ジャーナリスト

瀬戸内の大崎上島で「桜田門外の変」の図と書状見つかる=大発見か?

 歴史小説を書いていると、思わぬ情報や史料に出合う。まずは「本物か、偽物か」と疑ってみる。後世に書かれた昔話しは、嘘が多い。その時代に書かれたものしか、私は信用しない。少なくとも、それを基準にして判断している。

 その時代の物証でも、書いた当人が意識してごまかせば別だが、おおかた本物だろう。たとえ、嘘を書いていたにしても、それを信じるよりしかたない。

 こんかい瀬戸内海に浮かぶ広島県・大崎上島で、「桜田門外の変」の略図と書状が発見された。貴重な史料だと思う。なにしろ、井伊大老が暗殺される現場の様子が克明に記されているからだ。

 なぜ、こんな島で、貴重な史料があったのか。ミステリアスである。


 井伊大老の暗殺場所は、絵図から、より絞り込んで特定できる。絵師による浮世絵では桜田門が強調されているが、(上段の史料)の目撃から、松平市正の表門が戦場だったとわかる。

 ことし(2014)12月11日、私の出身地の大崎上島に移住した布施氏と、葛飾・立石で、ひさしぶりに会った。布施氏は東京・葛飾出身であり、リタイア後に、同島に移り住み、島の文化活動に多くを費やしている。
「望月邸の襖の下絵から、桜門外の変の図と、書簡が出てきたのですよ」
 布施氏がおどろくことを言った。
「ほんとうですか」
 彼がスマホに撮影していたので、私はそのデータを貰った。これまで、(私の記憶の範囲)、文献では見たことがなかった、井伊大老が暗殺された現場の貴重な目撃証言だった。


  大崎上島とはどんな島か。
 本州・四国とも橋がつながらない、瀬戸内の孤島である。人口は約8000人。江戸末期から明治、大正、昭和にかけて海運、造船、塩田などで栄えた。当時は、約3万人ほどが住んでいたという。


 豪商の望月氏(同島・東野)は海運業者で、関西から芸州藩の御手洗、尾道、宮島の各港へ手広く物資を運んでいた。
 明治時代には内務大臣となった「望月圭介」の生家でもある。池田隼人や宮沢喜一の父親は「望月圭介先生は、私たちを政治家として育ててくれた、大恩人です」と語らしめている。


 往年の繁栄を忍ばせる見事な大邸宅である。このたび「海と島の歴史資料館(大望月邸)」と生まれ変わった。この改装工事の折、同家の襖の張替えが行われた。下張から、膨大な書類・書簡が見つかった。廃棄寸前に、郷土史家がそれを譲り受けて保管している。


 穂高健一著・幕末歴史小説『二十歳の炎』を出版した直後、知り合いの布施氏から連絡を受けた。「大崎上島の豪商・望月邸から、兵庫の木綿問屋の運搬記録がありましたよ」
 さっそく中国新聞『緑地帯』の連載コラムで、私が執筆した『広島藩からみた幕末史』に、それを紹介した。


 同『二十歳の炎』の第3章で、主人公・高間省三が老中小笠原の暗殺を語る場面がある。そのなかで、「井伊大老の桜田門外の変では、幕府や彦根藩は病死として片づけた』という下りがある。

 実際は、水戸藩からの脱藩浪士の17名と薩摩藩士の1名が彦根藩の行列を襲撃した、暗殺であった。


「なんで、瀬戸内の島に、こんな貴重な史料があったのだろう?」
 よくよく考えると、なんとなくひも解けてきた。

 幕末志士たちは西国を行き交う時、陸路でなく、その多くは海路を利用していた。芸州広島の御手洗・鞆の浦などはありとあらゆる志士が上陸している。とくに御手洗の遊郭が情報交換の場だった。(京都や長崎よりも安全な密議ができた)。

 望月氏はこの御手洗航路の最も大手の海運業者だった。なんらかの理由で、例えば、貧しい脱藩志士から船賃替わりで、貰いうけたとか……。
 あるいは、井伊大老暗殺に無縁でない薩摩藩の幕末志士が、秘かに持ち歩いていた可能性がある。「二十歳の炎」第5章でくわしく展開しているが、御手洗港は、薩摩藩の海外密貿易の拠点であった。港には薩摩邸があり、同藩士6-7人が常駐していた。
 望月氏が、薩摩藩士と親しくても、なんら不思議ではない。


 こんかい発見された史料の歴史的な価値を考えてみたい。「当月3日桜田御門大騒動」と、その月の内に、広く知れ渡っていたことだ。つまり、幕府が井伊大老の病死を発表する以前に、瀬戸内の島の海運業者が、「桜田御門前、松平市正様の表門で暗殺があった」と知っていたことだ。

 安政の大獄では、幕府が厳しい思想統制と弾圧をしていたが、情報統制まで及んでいなかった。それを物語る史料でもある。

 前夜から雪が降り積もっていた、暗殺現場の情景までもしっかり書きとめられている。幕府は、目撃者の口封じまで出来ていなかったのだ。 
 それにしても、襖の下張りがよくぞ廃棄されなかったものだと、感心させられた。

「二十歳の炎」が「東都よみうり」で紹介=幕末史の視野を広げる1冊

『東都よみうり』は、隅田、江東、江戸川、葛飾、港区台場など20万世帯に配布される。毎週金曜日。同紙が10月17日号で、幕末歴史小説「二十歳の炎」を取り上げてくれた。
 タイトルは「幕末史の視野を広げる1冊」である。幕末の動乱のなかで、命を散らした広島藩士を主人公にした小説がこのほど出版された、と書き出す。

『幕末といえば、薩摩、長州、土佐、徳川家、会津などを時代を時代の主役に据えた物語が多いが、それ以外の地域や人々が決して時代のうねりと無縁で生きていたわけではない。この小説を読めば、そのことに気づかされる』
 このような講評などが盛り込まれている。

 同書はいま広島で、中国新聞、広島護国神社、修道高校、および関係者が推してくれている。漸次、拡大している。
 髙間省三を全国で知ってもらうために、メディアを通じた首都圏の販路拡大が課題である。その一歩が踏み出せた。

 当日、よみうりカルチャー金町から、「文学書を目指す小説講座」の新規申込者が複数ありました、と案内がきた。おなじ「よみうり」系列だけに、反応が早いな、と思わせた。

 かつしか区民大学の受講生に、同区・葛飾鎌倉図書館の女性職員がいる。彼女も同新聞の記事を読んでいた。
「幕末史に興味をもった住民の方々向けに、図書館内で講演してあげましょうか」
 と提案すると、喜んでもらえた。
『東都よみうり』の縁から、即日に、次なるステップへと歩み出した。

「神機隊と髙間省三」の講演をおこなう=広島・海田町

 10月8日、広島県・海田公民館で、「海田郷土文化研究会」の主催で、「神機隊と髙間省三」について講演を行った。13:30から2時間。
 その発端は、ことし(2014)8月30日から始まった中国新聞・文化「緑地帯」のコラム「広島藩からみた幕末史」の連載だった。8回目の最後の記事は、
「修道学園には原爆投下前の学校疎開によって、頼春水、山陽父子以来の広島学問所の史料が保存されている。神機隊の子孫の家には従軍日記などが残っている可能性が高い。広島はこれから幕末史料の宝庫になるかもしれない」と結んでいた。

 
 同研究会の土本誠治さん(後列・左端)から、「神機隊の日記があります」と同紙の文化部に情報が寄せられた。そして、記者から私に連絡があったので、土本さんとコンタクトをとった。
「会のメンバー(出野さん・前列・右から3人目)の、曾お爺さんが神機隊隊士の堀田幸八朗さんです。その従軍に日記が現存しています」
 新聞で予想したことが、まさに的中したのだ。
 
 「二十歳の炎」の取材では、「海田町ふるさと館」の青木義和さんにお世話になった。そんなお話から、「海田郷土文化研究会」に招かれたものだ。

 神機隊の本陣があった志和町の取材で、協力してくださった吉本さん(前列・右から2人目)もいらしてくださった。再会が懐かしかった。

 講座の前に、桐箱に入った『堀田幸八朗・従軍日記』を拝見した。「二十歳の炎」で福島・浜通りの戦いがはじまった、久ノ浜(いわき市)から記載されていた。和紙で丁寧に書かれている。

 神機隊は農兵とはいえ、入隊時に苗字・帯刀を許される武士扱いになる。だから、庄屋を通して、勉学と武術ができる優秀な人材の推薦をもとめた。堀田日記はまさに学力の高さを示すものだ。

 1行ずつ読んでみると、目のまえに戦場が浮かぶ。髙間省三は浪江の戦で死んだ。「堀田幸八朗・従軍日記」は相馬・仙台藩が熾烈な戦いを行う、駒ケ岳の戦いや仙台城に凱旋の入城から、帰路まで書かれていた。
 大変貴重なものだ。

 その日記も参考にさせてもらいながら、「二十歳の炎」の描かれた2年間について語った。そして、質疑応答では、神機隊の本拠地・志和の方も出席しており、数々の質問があった。
「木原秀三郎をもっと描いてほしかった」という声もあった。神機隊の生みの親だから、その想いが強いのだろう。ただ、木原は従軍する前に、広島藩に呼び戻されているので、そこらは触れていない。

 広島護国神社の筆頭祭神・髙間省三は、広島藩きっての秀才だった。「子孫はどうなんですか」という質問があった。省三は戦死したが、実弟の子どもは海軍中将でした。さらに追うと、東大・物理学者ですが、私は取材していません、と答えた。

 省三の子どもを産んだ「綾」についても質問が出た。広島護国神社に綾の和歌が3通残されている。子孫の方が東京に在住し、仏間には「二十歳の炎」の表紙と同一写真が遺影として飾られている。
「綾の子(女子)の子孫だ、間違いないと確信を持ちました」と話した。

 語る方も、聞く方も、有意義な時間だったと思う。

 
 

 

江戸時代の豪商『天下送り役』の千葉邸は見事な造り=広島・海田市

 広島県・海田町の、海田市(かいたいち)は江戸時代、河口と海の接点の地の利から交易で栄えた。広島城から上方に向かい、一里塚が2つ目となる最初の宿場町だった。
 この街に入ると、現代では実にめずらしい、昭和5年に製造された、80年前の木製電信柱が現役で使われていた。中国電力も、コスト面か、史跡か、良いものを残している。

 海田郷土文化研究会「西国街道・海田市ガイドの会」の土本誠治さん(写真・右)に、県重要文化財「千葉家」に案内してもらった。遠くからでも、巨木の楠が目立つ。運送業、酒造りなど広範囲に手掛けていただけに、広い敷地だ。
 入母屋造りの玄関口で迎えてくれたのが、千葉家の家紋(月星)が入った兜だった。

 座敷は書院造で、欄間と床の間が見事だった。その座敷から見る庭園は、まさに往年の豪商の貫録が十二分に現在に伝わる。腰を落として資料の説明を受けると、良い風が通っていた。
 
 千葉家の歴史は古く鎌倉時代に及ぶ。源頼朝は国家統一のために、上総の国の豪族だった千葉家の家臣団を全国に配属したようだ。

                    写真撮影:青木義和さん(海田町ふるさと館)


 3.11三陸大津波の取材の時、私は陸前高田の米崎城址を案内してもらった。千葉家の流れをくむ豪族だったという。土塁が広範囲で、往年の勢力がかんたんに想像できた。
 その千葉家が広島にまで及んでいるとは、ある種の驚きと発見だった。大内の戦いでは、鏡山城(東広島)に、毛利輝元の時代になって海田市に来たらしい。

 幕府の公用書簡や荷物を扱うことを『天下送り』と称した。広島藩の書状を扱うことを「宿送り」と呼ぶ。海田市では代々、千葉家がこれにあたってきた。その御用箱は、24時間のリレー方式で長崎から江戸までつないでいく。
 長崎から海田市まで500キロだが、4日間(96時間)でつなぐ。つまり、超特急扱いだった。こうした職務にまつわる数々の資料が伝わっている。

「御茶屋や脇本陣のかわりに、大名や役人が休泊することもありました。幕府の要人が泊まると赤字、長州藩が泊まると黒字でした」
 土本さんがそう説明する。
 風呂は木製の桶であるが、上級武士階級の入浴から床の間があった。雪隠(便所)には刀掛けがあった。実にめずらしかった。
 これらの構図はは、今後、歴史小説を書くときには役立つものだとしっかり記憶した。


 千葉家は江戸時代に町年寄などの役職も務めたと教えられた。まさに豪商である。史跡となった千葉家には、寛政元(1789年)の建築略図が保存されている。屋敷全体が緻密なタッチで書かれている。


 この後、土本さんが、明顕寺(みょうけんじ)に案内してくれた。第二次長州戦争(1866年)の芸州口の戦いで犠牲になった、越後高田藩の戦死者の墓地がある。大正4年の50回忌に墓地は整備されていた。永代供養料73両が同寺に納められたらしい。そして、現在の姿になっている。
「原田帯刀」という名から、きっと家老も犠牲になったのだろう。

 墓前で、故郷に帰れなかった34人の兵士を想うと、戦争は惨いな、と心から悼みを覚える。

2人の大正演歌・歌手に出会う=岡大介、神川仁

 かつしか区民大学の『区民記者養成講座』は、記事の書き方、報道写真の撮り方、取材の仕方を3本柱としている。2014年度の同講座の5回目で、課外活動「取材の仕方」だった。9月7日、東京理科大学葛飾キャンパス(同区・金町駅より徒歩8分)で開催されていた『第30葛飾区産業フェア』に出むいた。活動時間は10時~16:30まで。

 
 東京理科大学での同フェアは初めての試みである。
 テント村で、受講生がまず取り囲んだのが、「ノンキ節」を歌うカンカラ三線の大正演歌歌手の岡大介さん(36)で、「船頭小唄」など歌っていた。三線じたいがとてもユニークで、受講生の目を惹いたらしい。


 受講生のインタビューがはじまる。
「カンカラとはなんですか?」、
「業務用の豚肉を詰めた缶詰の、空き缶です。手作りで作りました」
 岡さんは三線のボディーを指して説明する。

 受講生が経歴を聞く。岡さんはかつて流しギター歌手(ストーリー・ライブ)だった。新宿とか、葛飾では亀有の飲食街を流していたと話す。
「オッペケペー節」で一世を風靡(ふうび)した川上音二郎(かわかみ おとじろう)の大正演歌に魅させられ、26歳で、この道に進んだ。


 ギターで大正演歌は歌えない。いろいろな楽器でチャレンジしてみた。カンカラ三線にたどり着いた経緯について、
「沖縄の小学校で、児童が手作りで、このカンカラ三線を作っているのを見たのです。これだと思いました」
 弦はパラシュートの糸を使った。岡さんは沖縄の素朴な楽器を、プロの音楽界に持ち込んだ。それが人気となった。

 この独創性の楽器と美声が買われて、
「現在では浅草木馬亭をはじめとする、都内の演芸場、イベント出演など、年間350を越えています」
 と岡さんは語る。つまり、毎日、どこかで大正演歌で、観客を魅了している。

「大正時代の古き、良き曲を今に伝えたい」
 岡さんは活動への熱意を語った。

 
【関連情報】

HP:岡大介のお酒のめのめブログ
 

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大雨の「足立区花火大会」で活躍=プロ・アナウンサーの堀江慶子

 堀江アナウンサーは「足 立の花火」で区長、議長にインタビューをおこないました。その後、花火について解説者にインタビューという役目でした。

 大雨で、女子アナウンサーの浴衣はびしょぬれです。「花火があがりはじめると、雨もやみ、全プログラムの花火を楽しむことが出来ました」と話す。

 リハーサルの時撮った記念写真。出演のWコロンのお二人と、荒生キャスター(女性)、花火観賞士の木村さん。
 前列右端が堀江慶子アナウンサーです。

「昼には足立区の荒川土手に着きました。警備の皆さんが整列して準備したり、本部席では大雨に備えて忙しそうにされたりしていました」。

 そんな中、私たちクルーは生中継だから、本部前からリポートする時間など打ち合わせをしました。

「主催の皆さんに、放送内容を事前にきちんと伝える。とても大切なんです。主催は花火大会を楽しんでいただくことが一番。それをじゃましてはいけない。そのためにも、中継がこの時間から何分間あるので、とお願いし、区長、議長のスケジュールもあわせていただくのです」

 事前打ち合わせがきちんとできていれば、安心してリポートできます。それがいかに大切かを感じる瞬間ですとも語ってくれた。

(スプレー事件はどこだったんだろうか?)
 花火のリポート以外も気になり、堀江さんはその確認に行ってみたという。

 カウントダウンの準備。リポートしている本番の映像です。

「足立の花火」生中継はリハーサルが始まる午後3時過ぎから雨になり、番組が始まった午後7時には大雨となった。


     
 区長、議長へのインタビュー本番です。


 私は本部でインタビューし、ぬかるみのなか、中継会場まで移動し、最初は花火を見るどころではありませんでした。番組のなかでも、「私は気合で雨はきっとあがりますよ、なんて言いきってしまいました」と念ずる心の一端を語ってくれた。

 花火が打ちあがる7時半になると、小雨になり、大会途中から雨はすっかりあがり、今年の花火はひときは綺麗に輝いていたと話す。

 花火の後半の部で、私は花火鑑賞士木村さんにいろいろ質問と同時に解説していただきました。花火のことをもっと勉強して、視聴者の皆さんには、どういう花火なのか、少しでも分かりやすくインタビューできたらなあと思いました。

 プロアナウンサーは大雨でも浴衣姿で飛びまわる。ご苦労さまでした。

戦争か平和か。戊辰戦争で学ぶ。「二十歳の炎」は国会議員の必読書に

 江戸時代260年間は国内外で一度も戦争がない平和国家だった。明治時代になると、10年に一度は海外で戦争する軍事国家になり、日本人の庶民の多くの血をとてつもなく流させた、広島・長崎の原爆まで。
 戊辰戦争とはなにか。戦争と平和とは何か。「二十歳の炎」はそれを問う歴史小説である。

『歴史の真実はとかく隠される。それを掘り起こすのが作家の仕事だ』私は、同書のサイン本には、それを明記することに決めた。

 戊辰戦争は会津戦争ばかりが強調されて、仙台藩と相馬藩が官軍(広島藩など)とし烈なる戦いを行った。その歴史は明治政府から消された。
 広島の浅野家が明後40年代に編纂した膨大な『藝藩志』があった。明治政府は、それが世に出ると、「薩長倒幕」の化けの皮がはがれると、発禁処分にした。

 禁門の変で朝敵になった長州は、京の都に入れなかった。大政奉還も蚊帳の外、小御所会議で新政府ができるまで西宮(大洲藩の陣)と、広島・尾道に待機し、長州は倒幕にまったく関わっていなかった。それが『藝藩志』で如実に書き記されている。
「なんでも薩長」は後世の作家の作りものだ。

 政治家は主義主張は違っても、それは当然だが、真実の歴史認識は持っていただきたい。平和を願わない議員はいないけれど、ミスリードが怖い。
 戊辰戦争は平和か、戦争かの境目だった。わずかな判断の違いから、国家が大きく軍事国家に変わってしまった。歴史から学ぶ。それが国や国民のためになる。

 祝「山の日」推進委員のメンバーの私は、超党派「山の日」制定議員連盟の方と面識がある。アポを取り、厚かましく訪ねることに決めた。

 6月26日(務台俊介代議士・長野第2区)、27日(衛藤征士郎代議士・第64第衆議院副議長)に、千代田区の衆議院第一議員会館を訪ねた。

 それぞれの議員には、「二十歳の炎」の作品趣旨を説明させてもらった。そのうえで、幕末志士たちが頼山陽(広島藩)の「日本外史」を必読書にしたように、国政に関わる皆さんには、「二十歳の炎」をぜひ読んでほしい、とお願いした。(これって陳情かな?)

「私たちの勉強会にきて話してもらおうかな。その前に私が読んでみるよ」(務台俊介代議士)
「広島選出の自民党代議士に読んでもらおう」(衛藤征士郎代議士)

 こうした手ごたえを受けた。

【写真の説明】
 
 務台代議士(写真・左)監修「いま『山の日』制定」と、穂高健一(写真・右)著「二十歳の炎」をエール交換する。

 撮影は政策担当秘書の佐藤帯刀さん、衆議院第一会館、6月24日     

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(下)

 人気アナウンサーの堀江慶子さんの活動を知りたくなった。同行取材となると、こちらも日程を合わせるのが大変だし、おおかた早朝から真夜中と、不規則な時間帯になるだろう。
 それは不可能だ。そこで、慶子さんから、取材中の写真の提供をもとめた。
「テレビカメラに向かっているので、終わった時に皆さんとの記念写真が多いのです」

 『けいこの街なび』はことし(2014年)4月から始まった。まずは、足立区ギャラクシティでクライミングにチャレンジだった。
「この岩場を登る、この体勢から、リポートしました」

 慶子さんは若いね。

「だって、若いもの」
 そんな答えが返ってきそうです。

 「けいこの街なび」は第2、第4木曜日に生中継です。

「ギャラクシティで中継後、ご案内頂いた坂下さん(女性)と、ディレクター、カメラマンの皆さんと記念撮影です。こちらは子どもたちが、落書きができるコーナーですよ」

 慶子さん、あなたがいたずら書きしたのでは?

「ばれたかしら。本番まえに、わたしがスタジオのキャスターのふたりを描きました」

 いたずら書きって、便利なことばですね。上手、下手は問わずですから。


「こちらは、『足立区綾瀬普賢寺バレーボール』の皆さんです。慶子の時間で取材にうかがいました」

 慶子さんのアタックしたところ、運動神経を知りたかったな。

「それはケーブルテレビで見てくださいね」

 再放送はあるのかな? ところで、ママさんバレーに男性がいるの?

「前列の男性は『NOXAH』というバンドの皆さんです。ゲストでいらして歌って下さいました」

 応援歌つきとはすごい。


「みなさんは『AGB467合唱団』の方々です。練習風景の撮影でした」

 国立音大卒のプロアナウンサーだから、最も得意とする分野ですね。

「そうです。もっと質問してください」

 どこにお住まいの方々ですか

「あら、私の音楽力のインタビューの質問じゃないの。♪♪♪足立区綾瀬4丁目、6丁目、7丁目の歌の好きなおじさま、おばさまたちです」

 次に行きましょう。

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国会議事堂で、初の映画試写会 = うみやまあいだ

 今年(2014)5月23日の参議院で、改正祝日法が賛成多数で可決し、成立した。祝日「山の日」が2016年8月11日から施行される。
 祝日「山の日」の制定は、登山活動を推進するためだけではない。山や森は海への栄養分の補給基地である。私たちの生活と深く関わりあう。祝日「山の日」は、私たちが山や森や川といかに向い合っていくべきか、その認識をより高めていく機会になるだろう。

 衆議院の衛藤征士郎議員(写真・中央)は、祝日「山の日」の意義について、そう語っている。

 同議員は超党派の議員連盟「山の日制定議員連盟」を推し進めてきた、中心的な存在だ。
「国会内からも、山や森の認識を高めていきたい」
 その趣旨で6月11日、国会議事堂のなかで、初の映画試写会を行った。

 宮崎正明監督『うみやまあいだ』~伊勢神宮の森から響くメッセージである。
 
 上映時間は79分である。
 宮澤正明監督はあいさつのなかで、「約10年間にわたり、伊勢神宮の写真を撮影してきました。静止画(スチール)の写真を映画(ムービー)にしました。テーマは森の大切さです」
 と語った。

 伊勢神宮を取り巻く5500ヘクタールの、優美で幻想的な森の写真が次々、映画のコマ送りのように展開されていく。伊勢神宮の神官たちの日常行事すらも、非日常的な美の風景のなかに溶け込む。その合間にはさまざまな職種のインタビューが入る。

 牡蠣(かき)を育てる漁師、生物生態学者、木材業者、宮大工、建築家、映画監督など多岐にわたり、それぞれが山、森、川、海を語る。みな含蓄があり、学べるものが多い。
 ナレーターがいないので、誘導されている感じもない。

 同映画の狙い(テーマ)は、山の栄養分が海の魚介類を育ているというものだ。最もわかりやすいのが、1300年の歴史をもつ、伊勢神宮の式年遷宮である。
 20年ごとに内宮(皇大神宮)、外宮(豊受大神宮)の14の全ての社殿を造り替える。それは破壊でなく、森の木を育むために不可欠な行事だという。

 今年つかわれた建築材は数百年前に、先人が植えた樹木である。伊勢と木曽の森で伐採されて運び出されてきた。神殿の建築材がいかに上質で丁寧に数百年もかけて育てられたか、と宮大工や山林業者が語る。学者などが説明を補完する。
 現在も「循環再生」で100年後、200年後の式年遷宮を見据えた植林が行われている。単に神殿の建築材を作っているのではない。山の栄養分が清流とともに海にそそぐ、そして魚介類の幸をうみだす。
 豊かな海を作るための式年遷宮だと教えてくれる。
 
「山と海の連帯を再認識させてくれる、良い映画だね。宗教色が色濃くなく、日本人が森と向かい合う人たちの姿を上手に描いている」
 衛藤さんは、同席した私に、そのように映画の感想を述べてくれた。

 2年後の祝日「山の日」がすべりだした今、同映画は、全国の山林の大切さを考える機会になる。私たちが山を大切にする。それは数百年後の子孫が生きるために不可欠な「海の幸の栄養づくり」なのだと教えてくれた。

【関連情報】

公式サイトhttp://umiyamaaida.jp/

うみやまあいだ

 宮澤正明監督のプロフィール
 1960年東京生まれ。日大芸術学部写真学科卒。
 1985年に赤外線作品「夢十夜」で米国ICP第一回新人賞。
 代表作「RED DRAGON」「伊勢神宮」「蝶LIVING IN JAPAN」

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(中)

 堀江慶子さんは、人前で話すのが大好き人間だ。
「話すのが楽しく、人の話を聞くのも、楽しくて仕方ないんです」
 慶子さんはレポーターとしても、取材相手とたちまち仲良くなる。親しくなる、そんな性格だと話してくれた。

 足立ケーブルテレビとの出会いも面白いんです。父親からふいに、
「おまえにぴったりかもしれないね」
 と局の発足の新聞記事を見せられた。
 当時の慶子さんは、結婚後も、子育てに入っても、テレビ朝日やテレビ東京の番組、さらには千代田区の広報の番組をも担当していた。
「ケーブルテレビって、どんなことするんだろう」
 そのていどにしか思っていなかった。

 1月の成人式で司会をした折り、
「こんど足立区にケーブルテレビが出来るんですよね」
 とかるい話題の一つとして教育長にうかがった。
「堀江さんはとても明るく、元気一杯なので、もしかしたら、あなたに似合う番組があるかもしれないね。興味はありますか?」
 ある日、慶子さんが住むマンションの隣のビルに、ケーブルテレビの看板が出ていたので、びっくりしたという。

「あまりにも偶然なので、神様からやりなさい、と言われた気持ちになりました」
 約2週間後、教育長を介してケーブルテレビの社長室で面談した。同年4月からアナウンサーとして関わることになったのだ。
 ここでフリーのアナウンサーの道に入った。

 かえりみると、テレビ朝日「築地ホット情報」は5年半、テレビ東京「株式ニュース」9年半、千代田区は18年にわたる。この実績はケーブルテレビでも、エネルギッシュに生かされている。こちらもいまや18年が経つ。


 足立区を取材やインタビューで駆け回っていると、沢山の人との新しい出会いがある。とくに驚きの一つがノコギリ音楽だった。

『のこぎりキング下田』(足立区在住)は、世界一のノコギリを使った演奏をおこなう。
「えっ、ノコギリから音が出るんですか」
 慶子さんが下田さんにそう訊いたのが、いまから10年くらい前だった。話すうちに、おなじ梅島小学校の出身だとわかり、感激した。
 その縁から、下田さんのコンサートの司会を行う。

「音楽公演の司会は実に楽しいです。下田さんとは、いまでは家族ぐるみのお付き合いです」
 彼女の交流範囲はさらに広がっていく。


「私の父は警察官でした。退職してから地元綾瀬の警友会に所属し、いろいろな活動をしていました。その縁で、区内警察署の地域安全の集い、警視庁音楽隊の司会などさせていだたいております」
 慶子さんにとって、とくに印象深いのは平成10年7月、101番目の警察署として話題になった竹の塚警察署のイベントだ。その司会役だった、と話す。


 足立区内の魚屋さんを訪ねる。
 かつてテレビ朝日の「築地ホット情報」という番組を担当した時を思い起こしたという。当時は月曜から金曜日まで、太陽が昇る前の、早朝の東京中央区の築地に出向いていた。

 魚屋や魚市場の皆さんから、「大きな声がいいね、元気が出るよ」と褒められたものだ。その時の言葉がいまだに記憶に残る。
「私はアナウンサーに向いているんだ」
 そう自分に言い聞かせて励んでいる。

「慶子さんはちゃきっちゃきの江戸っ子だね。ヌルヌルしたヒラメを素手で触った女子はめずらしい」
 と妙に感心された、そんな記憶もある。

 最近の感動として、
「クリスマスに近い頃です。千住緑町のパン屋さんに取材にうかがいました。店の方が、頭にはトナカイの被り物で、学校帰りの子どもたちを迎えるんです」
 近所の子どもは、パン屋に立ち寄り、「ただいま」と挨拶してから、自宅に帰って行く。『街のお父さん、お母さん』という存在である。

「町全体が家族なんです。それには感激しました」
 アナウンサーとしてレポーターとして、町の人に触れ合うほどに、話すほどに、一般には得難い体験や知識やおどろきがあるのです、と慶子さんはなんども語った。
 
 下町・千住は『奥の細道』で、芭蕉が深川をスタートし、最初に立ち寄った宿場だ。当時の面影はさほど残っていないにせよ、宿場町のおとな・こどもの連帯感は受け継がれてきているのだろう。千住を代表する足立はそういう町場でもある。