A020-小説家

被災地からの声「私たちを忘れないでほしい」=「ペンの日」懇親会

 日本ペンクラブ(PEN)は1935年11月26日に創立された。初代会長は島崎藤村である。毎年、創立記念日「ペンの日」を開催している。11月28日、東京会館、ローズ・ルーム(9階)で行われた。

 設立した当時、日本は満州事変後に国際連盟を脱退し、国際的に孤立に向かう、暗い世相の時だった。戦争国家へと突き進んでいった。作家たちへのきびしい言論弾圧にも耐え、生き永らえてきた団体である

 PENが設立する2年前、1933年3月3日に昭和三陸地震が起きている。地震は震度5だったが、津波の高さは最大で28.7m(現・大船渡市)にも達し、大勢の犠牲者を出している。


 2011年は「3.11」という途轍もない巨大な地震が東日本を襲った。地震、津波、さらに原発事故というトリプルの大被害となった。大都市・東京すらも、帰宅難民が出るほどで、都市機能が一時停止した。 日本人はそれら映像を目にし、大自然の猛威と恐怖に打ちのめされた。と同時に、日本は再生できるのか、どうなるのか、いっときは途方に暮れたものだ。

 いまは災害復興の兆しはあるけれど、傷跡は深く残っている。作家たちは被災地に入り、文学として何をなすべきか、とそれぞれ向かい合っている。
「ペンの日」の挨拶でも、3.11が取り上げられた。

浅田次郎会長の挨拶
「3.11は大変な事故、事件でした。ほかの作家の方に比べると、私は地震、津波、放射能について原稿を寄せていない。私としては、今までの仕事を全うすることが大切。自分がやってきたこと、自分の蓄積してきたものを変えたり疎かにしたりしない。それがいま一番必要な力ではないか、と考えて過ごしてきました」


来賓祝辞、日本文芸家協会の篠会長

 同協会とPENの会員とが重なっている作家が多く、兄弟のような役割と存在である、と前置きしてから、
「わが協会はへっぴり腰ですが、PENは海外との文化交流、言論の自由に対する諸活動が活発です。堀さんが国際ペンの専務理事になり、この重苦しい時代に、海外との文化交流がいっそう伸びやかに進展されることでしょう。

PENは災害と環境の問題にも取り組んできたし、浅田会長になって、『脱原発を考えるペンクラブの集い』が300人を超える盛会だったそうです。うらやましく伺いました」と述べた。
 
 ことし公益法人になった同協会は、相互扶助のみならず、文化活動をより推進していくことになった。7月からは毎月、文春ビル5階の会議室で文芸サロンを開催している。

 11月度は50人の満員のなか、俳人の鷹羽狩行さんと篠会長と対談で、『俳人・歌人はいま……東日本大震災と「ことばのちから」について』と題した熱ぽく語ったと紹介した。

「関東大震災のときは、(短詩形は)素朴なリアリズムが持っていたし、言葉を煎じきっていた。これは強いですね。現代の俳人・歌人はどうあるべきか。より一層、レトリックに磨きをかけ、個人の着想としての、うずき、儚さ、空しさ、痛み、そういうものをどう表現するかです」

 このトークショウの場で、松本の宮坂静生さん(俳人)が、仙台の会員の俳句を紹介した。篠会長は傑作だと思ったと言い、それを朗読した。
『春夕焼 海を憎むと誰(た)も言はず』 専門家の句ではないが、見事だな、と思ったという。

 PEN・企画事業委員会のカメラマンの杉山晃造さんと 山本幸一さんは、3.11の直後に、災害現場に飛んでいる。被災地の写真が同会場に展示されていた。

杉山さん(左)は、言葉では言い表せないと言い、しばらく逡巡したうえで、「重苦しい空気の現地に立った時、震えと、鳥肌と、涙とで、しばらく写真は撮れませんでした。あるがままに、そっとシャッターを押させてもらいました」と述べた。


山本さん(右)は、写真家としていままで世界中のいろいろな戦争だとか、被災地とかを数多く撮ってきたという。
「3.11の現地では、目の前の360度の空間を、ただ茫然自失として見、どこをどう切り撮ってよいか、まったく分かりませんでした。写真を撮るどころの想いではなかったです。茫然自失のシャッター瞬間、とお考えいただきたいです」と話す。

下重暁子副会長は、乾杯か献杯か

 最近、気仙沼を中心とした宮城県の被災地に出向くと、TVと見た状況とはまったく違うと感じた、と話す。
 海岸の潮位がいつも高いので気にしていた。土地が陥没し、海水が上がっ波が押し寄せているのだと気付いたという。
 
 津波は大きいのが1、2回来たと思っていた。とんでもない。気仙沼では3月11日に津波は17回やって来た。同月14日まで、大小合わせて30数回も来ている。同市の市長はその恐ろしさと言ったら、なかったと話されていた。そういうことはちっとも報道されていない、と下重は語った。


 乗り上げた大きな船以外は、いまは瓦礫がだいぶ片づけられていた。だが、日常生活はまったく片付いていない。
 下重さんたちは、できるだけ協力しようと、お魚を買うことにしたという。たくさん買った人が日ごろの癖で、「これを入れる袋は無いんでしようか」「袋? ありません、ここには」と言われたという。それらを紹介しながら、日常生活の上ではまったく回復していないと説明した。

 下重さんは気仙沼市長からのメッセージを伝えた。

 いろいろな方が見に来られる。なかには、どこが一番ひどいんですか、という聞き方をするらしい。「ひどい聞き方だという気がする」と下重さんは前置きをしてから、

「市長さんは、それでもいいから、来てほしい、見に来てほしい、ともかく忘れないでほしい、今年の3.11を忘れないでほしい、被災地を忘れないでほしい」と強力に仰っていたと話す。
 
 忘れられることは一番淋しいことだし、一番つらいこと。「私たちは3.11を被災地を、原発を忘れてはならない」と言い、献杯とした。

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