小説家

第47回・元気100エッセイ教室=脳の活性化はここにあり

 数日前、私と同年代の方と喫茶していた。別段、医学的な話でなく、「年寄りは何歳からだろう」という内容だった。実年齢と脳細胞の若さとは正比例しない、という合意に達した。そして、同エッセイ教室に話題が及んだ。

「受講生は50代から80代の方だよ。もう5年を超えた。そういえば、長く続いているけど、この間、1人としてボケたな、と思った人はいないな」
 私は妙な感慨をもらした。
「高学歴の優秀な人がそろっているからじゃない?」
 知人がそういった。
「そうじゃないだろうな。過去に優秀な人でも、社会のトップにいた人でも、ボケる人はボケるけどな。なぜだろう?」
 私はちょっと首をかしげた。


「どんな指導をしているの?」
「簡単だよ。孫の話と、病気の話と、過去の自慢話はしない。この3つはうるさく言っている。特に自慢話が入ると、目線が高い、それじゃあ、誰も読みたくなくなる、とあからさまに指しているよ」

「それだよ。年取ったら、ごく自然に、過去の自慢か、病院や薬の話が中心じゃない。それが禁じ手だから、脳細胞は常に新しさを求めているんだよ」
「うまい分析をするな。たしかにそうだよ。月に一度、1200字のエッセイを書いて提出する。そのためには、今度は何を書こうかな、この素材が良いかな、どんなタイトルにするかな、と頭は休んでいられないからな」


 私はいま雑誌にミステリーの連載をしている。書けば、6000文字。それまでは常に次号はどう展開するかな、犯人との絡みはどうするかな、伏線はどう張るかな、と頭のなかは試行錯誤して、休む間もない。

 脳細胞は刺激を与えれば、いつまでも若さと柔軟性を保てる。同教室の受講生はつねに作品のテーマ、構成、書き出し熟慮しないと、講師の厳しい採点についていけない。その実証の場でもある。と同時に、「自慢じゃないけれど、と言いながら過去の自慢をする人」と、休むまもなく脳を刺激する受講生と、この5年間の差は大きな、と思った。


30分間レクチャー 作品の創作・仕上げ方『三段階法』について

初稿(第1段階)は、エッセイ素材を決めたら、作者のスタイル(個性)で書く。最後まで書き切れば、出来ばえなど問題はありません。

『作者のスタイル(血液型)』

①全体の構図(ストーリー)をしっかり考えてから、書き出す。(A型)
①ばく然と全体のあら筋をつかんでから、書き出す(AB型)
②メモ程度に断片を書いてから、全体をつなげていく(O型)
③思うまま、筆任せで、書いていく(B型)

2稿(第2段階)として、書き上げた作品は読み直し、全体を整える

①構成を組み替える。最も重要なもの(力点)は結末近くに持っていく。
②力点は、前段階で伏線を加筆する。
③テーマの統一を図る。テーマに無関係な描写や説明は外していく。
④タイトルを見直す。結末との整合性も行う。

3稿(第3段階)が作品の精度を高める。

①数日間は作品を寝させる。
②冗長なところは削除し、回りくどい表現は短くする(刈り込む)。植木の職人の気質で。
③一字一句のチェック、修飾、類語など置き換えなどで、仕上げる。
④最後は大きな声を出して読み上げる。ちょっとでも、読み停まれば、それは文章に難があるところです。

僕を知らないの? 日本人で、あんただけだよ

 日本ペンクラブの2月度・例会が2月15日、東京・千代田区の東京會舘・ロイヤルルームで開催された。阿刀田高会長が冒頭において、「今年初めての例会です。旧正月でもあり、おめでとうございます」と新年の挨拶を行った。「国際ペン大会が終わり、やや気の抜けた気分もありますが、新たなペン活動のために推し進みましょう」と述べられた。
 
 乾杯の音頭は中西進副会長だった。
 司会の高梁千劔破(ちはや)常務理事から、「今年は定款の改正があります。2/3の出席(委任状を含めて)が必須です」と、春の総会の参加を呼びかけていた。

 新ペンクラブ会員が壇上で紹介された。外国人が2人いた。1人は欧米系の女性。もうひとりはアフリカ人男性だった。


 その後、パーティーに移り、広報委員会のメンバーがあれこれ談笑していた。アフリカ人のオスマンユーラ・サンコンさんがやってきた。私はふだんTVニュースのみで、娯楽番組を観ていない。作家仲間からは「芸能音痴」で通っている。

「何、やっている人なの?」
 私がサンコンさんに訊いた。
「日本人は1億2千数百万人いるよ。知らないのはあなただけだよ」
 彼は呆れ顔で、白い歯を出して笑っていた。
 となりにいた鈴木康之さん(副委員長)が、「穂高さんはほんとうに芸能音痴だね、TVバラエティー番組で、一世を風靡(ふうび)していたタレントだよ」と教えてくれた。

 サンコウさんに文筆活動を問うと、日本の自然、家族、そして素晴らしい日本文化をアフリカに紹介している、と説明していた。ただ旧来の家族良さが消えかけている、とつけ加えた。

 現在は、タレント稼業よりもギニア大使館に勤務している。
「何等書記官なの?」
「一等書記官だよ。大使とふたりで日本にきたからね」
「だったら、一等書記官兼飯炊きだね」
「そういうことよね」
 彼は大笑いして打ち解けていた。

「胸のバッチは?」
 私が指すと、
「2年前に、『東久邇宮 文化褒賞』を受けたんだよ」
 彼はギニアの緑化運動、学校づくりに7年間に尽くしてきた。それが評価されたものだという。
 この表彰式で、明治初年に撮影された第1回の功績叙勲者たちの集合写真を貰ったという。

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第46回・元気100エッセイ教室=文章の若返り

 文章にも老齢化がある

 文章には呼吸とリズムがあります。それが句読点(くとうてん)です。
 句点(。)は平均して45文字ていどが、最も読みやすく、読者の理解をスムーズに運んでいきます。

 
句点が少なく、センテンスが長くなると、主語と述語の関係が乱れてきます。一つのセンテンスのなかに、意味が2つも、3つも、ひどいときは5つぐらい入り込みます。そうなると、作者は一体なにを言っているのか、と解らなくなります。必然的に読むのが嫌になります。


 読点(、)は文脈を考え、わかりやすい文章にさせるものです。読点(、)は平均的に15字前後が最も読みやすい文章のようです。


 年配者ほど句読点(くとうてん)が少なくなる傾向があります。それは文章の老齢化です。読者側は、一読で文意がつかめず、もう一度読み直す。そのくり返しが多くなると、そのうち読むのが嫌になり、途中で放棄してしまいます。


 とくに読点の打ち方は大切です。名作の情景文は、句読点が短いものが多いようです。それは若さと文体(個性)を作ることにつながります。

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目黒学園・講師の新年会は、プロの手作りで豪華

 目黒学園カルチャースクール(西澤明夫社長)では、1月10日(祝日)12時から東京・カトリック目黒教会の教室で、新年会が開催された。出席者は講師陣が89人、学園スタッフが8人が一堂に会した。司会、料理、演出、演奏、実演など、すべてプロ講師だから、豪華な新年会である。

 オープニングは角(すみ)照美さん「和太鼓演奏」で、威勢のよい、軽快なリズムが講師たちを迎えてくれた。
 挨拶に立った西澤さんは、「ふだんは顔を知らない講師の皆さんが、この新年会を通して、仲良くなり、生徒どうしがさらに仲良くなってほしい」と述べた。いつかは生徒を交えた、納涼大会をしたい、それが夢です、と語った。
         

 瀬沼克彰さん(桜美林大学名誉教授)によると、全国にカルチャースクールが数多くあるけれど、講師を集めた新年会はこの学園のみである、と話す。各カルチャーは受講生のダウンから、経営が苦しい。そのなかにおいても、講師の新年会を行なう、講師を大切にする、という同学園の経営姿勢は稀有な存在だろう。
 献立は「懐石料理」講師の入江亮子さんで、美食の日本料理が各テーブルに並べられていた。テーブルに飾られた花は岡田外美枝さんで、「英国式フラワーアレンジメント」講師である。


 手打ちソバの実演は「手打ちソバ教室講師」の関根二三夫さんで、二八ソバ(北海道産の蕎麦粉)が使われた。「ソバを打つとき、1秒の違いが味の違いになります」と説明しながら、全員にいきわたるソバを作ってくれた。

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第45回・元気に100エッセイ教室=読者の脳裏に映像を

 エッセイ教室は丸5年の歳月とともに、45回を通過した。


「45」という数字は、私の脳裏のなかで、1945(昭和20)年に結びつく。この年は東京大空襲、アメリカ軍沖縄上陸、各都市で戦禍の焼け野原、広島・長崎原爆投下、そして終戦、さらには飢餓寸前の食糧難である。
 日本人が有史以来、最も苦しみを味わった年ではないだろうか。

 現代の経営者たちが「いまや未曾有の苦難の年である」という手垢のついた、年頭の挨拶などを述べている。それ聞くと、私は1945年を思い浮かべ、歴史認識の甘さから滑稽になる。        (戦禍の体験は、曾祖父母の時代になってきた)


 今回の講義は、書き手の極意・作法に迫ってみた


 叙述の文章(エッセイ、小説)とは、「読者の脳裏に映像を作りだしていく芸術である」という定義をもっている。これは私の独自の考えで、あらゆる講義で指導要綱の根幹としている。

 文章は映画や写真のように、直裁的に脳裏を刺激できない。だけど、叙述文の技法を高めることで、映像化に近づけられる。文章には強い味方がいる。それはTVや映画とは違い、心理描写という技法があることだ。

 作者が情景(風景、人間など)を描写文で描けば、読者は脳裏で、かつての体験から映像化を行なう。心理描写は、読者の心を直裁的に刺激し、感情移入させる。

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卒業生の熱意で、かつしかPPクラブが発足

 かつしか区民大学が10年度から正式に開校した(主催:葛飾区教育委員会)。数多くの講座、講演のカリキュラムが組まれている。すべて単位制である。

「私が伝えるかつしか」はその一つ。文章と写真の技術を磨き、小冊子の作り方を学び、それを媒体にして「葛飾を発信する」、「葛飾をより知ってもらう」という勉学の講座である。春から秋にかけて延べ8回の講座をもって終了した。

受講生の全員がみずから小冊子を制作できるようになった。記事と写真の基本的なことを身につけたことから、PCの知識さえあれば、ネットでもビジュアルな情報が流せる。今後は葛飾ミニ記者として、大いなる活動が期待される。

 第1回卒業生の有志が今後とも「写真と文章の技量を磨きたい」という熱意から、自主グループの立ち上げに尽力してきた。同教育委員会・生涯学習課の支援もあり、12月16日に、「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)を立ち上げた。登録メンバーは12人。総会が行われて、会則も定まった。

 P=ペン(記事) P=フォト(写真)

 講師として、私が迎え入れられた。そのうえで、第1回研究会の日程が2月中旬と決められた。

 同日は事前連絡で、自主研究の作品が持ち寄られていた。卒業作品に比べると、実力は一段と増し、一つひとつに目を見張った。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由

 広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。
(西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう

 他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。
 司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。
果たしてそうだろうか。
 司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。

 司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過大評価だと言い切れる。
 第二次長州征伐を決めた幕府に対して、薩摩は早ばやと不参戦を通告した。となると、幕府とすれば軍事立案の段階から、薩摩抜きは折込済みだ。ダメージはほとんどなかったはずだ。
 
「薩摩が抜けても、長州に勝てる」と幕府は確信を持ったから、1866(慶応2年)6月7日に長州攻撃を通告し、蒸気船の軍艦を宮島沖に集合させ、陸の幕府軍を広島に進めてきたのだ。

 幕府軍は戦略において思わぬことが起きたのだ。「さあ、出陣だ」というときに、長州と隣り合う、最前線基地の広島藩の家老・辻将曹(しょうそう)が、老中に不参戦を通告したのだ。
「そんなバカな」と老中は激怒した。

 武器弾薬、食料、水など供給基地の広島が「戦わない」となったのだから、これが徳川全軍の士気を削ぎ、決定的な大打撃となった。
 つまり、火ぶたを切る直前で戦いを止めた、芸州藩の戦線離脱が強烈なダメージになったのだ。結果として、長州が陥落せず、そのうち家茂将軍の死去という、長州側にラッキーな面が生じたのだ。

 司馬さんがいう、「薩長同盟で薩摩の不参戦を決めた、だから長州が勝利した」という見方は、あまりにも薩摩の過大評価。薩摩が途中からでも長州に軍隊を送っていれば別だけれど、それすらなかった。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(1)=原爆の資料焼失ではなかった

 幕末史において、「芸州は日和見主義だ」と批判されている。はたして本当だろうか。大政奉還まで、徳川倒幕の主導的な役割を担ってきたはずなのに、なぜ幕末史から消されたのか。それ自体がミステリーに思える。

 11月には、幕末志士・池田徳太郎の地元である竹原市(広島県)に出むいた。竹原書院図書館で、芸州の幕末史料がほとんどない実態を聞かされた。
「この資料探しは厳しいな」
 そんな思いにとらわれた。
 なぜ、資料がないのか。考えられることは、昭和20年8月6日の原爆の炸裂で、広島城、家臣が住む城下、さらには資料館、図書館もすべて焼けてしまったからだろう、という認識があった。


ここはあきらめずに歩かなければ、史料・資料にはめぐり合えない。

 12月第3週には、幕末・芸州藩の資料を探しもとめて広島、呉を歩いてみた。
 広島県立文書館(古文書収集の公的資料館)では、「芸州藩の幕末資料は希薄ですから、山口、土佐、鹿児島、岡山の周辺から見つけ出してくるしかない手はないでしょう」という、途轍もない遠来なアドバイスを受けた。
 と同時に、広島には幕末・芸州藩の専門的な研究者がいない口ぶりだった。

 次に竹原書院図書館で知りた、呉市(同県)の開業医の郷土史家を訪ねてみた。
「原爆で資料が焼失したけれども、他にも要因があります。広島には帝国大学がなかった。明治から戦前まで広島高等師範だったからですよ」と話された。

 高等師範とは何か。明治時代にできた、文部省管轄の中等教員養成学校で、東京、広島、金沢、岡崎の4ヵ所にあった。とくに東京と広島は大学並みの扱い(学士号)を受けていた(校長になるエリート・コース)。つまり、文部省のお抱え指導者だった。
 
 明治新政府の初代・文部卿は、肥前藩の大木喬任(おおき たかとう)である。肥前藩は尊皇攘夷の藩論すらまとまらず、倒幕の成果などないに等しい。それなのに「薩長土肥」を作り上げた。ある意味で、ねつ造だった。

 その後の文部大臣は長州、薩摩、肥前(佐賀)の出身者がぎゅうじっていた。それが起因して、薩長土肥が長く文部省の指導要綱となった。戦後教育においてすら、歴史教育の場から、薩長土肥が消えなかった。
 

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ノーベル文学賞作家・高行健=国際ペン・東京大会の基調講演

 国際ペン・東京大会の開会式で、ノーベル文学賞作家の高行健さんが基調講演を行いました。講演の概略はすでにメディアで報道されてきました。
 日本ペンクラブの保存資料として「講演録」を書き上げました。全文を掲載いたします。亡命作家や国際ペンの活動など、皆さんのご理解が深まれば幸いと考えます。
                 (穂高健一は日本ペンクラブ広報委員会・委員)


 高行健さんは1940年に、中国・江西省に生まれました。62年に北京外国語学院フランス語学科を卒業し、書店、雑誌社に勤務しました。他方で、執筆活動をはじめました。
 ドイツ、フランスに渡り、90年に天安門事件を背景とした、劇作『逃亡』を発表しました。
 現在はフランスに亡命ちゅうです。中国語で創作した作家として、初めて2000年にノーベル文学賞を受賞しました。


              【基調講演・本文】


 高行健は冒頭にひとつの問題を提議した。
「文学は人類が直面している苦境を救うことができるのでしょうか。自然環境の悪化、環境汚染は加速し、深刻さを増しています。これに対して、作家は何ができるのでしょうか」
 作家は特別な地位も、権力もなく、特権もない。かくも弱い作家が神話やSFの力を借りずに、何ができるのか。
「地球のどこを探しても、汚染を受けていない土壌はないのです。人間は生存にかかわる問題に対して、文学は解決できないのです」

 作家は聖人君子でも、超人でもない。神でも、救世主でもない。文学は人間の苦境を描き、現代人の状況をありのままに描く。この状況をどのように認識するか。それが作家の仕事である。
「作家が政治にかかわれば、政治の飾り物になるか、政治闘争の犠牲になるか、どちらかです」
 作家はいかに利益を超越した、創作活動を堅持する。非常にむずかしい問題であるが、圧力や誘惑に抵抗し、精神の独立を維持するものである。
 20世紀はイデオロギーが氾濫する時代だった。

 共産主義から民族主義まで、さまざまな形のイデオロギーが次々に革命神話を作りだした。文学を利用して革命戦争を盛んに宣伝し、革命指導者を賛美し、革命政党のために賛歌をささげた。
「こうした作品は、いまや紙くずとなり、誰も読もうとしません」
 各地の共産主義国家はいま、西洋の資本主義国家よりも、熱狂的に金銭を追求している。空洞化したロジックの骨組みを残すだけとなった。

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村上水軍を訪ねて。能島の潮流に生きる、漁師が語る(2)

 南北朝時代から戦国時代に活躍した、村上水軍は3家(来島、能島、因島)に別れている。この島を取り巻く海域は、帆船時代は瀬戸内海航路のなかでも最も重要なところだった。村上水軍は制海権を握り、陸上の毛利や小早川など大名と結びついていた。

 前期村上水軍の村上義弘(海賊総大将)は、鎌倉時代の後期に、能島(のしま)に居城を構えていた。後醍醐天皇の皇子で、九州大宰府に落ちた、護良親王(もりよししんのう)と結びついて、九州・四国、さらには関西まで戦いの手を伸ばし、百戦錬磨の勢いだった。彼には子供がいなかった。
 養子縁組などから、その後は3家に分かれている。(後期村上水軍)


 愛媛県・今治市からしまなみ海道を通って、「大島」の宮窪港に行ってみた。小春日和だった。
2キロほど沖合いに能島が浮かぶ。想像よりもはるかに小さな島だった。宮窪瀬戸は干潮と満潮は、とてつもなく激しい潮流を生む。大潮のときは約1mの段差ができる。時速が20キロの激流となる。島全体が天然の要害である。

 漁港の宮窪では、漁師の藤森さんが刺し網の漁網(長さ約800m)に『浮き』をつける作業をしていた。藤森さんから、興味深い話を聞くことができた。
 この付近の海域は厳しいが、それが却って豊富な魚場になっているという。.

 刺し網は、回遊する魚が網に入ると、三角巾に閉じ込められたように逃げられなくんなる。もがくほどに抜け出せなくなる仕掛けだ、と具体的に教えてくれた。
「イカ、タコ、サザエやアワビも、この網に掛かるよ」と、私を驚かせた。貝は夜行性であり、磯から磯に渡るとき、仕掛けた漁網に引っかかるという。

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