A020-小説家

著名作家たち「この町は好い。立石はこのまま残すべきだ」と語る

 1月31日の午後3時に、京成立石駅の改札口に、日本ペンクラブの有志5人が集まった。
 顔ぶれは、吉岡忍さん(ノンフィクション作家・日本ペンクラブ専務理事)、出久根達郎さん(直木賞作家)、轡田 隆史さんくつわだ たかふみ、元朝日新聞・論説委員)、それに吉澤一成さん(同クラブ・事務局長)である。
 吉澤さんは一度、立石には来ているが、他の3人は初めてである。

 ことの経緯は昨年の秋にさかのぼる。ある大学の構内で、私と吉岡さんとふたりして小一時間ほど話す場があった。私は、吉岡さんの3.11の取材体験などを聞いていた。話が転じて、
「葛飾・立石は昭和の街で、好い街ですよ。最近、ネット社会で、口コミで広がり、安く、おいしく飲める、と評判ですから、一度来ませんか」
 と持ちかけた。

 それがより具体的になったのは、12月のP.E.N.忘年会だった。
 私が、出久根さんが受持つ「読売新聞・人生相談」について語り合っていた。吉岡さんが側にきて、「穂高さんから、立石で飲もうといわれているんだよね」
 と話を切り出した。
「立石は良い。とてもいい街ですよ」
 出久根さんが称賛した。
「じゃあ、出久根さんも、一緒に行きましょう」
「立石には、仲の良い古本屋の親父(岡島書店)がいる。かれも誘おう」
 そんな話から、
「日本酒が大好きな轡田さんも。サントリー広報部長だった吉澤さんも」
 と即座にまとまった。

 正月早々には日程調整が進み、覚えやすい1/31と決まったのである。
 
 私を含めたP.E.N.5人が集まった。それに古本屋の岡島さんで、「名刺とケータイがないのがウリです」と笑わせていた。

 立石仲見世を中心とした商店街見て回った。人気の店「うちだ」「鳥房」ともに連休だった。中川七曲りの本奥戸橋にも足を運び、東京スカイツリーを見た。そして、「のんべ横丁」にも案内した。

 岡島さんと私が町の特徴を説明した。

 葛飾・立石は終戦直後は赤線地帯(売春)から、夜の町が発達してきた。他方で産業としては、中川を利用した染物(繊維)、ブリキの玩具(輸出も含めて)、旋盤など利用したパーツ品の町工場、さらには伝統工芸・伝統産業品(和雑貨・小物)などが発達していた。

 これらの職人、工員たちが夜勤明けから一杯飲んで帰宅する。だから、立石は昼間から飲み屋が開いている、という説明もつけ加えた。

 商業的には、荒川放水路から、奥戸街道を通って千葉に荷物を運ぶ。これは古くから開けており、四つ木から奥戸橋まで、延々と道の両側に商店が栄えてきた。(推定・5キロ)。四つ木にも、立石にも、複数の映画館が娯楽の中心としてあった。
 立石仲見世は葛飾で最も早くアーケード街になった。

 昭和の後半から、衰退期に入った。いま現在、四つ木などは7、8割がシャッターを下ろす。立石も凋落傾向にあった。ところがここ数年、インターネット普及で、『昭和の町・立石』が急速に人気となり、風前の灯であった、飲み屋街が息を吹き返し、町全体が力を持ってきた。

 町を見て回ったから、立石仲見世の一杯飲み屋に入った。杯を傾けながら、私はこの立石の昭和の町を残したい、と切り出した。

 現在、京成電車の高架が進められている。(両サイドの、青砥駅、四つ木駅は高架である。しかし、電車は一駅・立石だけ地上に降りてくる。電鉄側としては、すべて水平に高架にしたい)。

 鉄道が高架になれば、町は衰退するのは枚挙に暇がない。立石は40年来、町がごぞって反対してきた。しかし、土地買収は進んでいる。
 
「この町を残したい。だから、PENの作家の方に来てもらい、文とか、メディアを通じて、町を残す力になってほしい」
「好い街だ。残すべきだよ」
 4人が賛同してくれた。
「中央区から、『佃』という町名が消えかかったとき、作家が残すべきだと立ち上がった。効果があった」
 出久根さんがその事例を持ち出した。

 「葛飾と言えば、寅さんの柴又」という根強いイメージがある。それも尊重しながら、昭和の町『葛飾・立石』の良さをより多くの人に知ってもらいたい。
 
 吉岡さん、出久根さん、轡田さんのように、テレビ・新聞にも頻繁に出演する作家たちが折につけて、テレビの前で語る、あるいは文章とか、雑誌の対談とかになり、全国的に、葛飾・立石を語ってもえば、新たな展開があるだろう。そう期待したい。

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