A030-登山家

男体山で、幹部研修の登山(上)=同行レポート

 10月24日(月)は快晴ならば、中禅寺湖の紅葉が見事な季節だ。

 東武電車が朝かすみの利根川を渡り、栃木県に入ると、車窓は斜雨で濡れはじめた。男体山(2484.2m)登山にむかう。山の天候がしだいに気になってきた。同山は急斜面が連続する、直登だけに、降雨だと、古(いにしえ)の修験者のように難行苦行となる。晴れの山と雨とでは、登山の軽重が雲泥の差となる。

 日光駅に近づいても、沿線の山々には雨雲が深く被さっている。

 肥田野さんはITコンサルタントで、私とは6年来の登山仲間だ。かれがIT企業「インフォ・ラウンジ」(横浜)を興してから5年経つ。この秋には増資をして、役員も整え、次なる飛躍への地固めをしていた。
「役員研修に、登山を入れました」と結束かためが目的の一つだと話す。他方で、肥田野さんは同社に「インフォ・ラウンジ山岳部」を設立していた。

 私は、同山岳部の顧問という大義の同行だった。葛飾住まいの私は浅草に近いし、早朝の出発は楽だった。他の4人のメンバーは横浜に住む。それぞれ自宅の最寄り駅から、浅草まで遠い。

 浅草駅から乗ったのは肥田野さんと、横浜・戸塚の小林さんだ。小林さんはITデザイナーで、9月から同社の役員に加わっている。自宅から戸塚駅までバイク、横須賀線、新橋駅から浅草まで銀座線と乗り継いできたという。


 車中では、肥田野さんと小林さんがiphoneで、日光の天気予報を調べる。午前中は雨、午後は曇り。このところ天気予報の精度は高くなり、よく当たる。それだけに、雨の登山の覚悟を決めた。
 同社の伊藤さんは高校時代に山岳部員だった。東工大に進んでから山は登っていないが、9月の奥穂高では健脚ぶりをみせている。彼はおなじく横浜住まい。最寄の路線の始発電車を利用しても、浅草駅6時20分発の快速には間に合わないので、東京駅から新幹線「やまびこ」を利用し、宇都宮から日光線に入ってくる。
 同列車には若山さんも加わっている。私立・桐朋高校の1年生の時に、学校行事で登山をした。山はそれ以来だという。

 かれらは理系のITコンサルタント。会社は平均年齢が31歳だという。日ごろフィットネス・クラブで汗を流しているから、体力はある。そこに60代作家の私が一人加わった、5人パーティーである。

 晩秋の日没は早くて4時40分だが、5人の体力からしても男体山の山頂に登っても、陽があるうちに降りられるだろう。

 日光駅に着いても細い雨が降る。登山中にカメラを濡らさないためにも、私は駅構内の売店で、透明の折り畳み傘(500円)を購入した。ひとり傘を持つ身となった。
湯元行きのバスが、いろは坂を登る。中禅寺湖でも、車窓の側に雲が流れる。紅葉の情景など楽しめなかった。

 二荒山神社前のバス停で、5人が集合した。

 男体山の登拝門をくぐると、右手の社務所である。登山者はここで500円を払う。『登拝・交通お守り』が渡される。今回は5人で2500円だ。窓口の巫女に、「払わないで、登ったらだめなの?」と聞いたら、「神の神聖な山にお登りになるのですから」と押し付けられた。
 私は内心、「なにが神の神聖な山だよ」、と腹立たしかった。

 明治政府は神仏分離政策と廃仏毀釈とで、日本中の名山・名刹を仏教徒から取り上げ、神教にすり替えた。「天皇も神、山も神」とした。薩長の軍部の発案から、徴兵制度と結びついたのだ。それが日本人は「天皇(神)のために死す」という戦争国家へとつながった。

 全員玉砕という思想まで生まれた。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争と、10年ごとの戦争に利用されてきたのだ。
 それら史実をいまなお学校教育で教えない。と同時に、名山がいまだ神教から仏教徒に返されていないのだ。頬被りしている。富士山にしても、大日如来の村山興法寺から浅間神社に奪われ放しなのである。

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