人物の名づけは難しい? (上)= 現代かわら版
現代小説、時代小説をとわず、登場人物の名づけは苦労させられる。とても気の弱い人物に、「熊五郎」と名づけると、読み手のイメージからほど遠くなる。気立ての優しい美しい女性に「魔子」とつけると、内面が怖い女性に思われてしまう。
一度、小説の主人公で使った名まえは、作者の頭のなかで人物像が定着しているから、書きやすい。性格や容姿など書くには楽である。だけど、またおなじ名まえか、と思われてしまう。
過去の名まえは極力使わないようにする。すると、なかなか思う名まえが浮かんでこない。
シリーズ物(連載)の主人公は苦労しない。だけど、小説はけっして一人だけではない。脇役まで過去の作品とおなじだと、ストーリーが似通ってしまう。だから、登場人物は都度、名まえを変える必要がある。
執筆ちゅうに、新たな人物が登場してくる。そのたびに、学生時代の同級生名簿、所属団体の名簿から探してみたり、本棚にならぶ書籍の背表紙から、名まえをあれこれ考える。なかなか決まらない。
一度決めても、しっくりこない。「黒川」から「白川」へと途中で変えると、奇妙なもので、人物のイメージがなんとなく変わってしまう。ストーリを運ぶほどに、当初のあらすじとは違ってくる。
その点、歴史小説は名まえに苦労しない。坂本龍馬、勝海舟などはそれだけで解ってくれる。人物描写はほぼ不必要だ。「暗殺前の龍馬が、33歳の中年太り」そんな風に創作すれば、嘘っぽくなってしまう。ここらは描写しないほうが賢明だ。徳川家康ならば、太り加減でも通じるだろうが。
手もとに今ある史料には、「小鷹狩之丞」と名まえが記載されている。漢文調だったり、候文だったり。そこから性格などとても判読できない。銅像でもあれば、まだわかりやすいが、それすら彫刻家のイメージである。
「綾」が書いた流暢な和歌がある。書体からしても、女性だろう。だが、美醜の顔立ちなどわからず、背丈すら見当がつかない。数行の和歌からだと、それこそ作者の勝手な人物イメージで書くしか方法はない。
「歴史小説くらい、嘘っぱちな小説はないんですよ」
というと、たいてい驚かれる。会話文など、99%ウソだといっても、決して言い過ぎではないだろう。
「駿府の大御所様に報告せねばならぬ」
「そのからだで駿府に行けるか」
「たとえ、張ってでも」
こんな形式で史料が残っているわけがない。作者が数百年まえに遡ってみたり、訊いたりした事実は100%あり得ない。残された手紙すら、文字数にすれば、ほんのわずかだ。
作者が嘘を組み立てて、それらしく、その時代を描写するのだ。読者がその時代に感情移入してくれると良いのだから、と割り切って書くものだ。
ただ、歴史小説は人の名まえは嘘を書けない。ここらが唯一の真実だろう。むろん、手紙や日記など、自分の都合の良いことしか書いていないから、内容など疑ってかかったほうが良い。