A020-小説家

獄  の  海 (第13回自由都市文学賞:佳作)作品

                            ※著作権付き小説。無断引用厳禁 

 いくつもの汽笛が白い潮霧の底を這ってきた。それぞれ違う音色だが、みな警戒心に満ちていた。一九九トンの練習船が狭い屏風瀬戸をゆるやかに航行していく。
 五月の霧が切れると、七尾湾の見なれた夕暮まえの風景となった。
 カモメが何度も船上を飛来する。濃霧がふたたび海面に流れると、港の情景に幕が張られた。と同時に、操舵室の窓ガラスが白い障子紙が張られたように、湿った半透明にもどってきた。

「いいか。レーダーから目を離すなよ」
 訓練生の返事を確認すると、船長服姿の藤堂大吉は操舵室の扉を開けた。デッキに出てきた藤堂の視線が注意深く四方に向けられた。四三歳の精悍な顔つきの藤堂はいつも背筋を伸ばし、毅然としていた。
 練習船の和修丸は数多くの大型船、漁船、七尾湾観光船、さらには養殖場イカダの合間を縫う。やがて、能登島大橋の下へとむかう。
 和修丸はまるで泥酔者のような、よろよろした落ち着きのない航跡を残していた。このままだと橋脚に近寄りすぎてしまう。訓練生には速い潮流がしっかり読み切れていないと、藤堂の内心は穏やかでないものがあった。
 七尾港は日本海側の有数な規模を誇る、国際貿易港である。第二種の重要港湾に指定されている。霧の切れ間から、巨大な屹立する鉄壁のような外国籍のタンカーが不意にあらわれる。真横を行く、能登少年刑務所の練習船が、船舶どうしの衝突事故でも起こせば、批判はまぬがれない。
 法務技官の藤堂船長は腕組み、泰然とした態度で訓練生の技量をみていた。危険だという表情が少しでも船長の自分の顔に出れば、終始こちらの顔色をうかがう訓練生だけに、自信を喪失してしまうだろう。
 和修丸には訓練に必要な航海計器、機関設備が備えられている。出航から帰港まで、訓練生の判断に任せるのだと、藤堂はつねに自分に言い聞かせていた。
 藤堂の視線が練習船の舳先にむけられた。少年受刑者の三輪泰介が見張りに立つ。一九歳の甲板科の泰介は訓練服姿に、黄色いライフジャケットを着ている。にきび面には火傷の痕があった。
 泰介は舳先から真下の海をのぞきこむ。変わった漂流物でもあるのか。
 少年は、こちらの練習船が他船と衝突しようがすまいが関係ないという態度にも思えた。
少なからずとも、練習船の甲板員としての役目をまったく認識していなかった。
(一体どこを見ているのだ)
 藤堂は腹立たしかった。
 三輪泰介は強盗傷害で、五年から七年の不定期刑を科せられている。泰介が海洋訓練に参加してから、もはや三ヵ月間が経つ。少年の知能は決して低くないが、学習や訓練はいつも後からついてきた。意欲、忍耐力、集中力に欠けるし、甲板の掃除、ペンキ塗り、与えられた作業は何事もだらだらとやる。怠慢なやる気のない態度ばかりが目につく。藤堂はたえず少年に注意を与えるのだが、改善の兆しはまったくなかった。
 泰介には貧しい生立や両親の離婚があった。
顔の火傷などがコンプレックスとなって、少年の性格をゆがめているのだろう。
 藤堂は操舵室側から舳先のほうにむかった。
「しっかり見張れ。どうした、返事は?」
「見てるじゃねえか。船同士がぶつかれば、判ることだしよ」
 泰介はふてくされた態度だった。
「そんな態度だと、このさき何度も刑務所に出入りする人間になるぞ。それとも船員以外に、なにか目標とか、将来の夢があるのか」「ねえよ。将来の夢なんて」
 少年は陰険な眼差しで見返す。ぷいと横をむいた。難しい人物を押しつけられたものだと、藤堂は泰介の横顔をじっと見ていた。
 こんな少年の根性を、自分は訓練を通して変えることができるのだろうか。それ以上に、先々で重大な事故を起こさないかと、不安が先立つ。
「性根を入れて、訓練に励むんだ」
 藤堂は一言喝を入れてから、操舵室側のデッキにもどってきた。船窓から内部をのぞくと、浅黒い顔の森雄太が真剣な眼で、円い舵を握っていた。見るからに、肩には力が入っている。
 三三歳の森はかつて浜松を基地とする、遠洋漁船の乗組員だった。海技士の機械免許をもっている。懲役八年という刑期の長さを利用し、能登少年刑務所にきてから海技士免許(航海)の習得をめざしている。それに合格すれば、出所後、航海士になれる道が拓ける。
 森の性格はつねに前向きで、意欲に満ちる、優秀な受刑者だった。
 霧が不意に切れると、前方には造船所や製材所やコンクリート製造の工場群が克明にあらわれた。またしても、情景が乳白色のなかにかすんでいく。
「森、接岸まであとすこしだが、ここで焦るなよ。霧の切れ間だけ、航行すればよいのだからな」
「はい、頑張ります」
「操舵の筋はいい。将来が楽しみだ」
 というと、森雄太が微笑んでみせた。顔には緊張感が漂い、まったく余裕などなかった。
「ただし、いまの技量はまだだ。霧がかかると、水域全体が頭のなかから消えているぞ。目先、目先で船を進めている」
「はい。注意します」
「肩からもっと力を抜け。緊張する気持ちもわかるけどな」
「わかりました」
 森からはきびきびした返事がもどってくる。
 この和修丸には、少年受刑者が甲板科訓練生として三名、成人受刑者たちが航海科、機械科の訓練生して一二名、それに警備の刑務官らが乗船する。
 藤堂の視線がまた舳先の三輪泰介に向けられた。泰介はデッキの手摺りに頬杖をつき、通過する能登島大橋を見上げている。ちらっと横目でこちらの方角を見た。藤堂と視線が重なると、少年は故意に無表情な顔を見せた。また、橋下を見上げる。
(まだ、あのざまか。劣悪な訓練生だ)
 少年刑務所でもなければ、三輪泰介は甲板科の選任の俎上にも持ちあがらなかっただろう。訓練航海ちゅうの三輪のある日誌には、北海道と青森、四国と本州が橋で結ばれる時代に、船なんて、時代遅れだ、きょうも時代錯誤の訓練をやらされたというニュアンスの内容が書かれていた。ある感想文には、海にロマンなんかあるものか、自分は将来、船員なんかになる気もないと綴られていた。
 泰介のことばの端はしにも、そんな態度が露骨に出てくるのだ。ほかの訓練生は反発し、だれもがもやもやした感じで泰介を見ていた。
相手が劣悪な態度でも、ひとたび喧嘩すれば、規則違反で懲罰を受け、他所の矯正施設に移送されてしまう。刑務所では自分を押さえきれず、一度でも手を出してしまえば、理由のいかんを問わず、暴力行為として懲罰を受けるのだ。結果として、航海士の免許を修得する夢も消えてしまう。泰介を一発殴りたいが、殴れないのが実情であった。
 泰介の目線が橋下から、また海面へと流れた。
 刑務官の猪俣警備隊長が、泰介の挙動に疑問をもったようだ。大股で歩み寄っていく。猪俣は柔道五段、剣道四段の腕前で、がっしりした体形だった。眼光には鋭いものがある。受刑者は猪俣がそばに居るだけでも、震えるあがるらしい。
 泰介が突如として手摺りを乗越え、海に飛び込んだ。まさに一瞬の出来事だった。
「停船」
 藤堂が大声でいった。練習船のスクリューが逆転した。船尾から逆流してきた潮の泡が盛り上がる。船体が激しくゆれた。まだ加速が残っていた。
「逃走だ」
 猪俣隊長が笛を吹いた。四名の刑務官が血相をかえて船尾の甲板へと向かう。
 藤堂船長は振り返って海面をのぞき見た。訓練帽が飛び、坊主頭の泰介が懸命に泳いでいた。霧のベールがしだいに泰介の姿を隠す。
「もどれ。泰介もどれ」
 藤堂は船上マイクで叫んだ。
 停船した和修丸は周囲の船舶に危険を教えるように、汽笛を鳴らしつづける。
「逃げると、撃つぞ」
 猪俣刑務官が銃をむけた。藤堂は猪俣隊長のもとに駆け寄っていく。監獄法第二O条で、
逃走を企てた受刑者は静止の呼びかけに従わなければ射殺できるのだ。というのは、逃亡者が即、衣服とか、金銭とかの強奪という凶悪な犯罪に走るからである。逃走とは、刑務官の視野から一瞬でも消えることだった。
「撃たないでくれ」
 と猪俣の手首をつかんだ。と同時に、銃口を空に向けさせた。
「これは受刑者の逃走だ。船長、妨害しないでくれ」
 猪股がにらみ返してきた。
「泰介は逃げてない」
 藤堂が海面を指した。泰介の手が海面に漂うプラスチックの箱にとどいた。箱の縁からは茶色の子犬が頭を出している。子供らが悪戯で流したのだろう。
「タラップを降ろせ」
 と指示すると、訓練生たちがウインチをまわす。傾斜タラップが徐々に海面へ近づいていく。藤堂が真っ先に降りていった。泳ぐ少年が船縁にもどってくる。藤堂は海面の泰介の顔を凝視していた。目をじっと見た。泰介が立ち泳ぎで、箱を持ち上げてみせた。
「船長、この子犬を先に揚げてやってほしい。おびえてるから。この犬、俺とおなじで一生、
海嫌いになるぜ」
「海好きの犬がいるのか。一言声をかけてから飛び込め。射殺されるところだったんだぞ。
間一髪だ」
 泰介からは返答がなかった。少年の手を引っ張って、タラップに足をかけさせた。ずぶ濡れの訓練服から溢れるように海水が落ちる。五月の海水はまだ冷たい。泰介の唇は真っ青で、全身が小刻みに震えていた。
「あとは大丈夫だな」
 先にタラップを上がってきた。泰介が後につづいた。
「規則違反だ。許可もなく、勝手な真似をするな。逃亡目的だろう」
 猪俣隊長が拳で思いきり泰介の顔を殴った。
デッキに倒れた泰介が反発の目をむけると、若手の刑務官が腹部を蹴飛ばした。そこには遠慮とか、手加減などなかった。刑務官は徹底して痛めつけ、泰介を無抵抗の状態にすると、保護房がある船室へと連れていった。

            *
       
 七尾港に入港すると、一四名の訓練生たちが二列横隊で称呼(しょうこ)番号と氏名を大声でいう。点呼の声が湿っぽい五月の夕空の下でひびいていた。
 藤堂は横目で、一足先に上陸している刑務官をみた。かれらは荒々しく泰介を護送車に乗せているさなかだった。
 能登少年刑務所にもどると、藤堂はまず教育課長に訓練内容を報告した。そして、鶴沢所長にさっそく面談を申し入れた。了解が取れた。
 所長公舎はおなじ敷地内にあって、レンガ造りの重厚な雰囲気が感じられる建物だった。厚い敷物の応接間で、藤堂は鶴沢所長とむかいあった。小太りの所長には威厳と風格が感じられた。
「ご苦労でしたな。保安課がいま逃亡を企てた罪で、三輪を取調べている。一言も許可なく、懲役が海に飛び込むとは言語道断だ。許せない行為だ」
 職員の間では、受刑者を《懲役》と呼ぶ。「私の認識は違います。三輪は子犬を助けあげたんです」
 藤堂が目撃した事件の細部を説明した。途中で、雑役夫がコーヒーを運んできた。
「師弟愛から、船長がかばいたい気持ちはよく解りますがね。懲役は刑務官の指示と許可がなくして、一つたりとも行動できない。これは矯正行政の厳格なルールなんです」
 舎房ないの生活は正座か、胡坐である。横たわるだけでも規律行為違反で懲罰を与えられる。……まして三輪は許可をもらわず、海に飛び込んだ。だから、逃走だというのだ。
 藤堂には、刑務所の規則が妙に機械的なものに感じられた。
「このさい三輪は海洋訓練から外す」
 鶴沢所長の目には当然の処置だという表情があった。藤堂が単なる刑務官ならば、一言も口を挟めないものがあった。
「三輪の能力には高いものがあります。もう一度、チャンスを与えてやってください」
「長年の矯正経験からしても、所内の規則が守れない懲役は社会に出てからもルールに従えないし、自立更生などできない。三輪はおおかた堕落した、刑務所を往復する人生だろう。まず間違いない。船舶訓練には不向きな囚人だ」
 懲罰を受けた受刑者は、所内の簡単な刑作業へと配役させる。むろん、所外の風景など、
刑期が終わるまで、まず一度もみられなくなるだろう。それだけのことをしたんだ、当然の報いだ、という態度が鶴沢所長から感じられた。
「少年には動物愛護の精神があります。そこが糸口になると思います」
 熱心に説く一方で、三輪泰介は自己本意な性格だし、この先こちらの期待どおりに生まれ変われるのだろうか、という疑問がわきあがってきた。
「藤堂船長には以前、身分帳を見てもらったとは思うけど……」
 鶴沢はコーヒーカップを口もとに運んだ。 身分帳には三輪泰介の出生から、家庭環境学校成績、知能指数、過去の犯罪歴など、あらゆる内容の個人情報が記載されていた。
「一家揃っての夕飯とか、団欒とかがない家庭で育ってきたようですね」
 能登沖の島に生まれた三輪泰介は、三歳にして両親が離婚している。数年後、父親が再婚。義母との折合いが悪く、中学一年から非行に走り、家出した少年は、金沢市内で徘徊。補導歴もある。その後は、刃物を使った恐喝事件で逮捕され、少年鑑別所から少年院へと送られている。二度目の少年院生活で、高校二年程度の学力を身につけて社会に出たが、鳶職、左官、店員、温泉場の下働きなどと短期間で職を何度となく移り変わっている。
 一八歳の泰介は金に困り、加賀市内の一人住まいの老婆の家に押し入った。抵抗した相手に怪我をさせたうえ逃げた。罪状は強盗傷害だった。
「船長、あの懲役は島育ちだから、逆に海に囲まれた生活はいやだと言ってるらしい。船員になる気がなければ、船舶職員の職業訓練を受けさせる意味はない。過去の職歴をみても、三輪は海運に関係したものを選んでいないし」
「私はなんとかして泰介の精神を入れ替えさせたいんです」
「だれが処遇しても、あの懲役はむずかしい」
「私の指導力を高めるためにも」
「なにも三輪でなくても、船長の処遇の力量は増しますよ」
「いま一度、私に預けさせてください」
 なぜ、こうまでも強く押すのだろうか、と藤堂は自分の態度に疑問を持った。堕落した少年など排除したほうが樂だと解っていながら。もう一人の自分が何度も自身に疑いを投げかけてくるのだった。
「藤堂船長は自信があるようだが、逃走の責任まで法務技官の船長に押しつけられない。あくまで、逃走は刑務官の警備の問題だから」
 逃亡、自殺、騒擾の三つは所長の首が飛ぶと、鶴沢の目が強く拒絶するように光っていた。
「きょうはこれから他に用がありますので……。日を改めて、もう一度」
 この場で性急に鶴沢所長の翻意を求めても、
建前を崩さないだろう、と藤堂は判断したのである。
 少年刑務所の正門から駐車場へとむかった。
どこからか寺の鐘がきこえてきた。六時の時報を報せる鐘がくり返しひびく。
 ライトバンのクラクションが小刻みに鳴った。運転席の車窓から、白髪の小宮山総務部長が顔を出した。いつもながらの温和な表情だった。
「三輪が逃走ですって。こどもが船長に迷惑をかけましたね」
 小宮山部長は受刑者を《懲役》でなく《こども》と呼ぶ。そこに小宮山の人柄のよさを感じさせた。
「逃走とは見てません。少なくとも、私は」 藤堂は簡略に説明した。
「かばうのは藤堂さんの人柄。こどもが迷惑をかけると、胸が痛むな。和修丸の船長の仕事に引き込んだのは、この私だから」
 藤堂大吉は東京商船大学を卒業後、海上保安庁に入り、巡視船の船長へと昇った。四O歳で陸上勤務となった。与えられたポストのは歴代、週に二回ほど能登少年刑務所へ航海科の指導講師として出向いていた。
 能登少年刑務所は、全国でも稀な船舶職員科の職業訓練を受け持っていた。海洋訓練と専門学習を中核とする矯正教育である。
 全国の刑務所の模範囚から、自立の夢を海に託す受刑者を募り、服役ちゅうに国家試験の海技士免許を取得させていた。
 はじめて教壇に立ったとき、受講者は囚人服一色で、雑談一つなかった。許可のない私語は罰則があると、後から知った。それも強い印象だったが、少年刑務所なのに、自分と同年代の受講者がいたのにはおどろかされた。
 少年刑務所は発足当時、少年受刑者であることが入所条件だった。義務教育の未修了者がいれば学ばせ、社会復帰へと助力してきたのである。しかし、社会情勢が安定し、義務教育の未修了者が減少したために、少年刑務所はそれぞれ各種の訓練施設の充実を図りはじめた。入所条件も緩和されてきて、現在では四十代の者も学んでいる。
 藤堂は教壇で、航海科の講座だけを受け持ち、一年間は問題なく過ぎた。
 桜前線が能登に着いたある日、小宮山総務部長から、城山の夜桜見物の誘いがあった。
 標高三八Oメートルの夜景の展望は見飽きなかった。眼下には微細な町並みの光が集合し、港の海岸線を縁取る。黒い湾内には、船舶灯があちらこちらで点在する。その先には能登島の集落の光がちらつく。これらは水平線の向こうまで、空間を分け合うように夜空の星と混在していた。
 視線を引き寄せれば、城址公園に連なる提灯が薄紅の花弁を鮮やかに浮き上がらせている。どこもかしこも花見客であふれていた。にぎやかなカラオケが流れる。歌のまわりには剽軽な男女が踊る。
「ここでゴザを拡げましょうか。来月、和修丸の船長が定年退職でしてね。まあ、どうぞ」
 小宮山が地酒を勧めた。
「どうも、どうも」
「一九九トンの練習船じゃ、藤堂さんのキャリアじゃ物足りないでしょうね」
「話が見えませんが?」
「練習船の船長になる気はありませんか」
「私が?」
「こどもの信望は厚いし」
「まったく自信がありませんよ。自立更生の処遇など。船舶の技術と理論ならともかく、人間そのものが相手となると」
「そこなんですよ。人間相手だという認識が大切なんです。言ってみれば、和修丸は自立精神を養う治療室なんですから。一人ひとり、それぞれ処方箋が違う。船長は医師とおなじです。もっと呑んでくださいよ。さあ、どうぞ」
「精神科の医師ですか」
「いいえ、人間科の医師です。矯正という仕事は人間がやるもの。藤堂さんのもっている人間愛で接してくれればいいんです。一九九トンの船上には、道筋の外れた、苦悶の群像があるんです。こどもたちによい出会いがあれば、人生を大きく変えられる」
 小宮山は熱っぽい目で語る。
「奥行が深過ぎる、私にはむずかしい」
「人間は欠点だけでもないし、また長所だけでもない。挨拶しなくても、規律違反じゃない。でも、人間社会のルールとして挨拶をおしえなくてはいけない。挨拶さえ教えてくれればいいんです。藤堂さんは練習船なんて、目をつぶっても操船できるでしょうから」
 曖昧な返事に終始した。
 小宮山が上手な根回しをしたらしく、省庁を越え、早々と法務技官として出向が決まったのである。
 それから小宮山とは月に一、二度呑む機会があった。城山の夜桜で、うまく乗せられたな、と冗談めかした話題が肴になる。

           *

 藤堂には三歳違いの実弟がいた。小学五年で大病し、長期休学から勉強に遅れた。内向的で、体力的にも弱者だった弟が、中学になると不良仲間に入り、素行が悪くなった。校内のトイレに卑猥な悪戯書きをしたり、繁華街で喫煙で補導されたり、暴走族の集会に顔を出したり、エスカレートしていった。中学校長から両親に、学校が荒れた、目に余るものがあると抗議が寄せられるまでになった。 挙げ句の果てには校内暴力で逮捕されたり、無免許運転で捕まったり、弟はまさに狂走していった。
──おまえのせいで、家族みんなが笑い者になってるんだ。もっと親や兄弟のことを考えろ。解ってるのか。
──兄貴に、おれの気持ちなんか判るもんか。優等生で親から誉められてばかりだ。
──普段でたらめばかりやって、能書きをこくな。批判できる立場か。
──放っておいてくれ。兄貴には関係ないだろう。
──無関係だと思ってるのか。家族に迷惑をかけて。暴走族なんて、敗者の吹きだまりだ。そんなところで粋がるな。
──おれからみたら、世のなかで、兄貴がいちばん嫌な人間だ。
──もう一度いってみろ。
──ああ、何度でもいってやらあ、くそ兄貴だ。
──この野郎。
 藤堂は思いきり弟を殴り飛ばした。弟を殴ることで衿を正させることができる、兄貴の使命だ、と自分を正当化させていた。その実、自分は弟の悩みを聞く耳など持っていなかった。単に家族が笑い者になるからと、自分の立場を重んじ、腹いせから殴ったのだ。
 弟は一七歳のとき、少年院で病死した。小生意気だといい、院内の粗暴犯の仲間から集団リンチを受けたという噂が伝わってきた。だが、検視の結果は心不全によるものだった。
 亡き弟を思いだすたびに、暴力を振るった自分の醜さが甦った。いまとなれば弟に詫びることもできない、心の傷跡だった。
 練習船の船長を引受けたのは、弟にたいする、心の古い傷が微妙に影響したのかもしれない。妻は常日頃から、もっといい仕事につけないの、不規則の割に手当が少ないじゃない、と不満や愚痴を洩らす。藤堂から妻にたいして未だ充分な説明ができていなかった。
ある意味で、自分の職業感とか、過去からの自分の心とか、妻を納得させるだけのうまい説明のことばが見つかっていないのだと思う。
 正門前でライトバンを停めた小宮山は、三輪泰介が逃走でないという船長の見解を後押ししますよ、と約束してくれた。藤堂はそこに期待を寄せる自分を知った。
「鶴沢所長の態度からすると、泰介はきっと独房入りだろうな。ところで、小宮山さんに、泰介の居房の動静調査を頼みたいんだけど」
「お安いご用だ。他には?」
「来年の夜桜は、小宮山さんに、お返しの杯をするつもりですよ」
「お返しの杯だなんて。あと一O年は船長で頼みますよ」
 小宮山の顔は当惑していた。
「来年の春というのは精一杯の妥協ですからね。いますぐにでも……」
「所長は建前をいうけど、藤堂船長には一目置いているし。あっ、時間がない」
「策士だな、小宮山さんは」
 ライトバンが忙しなく、強固な造りの門のなかへと入っていった。
 三輪泰介が懲罰を受けたことから、和修丸の海洋訓練生は一四名となった。
 六月に入ると、七尾から佐渡まで往復だった。両津沖まで穏やかな海だった。新潟港からきた高速のジェットフォイルがすぐ側を追い越していく。大きな波が一枚ずつ押し寄せてきた。和修丸の船体が急に痙攣を起こしたように不規則にゆれた。
 藤堂は訓練生を集めた甲板で講義をはじめた。佐渡沖の潮流とか、ステック(潮目)とか、漁業関係の知識を与えた。訓練生はそれらの内容を支給品のノートに書き取る。もと漁船員の森雄太の目はとくに光っていた。
「これからの海洋は環境問題を避けて通れない。陸上の河川が汚れれば、河口のプランクトンが減少する。それが魚群の構成に大きく影響する。杞憂すべき問題はますます多くなってくる」
 藤堂はそう前置きしてから、佐渡の海岸線を指す。奇岩や巨岩の岩礁が多い。数々の海鳥が群れて飛来し、海面すれすれに飛行する。自然がたっぷり残っていた。その先では、白い灯台から磯に下る遊歩道が見えた場所となると、海鳥が極端に少なくなった。人間と野鳥とが共有できていない証拠だとつけ加えた。
 藤堂は、さらに朱鷺の死滅をも語り、貴重な資源の大切さを説いた。
 島の道沿いには漁村が点在する。一人ひとりに村民の生活を想像させた。藤堂の胸のうちには、こうした思慮をくり返すことで、訓練生が出所したあとの生活順応につながってもらいたい、という願いと期待があった。

             *

 七月は敦賀湾までの往復だった。小樽と敦賀を結ぶ大型フェリー船を見ながら、船舶の特徴を説明した。そのうえで、訓練生には目測で、フェリーの速度を言い当てさせた。それぞれが自分の答えた数値に関心を持つ。一五ノットから三Oノットと幅が広かった。ぴたり正解者が出ると、歓声があがった。
 敦賀港に入港すると、藤堂は岸壁に立ち並ぶ新旧の倉庫群を指し、海運業界の社会的な使命を教えた。
 七尾に帰港すると、訓練生は波止場から護送車で少年刑務所へともどっていく。藤堂も時折り同乗した。港から街なかに入った車は城山の方角へと進む。市街地は整然と縦横に走った道路で、矩形に区切られていた。
 七尾はかつて能登國時代から農水産業で栄え、政治、経済、文化の中心となった商工業都市である。また、能登半島の入口にあたり、
最大の交通の要衝でもあった。
 七尾城は前田利家が築城し、金沢へ入城するまで居城していたところである。街路樹がならぶ市の中心街は、城下町の名残りが色濃くただよう。交易を中心とした港と城下町とで発展してきた、能登半島最大の都市であった。
 歩道の通行人が横目で、こちらの護送車をみている。どんな人種が乗っているのかと、金網の車窓のなかをのぞき見るような視線に思えた。それは犯罪者という別世界の人物を見る目でもあった。
 市街地の一角で、車が徐行する。少年刑務所の高いコンクリート塀が、真夏の太陽に焼かれていた。蜃気楼がゆらめき昇っている。
 都会のど真ん中に刑務所がある。そのこと自体が住民の気持ちを燻らせているようだ。矯正施設とは生活空間を共有したくないらしく、周辺の立て看板には、能登少年刑務所の立退きを要求するポスターが張られていた。
 塀のなかは都市の一角から切り離された、獄中という別世界をつくりだす。町の人々とは共通するものもない。しかし、隔離されたなかにも、人間が存在し、日々の人間模様がある。人間として生きているかぎりは、獄中の囚人すらも、都会の生活者の一部として形づくっているのだ、と藤堂は認識していた。
 車を降りた藤堂はあらためて塀を見上げた。
蜃気楼のなかに、訓練生の揺れ動く人生が妙に重ね合わさるのだった。優秀な受刑者が、この先の人生は頑張ろうという気持ちで出所しても、果たして社会が素直に受けてくれるだろうか、という疑問がつきまとうのだ。
 一人ひとりの生き方や境遇は違うけれども、
かれら自身の心のなかにも、共通して前科ものだという差別意識が存在するのだ。
 顔見知りの少ない都市で生活するにしろ、田舎に引っ込むにしろ、必要以上に前科をひた隠しにしようとする。さらには当事者本人が他人の白い目ばかりを過敏に意識してしまい、心が揺れ動き、かえってつぶれてしまうこともあるようだ。
 正門から敷地内に入ると、庭木の梢から蝉が執拗に啼いていた。ここの蝉すらも都市生活から隔離された、やり場のない啼き方に思えた。
 藤堂は一階正面玄関から奥の部屋にむかった。役割のひとつとして、教育課長に訓練内容と成果を報告した。その足で総務部を訪ねた。
「こんかいの訓練はどうでした?」
 小宮山が椅子から腰を上げ、応接セットに手を差し向けた。
「割に静かな海でしたよ。凪つづきだと、多少緊張感にかけるけど、まあまあの訓練だったかな」
「だれか、船酔いは?」
「その質問から推察すると、小宮山部長は船に弱いのかな」
「大きな声でいえないけど、札幌から能登に異動がでたとき、ずいぶん悩みましたよ。ここは海洋訓練が行なわれている少年刑務所だから。場合によったら、自分も船に乗せられるのかと思い」
 小宮山はヒソヒソ話の口調でいった。かれら矯正職員は刑務所、拘置所のみならず、少年院とか鑑別所とか、全国の施設への転勤があるのだ。
「札幌刑務所では?」
「あそこは前科を重ねた、犯罪傾向の進んでいる男子成人の懲役受刑者を収容しているから、職員としては楽ですよ」
「というと?」
「修養とか勉学とか教育的な見地よりも、所内でやくざ者どうしの暴行事件を起こさせない、一心不乱な生活ルールを身につけさせる。重要なのはその点で、厳しく規律を徹底させれば、一通りおなじパターンで流れていく」 その反面、海洋訓練の能登少年刑務所は異質である。気の使い方も、これまでとはまったく違う、と小宮山は強調した。
「どうです、能登にきて四年でしょう、後々の語りぐさのためにも、一度、真冬の日本海で練習船に乗られてみたら。まあ、嘔吐をくり返していたら、そのうち船酔いにも慣れてきますよ」
「聞いただけで、青ざめるな」
 小宮山は両手で顔をはさんだ。
「ところで、三輪泰介の動静調査の報告書を見せてもらえますか」
「約束でしたね。あれから問題を起こすこともないし、取り立てて大きな動きはないですけどね」
 小宮山は部下の職員にそれを持ってこさせた。……雑居房にもどされた泰介は、同房者と雑談するこもなく、いちおう机にむかい、航海や海運の本を読んでいる。ただ、見るからにして真剣味はないし、一ページもめくらず閉じてしまったという観察記録もあった。
「本を広げるだけでも脈があるな。泰介に会わせてもらえますか。この目で舎房ないの生活ぶりを見ておきたい」
「この時間帯はどうかな? まあ、いいでしょう、船長の頼みですから。勉学の実態を知りたいとか、うまい口実にしておきましょう」
 小宮山が処遇部長の了解をとってくれた。二十代後半の制服制帽の担当看守が鍵をがちゃがちゃ鳴らしながら、長い廊下を行く。途中には二ヶ所の鉄格子があった。舎房まで案内された。藤堂は、看守が扉の鍵を開けようとするのを制止した。
 厚手の扉には蒲鉾大の長方形の視察孔があった。内部をのぞくと、泰介が本を開いていた。それは船舶関係だとわかった。藤堂は無言で看守に合図した。
「三輪、藤堂船長が面会だ」
 担当看守が鍵を開けた。泰介は条件反射的に背筋を伸ばした。扉が開放されると、立ち上がった泰介は横目で、ちらっと不快な表情をむけてきた。そこからいまなお反発心が感じられた。
 看守ともども面談室にむかった。小さなテーブルをはさんで、藤堂は泰介とむかいあった。そばには看守が立ち合う。
「もう何ヵ月だ? 海に飛び込んでから。そろそろ和修丸にもどりたくなっただろう」
「別に」
 泰介はぶっきらぼうな返答だった。四脚のパイプ椅子を二脚にして揺らす。ギーギーと鳴る。立合う看守が、三輪しっかり座っておれ、と威圧した。
 藤堂は二人だけにさせてもらった。看守は挙手して出ていった。
「いったい何が気に入らないで、泰介、そんなに拗ねてるんだ?」
「何も好きこのんで、ここに来たんじゃねえ。くそ面白くないだけさ。何もかもが」
「泰介には子犬を助ける、心のやさしさがあるんだ。もっと素直な前向きの考え方になれないのか。でないと、人生が明るくならないぞ」
「犬なんて、好きじゃねえ。逃げる気だったから、霧の海に飛び込んだ」
「目的は逃亡か」
 藤堂の眉間にしわが寄った。
「そうだよ。でもよ、警備隊の笛がきこえたから、やばいと思ったんだ。運よく子犬の箱が漂流してたから、とっさに手にしたまでさ。
犬を助けるために、五月の冷たい海に飛び込むなんて、バカでもやるもんか」
 泰介の口もとには冷ややかな笑いがあった。
目的は逃走だったのかと、藤堂は裏切られた淋しい気持ちに陥った。一方で、なにか釈然としなかった。
「何度もいうが、泰介の将来は、泰介自身で決めるんだ。将来をどう考えてるんだ?」
「船員なんか、こころざす気などねえ。おれは一九の年まで、長く生きたことを悔やんでるのさ。ただそれだけだ」
「その歳で長く生きたと悔やむほど、人生が達観できたのか」
「そうだよ」
「刑務所は修養と勉学の大切な場所だ。獄中でただ拗ねていて、社会に出たら頑張ろうと考えていたら、大まちがいだ。いまから努力しない人間に何ができる」
「このさき死んで出獄しても、生きて出獄してもおなじことだ。俺は蛾とおなじよ。蛾って、ひとに嫌われるじゃん。場合によったら、叩き殺される。そんな蛾で生きていくだけだ。出所しても、修業や勉強などする気もねえ」
「明るい人生を拓く気もないのか」
「ねえな」
 なにが原因で、こんな性格になったのだろうか。身分帳の記載内容が藤堂の脳裏にうかんできた。親さえ離婚しなければ、泰介の心はここまで堕落しなかったのだろう。
 しかし、この世のなかで、親が離婚したのは泰介だけではない。ここで控えめな態度とか、やさしいことばを向ければ、泰介は図に乗ってしまうだろう。
「生涯、そんなひねくれた気持ちで生きたらいい。だけどな、本物の蛾だって、懸命に生きているんだ。それだけはよく覚えておきな」
「船長も、船は前進だけじゃなくて、後進もあると覚えておいたほうがいい」
「ばか野郎」
 藤堂は怒鳴りつけてから、泰介との面会を打ち切った。立ち去る藤堂は胸のうちで、どこか実弟と重なりあうものを感じていた。

             *

 半期ごとの修了航海は、八月の月遅れのお盆明けに下関への往復と決めた。それに先立ち、訓練生たちは波止場に繋留する和修丸に乗り込み、出航まえの点検と補修に入った。
 灼熱の太陽の下で、ペンキ塗り、レーダー塔の点検、停泊灯などの玉の取り替え、エンジンの分解掃除など、だれもが決められた作業に精をだす。
 操舵室では、航海科の森雄太が棚から海図を取りだし、航路の記入をはじめた。森は頑強な骨格のからだに似合わず、見た目よりも緻密さがある。航海士の免許を狙う、真面目で優秀な人材だった。
 日本海沿岸に沿って南下していく航路がなかなか定まらないようだ。海図に書き込む鉛筆が動いていなかった。思考がさ迷っているのだろうか。
「元気がないな。どうした? 顔色もさえないし」
「ふだんと変わらないと思います」
 森は藤堂の顔をちらっと見ただけで、海図に視線を落とす。船長と直視したくないというか、彼自身の目の表情を隠す態度に思えた。
それでも藤堂がのぞき見ると、森の目には暗い影があった。
「なにか悩み事でもあるのだろう。ただ寝不足の目だけじゃなさそうだ」
「いいえ、別にありません」
「それならいいけど。お盆に、奥さんやこどもは能登まで来るのかい。面会に」
 森は無言だった。
 藤堂は船長として、一人ひとりの訓練生の心の奥底までも知り尽くしておく必要があった。森が避けたがる話題に、あえて踏み込んでみた。
「妻子は焼津だったな。能登の先端までは遠いからな」
「だと思います」
 森の横顔の表情から推察すれば、奥深い悩みがあるようだ。
 藤堂が記憶している森雄太の身分帳によると、高校卒業後、焼津を基地とする遠洋まぐろ漁船の甲板員となっている。二四歳で結婚し、二年後に長男が生まれていた。
 森が二九歳のとき、南洋の海難事故で、九死に一生を得ている。帰ってきたとき、女房が三歳の子を連れ、船具店の亭主と同棲していたことから、刃物をもって押しかけ、店頭に居合わせた情夫を殺害したのである。
 拘置所に面会にきた女房が、詫びを入れたことで、夫婦はもとのサヤにもどっていた。
「なにか相談したいことがあれば、遠慮なく声をかけな」
 私的なことばは、船上でも、刑務官の許可がいる。猪俣警備隊長などはとくに私的な発言を嫌う。それを承知で、藤堂はいった。
 練習船の船長という立場を利用すれば、刑務所規則のぎりぎりのところで、相談相手になれるだろう。
 船内点検のために、藤堂は操舵室後部のハッチから、垂直の鉄ハシゴを下った。オイルの臭いが鼻孔を突いた。エンジンルームでは、
機械科の訓練生たちがバルブ、ゲージ、パイプなど余念なく点検していた。藤堂は一通り全員に声をかけてから、垂直ハシゴを上がってもどってきた。
 甲板を一周してきてから、操舵室の側に立った。森が船窓から海岸広場をじっと見つめていた。訓練生が手を休ませることは、退避にとられる。警備の刑務官に見つかれば、怒鳴られるはずだ。
 藤堂は森の視線の方角をみた。三十代の父親がピッチャーで、七歳くらいの男子がバットを振る。ボールが当たると父子で喜ぶ。わが子を思い出したのだろう、森雄太の目が涙で濡れていた。
 翌日は教壇で、レーダーを使った船位測定法の基礎理論を教えた。講座が終わったとき、
鶴沢所長に呼ばれた。
「次の航海には森雄太を外しましょう。三日前、女房から離婚届が送られてきた。本人は強いショックを受けているようだから」
 鶴沢所長が戸棚に飾るウイスキーを取り出して、勧めた。
「離婚届で、元気をなくしていたのか……」
 きのうの森の涙を思い起した。
「夜も眠れてないらしい」
 森雄太は手紙を受け取ったあと、航海関係の書物など一度も開かない。笑顔一つない。就寝の九時まで熱心に勉強している訓練生から、ただそばに居て独り言をいわれると耳障りだと苦情がきた。そんな事情から、あすには独房に転房させるというのだ。
「奥さんはなぜ離婚を? 出所を待たずに」 鶴沢所長が手紙の内容をこう説明した。……えに考えたけど、将来、やはり人殺しの夫と一緒やっていけません。拘置所の面会室で詫びたのは、事件直後だけに、自分も殺されると思い、恐くて復縁を誓ったのです。もはや心はあなたから離れているし、息子には父親を人殺しだと教えたくない。子が可哀想だから、同封した離婚届に捺印してください、と。
「気の毒だが、受刑者は弱い立場だ。捺印を拒絶すれば、妻は裁判所に調停を申し出るだろう。まず妻のいい分が通ってしまう。過去には可愛がっていたにせよ、一人息子も妻のほうに取られるだろう」
 鶴沢所長が煙草に火を点けてから、
「森の担当看守や処遇部長からも、次回の航海は不参加が懸命な処置だと意見が出されている」
「森は国家試験を控えているし、本人に乗船の希望があれば、かなえさせてやりたい。森の意識は乗船を拒否しているんですか?」
「いや、当人は乗船を希望している。しかし、
自殺でもされたら、大事になる」
「自殺」
「そう、所内の自殺は異常なできことじゃない。これは私の経験からもいえることだけど、刑務所は拘禁状態の異常な社会だから、過去には離婚問題での獄中自殺や、未遂が数多くある。実社会だと、やけ酒、競輪 競馬、パチンコ、さらには買春などで気分を紛らわせられるが、獄中では落ち込んだ気持ちをまぎらわす手段などひとつもない。ベラベラ喋って気を晴らすこともできない。妻に会って離婚を思い留まらせたくとも、真の理由を訊きたくとも、面会にきてもくれなければ、打つ手はない」
 離婚を申し渡された受刑者は、心に焦燥と苛立ちを積み重ねるばかりだ、と所長は強調した。精神面から暗く沈んでいくし、挙げ句の果てには自殺を図ったり、粗暴になったり、孤独な夢想から精神に異常をきたすのだと説明した。
 鶴沢所長はさらに具体的な事例をいくつかあげてみせた。それゆえに、森にはふだん以上の監視が必要だと補足した。
「それなら、なおさら航海に出してやったほうが良策だと思いせんか。独房に居れば、気持ちが沈んでしまい、気も変になります。そうじゃないでしょうか」
「船長の意見はもっともだと思うが、ここは矯正施設だ、リスクが高い。処遇部長は頑固反対すると思う」
「森は有能ですから、きっと立直れます」
 所長室から退室した藤堂は、小宮山総務部長を訪ねた。森の離婚問題は知れ渡っていた。
「森を海洋訓練に参加させたい」
「うむ」
 小宮山は腕を組んだ。
「処遇部長の意見ばかり尊重し、教官の船長の意見が無視されるなら、指導に責任がもてないし、自信もなくなる」
「自信喪失はないでしょう」
「こんどの海洋訓練で、森が不参加となれば、来年の夜桜で杯を返し、海上保安庁に帰ります。もしこちらの願いが通らず、異動の辞令が出なければ、退職もいとわないつもりです」
「退職だなんて、困りますよ。受刑者ひとりの処遇問題で」
「私は真剣です。後釜の船長を見つけておくことです」
 藤堂は意識して怒り顔でいってみた。
「わかりました。掛け合ってみましょう、私が。ここで優秀な藤堂船長に退職されたら、海上保安庁から、ひどい批判を受けることになるし」
 小宮山の根回しが効いたのだろう、出航二日前になって、森の参加が決まった。

            *

 和修丸が能登半島をまわった。輪島沖まで海面が明るい陽光できらめいていた。この海域には大小の漁船が数多く出ていた。ひときわ大きな夕日が水平線の彼方に沈んでいく。訓練生の顔が茜色に染まる。かれらは手を休めないまでも、感動の眼差しで見ていた。
 獄中の人物はこうした眺望にひと一倍の感動を覚えるらしい。ある意味で、塀の外に出られない囚人に比べ、自分たちは優良な囚人だ、模範囚だという優越感がもてるときでもあった。
 水平線が黄昏てきた。夜間航行の準備に入った。練習船は時間とともにレーダーを頼りに陸上に沿って南下していく。岬の灯台の光が闇のなかで幻想的に旋回していた。甲板には天空の星が降り注ぎ、波の音が船縁をたたく。夜半を過ぎると、昇ってきた月がしだいに青く冴えてきた。月光が海面で砕け、船波が銀波にみえた。
 夜勤の刑務官が眠気防止でハーモニカを吹く。単調な真夜中だけに、音色には大きな変化と刺激が感じられた。そのうえ、童謡や民謡の静かな抑揚が夜空にうまく調和し、心の奥まで心地よくひびいていた。
 越前沖で朝を迎えた。交替で訓練がはじまる。夜の担当は船室のベッドに入った。
 敦賀までは何度も訓練航海したルートである。操船の基礎知識から応用編へと、指導が移っていた。
 敦賀に入港すると、船体を岸壁で一晩安息させることに決めた。上陸した刑務官たちが食料や雑貨の一部を購入してきた。
 警備上の理由から、訓練生の上陸はいっさい許されない。夜になると、海に飛び込まれる怖れがあると、甲板にも出させてもらえない。どんな優秀な受刑者でも、警戒の目がゆるめば逃走の誘惑に駆り立てられる、それが受刑者という立場の独特の心境だ、と猪俣隊長が語っていた。
 翌朝は立石岬をまわり、地形が複雑な若狭湾へと用心深く航行していく。順調な航海だったが、鳥取砂丘の沖合では移動性低気圧に遭遇し、海が荒れてきた。
 船窓は大粒の横なぐりの雨に濡れ、視界もない。強い潮風が容赦なく襲いかかる。風の音が不気味に耳もとで鳴りつづける。
「森、舵を代わろうか」
「船長、ここはわしに舵をやらせてください」
「訓練生一四人、刑務官四人。それに、俺の命もかかってるんだ。失敗すれば、大きな海難事故になるぞ」
「ここは是非やらせてください」
 森雄太の目が燃えていた。
「任せた。乗り切れ」
 藤堂は操舵のテクニックを細かく教えた。 和修丸の船体は荒波におびえるように揺れていた。床から海面のうねりが伝わる。サメの歯のような白波が四方を駆け巡る。乗組員が海に転落でもすれば、とっさに噛み殺す気配をみせていた。
「離婚は認めるのかい?」
「船長、いまとてもそんな話題に乗れません」
 森の目はひたすら前方の一点にあった。  波涛は狂った巨体で、舳先で砕ける。飛沫が甲板を越えていく。
「こんな嵐だからこそ、冷静な判断と、心に余裕が必要なんだ。亭主が沖で働いているときに、浮気するような女はこちらから捨ててやれ。どうせ、また男をつくったから、離婚を言いだしたんだろう」
「たぶん」
 森の注意力は、すべて波涛の海にあった。「かつて裁判で、森は殺意の動機などうまく説明できてなかったんじゃないか。懲役八年とは長すぎる」
「負け惜しみになるからと、あまり喋らなかった……」
 そう前置きした森雄太は、グアム沖の遭難体験を語りはじめた。遠洋まぐろ漁船が嵐の海で転覆し、太平洋上で、漁船員たちはボートで漂流をはじめた。最初のうちはたがいに励まし、気力もつづいていた。仲間ひとりの生命がつきると、ショックは大きかった。また一人と消えていく。生存者の数が段だん少なくなっていった。
 大型タンカーを発見した。手をふっても気づかれずに通りすぎていく。このときの落胆と絶望感はことばにいい表わせない。人生はもう終わりかと、無限の不安の底に落ちていく。強い焦燥感のなかで、脳裏にはつねに妻子の姿が浮かぶ。もう一度だけ逢いたい、もう一度だけ逢わしてくれと、天に祈った。妻子の顔を浮かべることで、もっと頑張ってみよう、という気持ちになれた。独り身だったら、すでに死んでいただろう。
 三五日目に、イギリスの貨物船に救助された。
 焼津に帰ってみれば、女房は家にいなかった。となり近所から話を聞き、船具店を訪ねた。女房はこちらの顔を見るなり、ねえ、別れてよ、といった。森のからだは震えた。いったい亭主の自分にどんな非があるというのだと詰め寄ったけれども、別れてちょうだい、それ一点張りだった。
「それで殺してやろうと思ったんだな」
「それが違うんです。これは長い漂流でみてきた悪夢のつづきだ、現実じゃない。そんな気持ちでした」
「まだ理性が働いてたわけだ」
「それを理性というんですかね? 女房から本当の事情を聞きたかった。その思いもままならず自宅にもどり、酒を飲み、考えるうちに気持ちがムシャクシャしてきて許せなくなったんです。亭主が南海で遭難し、苦しんでたのに、情夫をつくり、乳繰りあっていた、と。翌朝でした、気づいたときは、女房でなく、船具店主のほうを殺していた」
 帰宅した日に衝動的に殺していれば、刑期は短かいはずだ。しかし、一晩おいたことから、計画的な殺人だとみなされたのだろう。
「亭主が南海で遭難し、生死をさ迷ってたとき、男と抱きあった女房だ。どんな男でもかっとくるさ。殺す、殺さないは別にしても」「所詮は、そんな女だったんですね」
「選んだのは、森、おまえだ」
「船長は後悔しない奥さんですか?」
「強い反論だな。欲をいえば切りがないけど、
まあまあかな。多少は後悔ぎみだ。愚痴が多くてな。鬱陶しいこともある。内緒だぞ、もし女房に出会ったときは」
「そんなに口が堅いほうじゃないし」
「こいつ」
 藤堂は頭を殴る真似をした。
 森雄太の口もとから久びさに笑いが洩れた。
「女房とはいつでも離婚できるんです。でも、
あの女房ことだ、別れたら、こどもには生涯逢わせてくれないと思うと……」
 森の目には涙がたまった。
「逢えるさ。こどもは母親の私有物じゃない。
半々の血が流れてるんだ。中高校生になれば、
母親の目を盗んでも逢いにくるさ」
「それならいいんですが」
「それに大人になれば、こどもにも真の事情がわかる。殺害した理由も理解してくれるさ」
「わしは教える気などない。船長、境港に入港しませんか」
「その言葉を待ってたんだ。はっきりいえば、
森の技術はここまでだ。限界を知ることは良いことだ。入港するまで、気を抜くな」
 和修丸は大きく揺れながら、美保湾の入江の奥へと進んだ。甲板科の訓練生が雨合羽姿で、錨を入れている。無事に停泊した。
 夜明けの気配がひろがってきた。重い黒雲がちぎれて海面に激突するように低くとんでいく。波涛は白馬の軍団のように勢力がまだ衰えず、おなじ方角にむけて駆け巡る。低気圧の海が静まるまで、藤堂は練習船の出航を見合わせることにした。おもいのほか海は荒れつづけた。日程の関係から、下関までは断念し、ここから能登に引き返すことに決定した。
 やがて、風雨が息切れを起こしてきた。
「アンカーズ・アウエイ」
 藤堂が船内マイクで出航を命じた。
 入江から外洋に出ると、海洋には水平線の輪郭がはっきり現われていた。黒い雲の一部がほころびてきて、銀色の陽光のスポットライトが海面に射す。船は北上していく。陽はだんだんと柔らかさを増し、波涛はだんだん平坦になってきた。
「藤堂船長は度胸がありますね。一昨日の、あんな嵐のなかで、わしに舵を任せてくれた……。板子一枚下は地獄だったのに」
「理由は簡単だ。和修丸はきみたちの練習船だからだ。船長の私物じゃない」
「女房は亭主の私物じゃない」
「うまいことをいうな」
「能登に帰港したら、離婚届を送り付けてやりますよ。それも速達で。別れたがる女房を無理に引き止めることはないし。いまさら好きになれる女ではない。無理した結婚生活をつづければ、自分の気持ちを一生ごまかすことになる」
「それがいい。将来、わが子が父親の過去の過ちを気にするよりも、おやじは一等航海士だと胸を張れるようにしてやれることだ」
「ぜったい、そうしてみせます。暗い気持ちがすっと消えていきました」
「それはよかった。女房を解放することで、森はむしろ自由を勝ち取ったんだ」
「そうですね」
 森が白い歯をみせた。

          *

 九月から、訓練生の一部が入れ替わった。学校教育と違い、途中での入れ替えがあるので統一した教育がむずかしい。教室の講座もおなじ内容をくり返し聴講するケースが起きてくる。むろん、訓練生から批判のことばなどいっさい出てこない。教官に楯突けば、刑務所のルールで懲罰となるからである。
 三輪泰介はなおも要注意人物扱いで、乗船許可が出なかった。袋張りの刑作業についているようだ。
 日帰りの航海訓練がはじまった。七尾湾は中央に細長く伸びた能登島を抱えている。大口瀬戸、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸、小口瀬戸で分割されている。それらを回ってくる海洋訓練は、徹底した集団指導である。
 新入りは船内生活がまだなじめていない。湾内の静かな海にもかかわらず、嘔吐するものが出てきた。それすらも数回にして、慣れてきた。
 新しいメンバーのなかに、鹿児島刑務所からきた蛭田功一という二九歳の人物がいた。早く適応をめざす意味からも、食後の休憩時間に、藤堂は蛭田と膝を交え、罪を犯す過程を話させた。
 蛭田は細長い反った胡瓜のような顔立ちだった。それでいて露眼だった。
 蛭田は、脳溢血で倒れた寝たきりの父親を殺した罪だった。六年の実刑判決で、残る刑期は三年だという。仮釈放がもらえれば、残りが短くなるけど、と期待をこめていた。
「なぜ、あんなことをしたのか。いまさら後悔しても、罪は軽くならないんですがね。女房は、おやじの食事やら糞尿の世話で、疲れて、実家に帰ってしまったし、男手の看病には限界があった。衰弱が激しいおやじは生きる気力をなくし、死にたい、殺してくれ、と口走ってばかり。それも毎日ですよ。朝から晩まで。わしはとうとう親の首に手をかけたんです。一種の安楽死ですよね。それなのに検事も、裁判長も、わかってもらえなかった」
「それにしては、ずいぶん刑が長いじゃないか?」
「死んだ父親をみて恐くなり、逃げだしたんです。家のなかの金をもって」
 身内だから強盗殺人は成立しない。殺人罪には問われた。自首していれば、裁判で安楽死を争うことができたのだが、と蛭田は自分の行動を解説つきで語る人物だった。
「いまの話のなかで、自分の都合の悪い点は隠しているんじゃないのか」
「全部お話しましたよ。人間は完全無欠じゃないし、どんな裁判官だって、判断の誤りを犯すことがある……」
 と司法批判までやってみせた。
 藤堂はもう一言いいかけてやめた。
「さあ、時間だ。蛭田は甲板作業のつづきだ」
 船室から出ていく蛭田の、歩き方は肩をいからせ、がにまたで歩く。
 富山湾から屹立するように、秀麗な北アルプスが視野に入ってきた。だれもが見惚れる絶景だった。それだけに訓練生の目が奪われやすい。藤堂は、海中の定置網には充分注意するようにと促した。
 このあたりの海は鰯、ブリ、メバル、黒鯛などが捕れる。練習生のなかには、将来、富山湾の漁場で活躍する人物も出てくるだろう。
「いい景色だな。船員は自然を相手にした、誇りのもてる職業だ」
 蛭田が甲板のモップがけの途中で背伸びする。かれの職業感はどこかしっくりこない。時折り、ウインチを磨きながら、甲板科の少年ふたりを相手に喋っている。口が達者で、警備隊の目を上手に盗む。新入りの海洋訓練生にしたら、ずいぶん大胆というか、横柄な態度があった。
 デッキの柱の陰で、藤堂は耳を立ててみた。
 鹿児島刑務所のおなじ舎房に、背中に彫り物がある、やくざ者がいた。覚醒剤取締法違反で捕まった男だと教える。
「麻薬の密輸はぼろ儲けのうまい商売らしい。だけどよお、船員が悪の道に入ったらいけねえ。大金をつかみたくてもよ」
 と講釈を語る。若い警備隊員が姿を現すと、
蛭田は沈黙した。
(この男は、なにかしら将来の仲間づくりで能登にきたのではないだろうか)
 藤堂は蛭田にある種の疑いと警戒心をもった。さらに観察していると、要領よく手抜きをしているのだ。カモメが甲板に飛来すると、蛭田が素手で捕らえようとする。決して捕まえられるものではないのに。
「おい、手が遊んでるぞ。どうした?」
 藤堂が蛭田の背後から近づいた。
「船酔いです」
 蛭田がとたんにデッキから身を乗りだし、こっそり指を口腔に入れ、嘔吐してみせた。
「別に、顔は青ざめてもないな」
「そうですか。顔に出ないのは体質ですよ。ところで、船長、いま何時です?」
「訊いてどうする」
「あとどのくらいで七尾の港に着くのかと思って」
「七尾の到着時間を知ってるのか」
「それも聞こうかと思って」
「鹿児島で長年、刑務所暮しをしてきた身だろう。受刑者の目のふれるところに、時計を置かれてないことくらい知ってるはずだ」
 その理由としては、受刑者が外部の者と逃走を示し合わせる危険性があるからだった。
「船上の和修丸は例外かと思って」
 蛭田はつぎつぎ言い訳をする男でもあった。どこか油断ならないものを、なおさら感じさせる人物だった。
 翌年の春になると、藤堂の粘り強い交渉の成果もあって、三輪泰介が訓練生としてもどってきた。
 藤堂は、航海のさなか、船上の片隅に泰介を呼んだ。
「引取ってもらえるとは思わなかったかい」 藤堂は感謝のことばを期待していた。
「なんでまた、和修丸なんかに……。吐き気がする」
 それは藤堂のがまんの限界を超える態度だった。怒鳴りつけたい心境でもあった。
「船員に将来はないと、いまでも思ってるのか」
 泰介がかつて書いた航海日誌の一部を引用しながら、叱責の口調でいった。
「あるわけがないじゃん。島と本土が橋で結ばれたなら、船は減るか、無くなるしよ」
 航行する前方には、能登島大橋の橋脚が屹立する。太陽に反射する、輝く巨大な鉄の造形美だった。
「いいか、日本では、世界中どこにでも自由に行き来できる船が、都市づくりの源になってきたんだ。いまでもそうだ。歴史的にみても、船による物資の輸送が、都市や町村に住む人々の生活をささえてきたのだ」
 このさき科学技術が驚異的に進歩し、たとえば能登と朝鮮半島が架け橋で結ばれたにせよ、大陸と地つづきになったにせよ、海上輸送の仕事はなくならないのだ」
 泰介は無視した態度だった。
「それに人間誕生の原点が海であるかぎり、人間はつねに海にロマンを抱く。そのかぎりにおいて、われわれから船を切り離せないのだ。船があるかぎり、船員が必要になるんだ」
「俺は必要とされない」
「たしかに、いまのおまえには船員という職業は似合ってない。根性が腐ってる、人間のクズだ。誰からも必要とされないクズだ」
「クズ」
 泰介の顔色が変わった。
「そうだ。おまえはスクラップ寸前の人間だ。
それなのに、自覚すらできてない」
 訓練生の人間性までも否定する。それは過去の藤堂の言動のなかにはまったくなかったことである。
 泰介が無言で唇を噛みしめた。悔しさが全身にみなぎっていた。藤堂の頭には実弟を殴ったときの光景が横切った。
「人間は真実をいわれると、腹が立つものだ。
悔しいか。だったら、ひと様から感謝される人間になってみろ。誰からもとはいわない。たった一人でもいい、心から感謝されてみろ。
だったら、見なおしてやる」
 泰介がからだの向きを変えた。双肩を震わせている。よほど悔しかったのだろう、嗚咽を洩らしているようだ。
 それからの泰介は教室の講義でも、海洋訓練でも、質問をむければ、すべてわからないという解答のみ。猪俣の目がないときは返事すらもしない。いっさい無視した態度であった。以前よりも、かえって態度が悪くなったともいえる。

             *

 六月初旬に、『遠洋航海』と訓練生が呼ぶ、六泊七日の航海が決まった。コースは江戸時代の北前船の航路になぞらえ、能登から瀬戸内に入り、淡路島まで往復してくるものだった。かつて帆船の千石船や菱垣廻船が、地方と大阪や江戸の交易を盛んにさせた、日本海運業の原点でもある。少年刑務所の訓練生が船乗りになって働くからには、こうした歴史的な背景や流れを肌で感じ取ってもらいたという気持ちから、企画したのである。
 一方で、藤堂はかつて呉海上保安庁に長く勤務していた経験があるだけに、瀬戸内の海は古巣にもどる心境でもあった。
 下関を回った和修丸は海上参拝ができる宮島の朱い鳥居の沖合で停船した。甲板に整列した訓練生が、感慨深い目で、海に浮かぶ大鳥居を見つめていた。見るからに、能の舞台にはよく似合う芸術的な情景だった。
 藤堂が訓練生に、海上の安全祈願から、手を合わせさせた。
〈信仰の自由がある。強制されたくない〉
 三輪泰介がそんな反発な目を向けてきた。この場に刑務官がいなければ、少年はきっとそれを口に出したであろう。
 すぐに出航した。安芸灘の芸予諸島には、松林が目立つ無人の島々が浮かぶ。やや大き目の島には集落が小さな入江にしがみついていた。
 そのさきでは来島海峡第一大橋が見えてきた。橋の全面開通から、瀬戸内のフェリーや水中翼船の数はずいぶん減ったらしい。それでも、ここは国際航路の来島海峡である、一日の航行する船舶は一OOO隻を越える。島々の狭い間隙を縫い、大型タンカーが航行する。自衛艦がいく。漁船がいく。カモメが飛ぶ。あらゆるものが密集している光景だった。
 練習船の舳先が北に向けられた。かつて芸予の島々に砦を築き強力な組織力をもった《三島村上水軍》の歴史を教えながら、能島、
来島をまわっていく。本州四国を結ぶ高圧線用の大鉄塔が青空に突き刺さっていた。
 瀬戸内の島々のなかでも、藤堂がとくに好きな大崎上島の神峰山が見えてきた。富士山に似た秀麗な山である。先刻まで遠景だった、山裾の木江港が拡大してきた。機帆船のころ繁栄していた港だったようだ。いまは造船クレーンが荒廃にまかせて眠っている。
 大学時代の藤堂は帆船で名高い練習船・日本丸でハワイに訓練航海に向かった。日本丸は途中、この大崎上島の木江港に寄港し、広島商船高専の生徒をも乗船させて出航していった。それだけに学生時代を思い出させる、なつかしい港でもあった。
 残照の港の海は鏡のように磨かれていた。和修丸から海面に錨が下りた。停泊した練習船からボートが降ろされた。藤堂はひとり木江港の桟橋に上陸した。
 大学時代の同級生の宇佐美道夫が、この島にある広島商船高専で教鞭を執っている。長い教官経験から、宇佐美に意見求めたいと、航海前に電話のやり取りがあった。そのおり、木江港の《コンパ》というスナックで再会することに決めていた。
 上陸してみると、民家はどこも古く、寂れた町だった。通りの曲がり角から沖合を見ると、鈍い暮色の海に和修丸が縮こまったように停泊していた。
 通行人から教わった《コンパ》は、夕暮空から白い鷺が飛来してくる厳島神社の奥手にあった。看板の数軒手前では、灰色の猫が犬小屋の餌を食べていた。藤堂が近づくと、猫はうさんくさそうな横目で、よそ者だとばかりに見ていた。
 ペンキの色褪せた店のドアを開けた。薄暗い店内の壁面には、魚拓が数多く並ぶ。日焼け顔でしわが多い男女がカラオケに熱中していた。
 藤堂はカウンターから離れた場所のボックスに座った。島人たちの視線を、藤堂は横顔に感じていた。
 歌に熱中する島人の年齢から判断すると、過疎の年老いた町の雰囲気が読み取れた。音程が狂ったといい、だれもが乾いた声で大笑いする。少なくとも、この場においては暖かそうな老後に思えた。
 スーツ姿の眉の太い宇佐美が一五分ほど遅れてやってきた。かつては俊敏な若者だったが、いまは腹部がかなり突き出ていた。宇佐美は再会を喜びながらも、
「この大崎島で、囚人の逃亡騒ぎを起こすなよ。面倒だからな」
 といいながら、おしぼりで四角い顔を拭う。
「心配ない。きょうは酒を呑めない。おれはいいから、宇佐美ひとりでやれ」
「何いってるんだ、大吉。他人行儀みたいなことをいうな。寄宿舎の同室だった仲だろう。ところで、少年刑務所の練習船の船長が、なんの相談だい?」
「海洋訓練生の教官を長くやっている立場から、教えてほしいんだが、手におえない、反発ばかり目立つ生徒にはどう対処したらいい?」
「そんな単純な質問か。たいそうな相談かと思ったぞ、大吉から電話が入ったときはな。そんな生徒は退学させるのがいちばんだ」
 宇佐美がさらっと言い、強引にビールを注いだ。
「単純明快だ、といいたいけど、それでも教官か。給料を貰ってるんだろう」
「まあな。船乗りは秩序が大切さ。ルールにしたがえない横道を走る生徒は、所詮、海の男としては不適切なんだ。修理できない人間だと見極めができたら、さっさと切り捨てることだ」
 宇佐美の考え方は、鶴沢所長の発想に近いと思った。
「適性がない、不向きだと言い、受刑者を刑期なかばで、放り出すわけにはいかないだろう」
「少年刑務所というところはそうなのか。一度訓練生になると、後生大事にされるのか」
「いや逆だ。本来は厳しい。少しでも反発した態度があれば排除される。なにしろ、訓練は獄外の活動だからな」
「だったら、なぜ?」
「実は刑務所の所長のまえで、問題の人物をかならず更生させてみると、大見得を切ったんだ。しかし、どうにも手におえない」
「自分で自分の首を絞めておいて、おれに泣き言を聞かせにきたのか」
「なんとでも言え」
 ふたりの目の前に、鯛の姿造りが出てきた。
店のマスターがけさ沖合で釣ってきたものだという。何年ものの鯛とか、重さとかの説明が、ふたりの話題を中断させていた。
「大吉、考えてみれば、高専は国立の学校だ。刑務所も国から費用が出ているから、国立だ。おなじ国立で、海洋訓練生をかかえる教官どうしだ。呑め」
「あまり呑ますな」
「罪を犯して無理に押しこめられた刑務所の受刑者と、試験を受けて希望をもって入学してきた高専の生徒では、本質な違いがあるんだろうな。そっちの方が手間の掛かる人物が多くて苦労してるんだろう……」
「いや、全員が従順というか、規律にすべて従う優秀な生徒だ。とくに成人した訓練生は、全国から集められた模範囚ばかりだから」
「だったら、なぜ問題児がいるんだ?」
「三輪という人物は、入所したとき少年だった。少年刑務所という名が示す通り、未成年者にはあるていどの希望が通る。ことしは二十歳だ。いまのうちに、なんとか更生させたいんだ」
「二十歳なら、もう大人じゃないか。本人に自立更生する気がなければ、それで終わりだ。大吉が努力すればするほど、海のうえで山びこを求めるようなもので、結果の虚しさが目に見えているんじゃないか」
「見棄てたくないんだ」
「師弟愛か、教官の情熱か……。まあ、おれだって、かえりみれば、赴任した当初は生徒一人ひとりの心に、教師としての愛を詰め込もうとムキになっていたものだ。気づけば、いつしか毎年おなじ講義さ」
「いまはマンネリ教官か」
「まあな、妻子を養うために働いているようなものだ。飲め。脳味噌を酒で柔らかくすれば、別な考え方が頭にうかぶかもしれないぞ」
「酔っ払って、練習船に帰れない」
「まさか、もう帰るというんじゃないだろうな。大吉は呉の保安庁にいたころ、この島にきたきりだぜ。あれ以来だ」
「訓練生は夜ともなれば、みんな船室のなかだ。一歩も上陸できないでいる」
「罪を犯した囚人だから、それは仕方ないだろう」
「それなのに、船長がスナックで呑んでいたら、示しがつかない」
「職務規則かい?」 
「それはないけど。良識の問題だ。このくらいで失礼する」
「藤堂」
「なんだ」
 藤堂は中途半端に立ち上がっていた。
「話題に出た、三輪という人物は、自分はどうなってもいいんだと、ヤケになっているんだろう。他人から誉められたり、感謝されたりした経験がないんじゃないか。拗ねてばかりで、だれからも嫌われ者になってしまったとか。他人から親切にされたこともなければ、自分ほうから親切にすることもない」
「当たっている。本人にはおなじニュアンスのことを言ったばかりだ」
「だったら、強い人間不信で固まっていると思う。それを大上段に教育だの、更生だの、処遇だのと構えても、どうにもならないと思う。人間が変われるのは、ちょっとした切っかけだよ。ひとつの例だけど、結婚すれば、男も女も変わるように、なにかちょっとした切っかけがあれば、変われるものさ。それがまた人間のおもしろさでもあり、良さじゃないのかな」
「気長に、切っかけを待ちたいところだが、刑務所には刑期満了というものがある。このまま出所すれば、強盗傷害どころか、強盗殺人だってやりかねない。中学生のころから、逮捕歴が多いしな。獄の外に出てから、更生するとは思えない」
「そうやって、本気になって悩むところが藤堂の良さでもあり、問題点だな。三輪ひとりを更生できても、また新しい囚人が入所してくるんだろう」
「たしかにそうだ。これから先も殺人、強盗、強姦いろいろな罪を犯した人間に会うことになる。それが生き甲斐になれば、冥利だけどな」
「その考え方は、相手がどこまでも囚人だけに、地獄の果てにまで手を差し伸べるようなものじゃないのかな。何事も一生懸命に職責を果たすことと、効果とはとかく結びつかないものだ」
「まあ、いろいろ挑戦してみるさ。どんな囚人にも通用する人間になれるとは思ってないけどな」
「当たり前だ」
「これで失礼する。桟橋にボートを呼び寄せる時間を過ぎている」
「浜まで、一緒にぶらぶら散歩するか」
 水銀灯の燭光が強い台形の桟橋では、釣人が五、六人ほどいた。
 藤堂はライトを使い、沖合の練習船に合図の信号を送った。ボートがこっちに向かってくる動きがあった。その間に、島人と喋りながら魚篭のなかをのぞいていた宇佐美が、不意に振り向いてこういった。
「三輪は、大吉と出会って人生が変わった、自分自身の気持ちで頑張れる人間になれた、と感謝の念をもつ、そんな予感がするな」
「期待してみるよ」
「まあ、焦らないことだ。たぶんおれの勘は当たると思う」
「そう願いたい。ボートがきた」
「こんどはいつ再会できる? じっくり呑めるように時間を取ってこい」
「能登にも一度来いよ。じゃあな」
 軽く手を振ってから藤堂はボートに乗り移った。宇佐美はこちらがかなり遠くになるまで、燭光の下で見送ってくれていた。

           *

 朝焼けの神峰山が輝いていた。木江港の沖合から出航した和修丸は、一路、東に針路を取った。船尾の船波がどこまでも白く泡立っていく。多群島の山並みの彼方から、朝日が昇ってきた。太陽柱のように、陽光が海面で真っ赤に燃えていた。
 村上水軍の本拠地だった因島がみえてきた。島の一角には一O万トン級のタンカーが建造される巨大な造船所がある。反対側の山の斜面には除虫菊の白と黄色の縞模様がびっしり張りついていた。昼間は備後灘を進む。良い漁場があるのだろうか、漁船が蜜蜂のように群がっていた。その先には幾何学的な瀬戸大橋が見えてきた。船上を列車がいく。車輪の轟音が海面と共鳴していた。
「昭和三十年代に、この海域で大勢の修学旅行の生徒たちが死んだ、海難事故があったところだ」
 宇野と高松を結ぶ連絡船が五月の霧のなかで衝突事故を起こした。小中学生の生徒ら数百人の命を奪った悲惨な事故である。
「船の仕事に携わる人間は、注意力を失ってはいけない。わずかなミスで、大勢の生命を奪う、取り返しのつかない事故につながるのだからな」
 藤堂は船員としての心構えを語った。
「こちらが正しい進路でも、相手が居眠りしていて衝突してくることもある。相手が魔法のごとくあらわれたから衝突したではすまないのだ。船員は、多くの人名をあずかるという認識がもっとも重要だ。あらゆることに優先する。事故を予防するには、たとえば半島を曲がったとき、どのくらい船舶がいるか、どういう潮の流れか、微に入り細いにわたって予知できる、技量を身につけることだ。それらが身についたならば、腕の良い船員だといわれる。しかし、腕が良いからといっても、油断は禁物だ」
 藤堂は海上保安庁時代に自分の目で見てきた、数々の海難事故を引用し、船員たちの過失を説明した。瀬戸内だけでも事例には事欠かなかったが、訓練生たちの興味をもたせるためにも、世界最大の海難事故となったタイタニック号、洞爺丸の事故も話題のなかに入れた。
 日没前には小豆島の土庄港に入った。夜の危険な時間帯に、明石海峡を通過できないからである。エンジン音が止まると、藤堂は船長室でしっかり睡眠をとった。
 翌朝一O時には、練習船は明石海峡大橋を慎重に近づいていた。日本海と違い、この海域は船舶数が比較にならないほど多い。
 藤堂は操舵する訓練生のそばで、海上パイロットのように密着していた。進路を指示す。ここの潮の流れは早いぞ、と強調した。航行する船舶との距離によって、ときにはじっくり考える時間のゆとりもなく、とっさの判断が求められる場合がある。
 訓練生は額に汗をかいていた。藤堂が予想したよりも、冷静で緻密な頭脳が発揮されながら、海峡を越えられた。
 大阪湾を奥深く入ると、関西空港への大型旅客機が低空で滑空していた。訓練生がちらっちらっと見上げている。航空機と船舶の比較をしているのかもしれない。スピード、将来性、あらゆる面で船は見劣する。
 しかし、船舶の魅力は捨てがたいものがあるし、船旅の旅情は格別なものがあるはずだ、と藤堂は信じていた。こうも考えた。慌ただしい都会人は、紺碧の海とじっくり語り合う時間が必要ではないか、と。
 船窓が雨で濡れてきた。ここから早々に引き返すことに決めた。当初は友ケ島水道から、鳴門海峡への航路を予定していたのだが……。視界が悪いうえ、大潮の渦で危険だ、冒険をおかさせることになる、と判断したのだ。
「もう一度、明石海峡ですね」
 森が確認した。
「そうだ。航路のとり方にはよく注意しろ。大形船が側に擦り寄ってくるからな。小型船が突然目の前を横切ったりもする。絶対に油断するな」
「はい」
「いまから、よく考えるのだ。墓場を横切るような、舵のとり方にならないようにな」
「どういう意味ですか」
「自分なりに解釈しろ」
「……。解答を教えてください」
「気象条件が悪ければ、気持ちが急く。危険だからといい、早く明石海峡を越えてしまおうという気にならないことだ。干潮と満潮が綱引き状態になる、静かな時間帯に通過することだ」
「いまの段階から、それを計算に入れ、明石海峡までの速度を決めるわけですね」
「そういうことだ」
 藤堂は森の方を軽くたたいた。甲板の訓練生には、見張りに立つ位置を指示した。
 明石海峡は無事に通過できた。

          *

 夕暮前には、練習船が燧灘からふたたび来島海峡へと入ってきた。海峡は大潮の影響で、流れが速い。狭く屈折した中水道の潮流は約八ノットくらいだろう。岩礁の連なる、ごつごつした岩がまるで海上を突っ走っているように見えた。
 ここは国内でも海難事故の多発する海峡のひとつであった。藤堂はかつて巡視船で何度も出動したところである。また、いろいろな死体を見てきたり、引き揚げてきたりもした。
 正面から高速の大型貨物船がやってくる。六万トン級の船で、波の抵抗を少なくする球状船首がどんどん近づいてくる。真横を通り過ぎていく貨物船のブリッジには、クレーンの脚部が高く盛り上がる。それらの形体を見ただけでも、藤堂には長年の経験から積み荷がなんであるか、およそ見当がついた。
 外国のコンテナ船がやってきた。船名からドイツ籍だとわかった。島々を渡る客船が早い速度で入れ違うように横切った。大型船、小型船にかかわらず、年々、速度を争うように高速化されていた。
 コンテナ船の船陰から、ふいにプラスチック製の小型釣舟があらわれた。見るからに、素人ぽい舵取りだった。ここは潮流の速い海峡だけに魚の宝庫でもある。釣舟は真横で並走しているけれど、漁場と見ていつ方向を変えないともかぎらない。
「小型釣舟に注意しろ」
 藤堂が和修丸の右手を指す。釣舟には中年の男女ふたりが乗る。
「あの男女は夫婦者かな。不倫だよな」
 蛭田が講釈を述べていた。
「喋るな。規律違反だ」
 猪俣隊長が怒鳴った。怯田はことさら恐縮し、反省の色をみせる。
 潮流に遡っていく釣舟が突如、磯に座礁し、
た。反動で、女性が海に投げだされた。男性は、磯に乗り上げた釣舟につかまっている。潮流に流される女性はまるで駆けているようなスピードだった。
「全員に告げる、救助活動をする。甲板科は指示されたら、救命いかだを投げ込め」
 迅速に指示した藤堂が、操舵室に飛び込んだ。森雄太から舵を奪うと、遭難者の方角へと和修丸の舳先を変えた。
「飛び込んで、女を助けようぜ」
 泰介が浮輪をもった。
「危険だ、やめろ」
 藤堂が船上マイクで叫んだ。この海峡は渦巻きが多い。魔の渦に一Oメートルでも近づいてしまえば、身体ごと呑み込まれる。浮輪を持ち、ライフジャケットを着ていようが危険だ。
「船長、やらしてくれ」
 三輪が操舵室を見あげた。
「デッキの手摺りから離れろ。後に下がれ。海に飛び込めば自殺行為とみなす」
 猪俣が厳しい語調でいった。
「誰かが助けてやらなければ、女は溺れて死ぬ。お願いします。隊長先生、やらせてください」
「反抗的な態度だ。懲罰にかけるぞ」
 と怒鳴った猪俣が、少年の身体を突き倒す。
立ち上がった泰介は唇を噛む。
「本気で、志願してるんだな」
 藤堂がマイクで確認した。
「かならず救助してみせる」
 泰介の目が光った。
「わかった。潮目の上流に、和修丸を置くから、そこから飛込め。ロープを結んだ浮輪(ぶい)をもって女性に近づけ」
「船長、懲役の勝手な行動は認められない。職権で拒否する」
 猪俣が怒り顔で、操舵室のそばまでやってきた。
「船のうえは一切の責任と権限が船長にある。これは人道的な救助活動だ」
「和修丸は例外だ。特別な法規で運用されている」
 猪俣が目尻を険しくつり上げている。警備隊長がここで泰介に手錠でもかけたら、話がややこしくなる。本来ならば、和修丸をもっと遭難者に近づけるべきだが……。
「救助開始」
 藤堂が叫んだ。
 泰介が即座に海へ飛び込んだ。水しぶきが上がる。片腕に浮輪を持った坊主頭が、がむしゃらに泳ぐ。練習船からローブが延びていく。泰介は我流だけど、力強い泳ぎだ。さすがに能登の島育ちだ。
「ロープを引きもどせ。警備隊長の責務として命令する。渦に呑み込まれる前に」
 猪俣が火がついたように怒り、まわりの刑務官に命令する。
「猪俣隊長、ロープを引けば、刑務官全員を殺人罪で告訴する。遭難者の救助活動を妨害したとして。単なる威しじゃない。これはかつて巡視船の船長だった私が命じた、救助活動だ。少年の逃亡でもなければ、自殺行為でもない。それを妨害すれば、あらゆる状況から判断しても、あなた自身に殺人罪が適用される」
「遭難者が助かる確率などない。懲役を殺すようなものだ」
「いざとなったとき、人間は想像以上の力を発揮するものだ。それに救助活動の経験はあなたよりも豊富なつもりだ。確率がゼロだと思わないから、飛び込ませた」
「死んだらどうする」
「責任は取る。しかし、あの少年はやってくれる」
「懲役になにができる」
 猪俣が腹いせに革靴で、扉を蹴ってから離れた。船長と警備隊長とのやりとりをみていた、刑務官たちの手がごく自然にロープから放れていく。ふだん受刑者に接する職業だけに、殺人罪で訴えられたならば、自分たちの境遇がどうなるか、刑務官はだれよりもわかっているのだ。公務員である以上、刑事告訴され、起訴でもされたならば、その段階で失業だ。
 藤堂は面舵を切った。船体の角度が変わる。
速い潮流だ。ロープがさらに伸びていく。藤堂は船体を泰介のそばへと接近させていく。浮輪がまだ届かない。藤堂は舵をおもいきり切った。ロープが縮まっていく。高度な操舵技術だった。泰介と女性は魔の渦巻まで、もはや二五メートル。呑み込まれるのか。死に追いやってしまうのか。
「泰介が遭難者にアプローチできたら、ウインチでロープを引き寄せるのだ」
 訓練生が二人がその指示で動く。ロープをウインチドラムに巻きつける。訓練生の目が、確認をもとめていた。藤堂はうなずいた。
 泳ぐ泰介が浮輪を女性の頭からかぶらせた。
「よし、よくやった。泰介ブイにしっかりしがみつけ。ウインチで巻くぞ。手を放すな」 藤堂は船上マイクのボリュームを最大に上げて叫ぶ。ニュートラルだったウインチのクラッチが入った。潮流に逆らう浮輪が渦潮と綱引き状態に入った。
 藤堂が潮目に逆らった方角へと練習船の速度を上げた。
 泰介と遭難者が魔の渦から離れていく。
 甲板の訓練生や刑務官が興奮した顔で、拍手していた。
「次は猪俣隊長の出番だ。タラップを降りて、
ふたりを引き揚げてくれ」
「わかった」
 急場の雰囲気にのまれたのだろう、猪俣が勢いタラップを下った。
「先に泰介を。手がブイから離れそうだ」
 猪俣が泰介の衿をつかんだ。強い腕力で、身体ごと引き揚げる。
「三輪、早くからだを入れ替われ。女を救けあげるから、おまえのからだが邪魔だ」
 三輪は疲労困憊だった。
「はやく上にあがれ、もたもたするな」
 急き立てられた泰介が甲板まで上がってきた。緊張が解かれた脱力感から、身体が崩れるように横たわった。
 猪俣が両手で中年女性のからだを抱きあげた。ずぶ濡れで乱れた髪が垂れ下がっていた。
 甲板に上げられた女性は、かなり海水を呑み込んだのだろう、苦しみ、嘔吐をくり返す。その間にも、訓練生が女性の身体に毛布を巻きつける。遭難の恐怖から、彼女は真っ青な唇を震わし、嗚咽を洩らしていた。
 一方で、磯に座礁した釣り舟から男性が救助された。
 夫婦で抱き合って喜ぶのかと思っていたら、甲板に横たわる女性がからだを持ちあげ、泰介の手を取り、
「生命の恩人です。ありがとう。感謝しても仕切れません」
 と何度もお礼をいう。泰介はただ照れていた。
 和修丸は今治港にむかった。沖合で、巡視船にふたりの遭難者を引き渡した。いま今治に勤務だが、かつて藤堂の部下だった保安士が三名もいた。上司だった藤堂船長だと知っておどろいていた。巡視船との別れ際に、三輪泰介に感謝状を頼むぞ、大きな励みになるから、と耳打ちしておいた。勿論ですよ、と快く承諾してくれた。短時間で別れた。
 芸予諸島へと舳先は向かう。
「泰介いま、どんな気持ちだ?」
「船長から、救助開始、と号令が出たとき、俺は信頼されたんだと、うれしかった」
「勇気ある行動だったぞ」
「でも船長、俺は無我夢中で、どのようにブイを渡しのか、よく憶えてねえんだ。このまま死んだら、船長に人間のクズだと思われたままで終わってしまうと、そればっか考えてた」
「いまは輝いて見えるぞ、泰介が」
「輝いてないさ。でも、たったひとりだけど、
俺に感謝してくれる人間ができたんだな」
「女性は別れ際まで、ご恩は一生忘れないといっていた……。あれはお世辞じゃない」
「感謝されるって、こんなに気持ちがいいものだとは知らなかった。俺もっと勉強したい」
 航海士の免許を取り、本州との架け橋もない過疎の島の島民が、自分をあてにしてくれるような船乗りになりたいという。
「腹を据えられるか。苦しいぞ、生活一つとっても。泰介はいずれ結婚し、こどもをつくるだろう。子育てにも金はかかる」
 孤島相手の海運業は、決して楽な生活とはいえない。
「やってみせる。船長は二十一世紀に科学が進歩して大陸と橋で結ばれても、海の仕事は無くならないといった。能登と朝鮮半島が海底トンネルで結ばれても、日本じゅうの島が全部橋で渡されないだろう。だから、俺の仕事は必ずあるという気持ちでやる」
 泰介のことばが藤堂の胸に強くひびいた。 泰介は来島海峡で、大きなものをつかんだ、宇佐美の予感が的中したぞ、と知らせてやりたい心境だった。
「五歳のとき、俺は義母から折檻で顔に火傷させられた。それからは顔を隠す、暗い少年時代だった。窃盗や恐喝をやったり、捕まったり、ずっと、どん底を這ってきた。もう親への恨み言はいわず、胸を張れって海の仕事に就くさ」
「海技士免許をとれば、もっと自信がつくぞ」
「出所するまでに航海士六級をとる。社会に出てから、実技の経験を積んで、だんだん級を上ていくから」
「いまの泰介の心意気ならばやれる。期待する」
「船長、打ち明けたいことがある……」
「なんだ。悪さでもしていた、告白でもあるのか」
「じつは蛭田が俺たち訓練生に出所したら、覚醒剤の密輸仲間にならないかと誘い込んでいるんだ」
「やはり、そうだったのか」
「奴にばれると、殺されるかもしれない。でもよ、船員を悪に引き込む奴は許せねえ」
 やくざが密輸に船舶を使う。藤堂は巡視船に乗り込み、密輸船を追っていた経験から、それら内情に精通していた。猪俣隊長に伝えた。蛭田を取り調べだ、と猪俣が荒々しい声で命じた。警備隊員が蛭田を両脇からはさみ、船室に収監していく。
「よく打ち明けてくれたな。救助活動といい、
泰介の勇気はまちがいなく本物だ」
「船長、以前の俺はつらい事があるとすぐ逃げてた。逃げると悪いほうばっかいった。船長はこういったよな。俺が立直るには、俺自身ががんばるしかない、と。意味がやっとわかったんだ。勇気と、強い意志があれば、いい方にいく、と。これからの俺は違ってみせるぜ。藤堂船長に出会えたことが、俺の最大の財産になる。きっと」
 泰介がほほ笑みをうかべた。
「そうか。そのことばはうれしいかぎりだ。練習船の船長として、三輪泰介が長く心に残る訓練生になると思う」
 藤堂と泰介とはごく自然に握手していた。


             了

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