小説家

著名作家たち「この町は好い。立石はこのまま残すべきだ」と語る

 1月31日の午後3時に、京成立石駅の改札口に、日本ペンクラブの有志5人が集まった。
 顔ぶれは、吉岡忍さん(ノンフィクション作家・日本ペンクラブ専務理事)、出久根達郎さん(直木賞作家)、轡田 隆史さんくつわだ たかふみ、元朝日新聞・論説委員)、それに吉澤一成さん(同クラブ・事務局長)である。
 吉澤さんは一度、立石には来ているが、他の3人は初めてである。

 ことの経緯は昨年の秋にさかのぼる。ある大学の構内で、私と吉岡さんとふたりして小一時間ほど話す場があった。私は、吉岡さんの3.11の取材体験などを聞いていた。話が転じて、
「葛飾・立石は昭和の街で、好い街ですよ。最近、ネット社会で、口コミで広がり、安く、おいしく飲める、と評判ですから、一度来ませんか」
 と持ちかけた。

 それがより具体的になったのは、12月のP.E.N.忘年会だった。
 私が、出久根さんが受持つ「読売新聞・人生相談」について語り合っていた。吉岡さんが側にきて、「穂高さんから、立石で飲もうといわれているんだよね」
 と話を切り出した。
「立石は良い。とてもいい街ですよ」
 出久根さんが称賛した。
「じゃあ、出久根さんも、一緒に行きましょう」
「立石には、仲の良い古本屋の親父(岡島書店)がいる。かれも誘おう」
 そんな話から、
「日本酒が大好きな轡田さんも。サントリー広報部長だった吉澤さんも」
 と即座にまとまった。

 正月早々には日程調整が進み、覚えやすい1/31と決まったのである。
 
 私を含めたP.E.N.5人が集まった。それに古本屋の岡島さんで、「名刺とケータイがないのがウリです」と笑わせていた。

 立石仲見世を中心とした商店街見て回った。人気の店「うちだ」「鳥房」ともに連休だった。中川七曲りの本奥戸橋にも足を運び、東京スカイツリーを見た。そして、「のんべ横丁」にも案内した。

 岡島さんと私が町の特徴を説明した。

 葛飾・立石は終戦直後は赤線地帯(売春)から、夜の町が発達してきた。他方で産業としては、中川を利用した染物(繊維)、ブリキの玩具(輸出も含めて)、旋盤など利用したパーツ品の町工場、さらには伝統工芸・伝統産業品(和雑貨・小物)などが発達していた。

 これらの職人、工員たちが夜勤明けから一杯飲んで帰宅する。だから、立石は昼間から飲み屋が開いている、という説明もつけ加えた。

 商業的には、荒川放水路から、奥戸街道を通って千葉に荷物を運ぶ。これは古くから開けており、四つ木から奥戸橋まで、延々と道の両側に商店が栄えてきた。(推定・5キロ)。四つ木にも、立石にも、複数の映画館が娯楽の中心としてあった。
 立石仲見世は葛飾で最も早くアーケード街になった。

 昭和の後半から、衰退期に入った。いま現在、四つ木などは7、8割がシャッターを下ろす。立石も凋落傾向にあった。ところがここ数年、インターネット普及で、『昭和の町・立石』が急速に人気となり、風前の灯であった、飲み屋街が息を吹き返し、町全体が力を持ってきた。

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第55回・元気に100エッセイ教室=書き出しは作品のいのち

 書き出しは作品の顔である。名作の書き出しは、読者に強く印象で焼き付き、いつまでも残っているものだ。中学・高校の学生時代に習った、……平家物語、徒然草、雪国、伊豆の踊子、草枕など、作品の内容は記憶になくても、書出しはいつまでも口ずさむことができる。

 作者と読者との初対面の場である。初の顔合わせの1行で、作品の第一印象がほぼ決まる。その善し悪しが作品の先入観にもなる。作品のいのちともいえる。

 上手な書き出しの最大の条件とは、最初の1行で次の1行が読みたくなる。これにつきる。逆に、2行、3行も読んで興味がわかなければ、もう完ぺきに放棄されてしまう。読者は義理で読まないから。


魅力的な書き出し法とはなにか

① 情景文(映像的)、あるいは心理描写などで書く。

② 説明文(ビジネス的)はやめる。読者がレポートを読まされる心境になる。

③ 前置きはやめる。エッセイ作品は最初から方向性を示す必要などない。

④ 結論から書かない。作品の底が割れてしまう(読まなくても、結末やストーリーが見えてしまう)。

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3.11(小説)取材ノート・陸前高田=「頑張れ」って不愉快だ(8)

 11月初めに被災地に入った。閖上と陸前高田の市街地に立ち、ともに大津波で都市がなくなった光景を見たとき、広島県出身の私は「これは原爆と同じ惨事だな」と心から思った。
 井伏鱒二さんの「黒い雨」、林京子さんの「祭りの場」のように、文学として後世に伝えなければならない、とつよい使命感を覚えた。私の力量はともかくとして、最大限にそれに向かってつくす。執筆まえに十二分な現地取材がなければ、厚みのある作品は生まれない。それだけは確かだ。

2度目として、真冬の被災地に入った。
 前回(11月)は手さぐりであり、被災者からひとりも話が聞く機会が得られなかった。こんかいはあえて真冬の三陸を意図とし、1月半ばに入った。良き紹介者を得られたことから、酔仙酒造、カキ養殖業者、製材業者、大工組合の方々、延べ9人と面談できた。
「3.11の群像を小説として書き残す」。それぞれがこの趣旨を理解してくださり、生々しい話をも深く聞くことができた。
 小説化のために語ってくれたもので、主たる内容や個人的なものは守秘義務があり、作品化する前に開示できないけれど……。

 妻子を亡くされた方も複数いた。実家の家族が全員死んだ方もいた。それらの方々から、作品のテーマの一つでもある、「生きている環境の変化と心」を聞かせてもらった。自然災害に対する日本人の価値観から、「人間とは何か」までも問う。
 身内に死者が出なかった方も、いずれもがつよく印象に残る証言をしてくれた。


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3.11(小説)取材ノート・陸前高田=目前で助けを(7)

 高田松原の防潮林は約7万本のクロマツ、赤松で、国の名勝として年間に約100万人の観光客が訪れていた。3.11の大津波で破壊された。いまや「一本松」で有名になった。「希望の松」として復興のシンボルにもなっている。

陸前高田市を取材していると、一本松とは嘘で、米崎寄りに2本のクロマツが生存していると判った。大船渡線の陸前高田駅の次なる、脇ノ沢駅からすぐの海岸である。高田松原とすれば、東の外れに位置する。
 こちらの二本松は緑の針葉樹として生命力がある。青々としていた。

 3.11では、高田の松原が全域にわたって破られ、2千人強の犠牲者が多くでてしまった。マグニチュード9.0でありながら、なぜ大津波が予測できなかったのか。住民には、どこか松原の安全神話とか、過信とがあったのか。
 
 気象庁は大津波警報を出したとき、岩手県に高さ3mの津波がくると予測した。同庁は次々に6m、10mと変更していった。しかし、停電などでうまく自治体に伝わらなかったようだ。

 陸前高田市役所の防災無線は、「3-4メートルの津波が来ます」と放送をくり返す。「放送の最後に、ギャーと叫んだ、防災無線の声がいまも耳に残っています」と住民の一人が語ってくれた。
 

 JR脇ノ沢駅(高田駅からひとつ次の駅・跡形もない)プラットホームには、チリ地震の最高位として(標高2m~3m程度)水位標識だけが残されていた。これが犠牲を大きくした一つの要因らしい。
 陸前高田市の住民は大地震=津波を考えなかったわけではない。チリ地震の潮位が意識のなかに根づいていたのだ。有線放送の3-4メートルの津波ならば、高田松原の4.5mの堤防は越えないだろう、と考えたのだ。

 私を案内してくれる方がプラットホームを指し、「老人ふたりがここに腰かけて、津波がくるという沖合をのんびり見ていたんです」、早く避難しないと危ないよ、と叫んだという。
 老人とならば、チリ地震の経験則があるから、かえって大丈夫だと踏んでいたのだろう。

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3.11(小説)取材ノート・塩釜=ボランティアを装う泥棒(6)

 小説の取材で、被災地に入るのは2度目である。今回の大震災では、消防団員の犠牲者が多かった。
 松島湾に突起した半島の、七ケ浜町にすむ消防団員・鈴木一哉さん(仮名・40)から取材協力が得られた。生々しい犯罪の実態を知ることができた。

 大津波は松島の島々が防潮堤代わりになり、津波の被害が出ていない。地震による半壊、倒壊のみである。反面、外洋に面したところは強烈な大津波に襲われ、大勢の死者と行方不明者を出している。

 鈴木さんは地震直後に勤務先から帰路についた。仙台市内が交通渋滞で、帰宅できたのが真夜中。自家は松島湾内がわで、家屋の損傷だけで、家族は無事だった。
 すぐに消防団員として、外洋側の救助に向かった。それから3日間は自宅に帰る余裕すらなかったという。

 外洋がわの集落は大きな被害を出していた。標高13メートル地点で警戒していた、消防ポンプ車が流されて死者が出ている。大津波はそれ以上の高さだったのだ。
 
 鈴木さんたち団員は夜明けとともに捜索活動に入った。都度、余震による恐怖があった。「家屋の倒壊の瓦礫と、ヘドロと、釘が足に刺さるし、なかなか先に進めませんでした」と話す。
 自衛隊が遺体を発見すると、消防団員が遺体安置所に運んでいく。彼はその車の運転が主な役目だったと語る。

 農家や漁業が盛んな地区だけに、米や食料は持ち寄り、婦人部の炊き出しで、自給できた。ただ、電気や水道がない、ガソリンは不足し、不自由な生活には変わりがなかった、と話す。

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文学仲間たちと浅草歴史散策、そして居酒屋  

 1月10日、浅草・雷門のまえで、作家、文学者たち7人が集まった。ごく自然にできあがった、ネーミングのない文学グループである。それぞれが日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志である。
 歴史散策、そして日没後は居酒屋で文学を語り合うという仲間となった。

 2011年の真夏、それも最も暑い盛りの8月、昭和の街・葛飾立石の散策がスタートだった。それで意気投合し、次なるは小江戸といわれる川越の歴史散策となった。それにつづく3回目である。

 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、浅草の歴史関連資料が各人に速達でとどいた。清原著『歴史と文学の回路・上野・浅草界隈』『粋といなせが残る下町・浅草』の2点である。

 こんかい歴史散策の日程は正月明けに決めたために、日取りにゆとりがなく、急だった。成人式を含む3連休で、郵便が滞るし、各人の手元に届かないことも憂慮し、清原さんが速達で配慮してくれたものだ。


 集合した雷門で、清原さんからはコースガイドの地図が配布された。一瞥すると、仲見世、浅草寺、花川戸へとつづくルートが一本の線で記されていた。

 浅草の界隈は、松尾芭蕉など江戸時代の文人に限らず、昭和までの著名な人たちの文学碑があるようだ。そのうえ、芝居、映画などの発祥地だけに、それらの碑もある、と口頭で説明された。
 一段と興味が増してきた。

 きょうは「神谷バー」はお休みだよ、と他方で、それら事前情報が伝えられた。多少の期待外れがあったようだ。

 雷門から入って、浅草寺(せんそうじ)仲見世は、大みそか、元旦の初詣、それらの大混乱もすでに一段落し、平常のにぎわいに戻っていた。

 宝蔵門の手間の右手から、脇道に入った。下町の町並みの風情が残っていた。東京スカイツリーも、軒先をはみ出し、大きく高く聳える。

 最初の目的地、弁天山はこんもりした丘で、鐘楼がある。芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」で知られている、「時の鐘」があった。と同時に、芭蕉のほかにも、文学碑があった。


こんどは浅草寺の本堂に向かった。それぞれが参拝する。

 この境内には、「半七塚」がある。ほかにも、映画関係者とか、歌舞伎関係者とかの碑がある。文学に関係する人たちにだけに、誰もが石碑の文面をていねいに読み取っていた。

 この先、隅田川の方角に向かう。途中、モダンな学校の校舎があった。一見して、中学に思えた。近在の人に問えば、「浅草小学校」だという。児童たちはスクールバスで、遠くから通学していると話す。
 おおかた大都会の過疎化で、区域外の児童の受け入れがなければ、運営ができないのだろう。そんな思慮を残してなおも進んだ。

 履物問屋街の碑があった。一瞥しただけであった。さらなる先に、「姥が池」があった。立札の説明によると、むかしは隅田川に通じていた池だと記す。
 名前の由来については、その昔、老婆と娘が旅人を連れ込んで、石で殴り殺す。悪事の果てに、娘が死に、老婆が池に身を投げた。そこから名前が付けられたと明記されていた。


一読ではわかりにくい寺名の、待乳山聖天(まつちやましょうてん)の境内に入った。ここは浅草七福神の一つで、毘沙門天を祀る。
 夫婦和合や金運のご利益あるという。

 新津さん(女性推理作家)が浅草神社で引いた、おみくじが『大吉』だった。この寺では『凶』だったとがっかりしていた。女性は占いが好きで、一喜一憂するものらしい。

 同寺には築地塀(ついぢべい)があった。全長25間(45.5メートル)で、広重の錦絵にも絵ががれている。

 さらに山谷堀(さんやぼり)公園に向かった。隅田川から吉原に通じる水路が公園の中にあった。他方で、近くの隅田公園内の「平成中村座」が目立つ。
 井出さん(事務局次長)が概略を説明してくれた。

 歌舞伎役者の18代目の中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)が中心となり、2000年11月に 仮設劇場を設営してもの。
「平成中村座」の外観は、江戸時代の芝居小屋である中村座を模している。中村屋の紋である「角切銀杏」が描かれている。ここでは、毎年公演があると説明する。

道々は古刹や碑のみならず゜、身近な話題も出でくる。

 山名さん(会報委員、歴史女流作家)が、年初から埼玉新聞で歴史小説を連載する、という。喜ばしい話題だ。すでに、同紙で予告掲載されていると話す。
 戦国時代に、明智光秀と戦った女性(埼玉出身)が主人公である。

「毎回、400字詰め原稿用紙・3枚半なの。連載回数は決まっていないけど……。130枚くらいにしたい」と見通しを語る。それは連載後の単行本を視野に入れた、ボリュームだと説明していた。

 新津さんは、かつて「信濃毎日新聞」にミステリー小説を連載していた。毎回2.5枚だったと話す。新津さんはすべて挿絵がイラストだったと語る。
「ストーリーを早め、イラストライターに早く渡さないといけないから、大変だった」と打ち明けていた。
 
 山名さんは写真で行くという。戦国時代だけに、古戦場跡などが掲載されるのだろう。
 
 私はミステリー小説『海は燃える』(現在・第12回の入稿ずみ)で、一貫して写真で押し通している。
「犯人の密室のやり取りなどは、写真で表現できず、苦労していますよ」と披露した。

 このように、3人で連載小説の創作に対する苦労話の一端を語り合った。

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第54回・元気に100エッセイ教室=人物は描写文で書こう

 この講座は54回を迎えた。今回に限って、教室でのレクチャーの範囲を飛び出してみたい。

 昭和54(1979)年の大きな出来事といえば、米国・スリーマイル島の原発事故だろう。炉心溶解(メルトダウン)で、燃料が溶融し、約20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。レベル5だった。

 それでも、当時の日本では「核の平和利用」という政治家たち、実業界の人たちのことばが信じられていた。メディアもそれに乗っていた。そんな背景から、国民全体としては、スリーマイル島の事故はさほど深刻に受け止められていなかった。

 チェルノブイリ原発事故、さらには東日本大震災によるフクシマ原発事故(レベル7)へと及んだ。いまや核兵器並みに、周辺がセシウムなど放射能で汚染されている。首都・東京も例外でないという。

 人間は核をコントロールできる、という科学者たちの驕(おご)りが原因である。それに輪をかけて、核廃棄物すら処理できない、不完全な原子力発電所の廻りで、「平和利用」という甘い欺瞞の言葉で、お金の汁を吸ってきた、金欲人間たちがいた。それも二十世紀半ば以降から。

 フクシマ原発事故はエネルギー政策の道草ではなかった。容赦なく放射能をまき散らした。否、いまなお撒きつづけている。

 これは核の金に群がる強欲人間が、人間を残酷に裏切った結果なのだ。利益誘導者たちはなんら贖罪(自分の犯した罪や過失を償うこと)をしない。
「元の自然に還れない。ここに痛ましさと恐怖がある。あなたには科される罪がある」と名指しされると、違法ではなかったと、きっと逃げるのだろう。それこそ、人間が決めた法の枠を利用する、人間の醜悪な面だともいえる。

 エッセイとは「人間」を書くことである

 人間の行動や言動は性格と心理によって決まってくる。それに業とか、慾とかとを付加すれば、良きにつけ悪しきにつけ、ごく自然に人物が姿が浮き上がってくる。

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東日本大震災の(小説)取材ノート=大船渡・酒造メーカーを訪ね(5)

 仙台・若林区にすむ佐野謙三さん(65)から、陸前高田市の仙水酒造が被害を受けたと聞いた。佐野さんはかつてJR関連会社の酒造仕入れを担当していた。そんな関係から、同社の内容に詳しかった。 戦時ちゅうの1944年に、陸前高田と大船渡の造り酒屋8軒が統制で一つになり、酔仙酒造が誕生している。現在は、とくに「雪っ子」が有名だと語っていた。


 それを聞いて、私には一つの思い出がよみがえった。20代後半だった。旧知の友を訪ねて宮城県・岩手県を旅した。知人とふたりして駅裏の居酒屋に入った。
「海鞘(ほや)を知っていますか」「雪っ子は?」と聞かれけた。瀬戸内育ちの私はともに知らなかった。

「ナマコが食べられますか。それなら、海鞘は大丈夫ですよ」
 と薦められた。思いのほか口に合い、おいしかった。
「雪っ子は濁り酒ですよ」
 とグラスに注がれた。甘酒と日本酒を混合したような味わいだった。甘酒、酒粕が好きな私だけに、その後は嗜好酒の一つになっていた。

 佐野さんはメディアからの情報だと言い、同社の従業員は大津波で死者・行方不明者7人もの犠牲者が出ているという。しかし、現在は一関市内の酒造メーカーに間借りし、『玉の春工場』として再建を図っていると聞かされた。
「働く人からも取材したい」
 その思いから、同メーカーを訪ようと決めた。
 カーナビに「玉の春」とセットしたが、意外やそこは旅館だった。

 104番の情報などから、同社大船渡支店のTEL番号があった。ひとまず大船渡に出向くことに決めた。他方で、港町で『海鞘』の取材もしたく、水産業の方々から話を聞きたい気持ちもあった。
 

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文学者たちと紅葉の小江戸・川越「喜多院」を訪ねる                 

 11月30日、作家、文学者たち7人が川越の喜多院に訪ねることになった。北からの紅葉がすでに首都圏にも到達していた。同院の奥庭は、江戸城の紅葉山を模すだけに、赤色、黄色の彩り豊かな情景が楽しめた。

 顔ぶれは猛暑の8月に『昭和の街』立石で、下町情緒と居酒屋を楽しんだ、日本ペンクラブの広報、会報委員会の有志である。その折、次なる計画がごく自然にできあがり、「紅葉の川越の歴史散策+飲み会」になっていたものだ。


 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、事前に教材『野外講座・川越』が配布されていた。
 歴史小説家の山名さん(同会報委員)は江戸時代の将軍、武家、庶民生活まで詳しい。吉澤さん(同事務局長)は川越の喜多院の裏手で育っているから、同院の隅々まで知り尽くす。
相澤さん(広報委員長)は、喜多院で「ボクはここで厄払いした」と思いだすくらいだから、川越に縁がある。

 新津きよみさん(推理小説作家)は埼玉県在住だから、何度か、川越に来たことがあるようだ。

 井出さん(事務局次長)と私(穂高健一・広報委員)は、ある意味で豪華なガイド付きの川越歴史散策だった。

 同日の午前ちゅうは東武東上線が踏切事故で全面運休だった。川越まで埼京線か、西武線か、どちらかに変更すべきか、と判断に迷っていた。12時20分に復旧したことから、それぞれが川越駅、本川越駅から、2時には銀杏の黄葉がもえる喜多院に集合してきた。


 吉澤さんが「私はこのすぐ裏で育った。この寺が遊び場だった」と話す。東京大空襲で、東京の邸宅(吉澤家は映画配給会社)が焼け、映画弁士の口利きで、この地に引っ越ししてきたという。小学生の集団を見て、わが母校だと懐かしがっていた。

 喜多院は平安時代に慈覚大師円仁によって創建された。やがて関東天台の中心となった。
「この院の興隆と川越の発展は、ひとえに天海(てんかい)僧正と徳川家康接見から信頼関係から始まったといえる」と清原さんが多宝塔の側から、すぐさま解説をはじめた。だれもが興味深く耳を傾けた。


 本堂の内陣の先には、徳川3代将軍・家光が生まれた部屋があった。この由来について、山名さんが語ってくれた。

 1638(寛永15)年の川越大火で、同院はすべて焼失した。(一部、山門を残すのみ)。家光の命で、堀田正盛が復興にかかり、江戸城の紅葉山の別殿を移して、それらを客殿、書院にあてた。このときに、家光誕生の間、春日局の間も、同院に移された。
 「15代将軍のなかで、正室の子は家光だけよ」と山名さんが教えてくれた。

 一連の復興で、東照宮なども造られた。だが、明治時代の廃仏毀釈から、現在は別管理になっている。

 室内は撮影禁止だが、紅葉が盛りの奥庭にかぎり、撮影は自由だった。
「前夜のTVで、この庭がライトアップで中継されていたわよ」
 新津さんが話す。紅葉の名庭は素晴らしい。

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吉岡忍さんが明治学院大学で講演『3.11を考える』、そして懇親

 「ペンの日」懇談会(11月26日、東京會舘)で、佐藤アヤ子さん(明治学院大学の国際平和研究所教授)と吉岡忍さん(日本ペンクラブ専務理事)のふたりlが語り合っていた。同月29日、吉岡忍さんが同大学で『~3.11を考える~』に90分間の講演をする、という話題の最中だった。
 そこに、私が入り込んで挨拶した。
 

 佐藤さんから「聴講にいらっしゃいませんか」と誘われた。
「どんな内容ですか」
「平和学講座(秋学期)の授業です。国際平和研究所が受け持つものです」
 佐藤さんがコーディネーターとして、自他の大学から平和学研究者、外国大使館の大使・公使、作家などを講師として招き、「3月11日を考える」というもの。14回のシリーズの一つとして、吉岡さんが90分間の講演するという。吉岡さんは3.11が発生した4日後から、東北の被災地に入っている。

 私とすれば、3.11がこの先の執筆活動のメインテーマだけに、即座に身を乗り出した。

 明治学院大学(港区・白金台)の訪問は初めてである。吉岡忍さんは待合室で、学園闘争時代、この大学には何度か足を向けたと語っていた。教室に立てこもる男女が別々のフロアで寝泊まりしていた。他大学は男女が雑魚寝だったと、懐かしげに語っていた。

 同月29日午後2時45分から、吉岡さんの講座が始まった。講師の吉岡さんは知名度が高く、世相に対してシャープな切り口だけに、大教室いっぱい約300人の学生が集まった。ボランティア活動で現地に入った学生も多く、より関心度が高かったようだ。
 
 
 吉岡さんはまず鴨長明「方丈記」の無常感から入った。古来から、日本人と災害は切り離せいないと言い、3.11の被災地で目撃した悲惨な状況、瓦礫の凄まじさなどを生々しく語りはじめた。
「これまで、外国の被災地を数多く見てきました。3.11の被災地に入り、瓦礫を見たとき、外国と比べて、日本人はなんて物持ちだろう、と思いました」
 箪笥から衣服が飛び出す。それが水にふやけて3倍になる。それにしても、膨大な物量の瓦礫だったという。そのなかに遺体がうつぶせになっていたし話す。

 2万人が一度に死ぬのは、戦争以来にはあり得なかった。
「助かった人の話もたくさん聞きました。津波で流される屋根に乗った人が、写真を撮っていた。生死の境にいて、思いのほか冷静なんです。3月の冷風の風よけに、流れている発泡スチロールを採り、かぶつていたが、気を失った。意識を取り戻した時、収容されていたそうです」


 60代女性が流される家のベランダにいた。部屋に戻り、衣装ケースから服を出して着替えをはじめた。いつもの習慣で、窓にカーテンを閉めた。

「津波のさなかですよ。誰も流される家の中を見ていない。パニックにならず冷静に着替えているんです。この方は家が突堤にぶつかり、そこで降りて助かった。こういう冷静さもあるんです」

 三陸には小さな半島や小さな浜の集落が数多くある。漁師たちは漁船、漁網、カキやホタテの養殖いかだも津波でなくしてしまった。日本人の食生活は、さんま、カキなど水産業の季節にも大きく関わっている。こうした文化の基盤も失った。

                    佐藤アヤ子さん(明治学院大学・国際平和研究所教授)


 漁師たちは家族、友達を亡くし、生活基盤を失った。失ったものは大き過ぎた。若者たちは「もう一度やろう」という気にならない。ところが、20~60才代の女性10人ほどが浜に出てきて、カキの養殖に必要な、ホタテ貝の穴をあけ(カキの種付用)作業を始めた。茫然自失男たちはそれを見て、やる気を出したと聞きました、と話す。
「女性の力はすごい」
 吉岡さんは強調した。
 
「被災者は、とかく災害弱者と見られがちです。弱者ではない。生産手段をなくした漁師は、いまを生き延びるために、天然のワカメを採りはじめました。それを塩漬けにして、細々ですが、出荷しています。強く生きようとしている。弱者じゃない」

 漁師たちは一国一城の主である。漁具、漁網は高価なもので、所有者が決まっている。津波で散らばった漁具を集めてくる。津波で残った船を使い、沖に漂う『浮き』(一つ3万4万円する)を集めてくる。「数年間は、『自分のものだと主張しないようにしよう。共有物にして使おう』と決めたのです」
 被災地が共同体として連携と、人間のつながりで復興しようとする。

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