芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由
広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。
(西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう
他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。
司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。
果たしてそうだろうか。
司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。
司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過大評価だと言い切れる。
第二次長州征伐を決めた幕府に対して、薩摩は早ばやと不参戦を通告した。となると、幕府とすれば軍事立案の段階から、薩摩抜きは折込済みだ。ダメージはほとんどなかったはずだ。
「薩摩が抜けても、長州に勝てる」と幕府は確信を持ったから、1866(慶応2年)6月7日に長州攻撃を通告し、蒸気船の軍艦を宮島沖に集合させ、陸の幕府軍を広島に進めてきたのだ。
幕府軍は戦略において思わぬことが起きたのだ。「さあ、出陣だ」というときに、長州と隣り合う、最前線基地の広島藩の家老・辻将曹(しょうそう)が、老中に不参戦を通告したのだ。
「そんなバカな」と老中は激怒した。
武器弾薬、食料、水など供給基地の広島が「戦わない」となったのだから、これが徳川全軍の士気を削ぎ、決定的な大打撃となった。
つまり、火ぶたを切る直前で戦いを止めた、芸州藩の戦線離脱が強烈なダメージになったのだ。結果として、長州が陥落せず、そのうち家茂将軍の死去という、長州側にラッキーな面が生じたのだ。
司馬さんがいう、「薩長同盟で薩摩の不参戦を決めた、だから長州が勝利した」という見方は、あまりにも薩摩の過大評価。薩摩が途中からでも長州に軍隊を送っていれば別だけれど、それすらなかった。