

 日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治・と小川治兵衛(1860~1933)です。


 職員が目立たないように、バラの花壇の手入れをしています。咲くのはわずか数週間です。残る11ヶ月間は地道な努力をなされているのでしょう


 
 花を撮る、真剣なまなざし。人間の真剣さは絵になります。
 バラを観た、感動を写真でどう表現できたのでしょうか。


 
 最寄り駅はJRと南北線の駒込駅です。シーズン中は、狭い庭園に大勢の人出があります。平日が賢明です。


 小雨の降る日はバラ園に出むくのが最適です。花弁と葉っぱに浮かぶ、水滴が宝石のようです。

写真で登ろう・奥多摩の低山ハイキング

奥多摩の魅力の一つは、V字形渓谷の山腹を走る単線です。立川駅から青梅駅までは複線ですが、その先から単線です。

 1時間に1本か、2本の電車です。「時間を忘れる」、それが奥多摩に足を入れる心構えとして大切です。
 2000メートル級の雲取山から、400メートル前後の低山まであります。時間を気にせず、家族、仲間、カップルで、ペチャクチャ喋りながら登る。

 そんな気ままな山登りができる。奥多摩の山をともに歩きましょう。


 軍畑(いくさばた)駅は、まず読めない駅名です。有人か無人駅か。それは定かではありません。時々、駅員がいます。夜は間違いなく不在です。

 駅舎から出た展望は、これが大都会・東京都かと思わせる、閑散としたものです。歩く住民はまったく見かけません。

 写真指導の場において、受講生にはかならず人物を入れなさい、「人間は人間に感動するもの」と話しています。
  
 床屋がありました。店内をのぞいても、お客さんがいません。店主にモデルになって、と厚かましい願いもできませんでした。

 奥多摩ですが、床屋「立川」とは都会を感じさせます。「人物がいなくても、将来は奥多摩の貴重な写真になるだろう」という予感を覚えました。


 

 坂道を登るほどに、青いはっぴ姿の住人を見かけました。「お祭りかな?」やっと、人にめぐり合えたな、という感動を覚えました。

「高源寺」の門前からが、最も人物が集約できる、アングルでした。

 

 石垣を凝視すると、そこには草花がしっかり根を張って生きていました。強い生命力を感じさせてくれました。

 生きる努力は境遇、境地も選ばず。そんな植物の逞しさに心する。それも低山ハイキングの魅力の一つでしょう。

 山間の民家のまえで、足を止めました。庭先には彩り豊かな花が咲いていました。住む人の心が花を通して伝わってきます。
 自然の四季と、上手に調和させていました。

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「カメラマン」「寄稿・みんなの作品」新設の案内(2)=幅広い筆者で

 かつて「ライブドア事件」が起きました。堀江氏が収監されたときから、PJニュースの存在が危うくなりました。小田編集長が、新たに㈱PJニュースという別会社を作り、処していました。

 しかしながら、ライブドアに外資系の資本が入り、果たして2011年1月をもってPJニュースがライブドアから切り離されました。


「ライブドア・PJニュース」のバックナンバーがすべて削除。ある程度は読めていましたが、現実に過去に積み重ねてきた記事が抹消となると、痛手です。

 私の書いた記事にリンクを張っている方々に迷惑が及ぶわけですから。



 ㈱PJニュースが独自のサイトを持っていました。約3年間の記事はさかのぼれます。
 
 蒲池潤さんの並々ならぬ努力で、『穂高健一の世界』において、私の3年間にわたるPJニュース記事の復元できました。


 この先はPJニュース一辺倒から脱しなければならない。むしろ、穂高健一のホームページをより充実しよう、と考えました。

 内容の濃い記事とか、楽しい写真とかを掲載していく。かならず読者は見にきてくれると確信のもと、過去には骨太の記事はすべてPJニュースに載せていました。それらの大半をホームページへとシフトさせることに決めました。



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「カメラマン」「寄稿・みんなの作品」新設の案内(1)=5年間を省みて

【当該・HPの5年の歴史を顧みて】
 ライブドア・PJニュースの市民記者になったのが、2005年11月でした。その活動を押し進め、記事をさらに広く読んでいただくためにも、ホームページが必要になりました。

 IBM社ホームページ・ビルダーは私の手に負えず、IT関係の2人の方に強力な支援をいただき、ホームページを立ち上げることができました。


「穂高健一ワールド」がスタートとしたが、2006年の春で、肥田野正輝さんの好意によるものでした。
 ほぼ同時期に、蒲池潤さんの好意から「穂高健一の世界」もスタートできました。

 2つのホームページを持った、贅沢なものになりました。

 肥田野さんから、HPを運営・管理する秘訣を聞きました。「コンテンツを継続することです。絶やさなければ、読者がつきます」という一言を頂きました。


 ライブドア・PJニュースには精力的に取り組み、毎月13-17本ほど記事を書き続けました。
 穂高健一のHPが継続して読まれる。それが主たる目的でした。

 記事に入り込むほどに、長年にわたり伊藤桂一氏の指導の下に小説家になれたのに、小説の執筆が疎かになっている。これではだめだな。そんな気持ちから、「東京美人シリーズ」を立ち上げました。「写真小説」というジャンルの開拓です。

 美人の方にもモデルになってもらい、ポート・レートを取らせていただきました。

 写真を先行して、小説のストーリーを後からつけていく。執筆としてはかなり難易度の高いものでした。ふつうは小説が出来上がってから、イラストを描いてもらう。それが逆でしたから。


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千葉・内房の気ままな散策(人間の魅力)=写真エッセイ

3月ともなれば、春の盛り、初旬は梅から桜へと移る、端境期である。ここぞ、と思う花の名所はないものだ。河津桜はもはや終わっている。ならば、房総にでも出かけてみるか、という気持になった。

3月8日は一昨夜からの雨が上がった。明け方にはまだ厚い雲が残っていたが、天気予報を信じてみた。

 東京駅から君津で乗り換えた。駅の備え付けの観光パンフレットを手にした。それでも、ここぞ、と思う場所はなかった。保田は20代の頃、海水浴にきたことがある。それを根拠に、ともかく同駅に降りてみた。

 ホームの先端の踏み切りをわたり、保田神社の前で、初老の女性から声を掛けられた。水仙と頼朝桜(河津桜と同種)で有名だという。

「遅かったね。水仙も、桜も終わったし。まだ少しは花が残っているから」と、慰められながらも、保田川への道順が教えられた。

 すれ違う町の人から、またしても声がけされた。「保田に来てくれたのに、桜はもう散り始めている。時期が悪いときにきたね」と気の毒がられた。人情を感じた。花よりも、見知らぬ町で、人のふれあいの旅だと、気持を切り替えた。

 次に出会った人は、町の特徴を紹介してくれた。
「若い者がいない。そのうちの、うちら年寄りが死んだら、この町は無人になるよ」
 深刻な過疎化を語る。房総でも、ここが一番の過疎化が進んでいるという。

 保田川の土手には、ピンクの葉桜と黄色い菜の花、水仙も季節はずれでも咲いていた。ふいに、東京ナンバーの車から声を掛けられた。
「頼朝塚はどこでしょうか」
「さあ? 頼朝の上陸地点はこの近くの海ですから、海岸で尋ねられたらいかがですか」と答えておいた。

           
 保田川から鋸山にでも登ってみるかな。きょうは春霞で遠景の三浦半島はかすんでいそうだ。そう思うと、ロープウェーのある鋸山ハイキング・コースすら、興味がなくなってしまった。

 目的地はなく、気ままに農道を歩き続けた。時には腰を下ろして、日向ぼっこう。登山やハイクのように、時間も気にしない。リフレッシュな時間が過ごせる。心地よいものだ。


 菜の花畑の隣り合う畑で、クワをふる農夫(推定90歳)がいた。シャレた二階建てに赤い車が駐車している。おおかたそこが住まいだろう。農夫に声を掛けると、これからの耕作について語ってくれた。

 話の合間には、土を指先で揉んで、粘りなどを感触を確かめている。金儲けでなく、畑(土地)を心から大切にしている、その姿に感動させられた。

 やがて、農道の側に、花栽培の温室が見えてきた。のぞき込むと、色彩のよい花が出荷を待っていた。

 お腹は空いたけれど、コンビニはない。あまり気にしないことにした。

 鋸山から下山してきた集団がやってきた。
 日本人は群れて行動するのが好きだな。一瞬、そう思った。だけど、単独の歩き、単独行のハイクは不安だと思う人もいるだろう。人それぞれが自分流に見知らぬ土地、野山を楽しめばよいのだ。ものごとに流儀は必要ない。群れてもいいのだ。
 そんな考えにたどりついた私は、大勢の後姿を見送った。

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三寒四温、春を待つ新宿御苑の散策=写真集

 2月16日は寒さも越えたような、暖かな陽射しでした。先日までは、雪情報の連続で、ややうんざり。やっと路面の雪が解け、解放された気分になってきました。

 早朝の新宿御苑に、春を探しに出かけてみました。9時の開園の直後だけに人は疎ら。妙に、物悲しい空間でした。

 1時間ほど経つと、人の姿を見かけるようになりました。

2時間後には、スケッチする人、芝生で寝転んで本を読む人、恋を語るカップルの素敵な情景へと変化してきました。


地下鉄・新宿三丁目駅から、5分程度で、そこにはぜいたくな空間があります。便利ですから、時折り、心を休めにきます。四季それぞれの顔を持っています。

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北アルプスの名峠「徳本峠」はなんて読むのでしょうか=写真集

北アルプスには、名高い峠がいくつかあります。佐々成政が真冬に越えた針ノ木峠、女工哀史で有名な野麦峠、松本から上高地に入る徳本峠などが有名です。


釜トンネルが開通前はこの徳本峠を利用していました。現在でも真冬に上高地に入る登山者には利用されています。(右の写真は同峠からの眺望)
穂高連峰の展望のよさは抜群です。

    
日本山岳会・上高地山荘(上高地山岳研究所)は、1961(昭和36)年に松本営林署から、山岳研究、健全登山指導、自然保護活動を目的に借り受けたものです。(上)

穂高連峰の稜線がすっぽり雲に覆われています。見るからに、威厳がある山岳です。

雲が切れると、巨大な山容が現れます。朝から昼にかけて、雲の動きは早いものがあります。それは雲海が上昇するからです。

今回のリーダーは、上村信太郎さん(日本山岳会会員・フリーライター)です。10代から国内外の岩場を登り、海外の処女峰の登頂経験者です。
現在は「すにいかあ倶楽部」(東京・目黒区)の主幹です。

上高地から、巨木の原生林の道を登りはじめます。

道標はしっかりつけられています。悪天候や積雪期以外は、道に迷うことはないでしょう。


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秋景色の上高地を訪ねて=写真集

10代から3000m級の北アルプスを登りはじめた。20代はやみくもに登った。30代は大病で登れなかったが、40代からまた北アルプスにも登りはじめた。テント泊が殆どだった。

長野県・上高地は標高1500メートルだから、槍ヶ岳や穂高連峰に登る場合、稜線との標高差がわかりやすい。体力、荷物に応じた行動の読みが簡単にできる。私にとって、これまで上高地は単なる通過地点だった。

 日本山岳会・上高地山荘(上高地山岳研究所)が、河童橋の近くにある。会員として、一度は宿泊してみたかった。そのチャンスが10月12日の誕生日にあった。


宿泊となると、周辺の高所登山で、夜に同山荘にもどってこれない。そこで、一日はのんびり上高地散策を行なった。
これまで登山基地で、さして見向きもしなかった上高地だったが、おもいのほか秋の景色が堪能できた。新発見も多かった。


20代の女性の登山者が、予想外に多かった。スカートをはいた、新ファッションだ。格好は何であれ、若者が山に登ってくれる。うれしい限りだ。



河童橋周辺は、観光客で賑わう。割りに関西弁の方が多いようだ。東京から、大坂からも、ともに同じような所要時間で入れるのが、上高地だ。


徳沢園は明治以降に牧場があった。いまは紅葉が盛りになってきた。(右)

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広河隆一写真展「人間の戦場」

国際ペン・東京大会で、広河隆一(ひろかわ りゅういち)さんの写真展が行なわれた。テーマは「人間の戦場」である。
国際ペンは「戦争反対」と「思想信条の自由」を2本柱にしている。25年ぶりの東京大会で、平和と戦争を考える、という趣旨から広河さんの写真展が、早稲田大学の小野梓記念館で行なわれた

この企画は、故立松和平さんが日本ペンクラブの平和委員長だったので立案したものだ。この写真展を見ずして、今年2月に亡くなられた。
ふたりはかつてレバノンで一緒に取材した仲だという。

海外から来日した、世界的な作家・文学者たちも、悲惨な写真作品に強い関心を示していた。

           

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かわいい稚児行列・青砥神社=写真集

 かつしか区民大学「私が伝える かつしか講座」の課外活動として、9月12日の午前10から午後5時まで、一日コースの課外活動(取材の仕方)の実践指導を行なった。

そのなかの一つ、同区教育委員会の生涯学習課から、青砥神社例大祭の情報提供があり、受講生たちと出向いた。


稚児行列は14時から青砥神社の境内を出発した。

     

盛装した子どもたちは、きょうの主役です。ふだんにない神妙な顔つきです。


三姉妹がなのか。化粧で、みな同じ表情に見えるのか。

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