ジャーナリスト

無冠の帝王 最後の大物・小中陽太郎さん「第1回野村胡堂賞」受賞

 1月31日、浅草ビューホテル「飛翔の間」で、「第1回野村胡堂賞」(主催・日本作家クラブ)の受賞式が開催された。受賞者は小中陽太郎さんで、作品は『翔べよ源内』(平原社刊)である。平賀源内の一生に光を当てた、魅力あふれる時代小説だ。

 第1回の文学賞は名誉あるもの。と同時に話題性がある。報道陣、著名な来賓者、文学仲間がたくさんお祝いに駆けつけていた。
 野村胡堂はロングセラー「銭形平次」で有名であり、神田明神には碑もある。ストーリー立ても江戸下町・浅草が舞台のひとつになっている。それだけに来賓者には、浅草に縁がある芸能、舞台、寄席関係者が多かった。

 小中さんは日本ペンクラブ理事であり、文壇の大御所だ。授賞式で、「無冠の帝王」と聞かされて、えっ、と驚きを覚えた。プロ作家のほとんどはなにかしら文学賞歴がある。それだけに、小中さんは胸に秘めた思いがあったのか、壇上ではふだんに増して微笑みがあふれていた。

 同賞の審査委員長の奥本大三郎さんは、挨拶のなかで、
「野村胡堂は仏文のインテリです。小中さんも東大卒の仏文の教養人です。源内は理系と文系の両道の人でした。源内がしっかり描かれた作品です」
 と評していた。

 小中陽太郎さんは受賞挨拶のなかで、
「子どもの頃は鞍馬天狗、銭形平次、ロビンソン・クルーソーが愛読書でした。源内は四国出身の才能に満ち溢れる人物。他藩に召し抱えられること相成らぬ、と申し渡されていただけに、多彩な才能・発明のなかで、戯作で憂さ晴らした面がある」
 と源内の生き方にふれていた。

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『S-NTK』 旗揚げ公演=喜劇とショーで魅了する

 元宝塚歌劇団の五月梨世さんが、日本大学芸術学部(日芸)の帆之亟(はんのじょう)さんの同期会とが、 S-NTKを旗揚げ公演を行った。1月25日、大井町きゅうあん小ホール。華やかな舞台で、6000円の入場料で十二分に堪能できる内容だった。将来の活躍が期待できる。

 帆之亟さんは日芸卒で、朝丘雪路の相手役とか、山田五十鈴「春の名残り」で大石主悦とかを演じてきた。五月梨世さんは宝塚の男役だ。親戚筋に、故南風洋子(女優・宝塚トップスター)がいる。
 ふたりはかつての大物女優を介して知り合った仲である。この公演の企画・藤本佳子プロデューサーとの縁で、 S-NTKが誕生した、

 第1部は喜劇『お菊皿騒動』(落語「お菊の皿」より)。美しい女形を得意とする帆之亟さんが、徳川将軍から賜った皿を1枚なくす、お菊の幽霊役だ。「1枚、2枚、3枚……」のお菊が、まさか男性とは思えない美姿である。

 怖いもの見たさの町人たち(落語の世界のひょうきん者)らが、愉快に幽霊をのぞきに行く。男役の1人が五月梨世さんだ。宝塚の男役だっただけに、抜群の魅力を醸し出している。愉快に演じるのが雨川景子(あまかわ けいこ)さんと、大旦那ぶりの妙を見せるのが、「まるのめぐみ」さんである。旗揚げの初顔合わせ手とは思えない、3人の呼吸だった。

 つまり、男性と女性が役の上で、男女が入れ替わっているのだ。落語でも楽しい四谷怪談だけに、観客もストーリーを知っている。そのうえで、愉快に楽しめるから、さすが舞台俳優・女優だ。
 映像、映画と違って、役者は細切れでなく、一本の筋を通すもの。人間だから、長時間のセリフも微妙に度忘れするが、うまく取り繕い処せる。それも舞台役者の腕前で楽しいし、見事だ。

 第2部はショー『春夏秋冬』が開催された。華やかな十二単は熱い感慨を覚えてしまう。歌と踊りと衣装と。近々に写真で、これら舞台が堪能できるように紹介したい。

                                             【予告】
 

中國新聞で、執筆中の歴史小説が紹介される=もう一つの戊辰戦争

 中國新聞社の岩崎誠論説委員から、年初に「髙間省三の小説はいつ書きあがりますか。何月に出版ですか」と問い合わせがあった。執筆中であり、まだ初稿の段階で、すこし戸惑った。
 予定は3月には脱稿し、5月には出版だから、その通りにお応えした。問われて、タイトルは未定です、と話す。小説執筆は仮題が必要なので、『二十歳の炎』としているが、活字になってしまうと、拘束されるし、出版社は売れるタイトルが必要なので、題名は言葉にしなかった。

 中国新聞1月16日朝刊で、自衛艦が広島沖で釣り船と衝突事故を起こし、一面トップを飾る、その日の文化欄(12)で大きく取り上げてくれた。『戊辰戦争と広島藩テーマ』が目に飛び込んでくる

 記事のリード文のみを紹介すると、
『明治維新に一定の貢献はしたが、薩長土肥の陰で新政府の表舞台に立てなかったのが広島藩だ。時代の変わり目にどう動いたかは地元でもほとんと知られていない。
 その中で戊辰戦争に身を投じ、現在の福島県浜通り地方の戦場で21歳の命を散らした悲運の藩士がいたという。高間省三。ことし歴史小説の主人公になる』
 という記されている。

 同紙で書かれたように、幕末の芸州広島の活躍は殆ど知られていない。作家や研究者はいまなお少ない。理由は二つある。
 ひとつは1945年の原爆は広島城の真上を狙った、城を取り囲む武家屋敷は廃虚で、史料は喪失した。致命的である。
 もう一つは戦前の広島は帝国大学がなく、高等師範学校だった。だから、文部省の与えた教科書を教えるだけで、帝国大学のように、独自の芸州広島藩の研究がなされていない。結果として、活字になった幕末や戊辰戦争の研究資料が発表されていない。
 
 薩摩、長州、土佐の豊富な史料に比べると、芸州広島の資料はあまりにも少なすぎる。実に、100分の1以下だろう。ある意味で、薩長土の資料からの小説にしろ、幕末紹介記事にしろ、それは書きつくされている。坂本龍馬ひとつとっても、大同小異、内容はほとんどおなじだ。

 その点では、未開発の幕末広島史は、もう一つの戊辰戦争の意味合いが出てくる。従来の史観からすれば、まったく逆とか、途轍もない資料が見つかることもある。だから、「船中八策は偽物だ」とも断言できる。
 大政奉還は広島藩が早くから推し進める。後藤象二郎が横取りした。それだけならばよいのに、後藤は広島の執政・辻将曹(家老級)にあることないことを告げ口した。それまで倒幕が薩芸で推し進んでいたけれど、薩摩と芸州広島の仲を裂く行為に及んでしまった。

 広島藩・浅野家臣の船越洋之助が、辻の口からそれを知り、中岡慎太郎に抗議すると、
「貴藩に申し訳ないことをした。後藤象二郎を斬る」
 と刀を手にした。
 こうした史実も見つかる。

 土佐側の書き手から、中岡慎太郎が後藤象二郎を斬る、という内容は中岡の日記からわかっていても、前後の流れが判らず、世には出してこないだろう。まして、龍馬・中岡暗殺にも絡みかねないし。
 ちなみに、同席していた品川弥二郎(長州)が、おどろいて中岡を諭し、後藤象二郎暗殺を思いとどまらせたのだ。

 戊辰戦争の会津追討にも、思わぬものが発見できる。「会津の悲劇」となると、学者や研究者や作家など、長州・世良脩蔵の傲慢さを中心にしてまわしている。基点がそこにある。
 広島側の史料から見ていると、「えっ」というものが出てくる。京都・太政官(岩倉、有栖川)などは、送り込んだ公家、下参謀の世良などは早ばやと見捨た、第二次の行動に出ているのだ。
 世良が殺されても、殺されなくても、関係ないじゃないか。そんな発見もある。

 幕末の芸州広島はつねに新たな発見があり、おどろかされる。それは手垢がついていない歴史に携われる魅力でもある。小説の決められたページ数となると、素材が多すぎ、目移りがして取捨選択に苦慮してしまう。

 中国新聞には大きく取り上げられていたし、もはや時間のかかる一次史料の読み込みよりも、ここらで小説執筆上の取りまとめにウェイトをかけよう、と決めた。

人物の名づけは難しい? (下)= 現代かわら版

  カルチャーセンター「小説講座」で、折々に、登場人物の読み方が判らない作品に出合う。ルビをふってくれると、それなりに人物像が描けるが、「純紀」、「海月」、「凛々魅」になると、『なんて読むんだろうな』とそちらばかりに気がとられて、人物の造形が薄らいでしまう。
 講師の立場だと、途中で投げ出さないが……、そこらが解っていない受講者もいる。

 名まえに凝る時間があるのなら、もっとテーマにこだわってよ。そう言いたくなる。「騎士」(きし)と読み込んで添削し、教室で受講生と向き合うと、「ナイト」だという。

 ペンネームが読めないひともいる。プロ作家になって、作者名が難しいと不利になる。そう思うのだが、当人がこだわって名づけたのだから、あまり余計なことは言わない。

 大人のペンネームは自責だけれど、親が出産後につける出生の名まえとなると、読みづらくて、その将来は如何なものか、と思う。

 昭和時代には、繁華街のキャバレーやパーの女性の名だな、そんな名刺をもらったな、という記憶がよみがえる。このごろはその手の名まえがずいぶん多い。当て字がやたら目立つ。
 横文字を日本語にあてたりしている。「愛」(ラブ)となると、誰もが「あいちゃん」と読んでしまう。

 あなたのお子さんの名前は? と問うて、「すばる」、「ありす」、「たける」、「あいら」と返ってくると、とうてい漢字がすぐに浮かばないし、書けもしない。無理して、ここまで名前を凝る必要があるのかな。小学校の先生は大変だろうな、と気の毒に思う。

「柊」が書けるようになるのは、中学生くらいだろうか。それを「のえる」と他人に読ませるとなると、至難の業だ。
 親が、わが子を「あーちゃん」と読んでいるから、どんな字ですか、訊くと、「あとむ」だという。もはや漢字まで訊いても、小説では使えない。

 現代をかわら版的に風刺すれば、名前がすんなり読めると、「個人情報保護の時代」に見合っていない。人物名まで伏せ字にする時代だ。
 これら難解な名まえブームは、この子らが大人になるまでか。なに事にも反動がある。わが子には読みやすい名まえをつける時が到来するだろう。
  
 路上で、「あいらちゃん、こっちよ」と呼ぶから、ふり返ると、ペット犬だったりする。人間にもおなじ名まえがあったな、と妙な感慨を覚える。
 動物には戸籍登録はないし、どんな難解な名前でも、ご自由に……、と思ってしまう。

 名まえには、「真知子」、「裕次郎」など、つねに時代を反映した流行がある。かつて寺の住職や漢学者や知識人に命名してもらうブームがあった。難解な名前が多かった。

 気取って名づけられた子ども、親も迷惑なはなしだ。頼んだ手前、「先生、もっとやさしい名まえにしてくれますか」と親は拒絶もできず、そのまま出生届けになってしまう。

 ちなみに、私の妻は「倭香」である。電話で、相手にどう伝えるべきか、ひと苦労である。「人偏に、右は……」という。あるいは「倭寇という字に……」、「わこうって、どんな字だったけ?」、と問い返される。「ところで、どう読むの?」 ひらがなにすれば、義経の愛妾とおなじである。
 さすがに、いまだ犬にはこの名前を聞いたことがない。
 
 
 

人物の名づけは難しい? (上)= 現代かわら版

 現代小説、時代小説をとわず、登場人物の名づけは苦労させられる。とても気の弱い人物に、「熊五郎」と名づけると、読み手のイメージからほど遠くなる。気立ての優しい美しい女性に「魔子」とつけると、内面が怖い女性に思われてしまう。

 一度、小説の主人公で使った名まえは、作者の頭のなかで人物像が定着しているから、書きやすい。性格や容姿など書くには楽である。だけど、またおなじ名まえか、と思われてしまう。
 過去の名まえは極力使わないようにする。すると、なかなか思う名まえが浮かんでこない。

 シリーズ物(連載)の主人公は苦労しない。だけど、小説はけっして一人だけではない。脇役まで過去の作品とおなじだと、ストーリーが似通ってしまう。だから、登場人物は都度、名まえを変える必要がある。

 執筆ちゅうに、新たな人物が登場してくる。そのたびに、学生時代の同級生名簿、所属団体の名簿から探してみたり、本棚にならぶ書籍の背表紙から、名まえをあれこれ考える。なかなか決まらない。
 一度決めても、しっくりこない。「黒川」から「白川」へと途中で変えると、奇妙なもので、人物のイメージがなんとなく変わってしまう。ストーリを運ぶほどに、当初のあらすじとは違ってくる。

 その点、歴史小説は名まえに苦労しない。坂本龍馬、勝海舟などはそれだけで解ってくれる。人物描写はほぼ不必要だ。「暗殺前の龍馬が、33歳の中年太り」そんな風に創作すれば、嘘っぽくなってしまう。ここらは描写しないほうが賢明だ。徳川家康ならば、太り加減でも通じるだろうが。

 手もとに今ある史料には、「小鷹狩之丞」と名まえが記載されている。漢文調だったり、候文だったり。そこから性格などとても判読できない。銅像でもあれば、まだわかりやすいが、それすら彫刻家のイメージである。
「綾」が書いた流暢な和歌がある。書体からしても、女性だろう。だが、美醜の顔立ちなどわからず、背丈すら見当がつかない。数行の和歌からだと、それこそ作者の勝手な人物イメージで書くしか方法はない。


「歴史小説くらい、嘘っぱちな小説はないんですよ」
 というと、たいてい驚かれる。会話文など、99%ウソだといっても、決して言い過ぎではないだろう。

「駿府の大御所様に報告せねばならぬ」
「そのからだで駿府に行けるか」
「たとえ、張ってでも」
 こんな形式で史料が残っているわけがない。作者が数百年まえに遡ってみたり、訊いたりした事実は100%あり得ない。残された手紙すら、文字数にすれば、ほんのわずかだ。

 作者が嘘を組み立てて、それらしく、その時代を描写するのだ。読者がその時代に感情移入してくれると良いのだから、と割り切って書くものだ。

 ただ、歴史小説は人の名まえは嘘を書けない。ここらが唯一の真実だろう。むろん、手紙や日記など、自分の都合の良いことしか書いていないから、内容など疑ってかかったほうが良い。

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(下)=幕末史から学ぶ

 鳥羽伏見の戦いの前 慶応3年12月の小御所会議で、長州の朝敵が解除された。そこで初めて長州藩が京都にやって来れたのだ。
 淡路島沖、西宮の足止めで、倒幕に関与できなかった、うっ憤が長州藩兵にあったのだろう。

 近衛兵の任務に就くべき長州軍隊だが、約2週間後だった。薩摩藩が徳川を挑発し、仕掛けた鳥羽伏見の戦いに、長州藩兵がすぐ乗ってきたのだ。
「島津は徳川将軍の正室に入っている。これは島津家と徳川家の身内戦争だ。やらずもがの戦いだ」と山口容堂の命令で土佐兵も動かず、広島藩の近衛兵たちも、傍観の立場で、動かなかった。
 
 それなのに長州藩兵の参戦が火を点けたのだ。ここから日本の歴史が軍国主義国家への道、と切り替わってしまった。

 幕府軍、会津・桑名が、異議申し立ての建白書を朝廷に届けるために、ほとんど無警戒で京都に上っていた。(会津容保が3、4人の侍を連れて京都・朝廷に持ってくればよかった……。その失策はある)。参戦した長州藩が火に油を注ぎ、容堂の指示を無視した土佐軍がさらに加担し、大きな戦争になっていった。

 勝海舟の功績だろう、江戸城が無血開城した。
 戦争がどれだけ庶民を悲惨な目に遭わせるか。長州の思想には、そんなことお構いなしの面が強い。西郷に代わり、長州藩は軍師・大村益次郎を投入し、上野で彰義隊を討つ、会津を討つ、と戊辰戦争へと拡大していったのだ。

 会津落城(開城)の後はどうなったのだろうか。天皇を東京に移し、大元帥の下に、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に参戦し、日中戦争、第二次世界大戦へと、軍人と庶民の血を流させた。

 戦争でも儲かるのは、政治と癒着した経済を動かす人だ。現代ではどうなのか。

「原発建設」を海外に売り込む。庶民への口ふさぎの「特別秘密保護法案」を成立させる。国民の知る権利は守ると言いながら、情報を教える側がいなければ、民は知る由もない。さらには大村益次郎たち長州藩が造った靖国神社、A級戦犯を合祀する、同神社への参拝へとつづく。

 安倍首相は靖国神社の境内で、「おらが長州の大先輩」だと、関東・東北を血の海にした大村益次郎の像まえで、胸を張って歩く。
 これで終わったわけではない。2014年は何をしでかすのか。

 長州閥の政治家たちが作った、嘘の歴史、「薩長同盟」の美化から、日本人が抜け出さないかぎり、この流れは止まらない。鳥羽伏見の戦いが日本を血の国家にした。それが靖国神社へと密接に結びつく。そう教えなければ、日本人は歴史から学べず、現在から今後の流れを予測できないだろう。

 安倍首相、さらなる軍事思想の政治家たちが目指す、次なる暴走はなにか。「徴兵制度」が次のステップだと、明治の近代史から学びとれるのだが……。
                                                   【了】
 

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(上)=幕末史から学ぶ

 こんな危険な安倍晋三さんを、だれが内閣総理大臣に選んだのか。途中で政権を投げだした人を、再度、首相にさせたのか。この選択肢の誤りは、将来の遺恨につながるだろう。
 そう言いたくなるほど、安倍首相の一連の動きは、当人の意識・無意識にかかわらず、まちがいなく軍国の道へと歩んでいる。

 幕末の長州藩がいかに乱暴な、軍事色の強い藩だったか。それと安倍政権はずいぶん重なり合うものがある。
 
 後世の人から見れば、安倍首相ひとりのせいだ、といえないのだ。私たちが手を貸そうが、貸すまいが、政権を黙認してきた、社会の一員なのだ。安倍首相から政権を取り上げる努力を怠っておいて、軍国への道を走らせてきた。私たちは、その一切を時代のせいにはできないのだ。

「鳥羽伏見の戦い」以降は、長州藩の暴走は目に余るものがある。それでも反旗を翻せず、徴兵制を認め、軍事国家の道を表向きは賛辞してきたと、その時代に生きた人たちの責任になる。
 いち個人の力だけではとうてい抵抗できず、わが身を守れず、治安維持法で口をふさがれ、1枚の赤紙で戦地に借り出されて死んでいく。妻子は本土空爆や原爆で家屋を焼かれ、死んだり、飢えていく。

 鳥羽伏見の戦い以降は、日本は血の歴史だった。それでも、その時代に生きた人は、時代のせいにできない。

 安倍首相が「不戦の戦い」とか、「戦没者への哀悼の誠」とか、どんなきれいごとを述べようとも、長州藩の軍事優先思想が、戦争の大悲劇を招いたのだ。その道が底流でいまなお引き継がれている。

 現代の政治、昭和の歴史をあきらかにするには、明治維新まで遡らなければならない。

 幕末の長州藩はひたすら「攘夷」を叫び、下関の砲台から外国船に砲弾を撃ち込む。翌年には仕返しに、四か国連合艦隊に襲われてしまう。むろん、犠牲になったのは藩士よりも、民・領民である。
 蛤御門の変では、長州藩士たちは京都御所に発砲し、たんに退却すれば良いものを、京都の町に火を放つ。大火災が、京都庶民や住民の資産を焼きつくす。現在において、もしわが個人資産が一瞬にして灰になれば、どんな悲しい想いになるだろうか。

 戦いの大義すらあれば、民の生命財産などどうでもよい。少なくとも、長州藩には庶民への配慮がなさすぎる戦いが多い。わが身に置き換えれば、どれだけ罪な行為か、理解できるはずだ。

 長州はなにかと「薩長同盟」で倒幕した、と誇らしげにいう。けれど、これは嘘の歴史である。かれらが後世につくった、政治的なまやかし(欺瞞)である、と断言できる。

 慶応3年の大政奉還で、徳川幕府から朝廷に、政権が平和裏に返還された。長州藩はこの大政奉還にまったくかかわっていない。朝敵で、京都にすら入れなかったのだ。
(一部の藩士は隠密的に偵察していたけれど。これが後世に英雄として誇張されている)。

  大政奉還後、慶応3年11月末、(龍馬と中岡慎太郎が暗殺された直後のころ)、薩摩藩と広島藩は京都へと兵をあげた。会津・桑名藩と御所警備に代わる、近衛兵の役が目的だった。

 幕閣がもともと、「毛利家の家老を、長州征伐の罪を問うから、京都に連れて来い」と命じている。そこで薩摩と広島藩は、毛利家老の護衛を口実に使おうと決めた。つまり、長州はダシだった。

「ならば、長州藩の兵も一緒につれて来よう」
 薩摩と広島はそう決めた。広島県・御手洗港に3藩が集結し、長州軍艦には広島藩の旗を掲げさせた。そして、淡路沖までくると、その船内と、西宮に駐留する大洲藩の陣内で、長州藩兵をかくまっておいたのだ。

 なにしろ暴走する藩だ。とくに広島藩などは隣国で十二分にわかっていたから、広島藩士・船越洋之助が大洲藩に、「長州を西宮に上陸させるから、そのまま引き留めておいてくれ。朝敵だから、京都に来させないでくれ」と依頼しているのだ。大洲藩はそれを守り切った。

 小御所会議で、明治政府が正式に誕生した。長州はこの場にも関わり合っていなかった。つまり、倒幕に役立つ藩ではなかったのだ。

広島空港で頑張ってる、手作り自然食品=広島西条農高

 広島に私用があり、12月16日はトンボ帰りだった。
 先週はお茶の水女子大の図書館で、『広島市城下町絵図(幕末)』が閲覧・コピー入手ができた。広島藩の藩士約350人が住んでいた家屋敷の絵図だ。一軒ずつ探しながら、あるかな、あるかな、と丹念に見ながら、私が現在・執筆している歴史小説の主人公「高間省三」の家を発見することができた。家主は父親「高間多須衞」の名だった。発見できた瞬間のうれしさは歴史小説を書く冥利だ。
 
 その家は京橋川の橋の袂だった。当然ながら、1945年の原爆投下で、広島の城下町は跡形もないけれど、それでも現地を歩いてみたかった。
 ただ、この日は夕方6時から日本ペンクラブの理事・委員の忘年会がある。またの機会がある、と広島・絵図歩きは後日にまわした。午後3時発に乗るために、広島空港に戻ってきた。

 旅先では土産物は買わないタイプだ。空港ロビーで、女子高生たちが遠慮がちに呼び込んでいた。『活き、活き。やっぱりおいしいね、広島畜産』と幟が建てられている。 広島といえば、カキ養殖の水産業が有名だが、東広島市で農作物、畜産業も活発におこなわれているようだ。足を止めてみた。

 広島県立農業高校の女子生徒たち約10人だ。文部省指定「スーパーサイエンススクール」の学校案内も配られていた。家畜の飼育から食品づくりまで一貫して学んでいる。同校は園芸、農業機械、生物工学など幅広い教育の場である。

 販売品をのそき見た。「ウインナー・ソーセージ・150g」(350円)、「金粉入り・ビスケット」(50円)、「ゆず飲料・缶250g」などを販売していた。
 彼女たち高校生が熱意と努力で作った食品だけに、買い求めたくなった。その熱意を土産にしよう、と決めた。

 小袋に入ったビスケットは安価だった。コスト割れだろうな、利益がないだろうな、と余計な心配をした。高校生の段階では原価管理・計算の指導は及ばないのだろう。もしかしたら、学校教育では利潤を出したらいけないのかもしれない。
 自分たちの手作りの食品をまず食べてもらう。学校の存在を知ってもらう。農業高校のカリキュラムを理解してもらう。そうした趣旨と展開だろう。
 男子教師は地味な存在で、パネルや販促物の取り付けの指導をしている。

 愛想の良い女子高生たちが「ウインナー・ソーセージには保冷剤を入れますか」と訊く。飛行機の出発待ち時間を使って賞味してみたいけれど、持ち帰ることにした。

「西条農高は全国マラソンに出るの?」
「陸上は強いです」
 年が変われば、恒例で、高校生の全国大会が京都で行われる。同校が出場することがあれば、応援したい気持ちになった。少なくとも、広島空港で見た、あの農業高校だろう、と校名は思い出すはずだ。空港には全国各地から旅人が来る。学校名を売り込むためにも、教育内容を理解してもらうにも、良い企画だと思う。

 
 

見まい、聞くまい、話すまい、スパイにご用心=こんな国家に逆もどり?

 数日前、立ち寄った古本屋の主が話すうちに、座敷の奥から一冊の雑誌を持ち出してきた。「もうこの雑誌は出ないでしょうね」と勧められた。値段を聞いて、一瞬高額だな、と躊躇(ちゅうちょ)した。
 それは昭和15年12月1日発行『同盟グラフ』(同盟通信社・70餞)だった。2600年奉祝式典の特集だった。記念観兵式などの写真で大きく報じられていた。
(記念号だから、買い求めておこう)
 同紙は『独・伊に湧く歓喜の嵐・日独伊三国同盟』の後報も大きく報じられていた。12月号だから、1年間の総まとめがあった。1ページが8つのコマで、写真とイラストを交互に組み込まれていた。

 「ヒットラー総督が官邸で歴史的調印式」のとなりのイラストに、眼が釘付けになった。
『見まい、聞くまい、話すまい 壁に耳あり 障子に目あり 心せよ! スパイにご用心』
 国民の発言を一切止める、すごい政策だ。なにかしらしゃべれば、一網打尽で腰縄で逮捕する。そして、官憲(警察)が獄に連れて行く。これが恐怖の治安維持法かと思った。

 さらに目を凝らすとキャプション(写真の説明)には、『全国一斉外国諜報網の一部検挙の断下される』(7月27日)と明記されていた。

 日本人どうしが見ることも、話すことも、聞くことも、いっさい自由にできない、暗澹たる社会なのだ。言論の自由がここまで抑圧される。それは畏怖を通り越した、恐怖に思えた。

 1925年(大正14)年4月22日に治安維持法ができた。その目的は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まるものだ。それだけに限定されると、国会でも、法案提出者たちはそう答弁していた。それから、わずか15年で、国民には近隣もいっさいしゃべるな、周りにスパイがいるぞ、と発言の自由を奪っているのだ。むろん、街頭活動など論外だ。

 この雑誌にイラストが掲載された翌年の、1941(昭和16)年3月10日に、治安維持法は全面改正されている。宗教活動、思想活動、右翼、左翼を問わず、政治活動、政府批判のすべてが弾圧の対象となった。路上で、うかつなことを一言でも喋れば、獄へ直行する社会になったのだ。


 政治家や官僚は不都合を隠す。やがて法律で取り締まる。それが加速度すると、国民生活は暗澹(あんたん)たるものになっていく。

 温故知新(古きを訪ね、新しきを知る)。特定秘密保護法案が衆議院を通過した今、このイラストから学ぶものはないか、と考えてみる必要がある。
 イラストの「スパイ対策」とこんかいの「テロ対策」はどのように定義が違うのか。さほど違わないし、解釈しだいによっては共通する。

 あえて強調するが、このイラストは外国の話ではない。私たちの両親、祖父母が生きた社会なのだ。日本人が日本人を弾圧した、歴史的証言のイラストなのだ。

【オピニオン】 政党政治はもはや死に態だ=平成の治安維持法

 安倍政権が11月26日、「特定秘密保護法案」を強行採決で衆議院を通過させてしまった。次の世代には間違いなく1000兆円を上回る国債の借金、さらに「平成の治安維持法」の悪法まで作り、大きな負担を与えるだろう。
「あなたたち(親、祖父)の世代はなんて酷(ひどて)いことをしてくれたのですか。……」
 次なる世代には、私たちは糾弾されるはずだ。

 大正時代の『治安維持法』が国民の不幸に及んだ。この法律を拡大解釈した、ときの政府は国民に思想弾圧を加えた。「安政の大獄」よりも、はるかに多い獄中死をもたらした。
 だれもが逮捕が怖くて、戦争突入すら反対を言えず、結果として緑豊かな日本の多くの都市が焼け野原になり、若者たちが血を流し死んでいった。
 国土を焦土化し、廃墟にしたのは、まさに世界最悪の悪法とまで言われた「治安維持法」があったからだ。この歴史から、学ぶことはできなかったのだろうか。

 政権や権力者は不都合なことを隠したがる。それが外国に漏えいすること
よりも、国民に知られることが怖いからだ。だから、「特定機密保護法案」を出してきた。
 衆議院を通過した今、国民が声を大にして「参議院でストップ」と言っても、ほとんど関与できない現実がある。この際、「政党政治」ははたして正しい民主主義なのだろうか、と問うてみよう。

「選挙で選ばれた数百人が政治を支配する」。国民比率では数万分1のわずかな国会議員が、数年間にわたり、やたら法律を作りつづける。これは期間限定の独裁主義ではないだろうか。民主主義という、口当たりの良い言葉で包み込まれているが、どう考えても「期限独裁主義」である。

『紙』の時代は投票用紙しか手段がなくなった。ある意味で、政党政治は最も有効な手段だった。『デジタル』の進化した今、政党政治はしだいに民意が反映しない、老朽化した政治体制になってきた。IT時代に即した、国民が立法に対して意思表示を示す、『直接投票政治』へと進むべきだろう。そのほうが民意を十二分に反映できる。

 一つ法律、予算、事案ごとに国民が成否を出すシステムは作れるはずだ。

 かえりみても、衆議院・参議院選挙はムードで決まる。メディアが持ち上げた政党が大量に票を伸ばす。小泉政権、民主党政権、安倍政権はすべてムードで誘導されて大量得票を得てきた。「郵政」「自民逆転」「経済成長」一つ政策の掲げ方の賛否を問う選挙だった。
 その結果として何が生れたのか。政府は全信任を得た顔で、あらゆる法律を作っていく。この矛盾はもはや解消すべき時代にきている。
 政党政治が陳腐化してきたと、国民自身も自覚するべきだろう。

 明治時代から西洋の民主主義を学び、取り込んできた。その欠陥が見えた今、それを改善し、新たな立法システムを作るべきだ。「立法」は国民が決める。選挙で選ばれた政権は「行政」を担う。「司法」も国民が関わる。
 外国に先駆けて、日本人がこうした最新の民主システムを構築していくべきだろう。世界の魁(さきがけ)となってもいいだろう。

 これを推し進めれば、国会議員はきっと利権を失いたくないから、大反対するだろう。『ITに弱い人はどうするのか。身体障害者は投票できるのか』と難癖をつけるだろう。「賛成」、「反対」とテレビに向かって一言いえば、音声で読み取れる時代は、もうそこまで来ているのだ。

 IT進化はすさまじい。わずか1秒間あれば後楽園ドームの観客3万人の1人ひとりが特定できる。ボイス(声)認識はもうセキュリティーのなかに組み込まれている。
 有権者が一言「賛成」、「反対」といえば、瞬時に国会で集計できるのだ。せめて、重要法案はこのシステムを組み入れるべきだ。

 いまから投票システムを研究する国家的プロジェクトをつくれば、勢い推進されるだろう。矛盾に満ちた政党政治から脱皮し、新しい政治体制の社会を作るべきだ。

 こんかいの「特定秘密保護法案」は平成の治安維持法だとまで言われていながら、メディアの動きが鈍かった。月刊誌、週刊誌はほどとん取り上げず、新聞も片隅に置いてきた。
 思想信条、報道の自由の危機なのに、新聞は衆議院通過の「強行採決」のほうが目立つ。本気で報道の自由に立ち向かっているのか、「特別秘密法案」に反対しているのか、と疑いを持ってしまう。

 一部新聞は『参議院の力が試される』としているが、ジャーナリストは「報道の力」、作家は「ペンの力」が試されているのだ。本質の捉え方が違うし、タイトルの踊り方がちがう。

 大正時代の「治安維持法」が10年、20年後になって牙をむいてきた。そして昭和時代に生きた人たちを最恐の生活に陥れた。「若い命を大切にしなかった」時代に及んだ。このままでは、平成の「特定機密保護法」が可決され、次世代を苦しめることになるだろう。

 あなたも、私も、ともに同じ世代としてこの法案を作った責務があるのだ、と認識するべきだろう。