小説家

【推薦図書】中澤映子著『三本脚のアイが行く』=小さな命の四季

 あなたは動物エッセイを読むとき、なにを期待しますか。「人間と動物の心のふれあい」「感動の出来事に巡り合いたい」「生命の大切さを再認識したい」と多くの人はそんな想いだろう。
 
 それに応えられる感動の動物エッセイが出版された。中澤映子著『ワン・ニャン歳時記 三本脚のアイが行く』(長崎出版・定価1200円)で、副題「小さな命の四季(じかん)を綴った俳句付」である。

 作者・中澤映子さんは東京女子大卒で、博報堂に入社し、定年まで勤務した。広告制作ひとすじに37年間を過ごす。国内外のCMコンクールで多数の受賞作品がある。
 動物エッセイ(俳句付)の出版は初めてである

 彼女が嫁いだ中澤家は、動物愛の塊だった。彼女の本心は「犬は好きでも、猫は苦手だった」という。大手広告会社勤務の夫や、義両親は路傍でさまよったり、段ボールで放置されたり、傷ついた瀕死状態の犬や猫に出合うと、「見るに見かねて」引き取っていた。そして、一つ屋根の下で暮らす。
 最もたくさんいたときは犬の親子が5人、猫が16人である。

 ふびんな犬や猫を連れ帰れば、その世話で家族はてんてこ舞いする。「こまった、コマッた、困った」と言いつつも、見捨てておけないのだ。それをもじって『小俣(こまった)ファミリー』と称している。
 街なかのペットショップで可愛いからと言って買ってきた、そんな動物たちとはまったく違う。 

続きを読む...

第59回・元気100エッセイ教室=テーマの見つけ方

テーマとは何か。

 エッセイ、小説のみならず、写真にしろ、絵画にしろ、テーマが重要です。これが曖昧だと、作品に強さや求心力に欠けてしまいます。
『テーマとは、作品のなかで作者の最も言いたいことである。一言で言い表せるもの』
 その定義にたどり着くまで、私はかつて約10年間を要しています。

 私は腎臓結核で28歳から闘病生活に入りました。寝床で本ばかり読んでいても面白くないし、寝ながら何かできることはないかな、と漠然と考えていました。
 30歳ごろ、寝ながら小説のストーリを考えれば、病気から気持ちが外れるし……。小説でも書いてみようかな、と思ったのです。

 私は港町に生まれ育ちました。中学生時代は船員相手の貸本屋から大衆小説を借りてきて片っ端から読んでいました。
 父は元教員で、「学校の勉強は家でするな」という主義でした。学校で先生の話をしっかり聞いて、それで試験を受けたら、それが本当の実力だ。(若いときは教室で集中力を養えばよい)。各学期の試験勉強も、宿題もさせてもらえなかったのです。

 ある時、部屋で宿題をしていて見つかり、戸外に連れ出され、バケツの水を頭からぶっかけられたこともありました。それだけは徹底していました。いまとなれば、記憶力、集中力の寄与になったのかな? と思うこともありますが、学校では宿題をやらない学生で、教室の後ろとか、廊下とかに常に立たされていました。

 私は小遣いで毎日、、貸本屋から数冊ずつ、本を借りてきて、乱読です。大衆小説、時代小説、サラリーマンもの、ミステリーには決まって艶のある文面があるし、思春期の私には好物でした。卑猥な本を借りてきても、父は読書に対して何ら口を挟みませんでした。(それがストーリーづくりに役立ったのだしょう。現在でもストーリーで苦しむことは殆どありません)。

 30歳の独学のスタートとして、基本勉強だと思い、「小説技法」「文章読本」の類を読むことからはじめました。丹羽文雄、三島由紀夫、野間宏、井上ひさし、川端康成、どの本にも、テーマ(主題)は大切だと書いています。とたんに、テーマという言葉がよくわからなくなったのです。

「テーマを決めて書きなさい」
 そう述べている項目を見て、
「テーマってなんだろうな?」
 と考えるほどに、頭のなかが混とんとしてきました。テーマとは入江を航行する、進路のようなものかな、海図かな、羅針盤かな、と迷いに迷いました。
 やがて、私の恩師となった伊藤桂一さんにも「テーマ」という言葉がわからないんですが、執拗に質問したものです。

 約10年間はひたすら、テーマとは何か、で苦しみました。


 いまや小説、エッセイを教える身になっても、「テーマ」の項目になると、思わず構えてしまいます。どう説明したら、ストレートに解ってもらえるだろうな、と考えてしまうのです。
 
 テーマが定まらない作品は、思いつきで、ダラダラ書いているものです。この作者は何を言いたいのかわからない。冗漫なところが多い、という酷評になります。と同時に、読者が見限り、放棄してしまいます。

『あなたは何を書きたいのですか』
 そう質問すると、多くの人は書きたい話の内容(ストーリー)をしゃべれても、書く上で重要なテーマとなると、覚束ないものです。

【事例研究】

『前々から書きたかったもの、突如としてひらめいたもの、印象深かったもの』それが次の例文だったとします。

①「台風の接近で客船が大揺れし、船酔いするし、大変な旅だったの……」
  
         → 作品化するとすれば、テーマは何ですか

②「エスカレーターで転倒して、救急車で運ばれて、太ももを7針も縫ったのよ……」

          → 書きたいテーマは何ですか

③「奥州路を歩いていたら、古寺の八重桜が綺麗で、とても感動したわ。それを書きたいわ」

           → 明瞭なテーマはありますか

 このように、書く段になってもテーマは決まっていないものです。それが普通です。私は10年間悩んだ結果、一つのテクニックを発見しました。【コツです】

続きを読む...

【推奨・図書】いまこそ私は原発に反対します。=日本ペンクラブ編

 私は昨年末、吉岡忍さん(作家)と、ある大学構内で、ふたりして3.11を語っていた。その折、吉岡さんが、日本ペンクラブ(浅田次郎会長)編の原発関連作品の締め切りが迫っていると言い、「老人と牛」のストーリーの一部を語っていた。

 同クラブから、12年3月1日に『いまこそ私は原発に反対します。』(平凡社、1800円)として、発刊された。PEN会員52人が執筆している。編集責任者は同クラブ・編集出版委員会・森ミドリ委員長である。

 短文、短編、詩歌もありで、とても読みやすく、読者が自分の好きな作家の拾い読みをしただけでも、脱原発の声がじわーっと伝わってくるものだ。

 現代の出版は、売れる作品が優先する、コマーシャルイズムに影響されている。同書に掲載された作品は、編集者や出版社に媚(こ)びた内容ではないし、それぞれが作家精神まるだし。思想信条の自由という点からも、現在には数少ない出版物だろう。
 

副題を列記しておくと、
 
 ・「今日のあなたへ、明日のあなたへ

               佐々木譲『Rさまへの返事』他3編

 ・「紡がれた物語
 
               阿刀田高『笛吹き峠の鈴の音』 他8編   

 ・「うたう、詠む、訴える

               アーサー・ビナード『ウラン235』 他7編

 ・「深部へのまなざし

              雨宮処凛『泣いているだけじゃダメなんだ』 他8編

 ・「語り伝えること

              浅田次郎『記憶と記録』 他20編


                       ※長いタイトルの一部は割愛があります  
   
 

続きを読む...

岡山城で、あの武将に巡り合う

 広島には1時間余りの日帰りの用があった。交通費はかかることだし、東京にトンボ帰りにしても勿体ないし、岡山に立ち寄り、後楽園と岡山城に行ってみようと決めた。ある意味で単なる気まぐれだった。
過去に一度、岡山城には足を運んだはず。だが、どんな城だったか、記憶のなかには残っていなかった。


 東京を発つ前日の、深川歴史散策の折り、PEN仲間の山名美和子さん(歴史作家)に、岡山城に立ち寄る話題をむけてみた。
「旭川の方からみた岡山城は素敵よ。日本の城のなかで最も好きな一つね」
 そう賛美してから、
「正面から見た岡山城は、どでーんとして、面白くないけど」
 とつけ加えていた。
 正面よりも裏側が美しい。社寺仏閣にしても、そうざらにある話ではない。

 4月20日の午後は曇天で、ときに小雨が降っていた。後楽園を見学してから、同園の南門を通り、旭川に架かった橋を渡りはじめた。そこから見た4重6階の天守閣はまさしく美城だった。ほれぼれしながら、カメラのシャッターを切った。
 カルチャーなどのPHOTO教室では、
「風景写真は絵葉書的で面白くないし、他人に見せても感動しない。人物は必ず入れなさい」
と指導している。
 その手前もあるし、鉄橋には通行人などいないし、程ほどに数枚撮って止めた。城址に入ると、ジャージーを着た、京都の女子高生たちが散策していた。彼女たちを取り込むかなと思うが、タイミングが合わない。


 岡山城の概要の案内板を読んだ。宇喜多秀家が城郭を建造した、と明記されていた。
「えっ、あの宇喜多秀家(うきた ひでいえ)だ」
 私は大声で叫びたくなった。それは小説の習作時代に、取り上げた人物だったからだ。


 私は28歳から腎臓結核の長い闘病生活に入った。読書三昧だったが、そればかりでは面白くないので、2年後の30歳のとき、小説を書いてみよう、と決めた。

 数年後に社会復帰は果たしたが、すぐさま膀胱腫瘍とか、病いの連続だった。人生は悪いことばかりでなく、他方では直木賞作家の伊藤桂一氏と巡り合い、長く指導を得ることになった。

 私は純文学の小説にこだわっていた。ハードルは高いし、文学賞ははるか彼方に思えた。小説で食べられなくてもよかった。死ぬまでに一冊でも良い、後世に残る作品を書きたかったからだ。

続きを読む...

第58回・元気100エッセイ教室=文章のリズムと流れ

 リズム感。それは音楽において最もたいせつな要素です。と同時に、奏者や歌手のいのちです。
 体操選手でも、リズム感のある人と、そうでない人の差は出ます。一般人の生活そのものにも、リズムがあり、大切な要素となっています。


 文章においても、リズムはとても大切です。文のリズムが良いと、作品に味が出てきます。読み手の頭のなかに、心地よく言葉が入ってきます。次つぎ、流れを追いたくなります。
 反面、文章のリズムが悪く、起伏がなく、単調な流れになると、読み手は飽(あ)きてしまいます。

 それは何も、エッセイだけではありません。
 長編小説でも、オーケストラのように人物を巧妙に配置し、ひとりずつ動かす、それぞれにリズムを持たせる必要があります。あるときには静かにせせらぎを流れる音のように恋を語り、時にはドラムを連打する激しい逆境の人生が必要です。
 平坦なありきたりの甘いリズムばかりだと、数百枚の小説などはまず読み切れないものです。

 エッセイも同様です。短文のなかに、きめ細やかな描写がある。それでいて、スピードのあるリズムなども要求されます。ただ単調にストーリーを運んでも、内容がよくても、印象が薄い作品になります。

 花を摘むのんびりした人びと、むこうには成田空港へのスカイライナーが走り抜けていく。一つキャンバスのなかに、別々のリズムが共存しています。
 これを一つの情景文として、エッセイ作品で描く場合には、2つのリズムが必要になります。
 
 文章にリズムをつけるには、どのようにすればよいのでしょうか。そんな疑問に応えてみます。


ポイント① 【上手に文章リズムをつける方法】 

A 長い文章(ロング・センテンス)の後は、あえて短い文章にする。短い文章が続くと、こんどはやや長い文章にしていく。これがリズムの基本です。
 きっちり正確にやりすぎると、却ってリズム感を失くします。

B パラグラフ(複数のセンテンス・各段落ごと)の分量には、たえず変化をつけていくと、作品全体にリズムがついていきます。

 これら2つを常に意識して創作活動していると、個性的な文体と独特のリズム感が生まれてきます。作者名を伏せていても、リズムと文体から、誰の作品か判ってくるものです。

続きを読む...

文学仲間たちと『深川歴史散策』、そして門仲・居酒屋で語る 

4月18日は快晴で、気持ちの良い深川歴史散策の日和となった。集合は清澄白河駅(江東区)だった。日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志で、今回が4回目となり、メンバーは固定している。


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、そして夜の部だけとなった吉澤一成さん(PEN・事務局長)、それに私の7人である。


 第1回は11年8月9日の猛暑の葛飾立石だった。東京下町の昭和が残る町を見てまわった。2回目は江戸幕府との縁が深かった小江戸の川越。3回目は文人たちの碑が多い浅草だった。

 今回のルートは清原さん、相澤さんの2人によるものだ。まずは荒井白石の墓がある報恩寺に向かった。愉快なお土産物などもあった。


 数日前には、山名さんから郵送で、彼女が執筆した「江戸への旅」(名城をゆく・第9号)(小学館)が自宅に届いていた。
 本所深川界隈『藤沢周平を歩く』に記載された、「蔵前・門仲で下町人情に出会う」とか、「深川の水と闇にたゆたう情念」とか、「両国橋を渡り、柳橋から舟遊び」などが、今回の歴史散策に関連した、興味ある内容だった。


 山名さんは現在、埼玉新聞に「甲斐姫翔る」を連載している。いま秀吉の小田原城攻めで、40数回に及ぶ。この先、埼玉県内で激戦が繰り広げられるので、一段と熱気がある執筆となろう。前々から、彼女が最も書きたかったところだと語っていたから。


 新井白石の墓を目ざす途中で、「出世不動があるぞ。縁起がよさそうだ」と予定外の寺を見つけ、足を運んだ。「作家となった今、出世でもないしな」という軽口も出てくる。
 しだれ桜がとても雰囲気の良い、小さな境内だった。

 報恩寺に足を運びいれた。肝心の荒井白石の墓は囲いがあって中に入れない。(見ることは出る)。白石は晩年に執筆した名著が多く、それらは高く評価されている。

 幕藩体制のなかで偉業をなしたか。見方はそれぞれに違ってくる。徳川将軍の第6代家宣、第7代家継と2代にわたり、一介の旗本の白石が幕政を牛耳ったのだ。良い施策もあるが、独善的な考え方で、「将軍の命令だ」と強引さで貫いた。
 それら白石の推し進めた政策が、あとに続いた吉宗にはことごとく否定されてしまうのだ。

「江戸時代にはいろいろな大改革が行われたが、見方を変えれば、庶民いじめだからね」と井出さんがいえば、相澤さんも賛成する。「田沼意次も決して悪い人物ではなかった」と山名さんも話す。
 歴史作家たちだけに、教科書的な価値観から脱却し、それぞれの意見を繰りだす。


「深川江戸資料館」に向かった。この間に、下町の店などをのぞく。道々、新津さんから「(私の友人の)22日・ギターコンサートの招きをキャンセルして悪いわね」と詫びられた。彼女は著名ミステリー作家だけに、作品がTVドラマ化されることが多い。今回はじめて映画になり、監督や俳優と顔合わせが急きょ22日になったのだという。「映画優先は当然ですよ。ギターはまたの機会も作れますから」と応じた。


 同資料館に入る前、清原さんが「きのうは徹夜し、朝食も取らずに来た」といい、喫茶に入った。私も空腹を覚えていたので、ふたりして太鼓焼とたこ焼きを食べ、小談してから、館内に入った。


 ひとたび足を踏み入れると、そこは江戸時代の庶民の街なかである。火の見やぐら、船宿、籠めや、八百屋、長屋、井戸や便所などが、まさに実物大で再現されている。
 さらには、鶏の鳴き声、ネコの鳴き声、アサリ売りの声、時を知らせる鐘の音がひびく。江戸の雰囲気がわが身を包んでくれる。タイムスリップさせてくれる。
 

続きを読む...

第57回・元気100エッセイ教室=エンディング(結末の書き方)

 多くの人には、名作映画のラストシーンのいくつかが心に焼きついているはずです。「太陽がいっぱい」「サウンド・オブ・ミュージック」「ジョニーは戦場へ行った」……、私には、『シェーン、カムバーック』と叫ぶ、少年の声が谷間にこだます場面がつよく残っています。

 エンディング(結末)は作品の最大の勝負どころです。武士の真剣勝負でいえば、最後に振り下ろした一刀で、相手を斜めにスパッと斬る。そのような切れ味の良さが求められます。

 エッセイは書き出しで、まず読み手を引き込みます。それに失敗したら、もう終わりで沈没です。読者を引き込んだ先は、内容勝負というよりも、結末勝負です。エッセイのエンディングは、名作映画のラストシーンと同様に大切なものです。


  ・結末が良いと、「良い作品を読んだ」という評価になります。
  ・結末が悪いと、最後まで「期待してきて裏切られた」心境になります。

 ストーリーがあるものには、終わり方の定石や定型がありません。映画でも、エッセイでも、作品ごとに内容が違うから当然です。ただ、エンディング効果を上げる、上手な方法はあります。


【良いエンディング(結末)の書き方】

① 多めに書いておいて、2、3割ほど手前ですぱっと切って棄ててしまう。余韻が生れます。(コツ)
② 随所に伏線を張っておいて、ラストで結びつけてくることです。
③ 「私」の期待や、希望など、心のなかを表現する。心理描写で終わらせてください。
④ 苦境を描いても、涙とか、悲しみとか、泣くとか、それら悲哀のことばは途中で使わない。
   極力引っ張ってきて、最後の最後で、切り札としてつかう。
⑤ 読者を泣かせることです。

続きを読む...

幕末史の空白と疑問(3)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)は、尊皇攘夷の立場をとる大名だった。そんな背景から、孝明天皇からも厚い信頼が寄せられていた。
 慶勝は德川家そのものよりも、むしろ朝廷を尊ぶ、尊王思想だったという。

「尾張藩の初代藩主である義直の『王命に依って催さるる事』を秘伝の藩訓としてきた。つまり勤皇思想の家訓を受け継いでいたからです」
 徳川美術館(名古屋市東区)の原史彦主任学芸員がそう語ってくれた。

「禁門の変」で、朝廷に銃を放った長州に対して、孝明天皇は激怒した。長州藩追討の勅命を発したことから、天皇の信頼が厚い徳川慶勝が、第一次長州征伐の征長軍総督になった。(慶勝は当初固辞していたが、全権委任を取り付けて引き受けた)。

 慶勝は兵を進めながらも、平和交渉で外交に勝ち、終戦に持ち込めた。
 長州藩には禁門の変の責任を取らせて、三家老を切腹させた。
「血を流さず、戦費を費やさず」
 慶勝とすれば、最高の平和裏の終結だった。慶喜からは長州の措置が寛大すぎるとして、非難されて、糞みそに言われたことから、慶喜が大嫌いになった。

 第二次長州征伐のとき、慶勝は個人的な慶喜への遺恨から、もはや尾張藩主でないし、病気を理由に出陣もしなかった。

 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いが起きた。徳川軍は頭から戦うつもりでなく京都への上洛の途中だった。西郷隆盛ら薩長土芸の軍隊に奇襲攻撃されたのだ。

 德川軍は体勢を立て直し、本気で戦う気ならば、まだ勝算があったはず。しかし、慶喜は会津藩主の松平容保を連れ、大阪城の門番の目をごまかし、こそこそと逃げ出すなど、およそ徳川将軍の振る舞いとは思えなかった。軍艦で江戸に逃げ帰ったのだ。

「徳川将軍も地に落ちた」
 それが長州の和平を糞みそに言った慶喜だっただけに、尊王派の思想だった慶勝は、徳川家そのものを完全に見限ったのだ。

 尾張家からは、德川15代将軍に誰一人なっていない、という潜在的な不信感とか、反発もあっただろう。

続きを読む...

幕末史の空白と疑問(2)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)が、なぜ戊辰戦争で勤王側についたのか。その疑問から、名古屋市東区の「徳川美術館」に訪ねた。
 同館の原史彦主任学芸員が、芸州藩研究の私の立場と疑問を理解してくださり、飛び込み取材に応じてくれた。原さんは歴史学の立場から、慶勝を説明する。


 14代尾張藩主になった慶勝は、水戸斉昭らとともに尊王攘夷を主張し、安政の大獄では蟄居を命じられている。このとき尾張藩主を交代した。しかし、幕末の尾張の実質的な藩主だった。

 第一次長州征伐では、幕府は36藩15万の兵で長州へと進軍させた。徳川慶勝が幕府側の総督となった。
「慶勝は慎重な性格でした。戦争とは金と人を浪費するもの。戦いよりも和平を求めたのです。(幕府から全権委任を取り付けていたから)、大勢のひとの血を流させず、長州藩の家老3人の切腹で終わらせた。武力でねじ伏せるよりも、外交で勝つ。それが慶勝の取った最善の策でした」

 この経緯としては、慶勝が戦争を回避させるために、岩国(吉川)藩、下関(長府)藩の2藩が長州藩との仲立ちになるように、西郷を使いに出したのである。

 多くの書物は総督・慶勝を飾り物として、勝海舟が西郷が和平の知恵をつけて、西郷がみずから岩国、下関に出向いて解決したと記している。

「旗本の勝海舟と德川家の慶勝とは、あまりにも身分が違いすぎて、ふたりの間に接点はなかった」
 と原さんは語っている。

 名古屋に来て、尾張の視点から見ていると……、
 勝海舟が龍馬を介して、武力討伐思想の西郷に初めて会い、和平へと仕向けた、これはどうも作り物ぽく思えてくる。
 旗本の勝は常に低い身分の家の出だと意識して生きていた人物である。封建制度のきびしい上下関係からしても、勝海舟や西郷がふたりして36藩15万の幕府軍の戦いを終結させた、とするのはあまりにも無理がある。それはあり得ないのではないか。

 明治時代以降に、德川家の力を過小評価させようと、作為的に作られたものなのか。あるいは後世で、(西南戦争で死す)悲劇の主人公・西郷を英雄視する者が、第一次長州征伐で、德川家総督よりも参謀の藩士・西郷が采配をふるった、と創作したものか。それとも、勝海舟の西郷談に尾びれがついたものが、歴史上の大勢になってしまったのか。いずれかの可能性がある。

 現代人の多くは、山口県という視点から長州藩と他の2藩を混同し、同一視している。しかし、当時は国(藩)はまったく別もの。幕末の2藩と長州藩とはむしろ敵対する面が多々あった。
 高杉晋作などは下関・長府藩の藩士たちに命を狙われ、逃亡しつづけていたのだ。

続きを読む...

幕末史の空白と疑問(1)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 大政奉還は世界史でも珍しい、平和裏の政権交代だった。徳川15代将軍の慶喜が天皇に政権を返上した。それなのに、あえて2か月後には、薩長が武力で德川家を倒す策に出た。
 日本人の誰が考えても、戊辰戦争などやる必要がなかったのに。

 下級藩士だった西郷隆盛はとくに武力主義で、徳川家を戦いでつぶす、という軍事思想家だった。
鳥羽伏見の戦とはなにか。大阪から上洛中の徳川慶喜や松平容保(会津藩)の大勢の軍兵に、西郷たちが奇襲攻撃をかけたのだ。緒戦で勝った。そう評価するよりも、徳川軍には戦う気がなかったのだ。
 西郷は、生涯でこの勝利が最もうれしかったという。西郷の考えが、とんでもない、日本の悲劇を生むことになったのだ。

 戦国時代まで、国内の戦争は大名どうしの戦いで、下級武士はまったく儲からなかった。戊辰戦争は違った。会津藩が陥落した後、薩長土肥の下級武士たちが東北地方で、会津藩士は一人残らず青森の僻地に追いやり、思わぬ領地を手に入れたのだ。
「戦争は儲かる」
 その甘い汁を覚えたのだ。
 それら人物が明治政府の中核に座ってしまったのだ。
 まず西郷が最初に言い出したのが、韓国を植民地にすれば儲かるという征韓論だった。やがて日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、「勝った、勝った、外国の領土を奪った」という戦争国家に変わってしまった。

 江戸幕府は260年間にわたり海外と一度も戦わなかった。江戸時代の平和国家から、戊辰戦争は戦争国家に変わってしまった、大きな歴史のターニングポイントだった。
 明治政府とすれば、戊辰戦争の細部は教えてはならない恥部だった。悲しいかな、日本人は教科書で、その構図を教えられなかった。

 同政府は「神風が吹く、日本」と神話を造った。「教育勅語」すら、明治天皇はいっさい関与せず、薩長の政治家が勝手に作り、庶民を戦争に連れ出せるように、児童たちに丸暗記させるものだった。そして、徴兵制度で、「お国のため」という名目で、駆り出されていった。結果として、第二次世界大戦では、日本人だけでも数百万人の犠牲者を出してしまったのだ。
 日本軍が海外で殺した外国人兵士や庶民の数は教えられていない。

 現代でも、なぜ戊辰戦争が必要だったの、と聞いても、知識人を含めて、ほとんど、否すべてと言っていいほど日本人は答えられない。それは明治に作られた歴史教科書がさして変わっていないからだ。平成時代に生きる現代人も、そのこと自体を悲しむべきことなのに……。

続きを読む...