A020-小説家

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

 田老の人たちは後藤新平の考えた、都市改造計画をモデルにし、町は碁盤(ごばん)の目の道路に決めた、防浪堤は海の大津波を両側(外側)に受け流す。つまり、津波が襲ってきても、防浪堤があるので、その時間差で、住民はまっすぐ逃げられる、という考え方だった。

「強大な防浪堤が完成すると、住民たちはこれで次の津波は大丈夫と考えたのです」と話す。

 1960(昭和35)年にチリ地震が起きた。日本全国で140人が亡くなった。他方で、伊勢湾台風など大きな災害も起きた。
「当時の政府は、これはあかん、と三陸沿岸に300キロにわたる防潮堤を作る計画を立てたのです。60年代の高度成長期で土建建築が始まったときです。三陸海岸の至るところで、防潮堤を作る、槌音が響いた。既存の防浪堤がある田老も、それは例外でなく、新たな防潮堤の建設が始まったのです。ここに田老地区の悲劇が生まれる原因があったのです」と吉岡さんは話す。【つづく】


写真:吉岡忍専務理事(左)が、企画委員会・杉山晃造さん(右)撮影の被災地写真を前にして、インタビュアとして3.11大震災を語る

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