ジャーナリスト

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」④ 裕仁天皇が進んで神から人間に降りた日

 昭和20年8月14~15日は、危機一髪の局面の連続であった。この間に、終戦の奇跡が起きたのだ。

 同年8月9日、鈴木貫太郎はすでに御前会議を開いて、裕仁(ひろひと)天皇の聖断をあおいでいる。天皇は「ポツダム宣言」の受諾だった。この結果はまだ国民に知らされていなかった。それゆえに、国民は焦土のなかで、「一億総玉砕」の覚悟で、敵と死の本土決戦に備えている。
 特攻機で日々、大空に飛び立つ若者もいた。

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 日本はかって一度も敗戦した経験がない。軍人も官僚も、敗戦の処し方が手際よくできなかった。ここに大きな問題が生じた。

 ポツダム宣言(13か条)の受託となると、「大日本帝国憲法」の変更は必然的になる。同憲法の第一条は「万世一系の天皇が、これを統治する」である。ポツダム宣言にはこの天皇制について、まったく明記されていなかった。

 和平派、交戦派ともに問題視した。

 ポツダム宣言第10条には、「国民における民主主義的傾向の復活を強化する」と記されている。民主主義とは人民が主権を持ち行使する政治である。関係者のだれもが海外留学、外国武官の経験がある。「これでは天皇大権の否定ではないのか。天皇制が維持できなければ、ポツダム宣言の受けるに及ばず。戦争を継続する」
 阿南惟幾(あなみ これちか)陸相は、陸軍省の従来の意見を再熱させた。(写真・右)
「あなたが何と言おうと、日本は戦争に負けている。沖縄戦と、本土の空爆、原爆、ソ連侵攻、どれを見ても負けている」
 米内光政(よない みつまさ)海軍大臣が主張した。
「海軍が南洋の諸島で負けているが、中国大陸で陸軍は敗けていない。日本全体が戦争に負けた状態ではない」
 阿南陸軍大臣の執念は凄まじかった。
 阿南陸相と米内海軍相はともに譲らず大激論になった。

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 鈴木貫太郎首相が、ポツダム宣言を無条件に受け入れるだけでなく、「天皇の護持(ごじ)」について質問を付帯しようときめた。護持とは、維持する、を敬う表現である。
スイスを通じてアメリカと中国に、さらにはスウェーデンを通じてイギリスとソ連に伝えられた。天皇護持の回答待ちになった。

 それを受け取った連合国がわのイギリス、ソ連、中国は、これは日本の策略であり、戦争継続だ、と受け止めていた。アメリカは、ルーズベルトに弔電を送った鈴木貫太郎は信頼にたり得るとした。他の3か国は、原爆の威力を見せ付けたアメリカの意見に逆らえなかった
 
 連合国を代表して、バーンズ氏から8月12日に回答が返ってきた。

 第1項で、『天皇は連合軍最高司令官にsubject toする』と短く記されていた
 現代でも、それにずばりあてはまる日本語がない。英語の独特な言い回しの法律、商業用語である。
 第4項に『最終的な日本の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定される』とある。天皇は「現人神」なのに、選挙で選ばれた一般国民が天皇制について決めればよい、というアメリカ的な思考だった。

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 外務省が、「subject to」を「制限の下に置かれる」と翻訳した。一方で、陸軍省の英文和訳担当が、「隷属する」と表現にしたのだ。
 
 阿南陸相は、天皇が隷属では、国体(天皇制)維持が不可能になる。本土決戦だ、と主張した。陸軍省のなかに、青年将校たちによるクーデターの動きが出てきた。青年将校らが、死を怖れぬ、と叫んでいる。
 阿南はむしろそれを抑えるのに躍起(やっき)になりはじめた。
 
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 海軍内にも交戦派の上級将官が多くいた。
 同年8月12日(終戦3日前)、海軍省の軍令部総長の豊田副武と、陸軍省の参謀総長の梅津美治郎が、示し合わせて、昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対するように上奏したのだ。
 海軍と陸軍のナンバーツーが徹底抗戦論であった。


 いまの近代史の学者、作家、ジャーナリストには、「陸軍悪玉論・海軍善玉論」を唱えるひとが多い。それは違う。鈴木内閣に和平派の首相経験が3人揃ったからそう見えるだけで、歴史の結果にただ乗りしているだけである。

 米内光政海軍大臣(写真・上)は、すぐさま当事者の豊田副武と、もうひとり問題のある軍令部次長の大西瀧治郎(神風特別攻撃隊の創始者の一人・録音放送のあとに自決した)の二人を呼びだした。米内がこれほどまでに、顔色を変えたことはなかったと記録されている。

 豊田には「重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か」と怒った。
 大西には「意見があるなら、大臣に直接申し出てこい。招かれていない最高戦争指導会議(9日)に、不謹慎な態度で入って来るなんて、実にみっともない」と叱責しているのだ。

 米内は日独伊三国同盟にも「わが国はドイツのために火中の栗を拾うことはない」と猛反対した人物である。その後、米内は内閣総理大臣になった。
「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば、戦争になることはなかったかもしれない」と天皇は語っている。

 その元首相が当時(昭和20年半ば)の情況で、最も怖がっていたものはなにか。
「わたしは軍人だから、戦争で負ける怖さなどなかった。原子爆弾やソ連の参戦がこわいのではない。しかし、日本の民が食糧事情の悪化、住居の焼失し、満足に教育も受けられず、理性が喪失し、秩序が崩壊し、民が暴走してしまう。その日本の内部崩壊が最も怖かった」
 それは軍人政治家が、国民の支持を失うことだった。
 米内はことばにしていないが、民衆革命かもしれない。イギリス、フランスのような皇帝のギロチン虐殺におよぶ、政治崩壊かもしれない。
 米内は6月ごろから側近に、その理由でしばしば辞意を漏らしていた。海軍大臣が辞表を出せば、鈴木貫太郎内閣が瓦解(がかい)するので、耐えていた。

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 もうひとりの和平派の岡田啓介(けいすけ)は2.26事件のときの首相だった。官邸内で義理の弟が射殺されて、当人は助かっている。この2.26事件では、鈴木貫太郎も「君側の肝」(くんそくのかん)として銃弾を浴びて、妻の素早い判断と、治療もあり奇跡的に助かった。
 岡田啓介は海軍軍人の最長老で、昭和15年から重臣会議のメンバーだった。「ガダルカナルの戦いは消耗戦で、兵力のすり潰しだ」と言い、米内と歩調を合わせて東条英機内閣を倒した人物である。

「戦争は始めるよりも、止める方がむずかしい。まして、軍人がみずから敗戦に持ち込むのだから。この気持ちは軍人しかわからないだろう」
 それは岡田元首相が胸のうちの辛さを語ったものだ。

 阿南陸軍大臣は、「自分は鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と辞表の提出は、だれが勧めてもかたくなに拒んでいる。

 8月14日に、鈴木貫太郎はふたたび御前会議で、昭和裕仁天皇の聖断を仰ぐことになった。

「私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」
 昭和天皇の聖断を聞いていた閣僚らは、悲痛な慟哭(どうこく)に変わっていった。椅子からずり落ちる者や、床にくずれて号泣(ごうきゅう)する者、拳をにぎりしめて耐える者などがいたという。
 御前会議は8月14日正午に終わり、日本の無条件降伏が正式に決まった。
 8月14日には、スイスおよびスウェーデンの日本公使館を経由して、連合国に通告した。日中戦争の開始から15年目、太平洋戦争からは4年目、第二次世界大戦全体からだと7年目であった。
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 この日のうちに、天皇みずから終戦の『玉音』放送の録音にのぞんだ。翌日の8月15日正午に「玉音放送が流される予定である。録音盤はNHKの手から、いったん宮内庁の職員の手に預けられた。

 この段階で、陸軍省の将校と近衛師団参謀によるクーデターがおきたのである。総理官邸および鈴木貫太郎の小石川にある私邸が襲撃された。鈴木は警護官に間一髪のところ救い出された。しかし、鈴木の私邸は放火されてしまった。かれは2.26事件に続いて生涯に2度にわたる暗殺未遂に巻き込まれたのである。

 クーデターを起こした将校たちは、近衛第一師団長を殺害した。そのうえで、卑劣(ひれつ)にも、師団長命令を偽造した。そのニセモノの命令書で、近衛歩兵第二連隊の隊員たちに宮城(皇居)を占拠させたのだ。
「天皇の玉音放送が流されたら、もはや一巻の終わりだ」
 かれらは正、副の2枚の録音盤の家探しをはじめた。宮内庁の職員が巧妙に隠していた。他の部隊は動かず、かれらのクーデターは失敗に終わった。そのなかの数人が自殺した。ただ、終戦の大混乱で、逮捕も、刑罰も及ばなかった。
 宮城事件、終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれている。

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 8月15日の未明には、阿南惟幾陸軍大臣が割腹自殺した。現職大臣の自殺は、明治時代に組閣がはじまって以来、初めてである。
 その直前における阿南陸軍大臣の行動が残されている。
 鈴木内閣の閣僚たちが「終戦の詔勅」に署名した。連日の議論で疲労困憊してしばしの休憩をとっていた。
 軍服を正した阿南陸相が東郷外務大臣にのそばに寄ってきて、上半身を15度に折った最敬礼をした。
「さきほど、連合国側に、わが方の希望を申入れる外務省の案を拝見いたしました。『保障占領』および『軍の武装解除』について、この処置はまことに感謝にたえません。御前会議であれほど強くいう必要はありませんでした」と謝罪してきた。

 阿南はそのあと鈴木総理大臣室を訪れた。
「終戦の議が起こりましてから、自分は陸軍の意志を代表して、強硬な意見ばかりを申し上げてきました。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたし、閣僚として、はなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持でありまして、他意はありませんでした。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪した。
「わかっていたよ」
「南方の葉巻です。私は喫いませんから、どうぞ」
阿南が立ち去ると、「暇乞いにきたんだね」と鈴木は側近に漏らした。
           

 8月15日正午、昭和天皇が国民に直接呼びかける玉音放送が流れた。大勢の国民が口惜しさで、泣いた。勝利を信じて疑わなかったのに、敗戦である。
 国民は生まれてはじめて天皇のことばを聞いた。天皇が天上の神から人間に降りられた瞬間でもあった。だれもが素直に終戦に従った。

 ここに鈴木内閣の使命が終了したのである。3人の首相経験者が、最も困難な「戦争の幕引き」という仕事をやり遂げたのである。

 戦後の日本を統治するGHQは、鈴木貫太郎、米内光正、岡田啓介の3人にたいして逮捕する態度すら見せなかったのである。

 日本の鈴木内閣がもし「ポツダム宣言」を即時無条件降伏していれば、広島・長崎の原爆は回避されたし、8月9日のソ連軍の対日戦争はなかったのではないか、という批判がある。
「天皇陛下に、2度も御聖断を頼むことができた。他の人では到底できなかった」
 米内海相のことばの重みを感じる。

 1か月前、日本の各新聞社は、「ポツダム宣言」にたいして「笑止、対日降伏条件」、「(連合国の)共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦あくまで完遂」、「白昼夢 錯覚を露呈」と見出しをつけて、徹底抗戦をあおっていた。岡田が「ノーコメント」と談話を出す前にである。

 天皇の聖断がない場合、メディアがはたして和戦への誘導が代行できたのだろうか。否、戦意高揚を叫び、「全員が死ぬまで勇ましくて戦うぞ」と、格好いい報道で、勝利の見込みない戦争へと導いただろう。それは日本人玉砕の道である。軍部だけでなく、メディアの反省がなければ、全体が見えない。

 3年後の鈴木貫太郎は死の床で、「永遠の平和、永遠の平和」と二度くり返したという。


写真:ネットより利用させていただきました

【スポット】
 
 鈴木貫太郎の妻・たかさんは札幌生まれ、父はクラーク博士の教え子の一人である。
 たかは、東京女子高等師範(現・御茶ノ水大学)卒で、同校の幼稚園の先生であった。木戸孝正東宮侍従長に見込まれて、宮中に上り、明治38年から大正4年まで昭和天皇(4歳~、秩父宮(3歳~)の養育担当となった。
 たかが、鈴木貫太郎に嫁ぐにあたり、昭和天皇は「たかとは、ほんとうに私の母親と同じように親しくしました」と記者団に語っている。

 鈴木貫太郎は約8年間にわたり侍従長であり、夫婦して天皇とは身近な存在であった。だから、78歳にして、裕仁天皇に聖断を願うことができたのだろう。

 米内海相がいう。鈴木しか、それはできなかったという根拠の一つだろう。

                               【了】

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」③ 長崎の原爆、ソ連の参戦。日本民族の生死の聖断に持ち込んだ

 昭和20年8月の広島・長崎に原爆投下、ソ連が千島列島と満州に参戦してくる。そのまえに、日本はなぜ半月前に、「ポツダム宣言」(全13か条)を受け入れなかったのか。もし、受諾していれば、原爆もソ連参戦に及ばなかったのにと、素朴におもう。
 最大の理由は、明治22年制定の「大日本帝国憲法」には、内閣規定がなかったからである。

 同第55条には、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)しその責に任ず」としか定められていなかった。絶対君主の天皇が任命した大臣にたいして、首相には罷免権がなかった。それゆえに、大臣がひとりでも辞めれば、閣内不一致で、その内閣は倒れた。

 過去には海軍省、陸軍省が大臣の推薦をせず、首相が組閣できず、内閣が成立しなかったケースもある。

 明治以降の歴代の首相は、政策決定の段階で、つねに陸軍大臣、海軍大臣の顔色をみていた。それが、わが国が軍部独裁を招いた、大きな起因であった。
 ちなみに、過去の反省から、現行の「日本国憲法」は、内閣規定を細かく定められている。

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 鈴木貫太郎は、高齢の77歳であり、耳も遠いと首相を断わっていた。「耳が遠くても、鈴木が引き受けなさい」と言われるほど、昭和天皇からの信任は厚い。
 首相を引受けた鈴木は、みずから陸軍省にでむき、阿南惟幾(あなみ これちか)を陸軍大臣に指名した。阿南はかつて侍従武官(天皇を近侍する)を務めており、岡田がそのときの上司だった。海軍、陸軍を越えて二人の気心が知れていた。

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 陸軍省は鈴木に「本土決戦」を条件付きに、阿南を大臣に送りだしてきた。これが4月7日に誕生した鈴木内閣の、首相の足枷(あしかせ)になっていた。
 軍部要求の本土決戦にたいして、鈴木は否定せず、それに撤するかのような発言をくり返す。陸軍に敵対しない態度をしめす。それしか鈴木は内閣を維持できなかったのだ。

 ただ、胸のうちでは、こんな戦争はやるべきではない、という信念をつよく持っていた。口の端々からもれることがあった。

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 日本列島の各都市は連日、夜間の低空爆撃で、次々に焦土となっていた。この前年は凶作で国民の食料は不足している。空襲は激しい。戦艦大和は撃沈されてしまう。沖縄戦も敗戦濃厚だ。制海権も、制空権もほぼ失ってしまう。特攻で、若者たちが命を失っていく。

 本土決戦が現実的なものとして、日本全国の各地で男女を問わず、竹やりによる軍事訓練をおこなっている。

出典: 朝日新聞

 ある日、鈴木首相がその現場を視察した。武器といえば、先込め単発銃、竹槍、弓、刺又などで、徳川時代のような代物だ。旧藩士、庄屋の納屋から持ち出してきたものであろう。
 頭上の敵はB29という大型爆撃機である。米陸軍が本州に上陸すれば、高性能な戦車による火砲で襲撃してくる。沖縄戦では軍人も民間人も玉砕ともいえる犠牲者を出している。
「陸軍は本気で、『国民義勇戦闘隊』に、これらの兵器で戦わせようとしているのか。狂気の沙汰だ」
 と洩らしている。
 鈴木は日露戦争の海戦の実践経験者だ。見学する目のまえで、鉢巻した女子が単発銃、竹槍、弓で訓練している。その姿みて、本土決戦はとうてい無理だ、国民の命の失う、人命消耗戦だと考えたのだろう。

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 鈴木は、外務大臣に東郷茂徳(とうごう しげのり)を「外交はすべてあなたの考えで動かしてほしい」と据えていた。
 外務省はときに軍部とちがったうごきをする。
 東郷外相は、昭和天皇の意をうけて終戦交渉の先をさぐっていた。かつて駐在ソ連大使の経験から、ソ連の在日大使を通して、和平の仲介を依頼した。ただ、ソ連の態度はあいまいで、要求に対して回答が不明なまま、月日が推移していく

 さかのぼれば、前任の小磯首相のときに4月5日、ソ連は日本政府に「日ソ中立条約」の不延長を通告してきているのだ。その裏にはヤルタ会談(昭和20年2月4日から7日間)があった。

 ルーズベルト(アメリカ)とスターリン(ソ連)の間で、「日本に関する秘密協定」が結ばれていたのだ。

① ドイツが降伏したから90日に、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破棄したうえで、日本領土に侵攻する。
② その見返りで、ソ連には南樺太、千島列島、満州の権益をわたす。

 ソ連が対日参戦するのかな、と東郷外相は多少の懸念を持ちながらも、ソ連がなお中立国だと信じていた。その上で、対米英との和平講和(終戦工作)の仲介の労をはたらきかけていたのである。
 箱根・強羅ホテルが仮のソ連大使館だった。外相はそちらに出むいてマリク駐日大使と交渉していた。
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 戦局が切迫した昭和19年に、外務省は在京外交官と家族の避難として、箱根と軽井沢を提供した。ソ連、ドイツ、イタリア、タイ、ビルマ、フィリピン、満州国、中華民国の大使館員及び武官たちの住居も含めていた。
 昭和20年はすでに食糧、燃料等の諸物資が乏しくなっていたが、政府は特別の増加配給を行っていた。

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 東郷外相の和平工作の依頼に、ソ連はつねに非協力的だった。その反面、裏では、アメリカに「日本から仲介依頼があった」と筒抜けだったのだ。
「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい。そのために、ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」
 トルーマン大統領ら米国は、もはや原爆開発から作戦使用のステージに進んでいたのだ。
  
 鈴木首相は元関宿藩(千葉県)の藩士の子で生まれ育っていた。德川家の視点で、江戸城の引渡しの場面をたとえにして、「スターリン首相の人格は、西郷南洲に似たものがあるようだ」と側近に警戒心を語っている。

 鈴木内閣としては、モスクワに特使として近衛文麿元総理を派遣する方針を決めた。7月に入り、ソ連側にそれを打診した。しかし、ソ連側は回答を先延ばしにするばかり。やがて、7月26日、アメリカの短波放送がポツダム宣言の内容をつたえてきた。


写真:wikipedia
 
 その内容は『日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針」などを表明したものだった。軍国主義の除去、領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国による占領などの規定が摘記されていた。
 当時の軍国主義の日本にとって、有利なものは何ひとつない。
 
 ここから、歴史がおおきく動いた。

 東郷外相は、ポツダム宣言は基本的に受諾した方がよい、と主張した。ただ、ソ連が宣言に参加署名していない。なぜ、ソ連との交渉で明らかにするべきである。
 阿南陸相は、東郷の見解に猛反対し、全面拒否を主張する。

 アメリカの放送は日本の新聞社も傍受していた。7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)と見出しをつけていた。
          
 鈴木首相は閣議に諮ったあと、「カイロ会談の焼直しだちとおもう。政府としては重大な価値あるものとおもえない。ただ黙殺するのみ。従来通り、あくまでも戦争完遂に邁進するのみである」と述べた。
 連合国はこの「黙殺」を「reject(拒否)」と訳した。

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 昭和20年8月9日に最高戦争指導会議があった。
 ふたつに意見が分断した。一つは「ポツダム宣言」を無条件に受諾し、戦争を終結させる。もう一つは、このまま本土決戦を覚悟して戦争を継続すべし。互いに譲らず、激論を戦わしていた。
「わたしは陸軍大臣を辞めます」
 もしも阿南がそうしたならば、閣内不一致で、鈴木内閣はつぶれてしまう。どんなに激論になっても、阿南はそのカードをまったく使わなかった。ふたりの間に、かつて侍従長と侍従武官という呼吸があった。

 この会議のさなかに、長崎に原子爆弾が投下が知らされた。閣議は午後8時になっても、会議は議決しなかった。いちおう休憩になった。

 鈴木首相は、ここで天下の宝刀を抜いた。事態収拾の唯一のカードだった。鈴木は秘かに昭和天皇に拝謁した。
『いよいよの場合は、陛下にお助けを願います』
 昭和陛下のご聖断を仰ぎます、と事前に話したのだ。
 
 「御前会議」は厄介な手続きがいるが、鈴木は巧くごまかしたという。そして、御前会議は8月9日の夜11時から開催された。
 そこは宮中の防空壕内で、地下10メートルの一室で約15坪くらいだった。

        写真:wikipedia

 首相・外務・陸軍・海軍の4人の大臣。さらに、陸軍参謀総長・海軍の海令部総長、平沼枢密院議長の7名が正規の構成員である。ほかに陪席員4人だった。

 司会(迫水久常・内閣書記官房)が「ポツダム宣言」の条文を読む。当時の日本軍には屈辱的な内容ばかりである。

 外務大臣は「この際ポツダム宣言を受諾して戦争を終るべきである」という。米内海軍大臣も受諾に賛成。かたや、阿南陸軍大臣は、「必敗だときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦う。地の利あり、人の和あり、死中活を求め得べく、もし志とちがうときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を残すこそ本懐である」と主張した。

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 昭和天皇は2時間半も、意見の分断を熱心に聞いていた。
 鈴木貫太郎首相がおもむろに立ち上がった。
「陛下。ただ今、お聞きの通りでご座います。列席者の一同は、熱心に意見を開陳いたしました。事態は緊迫しております。誠におそれ多いことではご座いますが、天皇陛下のお思召しで、私どもの意見をまとめたいと思います」

 昭和天皇は緊張した顔だった。すこし身体を前に乗りだし、
「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である」
 それは建国2600余年で、日本が始めて敗れた瞬間であった。静寂。これ以上の静寂はなかった。

「念のため理由を言っておく。この戦争が初まってから、陸海軍はどうも予定と結果がたいへんに違う場合が多い。いま陸軍、海軍とも、本土決戦の準備をしておる。勝つ自信があると申しておる。自分はその点について心配している」
 先日、参謀総長から九十九里浜の防備について話しを聞いた。天皇は侍従武官に実地をみさせてきた。総長の説明とは非常に違って、防備はほとんど出来ていなかった。ある師団の装備は、兵士に銃剣さえ行き渡っていないありさまだ。

「これでは日本民族はみな死んでしまう。そうなったら、どうして、この日本という国を子孫に伝えることが出来るか。今日(こんにち)となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人たちが将来ふたたび起ち上ってもらう。それ以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」
 
 参列者の全員が涙して聞いている。

「それに、このまゝ戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉のときの、お心持も考えた。自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと、忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をしたしだいである。」

 参列者の号泣がつづいた。

 天皇のおことばはさらに続いた。国民がよく今日(こんにち)まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者・戦傷者にたいするお心持、また遺族のこと、さらに外国に居住する日本人(引揚者)、戦災に遭った人にたいして、ご仁慈のおことばが述べられた。(迫水久常氏の記録・抜粋)
 そして、昭和天皇は立ち上がり、地下の部屋を出て行かれた。

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 鈴木貫太郎の最後のカードの1枚は「昭和天皇陛下の聖断」だった。しかし、すんなり8月15日の玉音放送とはいかなかった。
 次回は8月14~15日の日本の運命を決めた緊迫した内容を紹介します。

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」② 私の屍を踏み越えて、国運の打開を

 国家滅亡の最大の危機に、どんな内閣総理大臣が求められるのだろうか。
 
 昭和20年8月15日正午の玉音放送に、以下の一か所がある。(口語文に翻訳)

『……、わが1億国民が身を捧げて尽力し、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の情勢も、またわが国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害がおよぶ範囲は、まったく計り知れないまでに至っている。……』

 昭和天皇が、広島さらに長崎まで原爆が投下された8月9日頃の戦況を語っている。終戦まで、あと6日間の日本は、まさに亡国の崖っぷちまで追い込まれていたのだ。敵の連合国にたいして政治の技術、政争などはもはや役に立たない。

 これを乗り切った鈴木貫太郎(かんたろう)とはどんな人物だろう。エピソードは豊富な人物だ。太平洋戦争がはじまると、「これで日本も三等国に下る」と言っていた。
「軍人は政治を本分とせず」と大臣を断ってきた。
 その鈴木貫太郎が、77歳にして内閣総理大臣を引き受けることになったのだ。ちなみに、生まれたのは徳川時代で、慶応3(1868)年1月18日である。

 その所信演説では、

「私の最後のご奉公と考えます。まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります」
 と述べた。

『死に花を咲かす』。『私の屍を踏み越えて』。これをどう読み解くべきなのか。歴史を後ろから見ると、かれの内心は真逆だったとおもえる。国民の死ではなく、和平だった。
 組閣で入ってきた陸軍大臣は、軍部の要求として「本土決戦(一億総玉砕)」を持ち込んできた。ここは、ひとまず、陸軍の主張(本土決戦)を真正面から受けとめた振りをした、と推測できる。正面衝突すれば、たちまち内閣が崩壊する。知的で功名な処し方だろう。
 ここらは追って、海・陸・外務の対立で展開したい。

 最も重要な鈴木貫太郎の死生観、人間性などにスポットを当ててみたい。

 昭和11(1936)年2月26日に起きた「2.26」事件は、陸軍青年将校らが1、483名の下士官兵を率いて起こした、近代日本最大のクーデターだった。

 かれらは「昭和維新」を叫び、重要閣僚ら9人を殺害した。昭和天皇が『下士官兵に告ぐ、今からでも遅くない、原隊に復帰せよ。抵抗すれば、逆賊で射殺する』と奉勅命令(ほうちょくめいれい)で収拾を図った。
 ただ、その後において軍部の力が強まり、5年後の太平洋戦争の突入(1941年)の起因のひとつに挙げられている。それほどの大事件だった。

 鈴木貫太郎は当時、昭和天皇の侍従長(じじゅうちょう・昭和4年~11年)を務めていた。

 事件勃発の少し前のある日、青年将校のひとり安藤輝三大尉が、侍従長の鈴木を訪ねてきた。
 
 ふたりで時局を語った。軍縮問題、日ソ関係、農村問題などだろう。鈴木は安藤の考えを聞いたうえで、歴史観や国家観などから説き諭したという。

「鈴木さんはうわさと実際と、会ってみるとまったく違っていた。西郷隆盛ような、懐が大きいひとだ」と言い、安藤はなんども鈴木貫太郎殺害の決起を思い止まろうとしたらしい。クーデターの決意が鈍り、まわりの青年将校は安藤をなじったという。

 当日の安藤大尉は、襲撃部隊を指揮し、侍従長公邸(麹町区三番町)に乱入してきた。とっさに押入れに隠れた鈴木貫太郎だが、襖(ふすま)に銃剣が刺さるので、観念して出てきた。
「待て、待て、話せばわかる」
「問答無用」
 兵士の銃が鈴木にむけて発射された。左脚付根、左胸、左頭部と三発が被弾し、鈴木は倒れた。八畳間は血の海になった。
「中隊長殿、とどめを」
 下士官がうながすので、部屋に入ってきた安藤輝三中尉が軍刀を抜く。喉元をねらった。
「おまちください。老人ですから、とどめは止めてください」
 八畳間の片隅に座っていた妻のたかが立ち上がると、兵士が夫人を抑え込んだ。
「どうしても必要というなら、わたくしに任せてください」
 と大声で叫んだ。
 安藤大尉はうなずいて軍刀を収めた。
「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」
 安藤は号令した。たかの前に進み出て、
「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対して、何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ず、こうした行動をとったのであります」
 安藤は静かに語り、女中にも、
「自分はのちに自決いたします」
 と語ってから、兵士を引き連れて公邸を引き上げた。

「もう賊は逃げたかい」
 鈴木貫太郎は自分で起き上がった。妻のたかは夫の止血処置をとってから、宮内大臣に電話をかけて医師の手配を依頼した。この電話で、昭和天皇が2.26事件を知ることになったのだ。

 鈴木の頭部に入った弾丸が耳から抜けていた。胸部の弾丸はわずかに心臓から外れていた。左足の付け根も銃弾が抜けている。いっとき出血多量で、鈴木は意識を喪失し、心臓も停止した。駆け付けた医師による甦生術(そせいじゅつ)がほどこされて、奇跡的に鈴木は助かったのである。
 自殺未遂のあと安藤大尉が処刑されると、鈴木貫太郎は「思想という点では、実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べている。

 

 鈴木貫太郎は、大正7年12月~海軍兵学校(広島・江田島)の校長に赴任している。
 上級生が下級生を指導するに鉄拳(てっけん)する。これを「修正(しゅうせい)」といい、兵学校の伝統だった。鈴木は、同年『鉄拳制裁に就いて訓示』で、厳しく禁止している。なぜ、禁止するのかとA4の用紙で、こと細かく説いている。

 鉄拳制裁は、一種の暴力行為に他ならないし、軍規(ぐんき)に違反する、と論断(ろんだん)する。憲法の規定の範囲内からも、はみ出した不法行為である。
 将来は将校になって、下士卒の兵隊をつかうことになる。いまの兵隊はむかしの足軽、商人、農民などとちがい中学、それ以上の教育を受けてきているし、法令なども知っている。それら兵隊に殴打すれば、批判眼でみられ、横暴残虐(おうぼうざんぎゃく)を感じさせてしまう。

 鉄拳制裁は日本の武士道から起因したものにあらず。むかしの武士ならば、鉄拳をくわえられると、武士の面目をつぶされたと、死をもって恥を雪がんする。決して行われなかった。
 大和魂とは、道徳上の上下一致、同心一体である。上の者は下を愛撫(あいぶ)し、下の者は上の者を尊敬する。こうした精神で、向かう軍隊が最も強固になる。
 
 鈴木にはドイツ留学の経験があるだけに、ドイツ魂と、ドイツ軍隊の強さはたんに機械的なものでなく、大和魂とよく似ている、と展開している。

 外国では、鉄拳制裁が人権を害し、下士卒の兵隊の抗議で、海軍刑法及び懲罰令による軍法会議の対象になる。しかし、わが国では、海軍全体がその認識に欠けている。りっぱな将官すら、殴打している。
 諸君らから正さねばならぬ。本校では今後において懲戒処分にする、と訓示している。
 
 海軍兵学校に入学すれば、将来は海軍大臣、さらに首相になれるかもしれない。親兄弟の期待を背負って、難関中の難関、兵学校に入学しながら、下級生を殴って退学処分では割が合わないだろう。

           *   

 鈴木貫太郎は就任のあと、まもなくしてアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知った。

 ルーズベルトは、1941年12月8日に、日本軍が予告もなく真珠湾を攻撃したのは国際法違反だと憤り、英国チャーチル首相からの要請もあった第二次世界大戦へと踏み切ったのだ。そして、日本戦と、ドイツ戦へと派兵した大統領である。

 
 
 鈴木貫太郎は、日本の同盟通信社の短波放送により、和文と英文で、弔電として、

『今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。
 しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。昭和20年4月7日 内閣総理大臣・鈴木貫太郎」
 という談話を、世界へ発信している。

 1945年4月23日のTIME誌に、その英文の弔意が掲載されたのである。


 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは敗戦の寸前にあった。ラジオ放送でルーズベルトを口汚くののしっていた。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが、鈴木貫太郎の弔電の放送にふかく感動した。

 イギリスBBCの放送で
「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存しています。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」
 と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた。(ウィキペディア(Wikipedia))

 日本人とは宣戦布告もなく、パールハーバーを攻撃した。野蛮な黄色人種だという見方が世界で一般的だった。
 鈴木の弔電で、敵をも尊重する騎士道に似ている、と評価されたのだ。

 むろん、日本国内に目を向ければ、殆どの軍人は鈴木に強い批判をむけた。いまや敵国の英語は使うことすら国賊だという時代に、日本の首相がアメリカ大統領に弔電を打ったのだから。それは批判囂々(ごうごう)だった。
 
 たとえ敵国といえども、巨大国家のトップの死を悼む。この紳士なる行動が、終戦後の日本の処し方におおきく影響を与えたのである。

                         (4回シリーズの予定)

     
 
 

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」① 全身全霊をかけた終戦への道

 ここ千年来で、外国との関係で国難を救った日本人を3人あげなさい。そう問われたならば、北条時宗、阿部正弘、鈴木貫太郎をあげるだろう。

 北条時宗(ときむね)は若くして鎌倉幕府の執政(しっせい)である。当時の蒙古(もうこ)はヨーロッパ諸国まで侵略の手を伸ばし、世界帝国だった。世界最強の蒙古軍の襲来にたいして徹底抗戦(こうせん)で退け、国を守った(元寇の戦い)。

 阿部正弘は、嘉永6年の米国のペリー提督が浦賀に来航のとき、徳川幕府の老中首座(現・内閣総理大臣)である。一か月遅れでロシア艦隊も長崎にやってきた。
 これら西洋列強の軍事圧力にも屈(く)せず、阿部正弘は戦争せずに開国した。さらに通商の道を開いて、現代の貿易立国・日本の礎(いしずえ)をつくった。私たちはその恩恵を得ている。

 国難と戦った北条時宗は33歳、阿部正弘は39歳、ともに全身全霊(ぜんしんぜんれい)をかけたのだろう、若くして現職で死去している。


 太平洋戦争の末期に、鈴木貫太郎(かんたろう)は77歳で、内閣総理大臣に指名されると、おどろいて、「とんでもない話しだ。お断りする」と高齢を理由に断った。

 真珠湾を攻撃した開戦時の東条英機(とうじょうひでき)内閣はすでに倒れ、次なる小磯(こいそ)内閣が短命で昭和20(1945)年4月7日に総辞職したのである。
 同年3月10日、米軍の東京大空襲で10万人が亡くなり、3月26日からは激しい沖縄戦がはじまり、日本列島が戦禍(せんか)にまみれて廃墟(はいきょ)寸前の状況だった。
 だれもが、死に水を取る総理になりたくないだろう。


「わが国はまさに壊滅の寸前にある。この状況を切り抜けるのは、もはや鈴木しかいない」
 昭和天皇からつよく要請されると、鈴木貫太郎は断りきれず、前内閣の総辞職の4月7日に、総理に就任したのだ。そして、組閣した。
 
『戦争を始めるのは容易(たやす)い。終わるのがとてつもなく難しい』
 政治家は勇ましく声高に、国民を守る、正義の戦いだと言い、戦争を始めるのが常だ。戦火を交えて、勝った、勝ったと言っているうちは良いのだが、思わぬ長期戦になり、しだいに国民は疲弊(ひへい)し、政治にも失望し、命の恐怖にさらされる。やがて、終りが見えてこなくなる。
 
           *

 太平洋戦争は単発の戦争ではなかった。

 明治時代からの薩長閥の軍部政権が、日清・日露の戦争を引き起こした。そこに起因(きいん)した数々のおおきな戦争を経て、行き付いたところが太平洋戦争であった。この認識はとても重要である。

 明治時代から軍部と経済界が結びついて、政策の具(ぐ)として戦争を利用してきたのだ。戦争史観の教育の下で軍国少年が育ち、聖戦(せいせん)として位置づけられたうえで、徴兵制(ちょうへいせい)で戦地に赴(おもむ)き、国家のために死す。

 この構図は日本列島が廃墟(はいきょ)寸前までつづいた。一億総玉砕(そうぎょくさい)という国論が生まれ、ナチスドイツが敗戦しても、単独で世界を相手になおも戦いつづけた。

 出口が見えない。戦争の休戦協定の労(ろう)をとってくれる国がいないのだ。満州事変(まんしゅうじへん)のときに、松岡外相が強引に勇ましく国際連盟を脱退した。世界を敵にまわした。このツケが昭和20年に重くのしかかってきたのだ。
 つまり、明治・大正・昭和と一連の戦争でとらえないと、終戦・和平のみちが理解できないのである。

 この間に政争(せいそう)が起きても、軍事独裁の内部にからむ権力闘争(とうそう)であり、けっして反戦・自由主義と軍部との対立ではなかった。

「明治時代から続いた戦争の連続性を、軍人政治家がみずから自分たちの手で、この戦争をやめさせられるのか」
 海軍の軍人である鈴木貫太郎には、その命題(めいだい)が突きつけられたのである。終わりの見えない戦争を、いかに終わらせるか。
 かれは二度も、軍部クーデターで命を狙(ねら)われた人物である。和戦(わせん)で終わらせないかぎり、日本列島は四か国に分断された植民地になるのは自明の理だった。
 
                     (4回シリーズの予定です) 

【歴史エッセイ】 いまの世は末期ではない。ただ、德川時代の後期と重ねあわせる、と

 歴史はくり返す。

 いまはまさに分断社会である。新型コロナウイルスの急激な2波の拡大による自粛派がいる。かたや、経済政策から総予算1.7兆円の「Go To Travel」のキャンペーンの推進派がいる。

 新型コロナウイルスが、ペリー提督の黒船に例えると、どうなるのか。薩長史観=黒船から「幕末」ならば、コロナから「令和の末期」になってしまう。
 それは正しい表現ではない。
 いま国民にとって解決が見えない状況である。「今後の日本はどうあるべきか」と真っ二つに分断しているのだ。
 見えないものは不安であり、恐怖である。それぞれが意見と主張をもつ。ときには政権変動までともなってくる。
 

 歴史は用語でごまかされやすい。

           *
 
 わたしは、いま幕末と明治初期を一つ小説で執筆している。じつに難しい。なぜなのか、と疑問がわたしにつきまとう。そうか、「幕末」、「明治維新」という用語が「薩長史観」で、後から創られたもの、だから、わたしたちは思い違いをしているのだ、とわかった。

 德川政権の後期は『分断の社会」だと気づいた。

 ペリー提督の来航から、老中首座の阿部正弘が、開国・通商に舵(かじ)を切った。德川御三家の水戸藩の斉昭が、従来どおりの鎖国・攘夷(じょうい)を主張した。この対立が政権の崩壊までつづいたのだ。

 武士階級のみならず、農民も、町人も、黒船来航のあと、「わが国はどうあるべきか」と真剣に考えていた。まさに通商か、鎖国維持か、と意見が分断した社会だった。西欧列強への不安と危機が先行し、どっちが正しいか、誰もがわからなかったのだ。

              *

 現在、新型コロナウイルス禍で、日本人が「コロナ来航」の解決を模索(もさく)している。明日の生活と社会の変革を考えている。だれもが迷っている。意見がちがう。
 一人一律10万円、(親子3人だと30万円)。これはだれがいつ払うのか。これすら解決がついていない。
 私たちの子どもの世代が補うのか、孫の世代か。まさか、コロナ危機が先行した「食い逃げ」ではあるまいな。
 そんな考えならば、後世から現政権は罵声(ばせい)を浴びせられてしまう。

            *   

 薩長史観だと、「安政の大獄」の下で、井伊大老がひとり悪者にされている。だが、かれ自身を克明に調べていくと、日本の取るべき道はなにか、と井伊直弼(いい なおすけ)は真剣に考えていた一人だった。


 
 13歳で紀州藩主の徳川慶福(よしとみ・のち家茂将軍)は、知的で性格も良好だ。のちの和宮との夫婦関係も素晴らしいものがある。一橋慶喜には決して劣らない。
 その人間味から、井伊大老が14代将軍に推したのもよく解る。

 攘夷派大名たちが、安政の5か国通商条約の抗議で、無断で江戸城に登城してきた。尊王攘夷派からみれば、日本の将来を考える、命を賭(と)した行為だったのだろう。

 これは武家諸法度からすれば、幕府への反逆行為であり、重罪だった。大老職の立場としては当然の処罰である。

「戊午の密勅」(うごのみっちょく)は、孝明天皇が水戸藩に勅書(ちょうしょ・勅諚)を直接下賜(げちょく)した事件である。
 仕掛け人ともいわれる西郷隆盛、公卿、尊攘派浪士たちは、日本を良くしたいとねがう「幕府改革」の手段だった。
 しかし、これは天皇家と将軍家との秩序を乱す、幕府への反逆行為である。これを認めれば、政権が危なくなる。井伊大老は徹底した取り締まりで秩序回復をめざした。

 攘夷派たちは罪のない無辜(むこ)の外国人を殺す。殺された側の本国の家族は、どれだけ涙しただろう。のちに初代内閣総理大臣になった伊藤博文も、暗殺者のひとりだった。
 幕府はそうした過激攘夷派を弾圧する。まさに、血なまぐさい『分断の社会』だった。

              * 

 ペリー提督の黒船来航(1853年)以降から15年間は、日本人のすべてが「清国のように植民地になるな」という共通認識で一致している。だから、西洋の要望にそって仲よくする通商派と、西洋列強は怖いから日本に入れるなと攘夷派が叫ぶ。

 津々浦々の民までも、政治への関心度は、わが国の有史以来の最高だったかもしれない。
 当時は大政奉還(1867年)まで、倒幕など、だれも考えていなかった。ひたすら「植民地にならないために」と開国か、攘夷か、という方向の違いによる、分断社会であった。

           *    

 大政奉還のあとに戊辰戦争が起きた。ほぼ同時代に、アメリカにおいても南北戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦死者はなんと62万人である。(米国の太平洋戦争の死者は約29万人)。
 当時の日米はほぼ同じ人口で、日本の方がやや多い。

 日本の戊辰戦争は、大名は1人も殺されていない。鳥羽伏見の戦いの死者は、双方併せても390人である。戊辰戦争すべての戦いを合計すると、8420人だった。

 日米の戦死者のちがいは、日本が「倒幕」という勝ち負けの戦いではなかったからだ。「統一国家」に従わないものだけを討つ。その姿勢に、だれもが逸(そ)れていない。
 だから、会津が白旗を上げて落城すると、西軍(官軍)はその場でさっさと解散し、みな自藩に引き揚げていったのだ。
 それは薩摩も、長州も、土佐も例外ではなかった。

 かれらの戦争目的は、「分断社会」から、「御一新」という統一国家づくりだった。決して維新(内部改革)の発想ではない。

 つまり、殺戮(さつりく)で血をながす分断はもう止めよう。日本は一つになろうよ。というものだった。箱館戦争が終結したあと、榎本武揚など、だれひとり死罪が出なかった。
「德川の有能な人材は、将来の日本のために必要だ」
 薩摩藩の黒田清隆がそう主張し、押し通したものだ。

 みんなが日本の将来を考えていたのだ。

           *

 わたしたちの日本史の教科書は、官製『維新史』(昭和14年に発刊)がベースになっている。その時代は日中戦争のさなかで、軍人政治家が国会を牛耳(ぎゅうじ)り、薩長史観がピークのときである。
 今日となっては『維新史』を鵜呑(うの)みにはで きない。勝ち負け。その勝敗の視点だから、德川政権が倒れることが前提とした「幕末」となる。
 実際は、当時はだれも幕府が倒れると思っていない。德川後期は、方向性と意見の相違による「分断社会」だった。そう教えるべきだろう。

          *

 新型コロナウイルス禍から、日本のみならず、世界各国のいずこも、いまは「分断社会」である。意見が異なる。

 中東のイスラエルが、新型コロナウイルスの第2波に見舞われている。第1波はうまく乗り切った優等国だった。
 しかし、経済再開に踏み切るのが早すぎたことから、ふたたび感染者の急増を招いた。 
 7月中旬から、プラカードを掲げたデモ隊が、首相公邸まえで抗議の声をあげている。イスラエル各地で、首相辞任を求めている。
 首相の支持基盤である右派や宗教勢力からの参加者もみられ、不満の広がりは深刻だ。

           *
 
 日本人は薩長史観=「幕末」の発想で、ものごとを勝ち負けの発想でみてしまう。

 本来は、首相が逃げ隠れせず、日々に国民のまえに立ち、コロナ過の分断した意見相違の溝を埋める努力をするべきである。
 それが政治であり、民の安堵につながってくる。

「政府は消極的なもので、法律が個々の人々を幸せにする、というものではない。国家がつくった制度は必ずしも、人々を救ってくれない」
 民がそれを知ったときには、政権の瓦解(がかい)がはじまる。

 260年間も盤石(ばんじゃく)だった徳川政権が、あっという間に、倒れる。それは歴史が教えるところだ。
 開国主義をつらぬく德川政権だったが、慶喜が唐突に逃げて攘夷にうごいた。それが結果として命取りになった。

 国家は国民によって成り立っている。国民一人ひとりの資質を合算したものだ。政権トップがその場のご都合主義や利己心で、方針をごまかす。すると、民のこころが離れて一気に瓦解する。

 德川後期の歴史から、それが学べる。

                 *

 鳥羽伏見の戦いで、1万5000人もいた旧幕府軍だが、死者280人(大半が新撰組)でも、徳川慶喜が大坂からこつ然と消えたがゆえに、一気に崩れ落ちた。

 将軍(首相)が国民のまえから消えたまま、老中(大臣)に任せ切っていると、民の信用欠落となり、巨大な数で成り立つ政権でも、支柱を失い、一気に崩れはじめるかもしれない。

  
 海外において、アメリカの現職大統領すら日々、民の前に現れる。熱弁をふるう。ただ、徳川慶喜公のような、(選挙を意識した)ご都合主義、利己主義の動きに感じてならないけれど。
   

 このさき世界中で、コロナ過の失策で、政権がどのていど消えていくのか、いまはそれすら見通せない。
   

    写真引用 = ウィキペディア(Wikipedia) 

【歴史から学べ】  広島の県議、市議、市長が毒されたのはなぜなのか。(下)

「長崎には歌が、数多くある」、しかしながら、「広島には歌がない」。それはなぜでしょうか。私は講演会で、参加者に聞いてみる。
 長崎には、「長崎の鐘」、「長崎はきょうも雨だった」「長崎の女」「長崎エレジー」「長崎の蝶々さん」「長崎から船に乗って」と曲が次々出てきます。
「広島まではなぜ、歌がないと思いますか」
 唐突に、カープの歌がある、と一人が叫んだので、会場は爆笑でした。 

           *

 広島と長崎は米軍の原爆投下で焦土になった。しかし、歴史は戦争で失われていない。

 人物の好き嫌いは別にして、龍馬のいた亀山社中、グラバー邸、オランダ坂、幕府の長崎奉行所、長崎製鉄所、長崎海軍伝習所跡、唐寺など多々ある。
 由緒ある歴史の場所は、情緒や情感が満ちている。もう一度訪ねたいと思う。歌も生まれる。長崎の方は歴史を大切にしている。

 広島の歴史は戦国時代の毛利元就のみで、昭和20年の原爆投下でまでの歴史を消している。教えない。だから、歴史が伝わらない。
「歴史のないところには、情感豊かな音楽が生まれない」
 長崎観光はリピートがある。
 広島原爆ドームは近距離から見たら、もう2度は訪ねてこない。

 広島原爆による焦土は、約5~10キロていどの範囲内だ。それ以外は焼けてない。しかし、歴史学者たちは「原爆で広島の歴史の史料・資料が焼失した」というイメージに洗脳されている。だから、江戸、明治、大正などの歴史発掘は無関心である。

私は書斎の窓から、妻が咲かせたうす紫色に咲いたアガパンサスを見ながら、夏の気配をつよく感じている。と同時に、「8月6日の原爆投下」の日が近づいてくるな、と思う。
 わたしは、ふしぎに昭和天皇を思いだす。
 小学生のころの私は、同級生と通学路で、「ピカドン」の怖さを折々に語ったものだ。

 腕と肩に白いケロイドの原爆症をもった教師が「きょうも、平和教育だ」と言い、手作りの紙芝居を見せられた。大嫌いな授業だった。夜は恐怖で厠にいけず、がまんしても、布団に漏らしてしまう。

 大崎上島は離島の小学校だから、広島大学(旧・高等師範)の若い独身教諭が赴任してくる。実体験だ。真っ赤な炎、ドロドロに焼け爛れた手、黒焦げの少年の死体など一枚ずつめくりながら、戦慄と恐怖の場を語る。
 子ども心に、こんな戦争をした大人が悪い、昭和天皇も悪い、と思想に関係なく素朴に思っていた。
 
            *

 広島・長崎の原爆投下を指図したのは、米軍の空軍参謀総長のカーチス・ルメイである。

 戦後、昭和39(1964)年、ルメイに「勲一等旭日大綬章」が授与された。大学生の私は、さすがに耳を疑った。
 提案者は源田実(広島県出身)だと、当時いわれていた。決裁した首相は佐藤栄作である。ところが、昭和天皇は、「原爆投下責任者のカーチス・ルメイに、皇居で私の手から渡したくない」と拒否された。
 授与式は入間基地になった。

 天皇は戦争に心を痛めていたと報道で聴いていたが、本当なんだ、と私ははじめて認識を新たにした。

           *
   
 現代、こんな重大な事実すら広島人は話題にも、問題にもしていない。
 昭和天皇にすら反対された叙勲だった。広島人も、叙勲に反対と行動を起こしつづけるべきだが、なにが不都合なのか、叙勲から目を逸らし、被ばく=平和と声高に叫んでいる。これでは疑似平和だと思う。


 いま世界中で黒人問題から、歴史的な人物の銅像が次つぎに倒されている。それは歴史を正しく認識し、シンボルを否定しなければ、人種問題の新しい未来が築けないからだ。

 カーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を与えたのが、佐藤栄作元首相だ。現在の自民党総裁はその末裔だ。
 自民党本部から河井代議士の夫妻に、選挙資金1億5000万円が次ぎこまれた。報道によれば、広島県議、市議、一部市長らの選挙活動費につかわれたという。その数は90余人だという。

「悪質な体質を断ち切る。それには勇気が必要だ」

 心から広島が原爆=平和を叫ぶならば、カーチス・ルメイの家族から、勲一等旭日大綬章の返還運動は起こすべきだ。
「まずはルメイの勲一等旭日大綬章授与は誤りだと、県議会、国会で返還決議を採るべきである」

 自民党党首=首相である。敵にするかもしれない。しかし、亡き昭和天皇の意志でもある。歴史を正す勇気が必要だ。なぜ、国会決議か。

 そのためにも、もう一度、ここで明治時代に起きた20余年間の血と汗の「自由民権運動」を学んでもらいたい。
           *

 庶民は、封建制の徳川幕府が倒れたあと、新しい時代がくると期待した。しかし、農民・町人は、政治は武士階級が行うものだと信じて疑わなかった。かたや、福沢諭吉、中村正直などが西洋の民主主義を翻訳し、日本に紹介した。(~明治10年・啓蒙時代)

 
 西洋では、貴族でなく、平民が政治をおこなっている。
 ならば、日本人の平民も選挙で選ばれて『国会』で国政に関与したい、と考えはじめた。没落士族と組み合わさり、全国各地で「国会開設」運動がはじまる。


 明治10年には西南戦争で西郷隆盛が破れた。翌11年には大久保利通が暗殺される。ここから薩摩政治家のトーンが落ちる。長州閥政治家の独壇場になってくる。

 長州閥政治家と民衆の戦い。この構図が自由民権運動である。

 政府はきびしい弾圧をおこなう。福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、静岡事件と、民はテロや蜂起で対抗する。

「板垣死すとも自由は死せず」
 このことばは自由民権運動の象徴である。大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した。ついに、明治23年「国会」開設が勝ち取れたのだ。

 民間人は選挙で代議士になれる。その所属する『衆議院』が予算の権限をもつ。日本国憲法の条文に、それが明記された。
 これは画期的なものだった。政府は衆議院の予算承認を得ないと、国家の収入(税金)を使えないのだ。
 世界でも、政府の独走を縛る理想的な「国会」システムだと言われた。

            *

 その後、日清・日露戦争~大平洋戦争まで、民衆がつくった『国会』の機能は、軍人政治家部に弱められてしまった。
 しかし、国会には予算で軍事費を押える機能はまだ残っていた。
 東条英機は、衆議院の議員らが反東条が占めて、軍事予算が通らないといい辞職している。

            *

 あの昭和20年での東条英機内閣の当時すら、市民を代表する『国会』という機能が、東条英機を辞任に追い込んだのだ。
「日本の国会は、戦争でも死ななかった。日本人の財産だ」

 広島人よ、『国会』の議員は金で買うものではない。

【歴史から学べ】  広島の県議、市議、市長が毒されたのはなぜなのか。(中)

 6月はくちなしの甘い香りがただよう。政治の甘い香りはお金であろうか。政治とは庶民、民の豊かな生活と安全を与えるもの。
 しかし、政治家になれば、とかく民に奉仕を忘れて、甘い香りに群がるものだ。
 国政から町政まで、真面目な政治家もいる。
 それだけに、『政治家』と一括りにされると、不愉快だろう。それを承知のうえで、広島県の破廉恥(はれんち)な体質を糾弾せざるを得ない。同県人として、恥部の構図をさらけ出す。


 虚偽(きょぎ)の言い訳をした政治家は、おおむね虚偽を重ねるものである。広島の県議、市議、一部の市長は記者会見で、開き直って、「潔さ(いさぎよさ)」を演じている。

 安芸高田市の児玉浩市長(57)は、丸刈りで演出し、記者会見していた。河井代議士から60万円を受け取っていますと明かす。
「かっこつけるなよ」
 多くの日本の人は、不愉快におもったことだろう。

          *

 政治家は庶民の声を聞くのがしごとである。
 政治家の栄養分は歴史にある。『歴史の声を聞け』。どんな事象も掘り下げるほど、政治エキスがある。広島の多くのひとは、毛利元就の崇拝者だ。
「仲謀多くして勝つ。戦国時代の3悪(謀将・ぼうしょう)はだれでしょうか。見方によれば、諸説あるでしょう。安芸国の毛利元就(もとなり)、備前国の宇喜多 直家(うきた なおいえ)、美濃の斎藤道三です」
 わたしが広島の歴史勉強会、講演会で、そう語ると、不愉快な顔をされる。

           *

 安芸高田市には、毛利家の先祖伝来の郡山城(こおりやまじょう)がある。毛利家が江戸時代に「郡山をそっくり買い取った」経緯から、広島浅野家は「毛利家以外の立入禁止」として保護地にしてきた。
 現代も、たぶん毛利家の土地(大半が墓地)だろう。

 毛利家はかつて安芸吉田荘の国人領主だった。

 毛利元就は家督を継いだ時点では、小規模な安芸高田の国人領主に過ぎなかった。一代で、元就は山陽・山陰の10か国を領有する、巨大な大名の雄にまで成長させた。
 戦国時代に勢力争いの戦争に勝つだけでなく、これでもか、これでもか、と非現実的な策謀・策略をおこなってきた。
 政略結婚、毒殺、身内を裏切った殺戮なくして、元就が一代で総石高112万石はとうてい達成できないものだった。

「三つの矢がまとまれば折れない」
 広島人はその元就の故事を崇拝する。

 この故事は、同族の結束を強めるもの、同族会社は三代目で危ないように、3代目の 毛利輝元(てるもと)は安芸高田に生まれ、関ヶ原の戦いで西の総大将にもちあげられて、敗北した。
 德川家康から「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とした。石高がゼロとなった。(現代流にいえば、毛利家の倒産である)

 岩国の吉川 広家(きっかわ ひろいえ)が、110万石の毛利家が改易とは気の毒だと言い、「周防・長門2ヶ国は輝元に与えるように」と嘆願した。29万8千石で安堵されて、広島から萩に移封された。
 その吉川に対して、毛利家は冷たく、明治になるまで、大名として認めていない。冷徹な冷たい仕打ちである。

           * 

「広島人の多くは、あたまから毛利元就を広島の英雄だと信じ込んでいる。歴史上の正義・勝者だと見なしている」
 そこから学び取る政治哲学とはなにか。政治権力の座、英雄の賛美である。

 広島は核兵器反対・平和と叫びながら、その実、戦争史観で毛利元就を賛美する。自己矛盾の世界である。

政治は民のためにおこなうものである。私欲・私益のためではない

 明治時代からは長州閥を中心とした政治である。長州とは毛利そのものである。毛利元就からの歴史だといっても過言でない。

 発祥の地、安芸吉田市長の丸坊主の懺悔(ざんげ)は陳腐(ざんげ)で、あしたから『庶民にために政治に尽くします』というものではない。
 それは単に自己防衛の演出にすぎない。金で、選挙民のみならず、国民を裏切った悪質な人物である。毛利元就の大胆さよりも、金額が少ないと思っているかもしれない。
 
 長州閥の政治家が明治時代の初期から現代まで、政治におおきく関わってきている。それだけに、郡山城下の安芸高田市の市長は、なおさらきちんと襟(えり)を正すべきである。
 僧侶になって寺院で記者会見を演出した方が、まだ信ぴょう性があると思える。。

                      『つづく』

【歴史から学べ】  広島の県議、市議、市長が毒されたのはなぜなのか。(上)

 私が幕末歴史小説『二十歳の炎』(改題・広島藩の志士)を発刊した当初、同書の紹介で広島の、あるメディアの方を訪ねた。

「県会議員の半分は、江戸時代の広島藩主は毛利家だと思っているのですよ」
「えっ、ばかな。嘘でしょう。江戸時代の毛利家は長州(山口県)の藩主でしょう」
「冗談じゃなくて、本当です。広島のものは、毛利元就から原爆まで歴史の真空地帯です。ですから、県会議員すら、この歴史小説の江戸時代の背景はわからず、理解するのは難儀だと思いますよ。広島のだれもが、歴史に目が向いていないし、勉強していないからです」
「歴史音痴(おんち)のひとが、広島の議員をやっているのですか」
「そんなところです」
 ここ7、8年さかのぼった最大級のおどろきの一つだった。

 政治家の役目は、将来を見通し、方針・方策をつくりだすものである。
『人間は同じことをするもの』
 政治家は現在ある課題を、歴史上から類似的なものを探しだし、その歴史を訪ねて、叡智(えいち)をもらう。そして、政治の方策をねるものである。それでなければ、「ヤマ勘」や自身の経験優先、他の力で動いてしまう。あるいは無策に等しい。

 広島の議員は、歴史学なくして、政治の役目が果たせるのかな、と不可思議だった。

            *
    
 
 新型コロナ騒ぎ、梅雨空に咲くアジサイを見てうっとうしさを取り除いて、執筆している。時折り、広島県出身の私は、知人から電話をもらう。
 厄介な事件を起こしてくれたものだ。
 講師でカルチャーセンターに出むいても、河井克行代議士の現金配布の事件をどう思いますか、と質問される。

「お金をもらった地元政治家が8割、9割悪いと考えます。かれら広島の議員、あるいは市長は、『為政者になれば、身きれいにする』という自覚が欠如しているからです。悪いのは受け取った側です。
 
『私利私欲で、個人の利益を追える』と不純な動機が育つ土壌が広島にあるからです。
 なぜならば、国政とはなにか。県代表ではない。民政を国家レベルで、決めていく決議機関である。

 かれら広島議員は国会開設の歴史すら、学ぼうとしていない。 なぜ、明治23年に『国会』が開設されたのか。
 日本人の庶民が、薩長閥の政治に反旗をくつがえし、民権運動として20余年間の血と汗で開かれた。この歴史を知らないし、学ぼうとしていない。だから、こんな無様(ぶざま)なことをしでかすのです、とはっきり言いきってしまう。

 市議、県議に立候補する段階から、明治時代の『自由民権運動』くらいは勉強しておくべきです。学校で教わらず、教員がさらっと流したにしろ、とつけ加えている。

           *

 原爆の被ばく=平和と声高に叫んでいれば、広島県の県政・市政に金が入る体質がある。

 将来の広島はどうあるべきか、とどこまでも考えるならば、江戸・明治・大正という大変な革期から、英知を学びとろうとするはず。その体質が殆どない。
 それが今回の事件の本質的な発端でしょう。自民党の本部に、広島の体質が見透かされたのです。

           *
 
 自由民主党がなぜ1億5000万円を広島の立候補者につぎ込んだのか。自民党の党戦略家は、戦術的に、全国を見渡しして、もう1議席増やせて、2議席を取れる選挙区はどこか、と戦略を練る。
「金で最もうごく県は、広島だ」
 広島県の県議、市議、市長たちはお金で動く、と自民党の党本部から狙われたからですよ。

 少なくとも、河井代議士自身から「1億5000万円を支援してください」と党本部に申し出た金額とは思えません。押しつけられたのです。

 小説的にいえば、「人間は唐突に、おもわぬ大金が入れば、迷います。まさか1億5000万円を選挙資金に使わず、自分の懐に入れて邸宅をつくれば、とんでもない結果を招く」と考えるはずです。
 法務大臣ならば、検察庁が指揮下にある。悩まなければ、ウソになる。

 県会議員だった美顔の妻が立候補する。
 その人脈をたどり、この際はみずから『あなたと私の秘密です』と口止めを計りながら、広島県内でばら撒くしか道はないと、河井代議士は考えたのでしょう。
 
 悪事の怖さはマンネリで、倫理観を失わせていくことです。

 河井代議士の立場で、広島の県議、市議、市長に手渡しする。お金の入った封筒をポケットに押し込む。「そんなことしないでください」、「預かっておきますよ」と言いながらも、それを受け取ってくれる。

 双方が不法と知りながらも、一人、またひとりと金銭の受け渡しが行われると、悪の道には歯止めがかからず、巨きく積み重なっていく。
 ほとんどの犯罪の事例である。

 悪のるつぼに巻き込まれてしまう。
 
                 【続く】

初夏の青空をキャンパスに、ブルーインパルスが舞う、=東京・葛飾

 ここ2か月ほど自粛ばかりで、東京人は室内で、ひたすら天井を見ている。

 室外に出て空を見上げれば、そこにはかがやく青空があった。

 五月晴れは、とても心地よいものだ。

 

 浮雲が多少のアクセントをつけていた。これがまた絵になる。

 2020年5月29日、12時40分ころだった。
 
 航空自衛隊の ブルーインパルスが、新型コロナウイルス に対応する医療従事者たちに感謝を伝えるために編隊飛行をおこなった。

 

 
 何機いるのかな。6機が白い絵の具のように直線を描いていく。

 さらにもう一機が確認できた。全体をコントロールする指導機なのだろうか。



 かれらは東京スカイツリーの周りをはたして何回まわるのだろうか。

 

 編隊機の急上昇も素晴らしいものだが、直線でも美しさをかもしだす。

 

 葛飾区は「寅さん」、「立石飲み屋」、「下町の工場」というイメージだが、こんな公園もある。

 子どもらは、青空よりも、団らんを愉しんでいた。

 スマホで撮影するひと。少しでも高いところから撮影したいのは人情だろうか。

 編隊機の高度からみれば、2-3メートルはまったく変わらないと思うけれど。


 この空は羽田空港の航空路で、ふだんは離着陸の飛行機が次つぎに飛来してくるところだ。

  ブルーインパルス が東京上空に飛ぶとなると、この時間シャットアウトだろうか。

 少なくとも、前後の30分間は民間機の姿をみなかった。

「もう来ないのかな」

 しばらくは、そんな会話が流れていた。

 東京人は日々、引きこもり生活を余儀なくされている。それだけに青空と ブルーインパルスで、すかっとした余韻を持ちかえっただろう。

【歴史から学ぶ】 世界大恐慌よりもひどい。「医療崩壊」のあと「経済崩壊」がくるのか。

 国会で、安倍晋三首相が「1929年(昭和4年)以降の世界大恐慌と比べ、厳しい状況になっている」との見解を示した。日本では当時、昭和恐慌と世界恐慌が重なった惨事になったのだ。
 それをどう感じ取るべきか。



 いま、「医療崩壊」の瀬戸際にある。これをうまく乗り越えたとしても、首相の予見通り、貿易立国の日本に、「経済恐慌」や「経済崩壊」がくるかもしれない。

 東京都に絞ってみると、大企業の本社が多い。だから、都税はいま豊かだ。
 しかし、令和2年の各社の決算発表は、新型コロナの影響で、軒並み赤字である。決算書すらできていない会社もあった。

 企業は収益を出すのは人・金・物の組み合わせと努力とを要する。反面、赤字はちょっとした瞬間で膨大になり、企業の存続すらも危うくしてしまう。

                *

 1年後の令和3年の決算となると、どうなるのだろうか。経済活動の停滞・不調から、とてつもない未曽有の大赤字になる可能性もある。

 豊かな都政が突如として180度ひっくり返る。都財政は大赤字になる。

 都知事はいま「社会が混乱している」と、ホームステイを強調しているが、「経済恐慌による改革」まで視野に入っているのだろうか。うかうかすれば、巨大な赤字都政で、東京都の運営そのものが危うくなってくる。
 となると、都の職員(一般行政職)の1万8207人の給料は払えるのだろうか、という心配にも及ぶ。都税がなくなれば、半分、あるいは1/3の削減くらいの荒療治や覚悟が必要になるかもしれない。 とても削りにくい消防吏員・公営企業・行政委員会・学校教職員・警察官までをふくめると、都税で暮らす人は総計16万5千人をかかえている。
 

 それと同様に、23区も、区民税の大幅な減少がある。立派な区役所は外部に貸して、質素な小さな行政に転じる必要がある。

 ここまで書けば、「なあーに、V字型の景気回復があるさ」ということばが飛び出すだろう。

               *

 私たちは性格において、大ざつぱに二通りある。楽観主義者と悲観主義者である。

「なんとかなるさ」、成り行き任せ、「どうか、そうならないでほしい」と願う。こうした楽観主義はけっして悪いことではない。
 むしろ、悲観的に考えすぎると、経済(投資・消費)がかえって冷え込んで悪影響を及ぼしてしまう。

                * 

 しかし、行政担当者は逆である。危機管理とは最悪を考えることである。

 行政マンは「なんとかなるさ」では給料をもらう資格がない。常に最悪の場面まで想定したシュミレーション(simulation・模擬実験)をする。そのうえで、段階的な対策を練る。
 こうした状況下では、悲観主義者のほうが適性があっているといえる。


 災害は忘れたころにやってくる。2021年は「東京オリンピック」どころか、まさかと思うが、最悪は「関東大震災」という直下型の地震が来たらどうするべきか。

 これは不安を煽(あお)っているのではない。私たちの曾祖父のころ、いまから100年前に、それを経験しているのだ。
 この歴史から学ばなければならないのだ。

 第一次世界大戦のあと、わが国に「戦後恐慌」が起きた。そして、「スペインかぜ」が大流行した。(1918-1920)。まさに、現況とおなじようなウイルス禍である。
 このときは日本人が約40万人近く死んだ。

 その3年あと、大正12(1923年)年9月1日11時58分、関東大地震が発生したのだ。マグニチュード(M)は 7.9である。

 悪いことは重なるもので、当時の内閣総理大臣の加藤友三郎(広島出身)が、この大震災の8日前、8月24日に現職で急死していた。
 想像を絶する大惨事のなかで、首相が空席だったのだ。

                *

「歴史は進歩ばかりでない」。時間の流れの中で、そういう負の事実(遺産)もあったと踏まえていたほうがよい。

 新型コロナ・ウイルスの環境下で、東京に大地震が起きたらどうするか。神戸淡路大震災も、同様である。
 ただ、人間には経験という大切な財産がある。
 2011年3月11日に悲惨な東日本大震災が起きた。日本中にボランティア活動精神をうみだした。ボランティア文化ができたのだ。
 江戸時代に盛んだった「お互いさま」という「相互扶助の精神」の復活でもあった。

                 *

 私たちは、ウイルスと闘いながら、3.11から学んだボランティアを経験をどう織り交ぜていくか。IT通信も、一段と進歩している。
 日本を沈没せてはならない。関東大震災なみが来れば、大坂か、京都か、首都機能を即座に移す。どのように具体的にバックアップするか。
 被災者への支援・救援活動、安全維持の消防・警察活動なども多岐にわたるシミュレーショが、いざ本番には不可欠である。「備えあれば、憂いなし」という格言がたいせつである。
 
               *

 大正時代の関東大震災は、当然ながら、大不況に陥ってしまった。さらなる負の時代が連続する。
 大正時代が終わった翌年、昭和2年(1927年3月~)に、昭和金融恐慌が起きてしまったのだ。「銀行の取り付け騒ぎ」ということばで、庶民の間で広まった恐慌だ。銀行が次つぎに倒産してしまった。


 高橋是清(これきよ)大蔵大臣が、片面印刷の200円券を臨時増刷して現金の供給に手をつくした。

 これを解決したと思ったら、日本が運悪く金解禁を行った。日本の金貨が外国に流れてしまったのだ。そのデフレ不況が世界恐慌と重なってしまったのだ。もはや最悪である。
 「経済崩壊」がたちまち政治に影響を与えた。
(現・安倍晋三首相がいう「世界大恐慌」とは、この時点の実態を語っているのである)
 日本社会は倒産、犯罪、自殺、路上にはホームレスがあふれた。暗黒の時代へと加速していった。

 これが満州事変を誘発してしまう。       


【ここらは学校教育の場で、教師が最も教えにくいところで、大半がスルーしている。しかしながら、現代社会で身近に役立つ、重要な歴史の宝庫なのである。
 東京オリンピック2020でなく、その前後に直下型の巨大地震がきた。負の影響が全国に波及する、と考えれば、わかりやすい】

            * 
       
 安政2年の「江戸大震災」、昭和2年の「昭和金融恐慌」、令和2年の「新型コロナウイルス禍」という、『2年』のごろ合わせか、偶然か、惨事が奇妙に一致している。
 過去の歴史はふしぎに負の連鎖が続いている。

 為政者は大惨事の時に、手柄や業績や賞賛に値する名誉など考えない方が良い。歴史は知恵の無限の宝庫だ。目先だけでなく、巨視的な視点から学び取るとよい。
 大正・昭和の恐慌。その時代を生きた人々の生活まで近づけば、生きる英知が豊富にあるのだ。 

 パチンコ屋の営業に法的な処罰をするか否か。高所得者層のゴルフ練習場(打ちっぱなし)はずいぶん密集しているが、営業はできる。新書の本は売れるが、古本は売れない。ここには貧富の差、利用者の所得格差が不自然に生じているのだ。

            *
 
 水野忠邦(みずのただくに)は、禁止の元祖だ。天保の飢饉で、質素倹約の生活から奢侈(しゃし)禁止令を強く庶民に科した。それでも、歌舞伎、芝居小屋は数少なく開いていた。全面禁止ではなかった。

 現在は公営の屋外の運動施設などは全面禁止だが、そろそろ一部解禁にした方が良いのではないか。精神面の安全性からも。諸外国ではストレスから暴動も起きはじめている。

 児童公園にテープを張ったり、買い物は3日に一度、藤棚を伐ったり、あまり細かいこと「重箱の隅をつつくような」ことに干渉せず、大目に見るほうがよい(家康)。
 あなたがた政治家は規制、禁止づくりよりも、もっと別にやることがあるはずだ。


「世界恐慌より大きな危機がくるかもしれない」
 国家の首相が真剣に危惧しているのだ。東京都政(府県政)も、ここらを正面から検討した方が良い。

 いまや中小企業・中堅企業が従業員の支払いをどうするか、という問題に突き当たっている。収入のない人は、都民税(県民税)、区民税(市町村税)など払えないのだ。
 となると、地方自治体は行政の無駄を徹底して切り削いでいくことになる。さらには過酷だが、「公務員の首きり」というつらい選択に及びかねない。


 まさか「昭和恐慌」の先にあった、2.26事件のような、軍事クーデターは起きないと思うけれど。

 地方自治体の政治家、行政マンは今やるべき課題はなにか、と考えた方が良い。コロナ規制、規制の一辺倒にならずに。

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 経済は崩壊が始まると、とてつもなく加速度がついて落ちていく。犯罪、自殺、一家心中が社会の中核に座ってくる。飢え、貧困、食糧危機にまでなる。それが2.26事件、日中戦争へと拡大していった歴史的事実である。

 私たちは「暗黒の道」に入る前に早くに脱出しなければならない。悲惨な大正・昭和史からの教訓である。