A020-小説家

幕末史の空白と疑問(1)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 大政奉還は世界史でも珍しい、平和裏の政権交代だった。徳川15代将軍の慶喜が天皇に政権を返上した。それなのに、あえて2か月後には、薩長が武力で德川家を倒す策に出た。
 日本人の誰が考えても、戊辰戦争などやる必要がなかったのに。

 下級藩士だった西郷隆盛はとくに武力主義で、徳川家を戦いでつぶす、という軍事思想家だった。
鳥羽伏見の戦とはなにか。大阪から上洛中の徳川慶喜や松平容保(会津藩)の大勢の軍兵に、西郷たちが奇襲攻撃をかけたのだ。緒戦で勝った。そう評価するよりも、徳川軍には戦う気がなかったのだ。
 西郷は、生涯でこの勝利が最もうれしかったという。西郷の考えが、とんでもない、日本の悲劇を生むことになったのだ。

 戦国時代まで、国内の戦争は大名どうしの戦いで、下級武士はまったく儲からなかった。戊辰戦争は違った。会津藩が陥落した後、薩長土肥の下級武士たちが東北地方で、会津藩士は一人残らず青森の僻地に追いやり、思わぬ領地を手に入れたのだ。
「戦争は儲かる」
 その甘い汁を覚えたのだ。
 それら人物が明治政府の中核に座ってしまったのだ。
 まず西郷が最初に言い出したのが、韓国を植民地にすれば儲かるという征韓論だった。やがて日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、「勝った、勝った、外国の領土を奪った」という戦争国家に変わってしまった。

 江戸幕府は260年間にわたり海外と一度も戦わなかった。江戸時代の平和国家から、戊辰戦争は戦争国家に変わってしまった、大きな歴史のターニングポイントだった。
 明治政府とすれば、戊辰戦争の細部は教えてはならない恥部だった。悲しいかな、日本人は教科書で、その構図を教えられなかった。

 同政府は「神風が吹く、日本」と神話を造った。「教育勅語」すら、明治天皇はいっさい関与せず、薩長の政治家が勝手に作り、庶民を戦争に連れ出せるように、児童たちに丸暗記させるものだった。そして、徴兵制度で、「お国のため」という名目で、駆り出されていった。結果として、第二次世界大戦では、日本人だけでも数百万人の犠牲者を出してしまったのだ。
 日本軍が海外で殺した外国人兵士や庶民の数は教えられていない。

 現代でも、なぜ戊辰戦争が必要だったの、と聞いても、知識人を含めて、ほとんど、否すべてと言っていいほど日本人は答えられない。それは明治に作られた歴史教科書がさして変わっていないからだ。平成時代に生きる現代人も、そのこと自体を悲しむべきことなのに……。

 鳥羽伏見の戦いの後、徳川倒幕へと官軍が進む。教科書ではいきなり総大将の西郷隆盛と勝海舟が三田で会談し、江戸城の無血開城となっている。
 官軍の倒幕軍が東進したとき、なぜ東海道で戦いがなかったのか。私は長年ここに歴史の空白と疑問を持ち続けていた。

 関ヶ原の戦いの後、德川家康は西の藩が東を攻めてきたならば、防波堤になるために、東海道と北陸道に譜代大名を配置した。彦根城、桑名城、尾張城、豊橋城、駿府城、小田原城などと最強の布陣だった。北陸路にも福井城など、松平という強力な譜代がいる。
  西の軍がそれらを突破したならば、紀州・徳川が後方から撃つ。その布陣は、家康以来、完ぺきだったはずだ。

 西郷が率いる官軍がなぜ簡単に大井川を渡り、箱根の山を越えたのか。もし、徳川の譜代大名たちが本気で戦っていれば、官軍は敗れたかもしれない。軍事力から判断すれば、その可能性が高い。

 徳川の譜代大名たちはどの藩も戦わなかったのか。
 徳川御三家の一つである、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)となると、勤王側について徳川の倒幕に寄与しているのだ。
 慶勝は第1次長州征伐の時に、徳川軍の総大将だったはず。それなのに、戊辰戦争ではなぜ徳川家を倒そうとしたのか。

 その疑問を解くために、3月5日、翌6日は尾張・名古屋を歩いてみた。尾張城では本丸など改修中だった。城内で目についたのが、『尾張勤王・青松葉事件』一つの石碑だった。何を意味するものか、知識を持ち合わせておらず、理解もできなかった。尾張勤王。それがちょっと心に引っかかったが、ことし初めて見た梅がきれいに咲くから、石碑を入れて撮影したというていどだった。

「徳川美術館」を訪ねてみた。同館は尾張62万石の初代藩主・義直(なおかつ)から、22代義崇(よしたか)まで、まさに黄金の品々を陳列した、沢山の国宝を陳列した博物館だった。徳川慶勝はちなみに17代藩主である。
 展示品からは、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)がなぜ勤王側についたのか。その疑問を解く展示品はなかった。
 ボランティア・ガイドに聞けば、同館には幕末史のくわしい学芸員がいるという。当日の飛びこみ取材は嫌がられる。だれもが日々、忙しなく働き、研究に没頭するから、迷惑な話だし、礼儀にも反する。
 それを承知で、学芸員に取材を申し込んでみた。【つづく】

            写真撮影:穂高健一、3月5日、名古屋城

「小説家」トップへ戻る