ジャーナリスト

路上で、うたごえ喫茶アルバムを楽しむ=葛飾・亀有

 5月22日の午後、亀有駅の駅前で、男性五人のボーカルグループが、マイクを手にしていた。見た目には30歳代だ。
「これから『銀色の道』を歌います」
 どうせかれらの最新作だろう。そういう思いで通り過ぎようとした。歌われはじめたとき、
「むかし懐かしい曲だな」
 と足を止めて聴き入った。
 私は20代のころ北アルプスを中心とした登山に青春をかけていた。雪峰の登攀(とうはん)などは苦しくて、体力の限界を感じることも何度もあった。そんなときには口ずさんでいた曲だ。そして、自分を励ましていた。

 『銀色の道』が終わった。そのまま通り過ぎるつもりだった。次は『千の風になって』ですという。新井満さんの曲だから聴いていくか。

 2010年国際ペン東京大会で、新井満さんと私は同外交委員会に2人して出席した。英語、フランス語、スペイン語の同時通訳だが、難解だった。なにしろ、メキシコ政府のジャーナリスト弾圧が中心課題だったのだから。
 新井さんとは1日一緒して会食を含め、あれこれ語ったものだ。日本語どうしだから、ほっとしたものだ。新井さんもきっと同じだったと思う。2人の会話は弾んでいたから。それを思い出しながら、亀有駅前で、しばし聞き入った。


 かれらは「ベイビー・ブー」(Baby Boo)というボーカルグルーブだった。「新宿の歌声喫茶『ともしび』で聴いて、とても良い曲だと思いました。私たちはそれを歌っています。日本のよき歌を広めたい」
 かれらのリーダーのチェリーさんは語る。
 
『高校三年生』、『花は咲く』、『明日があるさ』、『星よおまえは』、『卒業写真』、『心の旅』、『北帰行』、『出発の歌』、『ともに見し夢を(仰げば尊し)』
 中高年層にはとても懐かしい曲が並んでいた。亀有駅前はバスターミナルだから、乗降客が足を止めている。

 「ベイビー・ブー」からさらに話を聞いてみた。
 かれらは神戸淡路大震災の翌年にできたボーカールグループです、という。震災直後は町が焼け野原で楽器などなかった。
「みんなして声を出して歌えば、復興の励みになる」
 それが発足の動機で、そうした活動が展開されてきた。


 東日本大震災3.11は3年経っても、メディアが復興への道と福島原発を追っている。作家の私も福島取材をおこないつづけている。

 神戸の場合は違っていた。
 町を焼きつくす大火災、高速道路の倒壊、都市型直下地震による大災害だった。次世代への教訓などいくつもあった。だが、数か月後には東京の地下鉄でサリン事件が発生した。これも、世界中を震撼させる大事件だった。メディアの報道が一気にそちらにシフトしてしまった。

 「ベイビー・ブー」2002年には、メジャーデビューした。神戸から東京にきた。しかし、まったく売れずに契約が解除になった。
 神戸淡路大震災よりも、東京発の報道は逃亡するオウム真理教教組や信者たちの追撃と逮捕劇だった。神戸から出てきたグループが取材で取り上げられることはなかったのだ。
「メンバーには家族もいる。食べさせていかなければならない。このまま解散になりたくない」
 その想いで、今日まで続けてきた。
 この間にメンバーは逐次入れ替わった。しかし、活動は停止しなかった。神戸から立ち上げたグループは、挫折の手前でも耐え続けてきたのだ。

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社交ダンスは心身を磨く(下)=親がストーカーをつくる時代

 ダンス業界の現況を聞いてみた。
「ダンススクールは『風俗営業法』の枠組みにあるんです。夜12時過ぎて、踊れないんです」。ソシャールダンスは、10年前まで、子どもが教室で学べなかったという。
 日本がいまだ文化の後進国だ、と物語っている事例の一つだ。

 ノーベル賞授賞式でも、天皇が晩餐会でも、それぞれ盛装してダンスを踊る。華やかで高貴なダンスは子供たちのあこがれだろう。
 ソシャールダンスが幼いころに学べなかった。10年前にやっと規制解除がなされた。とはいえ、ダンス教室はいまだ特定団体扱いだ。(警察の許認可・風俗営業法)。こんな国家は世界中でも稀有な存在だろう。
 法律をつくる政治家・官僚の考え方の貧困さであり、「男と女は身体を接触すれば、いかがわしい」とする、頭細胞の固さを反映している。
 日本人として恥ずかしいかぎりだ。

 ダンス教室で、やっと子どもが学ぶことが可能になった。だが、こんどは小学校でフォークダンスをやらなくなった。
「幼いころから男子が女子をリードする。それが社会のあるべき姿です。男の子、女の子、ともに思いやり尊重する心を育てることです」
 全日本チャンピオンになった橘弘子さんは、ダンス教育の大切さを語る。

写真提供:橘ダンススクール


 音楽を聞いたら、身体が自然に動くものだ。
 歩きはじめた幼い子どもたちを観察すれば、音楽が流れると、ごく自然に体を動かしている。これがダンスの原点だ。育つ家庭において、男女が手をつないだり、唄いながら踊ったりすれば、健康的な男女の精神が育つ。

 戦後の学校教育のなかで、ダンスがふつうに学べた時代があった。さらには男女大学生がディスコで踊る世相もあった。男女の間が自然に相手を想う気持が湧いてくる。それが異性を見る目を育てたり、交際になったり、結婚に結びついたりしてきた。

 現代社会は、ストーカー事件がうなぎ上りだ。この陰湿な社会悪は、塾教育が最盛期に育ってきた世代層に多発している。
 女性から発信される、嫌いよ、もう大嫌いよ、という拒否とか拒絶とか、が解らない。怖いから態度で示すが、微妙なことばのニュアンスが正確に読み取れないのだ。
 これは犯人の独善の性格だけでない。諸悪の原因が社会に内在している。

  子どもの人間形成にはなにが重要なのか。親は真剣に考えているのだろうか。小学高学年ともなれば、子どもは夜9時、10時まで学習塾、進学塾へと追い立てられる。親はひたすら「勉強しなさい」と叱咤する。

 幼いころに明るく楽しくダンス、音楽、スポーツも塾年齢になると止めさせてしまう。
 公園遊びで、ごく自然に学べた、子ども道の意思疎通の訓練の場が取り上げられてしまう。そうなればなるほど、男女の価値観の違いも疎くなる。

 皮肉なことに、塾に追い立てる親はコミュニケーション・ギャップの障害者づくりに懸命になっている。
「女性を殺して、自分も死ぬ気だった」
 いつまでも相手の女性に好かれている、と思う自意識過剰だ。

 塾優先、成績優先、偏差値主義で育ってきた、情緒の欠如から生み出されたものだ。男女交際の場でも、自然なコミュニケーションが取れず、悩む。
 30歳にして女性が口説けず、求婚の仕方すらわからない。ダンスのように、女性をうまくそこまでリードできない。結果として、30-50歳代にしてストーカー予備軍になってしまう。
 そんな成人が次々に世に作り出されているのだ。

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社交ダンスは心身を磨く(中)=80歳で優雅な踊り

 阿出川好一さん(81)歳が橘ダンススクールにやってきた。姿勢が良い。身長が高く、手足が長い。格好いい感じだ。
 1955(昭和30)年に早稲田大学・商学部を卒業し、メーカーで経理畑を歩んできた。退職後の生き方として、保護司の活動と、ダンスを習いはじめた。いまやダンス歴は20年に及ぶ。

 橘ダンススクールに通いはじめて約6年間である。自宅から同教室まで40-45分かかる。これまで、幾つかダンス教室の門をたたいたようだ。
「プロにも、ピンからキリまであります。中高年齢者に対しては中途半端な指導する人がいる。それでは困る」と前置きしたうえで、
「橘さんは元全日本チャンピオンで、雲の上の人です。しかし、技術は出し惜しみしない。初心者でも丁寧に教えてくれます。橘さんは本当のテクニックを教えてくれる。ダンスは楽しいし、やりがいと生きがいになっています」
 と阿出川さんは話す。

「阿出川さんは探究心が強い。ダンス用語に対しても質問される。素朴だけれど、大事なところがあるのです。私自身がはっとさせられたりします」
 橘弘子さんは話す。
 技術的な面は如何ですか。
「阿出川さんは年齢から見たら、ダンスのテクニックがすごい。リズム感は良いです。頭脳が明晰です。新しいことは大変だけれど、コツコツ努力される。あきらめない精神があります。ステップは時にあれっ、と思う、間違いはままありますけど、まだ伸びますよ。できないと悔しがる」、その熱意と向上心があるかぎり、大丈夫です、と言い切った。

  人間は誰もがいつか年齢的な限界に突き当たる。阿出川さんは何歳までダンスをやられますか。
「教室の客種として、私は自分の存在を考えています。老人がダンス教室にトボトボやってくれば、迷惑になります。悪貨は良貨を駆逐する。変な客が一人でもいると、全体の質を下げてします。そこらが見極めだと考えています。それまでは精一杯やりたい」
 ダンスに対する熱意が、若さの秘訣になっているのだろう。

 長野在住の娘の好美さんが、父親のレッスンを見に来ていた。感想を聞いてみた。

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社交ダンスは心身を磨く(上)= 元全日本チャンピオンが語る

 ノーベル賞の授賞式パーティーでは、盛装した男女が社交ダンスを踊る。年配者でも、流れるようにリズムに乗り、踊っている。じつに輝いて見える。メイク、ドレス、優雅な非日常の世界がある。日本人の憧憬の一つだろう。
 
 ダンスは健康に良い。流れる音楽で、からだが応じて足腰、リズムを取る。相手(パートナー)がいるから、身体を使う、気を使う、頭を使う。若さを維持できる。

 わが国ではしだいに人口の高年齢化がすすむ。単なる長生きだけではつまらない。欧米のように、社交ダンスを愉しみ、ダンディーな若さを保つ。そうした生き方の心がけも必要だろう。

 81歳になった阿出川好一(あでがわ よしかず)さんが、元全日本チャンピオンの夫婦が経営・指導する橘ダンススクール(東京・駒込)で学んでいると聞いた。5月12日、同スクールに取材に出むいた。阿川さんは午後2時から30分間のレッスンだったので、先立つこと橘弘子さんから話を聞いた。

 指導者の橘正幸さん(61)歳と妻の弘子さんは、プロ競技選手として、「1999年・全日本オープン選手権」で優勝した華やかな経歴がある。現在は夫婦して同公認審査員である。

「わたし東京下町・葛飾立石に生まれ育った。看護婦でした」
 弘子さんは聖路加看護大学の在学中に、友達に誘われて同校「ダンス部」に軽い気持ちで入会した。スポーツ部員として活動したが、学生競技会では、記録を残すほどの成績はなかった。
 彼女は病院勤めの看護師になっても、ダンスを習っていた。夜勤を終えてダンス教室に通っても苦ではなかったというから、根は好きだったのだろう。

 その教室で、あるときプロの橘正幸さんの練習相手に選ばれた。「無料で学べる、ラッキー」と思い、彼女は練習に一段と熱が入った。一方で、好きで進んだ看護師を続けるか、ダンスを選ぶべきか。将来はどちらに行こうかと迷いはじめた。親との対立もあったようだ。

 結果として、夫・正幸さん=ダンスを選んだ。つまり、プロ競技選手(ダンス教師)となったのだ。それは甘くない、いばらの道だった。57キロの体重が2年後には46キロにも落ち込む。漸次、成績を重ねながら、夫婦はイギリスにも留学し、やがて全日本チャンピオンとなった。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (下) =埼玉県・幸手市

 日本人が主食とする「米の美味しさ」、つまり食味値は粘り、風味、糖度、そして水分によって総合判定がなされる。

 従来は品質の判定は、人間の勘で決められていた。「新潟・魚沼産コシヒカリ」、「宮城ササニシキ」という銘柄だけで売れた時代だった。消費者も銘柄米に頼り切った決め方だった。

 日本酒はかつて特急酒、1級酒、2級酒という決め方だった。いまや2級酒だった地方銘柄が、地酒ブームで、高価でも、もてはやされている。呑む人の品質、美味しさで、銘柄が決められる時代だ。

 現在、米は科学的な成分分析ができる。国際基準も作られている。個別農家ごとに品質測定ができる。その意味で、「地酒ブーム」と同様に、「米の田家(でんか)ブーム」が到来するだろう。
 工業製品の電化ブームはバブルがはじけても、品質勝負で、外国産の安かろうに対抗し、商品開発を推し進めて、国民の間に信頼度を高め、家電の国産志向を生み出した。

 工業製品、日本酒と同様に、「米の田家ブーム」の到来も当然、やってくるだろう。農家はそれを視野に入れておくべきだ。先駆けになるには、早くから無農薬に取り組んでおく必要もある。一度、田んぼに雑草取りで農薬を入れてしまえば、もう後手、後手になってくるからだ。

 遅かれ早かれ、米の自由化はいずれやってくると思われる。安価を追求するがゆえに、農薬などで手間をかけず、肥料も細く、「不味かろう」それではだめだ。
 国産米だから買ってくれる、という甘い考えは通用しない。国民の多くは、「安かろう、たっぷり農薬の米」など、本心は買いたくないのだ。ここらは農家、JAなどはニーズをしっかり読みとっておく必要がある。

 品質分析をした米が輸入されたら、どう太刀打ちするのか。米の銘柄よりも、分析結果の表示が独り歩きするおそれだってある。

「人間は考える葦です。良い米を追求する、それを生きがいにしています。手をかければ、美味しいお米がまちがいなく作れる」
 幸手市の松田光男さんは明瞭に言い切った。ここ数年は漸次、食味値の数値を伸ばしつづけてきた。昨年度は、第25回国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、食味値87点を収得し、上位にランクされている。

 今年の秋、あるいは来年には念願の「食味値90」を達成したいと、強い意欲で取り組んでいる。特に、お米の一粒ずつにたいする愛情、熱意、熱気が感じられる。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (中) =埼玉県・幸手市

 私たちがふつうに食している米は、農薬を使っているし、一毛作で肥料は1回のみだ。こうした消費者が購入する米の価格は、数十年前に比べても、安価になっている。農家はこのさきTPP(環太平洋パートナーシップ協定)で海外の農作物が自由化、あるいは関税の引き下げになれば、さらなる競争激化となり、低価格化へのプレッシャーは必然だと危機感を持っている。

 日本人はいまやグルメ志向であり、食生活も多様化し、「安かろう不味かろう」にはソッポを向き始めている。美味しいコメを求めている。しかし、農業は今後の外国との競争をにらみ、低価格にたいする危機感を声高に言う。ここに消費者とのギャップが生れている。

 日本人の米のこだわりは独特である。大家族の時代ならば、大量に安い米を必要としていた。現在は核家族だから、1家族2-4人が平均だ。高級車に乗りたい人はたくさんいるように、少量でおいしい米を食べたいのだ。「安さよりも、美味しさ」が求められている。

 国際競争がいくら厳しくても、品種や銘柄、味覚を選択するのは消費者である。とくに米に関して言えば、低価格=品質の劣化は望んでいない。
 しかし、米店、スーパーなどで購入する米は、過去からブレンド騒ぎを起こし、古米の混入など、いま一つ信頼度に欠ける。地域銘柄で買っても、その都度、どこか味が違う。まずは信頼度を取り戻すことである。

 たとえば、JA単位の表示でなく、5kg、10kgの米袋には、農家の顔写真、家族写真を張って出荷する。そうした耕作責任など導入すれば、輸入品にも太刀打ちができる道が作れるだろう。

 つまり、全農家が生き残る発想でなく、品質競争に打ち勝ったところが、高品質=高価格の米で生き残る道をつくることだ。

 全国を見渡せば、良質な米栽培に取り組み、世界大会の上位志向の農家はある。収穫したコメの分析から、さらに上質なものを目指し、肥料を研究し、高コストでも、美味しいコメをつくろうとチャレンジしている。
「ありきたりの米は作りたくない」
 幸手市の松田光男さんは公務員の退職後、農家の跡をついでいる。
「私の作った良質のコメ(食味値87)を、有名な料亭が買い求めてくれました。ところが安い米とブレンドして炊いていると知り、その料亭には売っていません」
 こうした品質に対する自信とブライドが大切だ。

「雑草駆除の農薬はいっさい使いません。他所(よそ)の農薬飛散からも守るために、隔離した水田で米を作っています。いちど農薬を散布すれば、翌年度からは、もう無農薬の米だとは言えません」
 無農薬と一言でいうが、容易ではないようだ。真夏の太陽が容赦なく照りつける炎天下で、水田に入り、雑草を取る。蛭(ひる)もいれば、蛇もいる。直射日光と流れる汗との格闘だ。

 須藤泰規さん(73)は、大手企業をリタイアした後、米作りに加わっている。田植えから雑草取り、収穫まで参加している。
「松田さんの高品質の米作りのこだわりが好きです。収穫期には労働の対価として、美味しい米が貰えますし、収穫の喜びがうれしくて、きびしい雑草取りにも、精が出ます」
 雑草取りの期間は5月20日~7月上旬で、1か所の田圃(たんぼ)にそれぞれ3度入る、と話す。
「稲が実ると、両手でかき分けて、泳ぎをするように進むのです」
「稲が育ってくると、須藤さんの姿が見えず、倒れているのではないか、と心配していると、ふいと頭が見えるんです」
 松田さんがユーモアたっぷりに語る。

「ここの家族はみんなが良く手伝ってます。それは感心です」
 須藤さんの視線が、庭のバーベキューに流れた。

 5月の連休のさなかでもあり、長男の松田裕之さん(32)の職場(介護職)仲間3人が、田植えを手伝いにきていた。ちょうど昼食時で、バーベキューのパーティのさなかだった。それぞれに農作業の感想を聞いてみた。
「裸足で田んぼに入る前、内心、汚いな、と思いました。でも、これをやらないとお米ができない、と自分に言い聞かせました」
 高橋祥平さん(26)が話す。田植え機で、まず苗が植えつけられる。田圃の角や、植え洩れ場所は手で補植する。それらの手作業です、とつけ加えた。
「きょうは朝9時から来ました。ひと苗ごとにていねいに植えると、いい汗です。夕方4時頃まで、田植えをします」
 木村祐樹さん(28)が、塩おにぎりを頬張りながら語っていた。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (上) =埼玉県・幸手市

 松田光男さん(65)は、埼玉県・幸手市で、「完全無農薬」の米(水稲)を作っている。国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、ここ数年間は上位にランクされている。埼玉県でも1、2を争う存在だ。松田さんはどんな取り組みや創意工夫をおこなっているのか。

 現在、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が国内外の最大の話題の一つだ。その進展によっては、日本の農家、日本人の食生活おおきく関わり合う。農家の方向性を探るためにも、5月2日(金)には、幸手市の松田さんを訪ねた。市街地から4-5キロ離れた、見渡す周囲は水平線すらを感じさせる、広々した田園地帯だった。

 近くには利根川が流れており、過去から上質で豊富な水に満たされた農業地帯だ。畦で区切られた田圃は、いまの季節はちょうど水が張られたり、田植えの最中だったり、まだ乾燥したままだったり、それぞれ違った顔をしていた。
 松田さんは飛び地で、いくつか田圃(たんぼ)を持ち、それぞれ工夫や研究を行っている、と聞いた。

 大きな構えの松田宅に到着したとき、十数人の児童たちが農業体験学習に来ていた。松実高等学園(まつみこうとうがくえん・春日部市)の初等部の生徒たち12人で、田植えの体験と玉ねぎの収穫実習だった。そちらを先に取材させてもらった。

 同校は6年前に開校している。何らかの理由で在籍小学校に通えない児童たちが通う。遠くは横浜から3時間もかけて通学する。同校に入ると、児童は学校生活を溌剌(はつらつ)と楽しみ、みな皆勤賞だ。
 今年の4月をみれば、8割が皆勤賞で、2割はちょっとした休みだった。(松井寛校長・写真・左の談)。 学校方針、指導者の役割が、いかに子供の成長にとって重要かと知らされた。

 児童たちに、農業体験の感想を聞くと、男女問わず、だれもが明るくはきはきと楽しげに答えてくれた。
「田のなかにバシャバシャ入り、楽しかった。苗をまっすぐ立てて植えました。目の前に、カエルが泳いでいたから、指でつかまえたよ」(小6・ヒカルくん)

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(下)=東京・葛飾

 村澤義信さん(74)さんのもう一つの特技は竹細工だ。葛飾区東四ツ木4丁目の3階建ての庭囲いの化粧フェンスには、太さ18センチ、長さ2.8メートルの、竹の植木鉢があり、そこに春の花を咲かせている。イチゴの苗も育っている。

 竹加工の植木鉢が特殊な構造なのだ。
「簡単そうだけど、この技術は、葛飾区内ではだれもいないよ。真似ができないよ」
 村澤さんに、あえて問えば、直径が18-20センチもある太い竹の加工技術を語ってくれた。

 冬場になると、竹が固く締まってくる。1年物など若い竹は細工すると、すぐに割れてしまう。3年物がしっかりしてよい、と実物を示す。
 ことし(2014年)は、牛久、大多喜から太い竹をもらってきた。最近の農家は人手不足で、竹林が荒れぎみになった。すきなだけ持って行ってくれ、と言われるらしい。

 同区東四ツ木への自宅に持ち帰ると、縁側で、工具を使い、竹の節と節の間をくり抜く。
「この技術が特殊なんですよ。うまくやらないと竹に穴を開けているさなかに、バリーと全体が割れてしまいますからね」
 長さが約3メートルの太い竹の一節ごとに、くり抜いて、そこに土を積めて植木鉢にする。まさに、電車の連結車両のように、花の鉢が並ぶ。別の太い竹鉢には、ずらりイチゴの苗も育っていた。
 
「他人(ひと)と同じものは面白くない」
 話題は瓢箪(ひょうたん)にもおよぶ。約1.5メートルくらい一節ごとに、くり抜いて、多段雛のように飾り棚にする。節ごとに瓢箪を吊るす。
 竹の竹細工と瓢箪の組み合わせで、小さな雪の鎌倉に似た、瓢箪の家もつくる。

 視線を門扉に向けて、よくみると小粒な瓢箪が数多くつるしている。
「盗られないですかね?」
「ここらは泥棒はいないね。あれれ、よく見ると、1個は針金だけだ。これは盗られたあとだな」
 村澤さんは鷹揚に話す。

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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