A020-小説家

第8回 「元気100エッセイ教室」の作品紹介

 エッセイ教室では、講座がはじまると、30分間のレクチャーを行っている。今回は会話文を取り上げてみた。
 散文の会話は臨場感が出るし、読み進みやすくなる。小説と同様に、エッセイでも会話は重要だと考える。他方で、会話の上手な人は将来、伸びるといわれている。主なものとして4つあげて実例を示しながら、説明した。
  ・ありきたりの会話は書かない。
  ・人物の容姿、性格、服装などを会話で語らせる。
  ・擬音は避ける。
  ・長い説明文を会話でやらない。

 各メンバーの作品を紹介していく。

 

中村 誠   陽気のおかげ


 作者は鎌倉に住む。観光都市の鎌倉を日常風景として、さりげなく上手に描いている。
 月曜の昼ちかく、朝方の寒さが嘘のように暖かくなったと書き出す。春の到来をここでもさりげなく告げる。夫婦で鎌倉駅周辺の散策に出かけた。
 ビル三階の「K」レストランに入った。店内には二十数名の元気な女性たち。鎌倉にあこがれる女性好みの賑やかな店だ。

「ハウスワインの白で、今日のメニューはカンパチ」。フレンチ料理には欠かせないハウスワインは店の顔だし、値段も手頃だと、作者は料理に視点を当てている。味や価格帯について、いつもの見慣れた目で書き込んでいる。

『レストランの若主人がボトルを持ってきて、「残りで一杯が取れないので、どうぞ」と注いでくれた。だが、さすがに最後の最後(澱=おり)を注がないようにした』と、観察の目は細かなところまで及ぶ。

「私」たち夫婦はレストランを出ると、小町通りを歩く。会話が数日前の火事の出来事に及ぶ。被災の薬局と、別の薬局がおなじ場所に二つ並んでいた。ある種の新発見だった。鎌倉住まいの身でありながら、身近な新発見におどろく夫婦が描かれている。

『陽気に誘われて歩いたが、万歩計は九三三五だった』とうまい結末で、締めくくる。作者の五感で、自分のことばで鎌倉を表現している。観光都市だが、身近な素材として気取らず書き込まれている。有名都市の日常の些細な散策だけに、読者にはかえって興味が深まる。


山下 昌子   帯揚げと帯留め


 軍医だった叔父は、昭和20年3月に硫黄島で戦死していた。29歳の若さだ。軍服を着て軍刀を持つ叔父の遺影から、作品は書き出されていく。

 最近、『クリント・イーストウッドの「父親たちの硫黄島」「硫黄島からの手紙」の二作品が上映された。「硫黄島からの手紙」がゴールデングローブ賞の外国映画最優秀賞をとって話題になった、と書き進んでいく。

「私」が五歳の頃、今の大韓民国の大邱に住んでいた。軍医だった叔父が任地へ向かう途中わが家に立ち寄った。「私」の爪を切ってくれたが、深爪だったというエピソードを紹介する。

 叔父の結婚にまつわる話しに及ぶ。それは母のことばから語られる。見合い結婚した女性に、婚前に帯揚げと帯締めをプレゼントしたらしい
 叔父は二年に満たない結婚生活で、戦死した。妻は実家へ戻ったと戸籍に記録されているが、音信はない。「私」は想像するしかない。
『医大時代は相撲部で活躍したようで、叔父のアルバムには、褌姿でトロフィーや優勝旗をもった写真がいっぱいあった。相撲の選手としては痩せているが、筋肉質の体で堂々としている。そのほかは白衣姿で看護婦さんたちと一緒に笑っている写真が多かった』と紹介する。

 作者があえて言葉にしなくても、硫黄島の激戦地で死んだ軍医の悲しみがにじみ出てくる。同時に、戦争がいかに人間の幸せを奪うか、という反戦が描かれている。

 テレビで学徒出陣の映像を見るたびに、「私」は戦争に関わった世代がどんどん消えていく今、哀しむ妻や家族が居たと伝えたいと結ぶ。

「帯揚げと帯締め」で、重い全体を支えるのはどこか無理がある。だが、作者は時節を踏まえた、いい素材を捉えている。このさきも角度を変えながら硫黄島に関連した作品を書いてもらいたい。


長谷川 正夫   三郎物語


「私」は犬好きで、柴犬を可愛がる。初代の飼犬から4代目まで、すべて呼び名を「三郎」で統一したという。面白い展開が予想される書き出しだ。

 大きな骨をもらった「三郎」は、食べ残した骨をくわえ、隠し場所、埋め場所をさがす。ウロウロと歩き回る。どこへ埋めてもよさそうに思うが、三郎は秘密の場所を懸命にさがしているのだ。

『ときどきこちらをチラリと見る。飼い主といえども安心できない、と思っているに違いない』と、作者の観察がしっかりしている。

 庭の片隅に隠し場所をみつけると、骨を足元におき、前足を交互につかって穴を掘ってゆく。みるみるうちに穴ができあがる。その穴に、骨をしまいこむ。
『土をかぶせて骨を隠さなければならない。生憎、犬の前足は手前に曲げることはできても、向こう側に押し出すことはできない。ではどうするか』、と作者はじっと観察しているのだ。

『足をつかわず鼻をつかう。盛り上がった土に鼻をあて、手前から向こう側に押し出す。二回、三回、四回……。何回か繰り返しているうちに、穴は埋め戻され、宝隠しは終わった』。
 三郎の鼻に泥が入り込んでしまった。土は舌でなめてもとれない。そこでくしゃみで一挙に吹き飛ばしたのだ。

『「今のは見ていなかったね」三郎は私を見上げて念をおした。「ウン 見ていなかったよ」思わずこう答えた。この返事に安心したのか、三郎はゴロリと横になって、夢路に入っていった』と擬人法で処している。ラストの情感は、読者にも快いものがある。

 犬と人間のふれあいが感情豊かに描かれている。同時に、犬の習性をもじっくり観察する目がしっかりした作品だ。


奥田 和美   イフさん

     

 台湾人のイフさんの生涯を描いた作品。彼女は台北大学を卒業後、新宿の文化服装学院に留学した。そこから流転ともいえる人生がはじまる。
 安住を好まないイフさんは、次々と住まいと職種を変えていく。コミカルで、テンポのよい作品で、決して暗くない。作者には読者を楽しませる、天性の感性が備わっている。

 イフさんは、生年月日が一緒だった男性と結婚した。都心に洋服店を開いた。順調だったが、二人の性格はぶつかり合い、離婚した。
 彼女は慰謝料は貰わず川崎にマンションを買い、洋服のパターン屋になった。縫い子を雇うほど仕事は多かった。だが、ユニクロの出現で高い既製服は売れなくなった。
 イフさんは料理が得意。変わり身の早い人で、思い立ったらすぐ行動に移る。
 渋谷区幡ヶ谷に、台湾家庭料理店をはじめた。マンション工事現場の人たちが毎晩来てくれた。マンションが完成すると、もう来なくなった。

 イフさんには二人の娘さんがいる。「もう母親に振り回されるのはゴメン」といって自立するのが早かった。美人姉妹で、姉は政治家の秘書となり、妹は全日空の客室乗務員になった。娘の立場からも、イフさんの性格が浮かび上がってくる。

 イフさんは生命保険の外交員になった。いつまでも続かなかった。ヘルパー二級の資格を取った。資格を生かすために、静岡県伊東市へ引っ越し、ヘルパーとなったが、それも長く続かなかった。

 彼女は朗らかで料理が上手。『ある会社の会長の住み込みお手伝いになった。あまりにも気に入られすぎて嫌になり飛び出した』。そして、川崎のマンションが空いたので帰ってきた。ローンがまだ残っていたから、その家は手放した。そしてアパートに住み、こんどはゴルフ練習場の受付だ。

 さらには朝早く市場で野菜の袋詰め。電報の配達人。『「また仕事見つけたよ。 何だと思う?」なんてケロッとして聞く。もうすぐ還暦を迎えるらしい。「どうなっちゃうんだろう」と言いながら、イフさんは何も心配していないのだ』と紹介する。

 人生は一度しかない。こんなにも波乱な人生が生きられる人もいるのか。ある種のうらやましさを覚える。書き出しから、一気に読ませていく、力強い作品には間違いない。


森田 多加子  耳の訓練


 情景描写からの入り方がよい作品だ。『気分も和らぐような陽気が続いている。南向きの部屋の陽は、硝子を通して差し込む。静かな昼の時間。ふと光の中に、こどもたちがいたころの賑やかな家が浮かぶ。走りまわっている息子と娘がいる。耳に甲高い声が聴こえてくる』。作者の生活環境が短いなかにも、しっかり描かれている。

『ふたりが高校と中学に行っていた時分だろうか、こんな話をしていたことがある。
「こどものとき、道路が不通になるというのは普通になると思ってたよね」
「そうそう、普通になったのにどうしてニュースになるのかって」
「いちじ雨は、一時になると雨が降る」
「遺憾に思うは、いけないと思う」』と次から次へと勘違い、聞き違いの話が続く。そうしたものは読者にも心当たりがあるもので、親しみがわく。

 夫のエピソードが紹介される。一泊のプランニングで、夫が行ったゴルフ先の宿の場所探しで起きた勘違い。『大福屋』という宿がその実、ライフケアだったという。まわりは大笑いであったが、聞き違いした幹事は憮然としていたという。

 次は同級の男性が(振り込め詐欺)に騙されてしまったという話題。ふだんは(老い)の字の片鱗さえ見えない人だが、息子と名乗る男性の声を聞き違えたという。時流のエピソードが組み込まれている。

『何事も雑な私は危険このうえない。これからは耳を緊張させて、こどもの声や孫の声など、そうそう夫の声も聞き違えのないようにしなければならない』と「私」への注意を促すなど、結末は決まっている。

 勘違い、思い違いは万人が何度か体験する。筆力がある作者がいろいろ人生の一断面を切って見せてくれた作品だ。欲をいえば、作者自身の体験からの素材もひとつはほしいところ。その一点が惜しまれる。


河西 和彦   ますます元気な高校同期会

 
 中学・高校の同期会が、12月初、上諏訪で17名の参加のもとで行われた。「私」は、先の同期会をエッセイし、記念写真を添えて参加者全員に配った。いろいろな媒体を通じて反応があったといい、それらを紹介した作品だ。

 双樹会美術展に素晴らしい書を出品したK君からは、礼状と色紙がクロネコメールで贈られてきた。
同窓会長のH君からはEメールが届いた。『…貴兄の家で、五球スーパーラジオを半田の付け方を手ほどきされながら、組み立てたことを思い出します』。

 地元で闘病中のM君からは電話で「先日のことを旨くエッセイにして送ってくれてありがとう。感動した。同期生に会うと元気がでるので、次の帰省のとき是非寄って!…」と頼まれた。

 在学中は野球部の強打者で活躍した、練馬のM君からは初めて年賀状が届いた。美術展来訪のお礼が書き添えられていた。湖周マラソン連続三〇年のS君からも「…貴兄の冊子を拝読し、感銘。本年も実ある年でありますよう…」とあった。

 『諏訪の方言集』をくれたE君は年賀状ばかりでなく、電話や手紙や沢山の資料などを頻繁に送ってくれるなど、親交が深まった。他にも、先のエッセイがきっかけで年賀状をくれた者が増えた。

『自分が変われば相手も変わる』の言葉があるように、自分が前向きに行動したら、同期生もそれに呼応してくれたという。

 全文が説明文だが、明瞭な解りやすい展開で、作者の心情が深く書き込まれている。エッセイが取り持つ「和」の広がりがよく解る。同時に、作者が書き残したい世界がしっかり書かれている作品だ。


高原 眞  キッちゃん


 エッセイというよりも、掌編恋愛小説というジャンルだ。青年時代の恋心が成就し、死に至るまで、要所をおさえたストーリーで書き連ねている。

 30歳近くの「私」は丘の上にある学校で勤務していた。元石屋だった宅の離れで、八畳ほどの部屋を借りていた。職場の風来坊が取っ替えひっかえ来た、たまり場だった。五歳も違うキッちゃんがいつのまにか割り込んできた。彼はまだ土木専攻の夜間大学生だった。

 2月の半ば、呑んだ勢いで歓楽街にいった。花見にはほど遠く、風は冷たかった。なじみの女性がいる酒場で、天下国家論、職場の花の品評会と話題が広がる。対象の女性のハルちゃんはインテリで、書道は抜群、気さくで陽気だった。

 酔ったキッちゃんが突然泣きだした。まわりは戸惑ってしまった。「オレ、ハルさんが好きだ」と告白したのだ。彼女はキッちゃんよりも三つ年上。当時は適正な結婚相手ではなかったのだ。なだめになだめて、帰途についた。

 片思いのキッちゃんが急に、土手を駆け降りて川に飛び込んだ。まわりのものは川に入ってキッちゃんを連れ戻した。

 数年して、キッちゃんは土木会社に転職し、黒部ダムの建設現場に赴いた。やがてキッちゃんは『心の旅路』を終焉し、ハルちゃんと結婚することになったと、「私」はまわりからの手紙で知った。

 自衛隊に鞍替えしたキッちゃんは、北海道勤務だった。「私」が自宅に訪ねる。姉さん女房のハルちゃんが、甲斐がいしく接待してくれた。
 3人で、登別温泉にいった。混浴だった。『女性は遠くにしか見えなかったが「あいつ、バカだな。温泉にネックレス嵌めて入ってきょった」と、恋い焦がれた女へ関白きどりの言だ。おかしさを堪えず笑い返した』と、恋の成就をエピソードで描く。

 それからキッちゃん夫婦とは、十数年は逢わずじまい。突如として、キッちゃんの訃報を留守電で知った。通夜が終わった頃を見計らい、葬儀場へ電話し、ハルちゃんにお悔やみを述べた。
「隣に寝ていたお父さんが大声を出したんで」と死の状況を語る。彼女への慰めの言葉をつまらしてしまったと結ぶ。

 片想いから死までと距離が長いけれど、構成がしっかりしているので、作品には安定感がある。こういう熱烈な愛に生きたキッちゃんがうらやましく想う、読後感のよい恋物語で、作品には奥行きと深みがある。


二上 薆   池の凍り  自分史のよすが


 春は名のみの風の寒さや、……氷解け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ (唱歌 早春賦より)

 万物芽生える早春を詠(うた)うには何か物寂しいメロデーだと、作者は前置きする。「どこの国から渡来かなのか」と思っていたら、れっきとした文部省唱歌だった。会社の先輩・上司が、時々口ずさんでいた。この歌が今でも耳に残る、と紹介する。そして、「私」の小学生時代から、高校時代までの真冬のエピソードが語られる。

 小学校二年の寒い2月だった。校庭には南洋委任統治領から運ばれてきた一米以上の大きな貝殻が鎮座していた。真冬だけに、氷が張っていた。一寸端っこを踏んでみよう。冒険心が災いして、『メリメリ、ボチャン、あっと言う間もなく、氷が割れ、深さは子供の背丈の半分くらいのこの池にすっぽり、ああ、またやった。この子何人目だ?』と紹介する。読み手はわが身の出来事のように寒気を覚えてしまう。

『子供の下着一枚にされ、校舎の地下室、真っ赤に燃える大きなボイラーの前に座らされていた。赤々と燃えるボイラーの火と温(ぬく)もり』と情景が語られている。

 小学校は都内・四谷だった。冬はスチーム暖房で、窓際には蒸気を通す熱い放熱パイプの列。持参の弁当箱は昼まで一列に行儀よくその上にのせられ、ほっかほかの昼食にありつくことが出来たと、懐かしい過去の情景を語る。

 中学二年の2月には積もった雪がとけず、建物の陰はこちこちに凍っていた。生徒たちは中庭の雪氷をリンクとした。竹ぎれをスティックに、木片をパックに見立てての急造アイスホッケーだ。冬場の昼休みが楽しめたと語る。

 高校時代。『座席は五十音順に決める、寒い北側の人には来年は逆にし、温かい南側の人と入れ替えるから、という担任教師の言葉。しかし実行はされなかったが、誰一人文句を言わず。何故当然の異議を申し立てなかったかと、自己主張意識の欠落、今頃、残念に思う』と回顧する。

 教師と師弟の関係。いじめ問題で殺伐とした現代では考えにくい、よいエピソードで綴られている。その面では価値の高い作品だ。同時に、作者がなぜ書きたいか、それがよく伝わってくる。


上田 恭子 理想の死に方

 
   
 死は人間すべての共通テーマだ。タイトルからしても、興味が深まる。
いまから20年前、62歳の姉が脳溢血で倒れ、意識を取り戻すことなく逝った。『社会人になっていた子どもたちだが、母の死を受容するのは辛いことだっただろろう』と、「私」は姉妹の死との遭遇を語る。

 8年前、72歳の兄が病んでいた心筋梗塞で倒れた。胸が苦しいといい、兄嫁の運転する車で病院に入った。にこにこ手を振ってストレッチャーに乗って救急治療室へ入った兄だが、結局は帰らぬ人となった。

「私」は兄嫁の冷静さ、ベッドに横たわり心臓マッサージをしてもらう兄を見て、『あぁ、時間の問題だなと思った』。30分過ぎには「ご臨終です」ということばを聞いたのだ。

 何年か前、『文芸春秋』には各界著名人58名が望む『理想の死に方』という特集が載っていた。読後の「私」は、『人間は、思うようには生きられず、思うようにも死ねないと思うのは私だけだろうか。否、多くの人もそうだろう』と自問する。

 小島信夫著『死ねない理由』を読んだ。『辛い人生を生きている人が、世の中に沢山いる。「私」の身内の死からも、実感としてわかる。『アルコール依存症で病院に入り、死ぬまで家へ帰ることはない』身内を見つめ、涙する「私」を知ったのだ。

 近藤誠著『ガンと闘うな』を紹介する。『「痛い、苦しい」という社会通念は多分に誤解にもとづいている。苦痛の大部分は、手術による抗がん剤の投与からで、がんのせいだと勘違いしている』という。
「私」の親友が乳がんの手術を受けた。放射線治療の副作用に苦しんでいる。親友が息子に、「倒れても救急車を呼ばないで」と言ったら、「黙って見てろと言うのか」と言い返されたという。

『さて、我が息子はなんとする?」と導く。自問とともに、読者にも「理想の死に方」という解決できない問題を投げかけているのだ。

 作者と対象(素材)との距離感がしっかり保てているから、『理想の死に方』という普遍的なテーマが深まる作品だ。


和田 譲次   ジョージ君


 実名にまつわるエピソードだ。『ジョージ』それは、小学生時代のみならず、大人になってからも、名まえに関した話題が尽きない。

「私」たち家族は東京空襲が始まるころ、山形県の田舎に疎開した。小学校に入学後、たちまち終戦を向かえた。
 悪ガキたちが登校時に、「ジョーンズ」と呼びにくる。放課後も「ジョーンズ」と遊びの誘いだ。図体はデカく、「私」は一目おかれ、悪ガキ連のボス的存在になっていた、と懐古する。

『戦争中に、こんな名前をよくつけたものだと、私は半ば感心していた。戦争のさなかは国をあげて鬼畜米英であり、野球のストライク、ボールの判定も日本語でコールしていたようだ。この反米思想の頃に入学していたら、「ジョージ」という名はいじめの対象になっていた』。作者ばかりか、読者もそう思ってしまう。

 終戦は東京に帰り、名まえはジョーンズからジョージに戻った。バタくさいジョージという名前は周囲から注目された。あたかもアメリカから来日した少年のようにもてたという。終戦後の価値観の変化がさりげなく語られている。

 中学生の頃、父の話から名前の由来を聞いた。『日系カナダ人の友人で子供に恵まれない夫婦がおり、男の子を欲しがっていた。実父は次に男の子が生まれたら、譲る』と決めた。『譲次は次をゆずる』という意味だと知った。

『その人は太平洋戦争でカナダに帰国した。国籍の関係から子連れで帰るわけにはいかなかったらしい。戦後、その方は来日しだが、成長した子供を人に渡す気にはなれなかったようだ』と経緯が述べられている。

 日系カナダ人は日本にボーリング事業をもちこみ、大変な資産家だった。「世が世なら、私は高級外車を乗りまわしていた」とユーモアで語る。

『パソコンを始めたころ、ジョージを漢字に変換したら「情事」と出た。何だこれ、「オヌシ、俺の過去を知っているのか」と心の中で叫んだが、さすがPCはお利口さん、次からきっちりと譲次が真っ先に出てくる』とラストは愉快に結んでいる。

 単なる記録でなく、体験していない人間にも理解ができる。リズミカルで、読みやすく、面白く、読者を楽しませてくれる作品だ。


塩地 薫 「夜霧のブルース」の舞台  はじめての中国旅行(その四)

   

 上海シリーズだ。「私」は音痴で地声が低く、歌は苦手だ。カラオケにつき合わされると、決まって「夜霧のブルース」を選んだ。いつしか持ち歌にされてしまった。

 曲の舞台は二十世紀初頭の租界時代の上海。魔都上海と呼ばれた当時は裏社会の中心で、大物の暗殺事件もあった。ディック・ミネの映画「地獄の顔」の主題歌、石原裕次郎主演の映画「夜霧のブルース」でも有名になった。

「私」は家族五人で初めて上海を訪れた。曲の舞台となった「オールドの上海」を歩いてみたいと考えた。

 自由時間がうまくとれなくても、「花のホール」と歌われた、1930年頃に建てられたという百楽門大舞庁を訪ねることができた。有名な静安寺のすぐそばで、アールデコ建築の外観は租界時代の雰囲気が残る。そこには当時の趣を残すダンスホールが営業されていた。

「私」の妻は上海でのダンスを希望し、ダンスウエアとシューズを持ってきていた。中国人・許さんが、妻の希望を叶えようと、百楽門で、男のステップをふめる女性二人を手配してくれた。メインのホールは四階にあり、内装はアールデコ調で統一。昼間だが、数十人の客がルンバを踊っていた。

 ホールでは一週間後、2006年の世界ナンバー1のアマチュア選手を決定するグランドスラムファイナルが開かれる予定だ。帰り際には「花のホール」にふさわしい、真っ赤な花をデザインしたエレベーターホールで、許さんと記念写真を撮った。

 上海から湖州に移動する前、許さんの住まいを訪ねた。歴史的建築物として市が保護指定した建物だったから、見た目は荒廃して貧民窟然としていた。しかし、内部は床の図案化されたパラマウントの英文字、広い階段ホール、巾広い石造りの階段は昔の豪華さが偲ばれる。天井は高く、チーク材の床や金属製の窓枠など建築当時のままだった。観光ツアーでは決して見られない、私だけのオールド上海観光になったと、結ぶ。

 作者にとって「夜霧のブルース」の舞台への訪問が実現できた。感動した体験が綿密に書かれている作品だ。

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