ジャーナリスト

心優しく、絵心で、明日をめざす=柏木照美さん

 2013年の梅雨明けが予想よりも早く、連日の猛暑だった。
 7月8日には、東京銀座1丁目のBartok Gallary(バートック・ギャラリー)で開催された、『紙芝居塾7期終了展』に出向いた。午後2時ころだった。地下鉄から会場まで、直射日光の暑さで、胸や背中に汗が流れ出るのがわかるほどだった。
「こんな猛暑の昼間ですから、お客さんはいらっしていません」
 案内状をもらった柏木照美さんが出迎えてくれた。梅雨入りしたばかりの猛暑日は、たしかに出かける人は少ないだろうし、ギャラリーが独り占めできた。


 出品者は10人の展示会で、手作りの創作紙芝居だった。柏木さんの作品は、『おいしい紅茶の入れ方』で8枚の絵だった。
 彼女に頼めば、仲間内のどの紙芝居でも披露してくれる。

『ほこらの龍』(ひぐちりかこ作)を頼んでみた。池に住む龍と村人と、あつれきと交流を描いた、心温かい内容の作品だった。柏木さんの口調はやさしく、擬人法の龍に感情移入できた。
(童心にもどれたのは何十年ぶりだろう)
 たまには童心に帰って、素直に楽しむのは良いものだ。

「私はナイーブなアートを目指しています」
 淡い色合いの作品に特徴がある。それだけに、彼女は「上野現代童画展」にも何度も入選している。

 紙芝居を始めた動機について訊いてみた。「会場は紙芝居と絵画の展示も行っています。私が最初に出品したのは 宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を模した絵でした。それをみたギャラリーの女性オーナのジェイン・トビイシさんが、紙芝居を勧めてくれたのです」
 それから毎年出品しているという。物語の創作(ストーリー)、それに紙芝居の絵と、双方に才能が発揮できるので、彼女には向いていたようだ。

 8月には16人による『ありがとうがいっぱいサニー10歳記念展』(江東区・ギャラリーコピス)にも、作品を出品する。作品の売上の一部は東日本大震災チャリティーとして寄付される。

 柏木さんには、絵画とは別の顔がある。13年3月、「日本紅茶協会認定ティーインストラクター」のジュニア資格を習得した。1年間はしっかり勉強して習得したという。次回はおいしい紅茶を入れてもらい、紙芝居を楽しみたいものだ。

大阪も水没するのか。南海トラフで、JR大阪駅には津波が最大5m

「あすは、わが身」
 それが災害列島に住む人間の心構えである。
 大阪の市民は、大地震が来たら、津波を警戒して、地下鉄から逃げた方がいい。私たちは東北と関係ないと思ったら、危ない。


 「南海トラフ巨大地震」で3・11なみの地震規模のマグニチュード9・1が発生すれば、約2時間後には大阪湾が大津波に襲われる、と大阪府は公式に発表した。さきの中間想定の見直しを図ったものだ。

 津波が到達した後、JR大阪駅(北区)など市西部一帯は深さ最大5メートルで水没するという。

 大阪中心部は地下鉄網が発達している。地上が水没すれば、当然ながら、地下に浸水する。津波に襲われたら、地下からは強力な海水の水圧で逃げ切れない。地下街も、地下鉄も水没する。ここまで具体的に発表していないが、簡単に想像がつく。


 一部報道によれば、松井一郎知事は8日の記者会見で、「厳しい想定だが、被害が起きてから『想定外だった』と言い訳することはあってはならない。堤防崩壊を防ぐ強化工事などに力を注ぎたい」と述べている。内心は、地下街、地下鉄の水没など、脳裏に浮かべた発言だろう。

 行政は地下鉄浸水など最大のリスクを明瞭に言わない。これはある種の危機管理の欠如である。

 危険と危機との違いを知ろう。

 危険とは、まったく想定をしておらず、突然、危ない目に遭うことである。
 危機とは、システムの欠陥から、危ない目に遭うことである。行政が明瞭に予測しない地下浸水はシステムの欠陥である。


 穂高健一著『海は憎まず』でも、東北地方で行政が定めた「広域避難所」が低地すぎて、大勢の人が死んでいる、と被災地の事例を取り上げている。行政の方々も多く亡くなっているから、一概に批判もできない。だが、この経験は生かさなければならない。
 同書では、大都会が津波に襲われた場合の、地下鉄の危険性なども取り上げている。

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高校生の教科書から「漢字」を学ぶ=書宗院展

 第57回「書宗院展」が東京銀座画廊美術館の7階で開催された。最終日の7月28日に展示会に出かけた。書家・吉田翠洋(本名・吉田年男)さんの作品が出展されていた。

 書宗院展は古典の書を手本にした、書道である。歴史に名を成す大家に、より近づこうとするものだ。展示品は、たとえ模したにしても、古代から現代まで、名家の書を見られるのが特徴だ。今年は高校生の部の出品があり、制服姿の男女生徒らも会場で作品を観ていた。

 「書聖なる王義之らの生きた時代に思いを巡らし、その息子・『王献之尺牘』の書を出展しました」と吉田さんは語る。


 吉田さんから会場で、興味深い話を聞くことができた。

「楷書があって崩し文字が生れた、と多くの人が信じていますが、それは逆なんです。紀元前1300年ころの甲骨文(こうこつぶん)から、文字は始まっているのです」
 甲骨文を含めた篆書(てんしょ)、そして草書(そうしょ)、行書(ぎょうしょ)、楷書(かいしょ)の五書体が順次生れた、と話す。

 それが2013年度の高校教科書(書道)に出ているという。その実、吉田さんは教え子が書道教室にその教科書を持ち込んでいたので、それを見て知ったと話す。

 吉田さんは一つひとつ解説し、丁寧に教えてくれた。

「篆書」ということば自体はふだん聞きなれない。中国で生まれた最も古い書体で、甲骨文、金文(きんぶん)、小篆(しょうてん)を含めているという。秦の始皇帝時代に確立している。

 左右相称で曲線が多い。ただ、書写には時間がかかる そこで簡素化して前漢時代に隷書(れいしょ)が出現した。躍動感があふれる、動的な美しさだという。

 次に生まれたのが、日常の手紙などの早や書き用として、「草書」である。それは前漢の時代だった。「行書」は後漢に表れはじめた。双方とも、実用的に文字として発達してきたのだ。

「楷書」の兆候は早くにあったが、長い歳月をかけ、合理的な文字として、唐の時代に完成した。それが現代まで続いている。その後には新しい書体が生まれていない。
「明の時代、新の時代にはりっぱな書家はいるが、現在と同じです」と吉田さんは教えてくれた。

 こうした一連の記載が高校教科書(書道)に載っている。教科書からも、学ぶものも多いな、という思いを持った。

原発安全神話のメッキは3・11前から剥がれていた②=浪江町

 郷土史家(男性・70歳前半)は、4日間も妻と娘とともに過ごし、1時間当たり55マイクロシーベルト)の高濃度の放射能に晒(さら)し続けてきたのだ。
「いま思い起こせば、3・11の事故前から、東電が強調してきた『原発安全神話』のメッキが微妙に剥がれかけていました」と史家は話す。
 史家は町の行政一筋の人物だけに、それらをリアルに語ってくれた。
 


 スリーマイル島の原発事故、チェルノブイリ原発事故が発生した。浪江町の住民は疑問を持ちはじめ、「東電の安全神話はどうなのかね」と口々に話題に出すようになった。東電と住民(町役場)との対話の場では、そんな内容の質問も出た。

『チェノブイリも、スリーマイル島も、事故を起こしたのは加圧式原子炉です。私たちの福島第一原発は沸騰水型軽水炉です。原子炉の本体は30~40センチの厚い鋼鉄製です。それを1メートルのコンクリートが取り囲み、さらに原子炉の建屋自体もコンクリートが1メートルの厚みがあります。加圧式は危ないが、大熊(原発の地名)は形式が違うし、大丈夫です』
 沸騰型は安全だと強調する。万が一のことがあっても、放射能が外部に流れ出すことは一切ない。
「原発の煙突から、放射能は出ないのか」
 史家がそう質問した。
『煙突と言わないでください。あれは排気塔です』

 原発稼働から歳月が経つと、東電は廃炉の期間(耐用年数)を先延ばしにしてきた。完全無比の安全神話の姿勢が少しずつ変わってきた。
『微量の核物質は排気塔から出ますが、微粒子の核物質です。空気中に拡散し、希釈しており、人体には影響はありません』
 東電は微小の放射能流出の発言に変わったのだ。

 しかし、東電の力(支配力)は強い。住民には雇用、税、補助金の面でメリットを受けている。東電の支配力は強烈で、微粒子ていどで、原発の廃炉を叫ぶ者はいなかった。そういう空気でもなかった。

 むしろ、浪江町の町役場は、微粒子問題が内在していても、東電が強調する安全神話を信じ、住宅開発を推し進めた。「原発は安全です」と町自体がPRを行っていた。
 浪江町は他の地区に比べても、公共設備(上下水道、病院など)や、生活環境が優れている。税の優遇もあるし、住み心地の良い町だ、と宅地開発は完成に向けて突っ走っていた。町の景気は上昇中だった。その矢先に、原発大事故が起きたのだ。

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かつしか区民記者・養成講座②=インタビューの実践ポイント

 かつしか区民大学の区民記者養成講座で、「書く」、「撮る」、「取材」の仕方を座学と実践で教えている。
 大手新聞は狭い地域の記事となると、内容が限られてくる。しかし、市民記者による、市民の媒体ならば、記事に厚みが出る。しっかり読んでもらえる。
 それだけに市民記者の取材力、インタビュー力は重要である。

 区民記者の養成講座では、課外活動として、インタビューの実践活動を行った。

 記者経験のない市民が、突如として手帳やカメラを持って、見も知らずの人に声をかけて呼び止める。あるいは著名な人に話を聞くのは「勇気」がいる。話しかけられなければ、なにも進まない。
 インタビュアの最大の資質は、「勇気」だといえる。これを前提にした上で、基礎的な知識を会得し、技術的なインタビューの実践を行った。

インタビューのポイント


① 最初に自己紹介をする。ノートとカメラはあえて見えるようにすると、信用度が高まる。

「私は葛飾区民大学(記者養成講座)の受講生です。きょうのイベントを取材しています。お話を少し訊かせていただけますか」


② 取材の冒頭から拒否された場合は、

 不快感を示さない。「ありがとうございます」と礼節をみせる。


③「どこで発表するんですか」という質問に対して、

  「区民大学の教材です。まだ勉強中ですから」と即答する。

 ・ メモを取りながら、話を聞く。

 ・ 常に聞き手だという態度を貫く。


③ 記者が知っている内容でも、初めて聞いた態度で接する。記者は自分の知識を話したり、関連内容や私事を語ったりしない。


④ 論争はゼッタイにしない。相手の話の腰を折らない。

⑤『質問』は相手が応えやすい、数字で応える質問から入る

 ・このイベントに来たのは何回目ですか

 ・どこで、このイベントを知りましたか

 ・いまご覧なった範囲内で、一番関心を持たれたものは何ですか。


⑥「はい、いいえ」の答えになる質問は、後が続かなくなる。


⑦ 取材する相手のプライベート情報は、極力後ろ倒しにする

 ・どちらからお越しになったのですか

 ・差支えなければ、お名前を聞かせていただけますか。

 ・ご年齢は、何歳でしょうか
 

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第9回「さつき会」の舞踊発表が大盛況=日本舞踊

 6月29日、品川区大井町の「きゅうりあん小ホール」で、元宝塚歌劇団の人気男優・尾上五月さんが主催する、第9回「さつき会」が開催された。五月さんが指導する生徒さんたちの発表会だ。出演者のだれもが、真剣そのもので、華やかで見応えがある踊りを披露していた。

 遡ること11年前に、同門・尾上流の尾上菊礼さんと五月さんが一緒に始めた「ゆたか会」がスタートだった。3回続いた。
 その後、あらためて「さつき会」が独立発足し、毎年、9年にわたり連続で開催されてきた。

 第1部は、長唄『宝船』からはじまり、14番目はこれも長唄『胡蝶』の西川松祐矢・尾上はるである。15分休憩の後、第2部となり、長唄『老松』川辺順子から、14番目の清元「玉屋」尾上五月まで。合計28の演目が行われた。
 開演は12時で、閉幕は17時過ぎで、5時間に及ぶ。長唄、清元、端唄、常磐津、大和楽、萩江と多種多彩だ。衣裳も素晴らしい。

 実に、5時間タップリ日本舞踊を堪能できた。
「これで無料でいいのかな」
 そんな想いだった。

 閉幕すると、朝日カルチャーセンターの石井勉社長の顔が目に入った。私が会場2階で、カメラをたたんでいると、石井さんが側に来てくれた。ふたりはある意味で飲み仲間だ。「いっぱい飲んでいきましょう」と一言でまとまる。

 五月さんと、私が唯一顔見知りの天沼佐知恵さん(写真・左)と、石井社長(写真・右)の記念写真を撮ってから、大井町の赤ちょうちんで安酒を飲んだ。
 7/17(水)14時から、朝日カルチャー千葉主催で『下町立石を歩く、撮る、語る』がある。スタートは京成立石で、2時間の散策、1時間の講演を、大衆酒場で予定している。

 石井さんも、轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)も参加する。どんな話になるやら。それも大井町の安酒場の酒の肴になった。
 

 28演目は近日中にこのHPで、写真で紹介していきます。愉しめる、ビジュアルな日本舞踊を表現してみます。期待してください。

かつしか区民大学・区民記者の養成講座①=「インタビューの仕方」実践

 情報時代とは何か。発信側と受け手との境目がなくなり、大小メディアと市民とがおなじ土俵に乗り、だれもが豊富な情報を共有化できる文化になったことだ。

 市民側が発信する媒体としてブログ、冊子、SNS、フェイスブック、ツィターなど多種多様である。これらが一堂に会するので、ネット検索で、あらゆる情報が瞬時に入手できる。
 つまり、情報化時代とは大手マスコミの独壇場の崩壊ともいえる。

 情報化時代がこの先も、いっそう進化するほどに、市民側からの発信比率が高まってくる。ただ、発信する市民側に、「記事を書く、読ませる」の基礎知識や訓練がなされていないと、独りよがりになってしまう。

 受け手側にも選択の自由が広がる。いくら書いても、写真で見せても、取材力がなく、内容が薄く、独りよがりで裏付けがなく、嘘が混ざっていたりすれば、受け手から無視されつづけてしまう。

「他人(ひと)には、より正確な情報を伝える」
 それは簡単そうでむずかしい。
 市民といえども、記事を書く上で、ジャーナリズムの技術の会得は必然である。

 かつしか区民大学では、区民が区内の情報を発信する時代がくる、その先取りで、5年前から連続して「区民記者養成講座」を開催してきた。市民記者としての基礎知識を学ぶものだ。
 講座は8か月のワンクルーで、2時間の講座が6回、1日の課外講座(7時間)が2回で、合計8回の受講となる。

 記事の書き方、報道写真の撮り方、インタビューの仕方、この3つを柱としている。

 記事の書き方は座学でもできる。インタビューは模擬演習でなく、町(現場)に出て実際に体験しないと身につかない。さらに場数を踏むことで、身に付き、上達していくものである。

 2013年度の課外活動の第1回目は、6月16日(日)、「テクノプラザかつしか」で開催された『かつしか環境・緑化フェアー』(主催は葛飾区環境課)で行った。受講生12人中10人が参加し、同大学を運営する葛飾教育委員会の担当者が3人同行した。

 集合場所の青戸地区センターで、まず30分間の基本的な知識の再確認を行った。

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『白根大凧合戦』は激闘だ。白根は燃える(下)=写真で観戦

 合戦をまえにした、24畳の大凧が時間差で、じゅんぐり西岸にやってくる。その凧は土手の道いっぱいだけに、巨大さがわかる。


 駆ける。走る。女性も真剣だ。

 巨大な凧は太い25mmのロープで、引き揚げられていく。一つ大凧を上げるなかには、大勢の女性の姿もある。これが白根大凧合戦の特徴だ
 

 空中で大凧のロープが絡み合えば、綱引合戦だ。

 「行くぞ。引け、引け」と大声で気合を入れてロープを引く。一年に一度はここに気力、体力、精神力のすべてを集中させる。
 良い人生だと思う。


 綱引合戦は、地区の名誉を賭けた真剣勝負だ。

 数十人が土手から町内の路地までロープを伸ばし、懸命に引く。

 全員が一本のロープに気持ちを集中させる。ここには本ものの「絆」があった。

 3・11大震災のメディアに踊らされた、いまは忘れ去った、一過性の「絆」とはちがう。
 

 これこそ全知全能を賭けた、激闘の一瞬だ。

 

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世界最大級『白根大凧合戦』のパレードで、白根は燃える=写真で観戦


 「しろね大凧と歴史館」で、先に大凧の知識を得ていると、『白根大凧合戦』を観戦する興味が深まると、大会関係者から教わった。

 同館に出むいた。そこでは大凧のスケールの大きさに驚いた。

 これらの大凧が舞い上がり、空中戦を行うのだ。


 『白根大凧合戦』は、中ノ口川(川幅が約80メートル)の左岸と右岸から、それぞれ大凧24畳を舞い上がらせ、絡(から)ませる。

 川面に落ちたら、こんどはからまった元綱25ミリを双方が引き合うのだ。

 つまり、綱引き合戦だ。

 25ミリのロープを作る「より師」は、麻縄を三つして編む。1本のロープが200万円強だという。

 もし自軍の綱が新品の時に合戦で切られたならば、腕前の失望と羞恥とで、もう川土手は歩けない、夜逃げしたい、自殺したい、そこまでの心境になるそうだ。

 
 現に、数か月ほど家出し、行方をくらました、より師がいたという。



 同館の1、2階には、日本のみならず、世界中の凧が、これでもか、これでもか、と数多く展示されている。
 
 他方で、多種多様な凧には驚かされる。見応えは十分ある。

 作家の知識欲から全国の博物館には、人一倍、足を運んでいる。全館が「すごいな」とつよく感銘を受けた、数少ない一つである。「世界最大の凧の博物館」は嘘偽りがない。


 この館だけでも、白根にやってきた値打ちは充分ある。新潟に来れば、お勧めのスポットである。 


『大凧合戦大会』のパレードが5月6日(木)の午後12時半に、白根小学校からスタートした。

 本通りは興奮状態になる。

 


 町のいたる所に六角凧が展示されている。

 とくに商店街の店先には、店名入りの凧が飾られている。

 大会期間(大人の部は4日間)のいずれかの日に、これらは空に舞い上がる。

 

 各地の園児たちがやってきて、沿道で声援する。

 幼いころから、大凧に接し、伝統を守り継いでいくのだ。



 大会の幟(のぼり)がやってくると、あと1時間半の午後2時から、熾烈な戦いがはじまるのだ。

 地元民は、その興奮を肌で知っている。

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燃える少年少女たち『子ども大凧合戦大会』、新潟・白根=写真で観戦

 新潟市・白根(しろね)で、勇壮な世界最大級の『白根凧揚合戦』(佐藤弘会長)が開催された。6月5日から始まり、10日(日)まで5日間にわたる。

 同大会は江戸時代中期から始まり、約300年の伝統がある。

 子ども凧合戦は1975(昭和50)年から始まり、今回で39回に及ぶ。初日の5日の午後2時から6時まで、小学校・10校の生徒たちの参加で、戦われた。

 小学生が揚げる凧は6畳(5x7メートル)である。



 2013年の子ども同大会は、13校中10校が参加した。そのうち、8人の校長が参列し、2時から6時まで熱い声援を送っていた。

 2012年度の優勝は「武田信玄」チームだった。同大会では準優勝、さらには技能賞まで授与される。

 昨年は技能賞だったチームの女子が、返還を前に名残り惜しそうにカップを抱え込んでいた。



 開会式は、大会役員から、伝統ある「白根凧揚合戦」の誇りが語られた。

「子どもは地域の宝物です。最高の1日にしてください」
 その一方で、怪我をしないように、とくり返し注意を促す。

 合戦とは戦いである。荒々しさは付きものだけに、大会関係者は気をもんでいるのだろう。


 少年・少女たちがリズミカルに『笛』をふきながら、土手の会場へとやってきた。

 子どもたちは笛で自分を鼓舞する。狭い土手には観客も、カメラマンも、各チームのメンバーも含めて大勢の人である。『笛』を聞けば、通路を開けてもらうためでもあった。



 小学生のみならず、親も加わっている。

「親の方が熱くなるんですよ。私が生まれた時から、子どもの凧揚げ合戦はありましたし、参加していました。凧揚げ合戦が子どものころから、からだに沁みこんでいるんです」
 30代の母親が教えてくれた。

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