小説家

第12回『元気100エッセイ教室』作品紹介

 受講生にはつね日頃から、『隠したいこと』『言いにくいこと』『過去にしゃべったことのない失敗』などを書いて欲しい、といっている。自慢話は日経新聞の『社長の履歴書』に任せればよいのだから。もう一つ、孫の話は避けて欲しい、と。

 最近、あることに気づいた。受講生どうしが酒席で、旧知のように語り合っているのだ。
提出するエッセイは本音で、自分の心を裸にし、恥部に触れるところまで書けるようになってきた。失敗談ほど、講師や仲間から高い批評を受ける。良い作品だと言われる。とりもなおさず、それは作品を通して、筆者の人間性を知ることになる。

 もしも自慢話、鼻持ちならない話題、過去の出世物語などだったら、面白くない相手になってしまうはずだ。

 相手の人間性を知れば、『胸襟を開いて語れる』、相手の考え方を知れば、『警戒心を取り払って語れる』という交友関係につながってくるようだ。
 60歳過ぎて、相手の腹を探ることなく語れる。そこには新たな人間関係が生まれる。学生時代以来ではなかろうか。

 今回の作品批評も、自分の恥部をさらけ出したり、心をのぞき見たり、諸々の失敗が盛りだくさん。読み手には興味深い作品ばかりだ。

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花筏(はないかだ)・さきがけ文学賞・候補作品

                            ※著作権付き小説。無断引用厳禁


 娘の十三回忌を迎えた。寺の本堂に集まった参列者から、住職を待つ間、あれからもうそんなに経ったのね、早いものね、という話がごく自然にもちあがった。誘拐された10歳の娘が能登の山奥で殺された秋、新聞の大きな記事になっていたと、誰かれなしに語りはじめた。


 親戚のものたちは遠慮がちながらも、事件を口にせずにはいられないらしい。

 土岐(とき)駿一は殺された娘の梨香を想い、押し黙って聞いていた。かれの心のなかでは、事件は風化せず、きのうのことのように思えるのだった。殺される寸前、娘は雨の山中で泣き叫び、死に物狂いで抵抗したことだろう。梨香の悲痛な叫び声が未だに深夜ふいに耳もとで聞え、目覚めることもある。あの事件の記憶から決して逃げられない自分があった。

 梨香の話題は長つづきせず、いつしか梨香とおなじ年のいとこの結納金へと話が移った。法要の席で、縁談の話題など場違いだと思うが、世間はそんなものだし、駿一はとがめる気など毛頭なかった。子どもを殺された怨念や心の奥深い痛みはそれに遭遇した実親でなければ、親戚筋でもわからないものらしい。

 本堂の窓から雑木林越しにみる、能登の山並みが雲間の陽光を受け、緑の山肌を鮮明に浮かべていた。駿一は殺害現場となった山の方角を凝視し、梨香への想いを一段と強めた。

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掌編・ノンフィクション 6月学友会『下町・立石の呑み屋は1人・一軒1500円、大満足』 

 東京・下町の立石にあるモツ煮屋『宇ち田』が、学友会のルーツ。ホームグランドでもある。数ヶ月ぶりに、五人がそこに戻ってきた。夕方5時に、京成立石駅が集合場所だった。


 元焼芋屋が一時間もはやく到着していた。「おれが会議で遅れると、みんながツベコベいうからな。仕事よりも、学友会が優先だ、といって」
 今回はどうも会議をすっぽ抜かしてきたようだ。立石駅に早く着いた元焼芋屋は、立石商店街など、界隈を一巡してきたという。
「良い街だ。かつて日本のどこで見られた町が、そのまま残っている」
 かれはことさら賞賛する。
 葛飾・立石の下町は、京成電車の線路をはさんで、左右に広がる。昭和30年代、40年代からの店舗が連なる。その数は半端でない。商店街の買物にはサンダル履きが似合う。独特の雰囲気がある街だと、元焼芋屋が語る。


 元教授がそれを受けて、「明治時代から、きちんと躾(しつけ)られた『真の日本人』が少なくなり、絶滅の危機にある。いまや身勝手、独りよがりの人間ばかりだ。しかし、この立石・下町にくれば、本物の日本人に接することができる」と話す。


 立石商店街の店主は、昔ながらの客との対面商売を堅持している。客が注文すれば、その場で揚げたて、煮立ての商品を作りだす。居酒屋の女将やおやじたちは、頑固で、ぶっきらぼう。「でも、根が曲がったことが嫌い。江戸っ子気質の日銭を稼ぐ以上の儲けを出そうと思わない。呑み屋に行けば、気骨のある『真の日本人』がまだ沢山いる町だ」と話す。

                            立石駅前は、下町の生活情感たっぷり

 こんな会話の最中にも、現れないのがひとりいた。自宅から駅改札までは4分30秒の最も近距離に住むヤマ屋だ。

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第11回『元気100エッセイ教室』作品紹介

 教室が始まる冒頭、受講生の賀田恭弘さん(松戸市)の死去が伝えられた。悲しみの暗い気持ちになった。
 ソニーの黄金時代に同僚だった河西和彦さんが、12回の提出作品で、追悼エッセイを書いてくださった。穂高健一ワールド、トップ参照 葛西さんの作品を読みながら、冥福を祈った。

 新しく濱崎洋光さんがメンバーに加わった。提出されたのは「散歩道」で、情景描写のすぐれた作品だ。人は視点、見る角度によって、情景の感じ方がちがう。物事の見方も、同様に捉える角度によってちがってくる、という内容だ。

 今回の教室のレクチャーでは、喜怒哀楽の感情表現について述べた。人間の複雑な感情をいかに巧く言い表せるか。それが優劣を決める一つになる。
 月並みなことばで、……うれしかった、悲しかった、泣いた、腹が立った、なさけない、等とストーレートに書くと、思いのほか読者には、作者の心情が伝わらないものだ。激怒とか、慟哭とか、ことばが大袈裟になれば、作品がしらけてくる。

 それを解決するには、平たい感情のことばに、反対の言葉をちょっと添えてみることだ。『ことばは料理と同じ。甘いものには、少量の塩味が利く」というコツを述べた。

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河西和彦さんの作品『賀田恭弘さんを悼む』より

 エッセイ教室が10回の節目を越えた。それを一里塚として、『エッセイ教室十回記念誌」が刊行された。
 この教室は昨年6月、私が取材に出向いた『元気に百歳』の幹事から依頼されてスタートしたものだ。同クラブは博報堂、新日鉄、日立のOBが多い。ある意味で、エリート・シニアクラブだ。当初の受講生は9人。メンバーは月を重ねるごとに増えてきた。現在のメンバーは16人。第11回目となる、今回の作品提出は13作。提出率が良いので、おどろいてしまう。

 河西和彦さん『賀田恭弘さんを悼む』は今回の提出作品だ。賀田恭弘さんは教室の最初からのメンバーだった。他方で、ソニー創業者の盛田昭夫さん、井深大さんの腹心だったと知る。

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小さな生命の旅 (3)  【掌編・私小説】

 ダムを見上げていた私は、先を行く妻との距離を意識した。同時に、頭のなかから27歳の出来事だった奥日光・根名草山の滑落と遭難騒ぎを打ち払った。
 ここは妻の気持を尊重し、四方ダムの堤に上がることを断念した。そして、渓流沿いの舗装道を引き返えしはじめた。
 数日前の八ケ岳・硫黄岳で傷めた右一歩を踏みだすごとに、膝関節のじん帯を引きつる鈍い痛みがあった。関節はほとんど折れ曲がらず、まるで丸木の義足を付けたような歩行だった。すくなくとも、先を行く妻を追う足取りではなかった。

 私は渓流から湧きあがる音を意識した。雪解け水のような、私の身体の血液までも、冷え冷えさせる響きだった。眼下を見た。渓流の小波が陽と木影をきらめかせる。流れる水は底まで透明に澄む。

 川魚が岩間の藻と戯れていた。あちらにピクッ、こちらにピクッと、水中で跳ねる。回ったり、止まったりして遊び回る。
 私はふと小さな川魚そのものの生命を意識した。

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第10回 「元気100エッセイ教室」の作品紹介

 エッセイ教室は10回目を数えた。提出された作品はいつもながら、個性豊かで、バラエティーに富んでいる。あえて作品に差を付けるとすれば、文章力と表現力だろう。

 しかし、エッセイは素材が勝負だ。となると、人生経験豊かな作者ばかりで、優劣はつけがたい。エピソードが面白く、楽しませるものから、人間の本質を深く追求している作品まで、幅が広い。

 女学生のとき、自殺を予告する青年に逢いにいった。かれのマントに、双肩から包まれた、翌日、かれは死んだ。強烈な恋の想い出。
 観たい展覧会があれば、さっとニューヨークに飛び立てるシニア・女性の国際感覚。
 戦前戦後の教育の違いを語り、作者が書き残しておきたい世界で、論理を展開していく作品。
 こうした素材に差をつけても無意味だし、ナンセンスだと思う。

 講座のスタートはいつも30分間レクチャーを行う。今回は初稿を書き終えたあとの【チェック・ポイント】についてアドバイスをした。初稿はやや多めに書く。推敲で削っていく。これがコツで、削るほどに文章は磨かれる、と具体的に示した。

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掌編・ノンフィクション 4月度学友会より 『ここはどこのお宅の座敷? 間違いました』

 4月度の学友会が、19日、五反田駅前のすし屋、『五輪鮨』で開かれた。元焼芋屋が馴染みとする店だ。参加者はいつものメンバーで5人。埼玉県・岩槻から足を運んできた元銀行屋は、五反田駅は最も遠い西の外れだと、難癖をつけていた。


 かれは20代の頃、戸越銀座の某銀行計算センターに勤務していた。そのせいか、目は懐かしさたっぷり。きょうの酒と料理への期待もたっぷり。難癖をいう割には、顔は笑っていた。

 学友会は難癖、皮肉、上げたりすかしたり、すべてが自由だ。言いたいことが好き勝手にいえる。朝令暮改も結構。発言にはいっさい責任などない。同時に、批判もされない。

 ビル・テナントの『五輪鮨』の小座敷に入ると、元焼芋屋が得意とする吹聴がはじまった。かれの従弟が佐賀県・唐津市にある川島豆腐のオーナーだという。従弟は元祖『ざる豆腐』の発案者で、超有名だと講釈を述べる。

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小さな生命の旅 (2)  【掌編・私小説】

 四万(しま)は静寂な山間のV字渓谷にある、細長い温泉地だった。旅館とホテルが混在し、裸樹ばかりの山の斜面にしがみついていた。妻と温泉街から外れて四万川沿いの道を登ってみた。奥まったところに国宝・日向見薬師堂があった。


 日本史が好きだから、神社仏閣を見るのは好きなほうだ。鎌倉、室町、戦国と、それらの時代へと思いをはせるのが好きだから。しかし、賽銭は入れない主義だった。
 
 妻は財布を取り出し、賽銭箱に投げ入れた。神妙な態度で両手を合わせた。そして、ふり向いた。
「拝まないの?」
「賽銭をもってない。財布を持ってきていないから。賽銭をくれよ」
 私はこいに右手を差し向けた。
「ひとから借りて、拝むものじゃないわ」
 おなじ女性と長年にわたって夫婦をやっていると、それでその話題が終わる、とわかっていた。

 私が神仏を拝まないのは宗教的なものでもない。神仏が嫌いという理由でもない。神仏の助けを借りると、自分自身に甘くなる、という信念からだ。それは山登りとは無関係ではなかった。

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小さな生命の旅 (1)  【掌編・私小説】

 八ヶ岳・硫黄岳の登山で、4月4日、迂闊にもアイスバーンで足を滑らせ、滑落事故に遭ってしまった。岩盤に当たれば即死。『死』の境地のなかで、滑落しながらも、身体を停止できた。思いのほか長い距離を落ちた。約200メートルだった。


 裂傷は一ヶ所もなかったが、身体を点検すれば、かなり傷ついていた。雪上制動の最中には、顔面は雪で擦ることから(基本)、試合後のボクサーのように腫れ上がっていた。左足の膝は転倒のときに捻ったので、じん帯を痛め、膝間接が曲がらない。右足は打撲で腫れている。制動の摩擦から、右腕は二の腕の皮膚が全体に擦り剥けている。このていどは、生命の代償とすれば、あり得る状態だと自分では納得している。

 4日後の8日には、夫婦で四万温泉の一泊旅行の予定が入っていた。全身打撲の身体だから、自家で安静にしていたほうがいい、と妻がホテルのキャンセル料を調べはじめていた。私は取り消しに応じなかった。

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