わが青春のムーラン・ルージュ(上)=戦前と戦後を生きた若者たち
昭和はやや遠くになってきた。戦争がその昭和を二分していた。文化も、生活も、生き方すらも違う。ただ、戦前と戦中の暗い世相でも、若者たちのエネルギーを発散させるモダニズムがあった。そのうえ、廃墟から立ち直った終戦後には演劇人が育つ土壌が生まれた。
ここをみごとに再現・演じたのが、「新宿くまもと物語」シーリーズの「わが青春のムーラン・ルージュ」である。
東京公演が2月24日(土)に、東京・新宿区の四谷区民ホールで、熊本公演は、昨年(2014)11月18日に開催された。
新宿と熊本の関連とはなにか。夏目漱石、小泉八雲がともに熊本・五高で教鞭をとっていた。ふたりのさらなる共通点は新宿である。漱石においては新宿が生誕・終焉の地であり、八雲は終焉の地だった。
ふたりの文豪を題材にした創作舞台「新宿くまもと物語」が製作され、双方の地で演じられている。ことしは3回目である。
第1回は平川祐弘・東大名誉教授の脚本『青柳』である。八雲の「怪談」が題材になっている。
第2回(昨年度)は、直木賞作家・出久根達郎の初脚本『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』で、熊本の古本屋が舞台だった。
第3回(今年度)は、新宿の学生たちを背景にした歌と踊り、そして演劇の「わが青春のムーラン・ルージュ」である。
作家仲間の親しい出久根達郎さんから、同劇のお誘いとお招きを受けた。私が指導する小説講座の受講生ともども四谷区民ホールで観劇させてもらった。
『ムーラン・ルージュ』は何となく聞き覚えがある。映画の題名かな、ミュージカルかな、昔の歌かなと思う。その程度のばくぜんとした知識で観るのが、この舞台は最も良い、それが私の感想である。
昭和6(1931)年11月、映画館の新宿座を改装した、実にモダンなレビュー劇場が誕生したのだ。建物の屋上には風車があった。
吉行エイスケ(吉行淳之介の父)が、パリの「ムーラン・ルージュ」を真似て名づけられた。新風を巻き起こすダンスに演劇にと、インテリ層や学生らを一気に引きつけた。
若者たちのアイドルとなった明日待子(まつこ)、望月美恵子(のち望月優子)、小柳ナナ子などがスター誕生となる。
昭和20(1945)年5月の東京大空襲で、建物は焼け落ちる。終戦後、焼け跡から復活してくる。
同22(1947)年2月4月に、新生「ムーラン・ルージュ」が復活する。座主は宮阪将嘉、三崎千恵子(のちの「男はつらいよ」のおばちゃん役)、由利徹、春日八郎、楠トシ子、満州の引き揚げ者の森繁久彌らがいた。
しかし、昭和25年9月、「ムーラン・ルージュ」は幕を閉じた。この間に、多くの演劇人、舞台人が生まれた。
写真提供 : 写真家・宮田均さん
【つづく】