小説家

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(上)

 日本ペンクラブの月例会では毎回、ミニ講演会が行われている。11年9月例会では、吉岡忍・専務理事よる題目『被災地を歩いて』の講演と、企画委員会である杉山晃造さんの「三陸被災地の写真」が展示された。
 吉岡さんは、3.11の東日本大震災が発生した直後から現地に入り、岩手、宮城、福島など数十ヶ所の市町村を歩いてきた。と同時に、多くのメディアを通してさまざまなレポートをしてきた。


「発生から半年経った今、20分でしゃべるのは難しい」と前置きした吉岡さんは、被災地と文学との関連について話をされた。

 今回の震災では、約1万5千人が亡くなり、五千人余りが行方不明となった。その内訳がなかなか表に出ず、詳しい調査が進んでいない。
「漁師さんとか、漁業関係者とかで亡くなった方は意外と少ないのです。たぶん1割いるか否ないか。犠牲者はどういう人だろうか。港の後ろ側で、飲み屋、ホテル、住宅がある、町場(市街地)の人たちが犠牲になっています」
 大地震の発生が昼間だったことから、働いている人は一斉に逃げている。あるいはあまり犠牲者が出ていない。他方で、組織的でないところに居る人、高齢者に多くの犠牲者が出ている。

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第52回・元気100エッセイ教室=語尾には敏感になろう

 エッセイ作品は小説と違って、限られた文字数のなかで、人生を上手に描き出す必要があります。その枠組みのなかでも、書き手によって短い作品、長い作品、と得意分野が違ってきます。短距離ランナーと長距離ランナーと似た体質の違いです。


 読み手も同様です。短くてシャープな作品が好きとか、多少長くても、じっくり味わえるほうが良いとか、それぞれです。
 いずれにしても、エッセイはストーリーよりも、文章の深みと味わいがより重要になります。

 人間の行動や心の動きは、ほとんどが動詞で表現されます。日本語の場合は、動詞が語尾にきます。
 作者はすぐれた作品を書くためにも、ワンセンテンスごとに、語尾に敏感になる必要があります。ふだんの何気ない言動や感情でも、語尾の動詞を上手に変化させていけば、魅力的な文章になります。


【今講座のレクチャーは、語尾の工夫と留意点です】


 ①体言止めは味付けの無い文章になり、素材・情報だけの提供です。

    ・危険だ、と彼は背を丸めた姿勢。
      ⇒ 危険だ、と彼は背を丸めて身構えた。

   ・私は姉と妹の三人兄弟。
      ⇒ 私は姉と妹の三人兄弟で仲がよかった。

   ・話の途中で、彼は相づちばかり。
      ⇒ 話の途中で、彼はうなづきばかりで、心の中がわからない。

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作家の素顔、日本ペンクラブ・9月例会で出会った人たち=東京會舘

 日本ペンクラブ9月例会のミニ・講演会で、会員を前に、タイトル『被災地を歩いて』を語る、吉岡忍さん(専務理事)。このHPでも近日中に、講演録を紹介したい。

 杉山晃造さん(左)は企画事業委員。東日本大震災が発生した後、被災地に入った。取材写真がパネルで同会場に展示された。
 吉岡忍さんがインタビューアーになって、一枚ずつ、写真の説明を求めた。

 下重暁子副会長の質問に答えて、杉山さんは撮影時の現地状況などを語る。


         

 高橋千劒破さん(常務理事、元人物往来社・編集局長)は、つねに総合司会役で、PENの顔の一人である。
 穂高は10月度にある講演会で、「会津の悲劇」について話す予定。高橋さんから今、戊辰戦争の会津関係の知識を授かっている。先週も故早乙女貢邸で約2時間半も単独レクチャを受けた。

 パーティー会場でも、「会津の資料を、明日、FAXで送ってあげるよ」とさらなる親切を頂いた。


 関東大震災の被災地の惨事、原発に対する、PEN・文学者はどう向かい合うべきか。
 会員はみんな真剣に語り、聞き入る。

             

 山名美和子さんは会報委員で、すっかりPENの名カメラマンになられた。歴史作家の彼女には、早大後の教師歴を質問してみた。
 小、中学、高校、と3つの教師を経験したと話す。「そんなことができるの」というと、その仕組みについて語くれた。


 東京會舘はカレーライスが名物である。
 相澤与剛さん(広報委員長・時事通信出版社の元常務)は、いつも両手がユニークな表情を作ってくれる。被写体としては、とても価値ある人だ。
「お願い、頂戴、カレーライスを」こんなキャプションを考えてみました。


       

 清原康正さん(会報委員長・文藝評論家)は、同志社大出身である。
「再来年のNHK大河ドラマは新島八重(新島襄の妻)で、同志社も脚光を浴びますね」
 私が話しを向けると、満更でもない顔だった。そして、・会津落城の折、八重が銃で戦った話になっていた。
 口の悪い作家が、脇から、「ドラマはきっとヒットしないよ。新島襄じゃ」と水を差していた。

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歴史ファンは必見、故早乙女貢さんの邸宅見学と文化サロン=鎌倉

 読書の秋である。木々が色づく紅葉が近づいてきた。初秋から晩秋にむかう鎌倉は魅力がいっぱいである。

 故・早乙女貢さんは歴史・時代小説の大作家だった。(2008年12月23日に没)。その邸宅では、ほぼ毎月1回、「鎌倉文化サロン講演会」が開催されている。2010年7月からスタートし、約1年間で17回開催されてきた。主催は「士魂の会」(佐藤会長・8人のメンバー)で、定員は30人(事前申し込み制)。なんと無料である。

 早乙女貢さんは直木賞作家で、文士の町鎌倉を愛し、執筆に励んだ。歴史小説の大作『会津士魂』(全21巻)で、吉川英治文学賞を受賞している。

                            生前の早乙女貢さん
                             (撮影:鈴木康之さん、2008年2月15日)                                           

 早乙女文学とは何か。薩長が作った歴史観に異議を唱え、見直しを説き、それらを様々な作品群に描き込んでいる。

 講演会のメイン講師は、生前の早乙女さんと親交の深かった、高橋千劒破さん(『歴史読本』編集長、編集局長を経て、日本ペンクラブ常務理事)と清原康正さん(文藝評論家・同理事)である。

 

 敗れた会津から歴史を見ると、江戸時代の平和国家(一度も国内外で戦争をしない)が、明治以降は軍事国家に変えられてしまった。(西南戦争の後は、10年毎に外国と戦争を引き起こす、戦場はすべて海外だった)。

 260年間も戦いのなかった徳川幕府を倒した、薩長の権力者たちは、京都御所の明治天皇を遷都もせず、江戸城に移して閉じ込め、神化した。その上で、何ごとも「天皇のお言葉だ」と捏造し、それを利用して強欲、私欲に走った。その一つが、政治家と軍部がともに利権と利益を得られる戦争だった。


 明治天皇はみずから考え、言葉にし、それを発したものなどほとんどない。「教育勅語」すらも、天皇自身の思慮でなく、薩長の人物が都合よく天皇利用で創作したものである。それを国民に押しつけ、天皇の名の下に、戦いで尊い命を捨てさせた。


 会津側の敗者から見れば、これら薩長の欺瞞の本質が見えてくる。敗者の史観から、日本近代史を見ることも大切である。(講師の説明より)

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P.E.N.メンバーが『昭和の町』葛飾・立石の探求

 「昭和の町」葛飾・立石は、下町の風情がたっぷり残る。8月9日、日本ペンクラブのメンバー7人が集まった。同日は30度を越す、猛暑。気温が高い午後3時に京成立石駅の改札に集合した。

 古い町なみの探索、歴史研究、さらに人気急上昇の居酒屋での飲み会。それらが楽しみで、遠方から集まってきた。
メンバーは吉澤一成さん(事務局長)、井出勉さん(事務局次長)、清原康正さん(会報委員長)、相澤与剛さん(広報委員長)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、それに私である。

 女性作家2人はすでに町中を散策してきたといい、汗をたっぷりかいていた。
「暑い、まず軽くビールといこう」
 清原さんが即座に口火を切った。
 繁盛店『うちだ』では、暖簾の外に数人が待つ。こんな時間でも、客が並んで待っていると、驚嘆していた。開店前は20人ほどが両サイドの出入り口に並んで待っていますよ、と教えた。

 店内接客は最上だ。5分ていど待つうちに、7人一同が一つテーブルに着けるように、上手に席を作ってくれた。「モツ煮」は柔らかくておいしい。野菜類がまったく入っていない、とそれぞれが評している。  一皿180円X皿の数=支払い代金。男性が壁面の早見表に関心を寄せていた。
「初めて、モツ煮を食べたわ」という山名さんは、みんなからお嬢さん育ちだな、と冷かされていた。


 仲見世商店街から散策が始まった。手作りの惣菜屋がならぶ。一軒ずつ覗き見る。衣料品店が多いね、と感心していた。人形焼屋、煎餅屋などは手作り自慢だが、時間帯が遅く、どこも火を止めていた。

 薬局屋の壁面には、昭和史の写真が掲げられている。昭和史のビジュアルな研究になる。みんな強い関心を寄せて見入っていた。「このあたりは新潟に疎開していたんだな」「小学校の古い校舎は懐かしいな」「戦後の台風で、こんな被害状況だったんだな」という声があがる。

 一級河川「中川」に向かう。堤防よりも、民家が低い。「ゼロメートル地帯だけに、洪水になると大変ですね」と井出さんが案じていた。東日本大震災で、大津波が記憶に新しい。東京湾に津波が来難いけれど、水門はどうなっているのですか、という質問もあった。平井水門は5メートルくらいですかね。
 三浦半島断層も指摘されている折だけに、下町住民の安全度をも測っていた。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ②=日本ペンクラブ

 2011年の夏に、松山市に行ってみた。一度は道後温泉に張ってみたい。単純な気持ちだった。夏目漱石の「坊ちゃん」で有名である。

 浴槽には「泳ぐべからず」と表示されていた。まさに、明治時代に、漱石が体験した、その通りである。
地場の60代のやや酩酊したオヤジさんが、話好きで、誰かまわず2、30代の青年に話しかけていた。「どこから来たね」と問われて答える旅人は、大半が東京だった。そして、職業を訊いた上で、オヤジさんは人生訓というか、啓蒙的な話する。

 私にもお鉢が回ってきた。面倒なので、「今治の亡父の墓参り」だと応えていた。
 松山市内はいたるところで「坂の上の雲」が観光一色となっていた。駅にも、松山城にも、繁華街にも、お土産屋にも、四方見渡しても、司馬遼太郎「坂の上の雲」を大々的に、売れ出している。
 浴槽のオヤジさんが、それを話題にしておいた。

「ボクは司馬さんの軍人・英雄視の思想は嫌いだよ。西郷隆盛からはじまり、日清戦争・日露戦争の大将たち・軍人たちをとてつもなく巨大化している。韓国侵略を考えた西郷、それ以降の思い上がった軍人たちの思想が第二次世界大戦を導いた」
「あなたの職業は?」
「想像に任せますよ。司馬さんの執筆の底流にはその批判がない。うがった読み方をすれば、戦争賛美であり、戦争抑止の思想に欠けている。司馬さんは二等兵から戦争を見ることができない、作家だよ。悪いね。松山にきて、司馬さんの悪口を言って」
 ふだん思っていることがストレートに出てしまった。


 道後温泉の浴槽のやり取りを思い浮かべながら、日本ペンクラブ「会報」を読みはじめた。

 国際ペン専務理事に就任した堀武昭さんに聞く。「サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです」というタイトルが目に飛び込んだ。
 私は「国境なき子どもたち」からも、何度か取材したことがある。その取材情景をも重ね合わせて一気に読んだ。

 堀さんの言葉を引用すると、『サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです。国境なき医師団、国境なき記者団……、国境なき文筆家というのもあると思う。男だからとか女だからとか、どういう教育を受けたかとか、お金があるなしとか、そんなことに関係なく、人間の尊厳を全員で分かち合える、国境なき組織、上下のない組織、アナーキーなことだけれど、国際ペンでそれができたら、画期的なことですよね』と理想を語っている。

「国際ペン専務理事になると、ノーベル平和賞の授賞式に招待されているそうですね」
 インタビュアー(広報委員・鈴木さん)の質問に答えて、航空運賃は自分持ちですけどね(笑い)。
 誰にでも気さくに語る、堀さんらしいな、と思った。

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30年来の小説仲間と語る。同人誌「クループ桂」の合評会に参加

 同人誌「グループ桂・64号」の合評会が7月13日、千代田区立和泉橋出張所・区民会館で開催された。私は数年ぶりに出向いた。

 同誌は、昭和50年代半ばに、講談社フェーマス・スクール「小説講座・伊藤桂一教室」で学んだ受講生が1985(昭和60)年に立ち上げたもの。私は発起人の一人だった。
 日本文壇の重鎮・伊藤桂一氏(直木賞作家)も、発足に関わってもらった。

 私は30号くらいまでは作品を掲載していたが、その後はわが道をいくで疎遠になっていた。合評会は、数年に一度くらい。


 伊藤氏は全64号に作品を掲載し、約26年間に及ぶ。93歳の高齢だが、なおも合評会を通して小説指導を続けている。伊藤氏は現在も、国内の著名な文学賞の選者でもある。それだけに、同人誌の講評も鋭い。


 同人は「小説講座」で学んでから、筆歴が30年余りの書き手ばかり。読み手も学んだベースはおなじ。それぞれが遠慮のない意見を述べる。作品に対する意見も、反論も、釈明にも目線の高さが同じだから、理解も早い。
 このように永年にわたり、切磋琢磨してきた筆者だけに、同人誌の質の高さにおいては国内でも最右翼だろう。

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第50回・元気100エッセイ教室=上手なエッセイは短編小説技法で書く

「50」には、物事に対する半分の節目というイメージがある。歴史では半世紀。数値の50%。志の道半ば、まだ半人前、諸々の使い方がなされる。一方で、ここまで来たか、そんな達成感もあるものだ。

エッセイ教室は50回となった。受講生は学びはじめてから、毎月1本は欠かさず、50編の作品を仕上げてきた。大変な道のりである。
 創作作品は思いつきで何本も書けない。壁が幾度も出てくる。その都度、悩み苦しむ。一方で、自己陶酔で楽に書いた作品には距離感がないし、味気もない、と指摘を受ける。目線を下げて、苦しんで書きなさいと指導される。

「隠したいことを赤裸々に書きなさい」
 エッセイや小説は他人に読ませるもの。こうなると、もはや開き直るしかない。ひたすら書き続けることだ。
「もう書くものがない」
 そこで筆を折ったら、それで終わり。到底、50回に及ばなかっただろう。

 ここに及んで、まだ道半ば、と言われると、文学・芸術の天井の高さを知ることになる。金字塔のエッセイが生まれるためには、あと50回は苦しまなければならない。
 それを視野に入れて、元気100の教室のレクチャーでは、創作の重要ポイントの再確認した。

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