ジャーナリスト

わが青春のムーラン・ルージュ(上)=戦前と戦後を生きた若者たち

 昭和はやや遠くになってきた。戦争がその昭和を二分していた。文化も、生活も、生き方すらも違う。ただ、戦前と戦中の暗い世相でも、若者たちのエネルギーを発散させるモダニズムがあった。そのうえ、廃墟から立ち直った終戦後には演劇人が育つ土壌が生まれた。
 ここをみごとに再現・演じたのが、「新宿くまもと物語」シーリーズの「わが青春のムーラン・ルージュ」である。
 東京公演が2月24日(土)に、東京・新宿区の四谷区民ホールで、熊本公演は、昨年(2014)11月18日に開催された。

 新宿と熊本の関連とはなにか。夏目漱石、小泉八雲がともに熊本・五高で教鞭をとっていた。ふたりのさらなる共通点は新宿である。漱石においては新宿が生誕・終焉の地であり、八雲は終焉の地だった。

 ふたりの文豪を題材にした創作舞台「新宿くまもと物語」が製作され、双方の地で演じられている。ことしは3回目である。
 
 第1回は平川祐弘・東大名誉教授の脚本『青柳』である。八雲の「怪談」が題材になっている。

 第2回(昨年度)は、直木賞作家・出久根達郎の初脚本『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』で、熊本の古本屋が舞台だった。

 第3回(今年度)は、新宿の学生たちを背景にした歌と踊り、そして演劇の「わが青春のムーラン・ルージュ」である。

 作家仲間の親しい出久根達郎さんから、同劇のお誘いとお招きを受けた。私が指導する小説講座の受講生ともども四谷区民ホールで観劇させてもらった。


『ムーラン・ルージュ』は何となく聞き覚えがある。映画の題名かな、ミュージカルかな、昔の歌かなと思う。その程度のばくぜんとした知識で観るのが、この舞台は最も良い、それが私の感想である。

 昭和6(1931)年11月、映画館の新宿座を改装した、実にモダンなレビュー劇場が誕生したのだ。建物の屋上には風車があった。
 吉行エイスケ(吉行淳之介の父)が、パリの「ムーラン・ルージュ」を真似て名づけられた。新風を巻き起こすダンスに演劇にと、インテリ層や学生らを一気に引きつけた。

 若者たちのアイドルとなった明日待子(まつこ)、望月美恵子(のち望月優子)、小柳ナナ子などがスター誕生となる。

 昭和20(1945)年5月の東京大空襲で、建物は焼け落ちる。終戦後、焼け跡から復活してくる。
 同22(1947)年2月4月に、新生「ムーラン・ルージュ」が復活する。座主は宮阪将嘉、三崎千恵子(のちの「男はつらいよ」のおばちゃん役)、由利徹、春日八郎、楠トシ子、満州の引き揚げ者の森繁久彌らがいた。
 しかし、昭和25年9月、「ムーラン・ルージュ」は幕を閉じた。この間に、多くの演劇人、舞台人が生まれた。


 写真提供 : 写真家・宮田均さん

                             【つづく】

「成人式」を血で汚させないためにも=私たちは何を考えるべきか

 約150年前、日本は平和国家になろうとしていた。大政奉還で、德川家から天皇に政権移譲がスムーズに行われた。
 東南アジアの例を見るまでもなく、平和な民衆政権が成立すると、とかく軍部がクーデターを起こす。武力で、政権を奪う。それは国民の期待を裏切り、不幸な道に進む。

 日本の場合は、それが鳥羽伏見の戦いである。最初に発砲したのが、薩摩藩隊兵で、長州藩兵、土佐藩兵、鳥取藩兵などを巻き込んだ。全国規模のクーデターに転じた。それが戊辰戦争である。
 ここらの経緯は拙著『二十歳の炎』で、くわしく書き込んでいる。


 戊辰戦争では、日本中の多くは20歳前後への若者が戦場に駆り出されていった。幕府軍も、新政府軍も、敵も味方も、主義主張のなどない若者だった。
「戦いに勝てば、苗字帯刀がもらえる」
 農兵たちはそこに命をかけた。
 戦場で、多くの血を流したのは、薩長の武士ではなく、殆どが若い農兵である。官軍が勝利した。

 長州藩兵は会津落城(開城)まで、後続部隊だった。長州人が血みどろになって落した城などない。薩長という言葉にのらないと説明がつかないのだ。


 明治新政府が京都から江戸城(東京)に移った。
 32万石で実質70余万石の石高に余裕ある長州藩は、「札びらで頬を叩き」という表現があるが、金の力で、政治の中心に座ったのである。つまり、鳥羽伏見の端を発したクーデターの最後の処で、金で要職を買い占めたのである。美味しいところの横取である。

 表現が悪いけれど、戦後の政治のなかで、田中角栄が札束でへ、大規模な政治集団をつくりあげた。「列島改造」で、日本を支配した。日中国交を開いた田中角栄のように、平和国家を作ってくれたならば、まだ救われる。

 長州閥の軍部は、徴兵制で従軍強制した民に対して、「天皇のために死せよ」、と皇国思想を折り曲げ、日清戦争、日露戦争へと武力侵攻をしていった。それは紛れもない歴史的な事実である。


 2015年1月13日は、国民の祝日「成人式の日」だ。
 「成人式の日」に、中国新聞に戊辰戦争に出むいた、「神機隊」の従軍記録が紹介された。私も同社の記者の取材に立ち会った。(写真参照)。
 20歳前後の若者が戊辰戦争で綴った、生死の戦場記録である。亡くなった若き兵士を悼む。


 皇国思想とはなにか。私たち国民が頂点に天皇を拝するものだ。それは純真なものだ。
 あえていえば、尊皇と外国排除の「攘夷」とはまったく別物である。国民が1000年以上、崇拝してきた天皇なのだ。天皇制と軍事力結びつけてはいけない。

 幕末の水戸藩の徳川斉昭が「尊皇攘夷」を打ち出し、日本に近づく外国船を撃ち払え、と言い出した。開国派の安倍正弘・老中首座は拒否し、開国への道を選択した。
「日本が国際社会と仲良くして、何が悪いのか」
 そう主張する阿部正弘が急死すると、斉昭の尊皇攘夷が一人歩きした。それが全国に広がった。長州藩は吉田松陰が水戸から持ち帰った。


『尊王攘夷』
 倒幕への求心力に利用したにとどまらなかった。明治政府を支配した薩長土肥は、純粋な天皇制と戦争思想を結びつけたのだ。徴兵制を作り、天皇のために、と太平洋戦争まで、数百万人の若者を血を流させることに利用した。

 玉砕、特攻隊、原爆投下など、し烈な太平洋戦争を最後に止めたのは(1945年)、結局のところ、薩長の流れをくむ軍部・軍人でなく、昭和天皇の英断だった。それは国民の血をこれ以上流さない、と民を想う心だ。


 TVを見るときには、「尊王攘夷が正義だ」という視点でみないことだ。それは軍事思想の原点だ。私たちが尊敬する天皇、無関係な戦争理念を結びつけた、悪質な軍事思想だという、冷静な目で見ることだ。
 こうした適正な歴史評価が、近い将来、小中学生、高校生が教科書で学べる日を期待したい。
 
「成人式の日」に、中国新聞が掲載した「神機隊が記す戊辰戦争」から、あえて若者たちと戦争と天皇制を考えてみた。
 
 

『新春・講師の集い』読売・日本テレビ文化センター=大手町

 新しい年を迎えると、いずこも新年会がはじまる。
 2015年1月4日、大手町サンケイプラザの4階ホールで、『新春・講師の集い』が行われた。主催は読売・日本テレビ文化センターである。

 同センターは創業35周年を迎えた。節目の年であり、新年会を兼ね合わせたものだ。講師の参加者は約200人で、立食パーティーだった。

 壇上では、30年講師歴の方々が紹介されていた。

 講座のジャンル別に円形テーブルがあり、それぞれが歓談した。私は「文芸・教養」だった。俳句、エッセイの講師で、小説の講師はまわりにいなかった。
 私はそれぞれの講師から指導テクニックなど聞きたかった。だが、逆に「小説の指導はたいへんですね」と質問をむけられることが多かった。


「まったくの素人で、小説と称する長い文章を読まされると大変です」
それにはいかに時間が取られるかと説明した。
 その上で、小説は文章講座と違う。『文学賞を目指す』と、あるていど小説を書いてきた、予選通過、一次、二次のレベルの技量の人を前提に募集しています。

 別の講師と名刺を交わすと、また小説の話になる。

 
「小説だけは下手な作品は読みたくないですね」。私はふだん長編小説を書いています。それをいったん中断し、受講生の長文を読むわけです。添削が終って、一区切りついて、自分の作品に戻ると、連続が切れていますから、それが一番苦労なんです、と答えた。


「わたし小学生時代、作文が上手だと誉められたんです。小説は書けますかね」
「無理ですよ。作文と小説は、日本語は同じでも、技法はまったく違います」
「でも、一作は良い作品が書けるというでしょ」
 文芸のコーナーだけに、こうした突っ込みが入る。
「プロ作家になるには毎日書きつづけて、10年、20年もかかるわけです。一作だけのために、それだけ時間はかけられますか」
 相手が講師だから、辛口に応えておいた。

 胸につるしたIDから、金町で、なにを教えているんですか、とまたしても類似的な質問を受ける。

「カルチャーに来て、月に一度作品を提出して、作家になれるつもりで来られると困るんです。小説講座では、先生が手を入れてくれる、そんな気持の受講生は欲しくないんです。僕の時間の浪費になりますから」
 そうはっきり言い切ると、相手の講師も体験的にわかるのか、納得顔だった。

「推敲に推敲して、提出し、講師に完成度の高い作品を評価してもらう。その意気込みなくして、作家になれません。それでも、何千人、何万人に一人の高い競争ですから」


 (会費をはらって新年会に出て)、私自身の話など、まったく面白くないし、つまらない。知識吸収の意味合いから、手芸講座のテーブルに逃げた。
 そこでも、小説の話題となってしまった。
 

笑いの芸人は真面目な演技で、腹の底から嗤(わら)わせる=浅草

 
 浅草・木馬亭で、舞台も、会場も、笑いであふれた「演芸音楽会」が行われた。

 写真で、どこまで表現できるだろか。

 ともかく、にぎやかな演劇人の舞台だった。

 


 巫女さんがロックンロールを詠う。

 和洋折衷で、歌に魅了されるよりも、おもわず笑ってしまう。



 田中悠美子は、海外公演が多い。

 三味線と撥(ばち)と、変幻の角度で奏でる。

 実に器用だ。

 ときには撥の代わりに、得体のしれない物体を使っていた。

 私が大好きな演劇人の「山口とも」だ。廃品を利用した音楽家で、喋りがとても上手だ。

 意味不明のことばで、笑わせる。


 空き缶を利用した、宇宙人姿で、客席から登場した。

 舞台に上がる。袖の幅までも、計算に入れていなかった、と笑わせていた。


 打楽器となる素材は、たらいとか、仏壇の鉦とか、廃品の塩ビのパイプとか、諸々である。

 話術の巧みさで、爆笑の連続だ。

 会場の観客を巧く取り込む。


 主催者の福岡詩二さん。

 2014年12月29日「年忘れ演芸音楽会」の招待を受けた。

 風邪を引いて大変だったらしい。


 プロの演芸人は穴があけられない。

 破壊バイオリンで、演歌を奏でる。

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恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(下)=埼玉・幸手市

 松田家の恒例の餅つきには入れ替わり、知人や地域の人がやってくる。

「住いの春日部では、餅つきの風景はもうなくなりました。店頭で売っている餅より、比べようもなく美味しいです」と女性陣は語る。搗きたての餅を賞味してから、それぞれわが家に持ち帰る。


 小林克介さん(埼玉県退職事務職員会・会長)は、大御所のように椅子に坐っていた。「松田さんとは30年来の付き合いです。楽しく賑やかな光景が良いね。時期が来れば、待ち焦がれている人がいる」と雰囲気を楽しんでいた。

 松田さんの奥さん(65)は、山口県・萩高校の出身者だ。藩校・明倫館の流れをくむ学校だから、多くの幕末志士たちが先輩になる。来年のNHK大河ドラマ『花燃えゆ』の吉田松陰の妹の放送を期待している。
「松陰先生の本は過去からたくさん読んでいます。TVではどういう形で表現されるか、萩のどんな場所が出てくるか、それが楽しみです」と語る。きっとお餅を食べながら、テレビ観賞だろう。

 故郷の萩の餅を語ってもらった。

「丸い餅で、アンコロ餅が中心です。(1個ずつなかに餡(あん)をつつみこむ)。こちらの農家に嫁(き)て、四角い餅を知っておどろいたものです。いまでは四角い餅の方が、メリットが多くて好き。ビニールで密閉状態だから、無駄がなく、2月上旬まで食べられます。田舎の丸餅はむき出しで、すぐカビが生えます。だから、水餅にする。それは嫌いでした」
 と思い出と兼ね合わせて語ってくれた。
 
 松田光男さんは振る舞い酒で、「どんどん食べて」と勧める。年末の餅つきは親の代からつづいてきた恒例行事だ。次世代まで、この伝統は残してほしい。そう言うのは簡単だが、もち米や薪や副資材などの手配、前日の仕込み、目に見えない準備の大変さがある。

「皆は農家が好き、本ものが好きなんです」と松田家の次女夫婦は、父親同様に語る。きっと受け継がれるだろう。世代が変わっても、黄な粉、アンコ、胡麻(ごま)の3種類の搗(つ)きたての食べながら、微笑む顔がこの庭で見られるはずだ。              
                                          【おわり】

恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(中)=埼玉・幸手市

 餅つきは日本の年末恒例の行事だ。
 鈴木俊男さん(71)はNPO法人「彩の国みやしろ」(埼玉・宮代町)の市民農業大学で、17種類の野菜づくりを学んだ。

 松田光男さんとは3期生の同期の縁から、去年につづき2度目の参加だ。

「搗(つ)きあがった餅は、のし棒で平に伸ばします。単純そうですが、力の入れ方が難しい。1年経つとコツはすっかり忘れています。四隅の角出しが最もむずかしい。やっと慣れたころには、自分の作業は終わりです」と話す。

 飴色の餅はめずらしい。松田八重子さんにはその特徴を説明してもらった。
「玄米の餅です。栄養価が高いけれど、蒸すのには2倍の時間かかります。水に浸すのも2倍」と手間ひまを語る。

 松田裕之さん(32)は八重子さんの夫で、14年前に婿養子で入った。春日部市の老人ホームに勤務している。餅つきの失敗談を聞いてみた。

「最初ころ、できあがった餅の厚さが違い、平べったくならないんです。実家のお袋に、何で、形が違うの? と聞かれました」と笑いながらも、年々やっているうちに巧くなったと話す。

 藤原マリオさん(28)は、裕之さんとおなじ職場の後輩である。父は日本人、母はブラジル人のハーフで、15歳で来日した。

「ブラジルでは、餅つきはありません。日本の文化として、祖父(日本人)から聞いて知っていました」
 初めて参加したマリオさんには、体験した感想を聞いてみた。

「思ったよりも、コツがいります。餅を伸す作業手順を聞いていたのに、ビニールの角にピンフォールをつくり、空気を抜くのを忘れていましたから、上手くできなかった。くやしいな」と話す。きっと負けず嫌いな性格だろう。


イベントとして身体を温める「モツ煮込み」が用意されている。
 高校生の篠原慧人(けいと・16)さんは、「野菜と肉が軟かくておいしいです」と2杯目をお変わりしている。「幼稚園の頃から、家族で春先の田植えと年末の餅つきに来ています」と話す。

 父親の篠原祐治さん(46)は食品会社に勤務する。
「家族で戸外に出かけて何かを する。親子して田んぼに入り土地にふれる。餅つきをする。良い機会ですから」と親子の触れ合いを強調する。「ただ、長女が高校生ともなると、父親と一緒に来なくなりました」と苦笑していた。

 それでも、父と息子がともに肩を並べてモツの煮込みを食べる姿は、とても微笑ましい光景だ。

【つづく】

恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(上)=埼玉・幸手市

 日本の正月には、伝統食材の餅(もち)は欠かせない。北日本は四角い餅、西日本は丸い餅である。この伝統も変わらない。ただ、家族ぐるみ地域ぐるみの餅つきは年々、影を潜めている。いまや、老若を問わずスーパーや商店で買う商品だ、と決め込んでいる節がある。

 埼玉県・幸手市の農家の松田光男さん(66)は、「完全無農薬」の米づくりで、国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)において埼玉県でも1、2を争う。

 年の瀬になると、親の代から自宅の庭で餅つきを行っている。もう半世紀以上もつづく。ことし(2014)は12月28日(日)に行われた。2種類の餅を搗(つ)いている。


 松田さんは餅の材料にもこだわる。白い餅は、山形県東根市のもち米を取り寄せている。飴色に仕上がる餅は、白岡町の無理農薬の玄米をつかう。
 松田さんは材料費を貰うていど。近在の人たちが30人余りやってくる。常連だから、家族ぐるみで仲良く手伝ってくれる。


「春先は田植え、年末は餅つき。皆さんは楽しみにしてくれています。農家が好き、本物が好きなんですね」と松田さんはにこやかに語る。


 次女の松田八重子さん(33)から、餅つきの手順を聞いてみた。

「朝5時から、薪(まき)火を入れます。蒸籠(せいろう)で蒸すには、約1時間半はかかります」とうす暗い寒空の下の作業を語る。


 元会社員の須藤泰規さん(73)は釜戸の前で、「火を絶やさない。火が切れると、遅くなりますからね」と、切り揃えた薪を補充する。薪の燃える煙と匂いが庭いっぱいに拡がる。


 朝6時半ころ、蒸したもち米は蒸籠からステンレスのボールに移す。この季節はやっと日の出の時間になる。

 2キロずつ計量し、餅つき機に入れる。搗く時間は平均して3分。最初の出来上がりは7時頃になるという。


                                       【つづく】

クリスマス・イブの神社仏閣は閑散なり=広島・宮島

 中國新聞の文化部の記者と、12/24の午後から取材に同行することになった。広島入りしてから、前泊は宮島に宿泊した。

 幼い頃から宮島はなんどもきたが、宿泊は初めてだった。夜の散策に出かけてみた。

 ライトアップされた鳥居ははじめて観る。
 


 厳島神社が満潮の海面に浮かぶ。だれもが幻想的だと思う。

 私が育った瀬戸内の島にも、厳島神社がある。「十七夜祭」で、宮島の「管弦祭」と同一日だ。祭りの夜の華やかさを知っているので、この程度か、という想いだった。

 むしろ、久しぶりに見る夜空の星のきらめきの方が感動した。

 


 世界遺産となった宮島は、世界中からハイ・スクールの生徒が集まり、若者で大混雑している。そんな気持で朝の海岸を歩いた。おどろくほど閑散としていた。

 そうか。きょうは12月24日はクリスマスイブだ。行くなら教会だろう。

 社寺仏閣には用がない。


 神社仏閣の社務所はいつもならば拝観料を求める人で、長い行列ができる。

 窓口の人は「1人でも十分だ」という顔で、3人が退屈そうにしていた。



 世界遺産の宮島は、海外で、評判が良い。ふだんは観光客の頭越しにシャッターを押す。

 こんな人のいない空間の厳島神社は初めてだ。
 

 
 「写真エッセイ教室」では、受講生につねに人を入れなさいと指導している。

 殆ど人がいない場合は、しかたないな、と改めて思う。



 額縁の撮影方法で、能舞台を撮った。

 日本人かと思いきや、確認すると、アジア系のカップルだった。

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私たちは3.11を忘れない 「いまの陸前高田を語る」= 大和田幸男

 大和田幸男さんは、かつて陸前高田市米崎で製材所を経営されていた。3.11大震災で「鉛筆一本持ちだせなかった」と語る。避難所生活で、企業再建資金はなかった。しかし、知識と技術を生かした大和田さんは、材木販売業で立ち上がった。

小説3.11『海は憎まず』で、大和田さんには多大な協力を得た。同書が出たあと、読者からその後の推移や現況などを聞かれることがある。

 自然災害の住宅復興と材木業は深くかかわりあう。大和田さんには住民の姿がリアルに見える立場から、陸前高田の現況を伝えてもらった。

  

 いまの陸前高田を語る  大和田幸男さん  


 岩手の湘南・陸残高田は、12月も半ばになると、霙(みぞれ)で氷点下3度まで下がってくる。
 寒さながら、被災地はさぞかし「住宅建設ラッシュ」と思われているかもしれない。だが、ひと頃の盛況ぶりではなくなった。

 資金に余裕のある人たちは、今年(2014)、昨年、一昨年と、独自に自分で土地を購入し、 再建してきた。
 しかし、高台移転への希望組は、未だ造成が終わらず、大半は早くて来年(2015)秋からの住宅着工である。(一部の地区は着工済)。

 資金のある人たちが建てた家は、やはりハイクラスな家が目立つ。ここにきてコンパクト(25〜35坪)な家の注文が増えてきた。

 そのことを東京の工務店経営の友人に話すと、「東京じゃ、そのコンパクト・ハウスに、みんな住んでいるのだぞ」と怒られてしまった。

 材木販売業の商売柄、設計図面をいただくと、失礼ながら廉価版が多くなってきた。3.11大震災の直後は、再建住宅単価が当時相場で坪当り50万円の予算を描いていた。
 ここにきて、生コンの高騰、消費税のUP、人手不足による人件費の高騰で、夢をコンパクトにせざるを得なくなったのが実情である。


「現在、小規模な住宅は田舎でも坪70〜80万したりします」
それでも県や市の住宅着工補助金各種を合計すると、1000万円前後になってくる。公営住宅を借りて、月2万5000円を支払ったとしても、年間は30万円。30年間、それを払い続けると、900万円を支出しても、その部屋は自分の物にはならない。

「どちらにするか、その判断は家庭により様々です。もともと人生のスケジュールには、「自宅新築」のキーワードなんか無かった方々が多いので、どのくらい思案したか、同類項の私には気持ちがよくわかります」

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陸前高田における昭和の厳しい食事情を語る=大和田幸男さん

 3.11大災害で、食が欠乏した、あるいは食に飢えたともいえる体験をしました。
 これは私たちだけでなく、陸前高田の昭和史を紐解いてみると、昭和初期からチリ地震津波(昭和33年)被害が落ち着くまで、慢性的に貧困だった、厳しい食生活だったのです。

 【撮影:大和田秀雄さん(作者の父) チリ地震津波が襲来した当日の午後】


・ 昭和8年から昭和10年にかけて「日本史上の最後の飢饉」が発生しました。

 それは「昭和東北大飢饉」です。日照りや干ばつではなく、日照不足と聞いています…。昭和8年の三陸大津波と重なり合っています。まさに飢餓の生活に陥ったのです。

 私がこの飢饉の事実を知ったのは、恥ずかしながら、3.11大震災の数年前です。 それも、奇異なことからです。

 広田町、小友町、米崎町を結ぶ「アップルロード」が、大津波の前年、2010年春に開通しました。この道路を建設中(土地買収中)に 、「無限会社○○の再開と解散について」

 そんな内容の怪文書まがいのチラシが、我が家のポストに入っていました。最寄りの公民館にお集まり下さい、と記載されていました。訳が分からず、会合に出席すると、次のような内容でした。

『昭和8年、高田は飢饉であった』
『そのうえ津波もあり、村人には食糧や物資を購入する金もなかった。村の有力者が、自分の資産を担保にして、村民の借入資金に充てた』
『その担保の共有地(無限会社)が、「アップルロード」の建設予定地に存在している。地権者の同意なく、勝手に使用して道路建設は出来ない。しかし、権利者の皆は他界している』
『法律上、この会の子孫(20名位だったと思う)が集まり、無限会社をふたたび甦らせる。そして、土地を市に譲渡したうえで、あらためて解散する』
 そんなニュアンスでした。


 参加した古老を含め、だれもが初めて聞く団体(無限会社)でした。飢饉に遭った村民は、生死を左右する必要にせまられたから、できた重要な団体だったことが推測されます。


 昭和4年・ウォール街からの世界恐慌で、昭和5年・日本の昭和恐慌に及びました。
 東北では、昭和6年の冷害で農村は疲弊した。昭和8年の大地震および津波で漁村も疲弊した。昭和9年にはまた凶作だった。


昭和初期の陸前高田の住民は、空腹との戦いだったはずです。昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子児童が書いた作文を紹介します。

『お弁当のとき先生は、私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。
 お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。 でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二、三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、 お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。』


 ひどい時期、岩手では松の木の皮まで食していたらしいです。その後、太平洋戦争が勃発したわけですが、私のオヤジはちょうど仙台の薬科大学の学生でした。

 オヤジ(秀雄さん)から、よく聞かされました。
 皆で学生時代に歌ったのは『都の西北』から始まる
『早稲田〜♪ワセダ〜♪ワセダ・ワセダ・ワセダ〜』の校歌をもじった
『やせた〜♪かれた〜やせた〜かれた〜日干しだ〜』だった、と。
 あげくのはてには、仲間の学生が酒がわりに薬科大学のアルコールを盗んで呑んだが、それはメチルアルコールで失明してしまった。

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