わが青春のムーラン・ルージュ(下)=戦前と戦後を生きた若者たち
こんかいの公演『ムーラン・ルージュ』のモデルは実在人物ばかりで、主人公は中村公彦(きみひこ)である。申し訳ないが、私は知らなかった。それが良かったのかも知れないと思える。先入観なしに、演劇からのみ、何かを知ろう、得よう、としたからである。
中村は子供の頃から絵が好きだった。だが、親は芸術の道に進ませなかった。濟々黌(せいせいこう・現熊本県立高校)、早稲田大学商科へと進む。早大に入っても、美術願望ばかりだった。世の常で、卒業後は三菱重工業本社に入り、勤務する。
軍事工場だから、中村が戦地に行ったのか、内地に残ったのか、見落としてしまった。ただ、戦争末期、結核療養のために熊本に帰省させた妻と幼子を亡くす。ここにも人生の転機があったようだ。
戦後はサラリーマン(半官半民会社?)の傍ら、「ムーラン・ルージュ」でアルバイトの舞台美術の絵描きになった。
その後、舞台美術として中村は名を馳せた。舞台に登場してくる森重久彌(浜畑賢吉)の説明によれば、「ムーラン・ルージュ」が消えた後には、映画の世界に入り、大活躍をした人物だという。
木下恵介監督「日本の悲劇」「女の園」「二十四の瞳」、川島雄三監督『幕末太陽伝』、井上梅次監督「嵐を呼ぶ男」「明日は明日の風が吹く」、今村昌平監督「豚と軍艦」「にあんちゃん」、裏山桐郎「キューポラのある街」など、戦後映画の数々の名作の美術を担当してきた。
そして、後世にその名を残す舞台美術家、映画美術監督となったと、森繁が語りつづけた。
中村公彦のあだ名は「男爵」だった。かれの風貌がジャガイモに似ていたのか、あるいは戦前まで存在した男爵家の息子か。そこらがわからなくても、むしろ、経歴を知らないほうがミュージカルの踊りと、愛の演劇と、懐かしい歌と、観劇としてはスピード感もあり楽しめた。
「ぜいたくは敵だ」という軍国社会のなかで、「ぜいたくは素敵だ」とダンスに興じる若者達とか、絵描き・童話作家になれずして、文系の学生は卒業を待たずして「祖国のためと銃を持たされ」戦地に送られるとか。最後の早慶戦の野球が神宮球場で行われて「海ゆかば」が合唱されるとか。当時の世相が次々に展開される。
終戦後の焼け野原で、「ゴム紐売り」が現れる。豊かな現代ではあり得ない露天商だ。こうした昭和の大きな分岐点の社会が、歌や踊りとともに、ごく自然に理解できる演劇だった。
暗い世相、焼け野原のなかでも、出演者たちが明るく踊る、歌う。あるいは涙する。この舞台には「生きるとは何か」と問いかけるテーマがあった。演者たちは、昭和史の中で生きた若者たちは、みな懸命に生きようと努力している姿をしっかり見せてくれた。
だからこそ、出入り口で見送る演劇人たちの顔が、とてもすてきにみえた。
【関連情報】
主催 新宿くまもと物語「わが青春のムーラン・ルージュ」制作上演委員会
委員長 副島隆
〒862-0959熊本市中央区白山1-6-31
(株)お菓子の香梅内
TEL. 096-366-5151 FAX. 096-372-1857
熊本アイルランド協会
http://www.kumamoto-ireland.org
E-mail office@kumamoto-ireland.org
主催者から一言いただきました。
「笑いあり踊りあり歌あり楽しい舞台になっています」
【了】