A020-小説家

被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

 津波は引き波がひどいと言われている。どこの町でも、ふつう津波が来て、引き波が消えるまで、約30分から1時間である。しかし、田老に関しては24時間もかかっている。

「引き波がなかったか、緩かったのです。古い堤防の内側に居た人たちは、2階に上がったり、屋根に上がったりして、そこで救助されました。あるいは亡くなっています。バスタブ(形状)の死者は82人ですが、行方不明者は5人のみ。つまり、流されず、溺れ死んでいるのです」

 全員が水死だった。亡くなった人をみると、殆どが高齢者で、たいてい家族で亡くなっている。
「どうせ(津波はここまで)来ないよ、残ろうと誰かが言うと、全員がそうだね、となる。結果は、とんでもない事になる。一家で3人、5人と亡くなっているのです」と明らかにする。

「被災地を歩いてきて、一連のなかから、われわれは何を学ぶべきか。最初にできた防浪堤は津波を受け流す、と考え方だった。新しい防潮堤は津波を食い止める、という考え方。人間と自然の関係を考えると、非常に敵対的だったのです」と語る。

防潮堤の完成した1979年の時代背景は、「人間は何でもできる、技術を使えば、無限に人間の可能性があると考えていた時代です。行け行けドンドンだった。この時代に、同じように原発が作られた。核のエネルギーは制御できるんだ。そのことには何の問題も感じず、原発が稼動をはじめた」と時代背景の思想に注視する。

 3.11以降は色々なことが想定外だった、すべてが想定外だった、と言う。はたしてそうだろうか。人間はどう考えたのか。人間と自然との関係はどうだったのか。

「時代の思想の問題として、あるいは時代の考え方の問題として、そこを読み取らないと、『やあ、大変だったね』で終わってしまう。3日も経つとみんな忘れてしまう」

 日本は災害大国で、災害をくり返してきた。歴史に学びながらも、おなじ災害をくり返してもきた。
「原発となると、過去の歴史から学べない、新たな問題です。われわれが被災地に出向いて手助けも大切、ボランティア活動も大事です。ただ、表現活動を仕事とする私たちは、社会が持つ考え方、歴史から学べなかったもの、たとえば原発問題でも、真正面から向き合い、きちんと見ることが大切です」と吉岡さんは力説した。【了】

 

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