A020-小説家

『元気100・エッセイ教室』第6回・11月度エッセイの書評

 読み手の側から、『詩』と『エッセイ』の違いについて考えてみた。韻文(詩)と、散文(エッセイ)のちがいはあるが、作者の想いを文字で伝えることには共通性がある。

 詩では若手が書いた作品おいて、個性豊かな表現で驚かされることが多い。過去にない新しい表現方法との出会いがある。愛とか、恋とか、苦しみとかは、いま進行するものを詩うほうが強いインパクトとして伝わってくる。それは技法ではなく、若者たちの鋭い感性から生まれてくるものだ。

 エッセイは、人生経験が豊かな、年配者の作品のほうが勝ると思う。苦節の人生を自らの力で克服してきた、あるいは夫婦や家族と共に乗り越えてきた、という人生の深みが感じられる作品が多い。奥行きのある喜怒哀楽が含まれている。作品を読み進むにつれて、感動、感激などが湧きあがってくるものだ。

 苦悶の渦中にいると、筆には力みが加わる。かえって上手に伝えにくい。ところが、年配者のエッセイとなると、書いている今と、出来事の間には長い歳月の距離が保てている。それゆえに書く上で、力みとか、気負いとかが薄まり、余裕が生まれているのだ。

 若者の書いた詩と、年配者が書いたエッセイとは両極にあるのかもしれない。年配者のエッセイには、苦しみの時代を書き残す。作者の記録として描かれた世界が強く出てくる。

 二上薆『十和田湖の秋 自分史のよすがに』は、終戦直後の就職難が描かれている。戦後二年目に、大学の就職案内板には粗末な紙片が貼られていたという。めぼしい企業の名はほとんどない。
 母方の縁で何とか就職したのが、遠く花輪線の沿線の鉱山だった。歳月が経ったいま、作者には苦しみもろ過し、よき思い出となっている。十和田湖とか、花輪などを訪ねてみたが、いまや鉱山は閉山された。淋しい思い出と懐かしさが重なっているのだ。
 鉱山から東京の再就職先へと話しはもどる。不定期採用の鉄鋼会社で、鉱山会社の給料の安さにおどろかれてしまう。話しの展開のなかで、エピソードが盛りだくさん。
 作者はきっと自分史を視野に入れているからだろう、やや欲張りすぎた内容だ。数多くのエピソードを押し込んでいるが、一つひとつを切り取って書き込めば、味のある作品が幾つも仕上がるはずだ。

 
 塩地薫『六十年ぶりのハーモニカ』は、読み手までも過去のなつかしい思い出へと導いてくれる。「私」は市民文化祭で、ハーモニカサークルの演奏を聴いた。もともと音痴で、カラオケ敬遠派だった。孫に聞かせる童謡をハーモニカで吹いて聞かせようと、習い始めたと動機が語られる。
  六十年ぶりのハーモニカだった。「浪路はるかに」、小学唱歌「きらきら星」、出身地の九州を語りながら、さらには「荒城の月」「黒田節」「五木の子守唄」という民謡の選曲へと話しが及ぶ。「私」が丁寧に曲目を語りながら、読者を郷愁に誘い込んでくる、ふしぎなエッセイだ。内容と文体とが一致しているだけに、読みやすい作品だ。
 音楽バンドを組み、ウォークマンで育ってきた世代には、ハーモニカの音色の響きはおとなし過ぎて、通用しないかもしれない。しかし、すべての世代に共有できるエッセイはそうかんたんに書けるもではないと思う。


 エッセイにも鋭い感性で書く人がいる。今回の12作品のなかに、それを強く感じさせた作品があった。
山下昌子『おんなシャチョウ』は、独特の感性をもつ。
「パニックを起こしたシャチョウは、突然姿を消してしまった」という書き出しだ。「シャチョウー、シャチョウー」と社長の居そうな所で大きな声で呼んで、必死で探した」。ここまで書き進められると、どんな会社で、どんな業種か、きっと二代目のだらしない女社長だと思い込んでしまう。
「彼女は目はパッチリと大きくて、頬は鮮やかなオレンジ色、体はきれいなクリーム色と白」。この風格と美貌から『女社長』と名づけられたという。
 その実、メスのインコで、家から逃げ出していたのだ。ミステリータッチの種明かしともいえる。
 おんなシャチョウの雛は、やがて無精卵を産む親鳥になる。親鳥が卵をいくら温めても雛は孵らない。夫婦の目を通して、動物と人間という垣根を越えた、感性豊かな愛情が描かれている。


 感性でエッセイを書く作者がもう一人いる。奥田和美『姉と弟』だ。書き出しで、「私」は、お姉さんのいるところには嫁に行かない、と心に決めていたという。
 姉は弟について、とても口うるさい存在。弟に対しては何かにつけてケチをつけるものだと語る。男には生まれにくい発想だ。
 弟が結婚するとき、相手が7歳も年上だったことから、「年増の女にうまく言いくるめられたんだよ」と批判をむける。こうした女の心情が上手に堀下げられている。
「わたし」が女どうしでレストランにいたとき、弟の恋人を近い席で見つけた描写がある。「あの娘、二歳年上だって」「エー、もっと上に見えるわねえ。なんか暗いし、弟さんがもったいないよ」「ホント、うちの弟、趣味悪いのよ」という日常的な会話だが、女性の書き手ならでは展開だ。女性特有の感性で会話がすすむ。掌編小説のタッチですすむ。
「優秀な姉がいると、弟はだめになることが多い。うちの場合、姉の出来が悪いので、弟たちは萎縮しないですんだ」というユーモアで結末に導く。
 文体はやや荒いが、それは書き進めば、密度が濃くなるものだ。むしろ、持ち味をエッセイに生かせて行けば、いい作品が量産できる作者だと思う。


 森田多加子『野うさぎ』は、結末の悲惨さがいつまでも残る作品だ。母親の「私」と幼い息子とが、松茸狩りのさなかに、子どもの野うさぎを見つけた。息子が抱き上げ、自宅に連れ帰る。「脱脂綿に牛乳を含ませて口に持って行く。スポイドに牛乳を入れて飲ませる。
 しかし、野生の子ウサギは、必死に抵抗する。「お願いだから口をあけてよ」「飲まなきゃ死んじゃうでしょう」と、緊迫感のある描写が続く。読み手はドキドキさせられる。やがて、動物と人間がこころを一つにするのだ。
 飼育の苦労が随所で光る作品だ。同時に、動物愛のしっかり作品に漂う。動物愛のエッセイは作者自身が動物好きでないと、上手に書き切れないものだ。 
 子ウサギは子猫のように、家族に懐いてくる。当然ながら、家族はウサギを愛し、可愛がる。結末では、悲惨な状況に遭遇するのだ。
 息子が足元のウサギに気づかずに椅子を引いてしまった。それが原因で死ぬ、という痛ましさ。作者にまでやり切れない気持になる。読後感の強い小説だ。


 男性の作品は骨格が太い作品が多い。情緒よりも論理思考で組み立てられている。その代表格が中村誠『一寸した切っ掛け』だ。
 朝日新聞『天声人語』に興味を惹く記事があった、という書き出す。「ロシア人エリセーエフは漱石の作品を翻訳していて疑問がわき「庭に出た」と云うのと「庭へ出た」と云うのと、どう違うのですか、と漱石は聞かれたが、さすがの文豪も答えに窮した」とエピソードを引用しながら、読者を引き込む。
「私」はその著書の購買を試みた。どこも在庫も無く、しかも絶版だった。そこで、「私」が倉田保雄著『エリセーエフの生涯―日本学の始祖』中公新書を探し回るのだ。読者までも、引き連れられていくように、話しの展開に誘い込まれる作品だ。
 予約の本が入った。図書館からの知らせに、何はさて置き図書館に出かけ、借りてきた。その本は新鮮な新発見を数多くもたらしてくれた。
「庭に出た」と「庭へ出た」のエピソードは芥川龍之介が彼の著書に紹介したのが、出処と知ったのもその一つだった結ぶ。結末がぴたり決まっている。読者が知的な収獲を得られたような気持になる、内容の濃い上質な文学作品だ。


 吉田年男『父と柿の木』は、一本の柿の木を通した、家族それぞれの思い入れの違いをうまく書きまとめている。戦後のあるとき、父親が新宿西口ガード脇の植木市で柿の苗木を買い求めてきた。わが家の南西の角に植えた。
 歳月が経ち、父の他界した。それを機に、建て替え工事をすることになった。妻が「この柿の木、邪魔じゃない?切っちゃいましょう」と言い出すの「どうして? 切ってしまうと言う発想が浮かぶのか。、「私」には理解できなかったのだ。
 妻は、植木を買ってきた当時の父を知らない。他方で、思い出深い自分とでは考えがまったく違う、それは仕方がないことだと気づいたのだ。
 建物に直接ぶつかりそうな枝だけを切ることで、夫婦の決着がつけられた。そして一部の枝が切断された。生き延びた柿の実は今もって色づく。、最初に柿の実をもぎ取った「私は」は仏壇に供えて収穫に感謝する。他方で、野鳥が熟れた柿の実をついばんでいる。
 柿の木自体も11月の終わりになると、葉っぱを一枚ずつ枝から落とし、来年の準備に入る。描写力のしっかりした作品である。


 高原眞『こころのトゲ』は、柿の木についてのエピソードだ。十一月の半ば、妻は「孫達に声をかけて、今度の日曜日に柿を採りに来させようかしら……」といったり、「ネェ、柿の実を早く採ってよ」とせかす。小鳥たちが突っついた実がコンクリートの道路に落ちるのが嫌なのだ。
「私」は柿の実は小鳥たちのために必ず2、3個を残すようにしている。「小鳥たちに食べさせてやれよ。それくらい、いいんじゃないか」と口げんかとなる。情景描写も、夫婦の会話も上手である。
 やがて、柿の葉は木枯らしの吹くころ、赤褐色となり、散ってしまう。この枯葉を手に取ると、「私」はロシアの旅した、エカテリーナ宮殿の想い出が湧いてくるのだ。そこは広大な敷地。黄、赤紅、黄土、朱に化した落葉樹が敷地に拡がって光彩を放つ、と情景を浮き立たせる。
 貴族の豪華な生活を想像した。『帝政』の遺産が今や人々の憩いの場だ。「私」は歴史という栄華と失墜の流転に思いを馳せるのだ。
 エカテリーナ宮殿の門を出ると、薄汚れた黒衣の老婆が2、3人して手をさてのべてきた。金をくれという。「私」はそれを断ち切った。バスに乗っても、老婆から目をそらしてた。落ち葉からの連想からか、エカテリーナや貴族たち、『凋落』という言葉がしぜんに浮かんできたのだ。
 それから七年経った今でも、宮殿の庭園の美しさよりも、落ちくぼんで濁った目で哀願したシワだらけの老婆たちだった。指の節々だけが太く、働き者に特有の爪垢のついた手だ。消えない老婆たちの残像。小鳥たちに残す柿のように振る舞えなかった。そこに「私」はこころのトゲを覚えるのだ。
 前半の小鳥への愛情、老婆への哀れみの情という、心理がよく描かれている。庭の広さと宮殿の広さに乖離があるので、作品が二つに割れている。構成の工夫をすれば、解消される。それを差し引いても、枯葉という素材を使い、作者の心やさしさが伝わってくる作品だ。


 エッセイ作品には品格で読ませるものがある。上田恭子「奈良の例会に参加して」だ。古都・奈良の雰囲気が作中に漂う。紅葉にはまだ早い。そう書かれても、つい紅葉の季節を想像させてしまう。
「私」は奈良学の大家から『古都奈良の歴史と文化』を学生気分で講義を拝聴する。『正倉院展』から、紅牙撥鏤尺(コウゲバチルサシ)へと話しが展開されていく。隣に座った人が赤い模様のファイルを指し、「これです」と教えてくれた。
 二次会で、『正倉院展』で、紅牙柄のファイルの入った袋をお土産にもらう。そして、近鉄奈良駅に向った。電車に乗ってから、袋が無いのに気が付いた。この展開から見つかるまでが描かれている。「古都に生きる方の誇りのようなものを感じた」と結ぶ。そこには快い読後感があった。


 長谷川正夫『無言館』は過去との精神がしっかりつながっている。同時に、反戦への想いがしっかり伝わってくる書き方だ。
 長野県上田市に「無言館」が開館された。窪島誠一郎氏が、戦没画学生慰霊美術館として開館したものだと紹介している。東京美術学校(現東京芸大)、在籍し、卒業後または在学中に出征戦死した画学生三十余名の、遺作や遺品約三百点を展示してある。
「私」は美術館の重い扉を開けて中へ入った。そこには窓が少なく、照明も最小限に抑えられ、室内は暗い。展示作品はすべて戦没画学生の形見だと思うと、足取りも重くなり、気分が沈んでくる。
「画学生たちは絵筆を銃に替え、一歩一歩「美」の世界から遠ざかり、挙句の果てに戦場で散った。戦死の時の年齢をみると大半が二十代」と紹介している。「私」は彼等の無念の思いは如何ばかりであったか、と胸を痛める。「作品は無言だが、何か訴えているのではないか」と戦争が若者の夢を削ぐ、と静に批判している。
 神戸からきた老婦人が涙を一杯ためて、食い入るように作品をみつめていた。そこでも「私」は切ない思いがする。
 半年前に、朝日歌壇に「上田市の丘にあるとう無言館見度くはあれど旅はし難し」というEさんの入選歌が掲載された。「私」はEさんに写真を送ってあげた。丁重な礼状がきたが、脚が悪く室内でも杖をつく八十六歳の女性であった。この歳になっても、なおも無言館訪問を諦めきれない心情に深く心を打たれたと記す。


 石井志津夫『餅ベーション 自給ごっこ』は、現在の餅つきの風景をユーモラスに語っている。餅つきはかつて日本のどの家庭でも見られた年末の風物詩だ。しかし、現在の都会ではまず見受けられない。それを前提にした作品だ。
 親友の奥方が秋田出身で、故郷からもち米が届いたことから、ストーリーは餅つき大会へと及ぶ。臼や杵、釜が古民具の蒐集家・地元の友人が持ち寄る。そこには奇妙なユーモラスが漂う。のし餅、くるみ餅、きなこや小豆餡や黒ゴマなどのからみ餅、次つぎと出来上がってくる。伝統を大切にする、復活精神が伝わってくる。
 餅つき体験のない若者は、おおかた餅はすべて機械で作るものだ、と思い込んでいるだろう。となると、自給ごっこの情景は理解できないし、見えてこないかもしれない。その面では読者層が限定されてくる。餅つきを知る人には、面白い情景描写だ。


 河西和彦『故郷の高校同期会秋のイベントに学ぶ』は、中学・高校同期の仲間たちとの二つのイベントが描かれている。場所は諏訪。一つは、諏訪清陵高校の同期生たちが、地元百貨店五階の「市民ギャラリー」で、初の美術展を開いた。絵画、版画、書、彫刻、篆刻、写真。プロ級の腕前をはじめ、「七十の手習い」の初心者まで。それらが丹念に、一つずつ丁寧に書かれている。
 夕方には、諏訪湖畔の湖泉荘で「双樹会二〇〇六年秋の集い」が開催された。44人の参加者のなかで、次なるメインイベント。「白川太一君の諏訪清陵高校諏訪湖一周マラソン連続三〇回完走の表彰式」がはじまった。母校伝統の諏訪湖一周マラソンは30年前からOBの参加が認められた、今年まで連続30年間の完走したという快挙である。
「家が貧しく身体も弱く、膝に欠陥があり、克服するために中学一年から自宅の蓼科高原の入り口から、諏訪市の母校まで徒歩で通学し、足腰を鍛えて克服した。早大では四年連続箱根駅伝に選手として活躍した」とエピソードを披露する。
 横浜のE君から、「私」はファイルをもらった。開くと「わが諏訪の方言…初版」と記載されていた。妹さんとの共編だった。「音楽の趣味を持たしてくれ、ラジオを作ってくれた恩人 河西和彦兄に贈る 〇六.一一.六.」と書かれてあった。
 中学三年生のとき、E君には五球スーパーラジオを作って上げた。「このラジオから語学が堪能になり、音楽が好きになり頻繁にコンサートに行くようになり、幅広い文化人になれた。一台のラジオが人生を好転させたので、感謝の気持ちでいっぱいと言われた」。「私」はびっくりしたと記す。構成がしっかり組み立てられた作品だ。
 やや長めで冗漫なエッセイだが、当事者には一気に読めきれるはず。ある意味で、同校の先輩、後輩、恩師、という読者に絞り込んだ作品だともいえる。

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