ジャーナリスト

穂高健一著、小説3・11「海は憎まず」の執筆姿勢について

 拙著の小説3・11「海は憎まず」(日新報道)は、岩手県と宮城県の大津波の被災地が舞台になっている。諸般の事情で出版が少しずれ、3月末に刊行し、4月2日から全国の書店にならぶ。

「戦争文学」はあるのに、なぜ「災害文学」が生まれなかったのだろうか。災害後の人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などはフィクションだからこそ、描けるはず。災害報道やノンフィクションとなると、人物が特定されるから、本音はとかく書き切れないものだ。ある意味で、綺麗ごとになってしまう。

 しかし、フィクションならば、「人間って、こういうこともあるよな」、「えっ、こんなことが起きていたの」という人間ドラマが描き出せる。それが「海は憎まず」である。

 関東大震災のとき、白樺派の文豪たちは何していたのだろうか。
 志賀直哉などは蜂の死骸(城崎にて)を書いても、大災害の被災者たちの日々を書き残してくれなかった。谷崎潤一郎は震災後、わが身を案じ、急きょ京都に永住している(遁走)。文豪たちは、後世に伝えるべき震災後の人々を書いてくれなかった。大震災でも、「災害文学」は生まれなかった。

 小説家は「都会の俗塵から離れ、芸術に専念する」という大義名分で逃げてはダメである。

 東日本大震災3・11は千年に一度の大災害である。こんどこそ、小説家は「災害文学」を作り出すべきだと、私は考えた。そして、毎月、三陸に出むいた。
 大船渡、陸前高田、気仙沼、気仙沼大島、南三陸町、閖上、女川で被災者に向かい合った。可能な限り本音を赤裸々に語ってもらい、それらを丹念に取材し、一つひとつをドラマ化し、書き上げた小説である。人間のほんとうの真実がある。

 日本は災害列島である。「災害報道」と「災害文学」は両輪の輪である。ひとたび災害が起きれば、災害報道の写真や記事だけでなく、プロ作家、アマ(同人誌、学校文芸誌など)で、誰もが被災後の人々を描き、あらゆる角度、それぞれの立場で書き残す。
 こうした「災害文学」の機運を作りたいと考えている。

「海は憎まず」が、災害文学の先駆になることを願っている。


関連情報

題名 : 小説3・11「海は憎まず」
著者 : 穂高健一
出版社 : 日新報道
ISBN978-4-8174-0759-7 C009
定価 1600円+税

書店で、予約受付中です。(初版本は予約がお勧めです)
ネット(アマゾンなど)は4/5頃になります。

希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(中)=陸前高田市

 陸前高田市の3校合同・中学生カキ養殖体験の第1陣が帰ってきた。

 さあ、水揚げだぞ。

 カキは思いのほか重い。一つ当たりのカキ殻の自重はあるし、そのうえ海水がついている。


 中学3年生たちはカキ・カゴを次つぎに漁船から岸へと揚げていく。

 報道陣はここぞとばかりに、ビジオやカメラにおさめる。

 夕方には放映されるし、翌朝の新聞には競って載る。中学生のカキ収穫は、被災地では数少ない、明るい話題だ。明日への希望になる。

 第2陣が沖合のイカダへと向かう。

 この漁港には2隻のカキ漁船しか残らなかった。3校の生徒全員を一度に運べず、イカダまで折り返す。

 陸上では先生たちが手を振って見送る。カキ作業場の、漁師「浜の女」たちもいた。

 PTA(親)がいない。それが東京など大都会と違うところか。

 親が津波で流されて亡くなった生徒もいるけれど。

 漁船は岸を離れると、スピードを上げていく。

 生徒たちをみていると、真剣な表情で沖合を眺めているもの、船酔いを怖れて下向きの生徒など、さまざまだった。

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希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(上)=陸前高田市

 2011年3月11日には東日本大震災が発生し、陸前高田市は16mの大津波に襲われた。

 それから約2年経った、真冬の2月22日、午前9時過ぎに、同市内の中学校が3校合同で、カキ漁船に乗り沖合に出た。

「世界でも、中学校専用のカキ養殖イカダを持っているのは、ここだけですよ」と関係者は語る。

 中学生のカキ養殖体験学習は12年間続いている。

 1年生は春の種付け、2年生は夏のおんとう駆除、3年生になると、冬場の収穫である。だから、今回は3年生だった。

 3・11の大津波では、中学校専用のカキイカダは流出し、学生たちが体育の授業を使って作った、新しいイカダである。

 この地方はイカダに杉丸太を使う。(気仙沼~広島などは孟宗竹である)

 三陸地方のカキは生育・収穫するには2年間を要する。震災後初めての収穫である。


 中学生たちがホイストを使って、ワイヤーをつり上げる。

 2年前の震災の年に、カキの稚貝がイカダにつるされていた。彼らが中学に入学した年である。それがいま3年生となり、生育したカキとして収穫する瞬間である。

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朝日新聞・書評委員会メンバーの立石ツアー・深夜まで悦に(上)

 直木賞作家の出久根達郎さんから、1月半ば頃に、1通の手紙が届いた。出久根さんはいつもながら和紙で達筆の太文字だ。
 朝日新聞の「書評委員会」の会合で、出久根さんが葛飾・立石の話を持ち出したところ、大いに盛り上がりました。ついては、「立石ツアー」を企画したいので、地元作家の私にコーディネートしてもらえませんか、という内容だった。


 希望日は2月19日(火)だった。

 この日は空いていたので、私は出久根さんに、OKですよ、と電話を入れた。書評委員会のメンバーのみならず、記者、編集委員なども参加するから10人くらいだという。記者などは仕事の都合で、遅れてくる。
 それはそれとして、当日15時から駅前の喫茶室で落ち合い、あとは下町らしいところを見てもらいましょうと、出久根さんもよく知る街だけに、ふたりの間でツアー企画のルートはすぐまとまった。

 数日後、出久根さんから、和紙の手紙がきた。いつも感心するのは切手が絶妙の味がある封書だ。参加を表明したメンバー紹介で、朝日新聞の【読書】では常に出てくる名前だ。

   保坂正康さん(昭和史研究家)
   小野正嗣さん(今回の芥川賞・候補、三島由紀夫賞受賞)
   中島岳志さん(評論家)
   揚逸(ヤン・イー)さん(平成20年・芥川賞・受賞) 
   山形浩生さん(野村総合研究所・上級コンサルタント)
   上丸洋一さん(朝日編集委員)
   原真人さん(同)


 書評委員会メンバーと朝日新聞・記者たちを含めると、13、4人となりました、と記す。私にすれば、日本ペンクラブの仲間には良いぞ、好いぞとなにかと誘いながらも、一方で毎日見慣れている街だけに、「昭和が残る、葛飾・立石はそんなにも好奇心に満ちた街かな」とむしろ驚かされた。

 そういえば、思い出すのは朝日新聞の素粒子を書いていた、轡田隆史(くつわだ たかふみ)さんだ。立石にべたぼれで、私の顔を見ると、「テレビ朝日のニュースキャスターだった、小宮悦子さんも、立石にきたがっているんだよ。派手な顔立ちは似合わず、泥臭い街だからな、まだ実現せずだよ」と話す。その実、轡田さんは友人と立石に通い詰めていると語っている。

 書評委員会の13人となると、とても一人で対応できない。そこは出久根さんのことだ、若いころから古本屋仲間である、「達っちゃく」「岡ちゃん」という間柄の、立石の古本屋の主である岡島秀夫さんに声掛けをされていた。この岡島さんは客商売をしながら、「ケータイ、名刺は持たない。手紙は書かない」と言う、明るく愉快な親父さんだ。

 同日、京成立石駅前の喫茶店には、夕暮前の3時に集まった。同委員会をサポートする、編集長も記者もやってきた。余裕を15分ぐらい見てから、同駅から徒歩2分もない、葛飾区伝統産業館(山中定男館長)に出むいた。

 同館は江戸時代からの技が生きている、葛飾区伝統職人会が運営する。館長、副館長、今回の労を取ってくれた松井喜深子(きみこ・伊勢形紙)さんたちから展示品の説明を受けた。


 出久根さんから事前に参加者に、同館の資料が配布されていた。
 東京桐箪笥 江戸木彫刻 東京仏壇 竹細工 銅版仏画、東京手描友禅 唐木細工、彫金 硝子彫刻 鼈甲(べっこう)など、数々の品が陳列された、

 芸術品的な品物を前にして、メンバーはかなり驚かれていた。それぞれが質問をする。

 全品が手作りで即売している。

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安政東海大地震の取材中に、「津波注意報」逃げてください=下田市

 3・11大津波の長編小説が完成し、3月初旬に刊行される。「災害文学」の第2弾として、170年前の安政東海大地震(マグニチュード8.4)、と、ロシア艦隊・ディアナ―号の遭難を素材にした小説『501人の遭難』(100枚)を、さらに手を加えて長編小説に深耕化させようと考えている。

 2月5日、早や立ちで伊豆に向かった。曇天で富士山は見えなかった。まずは十数年ぶりに伊豆・戸田(へた)村に出向いた。交通の便が極度に悪い立地だ。沼津港から客船が朝一便しかない。(2000円・午後便はない)。『戸田造船博物館』で学芸員から、日本初の外洋船の建造とか、プチャーチン・ロシア提督とかの情報提供を受けた。

 1854年11月4日に朝8時過ぎに発生した、安政東海大地震は伊豆半島にも甚大な被害を及ぼした。下田は大津波で、全戸856戸のうち流出家屋が819戸で約9割が流されている。近郷の死者は5-600人だった。日露和親条約に来ていたロシア艦は大破し、戸田に回送中に沈没した。
 そこで、戸田村でロシア造船技官の指導の下に、外洋船を造ったのだ。日本人が技術を学んだことから、日本造船の発祥の地となった。

 午後の船便はないので、バスで修善寺に出た。すぐさま乗り換え、天城越えのバスで河津駅に出た。『河津さくらまつり2月5日から』ポスターは派手だったが、スタート日そのものだが、1本も桜が咲いていなかった。 

 下田駅前に宿泊した。
 翌6日は同市教育委員会、史編纂室で、安政東海大地震そして日露和親条約の関連資料や説明を受けた。
 午後は町なかでランチを食べる店をさがした。手ごろかなと思い、『くろふね屋』に入った。メニューをみて、「お任せ定食」にしようかな、と思った。サザエが好きなので、『サザエ入りかき揚げ定食・1100円』を注文した。すごいボリュームで、これには驚かされた。かき揚げに隠れて、どんぶりがまったく見えない。

 しばらくすると、ガイドブックを持った女性2名と男性の3人連れが入ってきた。きっと有名な店なのだろうな。

 日米和親条約関係の資料がある、了仙寺に出向いた。同寺の宝物館を観ていた。観覧者は私一人だった。館外では急に防災行政無線がひびき渡っていた。
「お客さん、津波注意報が出されました。すぐ高台に逃げてください」
 同館の受付女性が側にきて避難を促した。

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日本一の活動弁士・澤登翠さんが熱演で無声映画の魅力を語る

 活動弁士(かつどうべんし)の澤登翠(さわと みどり)さんが、1月23日(水)に、東京・五反田の「TOKO HOTAL」で講演を行った。主催は日本作家協会の「映画と旅研究会」で、世話人は山本澄子さん、虎谷勝也さんである。

 澤登さんの講演テーマは「無声映画は素敵」である。約60分間にわたって、無声映画の魅力と弁士の役割を語った。

 現代人は、映画には音声がついているものだと思っている。だが、それは最近のことである。

 無声映画時代は、活動弁士(映画の弁士)がセリフや説明を名調子で行ったのである。

 映画の初期は、スクリーンの俳優が演じるが、まったく音声がない。

 映画弁士が、名調子で語るのだ。


 弁士がただ棒読みになれば、その映画自体はまったく面白くなくなる。

 女性弁士でも、男の声、老人の声、幼い男児を語るのだ。だから、声の幅はとてつもなく広い。


 日本には、無声映画時代、世界的な巨匠の監督が生まれた。それが現代でも、欧米やアジアの映画作りでも、研究されている。


 映画弁士は、スクリーンの俳優たちのセリフだけでなく、風の音、激流の瀑流音、下駄の音、汽車の車輪の音、と次々にスクリーンに映し出されるものに対して、口で表現するのだ。

 時には雄々しく叫ぶ。

 無声映画には、メイン・タイトルと、俳優の名、場面一つひとつにほんのわずかな字幕が書かれている。

 弁士にとっては、映画が配給された時、それだけのわずかな情報で、自ら台本を書くのだ。


 台本を書いて、映画を見る観客のまえで、ストーリーを語っていく。観客を酔いしびれさせる、それだけの内容がなければならない。

 有能でなければ、よい台本が書けない。

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戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く①=いわき市末次

 歴史は後世のものが勝手に作ったり、推測で書かれたものがまかり通ったりする。戦いの悲劇が美化されたり、若くして死ぬと英雄視されたりする。ここらは用心してかからないと、誤った史観に陥ってしまう。
 歴史小説が史実だと勘違いしているケースも、これまた多い。最も顕著なのが、司馬遼太郎の坂本龍馬である。どこまでもフィクション小説である。『船中八策』は幕末、明治、大正半ばまで史料にも、文献にも一行もない。
 大正時代の終わりに、土佐の文人が「新政府綱領八策』(国立国会図書館・長府博物館に本ものがある)を下地にして面白おかしく『船中八策』を創作した。司馬遼太郎がフィクション小説・龍馬がらみで作品の中核においたから、大半の人がそれを史実とみなしている。『船中八策』の現物などまったくあり得ないのに。

 会津落城(開城)などは、ご当地の作家や関係者が故意に美化し、薩長敵対とか、悲劇とかを作り上げている面もある。それに乗っかり、市全体が観光に利用している傾向すらある。(戦時中は、軍部から特攻精神に利用された)。その意味からしても、福島・戊申戦争関連は用心してかからないと危ないな、という警戒心が私にはある。

 現地に問い合わせても、こちらの資料には芸州藩がきたという事実は見当たりませんね、という回答すらあった。つまり、浜通りの戦いすら、薩長が誇張されているのだ。

 それを前提に、1月14日から3日間ほど、戊辰戦争「浜通りの戦い」の取材に出向いた。初日はいわき市・末次という集落だった。初日の14日は大雪だった。「50年ぶりじゃないかな。いわきで1月に、こんな大雪が降ったのは」と地場のひとがいうほど、時間とともにかなり積もってきた。

 この末次の寺にも、芸州(広島)藩の兵士たちが眠る。

 芸州藩は浜通りの戦いで、最も死傷者を出したのに、戊辰戦争後には「薩長土芸」が「薩長土肥」に変り、芸州藩が歴史から消えてしまった。なぜか。
 広島に出向いて幕末史を調べると、決まって「原爆で資料はなくなった。他藩から調べて構築するしか手がない」と言われてしまう。
 広島は他県に比べて、幕末の芸州藩の研究者が大学教授を含めて極度に少ないのが特徴だ。

 現代の広島人は、毛利元就(広島・吉田町出身)を中心とした、毛利には関心が強い。毛利が大好きなのだ。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利が萩に移されてから、その後の歴史となると、関心度が極端に低くなってしまう。
 浅野家が、德川色の強い和歌山から広島にきた、そのことすら認知していない人もいる。忠臣蔵の浅野の本家だとも知らない。つまり、德川(江戸)が好きではないのだ。

(浅野家は幕末に強い影響力を持ち、幕長戦争すら戦わず和平交渉に持ち込んだ、十五代将軍・德川慶喜には武力をちらつかせた大政奉還へと推し進めた)
 芸州藩が大きな働きをしている。しかし、現代の広島人には、紀州から来た浅野家の功績など、德川どうしだから、どうでも良いのだ。私にはそう思えてならない。

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年末・新年を歩く④浅草寺で、1013年のご利益を願う


 浅草寺の本堂前に、今年はのご利益を祈る人が、押しかけていた。

 仏さまと神さまと、どっちがご利益があるのだろう。



 もうそろそろ、お祈りできるかしら。

 雷門前の長い列では、いかに時間を過ごすか。

 スマホがあれば、苛立つこともないし……。


 仲見世で、おいしいものを食べたいな。

 子どもにとっては、退屈な長い列だろう。


 カップルで、初詣は何かにつけて楽しい

 五重塔が浅草の象徴である。東京スカイツリーに押され気味だけれども。

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年末・新年を歩く③浅草は東京スカイツリー人気=本堂まで遠いな

 浅草(台東区)は復活した。東京スカイツリー(墨田区)という、世界一の電波塔の完成で、昨年からの人気は続いている。
 タワーのある墨田区にも、七福神などで有名な社寺はある。
 だが、浅草寺に奪われているようだ。

 混み合っていなければ、流行に乗っていない。そんな若者気質から、10~30代の参拝客が目につく。数年前まで、年配者か、外国人観光客が目についたものだ。

 今年は様相が変わってしまった。



 浅草・雷門は警察官が出て、交通整理だ。東京マラソン並みかな。それ以上の警察官の数かもしれない。

 あわてず、外国人の大道芸人を見てから、ゆったりした気分で参拝も良いものだ。

 雷門に入るには、60メートル先から並ぶ。

 交差点では何度も、行列はストップさせられるから、遅々として進まない。

 雷門前は、すべての車が通行止め、参拝者は一方通行だ。
 人力車はどこにおいているのか。
 車屋さんはふだんの呼び込みもできず、商売がままならず、ふたりして地図で、商売になりそうなルートを探していた。


 東京スカイツリーが背景になる、浅草駅前の一等地で、商売にならない車屋さんが立て看板を持って、暇そうにしていた。

 車の通らない大きな通りで、ツリーと立て看板の組み合わせは、そうあることでもない。
 

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年末・新年を歩く②東京で唯一の深夜・餅つき大会=葛飾・原神社

 東京の下町には、除夜の鐘とともに、はじまる餅つき大会がある。場所は葛飾・東立石4丁目の原神社の境内である。
 
 NHK紅白歌合戦が終わると、深夜の道路に足音が響く。四方から初詣の住民が集まる。子どもたちも嬉々としている。
 
 どのくらい前から、この伝統行事が続いてきたのだろうか。

「半世紀以上は間違いなく、続いているよ。この餅つき大会は」
 長老が語る。
 その実、自信はなさそうな口ぶりだ。

 昭和30年代、下町の工場には集団就職の子どもたちがやってきた。「金の卵」と言われていた。正月には田舎に帰れない子のために、餅つき大会を始めた。
「そんなふうに聞いたけれど」
 そう話していた。

 ことしは60キロのもち米を使う。前日から準備して、朝もち米をといで、夜11時からは蒸籠(せいろ)で蒸して、炊きぐあいをみていく。

 どの程度蒸せば良いのか。祖父から父へ、そして子どもへと教わっていく。


 火力が大切だよ。大工の棟梁が正月が近くなると、廃材を集めておく。そして持ち寄ってくる。材質によって、火力が違う、と話す。

「新建材はダメだよ。切れない、燃えない、有毒ガスが出る。だから、古い家を取り壊した廃材を使うんだ」
 と教えてくれた。


 臼(うす)や杵(きね)は、湯を使う。湿らさないと、餅が打てないのだ。こうした準備は、若手あたりの役目らしい。



 さあ、杵を振り上げる。臼で捏(こ)ねる。タイミングがひとつ間違うと、頭蓋骨を叩き割ってしまう。この命がけの呼吸が日本の伝統だ。

 東京でも、下町・葛飾立石の、それも東立石4丁目の原神社だけに、元旦の恒例行事として残っているのだ。
 全国を見渡しても、年々、餅つき大会は影を薄くしているようだ。


 昼間の原神社の境内は閑散としているし、参拝者はほとんどいない。駅への近道として、境内を通り抜けている人は見かけるけれども。


 つきあがった餅は、町内会の婦人を中心として、黄な粉、あんこ、大根すり、納豆など、好みで配られていく。つきたての餅は、とてもおいしいよ。

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