福岡詩二 バイオリンの名演奏 = 大爆笑
福岡詩二さんは、東京演芸協会の理事です。
浅草・木馬座で、毎年、晦日には大道芸人たちが「大爆笑」させてくれます。ご招待を受けたので、撮影してきました。
ヴァイオリン芸はすばらしい。笑いのプロ中のプロです。
曲目は『荒城の月』です。
動画で、5分間じっくり笑い転げてください。(左クリックで、数秒後から演じられます)
生で観たい方は東京演芸協会のホームページを開いてください。
福岡詩二さんは、東京演芸協会の理事です。
浅草・木馬座で、毎年、晦日には大道芸人たちが「大爆笑」させてくれます。ご招待を受けたので、撮影してきました。
ヴァイオリン芸はすばらしい。笑いのプロ中のプロです。
曲目は『荒城の月』です。
動画で、5分間じっくり笑い転げてください。(左クリックで、数秒後から演じられます)
生で観たい方は東京演芸協会のホームページを開いてください。
中国新聞(本社・広島市)の2017年新年号・1月3日の「オピニオン」に、同社の岩崎誠論説副主幹による『大政奉還150年と近代日本』と題する記事が掲載された。
テーマは『多様な歴史観から再検討を』という副題になっている。
わたしたちは学校教育で、明治政府は「文明開化」、「明治からの近代化」、「富国強兵」とおそわってきた。どの教科書にも、それが3本柱となっている。国民はそう教え込まれてきたし、むしろ刷り込まれてきた。
明治新政府の「富国強兵」は疑いようのない、正当な施策だと信じてきた。しかも、その強兵策は教育とともに太平洋戦争まで引き継がれ、あげくの果てには原爆投下におよんだ。
悲しいかな、これは事実である。
岩崎さんの同記事は、この維新150年を機会に、明治新政府の勝利者がつくった幕末・明治史観も、単に鵜呑みするだけでなく、みんなで検証してみようよ、と提案するものだ。
そこには新しい発見もあるし、封印された新事実も出てくるだろうし、現代の人々が将来を見渡すときの基礎材料にもなるし、今後の政治のヒントもあるだろう。
岩崎さんが、その趣旨で『二十歳の炎』の作者として、わたしに同行取材を申し込まれた。12月17日にいわき市に入り、20日まで、『芸藩誌』を片手に、ふたりして現地をみてまわった。
それは単に戦い・戦場の確認にとどまらず、
「なぜ、戊辰戦争が起きたのか?」
「当事者の広島県民も、まして、福島県相馬市民までも、なぜ戊辰戦争・浜通りの戦いが知らていないのか。だれが歴史から消したのか」
「こと京都市の呼びかけで、『大政奉還150周年記念プロジェクト』が幕開けする。勝者も・敗者もなく、萩市、鹿児島市、会津若松市、阿部正弘ゆかりの福山市など21か所の時事団体が入っている。広島市はそれを袖にした」
とジャーナリストと作家がまわりに影響されず、本音で事例検証して語り合った。
京都市・佛教大学歯学部の青山忠正は、「薩長芸軍事同盟がむすばれた。これは歴史的事実である。それすら教科書にでてこない。3藩の圧力をもって大政奉還がなされた。(土佐はジャンケンの後出しと同じで、歴史に残った)。
土佐のためにシナリオが狂ってしまった。薩長芸のシナリオ通りならば、また違う政府ができていただろう」
と話されていた。
紙面でも、青山教授は「明治からの近代化は、昭和10年代から、国家権力が跡付けし、流布したものだ」と紹介されている。
実際には、ペリー提督が来航したとき、機関車、電信機、ミシン、あらゆる産業見本品を持ち込み、そこから近代化がはじまった。
小栗上野介は横須賀に、大規模な製鉄所・造船所の一貫工場も手がけた。(製鉄所は昭和50年代まで、ドックは米国海軍・横須賀がいまもって使っている)。
新橋⇔横浜間の蒸気機関車の発注は江戸幕府だった。(途中で、明治になり、外債の都合で米国から英国に鞍(くら)替えした)。
どうみても、近代化は德川政権からだ。教科書では「近代化は明治から」と嘘をおしえている。
「明治時代の最初の発明は人力車なんですよね」という話題は、さすがに岩崎さんは記事にされていなかったけれど。
同記事は、穂高健一著「二十歳の炎」と、神機隊の藩士たちが中心となって編纂した「芸藩誌」との整合性についても、随所で紹介してくれている。
私の意見の結論として、
むろん歴史に「もし」は禁物だろう。穂高さんは「(広島藩の執政・家老級で、第一次、第二次長州征討において広島藩の非戦を貫いた)辻将曹(つじ しょうそう)のような、非戦論者が明治日本のイニシアチブを取っていたら、戦争を繰り返す軍事国家になっていたかどうか」と問いかける。
富国強兵でなく『富国富民』の選択肢もあったはずであり、あるいは原爆投下も避けられたのではないか、と。大胆だが重い視点ではなかろうか。
このように、岩崎誠論説副主幹が紹介してくれている。富国強兵でなく『富国富民』が、現代社会に広がり、流行語大賞にでもなれば、岩崎さんの正月号のオピニオンが、漸次、世の中の流れを変えていくだろう。
【関連情報】
出版社 : 日新報道
03-3431-9561
定価 : 1600円+税
販売先 : 全国書店(品切れの場合は、書店に取り寄せを依頼してください)、ネット販売
※ 左の「二十歳の炎」の写真の上で、クリックすれば、アマゾンに飛べます。
『歴史から学ぶ』
それは現在の事象に対して、将来への予知、予測ができる洞察力を磨くことにもつながる。
北朝鮮が今年度(2016)において2度も核実験を実施した。片や、ミサイル開発も進んでいる。この先、どうなるのか。評論家はメディアに出て、あれこれ言うが、推論ばかりで不透明だ。
3年後、5年後、10年後の歴史学者や歴史作家、歴史マニアたちは、きっと
「北朝鮮は、2016年に2度も核実践を実施したのだから、当時の為政者は当然、こうなると予測できたはずだ」
と見解を示すだろう。
過去ならば、誰でもなんでも言える。
ペリーが来航する1年前に、長崎のオランダ商館長から、アメリカ艦隊が来航すると、かなり具体的に予告されていた。ところが、老中首座の阿部正弘は、なんら手を打たなかったといい、ブログなどで、偉そうぶって批判する歴史通が多い。
こうした人は教科書や作家のことばを真にうけて、それを既成事実とする。およそ独自の検証などないまま、歴史的批判をおこなう。当人は歴史好きでも、洞察力など養えない。
阿部正弘は評定所に計り、幕閣ともども協議している。当時のオランダ情報はとかくガサ・ネタが多かった。鎖国の日本では、他国から裏付け情報が取れない。
「ペリー来航は本当か、うそか」
もしもガサネタなのに、真にうけて厳重警戒すれば、現在のお金に換算しても、数十億円の出費がかかってくる。幕府には財力に余力がない。そこで、
東京湾の入り口の浦賀周辺や、房総半島に、彦根藩と川越藩を張り付けるていどにとどめた。
それをもって、阿部正弘には危機意識がなかった、という。歴史は後からならば、なんとでもいえる。
自称・歴史通は、太平洋戦争の直前、アメリカは日本軍の無線を傍受して解析していたという。だから、パールハーバーの攻撃は、すべて筒抜けだった。それは事実だろうか。
膨大な数の情報のなかに、事実が混ざっていても、的確に一つを事実認定できるのは至難の業だ。ましてや、司令長官がそれを迷いもなく作戦計画に落とし込むのは……。
かりに、仮想敵国・日本の攻撃情報が特定できていたとすれば、自国民の兵士や家族に待避警告を発するだろう。隠しきれるものではない。
『一人が秘密を喋れば、7人に知れ渡る』
真珠湾攻撃は筒抜けだった、と信じる方には、
「2016年に、北朝鮮が2度も核実験した」
北朝鮮は〇年〇月〇日に、いずれの国にミサイル攻撃をしてくる、という予言者がでたら信じますか、ということばを返したい。
世界中のどの国でもスパイ活動をやっている。アメリカからの情報、韓国、中国、北朝鮮の側近筋の情報、むろん日本の内閣府からも、核実験にたいする情報が入り乱れているはずだ。
数十万、数百万の情報から、
『事実は一つ』
その一つだけを取捨選択し、的確に言い当てられる人がいるだろうか。
評論家の多くは、アメリカ、中国、ロシアなど軍事パワーバランスで今後の展開予測を語る。しかしながら、朝鮮の軍事歴史から、考察、洞察して語るひとが少ない。
「歴史から学ぶ」
この王道の格言から、北朝鮮の今後を語っていくべきである。
【つづく】
150年前、朝鮮は興宣大院君((こうせんだいいんくん)の時代だった。日本と同様に、かたくなな鎖国政策をとっていた。1866年には、開国を強要するフランス軍が上陸し、侵攻してきた。朝鮮はそれに打ち勝った。フランスは大勢の犠牲者を出した。(日本が、長州征討の年)
それから5年後の1871年には、アメリカが開国を要求し、力で侵攻してきた。朝鮮はそれも排撃した。当時の朝鮮は、ロシアに門戸を閉ざし、明治新政府となった日本からの、修好条約の要求を退けている。外国からの強要や威圧には、精神的にも強かった。
かれらは朝鮮民族は優秀だ、世界最強の軍隊だという自負心をもった。そして、かれらは朝鮮全土に斥和碑を建てた。『侵略してくる洋夷と戦わなければ、結果はそれらと和することになる。和を主張するのは売国なり』と記す。
その左側には、『わが子々孫々を戒めて、丙寅年(1866)年に創り、辛未年(1871)に建立するとする』と刻まれている。
日清戦争後、朝鮮は日本の植民地にされてしまった。しかし、『和を主張するのは売国なり』と言い、太平洋戦争のさなか、金日成が独立への旗揚げした。かれらは旧日本軍とたたかった。
『写真 : 李朝時代の末期に活躍した興宣大院君』
日本が敗戦で戦争が終結した。その後、朝鮮が南北に分断し、北朝鮮という国家が誕生した。朝鮮戦争においても、北朝鮮は最強のアメリカ軍を釜山まで追いつめていった。反撃に遭い、38度線で、和平に応じたのだ。
朝鮮は内戦に強い歴史がある。TVなどで北朝鮮の国民が声高に、米帝国主義に打ち勝つ、というのも、そんな歴史的な背景があるからだ。
日本の評論家や政治学者は、米国、中国、ロシアを中心としたパワーバランスで、北朝鮮の核武装を論じている。150年の近代史、現代史から、北朝鮮の軍隊的特徴があまり加味されていないのだ。
いずこの軍隊も、突然変異的な軍事行動はまずしないものだ。民族的な特性や、過去の歴史的な特徴、そして現在の環境から軍事行動がきまってくる。
朝鮮の特徴とはなにか。豊臣秀吉、旧日本軍とちがい、内戦は強いが、外国侵略をしないことだ。ここらは最も重要視するべき点だろう。
イデオロギー面で、社会主義国家としてソ連は失敗した。中国もどちらかと言えば、もはや資本主義理論でまわっている。
北朝鮮もこの先、経済的な資本主義に巻き込まれていくだろう。全体主義から個人主義へと静かな移行がはじまるはずだ。
片や、狭い国土で、くり返される核実験は、国民に放射能被害をおよぼす。為政者が強行する核実験においても、ブレーキがかかってくるのは自明の理だ。
「攻撃は最大の防御だ」という日本人的な発想で、わが国が他国と共同歩調で北朝鮮に侵攻すれば、激しい戦争になるだろう。核兵器だって使ってくるだろう。
朝鮮の150年の歴史をしっかり分析すれば、ミサイルを持ち、核を持った北朝鮮を「世界最強の軍隊の一つだ」とおだてておけば、満足する民族だ。
アメリカが社会主義のキューバの核武装化に脅えた時代がある。ベトナム戦争で、北ベトナムの南下にも脅えた。それから半世紀たてば、和合しあえるのだ。
中国と台湾がいまや手を取り合う時代だ。
日本にはABCラインという経済封鎖で、太平洋戦争への突入になった苦い歴史がある。いま、北朝鮮の「核の使用」という過剰な恐怖におびえ、経済封鎖が声高になっているが、私たち負の歴史の経験からしても、それは逆効果になる。
国連において制裁の決議でなく、経済面で、北朝鮮を世界市場へと導く、交易の門戸を大きく開くべきだ。ならば、世界中を駆け巡る北朝鮮のビジネスマンが大勢生まれる。社会主義からごく自然に資本主義に移行してくるだろう。
個人にしろ、国家にしろ、制裁には報復がつきものだ。朝鮮はみずから軍事力で出てこない民族だけに、北朝鮮の軍事活動を国外へ呼びださないことだ。(旧日本軍のパールハーバーのように)。
核の脅威を拭い去る最大の道は、北朝鮮の国民一人ひとりが、はやくに個人主義へと移行できる、加速させるように導くことだ。それが北朝鮮の核の拡大を根本から止めさせる道になる。歴史から導かれる最良の策だ。
【了】
リニュアルした東京都写真美術館で、9月3日(土)から『世界報道写真展2016』が開催される。主催は世界報道写真財団(本部・オランダ)、朝日新聞社である。10月23日(日)まで。
世界のプロ・ジャーナリストから約6000人、8万3000点を超える応募があり、その中から、大賞など選ばれた150点の入賞作品が紹介・展示されている。
昨年(2015年度)は、難民がテーマになった。どうして、祖国から出たくなるのか。戦争が、どう子どもたちに悲惨な状況を醸し出しているか。
報道記者たちは密着取材で、それを世に伝えている。
今年の「スポットニュースの部」の大賞は、オーストラリアのウォーレン・リチードソンさんで、シリア難民の男性と子どもが、国境の有刺鉄線を越える瞬間を写し撮っている。
警備隊に見つからないように、フラッシュなし、月明かりのもとで撮影されている。生死を分ける、強い緊張感が読み取れる。
他にも、オランウータンの愛らしい子どもたちが展示されている。主催者の解説によれば、約10頭それぞれ母親がいない孤児です、と教えられる。とたんに、哀れになってくる。
日本人カメラマンも、入賞している。チェルノブイリ原子力発電所事故の犠牲者を追う、組み写真である。
主催者の世界報道写真財団によれば、世界中の100か所以上で、展示会をするという。
こんかいは、大怪我の民兵クルド人がベッドに横たわり、医者の手当てを受けている写真が入賞している。ドクターの背後には、トルコが反社会運動主義者だと認定している人物のポスターが貼られている。
トルコ関係者から、世界報道写真財団に、同国内の展示会では、その写真を外してほしい、と要請があった。
「私たちは、いかなる写真も外さない」
と拒絶した。
それで、トルコ国内の展示会はなくなったという。
ジャーナリストたちは命をかけている。写真を通して、戦争の厳しさ、つらさを世に報じている。同財団は、政治圧力に決して屈しない、と強く打ち出したもの。その判断は高く評価し、賞賛したい。
【関連情報】
東京都写真美術館t
観覧料は一般800円、学生600円、中高校生および65歳以上は400円である。
東京都美術館が、約2年間の改装で、2016年9月3日から、リニュアルオープンする。同館は発足から21年目である。
『TOP MUSEUM』と名付けられた。9月1日、記者に公開された。荒木誠副館長がパワーポイントで、新たな施設を説明した。コンセプトは「また、訪ねたい、誰かに紹介したい」であり、美術館専用LED照明、可動式の展示壁です、と数々の特徴を説明した。
「TOPとはちょって恥ずかしいのですが」と同館事業企画課長の笠原美智子さんが、壇上で照れていた。「TOKYO PHOTO~、そういう意味か」と納得できた。そして、今後の展示スケジュールを発表した。
内覧会の『杉本博司 ロスト・ヒューマン』では、まず杉本さんの説明から入った。杉本さんはニューヨークを拠点に活動されているアーティストである。
サブタイトルが『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』で、33作品を展示しているという。文学的にも、解ったような、判らないような、すんなり頭に入ってきにくい。
「真新しくなった美術館なのに、作品が古くて、ぶち壊しのようですが……」という前書きが、杉本さんの口から何度もでてきた。
それすら、意味合いが分からず、記者からも突っ込んだ質問は出なかった。
展示壁が、古く錆びたトタン張りだ。
「リニュアルの第1回の展示が、古くて、ぶち壊しのようですが~」という意味も理解できたし、これを企画した東京都写真美術館の大胆さにも、おどろいた。
「同館の企画段階では、きっとリスクの問題も出ただろうな」
その意外性からしても、先頭打者、初球を一発、場外ホームランを放ったようだ。
『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれないけど、私は男に愛されるためだけに生まれてきました。中略、~老人が、私を最後に愛してくれた人でした。でも、ごめんなさい。私は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです』
1枚のわら半紙に手書きされた内容は、33作品とも読ませる。そうか、こうして人類が消えた、と杉本さんは展開しているのだ、と観る側を納得させる。
『文明が終わる33のシナリオを自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的な資料などから構成しました』と杉本さんは語る。
『(この展示会をみれば)、私たちが作り上げてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう」と語る。
『地球の歴史からみれば、人間なんて、氷河期の後のわずかな時間に存在していた生き物ですよ』
という言葉が強く印象に残ったし、展示会を見れば、十二分に説得力があった。
文学にでも求められる、人間とは何か、文明とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、永遠のテーマが33さんのシナリオを通して、ものの見事に表現されている。
底流には、過剰人口と、人間の起こす戦争という内在されたふたつのテーマがよみとれた。
これら33点は、私が過去に観た数々の展示会場で最も感動したものだった。老若男女を問わず、いちどは観ておかれるとよい。
2階では、「廃墟劇場」 が展示されている。京都の「三十三間堂」の千手観音を幻想的な空間として表現している。
「平安時代の乱世の末法を現代に再現してみました。三十三、という数字、日本人は奇数が好きです。それはワビ、寂に通じています」
杉本さんじしんは、その奇数にこだわると協調していた。
私も、小説の作品タイトルには、かならず1、3、5、7文字の奇数をつかう。そこらは共通点を感じさせられた。
天草にきたな、という実感がわきます。
河浦の地には、コレジョ(大神学校)が開講されました。(1591-1597年)
案内者の坂本龍爾さんが、崎津教会に案内してくれました。
天草の民家の造りを見れば、豊かなところだとわかります
開放感に満ちた光景が、旅の心をのどかにさせてくれます。
陶芸工場に立ち寄ると、江戸時代の大変珍しい、陶器を利用した藩札をみせてくれました。
世界平和大使の人形の館です。
57か国・117体のお国柄の人形は、見応えがあります。民族衣装にはウットリさせられます。
水産高校の練習船が停泊していました。船長にモデルになってもらいました。
富岡港に停泊する水産高校の練習船です
グーデンベルグ印刷機です。
日本初の金属活字による印刷が行われました。
「天草市立天草キリシタン館」を訪ねました。
天草四郎の陣中旗などが展示されています。なぜ、天草・島原の乱がおきたのか。それが理解できます。
夏休みの子どもの学習には最適です。
天草沖合に出れば、イルカの群れがみえるそうです。
世界で初めての、ナショナルホリデー「山の日」の成立過程から、意義、そして日本人が山を愛でる心まで、インターネット 超人大陸で、衆議院議員 務台俊介さんがとても、わかりやすく説明されています。
タイトルは『2016年8月11日「山の日」 国民の祝日がスタート それは地方を 元気にしていくこと」衆議院議員 務台俊介氏』
山の恩恵の歴史的・文化的な意義が、『燃える山脈』によっても描かれていますと、務台さんは作品の骨子とテーマにも、簡素にして明瞭にうまく紹介されています。
拙著『燃える山脈』の本に関心がある人、祝「山の日」の意義を知りたい人、外国人が山を敬虔な存在としてみる日本人をどう見ているか、ことしの8月11日に開催される「第一回全国大会・上高地」がどんな祝典が計画されているか。皇室の方々は参加されるのかしら……、
それらも知りたい人は一度は見てほしい、You Tubuです。
【関連情報】
① インターネット 超人大陸ここを左クリックしてください。
②山岳歴史小説「燃える山脈」は、各書店、ネット販売でも、品切れ続出です。山と溪谷社は増版の印刷に入っています。6/16頃までお待ちください。
見知らぬ土地に旅する。おもわぬ発見があるものだ。
浜名湖・天竜川のあたりを走る天浜線・一両編成に乗っていた。旧国鉄の二俣線のままの駅舎でとても古風で、文化財だった。旅の情感は存分に味わえる。
「ブリキに興味がありますか」
中年男性から話しかけられた。地元のカメラ愛好家らしい。
「めずらしいものがあれば、どこでも」
教えられた駅名は、いちどで憶えられない発音だった。遠江一宮駅(とおとうみいちのみやえき)だという。
駅校内の蕎麦は名物だとも情報を入れてくれた。昼食時間に近かったが、蕎麦屋は店休だった。限りなく無人の乗降客だから、商売にはならないのだろうか。あるいは火曜日休みなのか。いすれにしても、昼食にはありつけそうもない。
「遠州の小京都」という巨きな看板があった。駅前にあると聞いたブリキらしい造形品は、見当たらない。あっちこっち歩いてみるがどこにもない。駅まで帰ってきた。
鉄工所があったので、溶接をする職人の方に聞いてみた。
「ブリキなんてないな」
「そうですか」
ここまできて、空振りか。天竜川の最寄駅で降りればよかったな。なおもぶらぶら探していた。昼休みになり、職人が工場から出てきた。
「鉄じゃないの」
職人が声をかけてくれた。
「たぶん」
「だったら、この鉄工所の奥さんが鉄細工をしているよ」
鉄とブリキはたしかにちがう。
いきなり大蛇を見せてくれた。気色が悪いな。くにゃくにゃ曲がるし……。
「テレビを観て来たの?」
大蛇を抱える奥さんが訊いてきた。
「いいえ。放映していたんですか」
「きのう、ボクサー出身のタレント・内藤さんがTVクルーと一緒にふいに来たのよ。事前に連絡がなくて、突然はめずらしいわよ。ほとんど突然のふりして、事前に打ち合わせには来るからね」
ボクサーの内藤元選手なら、おなじ葛飾・立石の宮田ジム出身。きのうと今日の違い。そんな話題など別段関係ないので、話題にせず、彼女の作品を見せてもらった。
現物は手元から離れているので、写真集だった。
ぜいたくな庭園におしゃれな鉄製のテーブル、椅子などはとても高級感に満ちていた。作品全体からすると、葉っぱの形が好きなようだ。そのうちに、名前が、鈴木格子さんとわかってきた。
さらには個展を開くなど、職人ではなく、本格的な鉄アート芸術家だと判明した。
公園の動物ベンチも下地が鉄製だったり、神社に牛二頭が奉納されたり、ユニークなものが多い。著名な紙細工作家とコラボで行燈・スタンドなどもつくる。池坊大学(京都)から花瓶の筒が鉄製だった。その一つの実物があったので、持ち上げさせてもらうと、見た目よりも、はるかに重いが安定している。
「鉄を曲げるのは火力ですか」
「手作りのベンダーですよ」
生まれつき手が器用なのだと、感心させられた。 、
「鉄は錆びますが、処理方法はどうしていますか」
「さび止め塗装は、5回くらいしています。色違いにして、何回塗ったか、わかりやすくしています」
棚に置いた鉄製の小物は形よく上品だった。これらを見ながら、なおも質問した。
「製品の完成した達成感と、企画から制作のプロセスとどちらが好きですか」
「プロセスですね」
「ぼくも、作品ができるまで、何度も推敲するけれど、いったん手放すと、自作は見たくないし、送られてきても、読まないですよ」
打ち解けてきたので、この段に及んで作家だと明かした。
「小説家と話しするのは初めてです。訪ねてこられたのも、初めて」
メディアの対応慣てしているはずの鈴木さんだが、ずいぶん驚かれてしまった。話しの流れから、私が出身地が広島だというと、
「あら、私が生まれたのは、尾道の奥の御調郡ですよ。父はダム関係で、全国の転勤族でした」
「エリート官僚ですね」
そんな話から、こちらの話題になってしまった。
彼女は鉄ばかりか、竹細工も、木工もやられる。さまざまの物にたいする好奇心が強い人だった。
「想像力と好奇心は一体だな」
そんな共通の想いだった。
日本ペンクラブで親しい轡田隆史(くつわだたかし)さんから、書道展の案内状をもらった。2015年11月5日から3日間にわたり、千代田区・ポーラ銀座で開催される「墨ト會書展」だった。
『文字も、わたしたちニンゲンも、自然のいちぶです。漢字やひらがなたちといっしょに、わたしどもは天と地のあいだで楽しく遊んでいます』 と明記されていた。さらに、
『高野早苗さんをかこむ、ささやかな会です』
とつづいていた。
この日から、私は東京を離れるので、同日11時の開催時間に出むいた。記帳は一番だった。「えっ、字が下手なのに。書道展でトップに書くの」と躊躇(ちゅうちょ)したけれど、しかたないや、と乱筆そのもので記入した。
轡田さんの作品をみて、おどろいた。江戸時代に、江戸の大火の犯人で、火あぶりの刑になった「八百屋お七」の戒名だった。『花月妙艶信女 』
戒名を堂々と筆に書き、さらには堀口大学の「八百屋お七」の詩をつけている。すごい着想のジャーナリスト・文筆家だな、と感心するばかりだった。
八百屋お七が火をつけた
お小姓吉三にあいたさに
われとわが家に火をつけた
それは大事な気持ちです
わすれてならない気持ちです
さらには書と並んで、誕生寺の写真が3枚あった。轡田さんが撮影してきたものだという。
「15歳ではりつけ、火あぶりの刑のお七は大罪人であり、江戸で墓を建てられなかった。墓も位牌もないのは不憫だと言い、両親が何らかの縁で、岡山県津山に近い誕生寺に、戒名と位牌をたのんだ」
法然の生誕地である。こうした点も教えてくれた。
「当時の住職が、死刑の少女の戒名を与え、位牌を置かせたのです」と轡田さんが説明する。
後の世に、振袖お七が人気となり、展示された振袖が切り取られて持ち去られたことから、今ではぼろぼろになっている、と説明を受けた。
轡田さんは、早稲田大学のサッカー選手として活躍し、朝日新聞社社会部次長、編集委員、8年間に渡り夕刊1面コラム「素粒子」を執筆した。読売新聞のナベツネが「朝日の素粒子だけは読まない」と言わしめたジャーナリストだ。
その後、テレビ朝日系の『ニュースステーション』で、久米宏とのコメンテーターを務めた。夜桜などの中継で、記憶にある人も多い。