小さな生命の旅 (1) 【掌編・私小説】
八ヶ岳・硫黄岳の登山で、4月4日、迂闊にもアイスバーンで足を滑らせ、滑落事故に遭ってしまった。岩盤に当たれば即死。『死』の境地のなかで、滑落しながらも、身体を停止できた。思いのほか長い距離を落ちた。約200メートルだった。
裂傷は一ヶ所もなかったが、身体を点検すれば、かなり傷ついていた。雪上制動の最中には、顔面は雪で擦ることから(基本)、試合後のボクサーのように腫れ上がっていた。左足の膝は転倒のときに捻ったので、じん帯を痛め、膝間接が曲がらない。右足は打撲で腫れている。制動の摩擦から、右腕は二の腕の皮膚が全体に擦り剥けている。このていどは、生命の代償とすれば、あり得る状態だと自分では納得している。
4日後の8日には、夫婦で四万温泉の一泊旅行の予定が入っていた。全身打撲の身体だから、自家で安静にしていたほうがいい、と妻がホテルのキャンセル料を調べはじめていた。私は取り消しに応じなかった。