ジャーナリスト

正式な国名はどっちか。ビルマか、マャンマーか?

 スー・チー女史とともに来日した、ミャンマーの作家・人権活動家、マ・ティーダ博士が4月18日、日本ペンクラブで懇談会を行った。約1時間半。会員の参加は約30人だった。
 ティーダ博士(女性医師・作家)は1966年ヤンゴン市に生まれた、外科医である。1985年から作家活動を開始し、ミャンマーの民主化運動を海外に知らせた。その結果として、軍事政権ににらまれて、懲役20年の刑を受けて投獄された。

 懇談会は外部公開でないので、細部は語れないが、会員から国名に対する質問があった。
「ビルマか、マャンマーか。ヨーロッパや国連ではビルマで通す。ミャンマーという国名に対して、博士はどう感じていますか」
 どう答えるのだろうか。

 日本人には「ビルマの竪琴」などで、その国名の方がなじみは深い。軍事政権が「ミャンマー」の国名を押し付けている、と私は認識していた。

 07年9月27日に、映像ジャーナリストの長井健司さんが、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権の兵士に射殺された。世界を震撼させた。
 翌08年3月14日に、日本ペンクラブの人権委員会主催で、日本プレスセンターホールで、公開シンポジュウムが開催された。パネラーのジャーナリストが国名の報道を問題にした。
 日本政府は軍事政権に肩入れし、支援している。先進国のなかで、日本が軍事政権を国際社会で最も早く承認した。ジャーナリストも毒されているから、ビルマでなく、ミャンマーを使っているのだ、と噛みついていた。国連ではビルマを使用すると、ここでもそれが強調された。私もなるほどな、と影響を受けていた。

 それから5年の歳月が経った。日本人にもミャンマーが定着してきた感がある。懇談会の席で、マ・ティーダ博士が、
「どちらの国名でも別段、問題ありません。複合民族だから、地域的なくくり方で呼称がちがう。外国の方々がどう呼んでも、問題はない。気にはしていない」
 と述べたのには驚かされた。
 あのフォーラムで問題視した、国名のビルマは何だったのか。

 懇談会が終わると、茅場町の居酒屋に流れた。マ・ティーダ博士、浅田次郎会長、堀正昭さん(国際ペン事務局長)など10人ほどが参加した。
「考えてみれば、日本だって同じだな。ジャパンとか、ジャポンとか、どう呼ばれても、日本人はなにも気にしない。ミャンマーでも、ビルマでも、別にかまわないのは東洋人の発想かな」
 西木正明さん(直木賞作家)がそう前置きしてから、ロシア、中国、韓国での日本の呼び名を披露していた。なるほどな、と思った。

「にっぽんか、ほにんか。どっちが正しいのかな」
 浅田さんが首をかしげた。
 日本国憲法と、大日本帝国憲法では、「日本」の発音が違う。ここらも話題になったが、結局のところ、日本人自身も国名が定まっていない、という話になった。

 

三宅島沖地震、東京直撃の大津波はないのか=明日はわが身

 このところ淡路島の地震、そして 4月17日には宮城地震が発生している。同日の午後5時57分ごろに、三宅島の近海を震源とする地震があった。東京でも、震度4近くの揺れを感じた。
「不気味だな」
 そう感じた人は多いだろう。
 気象庁の発表によると、三宅島の近海地震はこの1回だけでなく、朝から夕方まで震度1以上が21回もあったという。そのうち、震度3以上は7回に及ぶ。今後の警戒が必要だという。
 他方で、震源地が島から離れているので、「三宅島の噴火とは関連がない」と発表された。となると、断層のズレによる地震なのか。


三宅島


 三宅島は相模トラフや南海トラフに近い場所にある。気象庁は巨大地震との関連について、「現状では見守っていきたい」という見解を示す。「見守る」とは実に都合の良い逃げ言葉で、聴き手には危機寸前で教えてくれると錯覚させる、危険な響きがある。わからない、と言ってくれたほうがより親切なのに……。

 3・11の宮城沖の大地震では、三陸のリアス式海岸以外でも、10m前後の大津波の被害に遭った。それが3・11の最大の教訓だった。
 もし、三宅島沖でマグニチュード8クラスの大地震が発生すれば、大津波がストレートに北上し、東京湾に入り込む。社会科の地図からしても、一目瞭然だ。
 類推だが、東京湾に10m前後の大津波襲来もあり得るかもしれない。となると、東京、横浜、千葉の住民はどうなるのか。それが単なる杞憂で終われば、幸いだけれども。

 4月2日から発売された、小説3・11『海が憎まず』が、発行部数が少なかったこともあるが、書店やネット・アマゾンでも売り切ればかりだ。知人から、本がネットで買えない、書店に申し込むと2週間だといわれた、読みたくてもすぐに読めない、と苦言がくる。
 出版社の日新報道に対して、「営業努力せず、売り切れ状態で放置しているんでしょう」と私は何度か抗議した。
「実際に、売れているんですよ」とおうむ返しの回答ばかりだった。


 『海は憎まず』のテーマは「文学は災害に対して、何ができるのか」と問いながら、被災地を回り、3・11の大災害から何を学び、なにを後世に伝えるべきか、と導いていくものだ。

 早くに読んだ、ある読者から、「大津波の恐怖は、明日はわが身ですよ。大正・関東大地震の大火災から、ずっと防火ばかり強調されてきたけど、『海は憎まず』を読むと、東京湾の大津波が怖い。巨大な地震・停電が来たら、まず地下から逃げろ、ビルの上にあがれ、という教訓が学び取れた。東京で大震災が起きたら教本になるから、ぜひ読んだほうがよい、と知り合いに勧めているんです」と話してくれた。

 本の口コミはこんな風に拡がるのか、と思った。 

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破れた横断幕「がんばろう東北」=埼玉・加須市

 加須市の騎西(きさい)高校まで、遠かった。電車で向かうには交通の便が悪かった、というべきだろう。
 JR鴻巣駅からバスが1時間に1~2本だった。車の免許を持っていれば、住まいの葛飾から1時間ていどで到着できる距離だ。同駅前からバスに乗り込むまで、2時間半は要している。さらに、ここからバスは20ぐらい先のバス停・騎西1丁目へと向かう。
 車窓には、田園の風景が広がった。
 私は頭のなかで、一度にあれこれ考えるタイプだから、一つ物事に神経が集中しない。もし自ら車を運転していれば、遠い昔に交通事故死していただろう。あの世では、こうした福島・浜通りの取材活動も、小説の執筆もできない。

 電車の不便さを感じる私は、自分にそう言い聞かせながら、最寄のバス停に降りた。そこからも廃校になった騎西高校まで、徒歩で1キロ先にある。

 3・11大震災から2年経った。福島県・双葉町の町役場や住人が、騎西高校で避難生活をしている。東日本大震災で、住民がいまなお避難所生活をするのは、ここだけだとも聞いている。(他は仮設住宅に移っている)

 同教育委員会の吉野学芸員から、電話で、バス停からの道順を聞いていた。山で鍛えた脚だから、徒歩は苦痛ではない。3月26日ともなると、民家の庭先の桜は満開だ。それを横目で見ながら、同校に向かった。
 高校の広い敷地を取り囲むフェンスには、破れた横断幕『がんばろう東北』が掲げられていた。それが目に飛び込んできた。
「日本人はとくに熱しやすく、冷めやすいし……。ボランティアは風化しやすいからな」
 私は立ち止まり、そんな想いで凝視した。東北へボランティアに行ったと語る人は多い。一過性の同情だけの行動なのに、いまなお自慢げに語る。あるいは、3・11は飽きたよ、と話す顔などが重なり合った。

 フクシマ・東電原発事故はどのように収束するのか。まだ確固たる見通しはない。住民の不安、望郷の気持は推し量ることができない。
 一時帰宅がくりかえされた後、どういう展開になるのか。破れた横断幕を見る、住民の心境はどんなものなのか。

 災害文学の小説3・11『海は憎まず』の第2弾は、福島・浜通りを舞台にした、テーマ『望郷』である。歴史小説と現代小説をオーバーラップさせるものだ。ジャンルが違うだけに、小説の技法としては高度だけど、チャレンジする。

 戊辰戦争で芸州(広島)藩が猛烈に浜通りから仙台に向かう。相馬藩・伊達仙台藩を落とすために突っ込んでいった。他藩は王政復古の義理で戦うし、不利となれば、すぐに逃げる。
 芸州藩だけは多くの戦死者を出しても、やみくもに戦っている。なぜなのか。それでいて幕末史から消えていく。
 歴史小説はある程度、事実で近いところで書く必要がある。広島市は原爆投下で歴史的資料も殆んどない。フクシマ原発で、浜通りは立ち入りが出来ず、現地調査はできない。双方にはとてつもない高い壁がある。取材の難易度が高いだけに、やりがいを感じている。

 いまは福島側の歴史家から、芸州藩の戦いの詳細とか、兵士の望郷の念とか、言い伝えとか、資料とか、こうした小説の素材を求めているさなかである。1月からはいわき市、浪江町(二本松)、楢葉町(会津美里町)へと出向き、そして双葉町(加須市)へと足を運んできた。

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穂高健一著、小説3・11「海は憎まず」の執筆姿勢について

 拙著の小説3・11「海は憎まず」(日新報道)は、岩手県と宮城県の大津波の被災地が舞台になっている。諸般の事情で出版が少しずれ、3月末に刊行し、4月2日から全国の書店にならぶ。

「戦争文学」はあるのに、なぜ「災害文学」が生まれなかったのだろうか。災害後の人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などはフィクションだからこそ、描けるはず。災害報道やノンフィクションとなると、人物が特定されるから、本音はとかく書き切れないものだ。ある意味で、綺麗ごとになってしまう。

 しかし、フィクションならば、「人間って、こういうこともあるよな」、「えっ、こんなことが起きていたの」という人間ドラマが描き出せる。それが「海は憎まず」である。

 関東大震災のとき、白樺派の文豪たちは何していたのだろうか。
 志賀直哉などは蜂の死骸(城崎にて)を書いても、大災害の被災者たちの日々を書き残してくれなかった。谷崎潤一郎は震災後、わが身を案じ、急きょ京都に永住している(遁走)。文豪たちは、後世に伝えるべき震災後の人々を書いてくれなかった。大震災でも、「災害文学」は生まれなかった。

 小説家は「都会の俗塵から離れ、芸術に専念する」という大義名分で逃げてはダメである。

 東日本大震災3・11は千年に一度の大災害である。こんどこそ、小説家は「災害文学」を作り出すべきだと、私は考えた。そして、毎月、三陸に出むいた。
 大船渡、陸前高田、気仙沼、気仙沼大島、南三陸町、閖上、女川で被災者に向かい合った。可能な限り本音を赤裸々に語ってもらい、それらを丹念に取材し、一つひとつをドラマ化し、書き上げた小説である。人間のほんとうの真実がある。

 日本は災害列島である。「災害報道」と「災害文学」は両輪の輪である。ひとたび災害が起きれば、災害報道の写真や記事だけでなく、プロ作家、アマ(同人誌、学校文芸誌など)で、誰もが被災後の人々を描き、あらゆる角度、それぞれの立場で書き残す。
 こうした「災害文学」の機運を作りたいと考えている。

「海は憎まず」が、災害文学の先駆になることを願っている。


関連情報

題名 : 小説3・11「海は憎まず」
著者 : 穂高健一
出版社 : 日新報道
ISBN978-4-8174-0759-7 C009
定価 1600円+税

書店で、予約受付中です。(初版本は予約がお勧めです)
ネット(アマゾンなど)は4/5頃になります。

希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(中)=陸前高田市

 陸前高田市の3校合同・中学生カキ養殖体験の第1陣が帰ってきた。

 さあ、水揚げだぞ。

 カキは思いのほか重い。一つ当たりのカキ殻の自重はあるし、そのうえ海水がついている。


 中学3年生たちはカキ・カゴを次つぎに漁船から岸へと揚げていく。

 報道陣はここぞとばかりに、ビジオやカメラにおさめる。

 夕方には放映されるし、翌朝の新聞には競って載る。中学生のカキ収穫は、被災地では数少ない、明るい話題だ。明日への希望になる。

 第2陣が沖合のイカダへと向かう。

 この漁港には2隻のカキ漁船しか残らなかった。3校の生徒全員を一度に運べず、イカダまで折り返す。

 陸上では先生たちが手を振って見送る。カキ作業場の、漁師「浜の女」たちもいた。

 PTA(親)がいない。それが東京など大都会と違うところか。

 親が津波で流されて亡くなった生徒もいるけれど。

 漁船は岸を離れると、スピードを上げていく。

 生徒たちをみていると、真剣な表情で沖合を眺めているもの、船酔いを怖れて下向きの生徒など、さまざまだった。

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希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(上)=陸前高田市

 2011年3月11日には東日本大震災が発生し、陸前高田市は16mの大津波に襲われた。

 それから約2年経った、真冬の2月22日、午前9時過ぎに、同市内の中学校が3校合同で、カキ漁船に乗り沖合に出た。

「世界でも、中学校専用のカキ養殖イカダを持っているのは、ここだけですよ」と関係者は語る。

 中学生のカキ養殖体験学習は12年間続いている。

 1年生は春の種付け、2年生は夏のおんとう駆除、3年生になると、冬場の収穫である。だから、今回は3年生だった。

 3・11の大津波では、中学校専用のカキイカダは流出し、学生たちが体育の授業を使って作った、新しいイカダである。

 この地方はイカダに杉丸太を使う。(気仙沼~広島などは孟宗竹である)

 三陸地方のカキは生育・収穫するには2年間を要する。震災後初めての収穫である。


 中学生たちがホイストを使って、ワイヤーをつり上げる。

 2年前の震災の年に、カキの稚貝がイカダにつるされていた。彼らが中学に入学した年である。それがいま3年生となり、生育したカキとして収穫する瞬間である。

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朝日新聞・書評委員会メンバーの立石ツアー・深夜まで悦に(上)

 直木賞作家の出久根達郎さんから、1月半ば頃に、1通の手紙が届いた。出久根さんはいつもながら和紙で達筆の太文字だ。
 朝日新聞の「書評委員会」の会合で、出久根さんが葛飾・立石の話を持ち出したところ、大いに盛り上がりました。ついては、「立石ツアー」を企画したいので、地元作家の私にコーディネートしてもらえませんか、という内容だった。


 希望日は2月19日(火)だった。

 この日は空いていたので、私は出久根さんに、OKですよ、と電話を入れた。書評委員会のメンバーのみならず、記者、編集委員なども参加するから10人くらいだという。記者などは仕事の都合で、遅れてくる。
 それはそれとして、当日15時から駅前の喫茶室で落ち合い、あとは下町らしいところを見てもらいましょうと、出久根さんもよく知る街だけに、ふたりの間でツアー企画のルートはすぐまとまった。

 数日後、出久根さんから、和紙の手紙がきた。いつも感心するのは切手が絶妙の味がある封書だ。参加を表明したメンバー紹介で、朝日新聞の【読書】では常に出てくる名前だ。

   保坂正康さん(昭和史研究家)
   小野正嗣さん(今回の芥川賞・候補、三島由紀夫賞受賞)
   中島岳志さん(評論家)
   揚逸(ヤン・イー)さん(平成20年・芥川賞・受賞) 
   山形浩生さん(野村総合研究所・上級コンサルタント)
   上丸洋一さん(朝日編集委員)
   原真人さん(同)


 書評委員会メンバーと朝日新聞・記者たちを含めると、13、4人となりました、と記す。私にすれば、日本ペンクラブの仲間には良いぞ、好いぞとなにかと誘いながらも、一方で毎日見慣れている街だけに、「昭和が残る、葛飾・立石はそんなにも好奇心に満ちた街かな」とむしろ驚かされた。

 そういえば、思い出すのは朝日新聞の素粒子を書いていた、轡田隆史(くつわだ たかふみ)さんだ。立石にべたぼれで、私の顔を見ると、「テレビ朝日のニュースキャスターだった、小宮悦子さんも、立石にきたがっているんだよ。派手な顔立ちは似合わず、泥臭い街だからな、まだ実現せずだよ」と話す。その実、轡田さんは友人と立石に通い詰めていると語っている。

 書評委員会の13人となると、とても一人で対応できない。そこは出久根さんのことだ、若いころから古本屋仲間である、「達っちゃく」「岡ちゃん」という間柄の、立石の古本屋の主である岡島秀夫さんに声掛けをされていた。この岡島さんは客商売をしながら、「ケータイ、名刺は持たない。手紙は書かない」と言う、明るく愉快な親父さんだ。

 同日、京成立石駅前の喫茶店には、夕暮前の3時に集まった。同委員会をサポートする、編集長も記者もやってきた。余裕を15分ぐらい見てから、同駅から徒歩2分もない、葛飾区伝統産業館(山中定男館長)に出むいた。

 同館は江戸時代からの技が生きている、葛飾区伝統職人会が運営する。館長、副館長、今回の労を取ってくれた松井喜深子(きみこ・伊勢形紙)さんたちから展示品の説明を受けた。


 出久根さんから事前に参加者に、同館の資料が配布されていた。
 東京桐箪笥 江戸木彫刻 東京仏壇 竹細工 銅版仏画、東京手描友禅 唐木細工、彫金 硝子彫刻 鼈甲(べっこう)など、数々の品が陳列された、

 芸術品的な品物を前にして、メンバーはかなり驚かれていた。それぞれが質問をする。

 全品が手作りで即売している。

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安政東海大地震の取材中に、「津波注意報」逃げてください=下田市

 3・11大津波の長編小説が完成し、3月初旬に刊行される。「災害文学」の第2弾として、170年前の安政東海大地震(マグニチュード8.4)、と、ロシア艦隊・ディアナ―号の遭難を素材にした小説『501人の遭難』(100枚)を、さらに手を加えて長編小説に深耕化させようと考えている。

 2月5日、早や立ちで伊豆に向かった。曇天で富士山は見えなかった。まずは十数年ぶりに伊豆・戸田(へた)村に出向いた。交通の便が極度に悪い立地だ。沼津港から客船が朝一便しかない。(2000円・午後便はない)。『戸田造船博物館』で学芸員から、日本初の外洋船の建造とか、プチャーチン・ロシア提督とかの情報提供を受けた。

 1854年11月4日に朝8時過ぎに発生した、安政東海大地震は伊豆半島にも甚大な被害を及ぼした。下田は大津波で、全戸856戸のうち流出家屋が819戸で約9割が流されている。近郷の死者は5-600人だった。日露和親条約に来ていたロシア艦は大破し、戸田に回送中に沈没した。
 そこで、戸田村でロシア造船技官の指導の下に、外洋船を造ったのだ。日本人が技術を学んだことから、日本造船の発祥の地となった。

 午後の船便はないので、バスで修善寺に出た。すぐさま乗り換え、天城越えのバスで河津駅に出た。『河津さくらまつり2月5日から』ポスターは派手だったが、スタート日そのものだが、1本も桜が咲いていなかった。 

 下田駅前に宿泊した。
 翌6日は同市教育委員会、史編纂室で、安政東海大地震そして日露和親条約の関連資料や説明を受けた。
 午後は町なかでランチを食べる店をさがした。手ごろかなと思い、『くろふね屋』に入った。メニューをみて、「お任せ定食」にしようかな、と思った。サザエが好きなので、『サザエ入りかき揚げ定食・1100円』を注文した。すごいボリュームで、これには驚かされた。かき揚げに隠れて、どんぶりがまったく見えない。

 しばらくすると、ガイドブックを持った女性2名と男性の3人連れが入ってきた。きっと有名な店なのだろうな。

 日米和親条約関係の資料がある、了仙寺に出向いた。同寺の宝物館を観ていた。観覧者は私一人だった。館外では急に防災行政無線がひびき渡っていた。
「お客さん、津波注意報が出されました。すぐ高台に逃げてください」
 同館の受付女性が側にきて避難を促した。

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日本一の活動弁士・澤登翠さんが熱演で無声映画の魅力を語る

 活動弁士(かつどうべんし)の澤登翠(さわと みどり)さんが、1月23日(水)に、東京・五反田の「TOKO HOTAL」で講演を行った。主催は日本作家協会の「映画と旅研究会」で、世話人は山本澄子さん、虎谷勝也さんである。

 澤登さんの講演テーマは「無声映画は素敵」である。約60分間にわたって、無声映画の魅力と弁士の役割を語った。

 現代人は、映画には音声がついているものだと思っている。だが、それは最近のことである。

 無声映画時代は、活動弁士(映画の弁士)がセリフや説明を名調子で行ったのである。

 映画の初期は、スクリーンの俳優が演じるが、まったく音声がない。

 映画弁士が、名調子で語るのだ。


 弁士がただ棒読みになれば、その映画自体はまったく面白くなくなる。

 女性弁士でも、男の声、老人の声、幼い男児を語るのだ。だから、声の幅はとてつもなく広い。


 日本には、無声映画時代、世界的な巨匠の監督が生まれた。それが現代でも、欧米やアジアの映画作りでも、研究されている。


 映画弁士は、スクリーンの俳優たちのセリフだけでなく、風の音、激流の瀑流音、下駄の音、汽車の車輪の音、と次々にスクリーンに映し出されるものに対して、口で表現するのだ。

 時には雄々しく叫ぶ。

 無声映画には、メイン・タイトルと、俳優の名、場面一つひとつにほんのわずかな字幕が書かれている。

 弁士にとっては、映画が配給された時、それだけのわずかな情報で、自ら台本を書くのだ。


 台本を書いて、映画を見る観客のまえで、ストーリーを語っていく。観客を酔いしびれさせる、それだけの内容がなければならない。

 有能でなければ、よい台本が書けない。

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戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く①=いわき市末次

 歴史は後世のものが勝手に作ったり、推測で書かれたものがまかり通ったりする。戦いの悲劇が美化されたり、若くして死ぬと英雄視されたりする。ここらは用心してかからないと、誤った史観に陥ってしまう。
 歴史小説が史実だと勘違いしているケースも、これまた多い。最も顕著なのが、司馬遼太郎の坂本龍馬である。どこまでもフィクション小説である。『船中八策』は幕末、明治、大正半ばまで史料にも、文献にも一行もない。
 大正時代の終わりに、土佐の文人が「新政府綱領八策』(国立国会図書館・長府博物館に本ものがある)を下地にして面白おかしく『船中八策』を創作した。司馬遼太郎がフィクション小説・龍馬がらみで作品の中核においたから、大半の人がそれを史実とみなしている。『船中八策』の現物などまったくあり得ないのに。

 会津落城(開城)などは、ご当地の作家や関係者が故意に美化し、薩長敵対とか、悲劇とかを作り上げている面もある。それに乗っかり、市全体が観光に利用している傾向すらある。(戦時中は、軍部から特攻精神に利用された)。その意味からしても、福島・戊申戦争関連は用心してかからないと危ないな、という警戒心が私にはある。

 現地に問い合わせても、こちらの資料には芸州藩がきたという事実は見当たりませんね、という回答すらあった。つまり、浜通りの戦いすら、薩長が誇張されているのだ。

 それを前提に、1月14日から3日間ほど、戊辰戦争「浜通りの戦い」の取材に出向いた。初日はいわき市・末次という集落だった。初日の14日は大雪だった。「50年ぶりじゃないかな。いわきで1月に、こんな大雪が降ったのは」と地場のひとがいうほど、時間とともにかなり積もってきた。

 この末次の寺にも、芸州(広島)藩の兵士たちが眠る。

 芸州藩は浜通りの戦いで、最も死傷者を出したのに、戊辰戦争後には「薩長土芸」が「薩長土肥」に変り、芸州藩が歴史から消えてしまった。なぜか。
 広島に出向いて幕末史を調べると、決まって「原爆で資料はなくなった。他藩から調べて構築するしか手がない」と言われてしまう。
 広島は他県に比べて、幕末の芸州藩の研究者が大学教授を含めて極度に少ないのが特徴だ。

 現代の広島人は、毛利元就(広島・吉田町出身)を中心とした、毛利には関心が強い。毛利が大好きなのだ。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利が萩に移されてから、その後の歴史となると、関心度が極端に低くなってしまう。
 浅野家が、德川色の強い和歌山から広島にきた、そのことすら認知していない人もいる。忠臣蔵の浅野の本家だとも知らない。つまり、德川(江戸)が好きではないのだ。

(浅野家は幕末に強い影響力を持ち、幕長戦争すら戦わず和平交渉に持ち込んだ、十五代将軍・德川慶喜には武力をちらつかせた大政奉還へと推し進めた)
 芸州藩が大きな働きをしている。しかし、現代の広島人には、紀州から来た浅野家の功績など、德川どうしだから、どうでも良いのだ。私にはそう思えてならない。

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