小説家

『元気100・エッセイ教室』・第5回・10月度作品の書評

 これまでは、「元気に百歳」クラブの「エッセイ添削教室」だった。今月度からは文章添削から脱却し、受講者が作品を講評しながら、自身の批評力を高める、それが推敲力を高める結果になる、という方針に変えた。

 講師からのワン・ウェーでなくなったから、教室名においても、「添削」は不要だと考えた。コンセンサスはとっていないけれど、『元気100・エッセイ教室』としてネーミングを変えてみた。

 今回はいい素材の作品が多く、読み応えがあった。

 
 素材のよさでは、奥田和美『自宅出産』だ。現在では数少なくなった、自宅出産を取り上げている。嫁は息子より七歳年上で、なおかつ36歳で初めて出産なのに自宅出産に決めた。助産士さんの指導による食事療法で、出産後に出血がなかった。
 読者まで一番びっくりしたのは「胎盤を刺身にして食べて美味しかった」という描写だ。祖母となる「私」の都度のおどろきの心情が、リズミカルに語られている。


 動物愛のエッセイは固定ファンができる素材だ。中澤映子『私の動物歳時記・「ピキの死」』は古俣一家のボスとして君臨した、オス猫だ。その生涯を描いている。これはシリーズ化しており、読むのが楽しみの一つのだ。
 16年前の6月、東京の日比谷公園から拾ってきた。ピキと名づけた。ピキは礼儀正しくかった。年下の猫たちの世話も焼き、外の猫たちと身をていして戦ったと、猫の名づけから、生態、さらに老いるまでを丹念に描いている。猫の「自分史」のような作品だ。ビキの晩年の衰弱の状態は、人間社会の老人問題と重ね合うものがあった。猫の葬儀までもよく描かれている。


 最近の作者自身の出来事をシリーズものとして追いつづけているのが、塩地 薫『心臓カテーテル検査』だ。心筋梗塞のため心筋の一部壊死が判った。医大病院では心臓カテーテル検査を最優先することになった。カテーテルという細い管を、脚の付け根や手首の血管から入れ、心臓まで通すリスクの高い検査である。
 心臓の冠動脈の入り口まで管を通して、血管の中を血液が流れる状態をX線撮影できるように、造影剤を注入するものらしい。難解な医学的な事象を読ませていく。一つひとつの展開が正確で、無駄がない。構成力の高い、緻密な計算ができている作品だ。


 神様というむずしい素材を、特定の宗教色をつけないで書ききっているのが、二上薆『神無月(かんなづき)神様はいずこにか』だ。従来とは違った視点で、神を描いている。
 神無月は出雲に神様の集まりらしい。「神」は人間の頭脳が作り出した概念であり、神という概念は人間の数だけあっても不思議ではないという。竹内靖雄著『脱宗教のすすめ』の引用にも説得力がある。
 特定の宗教はなくとも、無神論者ではない、一般的な日本人。そう書かれると、思わず納得してしまう。苦しい時の神頼み。この神様とのご縁が少ないように、という作者の生の声も出てくる。独特の文体で、噛みしめれば味が深まるのが、二上エッセイだろう。


 これまで戦争体験が書き綴られていた。今回は敗戦直後の庶民の姿を描いたのが、長谷川正夫『奇妙な部屋代』だ。終戦後の引き揚げで、親の家に住みながら、部屋代を支払うはめになったと書き出す。
 何ごとが起きたのかと、導入部から引き込まれてしまう。その内容には、敗戦後の住宅難のようすがしっかり書かれているので、説得力がある。
「幸い就職ができたので生活には困らなかったが、中国に抑留されている親や弟妹の生死を思わない日は一日もなかった。心にぽっかり穴があいたような空虚な毎日が続いたが、落ち込むことは無かった」と微妙な感受性に触れている。庶民の目から戦争犠牲の一つの断面を描いている。構成がしっかり組み立てられている作品だ。


 私の好みでいえば、夫婦ものの作品は好きだ。作者の家庭をのぞき見られる、そんな好奇心が高まるからだ。森田多加子『夫婦の信号』はアトリエを持った家庭内でのハプニングを描く。
 読み始めたときから、心をときめかす。一階のベイウインドウでコツコツ音がする。二階から箒がぶら下がっていた。夫が窓の掃除をしてくれている、と喜ぶ。次はハンガーだ。それが二階のベランダに閉じ込められた夫からのSOS。どんでん返し。ショート・ミステリーのようなタッチだ。めずらしい体験。「こういう事があるんだ」と思ってしまう。


 中村誠『秋の風』は、九月十一日という、意味ある一日に絞りこんでいる。十三号台風の状況、ニューヨークの衝撃な光景となった同時多発テロ、と同一日だと記す。作者は勤務した地だけに、ニューヨークには思い入れがあるのだろう。短い言葉で、事件の深さが伝わってくる。
『その日も裏の山は夕日が落ちるまで秋蝉が「まだだ、まだだ」と鳴きつづけていた』。秋の情景のなかに、読者を自然に溶け込ませてくれる。心情がよく表現されているし、実に響きのよい文章である。


 アメリカを舞台にした作品がもう一つ。山下昌子『ハロウィーン』である。夫の仕事の関係でアメリカに在住していた「私」が、陶器の色付け教室に習いに行く。全員が好きな陶器を選ぶ。控えめな「私」の目の前には、割れた陶器しか残されていない。それを使って色付けした。日本人の控えめな態度が美徳とならず、アメリカ人の指導者から怒られる。
 私が白人だったらあんな言い方はされなかっただろう。作品は人種問題へと展開していく。大きなサラダボールの中に、多民族が決して溶け合わずに混ざっているだけだ、とアメリカを語る。


 職人芸を書いたのが、賀田恭弘『10月の花火大会』だ。単なる夏の風物詩・花火大会でない。十月に行われる、プロの花火師による有名な三大花火大会に絞り込んでいる。素材の選び方がよい。
 大曲(秋田県大仙市)大会は日本一の花火師を決められる。土浦霞ヶ浦湖畔の大会では内閣総理大臣賞が授与される。人出数から言えば、信濃川畔の大会が最高゛という。
 三つの花火大会の特徴をしっかり展開している。エッセイというよりも、コラムとして強いアピール力がある。作品の骨格が太く、安定感と力強さとを感じさせる。


 花火が職人芸ならば、狂言の世界も芸そのものだ。石井 志津夫『笑いの原典 狂言初舞台に挑戦』は作品の舞台がよい。
「新千葉笑い」という狂言が生まれた過程から、「私」が演じるところまで、しっかり書かれている。江戸時代の千葉寺に伝わる天下の奇習があったと、作者は前段階でくわしく説明する。
 狂言の舞台の描写には迫力がある。♯『辛抱我慢も晦日まで、巷の噂を、巷の噂をばらまいて。悪い奴らを落花生。 いっぺ いっぺ 千葉笑い。』♭仮面をつけた、祭りの行列は、賑やかに歌い踊りながら、客席両側の通路を降りて舞台に上がった。これら描写には躍動感がある。
 作品は時代考証もよくなされているし、舞台や背景が濃密に書かれている。


 老いた母親の痛々しさが胸を突くのが、高原眞『「亡母散選」あれこれ』である。母親は九州の片田舎のお寺の娘育ちだった。
 作者の目がまず幼かったころの、母親のきめ細かな愛情を綴る。「母親は月見にはススキを採ってきて、自製の団子や茹で里芋で飾った。七夕には桁はずれの笹竹を立て、願い事を子供たちに書かせた。節句や四季折々の催しには妹や弟をも交えた全員で、必ず演芸会の真似事もさせた」とつぶさに観察している。同時に、昭和時代の家庭の風情の歴史的実証としても並べている。
 人間の晩年は痛々しいものだ。ベッドに縛られた母親を描く作者は、自分自身を突き詰め、突き放している。それだけに母親が痛々しい。作者がいちばん書きたいことが、しっかりラストにきている。それだけに、タイトルは『母の十字架』とすれば、強烈なインパクトがある作品だ。

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