小説家

第4回のエッセイ添削教室 (書評)

 今月度はレベルの高い作品が揃った。これまで教室では、文章指導のウェイトを高くしていた。今回からは『読まれる作品、感動作品』の基準で、講評することにした。
 冒頭の20分間は、『良質な作品づくり』のレクチャーをおこなった。個人体験を綴った場合、「私とは何か」と問う姿勢が大切。「人間には、こういうところがあるな」と感じさせる、それが貫けた場合、作品には深みと感動が出てくると強調した。


森田多加子 「私の出会った人(1)」 ーベレー帽の男ー
 主人公『私』が昭和30年代をふり返る。クラシック音楽に興味を持ち、活動をはじめた。北九州にある『勤労者音楽協議会』の事務局の一員となった。そこでは出演者の接待という役割分担が与えられた。
 ベレー帽をかぶった男性が、『私』のまえに現れた。シャンソンが大好きな男性だった。『私』はかれに好意を抱く。と同時に、シャンソンに魅された。ベレー帽の男はやがて転勤で東京に行ってしまった。
 この間の淡い恋心が書かれている。結末では、シャンソンにほれ、道造と太宰にほれ、プレヴェールにほれ、パイプとモーツァルトにほれてきた。そんな『私』は惚れっぽい人間だと決めつける。そのうえで、「70代のいまは、いったい何に惚れているだろうか」と暗示的に結ぶ。深みのある作品に仕上がっている。


塩地薫 「セカンドオピニオン」
 術前検査が行われた。かるく考えていたが、心筋梗塞から心臓の筋肉の一部がすでに壊死していると告げられた。そのうえで医師から、次はカテーテル検査だといわれた。
 他方で、友人たちは、七十歳以上だからカテーテルは止めておけ、リスクが高いと忠告するのだ。同時に、『セカンドオピニオン』が薦められた。日本ではまだ普及されていない。(主治医以外の、医師の意見を聞くこと)
『命は一つしかない。自分が納得いくまで質問しろ。命がかかっているんだぞ。遠慮するな。納得できなければ、セカンドオピニオンを頼め』 
 有名な専門病院でも、誤診はあるのだと友人はつけ加えた。
 迷った挙句の果てに、『私』は勇気を出して医大病院の医師に「入院前にセカンドオピニオンを」と申し出た。難なく医者は受け入れてくれたのだ。そこから、『私』の安堵の吐息が読者まで伝わってくる。
 医学的用語が多い作品だが、わかりやすく表現されている。生と死と向かい合う緊迫の連続だが、大げさな言葉がなく、淡々と書かれている。作者との距離が保たれているので、それが臨場感を持たせている。


山下 昌子 「丙午の女は夫を食い殺す」
 強烈なタイトルである。良し悪しは賛否両論に分かれる。作品の内容が良いと、タイトルは良く見えてくる。そのうえ、奇抜さには才能を感じさせるものだ。
 主人公『私』には満百歳になる伯母がいる。体も頭もしっかりしている。明治三十九年生まれの丙午である。結婚後は苦労の連続。初婚の夫結核に倒れ、二人の子どもたちを残して先立った。先夫の弟と再婚したが、これも二人の子を残して亡くなった。
 蔭では「丙午の女は夫を食い殺す」という噂も囁かれた。
 その実、伯母はやさしいひと。子どもたち四人を育て上げた伯母は、今では横浜で長男夫婦と同居してのんびり老後を送っている。着物を縫いながら、俳句を作る。朝日俳壇にも載るし、NHK大賞も受賞した。
 伯母の長寿を祝う会が開かれることになった。会に参加する人は句をプレゼントすることにした。俳句が苦手の者には、大変なことだった。「私は数学科だから、奥さんに代わりに作ってくれ、と頼んで叱られた」とか、ひと騒ぎが起きた。
 4世代の40人が集まった。挨拶に立った伯母は、「こんなに皆さんが集まってくださるのは、私のお葬式のときだと思っていたのに、思いがけず大勢のかたに、お会いできて、とてもうれしい」。花束を受けとった伯母は、少女のように恥ずかしそうな笑顔だった。
 タイトルとはまったく違った、温和で魅力的な老女が描かれている。この意外性から、奇抜なタイトルを高く評価したい


河西和彦 「お彼岸とお墓参り」
 春秋のお彼岸には墓参りの風習がある。主人公『私』には出向く墓が三つある、と前置きする。一つひとつが丹念に描かれている作品だ。
 一つは信州・諏訪の実家から歩いて7、8分の河西家一族の墓。古くは風化して字が読めない江戸時代の墓から、最近亡くなった父母の墓石までを紹介している。同時に、墓から過去の繁栄をしのばせる。
 二つ目は妻の実家の墓で、東京・文京区向ヶ丘にある。祖父母が美濃・大垣から、いまの田端駅近くに移り住み、一族が繁栄した。祖父は船橋に家作を遺し、主人公『私』はそれを譲り受けている。感謝の気持ちを忘れない墓参り。町や乗り物の変遷がうまくミックスされているが、交通機関の経路がこまごま書かれている。この点がやや冗漫になっている。
 三つ目は、『私』が作った市川の墓である。母の三回忌後には、父母の遺骨を分骨し、移したいと思っている。家族の発案から英語で「Harmony」と横書して、その下に「和につどう」と小さく入れた墓だっ た。他方で、実弟は父母の遺骨を諏訪から船橋に移すには異論を述べる。さらに諏訪の本家では、「船橋に墓を作ったなら、全部移してほしい」という。三つ巴の板ばさみ。
 もう一つ重要な問題がある。祖先の一人・俳人河合曾良の墓がある。曾良は松尾芭蕉の「奥の細道」に随行し、綿密なる旅日記を遺した著名な俳人だ。『私』の母親が河西家の出身。河内屋河西一族の墓は一カ所に纏まっている。「貴重な存在だから、そのままにしておいてほしい」と本家の頼むつもりだと、『私』は決意を語っている。
『墓』を通して、現代の家系という認識の相違点とか、段差とか、問題点とかを突く作品である。中高年層には、読んでもらいたい作品だ。


二上薆 「九月の思い出 昭和は遠くなりにけり」
 昭和20年の東京大空襲で、主人公『私』の家は跡形もなくなった、わが家とともに、昭和の人情は消えたと書き出す。                      
 9月14日のキャサリン台風の直後で、あっという間に利根川が決壊した。関東平野が水浸しとなった。『私』は埼玉の親戚から東京まで数十キロの道を、譲ってもらった古自転車に乗って帰ってくる。街が陥没した情景が書き込まれている。
 帝国という名前が最後となった大学を卒業した、『私』は製鉄会社に勤める。世界有数の大記録に従事した。平炉の製鋼の時代の、よき上司のもとで楽しく働いたころを振り返る。
 航空機の発達と、昭和44年の海外旅行の思い出を重ねる。空の長旅のさなか、米国の上空で、「よくもこんな大きな国と戦争をやったものか」と強く感じた心を綴る。
『私』は小学生の頃、省線電車で通った昭和一桁時代だ。鉄道への思い入れは強い。昭和55年ころからの横須賀線と東海道線の急速な発達ぶりを記す。東京駅の地下駅で、千葉方面の総武線(快速)と横須賀線が結ばれた。
「全車両が向き合い席の黄色い車両が、十数年後には銀色のステンレス製となり消えた」と作者は車両の推移も見逃していない。
 昭和という時代を整理・回顧するなかで、風俗衣装をもとらえる。時代感覚の目がしっかりしている作品だ。


賀田恭弘 「ヒロシマ 3題」
 タイトルが示すように、三つの掌編から成立している。
 その一「あの松はどうなったか?」は、主人公『私』が45年9月に満員列車で大分へ行く途中で、広島駅に着いた。原爆で破壊された、青天井の広島駅で野宿した。翌朝、一番列車に乗れた。車窓から見た、己斐(西広島)には、一本の松の大木が元気よく立っていた。
 それだけのことであるが、簡素にして簡略な情景描写だけに、かえって悲惨な焼け野原の情景が浮かんでくる。
 その二「市電に乗って見たもの」。60年6月、広島市内の市電に乗ると、暑い盛りなのに、女性が長袖を着ている。不思議に思い、支店に戻ってから聞くと、その人たちは原爆で受けたケロイドを持っているという。後遺症のために暑さも我慢する被爆者。いまや戦後61年経つ。
 高齢になった人たちの境遇を想う、作者の温かい心が読みとれる作品だ。
 その三「反省。若気の至り」は、大分海軍航空隊の身辺の出来事である。士官食堂で、ザラ紙に印刷された「海軍公報」を読むと、特攻隊の隊名とともに、戦死者の名前が出ていた。何人かの戦友の名もある。多くは沖縄の海に散ったのだろう。「この調子で(?)ゆくと、私の昇進も早いかな」と信じ込み、『海軍中尉』の名刺を発注した。
 印刷が出来上がったのが8月の始めだった。同時に、終戦となり、名刺は一枚も使わなかった。戦死者が多く出ているのに、主人公『私』が名刺を作った、自分の行為を恥じている。
「反省。若気の至り」は広島に関係がなく、タイトルとのブレがある。そこに傷があったにせよ、奥行きの深い、最上の作品だ。


奥田和美 「ポコさん」 
 ポコさんは、他人が喜んでくれたら、身を粉にするひとらしい。ピアニストのマネージャーだ。彼女の優しい性格から、皆のために一生懸命動く。見返りをまったく求めない。「皆がよろこんでくれればいいの」と、与える愛のみの人である。
 彼女が2泊3日の沖縄旅行に、コーラスメンバー25人を連れていくエピソードを描く。参加者の大半が80歳以上の高齢者たち。ふだん家族は年寄りの旅行を怖がり、とても沖縄など連れていってくれない。
出発の前日に手に怪我をしたおばあちゃんがいた。
「家族が反対してもどうしても行きたい」という。沖縄に着いたら病院に行く約束をしてまでも出かけていく。ポコさんの長女さんがこれまた親切で、沖縄に着くと、タクシーで病院へ連れていった。
 参加者たちは「今度は北海道に行きたい」という。それは暗に旅行が大成功だったことを物語る。ポコさんと一緒にいると心が洗われますと、結ぶ。
 軽やかでリズミカルな作品だから、読み手にはきもちがよい。


中村誠 「親父の背中」
『親父の背中をみて、こどもは育つ』といわれているが、主人公『私』には記憶をたぐり寄せても、背中どころか顔も、面影も浮かんでこない、という書き出しで、読者を引っ張り込む。
 父の位牌から判断すると、『私』が3歳半のときに戦死している。父の戦友から、父親の最期を聞く機会があった。
 出来事は昭和17年、東南アジア方面に向う特別客船で起きた。夕食の後、父親が仲間とブリッジをしていたとき、突如、敵から魚雷攻撃を受けたのだ。全員が救命ボートに飛び乗った。『沈没船の渦に巻き込まれないように、沈みゆく船舶から速く離れる』。戦友は海難の心得を知っていた。
 しかし、父の乗ったボートのほうは悲運にも沈没船に巻き込まれたらしい。海流に流された父親の遺体が済州島に打ち上げられていた、と聞かされたのだ。
 母や祖父母からの又聞きでなく、生き証人の臨場感のある話に、『私』は胸を打たれる。父を想う心象風景が描かれている。
 他方で、4年前には90歳を前にした母が逝ってしまった。『親父の背中』以上に『お袋の背中』が強く残る『私』だった。この描写にも、胸が絞めつけられる。
 父親の最期が戦友の語らいで再現される、読後感の良い作品だ。


高原眞 「報徳の行方」
『いま『報徳』に求められているもの』。このテーマで、二宮尊徳の研究会が開かれた。
 発表者のU氏のエピソードが語られる。彼の父は戦時中の小学校長だった。当時は、小学校の校門を入ると奉安殿があり、天皇・皇后の御真影が納まっていた。なにか事があると、児童よりも御真影を優先し、いち早く避難させる、という義務が校長に課せられていた。それが出来ないと、校長は即刻クビになる。父親は夢の中でも、その義務に苦しめられてきたのだ。
 他方、児童も奉安殿に敬礼し、銅像の二宮金次郎を敬う。教科書『修身』では、金次郎の子供のころを通して、「勤勉」と「奉仕」が大切な徳目だという、倫理教育がなされてきた。
U氏は、実父が軍国主義教育に加担したと反発し、同時に尊徳や報徳運動は天皇教の一派のものだと敬遠していた。
 ある日、報徳博物館に取材で訪れた。館長から「金次郎は軍国主義者の被害者だったんですよ」という言葉を聞いた。「よし、館長の言葉の裏をかこう」と尊徳に関する多くの著書を読んだ。
 二宮尊徳を調べれば調べるほど、徳川末期の尊徳の業績を知り、ぞっこん惚れ込んでいく。『報徳という言葉』という世の中のアレルギー的な言葉を使わず、尊徳の本当の思想を打ち出すべきだ。そういう結論に達したと語る。
 磨かれた文章で、父親の悪夢から、歴史的な人物の再評価までを丹念に書き込んでいる。レベルの高い作品だが、トラウマの父親と尊徳研究とが作中でやや割れている。
 内容的には戦時と戦後を比較し、倫理教育のあり方を問う、深みのある作品であることに変わりはない。

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